退屈しないように シニアの暮らし

ブログ巡り、パン作り、テニス、犬と遊ぶ、リコーダー、韓国、温泉、俳句、麻雀、木工、家庭菜園、散歩
さて何をしようか

法頂 無所有から

2012-12-31 14:01:31 | 韓で遊ぶ
26 霊魂の母音―星の王子様へ送る手紙

星の王子様
今、外には枯葉が転がる音が聞こえます。窓に広がる午後の日差しが非常にやさしい。こんな時間、私は穢れのない澄んだ君の声を聞きます。玉のようにきれいな君の目を見ます。一日に何回も日の暮れる光景を眺めている、その目を恋しく思います。こんなこだまが聞こえてきます。
「僕と友達になろう。僕、寂しいんだ。」
「僕、寂しいんだ、、、僕、寂しいんだ、、、僕、寂しいんだ、、、」
星の王子様!
もはや、私は無縁ではありません。同じ屋根の下に暮らす慣れ親しんだ家族です。今までに、君を20回を超えて読んだ私は、もはや今さらながら文章を読む必要もなくなりました。ページをぱらぱらとめくっただけでも君の世界に入っていくことができるからです。行間に書かれている事情までも、余白に隠れている声までも何もかもすべて読んで聞くことができるのです。
何年か前、だから1965年5月、君と出会ったことはひとつの邂逅でした。君を通して、やっと人間関係の基になっている部分を認識することができ、世界と私の関係を数えることができたのです。その時まで見えなかった事物が見えるようになり、聞こえなかった声が聞こえるようになったのです。だから、君を通して私自身と出会ったのです。
その時から、私の貧しい本棚には君の仲間がひとつ二つと並びだしました。その子達は乏しい私の枝に青い樹液を回してくれたのです。松風の音のように無心な世界に私を引き連れて行ったのです。そして私がすることは、すなわち私の存在することであることを透明に悟らせてくれました。時にはただ何となく窓を開ける時があります。夜の空を見て耳を傾ける。鈴のように聞こえてくる君の笑う声を聞くために。そして一人で微笑む。こんな私を傍でおかしく思うならば、君が教えてくれた通り、私をこんなふうに言ってください。
「星を見ていたら私はいつも笑っているなぁ、、」
星の王子様!
君のおじさん(サンテグジュペリ)は、こんな風に言っていました。
「大人たちは数字が好きだ。大人に新しくできた友達の話をすると、一番重要なことをまったく聞かないのだ。その人達は、その友達の声はどんな感じ?どんな遊びが好きなの?蝶のようなものを捕まえたりするの?こんなことを聞くことは絶対にしない。
「年がいくつなの?兄弟は何人?体重はどれぐらい?これがその人たちの聞くことだ。それで、その友達を知ったという思いになる。
もし、大人たちに「窓のところにゼラニュームが咲いていて、屋根には鳩が遊んでいる美しい赤いレンガの家を見た」と言ったら、その人達はその家がどんな家なのかを考えることができない。「1億ウォンの家を見た」と言わなければならない。そうしたら「すごいなぁ!」と感嘆するのだ。
今、私たちの周りには数字が盛んに飛び交っている。2回目の選挙を終えて、物価が勢いよく上がって、輸出高が予想よりも伸びず、国民の所得がどうなったとか。だから、よく暮らすと言うことは目に見える数字の単位が多いほどにいいと言うことだ。よって人々はこの数字に最大の関心を持っているのだ。数字が増えると笑い、減るとむやみに怒りだす。言い換えると自分の命の芯がどれぐらい残っているのかには無関心でいながら、目に見える数字にだけしがみついて生きているのだ。しかし、こんな目に見える数字の遊びをして目に見えない人間の領域が日ごとに萎縮して干からびているところに問題があるのだ。同じ水を飲みながらも、牛が飲むとミルクをつくって、蛇が飲むと毒をつくるという比喩があるが、数字を扱うその当事者の人間的な根底が問題なのだ。しかし、私こそがと言う大人が、人間の大地を離れてどんどん空回りしていながらも、その事実さえしらないでいるなぁ。
君はそれを指して「きのこ」だと言っただろ?
彼は花の香りをかいだこともなく、星を眺めることもなく、誰かを愛したこともない。足し算意外に何もしたことがない。そうでありながらも一日中、私は賢い人間だ。私は賢い人間だとくどくど言ってばかりいる。そしてこのせいですごく思い上がっている。だけどそれは人間ではない。きのこなのだ。
そうだ、君が狐から言葉を聞いた秘密のように、一番重要なことは目には見えない。よく見ようとするなら、心で見なければならない。実は、目に見えることは氷山の一角に過ぎない。より大きく広いものは心で感じなければ。だけど、大人たちはどうだ?目の前に現れれば見えると言うのだ。本当に目を開けた盲人だ。目に見えない世界までも貫いて見ることができる、その知恵が現代人には惜しいと言うことだ。
星の王子様!
君は、ただひとつしかない大切な花であることを知っていた。その花と同じ様な多くのバラを見て失望したあまり芝生にうつぶせて泣いただろう?その時、狐が現れて「気持ちが通じる」と言う言葉を教えてくれた。それはひどく忘れしまった言葉で「関係を結ぶ」と言う意味だと。気持ちが通じることは、互いがまだ、何千、何万の極ありふれた、似たような存在に過ぎず、大切だとか、恋しいとも思わないけれど、いったん気持ちが通じるようになるとこの世界でただ一人しかいない重要な存在になると言うことだ。
「君が私と気持ちが通じたならば、私の生活は日が昇るように楽しくなる。私は誰の足音とも違う足音を知るようになる。君の足音は音楽になって私を洞窟の外に呼び出すのだ。」
そして狐とは何の関係もない麦畑が、星の王子様の頭が金髪だと言うこのひとつの事実のせいで、黄金の光が漂う麦を見ると恋しくなり、麦畑を過ぎていく風の音が好きになると言った。
そのように、切々とした「関係」が今日の人間の村落には色あせてしまった。互いの利害と打算で利用しようとするのだ。本当に世知がない世の中だ。私とあなたの関係がなくなってしまったのだ。「私」は私で、「あなた」はあなたで終わってしまっているのだ。これと同じようにばらばらに散らばっているせいで私とあなたは寂しくなるしかないのだ。人間関係が回復されようとするならば「私」「あなた」の間に「と」が介在されなければならないのだ。そうしてこそ「私たち」になることができる。また、君の友達である狐の声を聞いてみようか。
「人々は、もはや何を知る時間さえなくなってしまった。すべて作っておいた品物を店で買えばいいから。だけど友達を売ってくれる商売人はいなから、人々は友達がなくなったのだ。友達を持ちたいなら私と気持ちを通じなさい」
気持ちが通じるという意味を理解した星の王子様、君は、君がそのバラの花のために送った時間のせいでバラの花があんなに大事になったことを知って、このように言った。
「私のバラ、ひとつだけでも数千、数万のバラの花に匹敵して余りある。それは私が水をやった花だから。私が覆いをかぶせて風を防いでやった花だから。私が虫を取ってやったのがこのバラの花だったから。そして、恨めしい話や自慢話や、あるいは上品にしていることまでも皆聞いてやったのがこの花だから。それが私のバラの花だから。」
そういいながら、自分と気持ちが通じたことに対しては永遠に自分が責任をとるのだと言った。
「君は君のバラに対して責任がある」
「人々は特急列車に乗るけれども、何を探しに行くのか知らない。」
そうだ。現代人は忙しく生きている。時間に追われ仕事に押されお金に追撃されながらも何がなんだかわからないで生きている。どこに来て、どこに行くのかも知らないで。疲労回復剤を飲みながら、ただ、忙しくだけ走りまわろうとする。ぜんぜん気持ちを通じることを知らない。だから、ある庭園に何千株の花を育てていても自分たちが探しているものをそこで見つけることができないでいるのだ。それはただ1本の花や、一口の水にでも見つけることができることなのに。君は、また、こんな風に言ったね。
「ただ、子供たちだけが自分が探しているものが何であるかを知っている。子供たちは布切れで作った人形ひとつのためにも時間を使い、それでその人形がとても大事なものになってしまい、だから誰かがそれを奪おうとしたら泣くんだ。」
星の王子様!
君は死を何でもないように考えていたね。この肉体は、ただの殻だと比喩しながら死を少しも恐れていなかったね。生也一片浮雲起、死也一片浮雲滅、人生は一片の雲が起きたことで、死は一片の雲がなくなることだと思っていた。そうだ。この宇宙の根源を行ったり来たりする人間には死のようなものは何でもないのだ。星の王子様。君の実態はただの殻のようなものではないのだ。それは古くなった服だから。
服が古くなったら新しい服に着替えるように私たちの肉体もそうなのだ。そして、君が住んでいた星の国に帰ろうとしたら、その体を持っていくには足手まといになる。
「それは抜け出てしまったただの殻のようなものだ。ただの抜け殻、それは悲しくない。見てみなさい、それははっきりとしないものだ。私は2つの星を見る。すべての星がさび付いた滑車がぶら下がった井戸になる。すべての星が私に水を飲ませてくれる、、
星の王子様!
今、あなたと気持ちが通じた後、私の周りにまつわる話を伝えたい。
「星の王子様」と言う本を始めて私に紹介してくれた友は、このひとつの事実だけでも生涯忘れられないありがたい友だ。君の対する度ごとに重ね重ね感謝しないではいられない。その友は私にひとつの運命のようなものに会わせてくれたのだから。
今まで読んだ本も少なくないが、君のように大きな感動を受けた本は多くなかった。だから、君が私には単純な本ではなく、ひとつの経典だと言っても少しも誇張ではないようだ。誰かが私に紙墨でできた1,2冊の本を選べと言ったら、「華厳経」と共に君をさっと選ぶだろう。
近くの友達に「星の王子様」をおそらく20冊を超えるぐらい買ってやった。君を好きだと言う人にはすぐに信頼感と親和力を感じる。彼は私の友になることができる。私が知っているフランスの神父一人と、ニュージーランドの老婦人一人は君を通して親しくなった外国人だ。
君を読んでも何の感興がないという人がいるが、そんな人は私とはサイズが合わない人として考える。ある人が私と親しくできるかは、君を読んだその反応で十分に推測することができるのだ。だから君は人の幅を計るひとつの道具なのだ。少なくとも私にとっては。
そして、君の声を聞くとき、横になって聞く、そうすれば君の声をより生々しく聞くことができるからだ。想像の翼を思いっきり広げて飛んでいくことができるのだ。君の声を聞けば聞くほど新しい。それは永遠な霊魂の母音だ。このように君が私をゆすぶる訳はどこにあるのか。それは君の霊魂があまりにも美しく善良で少し悲しいからだろうか。砂漠が美しいのは、どこかに泉がわいているからそうであるように。君の大事なバラと結び紐のない羊によろしく言ってくれ。君はいつも私と共にいる。(児童文学思想1971,11)


最後まで読んでいただきありがとうございます
つたない訳ですが、来年も自分の韓国語の勉強を兼ねて本を詠みたいと思っています。
来年もよろしくお願いします。
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法頂 無所有から

2012-12-30 22:59:39 | 韓で遊ぶ
26 霊魂の母音―星の王子様へ送る手紙

星の王子様
今外には枯葉が転がる音が聞こえます。窓に広がる午後の日差しが非常にやさしい。こんな時間、私は穢れのない澄んだあなたの声を聞きます。玉のようにきれいなあなたの目を見ます。一日に何回も日の暮れる光景を眺めているその目を恋しく思います。こんなこだまが聞こえてきます。
「僕と友達になろう。僕寂しいんだ。」
「僕、寂しいんだ、、、僕、寂しいんだ、、、僕、寂しいんだ、、、」
星の王子様
もはや私は無縁ではありません。同じ屋根の下に暮らす慣れ親しんだ家族です。今まであなたを20回を超えて読んだ私は、もはや今さらながら文章を読む必要もなくなりました。ページをぱらぱらとめくっただけでもあなたの世界に入っていくことができるからです。行間に書かれている事情までも、余白に隠れている声までも何もかもすべて読んで聞くことができるのです。
何年か前、だから1965年5月、あなたと出会ったことはひとつの邂逅でした。あなたを通してやっと人間関係の元になっている部分を認識することができ、世界と私の関係を数えることができたのです。その時まで見えなかった事物が見えるようになり、聞こえなかった声が聞こえるようになったのです。だから、あなたを通して私自身と出会ったのです。
その時から、私の貧しい本棚にはあなたの仲間がひとつ二つと並びだしました。その子達は乏しい私の枝に青い樹液を回してくれたのです。松風の音のように無心な世界に私を引き連れて行ったのです。そして私がすることは、すなわち私の存在することであることを透明に悟らせてくれました。時にはただ何となく窓を開けるときがある。夜の空を見て耳を傾ける。鈴のように聞こえてくる君の笑う声を聞くために。そして一人で微笑む。こんな私を傍でおかしく思うならば、あなたが教えてくれた通りに私をこんなふうに言ってください。
「星を見ていたら私はいつも笑っているなぁ、、」
星の王子様
あなたのおじさん(サンテグジュペリ)はこんな風に言っていました。


途中までです
眠くなりました
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今日も長い

2012-12-30 20:16:11 | 韓で遊ぶ
26霊魂の母音ー星の王子様に送る手紙

ですが、長くて終わらずアップは年越しになるかも、、、

法頂さんは星の王子さまが大好きだったのですね
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新しい年はどうなるのだろうか、、、

2012-12-29 16:26:20 | 日々の暮らし
今日は穏やかな天気でしたが
この冬は早くに寒くて雪が積もって
日本中、北海道内も大変です。
灯油は高くなるし。年末価格で野菜も高くて大根は1本298円もしました。少し前までは100円だったのに
自民党政権に変わって本当に暮らしがよくなるのでしょうか。
おかしくしたのは民主党のよううに言われているけど、根本を作ったのが自民党の長期政権のひずみだったのでしょう
国の借金は増えて未来の国民に付けを回して、手に負えない原発も解決は未来に回して一旦は使うのかしら、、
いったいこの国の将来はどうなるのか心配な年末です
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法頂 無所有から

2012-12-29 16:19:43 | 韓で遊ぶ
25 純粋な矛盾

6月をバラの季節だと言ったとか。それはそうと、いくらか前に近くにある保育園に立ち寄ったら、花の枝ごとに6月に向かって伸びをしていた。何株かいただいてきてうちの庭に植えておいた。単調だった庭に香りが回った。朝、夕にと水をやりながらモーツアルトの清冽のようなものが襟に染みてきた。山の陰がおりる時のように静かな喜びだった。
今日の朝、開花!宇宙の秩序が開いたのだ。生命の神秘の前に立って胸が走ろうとした。一人で見るのがもったいない。いつかたたんで置いた記憶が広がっていった。
出版の仕事でソウルに来て、安国洞の禅学院にしばらく滞在していた時だった。ある日の朝、電話がかかってきた。三清洞にいる僧からすぐに来るようにと言うものだった。何事かと聞くと、来て見ればわかるから早く来いと言うことだった。それで、あたふたと直行。そこの花壇いっぱいにケシが咲いていた。
それは驚きだった。それはひとつの発見だった。花が美しいものだということを、その時まで本当にわからないでいたのだった。近くに立つのさえ注意深くして、不憫なほどに軟弱な花びら、霧が降りたように朦朧とした葉、そして幻想的な茎が私を完全にとりこにした。美しさとは震えであり喜びである事実を実感した。
この時から、誰かが何の花が一番美しいかと、たまに乙女のような質問をしてくると、言下にケシの花だと答える。この答えのように明らかで自信満々な確答はないだろう。それは切々とした体験だったからだ。よりによって麻薬の花かと責められたら、美しさには魔力が伴うものだと応酬する。
こんな話を家のバラの花が聞いたら少し寂しい思いをするかもしれないが、それはその年の夏の朝、やっと探し出した美しさだったのだ。だからと言っても、私には今日の朝開いたバラの花が、多くの花の中で一だといわざるを得ない。花屋のようなところで咲いている、そんな花とは根本的に違うのだ。
この花は私の手入れと心がしみているからだ。サンテグジュペリの表現を借りると、私が、私のバラの花のために過ごした時間のせいで私のバラの花がそのように大切になるのだ。それは私が水をやって育てた花だから。私が虫を取ってやったのがそのバラの花だから。
土の中に埋もれた幹から色と香りを持った花が咲いて出てくることは一大事件でないわけがない。こんな事件こそが、「純粋な矛盾」こそが、私の王国では号外になっても余りあることだ。(京郷新聞1976,


今年も押し詰まってまいりました。
よいお年をお迎えください
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法頂 無所有より

2012-12-28 20:23:59 | 韓で遊ぶ
24 沈黙の意義

現代は本当に言葉の多い時代だ。食べて吐き出すことが口の機能ではあるが、今日の口は不必要な言葉を吐き出そうと、いつの時代よりも多くの仕事をしているようだ。以前は、人同士が出会ったときに言葉を交わしたのだが、電子媒体とか言うのが出てきてからは、一人でいてもいくらでもしゃべることができるようになった。民主共和国である大韓民国では、流言飛語や緊急措置に違反しないならば、そして治めている人たちの政策から抜け出していなければ、その言葉の内容が、お世辞であろうと、嘘であろうと、あるいは脅迫であろうが勝手にしゃべることができる。いわば、言論の自由が保障されている風土なのだ。
ところが、言葉が多いと使う言葉が特にないということが私たちの経験だ。一日一日私たち自身の口から吐き出される言葉を一人でいる時間の中で見ると大部分がつまらない騒音である。人が言わなければならない言葉というものは、必要な言葉とか、「本当の言葉」でなければならないのだが、不必要な言葉と嘘が大半であることを見ると憂鬱だ。つまらない言葉を言うと、中にある光が少しずつ抜け出してしまっているようで、言葉の終わりにいつも寂しい感じになる。
いい友達というのは何を持って見分けることができるだろうかを、ときどき考えるが、一番目、一緒にいる時間に対する意識によって見分けることができるようだ。一緒にいる時間が退屈に感じるならば、そうではないと言うことだ。もう、そんな時間になったの?というぐらい、一緒にいる時間が早く流れて行ったならば、それは親密な間であるということだ。なぜならば、いい友達とは、時間と空間の外で暮らすからだ。私たちが祈りをあげるならば、もっとよくわかることができる。祈りが純粋にうまくいく場合は、時空の中で生きている日常の私たちであるが、明らかに時空の外にいるようになり、そうできないときはしょっちゅう時間を意識するようになる。時間と空間を意識するならばそれはうわべだけの祈りなのだ。
私たちはまた、何を持って友達を見分けることができるだろうか。そうだ!言葉がなくても、退屈だとか、味気ないとかそんな仲はいい友達ではない。口を広げて持っているものを出さなくても豊かで清らかな庭を互いが頻繁に行ったり来りできることだ。声が外に出ない分、玉のように曇りのない言葉が沈黙の中で終わりなく来ては行く。そんな境地には時間と空間が至ることはできない。
言葉というものはいつも誤解を伴うことになる。同じ概念を持っている言葉を持ってしても意思疎通がうまくいかないことは、互いが言葉の後ろに隠れている意味を知らないでいるからだ。幼い子供の下手な言葉をすぐに聞き分けることのできるのは、言葉よりも意味に耳を傾けるからだ。このように愛は沈黙の中にできあがるのだ。
事実、沈黙を背景にしない言葉は騒音に他ならない。考えなくぺらぺらとむやみににじむ言葉を消して見ると、私たちは言葉と騒音の限界を知ることができる。今日、私たちの口から吐き出される言葉が、地位の高下を問わず、ややもすると荒く野卑になっていく現象は、それだけ内面が貧しいという証拠であるということだ。
よって、性急な現代人たちは自分の言語の使い方を知らない。政治権力者が、タレントが、歌手が、コメディアンが吐き出す言葉を何の抵抗もなく、そのまま真似をしているのだ。だから頭の中が空っぽになっていく。自分の思惟が奪われている。
修道者に寡黙とか沈黙が美徳だと思われることも、正にその点に問題があるからだ。黙想を通して私たちの中に溜まっている言葉を初めて聞く。内面から聞こえてくるその音は、いまだ編集されない聖書なのだ。私たちが聖書を読む本質的な意味はまだ、活字化されていない、その言葉までもよく理解して、それと同じ暮らしのためではなかろうか。
我有一巻経
不因紙墨成
展開無一字
常放大光明
人それぞれに一冊の経典がある
それは紙や活字で成る物ではない
広げて見ても一つの文字もない
いつもこうこうと光を発している
仏教にある言葉だ。日常の私たちは目に見え、耳に聞こえ、手につかめるものとしてだけどんな事物かを認識しようとする。しかし、実情はあの沈黙のように、見えも、聞こえも、つかむこともないところにあるのだ。自己中心的な固定観念から抜け出し虚心坦懐としたその心から大きな光明が発せられるいう言葉だ。
座禅をする禅院には禅室の内外に「黙言」と書いた紙がはってある。話をしないということ。話をすると互いが精進の妨害となるためだ。集団生活をして見ると時には是か非か分けることがある。
是非を問いただして見ると、集中することができない。禅は純粋な集中でありと同時に徹底した自己凝視である。すべての是非と分別妄想を離れたときにだけ三昧の境地に入ることができるのだ。言葉は意思疎通の口実ではあるが、時には、同時に不必要な雑音の逆機能もしている。口是禍門、口を指して禍の門だということも、その逆機能面を指摘するものだ。ある禅僧たちは3年、10年、ずっと無言を守っている。彼が黙言中である時は、大衆も彼には声をかけない。
修道者たちがこれと同じように沈黙することは、沈黙それ自体に意味があるからではなく、沈黙という、ろ過過程を通してやっと「本当の言葉」だけを話すようになるためである。言葉がしゃべれない人と黙言者の違う点は正にここにある。
カルリル ジブランは私たちがしなければならない言葉は「声の中の声で、耳の中の耳に」話す言葉だと言った。事実、言語の極致は言葉よりも沈黙にあるようだ。あまりにも感激が強いときには私たちは言葉を失う。
しかし、人である私たちは、言うことは言わなければならない。ところが、口を開いて正に話をしなければならないと場合にも沈黙を固守する人がいる。それは美徳ではなく卑怯な回避だ。そのような沈黙は時には犯罪の性質を帯びる。正しいか正しくないか分けて見なければならない立場の人の沈黙は卑怯な沈黙だ。卑怯な沈黙が私たちの時代をよこしまにする。沈黙の意味は、使いようのない言葉をしない代わりに堂々と本当の言葉をするためなのであり、卑怯な沈黙を固守するためではないのだ。何も気にかけるものがない人だけが堂々と話をすることができる。堂々とした言葉が、ばらばらになった人間を結合させ明るい道を貫くことができるのだ。修道者が沈黙を修行する、その意味も正にここにあるのだ。(サモク1974,9)


原文はこちら
結構誤字、脱字あり、
それにしても難しい
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法頂 無所有から

2012-12-27 22:43:51 | 韓で遊ぶ
23 出世した山

山で暮らす人が山の香水を持っているとしたら、よく知らない人達は笑うかも知れない。しかし、山に暮らす僧は誰よりも山から出る濃い香水を持っている。この山で暮らしながら、過ぎてきたあの山を恋しく思ったり、話を聞いただけでまだ行ったこともない山を思ったりするのだ。
辞書では山を「陸地の表面が周囲の土地よりかなり高くそびえている部分」と解いている。このような山の概念を見て私たちは微笑む。それは形式論理の答案用紙とかに書くかも知れない表情のない抽象的な山であるからだ。
山には高くそびえる峰だけではなく深い谷もある。木と岩と小川の水と、あらゆる鳥であり、獣、霧、雲、風、こだま、そして崩れていく古寺、このほかにも無数の物が私たちの想念と共にひとつの山をなしているのだ。
山が好きで山に暮らすという言葉があるけれども、それは嘘ではない。山が嫌いなら山に住むはずがない。しかし、一度、山に入って暮らすと、その山を気軽に離れることができない愛着が生じる。
山は四季を置いていつも新しい。その中でも夏が過ぎた秋の山は永遠な男である私たちをときめかせてくれる。色づく葉、山葡萄とサルナシとアケビが森から手招きしている。だから仕事が終わった秋の日の午後には、禅院であれ、講院であれ寺の中はガランとして誰もいなくなる。皆、森の中に入っていって獣のようにツルにぶら下がっているせいだ。
ばらばらと栗が落ちる。この谷、あの谷から何かしゃべる声が聞こえてきて耳なれた音声のようだ。そのように親しげに聞こえてくる。こんなことをしているから山で暮らす人には青く新鮮な匂いがするのだ。
以前、修道僧は住んでいた山が単調になると道伴(共に修行をする友)の傍を離れもっと深い山を訪ねて、一人で出て行った。崖の下に小さな庵を建てて何も持たないで、自然を友にして道心を磨いた。
白い雲が重なった中に小さな庵がある
座って寝て散歩することで自然にのんびりと
冷たい小川の水、般若を歌って
澄んだ風、月と共に全身に満ちる
こんな景色に、高麗末、ナオン禅師だけでなく、山を知って道を知っている人ならば誰もが享受できる仏門の味なのだ。深い山だから一日中、人の影はなく、一人で庵に座って万事休んでしまうのだ。3,4尺の高さの庵に一人で座って、万事休んでしまうのだ。3,4尺の枝折り戸を半分くらい押して閉じておいて、疲れたら寝て、おなかがすいたら食べて、悩みなく過ごしていることは単純な隠遁を楽しむためではなかった。時期が来たら獅子吼を吐き出すための(説法をするための)沈黙の練習なのだ。
森と鳥がいて、おいしい水の泉や、池がある私たちの茶来軒であるが、蒸し暑い夏には、ふと山のことを考える。その時ごとに小川の水の音が恋しくて心が病む。さっと訪ねていく山がなく、翼がたたまれたしまった。最近の山では、その青くて新鮮な匂いをかぐことができない。観光韓国の旗の下、その奥深い雰囲気が消えてきている。だから志のある修道僧たちは名山大刹を離れて名前のない山野へ埋もれる。都市の公害による鳥がどこかへ消えてしまったように。痛ましいことだ。本当に痛ましいことだ。(東亜日報1973,7,26)

今日も難しかった
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法頂 無所有から

2012-12-26 21:11:25 | 韓で遊ぶ
22 錆が鉄を食べる

「10尋の水の中は知ることができても、一尋の人の心の中はわからない。」(人の心を知るのは難しいという意味)という諺がある。人の心のように不可思議なものは他にあるだろうか。寛大であるときはすべての世の中を残らず受け入れても、一度こじれると針ひとつ挿す所がないのが心だから。だから、歌手が今日も「私の心、私もわからない、、、」と私たちのこととを代弁する。自分の心を自分がわからないとは。見方を変えると無責任な言葉だ。しかし、これは平凡ながらも間違いのない真理だ。
人々は仕事場で多くの人々に対することになる。ある人とは目が合うだけでその日のやりがいを感じるようになり、ある人とは影を見ただけでも嫌気がさす場合がある。限られた職場での対人関係のように重要なものもないだろう。わからないことだが、なじんだ職場をやめる場合、その原因の中にいくらかはその対人関係もあるのではないだろうか。
どうして同じ人間なのに、ある人はかわいくて、ある人はかわいくないのか。宗教的な側面から見ると前世の事情に縛られているというかもしれないが、常識の世界で見ても何かそんなきっかけがあるようだ。原因のない結果はないものだから。
だからといって職場が「一本橋」になってはだめだ。まずは同じ職場で会った因縁に感謝を感じなければならないようだ。この世の中には30数億にもなるおびただしい数の人々が暮らしている。その中で、東洋、またその中でも5000万を越える韓半島、そして、分断された南側、ソウルだけだとしても600万を越える人々の中で同じ職場に勤めているということは本当に極極まれな比率なのだ。このようなことを考えた時、出会った因縁にまず感謝しないではいられない。
気障りなことがあっても、自分の心を、自分が自ら思いなおすしかない。他人を憎んだならば相手が憎くなるのではなく自分の心が憎くなるから。気障りだと思ったり、憎いという思いを持って暮らしたら、その被害者は誰でもない、正に私自身なのだ。一日一日をそうやって暮らしてしまったら自分の人生自体が汚れてしまう。
だから、対人関係を通して私たちは人生を学び、自分自身を磨くのだ。改心、すなわち思い直すということで自分の人生の意味を深化させるということなのだ。結ばれるということはいつか解けなければいけない。今生で解けなければそのいつかまで持続できるのかわからないこと。だから職場はいい機会であるだけでなく新和力を育てるよりどころでありうる。仕事の偉大性は何よりも人々を結合させる点だ。仕事を通して私たちは結ばれることができるということだ。憎いと思うことも自分の心で、かわいいと思うことも自分の心によるところだ。
「華厳経」で一切唯心造ということも正にこの意味だ。そのどんな修道や、修養をしたとしても、この心を離れなければありえない。それは心がすべてのことの根本であるためだ。「法句経」にはこんな比喩も出てくる。「錆は鉄から出てくるものだが、だんだんその鉄を食べてしまう。」これと同じようにこの心根が表立たないならば、その人自身がさびてしまうという意味だ。
私たちが完全な人になろうとしたら、自分の心を自分が使えるようになってこそできることだ。それは偶然にできることではなく日常的な対人関係を通してだけ可能なことだ。なぜ私たちが互いに憎悪しなければならないのか。私たちは同じ舟に乗せられ同じ方向に航海する旅人なのに、、、(心1973,7)
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法頂 無所有から

2012-12-26 10:40:14 | 韓で遊ぶ
21人形と人間

私の考えの糸口はしばしばバスの中で完成する。通勤時間の混雑する市内バスの中で、私は暮らしの密度のようなものを実感する。禅室とか木陰でする思索は静かではあるが、ある固定観念に縛られて空虚で無機的になりやすく、走っているバスの中では生きて動いているという生動間を感じることができる。
終点に向かってずっと走っているバスは、その中に乗せていく私たちに、人生の意味を付与するところが少なくない。生きるということは一種の燃焼であり、自己消耗だという表現に共感が行く。そして一緒に乗っていく人々の、その善良な目つきが、それぞれに何かの考えに浸って無心に窓の外を眺めている、だから少しさびしげに見えるその目つきが私自身を清らかに照らしているのだ。その人々の目は連帯感を持っている。この時代と社会で喜びと痛みを共にしているというそんな連帯感を。私は少し前からいくら忙しいことがあってもタクシーには乗らない。乗り方を知らないからではなく、乗りたくないからだ。懐具合もそうさせるのだが。どんどん上がる物価に対して自分なりに抵抗するためだ。そして、より重要な理由はタクシーの中では連帯感が感じられないという点にある。お金をもっと出したなら、楽に迅速に自分を運んでくれるけれど。その時ごとに隣人との断絶をいつも感じる。
混雑した車の中で時々足を踏まれることも、上着の紐が引っ張られることもあるけれど、そんな中で一層、生命の活気のようなものを感じることができ、耐えるに値するのだ。そしてバスに乗ると運転手と乗客の間の関係を通して、今さらながら共同運命体を感じるようになる。
彼がボーっとしていたり、危険な運転をしたならば、それによる被害は私たち皆のものだ。だから、彼の技術と苦労を認めながらも車をちゃんと動かして行くか、当初の約束通りに路線を守りながら行くのかにも無関心ではいられないのだ。頭の上にギャーギャーと吐き出す流行歌と、笑えない漫談が私たちをひどく疲れさせても、運転手と車掌が好きなものだから、我慢して耐えるしかない。終わりのない忍耐を身に付けた私たち小市民の身の上だから。
人を、土をこねて作ったという宗教的な神話はいろいろと象徴的な意味がありそうだ。古代インド人も私たちの身体の構成要素に、土と水と火と風を挙げていたが、金属やプラスチックを使わないで土で作ったというところは、それだけの理由があることだ。
私たちに、大地は永遠の母性。土で食べ物を育て、その上に家を建てる。その上を直接歩きながら人生の生態。そして土は私たちの生命の乳腺であるだけでなく私たちに多くのことを教えてくれる。種をまけば芽が出て、葉と枝が広がり、そこに花と実がなる。生命の発芽の現象を通して不可視的である領域にも目を開けさせる。そのため、土の近くにいれば自然に土の得を学び、純朴で謙虚になり、信じて待つことを知る。土には嘘がなく、無秩序もありえない。
セメントと鉄筋とアスファルトには生命が芽生えることができない。雨が降る自然の音さえ都市は拒否する。しかし、土は雨を、そしてその音を受け入れるのだ。土に降る雨の音を聞いていると、私たちの心は故郷に帰っていくように清らかになり穏やかになる。
どこが楽しいのか。靴と靴下を脱いで掘り起こした畑の土を素足で感じて見なさい。そして土の香りをかいで見なさい。それは躍動する生の喜びになる。しかし、しかし、いい暮らしをしようという口実の元に産業化と都市化で上に駆け上っている今日の文明は、ややもすると土を遠ざけようとするところに矛盾があるのだ。生命の源である大地を遠ざけて、穀物を作る善良な農民を踏みつけて、どうして、いい暮らしをすることができるのか。生きるということは抽象的な観念ではなく、具体的な現象。よって、どこに根を下ろしているかによって暮らしの状態がいろいろに変わるのだ。
最近の食糧難は尋常なことではないようだ。それが世界的な現象であり、その展望は決して明るいものではないという。その理由は増えていく人口にだけあるのではない。土を遠ざけた報いによるものに間違いない。土を離れた人間に実情が何なのかを警告する知らせではないか。もしかしたら幸運なことかもしれない。わからなくなった人類に、土を見捨てた私たちに、土の恩恵を重ねて認識させる契機になったなら。現代人たちは以前の人間に比べて知っていることが本当に多い。自分の専攻分野でなくても、新聞、雑誌と放送などの大量媒体を通して多くのことを知る。だから、賢くて営利的である。利害と打算に敏感で外側と内が同じではない。いつもすばしっこいだけでな、性急で辛抱強さが足りない現代人に、根気とか底力、あるいは信義のようなものは、はじめから期待することができない。波に洗われた小石のように磨り減るだけ磨り減ってつるつるしている。
ある禅師の畑の開墾の話を思い出して見たら、愚かさと、知恵に満ちているということが決して無縁ではないということを知ることができる。ヘウォル禅師は寺の横に畑を開墾した。使い道のない捨てられた土地を見て、畑を作ったらと思った。ちょうど凶年で村の人々が生きていくのが苦しくなっているのを見て、その人たちを呼んで仕事をさせた。
1ヶ月、2ヶ月かかっても畑は簡単にはできなかった。見ている人たちは、その労賃でもっと多くの畑を買うことができるからと、やめるように言ったがやめなかった。とうとう彼は狂った老人だと笑われるようになった。禅師は聞かなかった振りをして夜があけると仕事場に出て人夫たちと共に仕事をした。これと同じようにして何百坪の畑を作った。しかし、そこにかかった労賃は出来上がった畑の時価よりも何倍もかかった。しかし、禅師は今までなかった畑を新しく作ったことを喜んだ。彼は世俗的な目で見る時、明らかに算術を知らない愚かな人だった。しかしその愚かさを持って凶年に多くの人たちが飢えることがないようにできたのだった。そのような事情がまつわる畑として寺ではその畑を単純な土地ではなく、今日でも士風の象徴のように大切に思っている。
一様に小ざかしく磨り減っていく世の中だから、そのように愚かで馬鹿正直なことが私たちを暖かく包んでくれるのだ。大愚は大地に通じるという言葉が決して空言ではないようだ。どの宗派ということでなく、今日の宗教が宗教本来の機能を遂行することができずにいる要因は一言で言うのが難しいように複合性を帯びている。昔の聖人たちの教えは一様に簡単で明瞭だった。聞けば誰でも皆理解できるような内容だった。しかし、学者(この中には勿論、神学者も含まなければならない)という人々が、飛びでてくる必要のない接続詞と修飾語で言葉の筋を割って分けて、明瞭な真理を難しく作ってしまった。どう生きなければならないかということに対しする自分自身の問題は隠しておいたまま、埋めてしまった言葉のグズをせせこましくいじくって、ああだこうだと問い詰めようとする。生動していた言動はこうやって知識のウールの中に閉じ込められてしまった。これと同じ学問とか知識を私は信用したくない。現代人は自分の行動はなく、他人の悪口ばかりを言いながら生きようとするところに盲点があるのだ。思索が伴わない知識を、行動がない知識人をどこで使うのだろうか。いくら、底が露見した世の中だといっても、真理を愛して実現しようとする知識人まで曲学阿世(学問の真理をまげて世間や権力者に気に入られるような言動をすること)や卑怯な沈黙で身を処そうとするとは、知恵のあることではなく真理に対する裏切りである。
無学という言葉がある。まったく学ぶことがないとか学ばなかったという意味ではない。学問に対する無用論でもない。多く学びながらも学んだ跡がないことを指しているのだ。学問とか知識を鼻にかけずに知識過剰から来る観念性を警戒する意味で出てくる言葉である。知識とか情報に縛られないで自由に溌剌とした生き方が大切なのだという言葉だ。いろいろな知識から抽出された真理に対する信念が日常化できないことには知識本来の機能を遂行することはできない。知識が人格と断絶されたときその知識人はいかさまであり偽善者になってしまうのだ。
責任を取ることを知っているのは人間だけだ。この時代の実情を知らない振りをしようとする無関心は卑怯な回避であり一種の犯罪だ。愛するということは共に分け合って担うということだ。私たちには私たちの隣人と喜びと痛みに対して分け合う責務があるのだ。私たちは人形でなく生きて動く人間だ。私たちは引かれていく獣でなく、信念を持って堂々と生きていく人間なのだ。(現代人1974,7)


すごく難しい
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できない

2012-12-25 21:52:32 | 韓で遊ぶ
今日も長くて終わらなかった、、、
途中までですが、、、
眠くなりました
また明日お願いします

21人形と人間

私の考えの糸口はしばしばバスの中で完成する。通勤時間の混雑する市内バスの中で私は暮らしの密度のようなものを実感する。禅室とか木陰でする思索は静かではあるが、ある固定観念に縛られて空虚で無機的になりやすく、走っているバスの中では生きて動いているという生動間を感じることができる。
終点に向かってずっと走っているバスはその中に乗せていく私たちに人生の意味を付与するところが少なくない。生きるということは一種の燃焼であり、自己消耗だという表現に共感が行く。そして一緒に乗っていく人々のその善良な目つきが、それぞれに何かの考えに浸って無心に窓の外を眺めている、だから少しさびしげに見えるその目つきが私自身を清らかに照らしているのだ。その人々の目は連帯感を持っている。この時代と社会で喜びと痛みをともにしているというそんな連帯感を。私は少し前からいくら忙しいことがあってもタクシーには乗らない。乗り方を知らないからではなく、乗りたくないからだ。懐具合もそうさせるのだが。どんどん上がる物価に対して自分なりに抵抗するためだ。そして、より重要な理由はタクシーの中では連帯感が感じられないという点にある。お金をもっと出したなら、楽に迅速に自分を運んでくれるけれど。その時ごとに隣人との断絶をいつも感じる。
混雑した車の中で時々足を踏まれることも、上着の紐が引っ張られることもあるけれど、そんな中で一層生命の活気のようなものを感じることができ、耐えるに値するのだ。そしてバスに乗ると運転手と乗客の間の関係を通して今さらながら共同運命体を感じるようになる。
彼がボーっとしていたり、危険な運転をしたならば、それによる被害は私たち皆のものだ。だから、彼の技術と苦労を認めながらも車をちゃんと動かして行くか、当初の約束通りに路線を守りながら行くのかにも無関心ではいられないのだ。頭の上でギャーギャーと吐き出す流行歌と笑えない漫談が私たちをひどく疲れさせても運転手と車掌が好きなものだから、我慢して耐えるしかない。終わりのない忍耐を身に付けた私たち小市民の身の上だから。
人を土をこねて作ったという宗教的な神話はいろいろと象徴的な意味がありそうだ。古代インド人も私たちの身体の構成要素を、土と水と火と風を挙げていたが、金属やプラスチックを使わないで土で作ったというところはそれだけの理由があることだ。
私たちに、大地は永遠の母性。土から食べ物を育てその上に家を建てる。その上を直接歩きながら人生の生態。そして土は私たちの生命の乳腺であるだけでなく私たちに多くのことを教えてくれる。種をまけば芽が出て、葉と枝が広がりそこに花と実がなる。生命の発芽の現象を通して不可視的である領域にも目を開けさせる。そのため、土の近くにいれば自然に土の得を学び純朴で謙虚になり、信じて待つことを知る。土には嘘がなく、無秩序もありえない。
セメントと鉄筋とアスファルトには生命が芽生えることができない。雨が降る自然の音さえ都市は拒否する。しかし、土は雨を、そしてその音を受け入れるのだ。土に降る雨の音を聞いていると、私たちの心は故郷に帰っていくように清らかになり穏やかになる。
どこが楽しいのか。靴と靴下を脱いで掘り起こした畑の土を素足で感じて見なさい。そして土の香りをかいで見なさい。それは躍動する生の喜びになる。しかし、しかし、いい暮らしをしようという口実の元に産業化と都市化で上に駆け上っている今日の文明はややもすると土を遠ざけようとするところに矛盾があるのだ。生命の源である大地を遠ざけて、穀物を作る善良な農民を踏みつけてどうして、いい暮らしをすることができるのか。生きるということは抽象的な観念ではなく、具体的な現象。よって、どこに根を下ろしているかによって暮らしの状態がいろいろに変わるのだ。
最近の食糧難は尋常なことではないようだ。それが世界的な現象であり、その展望は決して明るいものではないという。その理由は増えていく人口にだけあるのではない。土を遠ざけた報いによるものに間違いない。土を離れた人間に実情が何なのかを警告している知らせではないか。もしかしたら幸運なことかもしれない。わからなくなった人類に、土を見捨てた私たちに、土の恩恵を重ねて認識させる契機になったなら。現代人たちは以前の人間に比べて知っていることが本当に多い。自分の専攻分野でなくても、新聞、雑誌と放送などの大量媒体を通して多くのことを知る。だから、賢くて営利的である。利害と打算に敏感で外側と内が同じではない。いつもすばしっこいだけでなく性急で辛抱強さが足りない現代人に、根気とか底力、あるいは信義のようなものははじめから期待することができない。波に洗われた小石のように磨り減るだけ磨り減ってつるつるしている。
ある禅師の畑の開墾の話を思い出して見たら愚かさと、知恵に満ちているということが決して無縁ではないということを知ることができる。ヘウォル禅師は寺の横に畑を開墾した。使い道のない捨てられた土地を見て、畑を作ったらと思った。ちょうど凶年で村の人々が生きていくのが苦しくなっているのを見て、その人たちを呼んで仕事をさせた。
1ヶ月、2ヶ月
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