退屈しないように シニアの暮らし

ブログ巡り、パン作り、テニス、犬と遊ぶ、リコーダー、韓国、温泉、俳句、麻雀、木工、家庭菜園、散歩
さて何をしようか

幸福な世界 7

2015-06-30 09:15:32 | 韓で遊ぶ


ここに車を駐車しないで下さい
私たち家族は少し前に引越しをしました。
新しい家は築30年の古いマンションでした。
新しい家に引越ししてうれしかったのですが、古い家のせいか不便なところも多くありました。その中で一番頭の痛い問題が、駐車の問題でした。世帯数に比べて駐車場がかなり少なく、いつもマンションの外に車を止めなければなりませんでした。1ヶ月ほどそうやって、やっとはじめてマンションの中に駐車することができました。車がぎっしり止まっている中に、ただ1台分だけ空いているのが目に入ったのです。
「うゎ、これは運がいい。他の人が来る前にすぐに止めないと。」
次の日も、その次の日もそこに止めることができました。その時までも、私はただ運がいいとだけ思っていました。
「そうだ。私は運がいいのだ。ここがずっと空いていたらいいけどな。家にも近いし。」
ところがある日、車のフロントガラスに紙が一枚はさんであるのを見つけました。
「ここに駐車しないで下さい。」
マンションの駐車場は住民ならば誰でも利用することができる空間なのに、まるでそこが専用の空間だとでも言うように、止めるなと書いてあるのを見て、とても気分が悪くなりました。
「ここが自分の土地でもあるましし、何でこんなことを言うんだ。チェっ、先に止めたが勝ちだ。」
私はその紙を気にしないで、そこに駐車し続けました。
そうやって何日か過ぎて家に入ろうとして、いつも空いているその駐車空間に車を止める青年を見かけました。彼は杖をついて車から降りました。マンションの婦人会長のおばさんが、その青年を見てうれしそうに声をかけました。
「しばらく玄関から遠いところに車を止めて大変だったでしょ。これからはもっと気を使うから。」
「いいえ。私は大丈夫です。」
「気にしないで。隣同士互いに助け合わないと。」
私はやっとわかりました。そこがいつも空いていた理由が。そこはマンションの住民が体の不自由な青年のために用意した特別席のようなものでした。
誰が強要した訳でもありません。自然にそして自発的にそこを青年に譲ってあげたのでした。
状況を知るなり、自分のしてきたことが恥ずかしくなりました。青年に近づいて行きこの間のことを告白しました。
「申し訳ない。引越し来て間もないものだからよくわからなくて。私のせいで不便だったでしょ。」
私が謝ると、青年はむしろもっとすまながりました。
「いいえ、共用の駐車場です。皆さんがこうやって気を使ってくださり、本当にありがたくて、申し訳ないのです。」
自分たちの利益よりも、苦しい隣人の便宜を先に考える住民たち、、、。他のマンションに比べると建物も古く、駐車場も狭いのですが、いいところに引っ越して来ました。隣人間の愛は、どのマンションよりも大きく豊かです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 7

