音楽の喜び フルートとともに

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現代フルートの旗手クラーク

2022-09-26 00:13:00 | 名曲
ビジネスホテルのバイキング…のはずでしたが、コロナ対策でケースに小鉢が入ったセットが出できました。

冷製スープとパンもついていました。
パンとスナックパンはお持ち帰りできるそうです。
ドリンクバー付きでした。

2日目伊藤公一フルートセミナー
9時30分 富久田先生のウォーミングアップ講座
左足を譜面台にむかって真っ直ぐ、右足は90度に広げます。

深呼吸するように両手を広げ、頭を譜面台に向け、右手で軽く左耳をつかむように、それがフルートを構える筋肉の使い方だそうです。

ロングトーンの前に、4拍数えます。
一拍目は息を吐き、2.3拍目で息を吸い、4拍目は息を止め次の拍で吹き出します。

低音も、高音も同じ音色で吹けるように。

低音は特に内側に吹き込みすぎないで息を管の外に多く出すように吹きましょう。

伊藤公一セミナー最後の日、2日は短いです。
コロナ前は、ゆったりできたのですが、3年ぶりのセミナーは短く熱く過ぎていきます。

台風で新幹線が止まり、東京方面からの参加者が来られなかったこと。残念でした。

受講の後は、伊藤公一フルートリサイタル 水野久美先生のピアノで

トゥルーのカラファの主題による幻想曲
ムーケのソナタ パンの笛
クラークの天空に触れて
タファネルの魔弾の射手による幻想曲
最後はスペシャルフルートデュオということで
伊藤先生、富久田先生とピアノは石橋尚子先生でタファネルのリゴレット幻想曲
幸せ過ぎです。

イアン クラーク(1964年〜)
イギリス ケント州ブロードステアーズ生まれ
化学者の父 と、チェロとピアノの個人レッスンを行っていた母の間に生まれました。

6 歳でリコーダーを学びました。
彼は8歳でピアノのレッスンを開始し、10歳までにフルートに興味を持ち、演奏方法を独学し始めました。
クラリネット教師からの初期の個人レッスンに続いて、16 歳で、ギルドホール音楽演劇学校でサイモン ハントとアヴェリル ウィリアムズの下で個人レッスンを開始しました。

クラークは幼少期にクラシック音楽を聴いていましたが、時間の経過とともにロックミュージックへの関心が高まりました。

ロンドンスクールオブエコノミスクで 1 年間数学を学びましたが、その後 1 年間で大学を中退し、フルートの演奏に専念しました。

ロックバンドも結成。彼はプライベートレッスンを行い、ロックバンドで演奏しながら、ギルドホールでパートタイムの研究を続けました. 彼は学位を取得するためにインペリアル カレッジ オブ ロンドンに転校し、1986 年に数学を優秀な成績で卒業しました

クラークと彼のロック バンドは、1987 年にアルバム『Environmental Images 』をレコーディングしました。バンドは進化し、1992 年までにクラークとサイモン ペインターのコラボレーションであるディーバ ミュージックという名前が付けられました。Diva Music は、映画やテレビの音楽をプロデュースしてきました。

2000 年以来、クラークはギルドホール

音楽演劇学校でフルートの教授を務めています。

彼は王立音楽院、

王立スコティッシュ・アカデミー、

王立ノーザン音楽大学、

王立ウェールズ音楽演劇大学、

トリニティ音楽大学でマスタークラスを

教えており、

数多くのフルートで演奏やワークショップ

を行うよう

定期的に招待されています。

国際的なイベントやマースクール。クレア・サウスワース

とともに、

クラークはウォルディンガム・

インターナショナル

・サマースクールを長年にわたって

率いてきました。

2013 年、彼はスコットランドのサマ

ー スクールで指導と演奏を始めました。







5月の歌

2022-05-28 22:57:07 | 名曲
今日は、西宮ギター練習会のコンサートでした。






鷺のねぐらがホールの横にあり、楽屋からよく見えました。

どきどきの本番。

川原久美子さんとフルートでバッハの「フルートソナタBWV1035」と岡山友樹さんとファリャの「7つのスペイン民謡」
を演奏しました。
楽しかったー。お客様も暖かく見守って下さっていい体験しました。

