音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

ベートーヴェンの母

2024-05-18 21:00:00 | 古典
金曜は久しぶりに母のお使い。
仕事を辞めて求職中だった姪が、東京に仕事が決まって、同居解消。
短い休憩でした。

今週、市役所に行って欲しいと言われ京田辺市役所まで書類を取りに行くミッション。

それだけで済むわけは無く、「まず、京都銀行。」と言うのて、京都銀行まで行って駐車場に入ろうとしたら
「違う。この近くの友だちの家やん。」
って聞いてない…急に方向転換したので警備員さんがびっくりしてる。
と言いたくなるのを平静に…平静に…。

「この辺りと思うねんけど〇〇さんの家」
それでたどり着ける?
「住所教えて。」路端に停めてナビ入力。
着きました。
「この辺りやったと思ったんだけど。」
…違います。

無事に友だちにお届け物をして、市役所へ。

昭和なオブジェ

一休さんゆかりのお寺、一休寺がある京田辺市のシンボルはやはり一休さん。

「これで帰ってもいい?」と聞くと「いつものお漬物買いに行きたいねんけど…。」
お祝いごとがあって生徒さんたちが集まるので配りたいらしい。

山城、青谷の市久八木さん。
山城大橋を渡って青谷へ、民家の並ぶ中の漬物屋さん。


ここの生しば漬けが美味しくて、母は長年ここで買っています。



私も好きです。

それから、「お茶も買いたい。」というので平和堂までいって、いつものお茶を購入。

「明日から量り売りのキャンペーンで安くなりますよ。」と、親切な店員さん。
「それがね。どうしても今日要るの。」やはり明日の大集合で使うらしい。
残念。
でも定価で買う所、シールシートが溜まっていて10%引きで買えました。

今日は午後からお筝のお稽古があるので、お昼を一緒に食べて、早めに放免
私も帰って翌日のコンサートの準備です。

土曜日午後〜、堺市都市緑化センター、「みどりのホールコンサート」でギターの川原久美子さんとフルート久米素子で演奏します。

曲はイベールの間奏曲
ピアソラのオブリビオン、リベルタンゴ。

他にもストーリーテリング、リコーダーカルテットやクラリネットとフルートの二重奏などもあります。
ぜひおいでください。

ベートーヴェン
の母は
マリア・マグダレーナ・ケフェリッヒ(1746-1787年)
神聖ローマ帝国エーレンブライトシュテイン(現在はコブレンツの一部)に生まれ、

父はヨハン・ハインリヒ・ケフェリヒ(1701年-1759年)、母はアンナ・クララ(旧姓ヴェストルフ 1707年-1768年)で、2人は1731年に結婚しました。

ヨハンは1733年からトリーア選帝侯

コンスタンティヌス大聖堂前にあるトリーア選帝侯宮殿(1615 ~ 1676 年、拡張 1756 年)(1846 ~ 1856 年に部分的に再建)。
の宮廷料理長を務め、エーレンブライトシュテインのシュロス・フィリップスブルクに居を構えていました。

マリア・マグダレーナは彼らの6人の子どものうち、末子でした。

1763年1月30日、彼女はトリーア大司教に仕えるヨハン・ゲオルク・レイムと結婚しましたが、彼は2年後1765年にこの世を去っています。

マリア・マグダレーナは1767年11月12日にボンの聖レミギウス教会でヨハン・ヴァン・ベートーヴェン

と再婚します。

ヨハンの父はボンにあったケルン選帝侯領


の宮廷でカペルマイスターを務めており、ヨハンもその宮廷音楽家てした。

ヨハンとマリアは7人の子を儲けました。
ルートヴィヒ(1770-1827年)
カスパール アントン(1774-1815年)とニコラウス(1776-1848年)の他は幼くして亡くなっています。

マリアは1787年に結核により40歳で命を落としました。彼女の生誕地は現在ムッター・ベートーヴェン・ハウスという博物館になっています。

暴君だったベートーヴェンの父に対して、マリアは情深く優しい女性だったと言われています。

ベートーヴェン16歳、モーツァルトを訪問するためにウィーンの旅に出掛けますが、ここで母危篤の知らせを受けます。

まもなくマリアは40歳の若さで亡くなります。
その後父はアルコール依存症となり、家計を支えなければならなくなったベートーヴェンは仕事を掛け持ちし、父や兄弟たちの世話に追われることとなります。

ベートーヴェンの手紙より。
「(母危篤の知らせを受け)彼女がもう一度復活し、困難に立ち向かう勇気を私に再び与えてくれることを夢見ましたが、7/17に闘病の末、亡くなりました。