2015-06-29 10:22:17 | 韓で遊ぶ


最も価値のある別れの贈り物
春になると万物が蘇生するといいます。
ですが父は私たちの元から永遠に旅立ちました。
手術と治療を何回も繰り返している最中にも、よくがんばって耐えていた父だったので、亡くなった後の喪失感は私たち四兄妹により大きく感じられました。
初めての家族の葬式。皆が深い悲しみに浸ってどうしていいのかわからず右往左往しました。
「来てくれたのね。」
「ご愁傷様。よくがんばっていたのにね、、、力を落とさないで。」
「ええ、ありがとうございます。」
家族皆が葬式を執り行うのには不慣れでしたが、弔問客の心遣いと隣人の助けを借りて無事に終えられるようでした。
出棺を控えた夜遅く、不祝儀袋を整理していた家の男性陣が啜り泣きを始めました。姉と私は何事かと訊ねました。
「義兄さん、何かあったの。」
「あの、、それが、、これ、、」
義兄さんは涙ぐみながら封筒を差し出しました。それは一番上のお姉さんの息子である6歳のチョンヒョギが父に書いた手紙でした。
やっと字を書き始めた甥が書いた手紙なので、書き方はめちゃくちゃでしたが本当に心がこもっていました。
「おじいちゃん大好き。」
その日の夕方、甥の手紙は全家族をもう一度泣かせました。
無事に葬式を終えて、それぞれが落ち着きを取り戻してきた頃、チョンヒョクにその手紙について聞いてみました。
「チョンヒョク、お前は何でおじいさんに手紙を書いたの。」
「大人はみんな箱に手紙を入れていたじゃないか。だから僕も、おじいさんに見せようと手紙を書いたの。」
不祝儀を入れる不祝儀袋が純真無垢な甥の目には、おじいさんに送る手紙に見えたようです。自分をとてもかわいがってくれたおじいさんの最後の瞬間を一通の手紙で彩った孫。おそらく父にとっては、その手紙は世の中で一番美しく価値のある別れの贈り物だったでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 7

2015-06-28 08:22:27 | 韓で遊ぶ


光を放つ絵
ある大学の西洋画科の授業で教授が学生たちに課題を出しました。
「今週中に自分の手を描いて提出しなさい。表現する方法は皆さんの自由です。皆さんの実力を信じて期待しています。」
手を描いて来いという宿題は、簡単なようですが難しく、難しいようですが簡単な宿題でした。大部分の学生はため息をつきましたが、何人かの学生は面白いという表情をしました。
何日か過ぎて課題を提出する時間になりました。
教授の机の上には学生たちが描いた手の絵がうず高く積まれています。
教授は課題の絵をじっくりと見ました。そして一枚の絵から目を離すことができませんでした。
「うむ、この絵からは光が放たれている。本当によく描けている。誰がこのように手の感じを自然で深みのあるように表現したのだろうか。授業の時にこの学生を褒めてやらなければ。」
教授は絵を描いた主人公が気になりました。次の授業の時間に教授はその学生を探しました。
「皆さん、自分の手をよく表現しました。その中でひとつ光を放つ絵がありました。さあ、この絵を描いた学生は立ってください。」
教授が絵を持ち上げると一人の男子学生が立ち上がりました。教授はその学生を見て驚きました。学生の中で最も光を放つ絵を描いた学生は、片腕がなかったからでした。それで教授はやっと悟りました。その絵が光を放つことができた理由とその裏側に隠された傷を。
片腕を失い、残った腕で絵を描いてきた男子学生。この間、彼は多くの挫折と試練を味わってきたのでしょう。ですが筆を捨なかったのは残っている腕に対する感謝があるからです。
教授もその絵に感謝の心を見たのでした。片腕で培っていく固い希望、熱い情熱、夢に向う執念。その心が男子学生の絵に光を入れたのでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 7

