人生に迷える老羊

還暦過ぎましたが、いまだ生き方に迷ってます。
でも、丁寧に日常を楽しみながら、死ぬまで現役で働きたいと思ってます。

墓じまいに向けて思ったこと

2024-04-08 06:00:00 | 日常のこと
うちは、私の祖父母である(母の母である)「加藤家のお墓」というのが、父たちの「森家の墓」とは別にあります。
んで、この「加藤家の墓」は、おばあちゃんの娘である私の母以外にはもう誰も親族が生きていないので、母が「自分が生きているうちに墓じまいをする」と言い出したのが、確か去年。
そう決めたのなら、もうさっさと済ませよう、と言ったのですが、
「慌てないからそんなに急がなくてもいい。確かまず1番最初にすることが『魂抜き』(しょうぬき)というもので、墓の前でお坊さんにお経をあげてもらうことなので、私たちも一緒に墓の前で何十分も立っていなくてはならないはず。そんなの、この冬の寒いうちはイヤだから、暖かくなった春にするわ」
と母は言いました。
まぁ、確かに寒風吹きすさぶなかで何十分も立っているのは私も嫌なので、承服したのでした。
そして、先週私は、
「そろそろ日程だけでも決めたほうがいいんじゃないの?」
と言い、母も
「そうだね。4月の中旬くらいにしようか。下旬になるとゴールデンウィークとかでお寺のスケジュールもわからないから」
と言いました。



さて、魂抜きのお経をあげてもらうとなると、そのときにお墓の下に収めてあるお骨を取り出して、本山に収めるまで自分で管理しなくてはなりません。
「だけど、何人入ってるかわからないんだよねぇ」
と母。
ええっ、お墓に彫ってあるじゃない、名前が。その人たちが入ってるんじゃないの? とわたし。
「うん・・ でも、書いてある以上に入ってる可能性もある」
と母。
なんでぇ!? と聞くと、親戚(母の姉)に昔、
「うちの墓はいっぱいで入らないから、これ、ちょっとそちらに入れておいてくれないか?」
と頼まれたことがあったような気がする、と言う。
母の姉ならば、その母親は同じなのだから、それを頼んでくる権利はあるのかもしれないけれども、入れた人はどうやら全然加藤家とは関係のない人のようだ、と言う。(母の姉の嫁ぎ先のほうの人)
「そんなことってあるの? っていうか、そんなことしていいの?」
と私が聞くと、
「うん、よく聞く話だよ」
としゃあしゃあと母は答えました。
「じゃあ、その魂抜きのときのお布施っていうのは、どうやって決めたらいいわけ? 何人かによって変ってくるでしょ?」
と言うと、
「一緒でしょう、そんなもの。お坊さんが1人より2人だったら倍の時間お経をあげるんじゃないんだし」
と母。
しかし・・ 「魂抜き」という儀式名から言っても、1人より2人、2人より3人のほうがお坊さんとしての”仕事”の負担、というものは増えるんではなかろうかと思うのですが。
ま、いいや。
それはいざとなったら直接お寺に聞いちゃえばいいだけのことだし。



でも、問題は本山に預けるために、やはり人数は特定しなくてはいけない、ということです。
ちなみに墓じまいしたあとのお骨は、そのお世話になっていたお墓のあるお寺の「納骨堂」で、毎年いくら、という管理料を払って預かってもらうか、本山(浄土真宗の場合は京都ですね)に永代供養料を1回払って、ずっと預かってもらうかのどちらかです。
ちなみに本山では引き出しのようなところを1つ借りる、ということになるので、1人分の骨であろうと2人分の骨であろうとその引き出しの中に入れば、何人分でも入れてよいのだそうです。
お寺の納骨堂にするか、本山にするか、どちらにもメリット、デメリットはあります。
納骨堂にすれば、たいていの場合は墓参りに行けるほどの距離のところにしたはずだから、墓じまいをしたあとでもいつでもまた故人に会いたい(いや、実際に会えるわけではもちろんありませんが)、お参りしたい、という気持ちになれば、そのお寺に行けばよい。
だけど、本山は京都ですからそう簡単に行けるものではありません。
だったら納骨堂のほうがいいか、と言えば納骨堂の場合は、たいてい毎年管理料を払い続けなくてはなりません。
その金額はお寺によってまちまちだそうで、「加藤家の墓」があるお寺は結構高いようです・・
本山なら1回限りの永代供養料で終わりです。
私はどっちにしろ、どうだっていいわ、とシラケた気持ちです。
おばあちゃんのことは大好きでしたが、毎回、このブログに書くように私は、墓だの位牌だのに魂が宿っているとは思っていないので、「魂抜き」のお経をあげなくてはならない、とも思っていないし、墓じまいと言ったって、結局は墓が納骨堂か本山の引き出しに変わるだけなら、始末をしたことにはなりゃしないじゃないか、なんでブツとしての骨をそんなにもいつまで後生大事にしないといけないの、と思うだけです。



さて、話を戻しまして、どうして人数を特定しなくてはいけないか、と言うと、母が森家のお墓があるお寺に聞いたところ、
「確か本山の引き出しは2人分の骨壺を入れる程度のスペースだよ」
と言われた、というのです。
それならば、お話になりゃしない。
加藤家の墓には5人の名前が彫ってあります。
だから、5人分はあるはず、ってことですよね。
それにさらに母の姉に頼まれてほかの人のお骨も入っているかも、と言ったら6人分。
もし、それがほんとうなら、3つ引き出しいる、ってことになるじゃないですか・・
それはやはり永代供養料も3倍ということになるんだろうか?
それとも「加藤家」ということで1つの引き出しには収まらなくても1つ分でいいんだろうか?
それも確認しないといけない。
すると母がまたとんでもないことを言い出しました。
「確か・・ 私と姉と姉のご主人との3人で、一度、誰かの骨を本山に持って行った覚えがある」
と言うではありませんか!
「ええっ! 誰の?」
と聞いても
「わからない。思い出せない。もうずいぶん昔のことだもの」
と言います。
母の姉も、その姉のご主人ももう亡くなっています。
だからそれを確認できる人がいません。
「誰かいないの? そのお子さんたちが聞いてる可能性があるとか・・」
と言っても、
「いや、誰もわからないはず」
と言います。
ということは、すでに誰かわからない加藤家の人間が本山のどこかの引き出しに入っている可能性がある。
それが1つなら、今回の墓じまいでそこに一緒にほかの人たちも入れてもらうだけで済む。(入るなら、ですが)
わからなければ、新たに引き出しを借りることになる。
それにしても、そのすでに本山に持って行ってある、という人については、もうそれきりで誰も本山にお参りに行ったりしてないわけだよねぇ。
「だって、そういうものだろ? 本山に預ける、ってことはそういうことだろ?」
と母。
・・確かにそういうことかもしれない。
ということは、永代供養としてどこかに預けたら、もうあとは野となれ山となれ、わたしゃ知らんぞよ、ということなわけか。
そんなら、もう一度火葬場に持って行って高温で骨の形さえなくなるほど焼いてもらってなくしてしまったほうが小ざっぱりしやしないか、と思います。
ちなみに私のは、それでいいと思っています。



いずれにしても墓じまいにあたって少し母と話しただけで、私の知らないことや、「そういうときはどうするんだ」ということや、「待てよ。だったらそれはこうするのとどう違うんだ?」ということなど、いろんな新たな疑問やらわけのわからないことが噴出してきます。
うちが特別とは思わない。
そう思うと、日本国中にわけのわからなくなった位牌やら骨やらがいっぱいあるんだろうなぁ。
そして、結局は行き着くところ、もう誰のものかもわからないようなものが全国各地のお寺や本山に眠ってるんだろうなぁ。
これまで日本国中の誰しもが、お墓を立てるなら立てるところから始まって、どう管理するのか、墓じまいをするならどう墓じまいをするのか、は全部自分たちだけの考えで出来ることではないから、それこそこういうときこそ”葬式仏教”の出番だ、とばかりにお寺の言うなりにしてきたのだ、と思っていました。
しかし、考えてみれば、死んでお骨になった人は、もうそこからは「永遠の存在」。
お寺さんだって、何代にもわたって住職が変わったりしていたら、もうどこでどうなったのか、前歴をたどろうとしても無理なことがいっぱいあるでしょう。
そしていきなり、
「ええぃ、わからんわい。もうどうだっていいわ」
とぽぉんと放り投げるようなことをする。
そういう最後になるんだったら、最初からどうだっていいやん、と思う。
いや、投げやりな意味ではなくて。
そうじゃなくて、どこかでは「ハイ、ここで終わり」という決定的な終わりがないと、なんだか尻切れトンボになるだけだなぁ、と思う。
亡くなった人のことは、誰もが「祟ったりしたら嫌だから」とか、「私の代でおしまいにすることは縁起が悪い」とか思って、なかなか決断できないんだろうなぁ。
でも、「終わりにする」ということは、やはりこの三次元、四次元の世界に住んでいる我々からしたら、「ブツをなくす」ということにしないと、終わらないんだよな、と思います。



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