彼女はあたたかく愛情深い母であり、私にとって一番の親友でもありました。
母の名前を呼ぶことが出来ていた時、私以上に幸せな人間は居ませんでした。

今はその名を呼んでも静寂が在るだけ。」

母のいる生活の中で作曲されたピアノ協奏曲第0番変ホ長調wo04
作曲当時ベートーヴェンは13歳で、この曲は彼の初期作品の一つに数えられます。

現存する楽譜のタイトルには「ピアノフォルテもしくはチェンバロのための協奏曲」と記されています。
「12歳で作曲した」と書かれていますが、これは父ヨハンによる偽称の可能性が高いそうです。
1890年に出版されました。





食事の時の曲

2024-05-17 21:03:00 | バロック
眼科に来ています。
目が悪くなって楽譜が読みにくくなってきました。
しかし、混んでいます。
眼科前の椅子はいっぱいて座れないので、外に溢れています。

待っている間することが無いので、ブログの下書き書いています。
Wi-Fiは不安定なので、eメールの作成画面に入力。後で投稿編集画面にコピペします。
途中で急に呼ばれても、保存作業しなくても画面に文字が残っています。

さて、検診が終わって、T-SITEでウィンドウショッピング。
フルートを入れる底45cm幅の軽量バックを探しています。

買いそうになりましたが、縦も長いのでやっぱりやめ。
縦はA4横が入るくらいでいいのです。手作り市でもず〜っと探していました。
もう、作ろうかな?
お昼になったので一人でランチ。

梅の花の季節限定ランチ
豆乳の茶碗蒸し、湯葉の佃煮、卯の花のマリネ、桜えび揚出し豆腐と餅豆腐と菜の花のあんかけ。
季節限定に弱いなあ…。
美味しかった。お豆腐ばかりですが、満足。
地下で次男のお弁当の野菜買って帰りました。

今日いただいたのはお豆腐料理で精進料理とは違いますが、その流れを汲むものです。

「五観の偈」は主に禅宗おいて食事の前に唱えられる偈文で
唐代の南山律宗の僧、道宣が著した『四分律行事鈔』中の観文を代に黄庭堅が僧俗のため訳したものです。

道元の著作『赴粥飯法』における引用によって日本で広く知られるようになりました。

僧侶の食事作法のひとつですが、道徳的普遍性の高い文章であるために限らず多くの分野で引用されています。
五観文、食事五観文、食事訓とも言います。

「五観の偈」
一 計功多少 量彼来処 : 功の多少を計り彼かの来処を量る。

この食事がどうしてできたかを考え、食事が調うまでの多くの人々の働きに感謝をします。

二 忖己德行 全缺應供 : 己が徳行の全欠を忖って供に応ず。

自分の行いが、この食を頂くに価するものであるかどうか反省します。

三 防心離過 貪等為宗 : 心を防ぎ過がを離るることは貪等(とんとう)を宗とす。

心を正しく保ち、あやまった行いを避けるために、貪(仏教における煩悩のひとつで、 貪り、欲深いことを意味します。別名を貪欲ともいい、万の物を必要以上に求める心)など三つの過ちを持たないことを誓います。

四 正事良薬 為療形枯 : 正に良薬を事とする形枯(ぎようこ)を療ぜんが為なり。

食とは良薬なのであり、身体をやしない、正しい健康を得るために頂くのです。

五 為成道故 今受此食 : 成道の為の故えに今この食じきを受く。

今この食事を頂くのは、己の道を成し遂げるためです。

「貪」にまみれる生活を送っている身には耳の痛い言葉です。

ヨハン・ヘルマン・シャイン(1586 - 1630年)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領グリュンハイン生まれ、


は、17世紀ドイツの作曲家。同時代に音楽を築いたハインリヒ・シュッツ

1585年1672年
とザムエル・シャイト

1587-1653年
と合わせて、ドイツ・バロックの3Sと呼ばれています。

父の死をきっかけにドレスデンへ移り、同地でザクセン選帝侯の聖歌隊にボーイソプラノとして参加しました。

シャインは聖歌隊員として歌うのと同時に、その並外れた才能を見抜いた宮廷楽長のRogier Michaelに音楽教育を受けました。

彼は1603年から1607年にかけてプフォルタ校(Pforta)

プフォルタフュルステンハウス寄宿学校
で勉強し、その後1608年から1612年までライプツィヒ大学に通い、ここでは一般教養に加えて法学も勉強しました。

卒業後、シャインはすぐにゴットフリート・フォン・ヴォルファースドルフ邸に音楽教師として雇われました。

その後彼はヴァイマルの宮廷楽長となり、それから間もない1615年にライプツィヒで聖トーマス教会


のトーマスカントルの地位につき、同時にライプツィヒ市音楽監督となりました。

シャインは残りの生涯にわたってこの地位にありました(およそ1世紀後にヨハン・ゼバスティアン・バッハがこの地位に就任しています)。

シャインは生涯にわたり病気に苦しめられ、幸福で長い生涯を送ることが出来ませんでした。

彼の妻は子供の出産時に亡くなり、5人いた彼の子供のうち4人が幼少期に亡くなっています。

シャイン自身も、結核・痛風・壊血病および腎臓の病気を患った末、44歳で死去しています。

シャインは宗教音楽と世俗音楽をほぼ同じくらい作曲し、ほぼ全てが歌曲です。

シャインの世俗歌曲は、その歌詞全てを自らが執筆しています。

生涯を通じて、シャインは宗教音楽と世俗音楽の曲集を交互に出版していました。これは、彼が早期に、礼拝のための音楽と社交的な集まりのための音楽を交互に出そうと決心していたためです。

彼の宗教音楽の一部がイタリアの祈祷用マドリガーレにみられる洗練された技術を用いているのに対して、世俗音楽では酒宴歌にみられる単純さとユーモアが用いられています。

シャインの作品のいくつかは強烈な表現力をもっていて、当時のドイツではそれに匹敵するものはシュッツの作品のみでした。

シャインの最も有名な音楽集は、唯一の器楽集である「音楽の饗宴」(Banchetto musicale, 1617年)です。

この曲集には20の独立した変奏組曲が含まれていて、それらはこの形式としては最初期にして最も完璧な代表作とされています。

おそらくこれらの曲はヴァイセンフェルスやヴァイマルの宮廷における晩餐のための音楽として作曲され、ヴィオールによって演奏されることを意図していたと思われます。

「音楽の饗宴」パドゥアナ 







2024-05-16 21:00:00 | バロック
知恩寺の手作り市に行ってきました。
MさんとGさんと行くはずだったのですが、前夜にGさんからLINE。
風邪ひいたのでお休みします。ということでMさんと私の2人で行くことになりました。




にぎわいはすっかり元に戻っています。


本物そっくりの食品サンプルのお店。
Gさんに頼まれた剥きかけみかんのキーホルダーを買って…任務完了。
イケメンの長ネギコースターをいつものGさんお気に入りのお店でおみやげに買いました。早く風邪治して欲しいです。
鴨川を渡って、高島屋でGさんの帰郷のためのお土産を買って、いつものコース、ブックオフに寄って帰りました。
今日の収穫。

昭和ガラスのフレーム、トマトのピクルス、ちりめん山椒、ウィリアム モリスのエコバッグ、老舗のたわし、パンダの背中バッチ、肉球フィナンシェ、イヤリング、スマホ入れ、楽譜バッグ、スクエア小物入れ、ペットボトルホルダー。これだけ買っても、大台に乗らず。楽しかった。

Mさん曰く。
「今のうちにやりたいことやって、欲しいものを買っておかないと、さきの事はわからないから。」

確かに!

マラン マレ(1656-1728)フランス帝国パリ生没

アンドレ・ブイの肖像画、1704
パリ南の貧民街で見習い靴職人の子供として生まれ、幼少の頃から音楽の才能を認められて1667年にはパリ第一の音楽教育機関だったサン=ジェルマン=ロクセロワ教会の聖歌隊に入り、1672年までフランソワ・シャプロンなどのもとに教育を受けます。

聖歌隊を出た後、ヴィオールをサント=コロンブ( 1640-1700 年頃)のヴィオラ・ダ・ガンバ

ヴィオラ・ダ・ガンバ、フランス語でヴィオール
の著名な名手、作曲家)などに師事して、名手として知られるようになりました。

おそらくはリュリ門下の作曲家ジャン=フランソワ・ラルウェット

ラルウェット1651-1729年
などの手引きもあって、1676年にはパリのオペラ、そして1679年8月1日からはルイ14世(1643-1715年)


の宮廷のヴィオール奏者に任命されました。

作曲家としての名声も高くなり、1693年に最初のオペラ『アルシード』を発表し(リュリとの共作)、パリのオペラの作曲家、そして後には指揮者としても成功をおさめています。
晩年には、ヴィオールの優れた教師として知られました。

1676年9月21日に結婚した妻のキャトリーヌ・ダミクールとの間に生まれた19人の子供のうち、数人は音楽家として名声をなしました。

「パリの聖ジュヌヴィエーブの鐘」は、マラン・マレがヴィオール、ヴァイオリン、通奏低音付きチェンバロのために1723年に書いた作品です。

D、F、E のベースラインが繰り返されるパッサカリアまたはシャコンヌと考えることができます。

これはおそらくマレで最も有名な作品で、彼がサント・コロンブ氏の学生として学んだ楽器であるヴィオールのさまざまなテクニックを探求したものです

ヴィオールのパートは、マレがその楽器を熟知しているため、非常に困難です。
中心となるのはメロディーやヴァイオリンではなく、ヴィオールです。彼の作品は、必ずしもメロディーを持っているわけではありませんが、ヴィオラ奏者のスキルを披露するものであると考えることができます。

お寺には古今東西「鐘」が切り離せないもののようです。










花も咲かない世界

2024-05-15 21:00:00 | 国民楽派
今日は子育てサロンでした。
次男が骨折ったまま働きに出てるので車がありません。
うちから会館まで1.5キロ、久しぶりに歩きました。
子どもたちと遊んだあと歩いて帰ると、お馴染の景色もいろいろ変化があることに気づきます。

ここは人が住んでいましたが、廃屋になっていました。

猫さんだけがのび〜っとしていました。カメラを向けたらそっぽ向いて行ってしまいました。

この校区は空き家が増え、高齢化率高いです。
経済もインフラもイノベーションも人口がある程度維持できてこそ。
子どもがいないとお金も使わない。
引越しもないので、不動産も動かない。レジャーにもいかない。
国力も下がり、円も安くなる。
お花畑で何が悪いのでしょう。
花も咲かない不毛の国に誰が育つでしょうか?
本当は経済の問題なんて無くても、子ども達の声や笑顔があふれる世界がいいです。世界を暴力や恐怖や不安で満たさないで。

モデスト ムソルグスキー(1839-1881年)ロシア帝国カレヴォ生まれ、ロシア帝国サンクトペテルブルク没

1865年ムソルグスキー
ムソルグスキーは魔術と悪魔の幻想というテーマに早くから興味を持っていました。
1858 年19歳に遡り、彼はN.V. ゴーゴリ

1809-1852年ゴーゴリ
の「イワン クパーラ前夜」

  
ディカーニカ近郷夜話 ロシア民話を下にしたゴーゴリの創作集で「イワンクバーラ前夜」が収められています。
を基にしたオペラの制作を計画していました。

2年後、彼はメングデンの戯曲「魔女」に基づいて作曲をデザインしました。

そのプロットは主要な特徴においてすでに「はげ山の一夜」のほぼ完成版でした。

1860年9月26日付のM・A・バラキレフへの手紙の中で、ムソルグスキーは台本の主な部分を挙げています。

「…魔女たちの安息日、魔術師たちの個々のエピソード、このくだらないものたちの厳粛な行進、フィナーレ…」

1866 年の春、出版されたばかりのM. S. ホチンスキーの魔術に関する本にインスピレーションを受けて、作曲家はバラキレフにこう告げました。

「私は魔女のスケッチを始めました、...悪魔の列車はまだ私を満足させません。」

そして4か月後、
「魔女について話したいと思っています。」

イメージは数年かけて徐々に成熟していきました。

6月23日にスコアを完成させたムソルグスキーは、リムスキー=コルサコフと喜びを分かち合い、ミュージカル映画のプログラムとそのコンセプトの特徴を詳細に説明しました。

「構成の計画と形式は非常に独創的です...散りばめられたバリエーションの形式は、このような混乱に最も適していると思います。作品の全体的な特徴は熱く、長さはなく、つながりは緊密です。」

1867年7月12日付のV.V.ニコルスキーへの手紙の中で、ムソルグスキーは次のように書いています。

「 ...私の故郷の畑に注ぎ込まれ、ロシアのパンによって栄養を与えられたオリジナルのロシアの作品です。」

聖ヨハネ祭(洗礼者ヨハネの誕生日)の前夜に不思議な出来事が起こる」というヨーロッパの言い伝えの一種、「聖ヨハネ祭前夜、禿山に地霊チェルノボーグ(黒い神」夜や闇、破壊と死、冥府の神・悪神とも言われています。)


が現れ手下の魔物や幽霊、精霊達と大騒ぎするが、夜明けとともに消え去っていく」というロシアの民話に基づいています。



編曲で有名な作曲家

2024-05-14 21:00:00 | 近代
月曜日は、フルートアンサンブル エスカルの練習でした。
筑前橋からの川を見たら凪でした。
止まった水面にビルが映り込んていました。

曲は
ドビュッシーの「小組曲」
「小舟にて」「行列」「メヌエット」「バレエ」の4曲。
ピアノ連弾をアンリ・ビュッセルがオーケストラに編曲しました。それをエスカルのメンバーの竹内さんがさらにフルートオーケストラ用に編曲しました。

6月のエスカル発表会で演奏するので熱が入ります。

途中、C#の音程が悪いと言い出された榎田先生。
「C#はね。ベームがベーム式フルートを作った時に、C.C#.Dオクターブの音を
1つのキーで出すために1番上のキーを小さくして少し上に開けたのですよ。つまり、妥協の産物。なので、どのフルートもC#が高い問題を抱えてしまったのですよ。」
「なので、C#を吹く時には気を付けて下さい。」
と言うわけで、C#は気を付けて吹きます。

ただしフルートメーカーによって誤差はありますが…。

アンリ・ビュッセル(仏: Henri Büsser、1872年1月16日 - 1973年12月30日)は、フランスの作曲家・編曲家・指揮者・音楽教師。

1895年ビュッセル

部分的にドイツ人の祖先を持っていました。彼はオルガニスト、フリッツ ビュッセル (1846-1879) の息子で、少年時代にアロイス・クンク の下でトゥールーズ大聖堂


の聖歌隊で歌い、その後1885 年にエコール・ニーダーマイヤー・ド・パリに入学してアレクサンドル・ジョルジュに師事しました。

1889年にパリ音楽院

1911年パリ音楽院
に入学し、オルガンをセザール・フランクに、作曲をエルネスト・ギロー、シャルル・グノー、ジュール・マスネに師事しました。  

彼は 1892 年のローマ賞コンクールで 2 位を獲得しました。同年、グノーの影響で、パリ近郊のサン・クルーのオルガニストに任命され、その職を30年間務めました。

1900年、ビュッセルはパリのシャトードー劇場の指揮者に任命されました。

1902年、彼はオペラ・コミック座でのクロード・ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』
ジョルジュ・ロシュグロスによる初演ポスター
の初演で舞台裏の合唱団を指揮し、当初の指揮者アンドレ・メサジェが他の契約上の理由で3回目の公演後に降板したとき、残りの公演を引き継ぎました。

ドビュッシーは当初、メサジェの指揮よりもビュッセルの指揮に感銘を受けなかったが、ビュッセルはすぐにこの作品をマスターし、ドビュッシーは

「クロード・ドビュッシーの感謝の意を込めて」と彼の楽譜に記しました。 

そして後にビュッセルに「小組曲」のオーケストレーションを依頼しました。

1904 年にパリ音楽院で教え始め、1905 年にはポール・タファネルの後任としてオペラ座

の指揮者に就任しました。

彼は1924 年のオペラ座での『ジゼル』再演のために、アドルフ アダムの 1841 年のオリジナルのバレエ音楽を再構築しました。

1931年に音楽院の作曲教授に昇進しました。

彼の生徒には、池ノ内友次郎、アンリ・デュティルー、ジャン=ミッシェル・ダマーズ、ロランデ・ファルシネリ、デニス・ロジェ、そしてローマ賞受賞者のアンリ・シャランがいました。

彼は 1938 年にガブリエル ピエルネの後任としてアカデミー デ ボザール(フランスのアカデミー協会学士会の1つ)
フランス研究所;アカデミー・デ・ボザールの本拠地
の会員に選出されました。

1939年から彼はオペラ・コミック座
の館長を務めたが、ナチス占領下の1941年にリヒャルト・ワーグナーに対する軽蔑的な発言を理由に解任されました。

しかし、彼自身の音楽には明らかにワーグナーの影響が反映されていました。

ビュッセルはかなりの量の音楽を編集、編曲しました。

彼の音楽的共感の広さと現代音楽だけでなく歴史的音楽への関心は、回想録『De Pelléas aux Indes galantes』(1955年)に反映されています。

彼の編曲には、リュリやラモーなど のフランスの作曲家の作品、ベルリオーズ、フランク、ビゼー、フォーレなどのその後の作品、さらにモーツァルト、シューベルト、ヴェルディの作品が数多く含まれています。

晩年にビュッセルはレジオン・ドヌール勲章の大士官に任命されました。 86歳のとき、彼は引退したオペラ歌手イヴォンヌ・ガルと結婚しました。

1919年ガル
彼は102歳の誕生日を目前にパリで亡くなりました。

ビュッセルはフルートの曲でも有名ですが
ヴィオラとピアノのための「熱情」op.34もよく取り上げられます。
1910年パリ音楽院の初代ヴィオラ教授テオフィル・ラフォージに捧げられました。


遅刻と巨匠

2024-05-13 21:02:00 | 近代
日曜日、午後からベートーヴェンの第九の練習でした。
天王寺区民センター。
毎回場所が変わるのですが…。
やってしまいました。
天満橋で八尾南行きに乗らなくてはいけないのに、大日行きに…。
あっていると信じ込んでいて4駅目になって四天王寺前夕陽ヶ丘駅が無い!
と気づいて、そんなはず無いと検索。
結局都島まで行ってしまいました。

早めに出たのにそこから折り返して5分遅れてしまいました。
ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。

みんなはその前にミサ・ソレムニスを練習しているので遅刻なし。
私はミサソレは降り番なので、今回は第九だけ…なのにお話になりません。

そういえば大フィル時代、榎田先生ある島に泊まって、翌朝本番というのに台風で欠航。
「どうしようもならなかった。」

「オーケストラの仕事の殆どはその場にいること。」とおっしゃっていました。

はい。その通りです。
以後気をつけます。

レナード バーンスタイン(1918-1990年)アメリカ合衆国マサチューセッツ州ローレンス生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク没
ウクライナ系ユダヤ人移民の2世として生まれました。
父親サミュエルは敬虔なユダヤ教徒でした。家族には音楽的な環境は全くなく、母親ジェニーが持っていた蓄音機の音楽に耳を傾けるのが大好きな赤ん坊だったといいます。
理髪店を経営していた父親の強い反対を押し切って、プロの音楽家の道を志しました。

ボストン・ラテン・スクールを経て、ハーバード大学・カーティス音楽院で学びます。
卒業後、1943年夏にアルトゥール・ロジンスキの指名によりニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮に就任しました。

1943年11月14日、病気のため指揮できなくなった大指揮者ブルーノ・ワルター(1876-1962年)
1912年のワルター
の代役としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団(現・ニューヨーク・フィルハーモニック)を指揮、ラジオでも放送され一大センセーションを巻き起こします。

1958年、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督に就任します。

1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、ウィーン・フィル、イスラエル・フィル、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演しました。

音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行いました。

マイケル・ティルソン・トーマス、小澤征爾


大植英次

佐渡裕

など多くの弟子を世に送り出したことでも知られています。

作曲家としても「ウェストサイド物語」「キャンディード」など多くの作品を残しています。

1982年バーンスタインのリハーサルシーンの動画が残されています。

「私は今、テレビ映像のために、実際の演奏のライブラリーを構築したいと思う。 
私は録音がとても好きだ。

なぜならば、普段のコンサートでは注意を向けさせるのが不可能な部分までを、あなたがたに伝えるための方法が数多くあるからだ」
1970年のグラモフォン誌でバーンスタインはこのように語っています。

1930年にエイドリアン・ボールトによって創設されたBBC交響楽団は、英国放送協会が所有する放送オーケストラの一つです。

1950年にボールトが首席指揮者の地位を退いてからは、数多くの名指揮者がその地位を受け継ぎ、また客演指揮者としてもトスカニーニを始めとした錚々たる指揮者が顔をそろえています。

1935年BBC交響楽団トスカニーニ指揮

さて、バーンスタインは、このオーケストラとの初顔合わせの時に遅刻しできました。
その上、謝罪もしなかったというのです。

両者の関係は極めて前途多難なものになることが予想されました。

しかし実際にリハーサルが始まると、バーンスタインの強烈な解釈と情熱的な指揮は、たちまちオーケストラを魅了したのです。

彼らの「エニグマ」はLP時代から名演として通っていますが、その「名演」が生まれるまでのプロセスを、このリハーサル映像はつぶさに見せてくれています。

これは、バーンスタインとBBC交響楽団との唯一の映像です。
(ナクソスのDVD紹介より)

これは、その時の動画の1部です。
バーンスタインの魅力に圧倒されますが、決して巨匠も遅刻するから私の遅刻も赦されるなどと言いたいのではありません。ぶるぶるっ!




第12回聴き合い会

2024-05-12 21:02:00 | バロック
5月11日(土)の午後は牧野生涯学習センターの音楽室で第12回聴き合い会でした。
今回はギターの人の行事やオーケストラ練習などなど他の行事と重なってしまい参加者少な目。
その分ゆったりと合奏など楽しめました。
チェロの有馬さんとフルート今川さんと私の3人でハイドンのロンドントリオのハ長調。

写真自分は撮れなかった〜。
有馬さんのバッハ、チェロ組曲第2番のプレリュードとアルマンド。

森田さん、来週娘さんの結婚式で披露する曲の予行演習。

マンドリンの稲田さんと太田さん。
6月29日梅田のクラベリトで「バロックナイト」というライブをされます。
ヴァイスやヴィヴァルディを演奏しました。

旧友がやってきました。
田村さん、東京に仕事で行ってしまって10年以上会ってませんでした。
たまたま仕事で大阪に帰ってきたので…と無理して参加してくれました。
朝FBで知ったので楽器も持たずに来たので、私の楽器で吹いています。
なのでお相手は今川さん。
ベートーヴェンのデュオを初見で、初あわせ。
よく来てくれました!

2時間くらい、フルートトリオで「ふるさと」「アイネクライネナハトムジーク」フルート2本とマンドリンのトリオで、今川さんと久米でクヴァンツのデュオ。
またまた、
「ハイドンのロンドントリオ」全員合奏で3曲全曲演奏などなど。
みんなでやり切った感です。
よく吹き、弾きました。
楽しかった!

みなさんも楽器を持って演奏にきませんか?
「第13回聴き合い会」
来月は6月19日(水)
牧野生涯学習センター 音楽室
12:15開館 13:00〜18:00
「練習の成果を発表し、励まし合いましょう!」
1人15分協力金500円

ゲオルグ フィリップ テレマン(1681- 1767年)神聖ローマ帝国ブランデンブルク選帝侯領マクデブルク生まれ、神聖ローマ帝国自由都市ハンザ都市ハンブルク没

2本のフルートのためのソナタ TWV40-103


弱音器ヴァイオリン

2024-05-11 21:00:00 | 近代
長居駅近くのヴァイオリン木村直子先生、チェロ木村政雄先生、ヴィオラ金重美代さん、フルート久米素子で、アンサンブルレッスン。
曲はモーツァルトのフルート四重奏Adur。

8月5日の直子先生のヴァイオリンの発表会で演奏することになりました。

ヴァイオリンは弾きませんが、ボーイングをする時に音が動いても弓を背中の筋肉で固定して最小の動きで動かすこと。

音の中身を詰めるためには、左手がどんなに動いても、弓は力で押さないでゆっくり動かすことなど、フルートの体の使い方にも通じるところがあっておもしろいです。

曲の作り方なども「ここはpがいい?」とか聞いてくださるので、ぼうっと吹いていてはいけません。
自分なりの意見を持たなくてはと背筋が伸びます。

練習後、ケーキを食べながらのおしゃべりの時間も楽しいです。
帰ろうとおもったら赤い三角の物が床に落ちていました。
金重さんが「こんなところに飴が落ちてるわ。」
「あっ!ヴィックスドロップ。」と私。 
そしたら、直子先生が、「ああこれ、弱音器。こんなところに落ちてたわ。」 
「ほらこんな感じ。」

かわいい。

消音器はできるだけ小さい音量で演奏したい時に使用するもので、夜間の練習やアパート内での演奏などにおいて有効です。

それに対して、弱音器は演奏の特殊効果として使用しますが、ピアノの左ペダルと同じようなもので、楽譜に指示があれば弱音器を使って音をやわらかくします。

これは、ポリーミュートという消音器。

セルゲイ プロコフィエフ(1891-1953年)ロシア帝国ソンツォフカ生まれ、ソビエト連邦モスクワ没 

1940年代には、転倒と脳震盪が原因でプロコフィエフの健康状態は悪化し、ほとんどモスクワ近郊の別荘に閉じこもっていました。

そこで1946年「ヴァイオリン・ソナタ第1番ヘ短調Op.80」を完成させました。

4楽章構成のソナタで、バロック(1600-1750)時代の教会ソナタを意識し、ヘンデルの「ヴァイオリン・ソナタニ短HWV359a」(c.1724年作曲)から発想を得たといわれています。
初演は1946年10月23日、モスクワ音楽院小ホールでダヴィッド・オイストラフ(ヴァイオリン)とレフ・オボーリン(ピアノ)によって行われました。 

その後、1953年プロコイエフは亡くなり、彼の葬儀で緩徐楽章の第1楽章と第3楽章がオイストラフとフェインベルクで演奏されました。

第1楽章の第2部と第3楽章は弱音器をつけて演奏されます。

第1楽章は弱音器を付けたヴァイオリンの32音符による12連符のフレーズ。
このフレーズを、プロコイエフ自身が<墓場に吹く風>のように演奏するよう指示しています。
この弱音器はこれっぽいです。
エボニー製




春の日の花と輝くの原曲とされた曲

2024-05-10 21:00:00 | ロマン派
バラ ピエール・ド・ロンサールのアーチが満開になりました。



















木曜は少し寒かったですが、これがいつもの5月かも…わからなくなってきました。

「春の日の花と輝く」は
元は "Believe Me, If All Those Endearing Young Charms"(私を信じて下さい。もし、あの愛らしい若者が魅力的なら) という詩で、アイルランドの詩人

トーマス・ムーア (Thomas Moore ; 1779-1852年)アイルランド ダブリン生まれ、イングランド ウィルトシャー クローバートンコテージ没

が1808年に、以前からあった曲 "My lodging is on the cold ground"(私の小屋は冷たい土地の上にあります。) の旋律を借りて発表したものだといわれています。

元になった "My lodging..." は民謡
音楽執筆家ウィリアム・チャペル (William Chappell ; 1809-1888) が1856年に出版した "Popular Music of the Olden Time..."に次のような楽譜が載せられています。

あれ?旋律が違います。

作曲は、イギリス初期バロックの大家マシュー・ロック (Matthew Locke ; 1621/22-1677)とされています。
ただしロックの旋律は最上声だけで、伴奏は19世紀の味付けをしていると思います。 

17世紀イギリスの詩人・劇作家にウィリアム・ダヴェナント (Sir William Davenant, しばしばD'Avenant とも ; 1606-1668)


という人がいます。
シェイクスピアが名付け親だとか、あるいはシェイクスピアの庶子という説もあります。
本人はこの噂を否定せず、むしろ自身の活動にうまく結びつけていたとも言われています。
彼が1656年に発表した『ロドス包囲戦』は、イギリス史上最初のオペラと言われています。
イニゴ・ジョーンズの弟子ジョン・ウェッブがデザインしたロードス島の眺め。1656年5月にラトランド・ハウスで行われたダヴェナントのオペラ『ロードス包囲戦』の「レチタティーヴォ音楽による」初演のバックシャッターに描かれました。

自身のオリジナル戯曲も多く存在しますが、現在ではもっぱらシェイクスピア作品の改作で知られています。

そんな改作作品の1つに、シェイクスピアとフレッチャー共作『二人の貴公子 (Two Noble Kinsmen)』

を元とする『恋敵 (The Rivals)』という悲喜劇があります。

初演は1664年、印刷は1668年。
初演時の評価はそれほど高くはなかったようです。

その中の一節に "My lodging..." があります。
初版ではなく、後世にダヴェナントの戯曲集として編纂されたもので、ダヴェナント自作の詩とされています。

ロックは劇場音楽にも関与していて『ロドス包囲戦』に他の作曲家とともにロックの名も出てきます。
なので『恋敵』にもロックが曲を提供した可能性もあります。

しかし、この曲は「春の日に花と輝く」とは違うようです。
いつの頃からか「春の日の花と輝く」の原曲と取り違えてきたようです。

1775年に出版された "Vocal Music of the Songster's Companion..." に現在知られている旋律が登場してきます。


また、1805年に出版された "The British Musical Miscellany..." に同じ旋律で "I Lo'ed ne'er a Laddie but ane" という曲が載せられています。

いずれも作曲者不明です。 

やはり、アイルランド民謡でしょうか?

春の日の花と輝く
Believe me, if all those
endearing young charms

アイルランド民謡、作詞:トーマス・ムーア
日本語詞:堀内敬三
1 春の日の花と輝く
  うるわしき姿の
  いつしかにあせてうつろう
  世の冬は来るとも
  わが心は変わる日なく
  おん身をば慕いて
  愛はなお緑いろ濃く
  わが胸に生くべし

2 若き日の頬は清らに
  わずらいの影なく
  おん身今あでにうるわし
  されどおもあせても
  わが心は変わる日なく
  おん身をば慕いて
  ひまわりの陽をば恋うごと
  とこしえに思わん

シモーネ マンティア(1873-1951年)


はアメリカ合衆国でもっとも古くユーフォニアム奏者として活躍した人です。当時はダブルベル バリトーン
で、大小のベルを切り替えて演奏したそうです。
それでも彼はユーフォニアム奏者の元祖と言われています。

マンティアがユーフォニアムとコンサートバンドの為に書いた「春の日の花と輝く」




逃亡と冒険の人生

2024-05-09 21:01:00 | 古典
近所のお庭のエゴノキ。
すぐに散ってしまいますが、かわいいです。



実を食べるとエグい味がするのでエゴの木というらしいです。
実って

ヤマガラさんがついばんでいるこれです。
サポニンが含まれているらしく、昔は若い果実を潰して泡だて、石鹸の代わりに使ったそうです。

エグいのはその成分のせいでしょう。
弱い毒でもあるので決して食べないで下さい。

チャールズ ニコラス ボクサ(1789-1856年)フランス モンメディ生まれ、オーストラリア シドニー没
ボヘミアの作曲家の父シャルルのもとに生まれました。
彼は7 歳までにフルートとピアノを演奏できるようになりました。  

1807年にパリ音楽院に留学し、翌年和声部門で一等賞を受賞しました。

彼は 1813 年にナポレオン帝国管弦楽団のハープ奏者に任命され、オペラ・コミック座

のためにオペラを書き始めました。

しかし、1817 年に彼は偽造、詐欺事件に巻き込まれ、訴追を避けるためにロンドンに逃亡しました。
彼は欠席裁判で有罪判決を受け、12年の重労働と4,000フランの罰金を言い渡されました。

ロンドンではフランスの法律の適用を受けずに安全を確保でき、1821 年に英国王立音楽アカデミー

の設立し、著名なハーピストを育てました。

1826年に彼の有罪判決が明らかになったとき、彼は辞任を余儀なくされました。

その後、ロンドンのキングス劇場

の音楽監督に就任しました。

1839年、作曲家ヘンリー・ビショップ


の妻のオペラ歌手アンナ・ビショップ(1810-1884年)

と逃亡します。

彼らは北米とヨーロッパ全土(フランスを除く)で一緒に演奏しました。ナポリでは、ボクサはサン・カルロ歌劇場

の館長に任命され、そこに2年間滞在しました。

1855年12月、ビクトリア朝のゴールドラッシュの頃、ボクサはビショップとともにオーストラリアのシドニーに到着しました。
しかし、上陸から、3週間後、ボクサが亡くなります。オーストラリアで彼らが一緒にコンサートを行ったのは1回だけでした。

ビショップは悲しみに暮れ、キャンパーダウン墓地に彼のために精巧な墓を建てるよう依頼しました。


「エチュード4番」はボクサが作曲したハープのための曲です。

エデュアルド サボン(1817-1893年?)がオーボエかサックスのために編曲しました。

これをさらにリコーダーで演奏した動画を見つけました。音域がちょうど良いそうです。
サボンは他に曲を残していないらしく資料もありません。
…ただSABON=石鹸で探していたらヒットしたのと、聞いていたら石鹸の泡が弾けているような曲だったので…。