今帰ってきました。
疲れました。
今夜は1901年作曲 エドワード エルガー(1857-1934年)の5月の歌


いちごを食べちゃった

2022-05-27 21:11:36 | 名曲
里山に野いちごの季節がやってきます。
これはヤブヘビイチゴ。
食べられるのですが、これは甘味がなくいまいち。

でも、いちご1番乗り。

ナワシロイチゴはもう少し。

これは美味しいのになぁ。

エンゲルベルト フンパーディンク(1854-1921年)プロイセン王国ジークブルク生まれ、ドイツ国ノイシュトレーリッツ没

の「ヘンゼルとグレーテル」については以前に当ブログでご紹介しました。

ケルン音楽院に1872年に入学。
1879年奨学金でミュンヘンに行きラハナーとラインベルガーに師事します。
ベルリンでメンデルスゾーン基金から奨学金を得てイタリアへ、ナポリでリヒャルト ワーグナー(1813-1883年)ザクセン王国ライプツィヒ生まれ、イタリア王国ヴェネツィア没


に出会い、信頼を得ます。

ワーグナーに呼ばれてバイロイトに行き「パルシファル」の上演を手伝います。
2年後ワーグナーが亡くなると、また、学資を得てイタリア、フランス、スペインを旅行し、2年間バルセロナ音楽院で教鞭をとりました。
1887年ケルンに戻り、1890年フランクフルトホーホ音楽院の教授になります。
この頃から作品の人気が高まりベルリン マイスターシューレの教授になります。

「ヘンゼルとグレーテル」は1893年12月23日
ベルリンでリヒャルト・シュトラウス指揮によって初演されます。


ドイツのおとぎ話を元に描かれています。
母親の言いつけを守らずに仕事をせずに遊んでしまったヘンゼルとグレーテルは、ミルクのポットも割れてしまい、食料代わりのいちごを取りに森におつかいに出されます。

森の中をさまよいながら、いちごをたくさんとってよかった!

…とならず、カッコウの歌を2人で歌いながらいちごを1つ、2つとパクリ、パクリ。
ついに全部食べてしまいます。

だって歩き回って、お腹が空いていたんだもの!と2人の心の声が聞こえてきそうな一曲です。

その後、後悔した母親は父親と一緒に森に二人を探しに行きますが、森には魔女がいて大変なことになります。

カッコウの歌です。



夏の小交響詩

2022-05-26 20:54:00 | 名曲
うちの梅花空木。

大好きです。



鉢植えですが、毎年咲いてくれます。

シャルル グノー(1818-1893年)フランス王国パリ生まれ、フランス共和国サン=クルー没

父は設計士、母はピアニストで母から学び、パリ音楽院に入学します。
1839年カンタータ「フェルディナン」でローマ賞を受賞します。

2年間のイタリア留学の後、ウイーン、ベルリン、ライプツィヒを経てパリに帰ります。
1843年サン トゥスタッシュ教会のオルガニストになります。
1852年アンナ ジマーマンと結婚。


1859年になって歌劇「ファウスト」

ファウスト、メフィストフェレスの宮殿
を書き、ようやく成功します。

1867年「ロミオとジュリエット」を作曲。
1870-75普仏戦争を避けてイングランドに渡ります。
王立合唱教会に首席指揮者に就任し、声楽曲を多く作曲するようになります。
1871年に戦争が終わり家族はパリに戻りましたが、グノーはその後もイングランドにとどまります。

歌手のジョージナ ウェルドンの家にいました。


1875年彼女を離れ、パリに戻ります。
その頃には、尊敬されてはいましたが、時代遅れになっていました。

彼は1893年10月18日、ピアノで最後のレクイエム(ハ長調)を演奏しているときにセントクラウドで亡くなりました。

1885年に「9つの楽器のための小交響曲」を作曲します。

この曲はフルート、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2という編成で室内楽で20世紀における「シンフォニエッタ」(交響曲の性格を持ちながら規模の小さな作品)の先駆的作品になっています。

サル プレイエルで管楽器室内楽協会(1879年ポール タファネル設立)により初演されました。

初夏の香りがすると思うのですが、どうでしょう?




夏の牧歌

2022-05-24 15:07:10 | 名曲
里山はアジサイ属がたくさん咲いていました。姫空木も満開。

今日はもう初夏のようです。

アルテュール オネゲル(1892-1955年)
フランス共和国ルアーヴル生まれ、フランス モンマルトル没

スイス人の両親。
コーヒーの輸入商社の支配人をしていた父のもと、ヴァイオリンとピアノを母から学びました。

1905年チューリヒ音楽院を経て
1911年パリ音楽院で学びます。
ダリウス・ミヨーと生涯の友となります。

第一次世界大戦に2年間スイス兵として従軍しました。

1913年にアンドレ ヴォラブールと出会い後に結婚します。
パリ6人組に参加します。

1920年作曲の交響詩「夏の牧歌」は、オネゲルの出世作になりました。
28歳の時にスイス ベルナー オーバーランドに行き、ヴェンゲンで書かれました。

両親の故郷で景勝地でした。

スイスの楽器製作者レオ シルの新しい楽器の為に依頼されました。
が、結局普通の弦楽オーケストラの為に書きました。

アルテュール ランボー(1854-1891年)
フランス帝国シャルルヴィル生まれ、フランス共和国マルセイユ没

の「イリュミナシオン」の散文詩「私は夏の曙を抱いた」という一節にインスピレーションを受けて作られました。

この曲はパリで行われた聴衆による人気投票で第一位に選ばれヴェルレイ賞を受けました。


花の章

2022-05-22 21:12:47 | 名曲
里山の池の側は、

空木が満開でした。
アジサイ科だそうです。

マーラーの交響楽第一番というと「巨人」という副題のついた壮大な音楽ですが、実は第二楽章「花の章」がマーラー自身によって削除されたことを知っていますか?

最近ではこの削除された第二楽章を加えて演奏されることがありますが、一時は失われていました。

1884〜1888年に作曲されました。
もともとは

第1部 青春の日々から、若さ、結実、苦悩のことなど

第1楽章 春、そして終わることなく
第2楽章 花の章
第3楽章 順風に帆を上げて

第2部  人間喜劇
第4楽章 座礁、カロ風の葬送行進曲
第5楽章 地獄から天国へ
という副題がついていました。

その頃、マーラーはヨハンナ リヒターというソプラノ歌手に恋をしていました。


カッスル劇場の第二指揮者になったばかりで1885年に書いた「さすらう若者の歌」は、彼女への恋愛感情を書いたものだと言われています。
この恋は、マーラーの片思いだったようで、失恋しています。

1885年 ライプツィヒ歌劇場の第二指揮者になると
今度はウェーバーの孫のマリオン ウェーバー夫人と恋愛関係になります。
駆け落ちまで、考える仲になりましたが、実現しませんでした。 

そして、ここでも次第に人間関係が悪化し、身体も壊し、1888年手術をします。

ライプツィヒを去り、ブタペスト歌劇場の正指揮者になります。

1896年初演の時に第二楽章を削除しました。

長く失われたと思っていた花の章は第二次大戦後に弟子のペリン家で発見され、1967年に初演されました。






アストゥリアス

2022-05-21 21:38:57 | 名曲
今日は、5.28 夙川公民館ホールの西宮ギター練習会コンサートのリハーサルでした。

私はギターの岡山友樹さんとファリャの7つのスペイン民謡、川原久美子さんとバッハのフルートソナタBWV1035を演奏します。

テンション上がってきました。

「アストゥリアス」は人気で、二人が、演奏されました。

イサーク アルベニス(1860-1909年)スペイン王国カンブロドン生まれ、フランス共和国カンボ レ バン没


1歳で家族とバルセロナに移住。
姉クレメンティーナにピアノを学びます。
5歳でテアトロ ロメアでコンサートを行い、神童と評判になりました。

パリ音楽院を受験しましたが、実力を認めたものの年齢を理由に断られています。
1868年父が役人を失職。

収入を得るため姉クレメンティーナと演奏旅行に出るようになります。

マドリッドに移り、マドリッド音楽院


に入学。
ライプツィヒ音楽院に入学するも、演奏旅行のため2ヶ月で辞めます。
スペイン国王アルフォンス2世の秘書ギレルモ デ モルフィーの取りなしで奨学金を得てブリュッセル音楽院


に留学。
1880年にマドリッドに戻ると演奏旅行を継続、指揮者としてもデビュー。
作曲も始めます。

1883年バルセロナに帰り、ピアノ教師を始めます。
生徒のリサ ホルダナ


と結婚します。
1889年パリ、ロンドンで演奏し成功し、3人の子どもを連れて、家族でロンドンに移住します。

クーツ銀行のフランシス バーデット

がパトロンになります。

1893年病気のためパリに移住。
フランス音楽界と交流を深めます。
フォーレ、ショーソン、デュカス、ボルドと交流します。

体調不良のためバルセロナに戻り、サルスエラを復興しようとしますが、国際的な名声から、外国かぶれと見られ厳しい批判にさらされ、1902年にパリに戻ります。

1905年、腎疾患から温暖な気候を求めてニースを度々訪れ、歌劇の製作を行います。

スペイン文化の詰まった「組曲イベリア」を作曲します。

1908年亡くなります。
「アストゥリアス」伝説曲はもともとは「スペインの歌」作品232の第一曲前奏曲として作曲されました。

後にピアノ曲集スペイン組曲の第一集
全8曲を作曲したときに、1-3.8曲を作曲し、他の曲はアルベニスの既存の曲を足しました。

第5曲「スペインの歌」の前奏曲で「アストゥリアス」と名づけられました。
アストゥリアスはスペイン北部の土地ですが、曲想は南部のアンダルシア地方のものとなっています。

後にアンドレス セゴビアによってギターに編曲されて以來、ギターの大切なレパートリーになっています。



薔薇のアダージョ

2022-05-16 21:29:38 | 名曲
薔薇の模様のチューニングペグ。

交換してから音が良くなったそうです。
昨日はギター川原さんとバッハのフルートソナタBWV1035。
5/28日夙川公民館ホールで演奏する曲の合わせ練習です。

かわいいクッキーとバウムクーヘンを頂きました。

紅茶を飲みながら
他にも7月のクローズドの門戸厄神のS邸のコンサートの曲も決めました。
おしゃべりも盛り上がって

お昼ごはんに一緒にピザを作って食べました。
バジルがまだ育って無いので、小松菜を入れました。
2種作ったけれど…残念。撮る前に食べてしまいました。
バウムクーヘンも撮ってなかった!

ピエール ド ロンサール、薔薇のアーチが満開。
見てもらえてうれしかった。

いっぱい写真撮ってってくれました。

ピョートル イリイチ チャイコフスキー(1840-1893年)ロシア帝国ヴォトキンスク生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

のバレエ音楽「眠れる森の美女」1888年作曲の第一幕は、バラのアダージョはオーロラ姫が生まれて、魔女カラボスの不吉な予言を受けた20年後。

二十歳になったオーロラ姫の誕生祝いの祝宴が開かれています。

主役のオーロラ姫に求婚者が城に招かれ集まっています。

そこで踊られるのが「バラのアダージョ」です。

華やかで気品に満ち幸せなシーンです。正に薔薇。

オーロラ姫が片足でバランスを取りながら、求婚者たちの挨拶を受けるシーンはバレリーナにとって超絶技巧だそうです。

この後、予言が実現され、オーロラ姫は紡錘に刺され、城全体が眠りにおちます。

イギリス、ロイヤルバレエ、吉田都さんの薔薇のアダージョです。








大聖堂

2022-05-15 21:28:36 | 名曲
土曜の午後はギターの岡山さんと「7つのスペイン民謡」を合わせました。

スペインのリズムに乗るのが難しい😅
ギターとスペインはすごいマッチしていますがフルートは…。
もとはファリャの民謡取材で、ピアノと、声楽のために書かれています。
5.28(土)夙川公民館前ホールで演奏します。
まだまだ精進します。

ギターの超難曲というとアウグスティン バリオス(1885-1944年)
パラグアイ サンファンバウティスタ生まれ、エルサルバドル サンサルバドル没

の「大聖堂」

1楽章プレルディオ(プレリュード、前奏曲)
2楽章アンダンテ
3楽章アレグロ

アンダンテとアレグロはウルグアイのモンテビデオの大聖堂


バッハが演奏されているのを聞いて着想しました。

プレルディオは1921年にキューバのハバナの大聖堂で着想しました。



プレルディオ(プレリュード)は前奏曲の意でサウダーデ(郷愁)の副題を持ちます。
アンダンテは大聖堂に集まった信徒たちの祈りの念。

アレグロは祈りを終えて外の通りへ出て行く人々の感動の余韻をとどめた足取りを表現しています。



メアリー2世のための曲

2022-05-14 21:30:06 | 名曲
梅田ドルチェ楽器でフルートのリペアしました。
ソウル支店の小林さんの腕を信頼しています。
今日はタンポを2個替えてもらいました。
調整によって音の出が全く違います。

待っている間に





誘惑がいっぱい!

最高額はパウエルの18金のフルート1200万円!
もちろん手も足も出ません。

ウクライナ紛争の前に値上がった分でこれでも円ドル111円の時の値段だそう。
金の値上がりが大きいそう。
これからどうなって行くのだろう?

ヘンリー パーセル(1659-1695年)イングランド共和国ウェストミンスター生まれ、イングランド王国ウェストミンスター没

出自についてははっきりしないてすが、王室礼拝堂の少年聖歌隊に入っていました。15歳変声期になり、王室の楽器管理係を経て18歳で
チャールズ2世

の王室専属弦楽合奏隊の指揮者、作曲家になります。
20歳でウェストミンスター寺院

のオルガニストにも任命されています。
バロックオペラの最高峰「ディドとエネアス」
他多くの作品を残しました、子どもも6人もうけます。
1695年35歳の若さで亡くなります。

1685年チャールズ2世が亡くなり、後を継いだのが弟のジェームズ2世でした。しかし、カトリックだったジェームズ2世は、ほぼプロテスタントの貴族や議会と対立。

1688-89年の名誉革命でプロテスタントのジェームズ2世の娘メアリー2世(1662-1694年)

が夫ウィリアム3世


とイングランド スコットランド王位
につき共同統治することになります。

政治的手腕もあったと言われていますが、
1694年メアリー2世はケンジントン宮殿で32歳の若さで天然痘のために亡くなります。

パーセルはそのメアリー2世のために誕生式典や葬礼式典の音楽を書いています。

トーマス モーリーの音楽にパーセルが足したそうですが、モーリーの音楽は多くが失われていたために、ほぼパーセルの音楽になっています。

若くして亡くなる不条理と呆然とする人々を歌い、それも神の配剤だということに気づき、神によるところに人間の心の安らぎがあるというところに至るまでを音楽で表現しています。

二度目の演奏は、1895年パーセル自身の葬礼でした。