2015-06-27 14:26:01 | 韓で遊ぶ


キョンミンの新しい命
ワールドカップの熱気が全世界を熱くした2006年6月。
私は息子を失うという悲しみで、胸が押しつぶされそうな苦痛の中にいました。
「キョンミン、、、」
まだ18歳なのに不整脈に由来する心臓麻痺で死んでしまったキョンミン。いつも全校で一位であるだけでなく、天才たちの集まりの会員になるほどの頭のいい子でした。その子が激しい胸痛を訴えたのは、高校へ進学した直後でした。キョンミンは幼い時に肋骨の奇形のせいで、肋骨を18本も切るという大手術を受けたことがありました。
「その時とりきれなかった肋骨ひとつがキョンミンの心臓を圧迫しています。」
他に治療法がないということを聞いて私たちは病院を後にしました。幼くして大きな手術を受けたせいか、キョンミンは、幼いの頃からとても大人びていました。
普段体の弱い私をよく世話してくれることはもちろん、他の子供たちの中でも暖かく考えが深いお兄さんのような子として通っていました。そんなキョンミンがわずか2ヶ月の間にまた倒れた時は天が崩れるような絶望に息が詰まりました。
キョンミンが重症患者室に入っていた1ヶ月の間、私は魂が抜けたまま毎日を過ごしました。その暗澹とした苦しい時間、私を耐えさせてくれたのは、キョンミンのミニホームページで息子の痕跡をたどることでした。そうしていて知ることができました。私の息子がどんなによいことをしていたのかを。
キョンミンは、入試の勉強で押さえつけられ苦しんでいる人たちとメールをやり取りしながら、暖かい慰めと励ましのメッセージを伝えていました。自分の体が悪く苦しいキョンミンが与えたメッセージは、友の勇気と希望となっていたのでした。結局、キョンミンは病気に勝つことができず死んでしまいましたが、私はその暖かい心だけは守ってやりたいと思いました。
だから私はパソコンを習い、キョンミンのホームページを運営しながら、彼がやったように疲れて心が渇いた人々に、泉の水のような希望をあげるために努力しています。今はキョンミンが結んだ暖かい因縁のひとつひとつが、息子のいなくなった場所を埋めてくれています。
キョンミンが好きだった歌手オスンググさんは私たち夫婦を本当の両親のように思ってくれ、作家キムヨンデさんは漫画「キョンミンの日記」をインターネットに連載し、キョンミンの愛を世の中に知らせてくれています。今はキョンミンを記憶する人々の暖かい心が集まり、明るい光になっています。その消えない光は、私がずっと守っていかなければならないキョンミンの新しい命です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 7

2015-06-24 15:42:38 | 韓で遊ぶ


父が変だ
何日か前から父がおかしな行動をし始めました。
こっそりと寝室に入って行って見ると、盗みでもするのが見つかった人のようにびっくり驚いていました。
「全く、びっくりした。そうやって急に戸を開けるとは何だ。」
ある日、電話をしていて私の気配を感じてびっくりして受話器を床に放り出したこともありました。
「はっきりさせなきゃ。」
父のおかしな行動はそれで終わりではありませんでした。一日中、郵便受けの傍をうろうろしながら、今まで見たことも無かった電話料金の請求書を待っていたかと思うと、告知書を見ては大きなため息をついたりしました。
「まったく、これはどうしよう。どうしよう。」
さっぱり話をすればいいものを、父は何も言いません。私はこれ以上我慢できず、父に単刀直入に聞いてみました。
「お父さん、もしかしてガールフレンドでもできたの。」
「いや、違う。違う。絶対違うから、変な想像はするな。」
「おかしいわね。じゃあ一体何なの。」
私が疑いのまなざしで見ながら、父は、ためらいながら秘密を話し出しました。
「う―ん、実はだな、、、私が、」
テレビで独居老人を助ける放送を見て、善い心から電話募金運動に参加するようになった父。情け深い父は1ヶ月の間、放送を見ながら毎日のように受話器を持っていたのでした。それを誰にも知られないようにしようとして、私が部屋に入るたびに驚いていたのでした。そうしていて電話料金が請求される日が近づいてきて、ひどい高額になっていたので夜も眠れないでいたのでした。
「今月の電話料金が高くなっただろう。私が使ったのだから私が出そう。」
電話料金、何円かですまながる父を見て胸が痛みました。生涯、家族のために生きてきた父が、その程度のことを気にするのがかわいそうでもありました。
私は、独居老人に愛の手を差し伸べた父の手をぎゅっと握りました。
「お父さん、心配しないで下さい。そんなことで使ったお金ならば、いくらでも大丈夫です。だから、やりたければ思いっきり電話してください。ねっ。」
それでやっとほっとした父は、明るく笑いました。困っている隣人のために施すことを知っている父を、私は本当に誇らしく思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 7

2015-06-23 07:34:46 | 韓で遊ぶ


招待状の手紙
まもなく還暦を迎える年になってみると、最もたくさん受け取る郵便物が招待状になっていました。
最近の招待状は甘くかわいいものが多いようです。真心のこもっているのはわかりますが、その役目を果たすと10に9は捨てられるのもまた招待状です。
すこし親しい友達から招待状が1通届きました。一枚の絵のような、とてもよくお似合いの新郎新婦の写真が載せられていました。性格が優しくて福々しい友達に似た新郎の顔を見るだけでも気分がよくなりました。
だから、式が終わった後にもその招待状を持っていたのですが、うっかり捨ててしまって後悔しました。
「招待状を捨てないで、それに何か一言でも書いて送ってあげたらよかったのに、、、」
だからと言って捨てたものをまた拾うこともできないものです。その時、私は決心しました。
男性側の招待客の時には新郎に、女性側の時には新婦に、心のこもった手紙を送ることにしました。その時の後悔が招待状の手紙を書くきっかけになったのです。
「ソングン、式場で新婦を見たけど、お前のお母さんが、なぜあんなにお嫁さんの自慢をしていたかわかりました。二人がひとつになって美しい夫婦になってください。」
本で読んだ素敵な文句を利用して書いたり、自分の経験を基にして夫婦で守らなければならない礼儀とか責任について、人生の先輩として助言したりもしました。
「幸福な夫婦というのは独唱ではなく合唱しなければなりません。どちらか一方の歌があまりに大きいと合唱の均衡が崩れるように、夫婦というのは少しずつ互いに譲歩して努力する永遠のパートナーです。」
招待状の手紙は思っていたよりも反応が良かったです。いろいろとありがとうという挨拶があふれるほどでしたから。
「嫁にあなたがくれた手紙を読ませてやったらすごく喜んでいたわ、ありがとう。」
短い手紙一通で、新しい人生をはじめる夫婦に喜びを与えることは、私にも大きな幸福になって返って来ました。
一文字、一文字書きながら、私もまた家族の大切さに気づいていたのでした。
新しい夫婦に、香り高い結婚生活をプレゼントしたいという小さな願いと、私の手紙が愛の種になればと思う希望を持って、今日も私は招待状の手紙を書きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 7

2015-06-21 21:39:57 | 韓で遊ぶ


傘になって下さい
釜山沙下区庁に勤務する750名の公務員全員に大きな傘がひとつずつ配達されました。
「おや、これは何だ。」
「ちょっと、ここに何か書いてあるわ。」 
持つところに「体に気をつけて」と言う文句が書かれた傘をプレゼントされた人たちはきょとんとしました。しかし、すぐに誰が送ったのかを知った人たちの目には涙が浮かびました。それは、何日か前に癌で亡くなった同僚ハオンレさんが送ってくれた最後のプレゼントだったのです。
37歳という若さで亡くなった彼女は、生前誰よりも誠実で、責任感の強い国の職員でした。同僚の間でも人情が厚かった彼女が直腸癌の判定を受けたのは2004年のことでした。
彼女は生死の分かれ道で熾烈で苦しい闘病生活をしました。
「必ず元気になって復職するんだ。」
癌に打ち勝つという意思で、だんだん元気を回復した彼女は、1年ぶりに復職することができました。
「具合はどうですか。大丈夫ですか。」
「もちろんです。もう、ぴんぴんしてますよ。」
ハオンレさんが以前のように村の人々と会えるようになったのも、しばしの間、その間に癌細胞が全身に広がり、もう手の付けられない状況までなってしまったという晴天の霹靂のような診断が出ました。
いくらも残っていない命を整理しながら、まず最初に彼女は幼い二人の娘にご飯の炊き方を教えました。そして病室に横たわっている間に、同僚たちにプレゼントを準備しました。公務員という職業を天職として生きてきた彼女は、自分のやりきれなかった「奉仕」の夢を代わりに成し遂げてほしいという意味で傘をプレゼントしました。
「思いがけない病気で先立ちますが、どうか、皆さんは雨風が吹き、雪が降る日、困っている人々の傘になってくれることを切実に願います。」
人を助けようとしたならば、まず自分のように病気になってはだめだと思い、傘の持つところには「体に気をつけて」という文句を刻みました。
ハオンレさんの傘を受け取った同僚たちは心深く決心しました。
雨風を受ける傘のように、いつも世の中の波風から困っている人を守ってあげる頼もしく暖かい公務員になろうと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 7

2015-06-20 07:26:44 | 韓で遊ぶ


天国に送ったメール

私は携帯電話を2台持っています。
その内のひとつは私の物で、他の一つは数ヶ月前に亡くなった義母の物です。義母が使っていた携帯は、2年前、両親の結婚記念日の贈り物として私があげた物でした。
私は贈りながら両親にメールのやり取りの方法を教えてあげました。二人は何日か苦労しながら練習をしました。使い方に少し慣れてくると、二人はメールのやり取りを始めました。
「おとうさん、夕方、迎えに行くわ。一緒に買い物しましょう。」
二人は、まるで恋愛を始めた恋人同士のように暖かいメールのやり取りをしていました。ですが、二人のメールの対話は義母が急に癌で亡くなり終わりになりました。義母の携帯は私に戻ってきました。
主を失った携帯が再び鳴ったのは、義母が亡くなって一月後でした。マンションの警備の仕事をしている義父からメールを送ってきたのです。
「今日は遅くなるようだ。先に夕飯を食べなさい。」
私は義父のメールを受けて胸が塞がりました。妻を失った衝撃で認知症の症状が出てきたのかも知れないという不吉な思いもしました。どうしていいのかわからないままいると、夜に義父からまたメールが来ました。
「寒いから、布団をちゃんとかけて寝なさい。」
亡くなった人に送った義父のメールを見て涙を流す私を夫がなぐさめてくれました。何日か見守ってみようと言って。何気なく見守っている間、父の気持ちがこめられたメールは何回か来ては「会いたい。」と言う内容を最後に、それ以上来ませんでした。
そして少し後になって義父は私の携帯にメールをよこしました。
「今日は給料日だけど、何か必要なものは無いか。」
私はどきどきする胸を抑えながら返事を送りました。
「お義父さん、タラを2匹お願いします。」
その日の夕方、タラの鍋をつまみに晩酌をしながら義父は、この間のことを説明してくれましした。
「私はまだ、かあさんが傍にいるような気がする。だからメールを送ってみたけど、やっぱり返事がこないよ。やっとかあさんがいなくなったことを認めたよ。」
夫と私がおかしいと思っていながらも、気にしないようにしていたこともわかっていて、すまなかったという義父、、
その日以後、義父と私はメールのやり取りをしています。義母を先に送った義父の悲しい気持ちを、私の気持ちをこめたメールが少しでもなぐさめられたらと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 7

2015-06-19 18:36:53 | 韓で遊ぶ


父の特別な数え方

父はとても情の深い人でした。
手のひらほどの田んぼを耕す貧しい農家でしたが、父は私たち4人兄妹の米びつをいつもいっぱいに満たしてくれました。
父は、家族の人数によって米を送る量も時期もすべて変えていました。一番上のお兄さんの家は家族が多いので2ヶ月に1回ずつ、2番目のお姉さんのところには3ヶ月に1回ずつ、そして私の家には4ヶ月に一回ずつ米を送ってくれ、一人暮らしの末っ子のところには1ヶ月に2升ずつ送ってくれました。私たちは、米がなくなる頃になれば間違いなく父の米が届くことにひどく驚きました。父は文字を書くことも読むこともできないからでした。米を送る度、書いておくこともできないはずなのに、米がなくなる頃をどうしてわかって送るのかとても不思議なことでした、
思春期の頃は、父が字を書けないと言うことが恥ずかしくて嫌でした。誰かに知られたら恥ずかしい思いをしなければならないと、父が何かを読んでくれと言うと知らない振りをしたことも多々ありました。ですが、大人になってそれが恥ずかしいことではないということがわかりました。
特に母が病気で倒れて実家に行った日、私たち兄妹は父がどんなに立派な人なのかを、胸深く知ることになりました。
寝室の引き出しから偶然に見つけた父の手帳がその事実を教えてくれたのです。
上のお兄さんは1番、2番目のお姉さん2番、私は3番、、、
父は、そうやって名前の代わりに数字で子供たちを区別して米を送った月をまめに書いてきたのでした。正にこれが文字を書けない父の特別な記録法であり、愛し方だったのでした。
父のくねくねした数字の前で、私は一時胸に抱いていた申し訳ない思いを恥ずかしく思い涙を流しました。そして父を力いっぱい抱きしめてごめんなさいと言いました。
「お父さん、本当にごめんなさい。お父さん、、、」
「よし、、、よし、、、」
理由を聞かなくてもすべてわかっているというように、父は何も聞かないで、私を背中を叩いてなぐさめてくれました。
父は母を送って3ヶ月後に亡くなりました。もう父は写真の中で笑っているだけです。
「う、、お父さん。」
父が恋しくてしかたのない日は、今でも白い米を研ぎながら父を思い浮かべます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福な世界 7

2015-06-08 10:28:21 | 韓で遊ぶ


クリスマスの天使

毎年クリスマスに開かれる聖劇、主人公を決めるため日曜学校の先生が子供たちを礼拝堂に呼びました。
礼拝の時間に、よくい眠りをしたり、ふざけたりしていた子供たちですが、この日だけは主人公に選ばれたいのか、大人しく見えるように努力しました。
先生は子供たちを見回してヨハンが目に付くと、困ったと思いました。先生は、1年の間、日曜学校を一度も欠席しなかった子供に役をくれると約束したのですが、ヨハンも無欠席の一人でした。ヨハンに役を与えてちゃんとやりとげることができるだろうか心配だったし、だからと言って役をあげないのは、子供たちとの約束を破ることになってしまいます。
「へへへ、、、」
ヨハンは先生の苦悩を知っているのか知らないのか、明るく笑っていました。仕方なく先生はヨハンのために即席で役を作りました。台詞といえば、「ありません。」一言だけの役でした。ですが、その日からヨハンは「ありません。」を、口がすっぱくなるほどに練習しました。もしかして台詞を忘れてしまってはならないと、言葉の終わりごとに「ありません。」をくっつけたりもしました。子供たちが「アーメン」と言うと、ヨハンは「アーメンありません。」と言いました。
程なく公演が開かれるクリスマスがやってきました。綿でできた雪が降る礼拝堂の中央の舞台に、臨月のマリアとヨセフの役の子供が登場しました。長い旅で疲れた二人は人々に助けを請いました。ですが、子供たちは練習したとおり夫婦を追い出しました。
「部屋はない。」
彼らは最後にヨハンに近づいていきました。ヨセフ役の男の子がドアを叩きました。
「ご主人、ここにもしや空き部屋がありますか。」
ヨハンは、今まで一生懸命練習してきた「ありません。」という言葉だけを言えばいい状況でした。ですが、ヨハンの口から正反対の言葉が飛び出しました。
「あ、、、あります。ありますとも。」
舞台の後ろで間違っていると教えてあげても、ヨハンはずっと「あります。」とだけ繰り返しました。とうとう、ヨハンはヨセフ役の子供の腕をつかんで無理やり家の中に入れました。
「あります。入ってください。」
ヨハンの突発的な行動に観客は目頭を赤くしました。
白い雪がしんしんと降るクリスマス、その場にいた人々は天使を見ました。純粋な目と美しい心を持った小さな天使をです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする