泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

ペロー童話集

2024-05-11 18:11:31 | 読書
 この本は、花巻の林風舎で買い求めたものです。
 林風舎は、宮沢賢治の親戚の方が営まれているお店で駅のすぐ近くにあります。私も行きました。
 一階は土産物中心で、絵葉書や衣類や複製原稿やしおりや工芸品などが販売されています。私は絵葉書と「デクノボーこけし」を買いました。
 そのとき店員さんと少し雑談しました。二階がカフェで、ちょうどピアノの生演奏もしているのでぜひどうぞと言われ、二階へ。賢治の肖像画の近くで、ピアノの演奏に体を酔わせながら、ロールケーキとコーヒーをいただく、という貴重な時間を過ごしました。
 会計後、書籍もあったので見ました。宮沢賢治の記念館と似たような並びでしたが、この「ペロー童話集」は記念館にはなく、目が留まりました。
 で買うとき、店員さんに聞いてみました。「なんでこの本が置いてあるのですか?」と。
「天沢退二郎さんだからです!」
 と言われたのですが、私はすぐ合点せず、解説を待ちました。
「宮沢賢治研究の大家のお一人です」とのこと。それでああ、と納得しました。この本の訳者が天沢さんなのです。
 帰りの新幹線で早速読み始めました。
「眠りの森の美女」「赤頭巾ちゃん」「長靴をはいた猫」「サンドリヨン」「おやゆび小僧」など。
 どこかで読んだことがある、だけど少しずつ違う。
 この本は1697年にフランスで刊行されたものです。グリム童話が出るのは、そのほぼ100年後のこと。
 グリム童話は、ずいぶん前ですが読みました。その微かな記憶が、「ん?」となったようです。
 一言で言えば残酷だなあ(グリムもかなりエグいですが)。でもこのお話集には「教訓」が付いています。作者のおせっかいというか。
「教訓」あってのお話なので、「お話」と割り切ることもできます。
 例えば赤頭巾ちゃんは、誰にでもいい顔をしたために、狼に食べられてしまいます。いい人、誰にでも可愛い人では、殺されることもあるよ、というお話。
 それに「妖精」が至る所に現れるのも印象的です。「妖精」は、人の未来が見えるようです。
「人喰い鬼」も出てきます。鬼畜は、今も昔も変わらない。
「サンドリヨン」は、「シンデレラ」の原形。どんなに恵まれない環境にいても、その人の気持ちさえ折れなければ、チャンスは巡ってくる、という感じでしょうか。
「おやゆび小僧」は、飢饉で苦しむ木こりの両親によって、子供三人が森に捨てられますが、一番下の一番小さくて馬鹿にされていた子が、上の二人だけでなく最後には家族をも救うというお話。
 宮沢賢治は「グスコーブドリの伝記」で、飢えに苦しむ木こりの両親が家にわずかな食料と子供を残し、銘々に森に入って餓死する話を書いています。
 賢治はグリムやアンデルセンを愛読しており、明らかに意図的な「反=グリム」童話を作っていました。これは天沢さんの指摘で、なるほどそういうつながりか、とわかりました。
「ペロー童話集」自体も、あちらこちらで語り継がれていたお話を集めたもの。お話は語り伝えられて、少しずつ変容していく。
 花巻からこちらに戻ってから、賢治が作詞作曲の「星めぐりの歌」をよく聞いています。というか、エンドレスで頭に流れているというか。
 アイフォンで聞いていますが、実に様々な歌い方、編曲がされており、そのそれぞれが甲乙つけ難い良さを持っています。
「永久の未完成これ完成である」の具体の一つでしょう。
 あらゆる作品には、いわば「元ネタ」が存在しています。
 濃密なつながりの中でしか、新しいものは生まれない。
 新しいものが、次の新しいものを準備する。
 作品はみんなのものです。「透明に透き通って」いなければ、接した人が愛を込めることができない。
 愛が吹き出すこともない。
「お話」の原形たちを読みながら、そんなことを思いました。

 シャルル・ペロー 作/天沢退二郎 訳/岩波少年文庫/2003

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あやとりの記

2024-05-11 13:21:36 | 読書
 この本は、昨年熊本に行ったとき買い求めたものです。
 この本の中身をどう伝えたらいいのか、しばし想いに耽りました。
 適当な言葉を私は持っていないというか、どう言っても嘘になりそうだ、というか。
 なので著者の「あとがき」から引用します。
「九州の南の方を舞台としていますが、高速道路に副(そ)う情けない都市のあそこここにも立って、彼岸(むこう)をみつめ、”時間よ戻れ”と呪文を唱えたのです。
 どこもかしこもコンクリートで塗り固めた、近代建築の間や、谷間の跡などから、昔の時間が美しい水のように流れて来て、あのひとたちの世界が、現代の景色を透けさせながらあらわれました」
 物語の中で視点となっている「みっちん」は、5〜6歳の女の子でしょうか。著者の姿と思われます。
 みっちんの祖母と思われる「おもかさま」は、目が見えず、魂が遠くに行ってしまいがちな人。おもかさまとみっちんは仲良しです。
「萩麿」という名の馬がやってくる。萩麿を使って運送業をしているのは「仙造やん」。仙造やんは足が一本しかありません。
 仙造やんと親しくしているのは「岩殿(いわどん)」。岩殿は、火葬場の隠亡。隠亡というのは死者の火葬や埋葬を業とする人のこと。江戸時代の身分制では差別されていました。
 死人さんは燃えると温かくなる。岩殿も、思慮深く温かい人。その人柄に引き寄せられるように、二人の若者が慕っています。
 一人は「犬の仔せっちゃん」。彼女は身に纏ってるぼろの中に、犬の仔を隠している。せっちゃんは見送りの少ない死人さんをいつも気にして、花を摘んで持って来てくれる。
 もう一人は「ヒロム兄やん」。彼は巨人で片目が開かない。力持ちでちんどん屋の幟(のぼり)を持って歩いたりしている。非常に上等な挨拶を欠かさない反面、自分のことを「みみず」だと思い、銭を稼ぐのが下手な自分を嘆いている。
 みっちんの家に物乞いの親子が現れ、みっちんは小銭をその子に差し出すのですが、その子は受け取らず、小銭が雪に落ちてしまう、という場面も描かれていたりします。
 せっちゃんは、どこでもらってきたのか、子を産みます。海岸の洞穴の中で。そこには海神さまがいらっしゃると言われており、一人で産んだのではなく、海神さまに助けられたのだと言って。
 せっちゃんとヒロム兄やんには親がいません。せっちゃんは岩殿をはじめとした支援者たちによって命をつないでいます。が、いじめられることもあります。そのときの方が多いのかもしれません。
 せっちゃんを枝と言葉で痛めつけるガキ大将に向かって、みっちんは赤い小さな火の球みたいになって言ったのでした。
「神さんの罰のあたるぞう!」
 彼らは「ものいうな」を捨て台詞にしてぺっと唾を吐き、後退りしながら行ってしまいました。
「あのひとたち」は「すこし神さまになりかけて」いる人たち。
 みっちんは「魂だけになりたい」憧れを持ち、「あの衆(し)たち」や「位の美しか衆」をいつもどこかに普通に感じて共存している。
 あの衆たちは、コンクリートによって追い出されてしまったのでしょうか。
 でも、この「あやとりの記」に浸ると、現代の景色が透けてしまう。その奥に隠されてしまった昔の時間が美しい水のように流れて来る。
 何をどう読み取って、今に生かしていけるのか。それは読んだ人次第なのでしょう。
 そのままの復活や再生ではなく、現代ともあやとりをしていくものとして。
 宮沢賢治にとって岩手がイーハトーブだったように、石牟礼道子にとっては南九州がイーハトーブだった。
 ただ、石牟礼さんは、イーハトーブが破壊させられるのを見てしまった。理不尽な現代化を。
 許せなかった。どんな理屈にも屈せず、徹底的に人の側に立った。
 その人から湧き出す美しい水がおいしくない訳がありません。
 物語は、魂の飢えを満たすものだと感じています。

 石牟礼道子 作/福音館文庫/2009
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖さまの草の邑

2024-03-30 14:24:59 | 読書
 石牟礼道子さんの詩集。
 タイトルは、「おやさまのくさのむら」と読みます。
 祖さまというのは、連綿と続いてきた命そのもののことかもしれません。
 生き物のそれぞれが音を持っている。
 耳を傾けることのできる人は、自然の交響曲を楽しむことができる。
 この辺りの描写は、ミヒャエル・エンデの「モモ」(岩波書店)を思い出しました。
 マイスター・ホラに連れられて、モモは「時間の花」を見ます。そこでは豊かな音楽が流れていました。
 人々は、自然の中で生きていました。
 そこに「会社(チッソ)」がやってきた。
 護岸工事をし、渚をコンクリートで固めてしまった。
 渚は、海と陸とが呼吸をするところ。
 小さな貝たちや、タコの赤ちゃんたちがたくさんいた。
 近代化の名の下に、壁を作っていったのは人間。
 電気に化学肥料にビニール。どれも欠かせなくなった。
 一方で、不要となった毒が撒き散らされた。
 自然が壊されていく。小さな生き物たちが死んでいき、その音がかき消されていった。
 石牟礼さんは聴いている。書かずにはいられない。
「のさられ」て。
「のさる」というのは、私の理解ですが、自分とは違う魂を引き受けること。
 無くなっていった生き物たち・人々の怨霊とも言える。
 そんな声なき声を拾い、代弁する。

 昨年の今頃からか、私は耳栓を使うようになりました。
 通勤のとき、休憩のとき、家にいるときもうるさければ。
「鈍感な世界に生きる敏感な人たち」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読んだのがきっかけだったような気がします。
 耳栓をして、静寂がこんなにもありがたかったのかと、驚いた。
 それまで、騒音で随分とストレスを感じていたことを実感したものです。
 カウンセラー・詩人・小説家にも、共通しているのは「耳の良さ」でした。
 耳を守る必要性もあると自覚し、今では耳栓を携帯しています。
 そんな私が最も共感した詩を一つ、紹介します。
 本書の58ページから63ページです。
 ちなみに作品中に出てくる「おどま」とは、熊本の方言で「私たち」という意味です。

 蟇(がま)の蟇左ェ門(二)

 肥薩ざかいの山麓は
 ついこの間まで
 紫尾(しび)のおん山々と尊称されていた

 天気の良い日に渚を歩くと
 不知火海の雄大な満ち潮に映し出されて
 その霧の中に 美しい形の野ぶどうが
 映り出て 遠く
 近くに彼岸花も草いちごのたぐいも沈んで見え
 そのまんま秋になってゆく

 渚の鼻からゆるゆると見わたす
 ご先祖たちが掘りあげた由緒ある
 蟇左ェ門の穴蔵に サイレンがひっかかった
 三百万年くらい前に出来た穴蔵である

 歴史の変り目ごとに会社のサイレンと
 ガシャリとぶつかるのだ

 うをおーん うをおーん と聞こえるのは
 穴蔵で昼寝をしていた蟇蛙の声かと思われたら大まちがいだ
 蟇の長者が出てきて言うには
「ここを何と心得る 豊葦原の瑞穂の国なるぞ われらがしゅり神山 ご先祖たちが 掘って掘って掘りあげ
 百万遍も唱えごとをしたご神殿である」

 うをおーん うをおーん

 鳴いているのは 大地の魂の声であるぞ
 新しくきた会社のサイレンが毎日夕方になると
 ひゅをおーん ひゅをおーん
 と うなるが ばかを言うにもほどがある
 おどま会社のサイレンぞ
 おどま今までこの世になかったサイレンちゅうもんぞ
 首の後ろを電気のこが行き来するような
 無情な音だった
 その音は 諸々のものたちの魂をぶった切るので蟇左ェ門は
 治療してまわるのだ
 花の蕾も 夜鳴く虫たちも 大昔からあの声に育てられたのだ

 うをおーん うをおーん
 と啼かれるとそのたんびに頭をたれる
 ひょっとすると私のひいひいおじいさんかもしれないのだ
 ゆっくり屋が急げば ろくなことはない
 魂の病人たちばかりだから つける薬はない
 それ あれでゆけ

 うをおーん うをおーん

 あの声が躰中に五十ぺんばかりしみわたるとなると
 カクメイという発作が起こるかもしれない
 豊葦原の瑞穂の国とは 不知火海の渚から陸上を見わたして
 その内陸の先を見はるかしながら 四方の山々に陽が射すと 丘がいっせいにせり上がり
 稲の花が咲いているにちがいない
 なんとゆかしい香りであろうか
 近頃やって来た会社のサイレンが しゅり神山一帯のふうわりとした稜線を
 なんともヒステリックな音を出してぶちこわす
 ゆかしい香りをたてていた瑞穂の原は たちまちげんなりとして ただ首をたれているだけになってしまった
 九州山地の稲田に立てば 細長い列島の全容が見える
 稲束をかついだ人々は それ自身が香り立っている初々しい
 聴覚だった
 豊葦原とは なんと瑞々しい名前ではないか

 石牟礼道子 著/思潮社/2014

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なみだふるはな

2024-03-23 14:42:27 | 読書
 作家の石牟礼道子さんと写真家の藤原新也さんの対談。
 対談されたのは2011年6月13日からの3日間。熊本市の石牟礼さんの自宅で。
 この本が刊行されたのは2012年3月。東日本大震災から1年を待っていたかのように。
 昨年、熊本城マラソンに参加しましたが、泊まったホテルのすぐ近くにあった古書店・舒文堂(じょぶんどう)河島書店で入手しました。
 私もまた1年寝かせていました。
 再び3・11が巡ってきて「読もう!」と思い立ちました。
 読み進めていくうちに、閉塞感が募っていきます。
 歴史は繰り返す。水俣で起きたことが、そっくり福島でも繰り返されて。
 どのようにして水俣病を発生させた会社「チッソ」が水俣に入ったのか、石牟礼さんの語りによって解き明かされていきます。
 まずは「電気」だったそうです。
 それは会社のための電気(チッソははじめ水力発電の会社でした)ですが、付近の住民宅にも電気はやってきた。
 石牟礼宅では、豆電球の下で、正座してその瞬間を待ち侘びたとか。
 明かりが灯った瞬間の喜び。これでもう田舎じゃない、という思い。容易に「会社」への敬意が生まれるのを想像できます。
 次には「製品」を輸送するための港づくり。それに道。
 石牟礼さんの祖父は石工で、会社の港を作るために水俣の対岸にある天草からやってきた。
 石山をいくつも持ち、丁寧に石を積み重ねて道も作った。
 これからは道が大事だと、石牟礼さんは「道子」になった。
 会社が次に何を作ったかというと、化学肥料です。
 それまでは肥溜めから畑まで発酵した人の糞尿という肥料を運ばなければならなかった。しかも急な坂道を上って。腰を痛めてしまう人たちが多かった。
 そこにぱらぱらと撒くだけでいいものが出てきた。これもまた容易に脱人糞に傾くのは想像できます。
 会社が毒(メチル水銀)を吐き始めたのはその次の製品(アセトアルデヒド・酢酸や塩化ビニールの原料)の廃棄物として。工場内で爆発もあり、会社員たちも命懸けで、実際水俣病に罹った人たちもいた(当然隠されました)。
 会社は、害が出るのはわかっていた。事前に承諾書を地元の漁師たちに認めさせてもいた。
 わかっていて、1932年から1968年まで、実に34年間も公害の原因を垂れ流し続けていました。
 そのことで、健康を損なった人たちは8万人以上(国は調べていません)と言われていますが、「水俣病患者」と認められた人たちは2283人(水俣病センター相思社のホームページによります)に留まります。
 差別も発生しており、自ら申し出ることを控える人たちもいるでしょう。
 訴訟は今でも続いています。先日も、熊本地裁で、原告(被害者側)の訴えが退けられています。
 現実は、とても複雑です。
 石牟礼さんの「苦海浄土」は代表作ですが、水俣では売れないと言います。会社の恩を裏切ることのできない人たちもいます。
 会社出身の人が、水俣市の市長を務めていたこともある。
 石牟礼さんに学ぶべきは、当事者の思いをできるだけそのままに言語化し、伝え続けたこと。頭にある言葉だけでなくて、五感を使って。
 石牟礼さんがいたから、私にまで水俣の人たちは見えてきた。
 人にとって便利なものを開発する会社。ある一部を特化することで製品は生まれる。だけど、切り離されるものも必ず生まれる。人にとって都合の悪いものが。
 電気のない今これからは考えられない。
 一方で、クリーンな電気なんて本当に存在するのか、思うことも捨てない。
 対等な人同士として対話する。
 どうしてそれがそんなに難しくなってしまったのか、と思います。
 コンクリートで固めること。それが「近代化」であり「脱田舎」であり「進歩」であった時代。
 コンクリートには波が当たると「ざばーんざばーん」とただうるさいだけ、と石牟礼さんは言います。
 渚や浜、自然を生かす手作りの石垣というものがある。隙間があって、そこには生き物が住める。
 水俣と福島は未来だと思います。
 人が超えていかなければならない課題を提出した場所として。
 対話しかない。と私は思っています。
 複雑であればあるほど。もう一部の政治家(とその一味)が決めて、一方的に「説明」する時代なんかじゃない。
 白か黒かじゃない。
 複雑さを単純化するところに嘘が発生します。そしてその嘘は隠される。毒と同じで。
 花というのは、人間の中にある生命としての強さのようなものでしょうか。
 水俣病に侵されても、その人が紡いで物語る中に、花は垣間見えて、希望が光るようでした。
 当然、話に花が咲くためには、語りを聴く人がそばにいます。分断ではなく、舫(もや)い。
 舫うとは、船と船をつないだり、船を岸につなぐこと。

「知らないことは罪」そうおっしゃった方がいました。杉本栄子さん。石牟礼さんが紹介しています。
 近代は罪に満ちています。私もはっとしましたのでここに記しておきます。(134ページ15行-135ページ10行)

「道子さん、私は全部許すことにしました。チッソも許す。私たちを散々卑しめた人たちも許す。恨んでばっかりおれば苦しゅうてならん。毎日うなじのあたりにキリで差し込むような痛みのあっとばい。痙攣も来るとばい。毎日そういう体で人を恨んでばかりおれば、苦しさは募るばっかり。親からも、人を恨むなといわれて、全部許すことにした。親子代々この病ばわずろうて、助かる道はなかごたるばってん、許すことで心が軽うなった。
 病まん人の分まで、わたし共が、うち背負うてゆく。全部背負うてゆく。
 知らんちゅうことがいちばんの罪ばい。人を憎めば憎んだぶんだけ苦しかもんなあ。許すち思うたら気の軽うなった。人ば憎めばわが身もきつかろうが、自分が変わらんことには人は変わらんと父にいわれよったがやっとわかってきた。うちは家族全部、水俣病にかかっとる。漁師じゃもんで」
 こうおっしゃったのは杉本栄子さんという方ですが、亡くなってしまわれました。彼女が最後におっしゃったひとことは、「ほんとうをいえば、わたしはまだ、生きとろうごたる」というお言葉でした。

 石牟礼道子・藤原新也 著/河出書房新社/2012
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

怪談

2024-03-09 12:01:43 | 読書
 この本が読みたくなったのは、毎日新聞の連載「没後120年・八雲を探して」を読んで。
 有名な「雪女」は、今の東京・青梅市の百姓が八雲に語った話で、意外と近いじゃんと思ったり、島根県・松江の海沿いにある自然洞窟に亡くなった子たちが集まっているという話が今でも伝わっていたり。
 その連載でも紹介されていましたが、八雲の夫人・節の話にも興味が湧きました。

 私が本を見ながら話しますと、「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません」と申します故、自分のものにしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。 229ページ15行-230ページ3行

 八雲は、聞いた話をただそのまま書き写していたのではありませんでした。
 換骨奪胎というのでしょうか。どこにでもあるようなちょっと不思議な言い伝えが、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を経由することで、類まれな文学作品に仕上がり、今でも本屋で買うことのできる本として生きているわけですから。
 じゃあ、何が「そこら辺に転がっている話」とは違うのでしょうか?
 私が一番に感じたのは「人間臭さ」です。
 例えば「雪女」では、吹雪にさらされた少年が小屋を見つけて一命を取り留めますが、そのとき扉を開けて入ってきたのが「雪女」でした。彼女は言います。「お前はまだ若いから生かしてやろう。そのかわり、私のことを喋ったら、その命はいただくから覚えておけ!」と。どこかヤンキー的な勢いで。
 少年は青年になり、肌が雪のように白い女と出会い、結ばれ、子宝に恵まれます。幸せで、口が緩んでしまったのでしょうか。奥さんに向かって言ってしまいます。
「昔、お前のように肌の白い女と会ったことがあってね。あれは本当に酷い吹雪の夜だったよ」
 ついうっかり、わかります。心を許している人だから言えたのだということも。死ぬか生きるかのときでしたから、彼にとっても忘れられない思い出です。
「お前、しゃべっちまったね。それは私のことだよ!」
「ひー」(この辺は、私の換骨奪胎です。原文のままではありませんのでご承知ください)
 でも、雪女も長年の共同生活で情が移ったのでしょうか。まだ小さな子達を見て、こう言います。
「でもまあ子供もいることだし、命を奪うのは勘弁してやろう」
 そう言い残して、雪女は雪が溶けるように消えてしまいました。
 大事な約束を忘れるんじゃねえぞ! という強いメッセージを雪女から受け取ります。
 それは大きな地震がきたら海から離れるんだ、というような自然災害への警告とも受け取れます。
「耳なし芳一のはなし」も有名ですね。
 この話の「ミソ」はどこにあるのでしょうか?
 芳一は目が見えません。
 だから滅亡した平家の亡霊たちが語りかけたとしても、目の前にいるのは人魂だけだとはわからない。
 人魂に導かれ、墓地へ赴き、得意の平家物語を琵琶をかき鳴らしながら熱演。亡霊たちを泣かせまくります。
 芳一は、亡霊たちの引っ張り凧になってしまいました。
 それに気づいた師匠である坊さんが、芳一の全身にお経を書き、亡霊の誘いをとにかく無視するように諭します。そうしなければ、芳一もまた亡き者にされてしまうから。
 ここでもまたうっかりミス。坊さんとその弟子たちは、芳一の耳にだけお経を書き忘れていたことを見逃してしまいました。
 その夜、またやってきた亡霊。彼には、芳一の耳しか見えませんでした。仕方ないから、耳を引きちぎって持っていった。
 芳一は、ちぎられた耳から血を流し、痛みに耐え、坊さんたちが帰ってくるまで一言も喋らないで待っていた。
 発見された芳一は助かりました。その後、亡霊たちからのお誘いもありませんでした。
「耳なし芳一」は、口コミによって全国区となり、引きも切らない人気者となりました。
 目が見えないから亡霊だとわからない。その芳一を助けようとして見える人たちがバリアを張ったのに、見落としがあった。
 目で見えることだけが全てではなく、耳で聞こえることだけが全てでもない。
 平家たちだけではありません。いなくなったはずなのに現れる者たちは、他にも普通に描かれています。
 共通しているのは、強い思い。信念。執念。その人をその人たらしめている魂。存在の根源のようなもの。
 それがこの世で果たされていないと、次に行けないようです。
 逆に、切願を叶えるために、命を差し出す人も描かれています。
 生きていたときの我利私欲の妄念によって、死ねずに食人鬼と化した者もいる。
 妻が、実は柳の精だったという話もあります。木と、いかに親しんできたかが伝わってきます。
「人間臭さ」とは、「人間性の回復」でもあるのかもしれません。
 経済最優先で、効率第一だと、切り落とされるのは人間性。
 人間は、本来はもっと豊かだったんだと、豊かな物語に触れるたびに思い出します。
 心は、自然の一部だったんだよな。自然は全部つながっていて、割り切れるものではないんだよな、と。

 ラフカディオ・ハーン作 平井呈一訳/岩波文庫/1940
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シェイクスピアの記憶

2024-02-10 19:02:47 | 読書
「ボルヘスは旅に値する」と言われます。
 最晩年の作品を読み、訳者の丁寧な解説と著者の言葉を聞いて、その意味が私なりにわかってきました。
 著者は常々こう言っていたそうです。「書いたものよりも読んだものを誇りたい」
 さらにはこんなことも。
「私も書くことでだいぶ救われました。惨めな気持ちが癒やされました。ですから、私の書いた作品は全然文学的価値がなくても、私には大いに役に立ったんです」
 この言葉を聞いて、私も救われました。
 そうだ、そうだ。書いたものより読んだものを誇りに思う。まるでイチローみたいじゃないか。3割のヒットより7割のミスを誇りたい、というような発言を思い出して。
 ボルヘス自身、自分の降りかかった不幸を嘆いてもいます。政治的なことだったり、目が不自由になったことだったり。
 それでも彼はそれらの不幸を「人間ならだれもが経験する」ものとして受け止め、何世代にもわたって受け継がれる作品へと移し替えることができた。
 ボルヘスの作品はどれも短いですが、ものすごく濃いです。そして一目で、これは彼しか書けない作品だとわかる。誰かに似ているなんてことは全くない。
 この本に収められた最晩年の4つの作品は、初期の作品に比べてだいぶ読みやすくなったように感じました。本人も言っているように、過剰な装飾を必要としなくなったためなのでしょう。
 それでも持ち味は変わっていません。むしろ装飾が落とされた分だけ作品に入っていきやすいかもしれません。
 一つ目は「1983年8月25日」というタイトル。お気に入りのホテルでチェックインしようとすると、すでに本人が部屋に入っていた、というもの。
「本人」は、死を目前にした老いた自分。老いた自分と自分が対話し、お互いにお前は自分じゃないと言い張ったり、一番の過ちを言い合ったり。
 俺がお前を夢見ているのだと言えば、いや俺がお前を夢見ていると言い返したり。
 二つ目は「青い虎」。
「青い虎」を探してある村に来ている主人公。彼は住民たちの世話になりながら、来る日も来る日も青い虎を探している。
 ある日、彼は「青い虎」とそっくりな色の小石を見つける。高い場所にある大地の裂け目で。
 青い小石は増殖する。消えたと思ったら、また戻ってくる。
 最初は喜んでいた彼も、やがて不気味に思うようになる。今まで信じていたものすべてが青い小石には通用しないので。
 彼は乞食に青い小石を譲る。その替わり、彼が乞食から渡されたのは、恐ろしい世間だった。
 三つ目は「バラケルススの薔薇」。
 彼は灰になった薔薇を元に戻すことのできる錬金術師。一方で詐欺師呼ばわりもされていた。
 彼の元に弟子入りを志望する者が現れる。袋にたくさんの金貨と、もう一方の手には薔薇を持って。
 金貨を差し出し、さらにこの薔薇を灰にして元に戻してくれ、今見せてくれとせがむ。それを見せてくれたら弟子になると図々しい。
 バラケルススもまた弟子を求めていた。確かな信念こそが道なのだ、とか言って諭すが、弟子には伝わっていない様子。
 彼は薔薇を暖炉に投げ入れ、灰になった薔薇はもう元には戻らず、私は皆が言っているようにただの詐欺師なのだよと言う。
 弟子志望者はがっかりして失礼を詫びて、差し出した金貨を回収してすごすご退散。
 一人になったバラケルススは、おもむろに灰になった薔薇を手に取り、小さな声である言葉を唱えると薔薇は蘇る。
 最後が「シェイクスピアの記憶」。
 これは何だろうと思いますよね。
 読んでみるとそのまま、「シェイクスピアの記憶」を保持している人がいて、その人から「シェイクスピアの記憶」を譲り受ける話。
 彼はシェイクスピアの学者であり、シェイクスピアの記憶が自分に入ってきて、まるで自分がシェイクスピアになったようで興奮する。
 しかし彼は、彼だった。今、自分がどこにいるのかさえわからなくなり、自ら望んだ「シェイクスピアの記憶」を誰かに譲りたくなる。
 電話をかけまくって、これぞという人に譲ることはできた。
 それでも、「シェイクスピアの記憶」が思い浮かばなくなるまでには時間がかかり、バッハの音楽に救われることを見つける。
「我にすぎないものこそが、我が身を生かしていくのだ」と繰り返し言う彼に、私は深く共感しました。
 以上ざっくりと要約してみましたが、先にも書いたように、一行ずつが濃いので、読んだ人の今によって、様々な受け取りが開けてくると思います。
 その「開け」こそが「救い」につながっていくのではないでしょうか。
 私は、いつの間にか私ではなくなっており、やっぱり私が恋しくなって、私に還り、私を再発見する。
 不幸である私から抜け出し、だれのものでもないけど確かにある存在に触れ、私自身が夢となり、人生の主導権を投げ捨て、永遠とも言える世界とつながって、私はいつの間にか癒やされていた。
 日本のアニメにも通じるものがありそうです。パラレルワールドをリアルに感じるというか。
 だからこそ「ボルヘスは旅に値する」のです。
 彼の魅力、少しは伝わったでしょうか?
 気になった方はぜひ読んでみてください。
 きっと、今まで体験したことのない斬新な読書体験ができますよ。

 J.L.ボルヘス 作/内田兆史・鼓直 訳/岩波文庫/2023
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いちばん長い夜に

2024-01-27 18:44:58 | 読書
 仙台の3・11メモリアル交流館で出会った3冊目。
 前科があり、刑務所での刑期を終え、出所後、再会してはいけない規則を破って再会し、東京の根津でひっそり身を寄せ合って暮らす芭子(はこ)と綾香の物語。
 連作の短編集で、シリーズとしては三作目のようですが、この本だけでも十分楽しめました。
 綾香は40代後半、芭子は30代入ったばかり。綾香はパン職人として自立するために街のパン屋で朝早くから働いている。芭子は、なかなか進路が定まらなかったけど、祖母の残した古民家で、あそこ(刑務所)で身につけた裁縫の技術を生かし、ペットショップで働きつつ、ペット用の服をオーダーメードで作る仕事を始めていた。
 世間知らずの芭子に、元主婦でもあった綾香は料理や身の回りのことや銀杏のことなど、教えられることはなんでも教えていた。綾香があっての芭子で、綾香もまた芭子を誰よりも大事にしていた。
 些細な事件はあっても、過去がばれることもなく、根津で仕事も順調に増え、夢も描けるようになっていた。
 そんな日々を描いた前半では、どこに3.11と関連があるのだろうと思っていました。まあなくとも、前科持ちの主人公の物語は初めてで、とても興味深く読んでいたのですが。
 二人が動き出すのは、綾香に言い寄る男性が現れてから。
 その男性は綾香の働くパン屋に通い詰め、手紙を渡すようになる。その母親が綾香に直談判する。なんとか息子の願いを聞き入れてはくれないか、と。
 その場面に芭子は居合わせてしまう。そして綾香が、今まで見たこともない暗さで断る。私は幸せになってはいけない人間であり、一人で死んでいくべきだと。
 芭子はショックだった。綾香の本心を知らなかったこと、私に本当のことを言ってくれていなかったこと。綾香は表面的にはいつもにぎやかで、笑って過ごしていた。
 綾香の罪は殺人でした。元夫の暴力に耐えられず、生まれたばかりの息子まで殺されると追い詰められて。
 芭子の罪は昏睡強盗でした。ホストに入れ込み、貢ぐために。
 芭子は、綾香の故郷である仙台に行き、綾香の息子を探そうと思ったのでした。自分で稼いだお金で、綾香への恩返しも込めて。
 その芭子にとって初めての遠出で、あの東日本大震災を体験する。
 この展開は、さすがに出来すぎかと一瞬思った。でも、そうではないとすぐ思い直す。
 というのも、描写がリアルだったから。それだけでなくて、その後の展開も納得のいくものだったから。
 これは著者による後書きで知ったのですが、実際に著者が、芭子を追うように綾香の出身地である仙台を訪ねたとき、東日本大震災が起きていました。
 なので仙台での芭子の体験は、ほとんどそのまま著者が体験したことでもあった。タクシーを3台乗り継いで、翌朝には東京まで戻ったことも。
 芭子は、南くんという男性と知り合う。仙台行きの新幹線で隣に座り、やっとのことで見つかった夜のホテルでも隣にいて。芭子は南とともに東京に戻る。その後も連絡を取り合って、会うようになる。
 芭子は、彼が弁護士であることを知る。そして彼から逃げようとする、自分の過去を知りうる人だから、自分の過去を知られたくなかったから。
 でも彼は逃さなかった。出会ったときから、彼女と付き合うことになると直感しており、好きだったから。
 彼女は彼に全て話す。彼と彼女は、ゆっくりと受け入れあっていく。変わっていく。
 綾香は、東北の被災地へのボランティアを始めた。働いているパン屋で、無知な若いものに福島の放射能を持って帰るなと心無いことを言われ、喧嘩して辞める。そして東北にほとんど泊まって、たまにしか帰らなくなった。表情は暗く、むっつりしてほとんどしゃべらない。
 一年経った、二度目の3.11。芭子の家で、南くんは当たり前のようにこたつに入って仕事をしており、そこに連絡もないまま綾香が帰ってきた。被災地で、たくさんの死に触れてきた綾香は、自分は人を殺すべきではなかったのだと初めて言う。逃げればよかったのだし、強盗と殺人では全く違うのだと、やっとまとまった本音を芭子と南へ告げる。
 やっと言語化できた綾香は、次へ行く。気仙沼で再建するパン屋で働くことになる。そこのご夫婦はボランティア活動で知り合い、意を決して己の罪を語った綾香を泣いて受け入れていた。
 芭子も綾香も、震災を通じて新たな出会いをした。そのご縁で、次の道へ進むことになる。
 二人とも、もう嘘は付きたくなかった。本当のことを言える相手が必要で、その要求が満たされて初めて自分を受け入れることもできるようになりつつある。
 この一連の流れが本当に自然で、長い時間に渡っているので、私自身、振り返りつつ、共感して没入できました。
 震災は正月にも起きるし、これからも起きます。
 人は、大して変わらない。また同じように間違うし、大事なことも忘れる。
 だから人は書いてきたのかもしれません。
 記憶し、言語化し、見えるようにし、物語る。
 私のように、また必要とする人の元へ、届けるために。

 乃南アサ 著/新潮文庫/2015

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

また次の春へ

2024-01-03 18:53:07 | 読書
 明けましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。

 と、言っておきながら、気持ちは沈みます。
「明けなければよかった」と、思っている人たちもいるでしょう。
 正月の16時に震度7とは。
 翌日に羽田空港での事故。
 震災がなかったら。
 なぜ、私が?
 こんなとき、田村隆一の詩の一節を思い出します。
「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」(「帰途」の冒頭です)
 人は言葉を覚えたから、意味を探す。
 でも、その地震は言葉を持っていない。
 人は、物語っていくしかない。
 語って語って、やっと受け入れ難いものを少しずつ消化していく。
 言葉があるからこそ苦しみ、言葉があるからこそ救われる。
 実際には、言葉にできないことの方が多いかもしれません。
 それでもアートやスポーツや、あらゆる手仕事に、気持ちを託すこともできます。

 この本は、年末に少しずつ読んでいたものです。
 この本も、仙台の3・11メモリアル交流館で出会ったもの。
 重松さんの作品は、これで何作目かわからないほど。敬愛している作家の一人。
 その人が、東日本大震災の被災地を度々訪問し、作品にしていたことは知りませんでした。
 まさに今読むべき、私に必要な本でした。
 一度読んだだけでは読み飛ばしたところがあるかもと思い、続けてもう一度読みました。
 著者は言います。「想像力の乏しさは本書にも及んでいるかもしれない」と。
「読んでくださったひとの胸になにかを浮かび上がらせるよすがになってくれたなら、と願って、祈ってもいる」と。
 私の中に思い浮かんだのは、取り組んでいる小説の主人公たちのこと。より具体的になって、描写が深化しました。

「トン汁」「おまじない」「しおり」「記念日」「帰郷」「五百羅漢」「また次の春へ」の7つお話が入っています。
 どのお話にも印象に残る場面がありました。
 どのお話も、どこかで震災が関連していて、喪失があります。
 喪失の中で、それでも継続している何かがある。それがこの短編集のテーマとなっているのかなと思いました。
 失われた世界で、何が残っているのだろう? 何が私たちをこの世界に繋ぎ止めているのだろう?
 母が急に亡くなって、父が作ったもやしだけが入った「トン汁」。小学生の頃、一番の仲良しと交わした再会するための「おまじない」。津波にさらわれた同級生に貸していた本に挟まっていた手作りの「しおり」。被災地に送ったカレンダーに書き込んでいた「記念日」を修正液で消した跡。
「帰郷」には、お寺さんの一角にある絵馬堂が出てきます。そこに納められているのは、幼くして亡くなった子たちがせめてあの世で幸せな結婚生活を送れるようにと祈って作られた結婚式の絵や人形たち。中には合成写真を使っているものもある。「冥婚」というのだそうです。知りませんでした。
「五百羅漢」もまた未知の世界でした。釈迦の没後一年に集まった聖人たち五百人をモデルに作った仏像たちのこと。私の住んでいる近くで言うと、川越の喜多院にあるそうです。幼い頃、母を亡くした主人公は、継母が来たあと、実の母を探すようになった。そんなとき、おばさんが五百羅漢に連れて行ってくれた。この中にお母さんがいるから探してきなさい、と。そして彼は見つけました。母は、優しい笑顔で見守っていました。それ以後、継母を母と呼べるようになった。その記憶を、津波で亡くなった教え子のお父さんから、その子の子供の描いたお父さんの似顔絵を見せられて思い出す。
「また次の春へ」では、行方不明となった両親が密かに残していたメモリアルベンチが主人公を受け入れてくれる。その人は、どうしても死亡届を出せないでいました。自身に悪性腫瘍も見つかっていた。メモリアルベンチは、北海道のある町が、間伐材を使ったベンチを購入してもらうことで永く関わってもらおうと企画したもの。両親は名前しか入れていなかった。もっと言葉を入れられたのに、変に遠慮してしまって、それが親らしくて。ただそこは河原沿いで、春になるとサケが帰ってくる。桜も咲く。その場所を訪れ、気に入った両親と、主人公は確かにまた会うことができた。
 どのお話にも血が通っていて、たくさん、浮かび上がってくるものがありました。
 今、また必要とされることが増えるかもしれません。
 私としては、どうしてこんなにしみる小説が書けるんだろうと、感嘆ばかりしてしまいます。
「想像力の貧しさ」を自覚することからでしょうか。

「帰途」にも触れたので、そんなに長い作品ではありませんので書き写しておきます。
 出典は「戦後名詩選①」(思潮社、2000年発行)の87ページです。

 帰途  田村隆一

 言葉なんかおぼえるんじゃなかった
 言葉のない世界
 意味が意味にならない世界に生きていたら
 どんなによかったか

 あなたが美しい言葉に復讐されても
 そいつは ぼくとは無関係だ
 きみが静かな意味に血を流したところで
 そいつも無関係だ

 あなたのやさしい眼のなかにある涙
 きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
 ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
 ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

 あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
 きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
 ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 言葉なんかおぼえるんじゃなかった
 日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
 ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
 ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる

 重松清 著/文春文庫/2016



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

潮の音、空の青、海の詩

2023-12-09 21:04:02 | 読書
 この本は、「せんだい3.11メモリアル交流館」で出会った一冊です。




「せんだいメモリアル交流館」は、地下鉄東西線荒井駅と隣接しています。
 2度目の訪問でしたが、早朝に出発していた今回は時間に余裕があり、館内を見回すことができ、この本棚を発見することができました。
 その後、仙台の大学の先輩が営業している古本とコヒーのお店「マゼラン」で上の写真を見せると、「潮の音、空の青、海の詩」はあるとのこと。
 ただし、仙台の老舗の書店「金港堂」で開催されている古本市に、売れてなければ。
 で、歩いて金港堂へ。
 ありました。
 そんな流れで出会って、手に入れた本。旅に出たからこそ出会えたと言えます。
 たぶん、まだ文庫になってないから、その存在自体を知りませんでした。熊谷さんの作品はよく読んでいるのに。
 仙台から帰って、読みかけの本を読み終えてからすぐに読み始めました。

 ああ、やっぱり熊谷さん。
 3.11の日から物語は始まり、次に50年後が描かれます。そしてまた震災後に戻って未来へつながっていく。
 主人公の聡太は気仙沼の出身。
 大学進学のため東京に出て、就職も東京で、でも訳あって仙台まで戻って、仙台での生活を送る中で被災した。
 仙台で2度目の失業を味わう。幼馴染と仙台で再会したこともあり、何より気仙沼の両親と連絡がつかないままで、車に集められるだけ集めた支援物資を積んで気仙沼へ帰郷。
 変わり果てたふるさとの姿。けんか別れをしていた同級生の思いがけない優しさ。
 避難所と化した母校を包む静寂。その静寂は、亡くなった人、また遺族たちへの思いの表れでした。
 また、どんな言葉を持ってしても、目の前のことをつかむことができないのでした。
 この本を読み進めていくうちに、今自分が書いている小説のあちこちに手を入れました。
 決定的な事実誤認がいくつかあったので。
 読むことによって、自分が書いた前のページが変わっていく。
 そして当然未来も変わっていきます。
 やっぱり、行ってよかった。行きたいところに行って、出会いたい場所や人や作品と出会う。そうすることで自分もより充実する方に変わっていける。
 そんなことを思いました。
 小説に戻ると、「空の青」の部分が50年後で、最初は「あれ、違う作品かな」と思った。
 でも、読み進めると、50年後に重要な出会いがあり、そのことで過去が変わる可能性が示されます。
 50年後の気仙沼が出てくる(作品では、あくまでも「仙河海」です)のですが、かなり衝撃的な姿になっています。
 巨大な防潮堤が立ち並び、大島には核の処分場が作られ、唐桑も含めて無人化されている。
 遠洋漁業は衰退し、マグロの養殖が行われている。
 内陸では長大な中性子の加速装置が稼働している。そして、理論的に過去への介入が可能になっている。
 おじいちゃんとなった聡太が、呼人(よひと)という少年と、巨大な防潮堤の上で出会う。
 その出会いが、過去を変え、未来を変えていく。
「変えたい現実」があるということ。聡太が人生をかけて開発した知識や技術も、家族を失った痛みが起点となっている。
 聡太の試みは、作者の企みでもあります。
 ただ事実を描いていくだけが小説じゃない。そこにはやはり何か伝えたいことがある。
 伝えたいことが作品を描かせるとも言えます。
 熊谷さんの仙河海シリーズは、本当に私のアイデンティティーに近寄ってくれる。
 私の奥深くにある大事なものと触れる。
 それを「救う」というのかもしれません。
 作品は愛であり、創作は救いだと、よりよく感じます。
 有難い、私を変えてくれた一冊になりました。

 熊谷達也 著/NHK出版/2015
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水深五尋

2023-11-15 18:47:56 | 読書
 第二次世界大戦下のイギリスの小さな港町が舞台。
 16歳のチャスは、港で行われている戦闘に興味津々。港には大砲とサーチライト。湾には護衛船団にタグボート。それに、重要な貨物を積んだ船を狙い撃ちにするドイツのUボートと呼ばれる潜水艦が潜んでいる。
 そのUボートがくせもので、なかなか捕まえることができず、貨物船を沈めらているイギリス側は頭を悩ませていました。
 あるとき、チャスは川岸に打ち上げられた不審なボウルを発見する。自宅に持ち帰って調べると、暗号らしきメモとバッテリーと時計と発信機が入っていました。
 チャスは、この発信機の入ったボウルは、スパイが川に流して、Uボートに機密情報を伝えていたのだと推測します。
 チャスは、まだ16歳だけど、だからこそなのか、対ドイツの戦いに勝つために貢献したくて仕方ない。だから彼は、スパイ探しに奔走します。
 幼馴染のセムとオードリと、同級生のシーラも巻き込んで。というか、他の三人も乗り気になって。
 この物語がただのスパイ探しだけだったら、そこまで広がりはなかったのかもしれません。
 というのは、権力者(ボス)たちが描かれているから。
 チャスの父さんは工場で働いている労働者です。シーラは、チャスが好意を寄せている女子ですが、北の小高い丘の上に住んでいる。そこに住めるのはごく一部の人たち。シーラの父は市議会議員で治安判事。ボスの中のボス。
 もう一つ、階級がある。海沿いに組み立てられた連なる家々。もはや大地の上に家はない。はみ出した海の上に、身を寄せ合っている。ロウ・ストリートと呼ばれる貧民街。そこには売春宿もあり、外国人(マルタ人)も住んでいる。とにかく治安が悪い。だけど、チャスたちは行ってみたい場所でもある。
 チャスたちは、手作りの筏に乗ってロウ・ストリートの下を潜り、どこからボウルを流したのか手がかりをつかもうともする。その中で、川を航行する船の波にもまれ、スクリューに危うく飲み込まれそうにもなる。
 タグボートの「ヘンドン号」に助けられる。その船長バーリーは、チャスの両親の知り合いでもありました。
 チャスはそんな感じで、こうと思ったら突っ走ります。母さんはハラハラしてしょうがない。なんとかチャスを管理しようと口責め。父さんはチャスへの理解があり、妻への配慮もあって、いい父親だなあと思います。
 チャスが行動するたびに、一つずつ、手がかりがつかめる。一気にスパイまでは辿り着かない。だけど、ついにスパイが誰なのか、分かるときがきます。
 そこに至るには、ロウ・ストリートで知らない人はいないネリーの協力まで取り付ける。ネリーは、売春宿の女主人。ネリーを逮捕しようと長年追いかけている警察署長も絡んできて、警察署長が威張ることのできないシーラの父スマイソンにもつながっていく。風が吹けば桶屋が儲かるじゃないけど、小さな町だから、少年たちの行動がロウ・ストリートからボスたちまでをも動かしていく様子はなるほどと思わせます。全体が有機的に関連していて、無駄がないのは優れた作品の特徴の一つでもあります。
 で、スパイは誰だったのか? 私も、最後の最後までわかりませんでした。
 でも、捕まってみると、その人もまたただの人。普段は善良な市民が、大きな罠にはまっただけのようで。
 スパイであったことがばれれば死刑。恐怖に震え、チャスと目を合わせることもできず、失禁してしまう。
 そんな元スパイを見て、チャスは何を思い、どうしたのか?
 ぜひ読んでみてください。
 ただ、チャスは、このスパイ探しという物語を通じて、一つ大人になったと言えるのではないでしょうか。
 立場の違う人間への想像力が、嫌でも身に付く。その力は、例えばガールフレンドへの思いやりにもつながっていく。
「ドイツ」という「敵国」への思いも、微妙に変化していくはずです。
 物語は、人の認識を変える力を持っている。そう改めて気づかせてもらいました。
 宮崎駿監督の挿絵もまた「これしかない!」と思わせる的確さです。物語の具体化に大いに役立っています。見どころの一つでもあります。

 ロバート・ウェストール 作/金原瑞人・野沢佳織 訳/宮崎駿 絵/岩波書店/2009
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思考の取引 書物と書店と

2023-10-28 18:39:23 | 読書
 昨日の10月27日から読書週間が始まりました(11月9日までの2週間)。合わせて神田古本まつりも開催されています(11月3日までの1週間)。
 読書週間は、1947年から始まっているそうです。戦後の混乱の中、「読書の力によって平和な文化国家を作ろう!」と、出版社、取次、書店、図書館、新聞に放送も協力して始まりました。今では文化の日を中心として前後2週間となっています。神田古本まつりも、今年で63回を数えます。
「読書の力によって平和な文化国家」は、作られてきたのでしょうか?
 少なくとも、日本で戦争は起きていません。でも、平和を作るのも保つのも発展させるのも、多くの人たちが汗をかいて働かないことには実現しません。油断していれば、あちこちで紛争は起きます。
 ヘルマン・ヘッセという作家。この人は私にとって、夏目漱石とともに双璧を成す作家なのですが、ナチスドイツの国にいて、自著を発禁処分にされながら、木箱に本を詰めて戦地に送っていました。彼もまた本屋で働いていました。
 本って、そもそも何なのでしょう? 本に、そんな力はあるのでしょうか?
 今回紹介する本は、あるフランスの書店の創業20周年記念品として、お客さんたちに配るために限定50部で作られた本。日本での翻訳版は、もちろん限定品ではありませんが、挿絵と文章はそのまま。文は、フランスの哲学者、ジャン=リュック・ナンシーによって書かれています。
 続けて2回読みました。一度で「わかった!」とか「すっきり!」とかいうものではないので。噛めば噛むほど味が出るタイプ。
 本って、「木」に「一」が加えられて「本」になっています。原文はフランス語だから漢字の説明はありませんが、ローマ字でも漢字でも、共通していると感じました。というのは、本は、木の皮の内側に書かれることによって生まれた。だから、「木」に「一」が加わって「本」になる。
 木の皮の内側、というのがまたミソ。外にあるのだけど内側で、でも、木の幹からしたら外側にある。もうこの時点で、本はめくられる運命にあったのではないでしょうか。
 本は、閉じているものです。読者が開かない限りはずっと閉じている。だから本は、永遠に未刊とも言える。本は、本自体で墓碑銘にもなっている。
 でも、聞こえてくるでしょう。「読んで、私を読んで。ねえ、そこのあなた。あなたには私が必要なはずよ!」
 人によって聞こえ方は違うでしょう。でも、本は、本自体で、「伝えたい!」と願っています。「自ずから伝わるもの」が本のイデアであると、著者は言っています。「イデア」とは、ギリシャの哲学者プラトンの造語ですが、「本質」とでも言えばいいのでしょうか。
 本が開かれ、聞かれる場所を作るのが本屋です。だから本屋とは、本の運び屋。本が、どのようにあれば、一番本らしくあれるのか、常に考え、本を思って持っています。
 そして読者と本をつなぐ。読者の求める本が手に入るために仕事をする。
 さらに、本とは思考であると著者は言う。
 考えたこと、思ったこと、想像したこと、描いたこと、願ったこと。「思考」と一言に言ってもその広がりは果てしない。ただ、「取扱説明書」のようなものは本ではないとも指摘しています。
 ある文学賞の選考委員が、「小説とは、頭の中から出てきたいもの」というように言っていたことを覚えています。「小説」もまた「思考」の一つでしょう。ならば小説もまた、自ずから伝わりたいものなのでしょう。著者にできることは、そんな「小説に宿る命」の勢いの邪魔をしないことだけだとも言えます。
 余計なことはしなくてよかった。その必要性は、もうだいぶわかってはきていましたが。
 本を読むことが楽しいのは、思考の取引が楽しいことになります。
「思考の取引」と言うとわかりにくいですが、要するにみんなが楽しんでいることと同じ。「おしゃべり」が楽しいのと根は同じだと言えるのではないでしょうか。
「おしゃべり」がなんで楽しいのかと言えば、もう人はそれがないと生きていけないから。生きることに必要なことが満たされれば、人は楽しくなれるようにできている。「おしゃべり」して、情報交換をし、最新の自分をも交換する。「おしゃべり」は言葉だけとは限らない。絵だったり彫刻だったり踊りだったり。
 もう、だから本って、ほとんど人間と同じなんじゃないかと思えてきます。人間の本質が詰まったもの。そしてその本質は、自ずから伝えたがっている。
 声なき声を拾える人が本好きになる。「私を読んで!」という本の声は、「私を聞いて!」と密かに求めている人の声にも似てくる。
 たくさんの本を読んで、その声を聞いて、何になるのか?
 私が思うに、「私」とは何か? がわかってくるのではないでしょうか?
「私」とは何か? は、私にとって人生最大の謎でした。わからないがために、散々苦しんで放浪して、人との出会いを切望し、本を貪り読んでもきました。「私」が嫌いでしょうがなく、捨てようともした。自暴自棄にもなった。その都度その都度、そこに本があったことで、どれだけ自分は救われてきたのか、本を開くたびに、大嫌いな自分を捨てられて自由になれたか、どれだけドキドキハラハラして生きた心地がしたことか、そして書く人を信じ、自らもそうなりたいと希求するようになったか、本なくして今の私はいません。数えきれない本たちも売って食ってきたし、食えない本を返品もしてきました。
 本の魅力、伝わりましたでしょうか?
 楽しく読書している人に戦争は必要ないということです。
 そこには人への信頼があり、明日への希望があるから。
 本には力がある。本を開けば、すぐに動き出します。
 生き始めます。本と、私とが。

 ジャン=リュック・ナンシー 著/西宮かおり 訳/岩波書店/2014
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コメンテーター

2023-10-11 16:46:11 | 読書
 伊良部シリーズは17年ぶりになるのですね。
「イン・ザ・プール」「空中ブランコ」「町長選挙」(いずれも文春文庫)。「空中ブランコ」で直木賞を射止めています。
 伊良部は精神科医。得意分野はパニック障害や社交不安障害、広場恐怖症などの神経症全般。
 前三作は読みました。電車で笑ってしまった唯一の小説かもしれません。
 新作を見かけるなり「買う」と即決していました。
 伊良部も進化していました。伊良部だけでなく、看護師のマユミも。伊良部は、さらに肥えていたかもしれません。
 行動療法のプログラムを組むと言っては、患者たちと外に出かける。
 喫煙場所ではない場所でタバコをふかす人に注意せよ、とか、狭い場所に長時間いることができない人をヘリコプターに乗せて飛ぶ、とか、特定の人と関わることが怖い人たち(男子たち)にコスプレ(メイドカフェの衣装)させてハロウィンの渋谷をパレードさせる(やらないでね!)とかとか。
 今回はマユミちゃんも大活躍。実はバンド活動をしていて、キーボードがやめちゃったからピアニストの患者に参加してもらったり、テレビのコメンテーターとして伊良部がリモート出演したとき、背後に割り込んでバンドのCDを宣伝したり(マユミが画面に映ったときだけファンが観るので視聴率が上がる)。意識が朦朧の患者にはいきなりビンタ(やらないでね)。怒ることができない患者には噛んでいたガムをおでこに貼る、などなど。
 著者自身、パニック障害になった経験があります。だからこそ、わかる。だからこそ、書ける。自分の弱みを最高の魅力に変えた小説という意味で、私にとってはお手本になるような小説たち。
 この小説を読んでいる間、夢を見ました。
「電気あんま」(わからなければ検索してみてください。ちゃんと出てきました)してくるやつに怒ってビンタして止めさせるというもの。かなりすっきりしてました。深層心理にまで、届いている証かと。
 あっという間に読んでしまって、読み終わるのが惜しくなって、また新作を楽しみにしてしまう。それは稀有であり、しあわせなことだとも思います。
 なんらかの心理的な障害、あるいは壁に悩まされている方にはおすすめです。
「いらっしゃーい」と歓迎され、鼻をほじりながら伊良部に「まじめだなー」と言われるでしょう。
 まじめなことはとても大事なこと。必要なことであり、捨てるべきじゃない美質。
 なのですが、「何に対して」まじめなのか?
 脳内で強化されてしまった結びつきによって発症してしまった患者たち。
 でもその強化は、生きるために必要なことでもありました。
 伊良部は、強すぎる結びつきを解いていく。様々な行動療法にショック療法を交えて。ときには単純な肉体労働も課す。伊良部は楽しんでいるように見えるけど、全ては「治療」。
「外に出て人とともに汗を流す。それが一番必要なこと」
 たまにはいいことを言う。筋は通っている。筋がなかったら、伊良部はただの変態になってしまう。そのバランス感覚が絶妙なのでしょう。
 バランス感覚は、もう著者がつかむしかないものなのでしょう。誰がどう言ったからといって身につくものじゃない。生活をつないできて、自分のものとなった裏付けがないと筋にはならない。
「解決策」もまた、その人だけが見つけられるもの。迷惑行為に対して、「ラジオ体操第2ー。タンタカタン、タンタカタン、タタタタタンタタン」と、ラジオ体操第2で対抗するおじさんの解決策は、もはや発明とでも言えそうです。
「心の病」は、進化のチャンスとも言えます。今までの方法では行き詰まってしまったから症状が出る。薬はいっとき楽にして助けてはくれますが、根本の解決にはなりません。今までとは違った、何か「新しい方法」の誕生が待たれています。その意味で、治療は創造と似ています。
「私の心の病」の根本的な解決策は「ランニング」であったと言えます。この「」に入るものは、人によって違う。前の「」から後ろの「」に至るまでが物語となるのでしょう。
 個々の物語に伴走するもの。それが小説なのでしょう。
「まじめ」であるのは「自分自身の欲求」に対して、です。
「権威」や「言葉」や「知識」や「常識」や「慣習」や「正義」や「親」や「学校」や「会社」や「社長」や、ではなくて。
 今日も走る前、近くの神社にお参りしてきました。
 思い切り手を2回叩きます。「パチン、パチン」といい音が出るようになりました。
 それは、自分の胸の奥にある欲求に集中するため。
 様々な付着物を払い落とし、私自身に還るため。
 頭を下げるのは、頭が一番上にあるから「エライ!」と勘違いしないためなのかもしれません。
 頭もまた体の一部。頭だけでは空回りしてしまいます。
 胸の位置まで頭を下げる。それもまた、私にとっては必要な行動療法なのでしょうね。
 この小説を読んで、自分にはどんな行動療法が必要なのか、想像して試すのも楽しいかもしれません。

 奥田英朗 著/文藝春秋/2023
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

踏切の幽霊

2023-10-07 22:01:22 | 読書
「幽霊塔」に続いては、「踏切の幽霊」。先の直木賞候補作。残念ながら受賞には至りませんでした。
 というのは、著者の「幽霊人命救助隊」(文春文庫)を4年半前に読んでおり、感動していたから。その本は、今でも働く本屋で売り続けています。
 今回は、正直、前回よりも「感動」はしなかった。
 感動するのは、おそらく、自分を作る大事な一部と重なるから。その意味で、この作品は、どうも共感できるところが少なかったように感じました。それが直木賞受賞作との差なのかはわかりませんが。
 下北沢付近の踏切内に幽霊が現れ、よく電車が急ブレーキをかけて止まっていました。その原因を探るべく、新聞記者から妻の死をきっかけに女性誌記者へと転職していた松田が担当になる。妻の死への自責の念を持ち、人生にやる気を失っていた松田は、妻が今も自分の近くにいる証を求め彷徨ってもいました。
 松田が、隠されていた事実を、一つずつ明らかにしていきます。それは、幽霊となったものが、松田なら私の存在を明らかにしてくれると信じていたからでもあります。
 踏切の幽霊の声を聴こうとして、霊媒師が現場で仕事をする場面があります。その霊媒師から松田は、妻が今もそこにいて、とても穏やかな顔をしていると告げる。松田が仕事ではあれ、幽霊の存在に近づく中で、自身も救われていく。
 それでも、強い感動に結びつかないのは、幽霊がしょうもないやつらに殺されたから。どうしてもそこが陳腐に感じてしまう。
 父に性虐待をされた挙句、客を取るようにされてしまった少女時代。キャバクラで働くようになっても、娼婦として扱われ、ヤクザに囲われ、悪徳政治家に弄ばれ、バカにされて、死んでもいいやつだと思われ、実際殺されてしまう。死んでも死にきれず、心臓を刺されたにも関わらず、坂の上にある踏切まで歩いていった。なぜ、踏切まで歩いたのか? が最大の謎として最後まで引っ張る力となっています。
 幽霊にさせられた彼女は、次々に復讐を果たしていく。自分の仲間は助けていく。
 だから幽霊話というより復讐話になっています。だからなんだかすっきりしない。
 浮かばれないというのか。浮かばれないからこそ書かれた小説とも言えるのですが。どこまで普遍性があるんだろう。
 幽霊が謎解きに使われてしまった、というような感じもあって。
 うーん、なんだろう。
 幽霊の扱いは難しい、ということでしょうか。
 超自然現象を連発してしまうと白けてしまうというか。
 落とし所が難しい。とてもデリケート。
 なんでもありなようでいて制約がある。その線引きの妙。
 参考にはなりました。
 松田のその後とか、殺された娘さんのお母さんのその後とか、もう少し書かれていたらよかったのかなとも思います。
 陳腐さは個性を消してしまう。没個性の暴力装置に抗う話として読むこともできます。そこまで思い当たって、初めて感動が押し寄せてきました。死なされた一人の人間の悲しみが、うめき声とともに迫ってきます。

 高野和明 著/文藝春秋/2022
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幽霊塔

2023-09-30 18:05:13 | 読書
 江戸川乱歩は、小学生以来でしょうか。
 映画「君たちはどう生きるか」に導かれて。
 表紙の女性、映画に出てくる夏子にそっくりです。幽霊塔とその前の沼も。
 幽霊塔では、この女性、秋子と言います。夏子も出てきますが、この女性とはまるで違うような醜さとなって。
 宮崎監督の漫画が、最初から16ページ載っています。そこに描かれていますが、幽霊塔は、江戸川乱歩の前に黒岩涙香(るいこう)が描いていました。その涙香も、イギリスのウイリアムソンが描いた「灰色の女」を元にして日本に合うようにして紹介していました。この辺りはゲーテの「ファウスト」に似ています。ファウストも、元々はよく舞台で演じられていた演目をゲーテが自分流に料理したものでした。
 宮崎監督の印象的な言葉がありましたので引用しておきます。漫画の最後のページです。
「みたまえ、幽霊塔は19世紀からつづいているのだ。
 19世紀には、まだ人間はつよく正しくあれると信じられていた。
 20世紀は、人間の弱さをあばき出す時代だった。
 21世紀は、もうみんな病気だ。
(中略)
 わしらは、大きな流れの中にいるんだ。
 その流れは、大洪水の中でも、とぎれずに流れているのだ」
 本当にそうだと思いました。
 もう、みんな病気。いかに病気から脱することができるか。予防することができるか。
 そもそも、この住んでいる地球の存続すら、人間の活動によって、危うくなってきています。
 この視点は、どうしても、作品に入ってくる、と私も思います。
 で、この幽霊塔ですが、面白かった。
 小学生のときは、よく図書館に通っていろんな本を読みましたが、「興奮度」という観点からだと、やっぱり乱歩が一番でした。
 ページをめくる楽しさ、次、どうなるんだろうというわくわく。全てが明らかになった後の充足感。
 小説の面白さ。奥深さ。最初の洗礼は乱歩だった。確かに、と、改めて思わされました。
 天性なのか、鍛え抜かれた技なのかわかりませんが、読者を次へ次へと誘う書き方がすごい。少しだけ匂わせたり、先に出しておいて回収したり、無駄はなく、でも読者には親切。文章がとても丁寧です。小学生でも読めるでしょう。
 でも深い。というか暗い。というか、社会的タブーが入っている。
 この作品では「蜘蛛屋敷」が出てきます。家の中が蜘蛛だらけで、誰も近づきたがらない。そうしているのは訳がある。
 秋子さんには、左手にいつも謎の手袋がはめられています。その秘密とは何なのか?
 主人公の光雄には幼馴染で許嫁の栄子がいますが、光雄が秋子と出会って秋子を愛し始めたのを敏感に感じ取り、嫉妬に燃えた栄子はあらゆるトラブルを起こします。栄子が影の主人公とも言えます。その栄子の顛末もまた読みどころ。そこには、人間の浅はかさ、好ましくない感情というものがよく描かれています。
 あとは怪しげな弁護士に医学士も。裏の顔を持ちつつ憎めないのは栄子と似ているかもしれません。
 人物たちが魅力的。それは表だけじゃなく、隠している裏があってこそ。そのことも、乱歩はわかっていたのかどうか、わかりません。
 幽霊塔は、かつての住人が殺され、その人が幽霊となって現れると言われていました。大きな時計塔でもあって、かつて海運で財を成した人物が作りました。そして、その塔のどこかに財宝が隠されているとも言われていました。
 財宝もまた隠されている。幽霊もまた、どこから出るかわからない。あるのかないのか、いるのかいないのか、その不安定さが読む者を先へ先へと進めます。
 大きめな本ですが、読み始めたらあっという間でした。
 様々な謎に裏、そこには真実があった、とだけ言っておきましょうか。
 光雄と秋子はどうなっていくのか? それもまた読みどころで、今の私には納得ができる結末でした。

 江戸川乱歩 著/宮崎駿 口絵/岩波書店/2015

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西の魔女は死んだ

2023-09-16 19:08:38 | 読書
 もう少し梨木さんを読みたくなり、定番に手が伸びました。
 今年もですが、毎年夏に展開する「新潮文庫の100冊」の常連。この本が入らなかった年はなかったのではないでしょうか。
 この本には思い出もあります。
 私が池袋の本屋の人文書にいたとき、もう15年くらい前になりますが、そのとき一緒に働いていた同僚の一人に、この本を激推ししていた人がいました。そのときは「ふーん」くらいで読む気にはならなかった。
 15年も経てば、当時の書店のラインナップから消えていく本たちの方が多いかもしれません。でも、この本は生き続けています。
 文庫本として発売されたのは平成13年8月と奥付(本の一番最後のページ)に書いてあります。それからなんと100刷。100回増刷されています。
 平成13年は2001年のことで、今から22年前。当時、私は24歳で、大学を出たばかりで、書店で働き始めた年でもありました。
 そのときからこの本は本屋にあり、同僚の勧めで存在を知っても読まず、それからまた15年も経って自ら手を伸ばすとは。
 辿り着くべき本には辿り着ついてきたんだなあ、という感慨がまずあります。読むべき本とは出会ってきていて、それぞれのタイミングで、それぞれの自分で、吸収すべきものを吸収してきたのだと。
 この本を読み、当時の同僚の姿が浮かびました。懐かしい。元気にしているかなと思う。そしてこんな物語が好きだったんだなと、ほんの少し、その人に近づけた感じもします。
 本は、人に似ているのかもしれません。出会うべき人には出会ってきたこととも似て。
 さて、中学校に入ったばかりの「まい」が主人公です。
 5月、まいは学校に行けなくなってしまいます。
 心配した両親が頼ったのが、母親の母親、まいのおばあちゃんでした。まいとその母親は、その人のことを「西の魔女」と呼んでいました。
 まいはおばあちゃんが大好きでした。そのことをよく口に出してもいました。
「おばあちゃん大好き」と。
 すると、西の魔女はこう言うのでした。
「アイ、ノウ」と。自信たっぷりに。
 まいは、そんなおばあちゃんとの共同生活をすることになります。それは同時に、まいの「魔女修行」をも意味していました。
 魔女といっても、ほうきに跨って飛ぶわけではありません。私がタイトルだけで先入観を抱き、この本を長い間遠ざけてしまったのは「魔女」にまつわるそんな陳腐なイメージでした。
 手垢にまみれたうわさ、先入観による思い込み、本当に願うことではないことに反応してしまうくせ。言ってみれば、それら私にも心当たりがあることを乗り越えていくことが、西の魔女が言うところの魔女修行なのでした。
 そのためにはまず生活のリズムを作ること。一日の行動の予定を立てて実行すること。そして、何より大事なのは、自分が決めること。
 自分が、この自分の生活の主体となること。そのことを、おばあちゃんは、まいと生活をともにする中で、まいに染み込ませていく。
 まいが自分を取り戻していく中で、「まい・サンクチュアリ」とおばあちゃんが名付ける場所が現れます。そこは、まいがとても気に入った場所のことで、その土地をおばあちゃんは法的にもまいに譲るのですが、その存在が、とても印象に残りました。
 まいは、そこにある切り株に座っているだけでしあわせを感じられます。自分が自分であることを丸ごと受け入れられ、受け入れてもらってもいる。自然と、自然でもあった自分とが、深い呼吸を繰り返すことで交流できるような場所。
 ああ、それは私にとって、花との出会いだったんだなと思いました。
 あるとき、突然、道端の花の存在に気づきました。
 その花は、どこから来ていたのか?
 土でした。大地でした。
 私は、そのとき、コンクリートやアスファルトや、あるいは言葉に隠されていた土を発見した。
 土は自然です。生きている地球のかけらである鉱物の破片と、生きていた生物たちの死骸でできています。
 そう、死もまた自然でした。
 まいが恐れていたのも死でした。
 そのことをおばあちゃんに話せた夜、まいは印象的な夢をみます。
 その夢の話も聞いたおばあちゃんは「ありがたい夢ですね」と言う。この言葉もまた私に記憶されました。
 夢をありがたく思うその気持ちがいいなあ、と。
 おばあちゃんとまいの共同生活は2ヶ月ほどで終わり、その後再会できないままおばあちゃんは死んでしまいます。
 まいは、再びおばあちゃんと住んだ家に入る。
 すると、おばあちゃんと話していた約束が果たされていたことを知ります。
 それが何なのかは、読んでご自分で確かめてみてください。
 この本にも、私が知らなかった植物や動物が登場します。
 その一つ一つを知ることもまた楽しいです。

 梨木香歩 著/新潮文庫/2001
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする