泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

ペロー童話集

2024-05-11 18:11:31 | 読書
 この本は、花巻の林風舎で買い求めたものです。
 林風舎は、宮沢賢治の親戚の方が営まれているお店で駅のすぐ近くにあります。私も行きました。
 一階は土産物中心で、絵葉書や衣類や複製原稿やしおりや工芸品などが販売されています。私は絵葉書と「デクノボーこけし」を買いました。
 そのとき店員さんと少し雑談しました。二階がカフェで、ちょうどピアノの生演奏もしているのでぜひどうぞと言われ、二階へ。賢治の肖像画の近くで、ピアノの演奏に体を酔わせながら、ロールケーキとコーヒーをいただく、という貴重な時間を過ごしました。
 会計後、書籍もあったので見ました。宮沢賢治の記念館と似たような並びでしたが、この「ペロー童話集」は記念館にはなく、目が留まりました。
 で買うとき、店員さんに聞いてみました。「なんでこの本が置いてあるのですか?」と。
「天沢退二郎さんだからです!」
 と言われたのですが、私はすぐ合点せず、解説を待ちました。
「宮沢賢治研究の大家のお一人です」とのこと。それでああ、と納得しました。この本の訳者が天沢さんなのです。
 帰りの新幹線で早速読み始めました。
「眠りの森の美女」「赤頭巾ちゃん」「長靴をはいた猫」「サンドリヨン」「おやゆび小僧」など。
 どこかで読んだことがある、だけど少しずつ違う。
 この本は1697年にフランスで刊行されたものです。グリム童話が出るのは、そのほぼ100年後のこと。
 グリム童話は、ずいぶん前ですが読みました。その微かな記憶が、「ん?」となったようです。
 一言で言えば残酷だなあ(グリムもかなりエグいですが)。でもこのお話集には「教訓」が付いています。作者のおせっかいというか。
「教訓」あってのお話なので、「お話」と割り切ることもできます。
 例えば赤頭巾ちゃんは、誰にでもいい顔をしたために、狼に食べられてしまいます。いい人、誰にでも可愛い人では、殺されることもあるよ、というお話。
 それに「妖精」が至る所に現れるのも印象的です。「妖精」は、人の未来が見えるようです。
「人喰い鬼」も出てきます。鬼畜は、今も昔も変わらない。
「サンドリヨン」は、「シンデレラ」の原形。どんなに恵まれない環境にいても、その人の気持ちさえ折れなければ、チャンスは巡ってくる、という感じでしょうか。
「おやゆび小僧」は、飢饉で苦しむ木こりの両親によって、子供三人が森に捨てられますが、一番下の一番小さくて馬鹿にされていた子が、上の二人だけでなく最後には家族をも救うというお話。
 宮沢賢治は「グスコーブドリの伝記」で、飢えに苦しむ木こりの両親が家にわずかな食料と子供を残し、銘々に森に入って餓死する話を書いています。
 賢治はグリムやアンデルセンを愛読しており、明らかに意図的な「反=グリム」童話を作っていました。これは天沢さんの指摘で、なるほどそういうつながりか、とわかりました。
「ペロー童話集」自体も、あちらこちらで語り継がれていたお話を集めたもの。お話は語り伝えられて、少しずつ変容していく。
 花巻からこちらに戻ってから、賢治が作詞作曲の「星めぐりの歌」をよく聞いています。というか、エンドレスで頭に流れているというか。
 アイフォンで聞いていますが、実に様々な歌い方、編曲がされており、そのそれぞれが甲乙つけ難い良さを持っています。
「永久の未完成これ完成である」の具体の一つでしょう。
 あらゆる作品には、いわば「元ネタ」が存在しています。
 濃密なつながりの中でしか、新しいものは生まれない。
 新しいものが、次の新しいものを準備する。
 作品はみんなのものです。「透明に透き通って」いなければ、接した人が愛を込めることができない。
 愛が吹き出すこともない。
「お話」の原形たちを読みながら、そんなことを思いました。

 シャルル・ペロー 作/天沢退二郎 訳/岩波少年文庫/2003

 
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あやとりの記

2024-05-11 13:21:36 | 読書
 この本は、昨年熊本に行ったとき買い求めたものです。
 この本の中身をどう伝えたらいいのか、しばし想いに耽りました。
 適当な言葉を私は持っていないというか、どう言っても嘘になりそうだ、というか。
 なので著者の「あとがき」から引用します。
「九州の南の方を舞台としていますが、高速道路に副(そ)う情けない都市のあそこここにも立って、彼岸(むこう)をみつめ、”時間よ戻れ”と呪文を唱えたのです。
 どこもかしこもコンクリートで塗り固めた、近代建築の間や、谷間の跡などから、昔の時間が美しい水のように流れて来て、あのひとたちの世界が、現代の景色を透けさせながらあらわれました」
 物語の中で視点となっている「みっちん」は、5〜6歳の女の子でしょうか。著者の姿と思われます。
 みっちんの祖母と思われる「おもかさま」は、目が見えず、魂が遠くに行ってしまいがちな人。おもかさまとみっちんは仲良しです。
「萩麿」という名の馬がやってくる。萩麿を使って運送業をしているのは「仙造やん」。仙造やんは足が一本しかありません。
 仙造やんと親しくしているのは「岩殿(いわどん)」。岩殿は、火葬場の隠亡。隠亡というのは死者の火葬や埋葬を業とする人のこと。江戸時代の身分制では差別されていました。
 死人さんは燃えると温かくなる。岩殿も、思慮深く温かい人。その人柄に引き寄せられるように、二人の若者が慕っています。
 一人は「犬の仔せっちゃん」。彼女は身に纏ってるぼろの中に、犬の仔を隠している。せっちゃんは見送りの少ない死人さんをいつも気にして、花を摘んで持って来てくれる。
 もう一人は「ヒロム兄やん」。彼は巨人で片目が開かない。力持ちでちんどん屋の幟(のぼり)を持って歩いたりしている。非常に上等な挨拶を欠かさない反面、自分のことを「みみず」だと思い、銭を稼ぐのが下手な自分を嘆いている。
 みっちんの家に物乞いの親子が現れ、みっちんは小銭をその子に差し出すのですが、その子は受け取らず、小銭が雪に落ちてしまう、という場面も描かれていたりします。
 せっちゃんは、どこでもらってきたのか、子を産みます。海岸の洞穴の中で。そこには海神さまがいらっしゃると言われており、一人で産んだのではなく、海神さまに助けられたのだと言って。
 せっちゃんとヒロム兄やんには親がいません。せっちゃんは岩殿をはじめとした支援者たちによって命をつないでいます。が、いじめられることもあります。そのときの方が多いのかもしれません。
 せっちゃんを枝と言葉で痛めつけるガキ大将に向かって、みっちんは赤い小さな火の球みたいになって言ったのでした。
「神さんの罰のあたるぞう!」
 彼らは「ものいうな」を捨て台詞にしてぺっと唾を吐き、後退りしながら行ってしまいました。
「あのひとたち」は「すこし神さまになりかけて」いる人たち。
 みっちんは「魂だけになりたい」憧れを持ち、「あの衆(し)たち」や「位の美しか衆」をいつもどこかに普通に感じて共存している。
 あの衆たちは、コンクリートによって追い出されてしまったのでしょうか。
 でも、この「あやとりの記」に浸ると、現代の景色が透けてしまう。その奥に隠されてしまった昔の時間が美しい水のように流れて来る。
 何をどう読み取って、今に生かしていけるのか。それは読んだ人次第なのでしょう。
 そのままの復活や再生ではなく、現代ともあやとりをしていくものとして。
 宮沢賢治にとって岩手がイーハトーブだったように、石牟礼道子にとっては南九州がイーハトーブだった。
 ただ、石牟礼さんは、イーハトーブが破壊させられるのを見てしまった。理不尽な現代化を。
 許せなかった。どんな理屈にも屈せず、徹底的に人の側に立った。
 その人から湧き出す美しい水がおいしくない訳がありません。
 物語は、魂の飢えを満たすものだと感じています。

 石牟礼道子 作/福音館文庫/2009
 
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宮沢賢治のこと

2024-05-01 16:59:30 | 
 私が花巻に行きたかったのは、そこが宮沢賢治の故郷だからでした。
 大宮から東北新幹線に乗って、よく降りる仙台でもなく一関でもなく、新花巻まで北上して初めて下車。胸がどきどきしていました。
 改札口を出ると、左に売店、右に食堂。右奥にコインロッカーとお手洗い。正面奥に観光案内所と、大谷翔平選手をはじめとした花巻ゆかりの野球選手たちのグローブやスパイク、ユニフォームなどの展示コーナーがありました。ロッカーに荷物を預け、まずは野球選手たちの備品を眺める。大谷選手のスパイクのデカさに驚きました。
 で、観光案内所で、宮沢賢治の記念館に行きたいのですが、と相談すると、係の人は親切に地図とバス・電車の時刻表を手渡し教えてくれました。
 記念館にはバスで行けるのですが、本数は少ない。ちょうどいいバスがなかったので帽子を被り、歩いていくことに。
 歩いて20分弱。入り口が右手に見えました。ちょっとした山道のように、屋根付きで木製の階段が伸びている。交通整理のお姉さんに「ここを登るんですね?」と言うと、白い歯をこぼして「はい」と笑顔。登りました。367段。その通路に左下に、一段ずつひらがなが。なんだろうと思って読み始めると、それは「雨にも負けず」なのでした。
 記念館に行くまでの道にも、地元の子供達の描いた賢治の作品の一場面(「よだかの星」や「どんぐりと山猫」)が描かれていて飽きさせません。
 たどり着いた見晴台での一枚がこちらです。



 左奥に見える山が早池峰山です。
 見晴台で涼んで、息を整え、歩き始めると左手に山猫軒が。



 こちらは記念館に行った後お邪魔しました。
「どなたもどうかお入りください。決して遠慮はありません」が効いています。
 レストランと土産物屋です。カツカレーにりんごアイスとコーヒーをいただき、いくつかお土産も買いました。
 腹を空かせた山猫はいなかったようです(自分のことか?)。

 記念館の左手前にあるのが、冒頭の「よだかの星彫刻碑」です。賢治の作品の中で、おそらく「よだかの星」が一番好きなので。
 そしていよいよ記念館。入り口右手にいるのがこちらです。



 猫の事務所ですね。
 玄関を入ると、正面がカフェで右に券売所と入り口、左が土産物。チケットを買って、中へ。
 会場は「科学」「芸術」「宇宙」「宗教」「農」「宮沢賢治のフィールド」と分かれていますが仕切りのないワンフロアでした。分け隔てることのなかった賢治らしい作りをイメージしたのでしょうか。
 盛りだくさんでした。
 実物を見るとやはりお会いしている感じが増します。
 チェロもあった。妹のトシのバイオリンも。顕微鏡も、名刺も。
 一番引かれたのは原稿でした。



 これは「業の花びら」という題。このように黒字に白枠の棚に展示物がぎっしり詰まっています。賢治の細胞をのぞくかのように。
「銀河鉄道の夜」もある。「永訣の朝」もある。その二つは複製が販売されていたので買いました。原稿を買うなんて初めて。
 で、「業の花びら」ですが、何度も何度も書き直しています。原稿を見るとよくわかります。後の一つの言葉と結びついて。



 この写真に載っている言葉は「農民芸術概論綱要」の「結論」部分。



「農民芸術概論綱要」は、賢治が30歳のとき書いたもの。
 盛岡高農の研究生を経て、花巻農学校の教諭になったのが25歳、それから5年後の3月に教職を辞している。なのでこれからの指針であり、賢治の考えでもありました。
 序論には有名な「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の一文があります。
 農民芸術の興隆、本質、分野、主義、製作、産者、批評、綜合ときて、結論に、賢治の愛されている理由を発見しました。
「永久の未完成これ完成である」
「農民芸術概論綱要」何度読んだでしょうか。他にも、すばらしいとしか言いようのない箇所がたくさんあります。
 ただ、「永久の未完成これ完成である」に、収斂していく感じです。これか、これだったのかというような。
 原稿を見ればわかるように、どんどん変わっていっています。そう、作品は変化していく。
「永久の未完成」であるからこそ、小学生たちでさえ、賢治の作品に触発されて独自の世界をまだ小さい胸の中に作ることができる。
 しかもただの未完成ではない。「永久の未完成」
 土がどんどん生まれ変わっていくように。人がどんどん生まれ変わっていくように。
「綜合」にはこんな文もあります。
「まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばろう
 しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きている」
「無方の空」
 こんな表現見たことなかった。あちらでもこちらでもない、方向などない、無方。



 この絵本は、昨年の秋、仙台の金港堂本店(4月30日に閉店されました)で行われていた古本市で買ったもの。
「やまなし」 クラムボンがかぷかぷ笑うあれです。
 思えば賢治との出会いはこの「やまなし」が最初でした。
 小学校の3、4年でしたでしょうか。教科書に載っていました。
 なぜ覚えているかと言えば、登校中に友達と「クラムボンってなんだろね?」と話し合った記憶があるからです。
 答えは出ませんでした。正解という完成形はないのでした。
 今日読んで思ったのは、「クラムボン」は、カニから見た人のことなのではないかと。
 クラムボン(人)は、カニから見ればかぷかぷ笑うし殺される(津波や戦争や疫病や飢饉などで)。なぜ笑ったり殺されたりするのかはわからない。
 カニにとっては大きな魚が泳ぎ、その魚を一瞬にして鳥がさらう。カニたちはおびえる。カニたちは死を見てしまった。
 そこに父さんカニが来て、鳥はカワセミで、うちらとは関わりないので大丈夫と安心させる。それが5月のこと。
 12月になって、カニの兄弟は大きくなり、吹き出す泡の大きさを競っている。そこにトプンと落ちたものがあった。カニ兄弟はまた鳥だと思って怖がる。
 父さんガニが落ちたものをよく見ると、それはやまなしだった。熟してとてもいい香り。カニ親子は流れるやまなしを追っていく。
 やまなしは枝に引っかかって止まった。そのやまなしの上に月光の虹がもかもか集まっている。
「おいしそうだね」と言う子カニに、父さんカニは「2日すればひとりでに落ちておいしい酒になるから待とう」と教えて家に帰っていく。
 中身をどう受け止めてもいいのです。この絵本もまた一つの農民芸術。
 言葉だけの表現にこれほど想像力を刺激される。
 農民芸術の「製作」にはこんな文もあります。
「無意識即から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である
 髪を長くしコーヒーを呑み空虚に待てる顔つきを見よ
 なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ」
「無意識から」ではなく「無意識即から」。この言葉の正しさに感嘆します。「即」は近くという意味でしょうか。できるだけ近く、という謙虚な言葉遣い。
 さらに「髪を長くし」って、そこまでかと思いますが、父さんカニのような「まあ待て待て」という成熟を待つ姿勢の大事さもよく伝わってきます。
「なべての悩みをたきぎと燃やし」
 賢治が「業」や「修羅」とまで自分に言わざるを得ないのは、今でいうところの性的マイノリティーであったからと言われています。が、本当のところはわかりません。ただ人一倍悩み苦しんでいて、その苦しみを享受し、作品に昇華するエネルギーに変えていたのは確かだと思います。

 


 花巻駅の夕焼け。そんな賢治が生きて歩いていた花巻に行けて、歩けて、走れて、本当によかった。
 やっとたどり着いたという感慨があります。
 小学生のとき、おそらく人生初めての文学の体験を私は賢治で味わっていた。
 夏休みは宮城の気仙沼に遊びに行きました。そのとき、一関から大船度線に乗って行くのですが、途中観光名所の猊鼻渓の手前に陸中松川駅があります。そこをよく通っていたわけですが、そこにも賢治はいました。教師を辞した後、東北砕石工場技師として働いていました。この事実も初めて知りました。
 賢治は37歳で結核のため亡くなってしまうのですが、最期まで農民たちの肥料相談を受けていたそうです。
 土壌を作る人だったんだなと思いました。私も、知らず知らず立っていたその土壌を。



 花巻駅のすぐ近くにこの壁画があります。「未来都市銀河地球鉄道」と言います。花巻の名所の一つで、完走証のデザインにもなっています。



 これは「銀河鉄道の夜」に出てくる「白鳥の駅」。バス停の一つで、ここから歩いてすぐイギリス海岸があります。



 写真左手前に白い泥岩があり、イギリスのドーバー海峡に似ていると賢治が言ったことから。今は水量が増えて見えませんが、賢治の命日である9月21日に、ダムの水量を調整するなどして川の水位を下げる試みをしているそうです。
 かつては生徒たちを連れて、賢治は胡桃の化石を拾ったりしていました。
 記念館のある胡四王山も賢治がよく登った山で、またそば屋の老舗である「やぶ屋」もよく通った店。そこにはマラソン後、食べに行きました。
 そんなふうに、賢治が今でもそこかしこに息づいている花巻。生家は空襲で消失しましたが、同じ場所に今でも宮沢さんは建て替えられた家に住んでいます。そのご家族の方が営んでいる林風舎にも行きました。「デクノボーこけし」など買いました。少しの雑談も楽しく、ピアノ生演奏もすばらしかった。



「生徒諸君に寄せる」にあるように、私もまた「諸君の未来圏から吹いて来る透明な清潔な風」を感じたわけです。
「新しい時代のコペルニクスよ
 余りに重苦しい重力の法則から
 この銀河系統を解き放て」

 まだまだ余韻が続きそうです。
 それほど私には大きな旅でした。
 
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イーハトーブ花巻ハーフマラソン大会

2024-05-01 15:20:34 | マラソン
 4月28日の日曜日、岩手県の花巻を走りました。
 初参加です。
 ツーショットしてもらったのは、地元花巻の「フラワーロール」ちゃん。高校生たちでしょうか。スマホ持って近づいたら「撮ります?」と声をかけていただき、「お願いします!」と。ちなみに参加賞のTシャツにもフラワーロールちゃんは描かれており、レース後に着て町を歩くほど気に入ってしまいました。
 全国のマラソン大会のエントリー情報をいつもチェックしているのですが、この大会を見たとき、胸が高鳴りました。心は「出たい」と言っていたし、足は「走りたい」と訴えてもいましたので、すぐエントリーしていました。
 花巻でマラソン大会が行われていることも知りませんでした。今年で12回目です。
 花巻に引かれたのは、もちろん宮沢賢治の故郷だからです。賢治のことは、後で書きます。



 当日は晴れ。スタート時の気温は21℃くらい。ゴール時は24℃くらい。
 ときより吹く風が気持ちよかったけど、直射日光を浴びていると暑い。日陰は涼しいのですが、スタートして競技場を出ると、9割は田んぼ道。遮るものは何もありませんでした。
 永遠に続くかと思われる田んぼの中の一本道。遠くには奥羽山脈が見えます。山裾には花巻温泉街がありますが、その近くでUターンするコースでした。
 折り返し手前で少しきつめの凸凹を往復する他は、なだらかな坂もあり、競技場に入る前も上りでしたが、高知や熊本に比べたら優しい感じでした。
 花巻東高校をはじめとした高校生たちがボランティアで活躍していました。受付から会場案内、コース誘導、給水に給食、ゴミ集め、ランナーへの励ましも。応援してくれる市民の方たちはそれほど多くなかったので、余計に高校生たちに助けられたという印象が強いです。
 暑さ対策はしていきました。ネッククーラーにアームクーラー。さらに昨年から導入している登山用の手袋。どれも水をかけると冷たくなります。日焼け防止にもなります。
 給水で必ず水を飲んでは首筋、腕、手にも水をかけました。それと高校生たちの応援を支えにして、無事完走できました。



 参加者は2477人で、種目別の40代男子は345人でした。種目別で77位ということは、上位22%くらい。まあ、いつもだいたいこの上下にいます。
 ここより上を目指すのであれば、月間の走行距離を伸ばすことでしょう。今は約100キロ前後ですが、それは生活によります。もっと走れる状況になれば走るでしょうが、生活の全体のバランスがあります。疲れすぎたり、怪我したら元も子もない。
 私にとって走ることは大切でずっと続けますが、基本的に健康のため、頭のため、創作のためです。なので元気に頭もすっきりして書けているのであれば、それ以上のことはランに求めません。といっても欲は出るものですが。
 2年前に仙台で出したハーフマラソンのベストタイム(1時間37分13秒)よりは2分ほど遅かったけど、1時間40分を切れたのだから上出来です。
 暑さがなかったらもっと速かったと思うけど、「たられば」がないのがマラソン。
 どんな状況であってもベストを尽くす。それがマラソンの醍醐味であって、達成感の源です。
 ゴール後はおにぎりとおそばとりんごジュースでおもてなししていただきました。
 ゴール後にあったかいそばって初めてではないでしょうか。さすが岩手。
 そばは大好きです。やはり本場のそばは一味違っておいしかった。そば自体の香りやこしもそうですが、つゆがまたふくよか。釜石と電車でつながっているからか、しっかり海のもの(昆布に鰹節)も活かされていると感じました。
 りんごジュースがまた最高でした。りんごも毎日食べるほど私の大好きな果物です。

 走ってからもう3日が経ちますが、本当に行ってよかった。
 ランが私を花巻にまで連れて行ってくれました。
 これからもどこに連れて行かれるのか、楽しみにしています。
 次は11月の神戸を予定していますが、抽選になるようなのでまだわかりません。
 それにしても私は暑さに弱いですね。それもまたよくわかりました。
 花巻でも、今まで経験したことのない寒暖差の激しさだそうです。
 夏場は長く、強く走ることはできません。
 こまめに、朝の涼しい時間を活用して、リズムよく、いい汗をかいていきたい。
 健筆を支え、次の新しい場所、秋の大会へとつなげていけるように。
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矢車菊

2024-04-20 18:39:03 | 写真
この花、本当に好き。繊細ですがまっすぐ立ちます。いろんな色を持っています。
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花水木

2024-04-20 18:27:59 | 写真
桜の返礼でアメリカから来た。独特な葉と花の模様。ずっと見ていられる。
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私の名前は

2024-04-20 18:24:22 | 写真
雑草じゃなくて春紫苑です。
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サクラ散ってもタンポポが

2024-04-20 18:19:46 | 写真
花は桜だけじゃないよ
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高知から花巻へ

2024-04-20 17:36:02 | マラソン
 高知龍馬マラソンからもう2ヶ月が経ちました。そのときの写真をあげておきます。
 フルマラソンの後は、当然のことながら疲れが出ます。回復するまで約1ヶ月はかかるのではないでしょうか。
 私の感覚ですが。働きながらでもあるので、個人差はもちろんあるでしょう。
 その間、書店では棚卸しがあり、そのための整理があり、春休みになって接客に追われつつ、年度末で納品も増え、さらには杉花粉で自由を奪われ。
 結構大変でした。それらを無事乗り越えて、春。




 最近の新緑の美しさには、改めて目を奪われます。
 杉花粉もおさまって、穏やかな天候の下で、痛みもなく思い切り走って、おいしい空気を胸いっぱい吸えるのは、本当に心地よく、生き返る思いです。
 その中で出会った花々の写真は、後でまとめてあげます。
 で、次の大会が1週間後に迫ってきました。



 初めて参加します。
 岩手の花巻も初めて。
 私が何より惹かれたのは、宮沢賢治の故郷だということです。
 私はいろんな作家の影響を受けてきましたが、なかでも宮沢賢治は重要な人の一人です。
 どこまで賢治の世界を自分のものにできるかわかりません。
 ただ、行きたい。走りたい。
 そう強く感じたので参加してきます。
 賢治も過ごした花巻を歩くだけでもいい。
 記念館などたくさんゆかりの場所はありますので、今から楽しみです。
「銀河鉄道の夜」は3回は読んだでしょうか。
 特にうつ病でどうしようもなかったとき、言ってみれば自分が生まれ直し始めた一番初めに読んだのが宮沢賢治であり、「銀河鉄道の夜」でした。
 私はジョバンニをからかい、川に溺れたザネリだった。川に飛び込んだカンパネルラはザネリを救出し、自分は帰ってこれなかった。ジョバンニは、カンパネルラを一生の友と信じていたけれど、途中で別れざるを得なかった。
 読むたびに救われる。掬われる。
 震災や人災の絶えない現代。賢治の祈りは、もはやみんなの祈りになっている。
 自分に何が吸収できるのか。自分に何が創作できるのか。現代、そして未来に必要なものとして。
 行ってみなければわかりません。
 行ってきます。
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わかちあう

2024-04-06 17:10:38 | 写真
こちらも柳瀬川沿いの桜並木。
右手前にお花見の席取りのシートが置いてあります。
小道の奥には小さくなってしまいましたが、人が写っています。
カメラを向ける奥様と、その旦那様でしょうか。
東京都写真美術館で木村伊兵衛の没後50年を記念した写真展を開催中(5月12日まで)です。
観てきたのですが、実に人々の表情が生き生きとしています。
さりげなくて、誰もポーズをしていなくて。
それで思ったのです。ああ、人を写すのもいいなあと。
なのでこれからの写真には人が入ってくるかもしれません。
さりげなく。
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新学期、今年は何をしましょうか?

2024-04-06 17:02:36 | 写真
こちらは、お隣の清瀬市にある柳瀬川沿いの桜並木。この季節、ここを走るのは格別です。
この土日で春休み終わりという方々も多いのではないでしょうか。
いくつになっても気が引き締まる思いです。
やるべきことは明確になっています。
とにかく、小説を仕上げる!
今年度中に、必ず。
次の作品の準備もしていたい。
来年の今頃どうしているか、胸に思い描いて走り抜けました。
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たくましく

2024-04-06 16:54:24 | 写真
こちらは市内(東京都東村山市)にある多磨全生園内のさくら公園。奥の建物は、国立ハンセン病資料館です。
右手前のさくらは、毎年見ずにはいられない古木。
見るたびに感動します。今年は新芽を出していた!
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今年もやってきたよ

2024-04-06 16:49:21 | 写真
 近くの川沿いの公園で。
 今年もやってきたことを告げるように、枝先が私に向かって伸びていました。
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祖さまの草の邑

2024-03-30 14:24:59 | 読書
 石牟礼道子さんの詩集。
 タイトルは、「おやさまのくさのむら」と読みます。
 祖さまというのは、連綿と続いてきた命そのもののことかもしれません。
 生き物のそれぞれが音を持っている。
 耳を傾けることのできる人は、自然の交響曲を楽しむことができる。
 この辺りの描写は、ミヒャエル・エンデの「モモ」(岩波書店)を思い出しました。
 マイスター・ホラに連れられて、モモは「時間の花」を見ます。そこでは豊かな音楽が流れていました。
 人々は、自然の中で生きていました。
 そこに「会社(チッソ)」がやってきた。
 護岸工事をし、渚をコンクリートで固めてしまった。
 渚は、海と陸とが呼吸をするところ。
 小さな貝たちや、タコの赤ちゃんたちがたくさんいた。
 近代化の名の下に、壁を作っていったのは人間。
 電気に化学肥料にビニール。どれも欠かせなくなった。
 一方で、不要となった毒が撒き散らされた。
 自然が壊されていく。小さな生き物たちが死んでいき、その音がかき消されていった。
 石牟礼さんは聴いている。書かずにはいられない。
「のさられ」て。
「のさる」というのは、私の理解ですが、自分とは違う魂を引き受けること。
 無くなっていった生き物たち・人々の怨霊とも言える。
 そんな声なき声を拾い、代弁する。

 昨年の今頃からか、私は耳栓を使うようになりました。
 通勤のとき、休憩のとき、家にいるときもうるさければ。
「鈍感な世界に生きる敏感な人たち」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を読んだのがきっかけだったような気がします。
 耳栓をして、静寂がこんなにもありがたかったのかと、驚いた。
 それまで、騒音で随分とストレスを感じていたことを実感したものです。
 カウンセラー・詩人・小説家にも、共通しているのは「耳の良さ」でした。
 耳を守る必要性もあると自覚し、今では耳栓を携帯しています。
 そんな私が最も共感した詩を一つ、紹介します。
 本書の58ページから63ページです。
 ちなみに作品中に出てくる「おどま」とは、熊本の方言で「私たち」という意味です。

 蟇(がま)の蟇左ェ門(二)

 肥薩ざかいの山麓は
 ついこの間まで
 紫尾(しび)のおん山々と尊称されていた

 天気の良い日に渚を歩くと
 不知火海の雄大な満ち潮に映し出されて
 その霧の中に 美しい形の野ぶどうが
 映り出て 遠く
 近くに彼岸花も草いちごのたぐいも沈んで見え
 そのまんま秋になってゆく

 渚の鼻からゆるゆると見わたす
 ご先祖たちが掘りあげた由緒ある
 蟇左ェ門の穴蔵に サイレンがひっかかった
 三百万年くらい前に出来た穴蔵である

 歴史の変り目ごとに会社のサイレンと
 ガシャリとぶつかるのだ

 うをおーん うをおーん と聞こえるのは
 穴蔵で昼寝をしていた蟇蛙の声かと思われたら大まちがいだ
 蟇の長者が出てきて言うには
「ここを何と心得る 豊葦原の瑞穂の国なるぞ われらがしゅり神山 ご先祖たちが 掘って掘って掘りあげ
 百万遍も唱えごとをしたご神殿である」

 うをおーん うをおーん

 鳴いているのは 大地の魂の声であるぞ
 新しくきた会社のサイレンが毎日夕方になると
 ひゅをおーん ひゅをおーん
 と うなるが ばかを言うにもほどがある
 おどま会社のサイレンぞ
 おどま今までこの世になかったサイレンちゅうもんぞ
 首の後ろを電気のこが行き来するような
 無情な音だった
 その音は 諸々のものたちの魂をぶった切るので蟇左ェ門は
 治療してまわるのだ
 花の蕾も 夜鳴く虫たちも 大昔からあの声に育てられたのだ

 うをおーん うをおーん
 と啼かれるとそのたんびに頭をたれる
 ひょっとすると私のひいひいおじいさんかもしれないのだ
 ゆっくり屋が急げば ろくなことはない
 魂の病人たちばかりだから つける薬はない
 それ あれでゆけ

 うをおーん うをおーん

 あの声が躰中に五十ぺんばかりしみわたるとなると
 カクメイという発作が起こるかもしれない
 豊葦原の瑞穂の国とは 不知火海の渚から陸上を見わたして
 その内陸の先を見はるかしながら 四方の山々に陽が射すと 丘がいっせいにせり上がり
 稲の花が咲いているにちがいない
 なんとゆかしい香りであろうか
 近頃やって来た会社のサイレンが しゅり神山一帯のふうわりとした稜線を
 なんともヒステリックな音を出してぶちこわす
 ゆかしい香りをたてていた瑞穂の原は たちまちげんなりとして ただ首をたれているだけになってしまった
 九州山地の稲田に立てば 細長い列島の全容が見える
 稲束をかついだ人々は それ自身が香り立っている初々しい
 聴覚だった
 豊葦原とは なんと瑞々しい名前ではないか

 石牟礼道子 著/思潮社/2014

 
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なみだふるはな

2024-03-23 14:42:27 | 読書
 作家の石牟礼道子さんと写真家の藤原新也さんの対談。
 対談されたのは2011年6月13日からの3日間。熊本市の石牟礼さんの自宅で。
 この本が刊行されたのは2012年3月。東日本大震災から1年を待っていたかのように。
 昨年、熊本城マラソンに参加しましたが、泊まったホテルのすぐ近くにあった古書店・舒文堂(じょぶんどう)河島書店で入手しました。
 私もまた1年寝かせていました。
 再び3・11が巡ってきて「読もう!」と思い立ちました。
 読み進めていくうちに、閉塞感が募っていきます。
 歴史は繰り返す。水俣で起きたことが、そっくり福島でも繰り返されて。
 どのようにして水俣病を発生させた会社「チッソ」が水俣に入ったのか、石牟礼さんの語りによって解き明かされていきます。
 まずは「電気」だったそうです。
 それは会社のための電気(チッソははじめ水力発電の会社でした)ですが、付近の住民宅にも電気はやってきた。
 石牟礼宅では、豆電球の下で、正座してその瞬間を待ち侘びたとか。
 明かりが灯った瞬間の喜び。これでもう田舎じゃない、という思い。容易に「会社」への敬意が生まれるのを想像できます。
 次には「製品」を輸送するための港づくり。それに道。
 石牟礼さんの祖父は石工で、会社の港を作るために水俣の対岸にある天草からやってきた。
 石山をいくつも持ち、丁寧に石を積み重ねて道も作った。
 これからは道が大事だと、石牟礼さんは「道子」になった。
 会社が次に何を作ったかというと、化学肥料です。
 それまでは肥溜めから畑まで発酵した人の糞尿という肥料を運ばなければならなかった。しかも急な坂道を上って。腰を痛めてしまう人たちが多かった。
 そこにぱらぱらと撒くだけでいいものが出てきた。これもまた容易に脱人糞に傾くのは想像できます。
 会社が毒(メチル水銀)を吐き始めたのはその次の製品(アセトアルデヒド・酢酸や塩化ビニールの原料)の廃棄物として。工場内で爆発もあり、会社員たちも命懸けで、実際水俣病に罹った人たちもいた(当然隠されました)。
 会社は、害が出るのはわかっていた。事前に承諾書を地元の漁師たちに認めさせてもいた。
 わかっていて、1932年から1968年まで、実に34年間も公害の原因を垂れ流し続けていました。
 そのことで、健康を損なった人たちは8万人以上(国は調べていません)と言われていますが、「水俣病患者」と認められた人たちは2283人(水俣病センター相思社のホームページによります)に留まります。
 差別も発生しており、自ら申し出ることを控える人たちもいるでしょう。
 訴訟は今でも続いています。先日も、熊本地裁で、原告(被害者側)の訴えが退けられています。
 現実は、とても複雑です。
 石牟礼さんの「苦海浄土」は代表作ですが、水俣では売れないと言います。会社の恩を裏切ることのできない人たちもいます。
 会社出身の人が、水俣市の市長を務めていたこともある。
 石牟礼さんに学ぶべきは、当事者の思いをできるだけそのままに言語化し、伝え続けたこと。頭にある言葉だけでなくて、五感を使って。
 石牟礼さんがいたから、私にまで水俣の人たちは見えてきた。
 人にとって便利なものを開発する会社。ある一部を特化することで製品は生まれる。だけど、切り離されるものも必ず生まれる。人にとって都合の悪いものが。
 電気のない今これからは考えられない。
 一方で、クリーンな電気なんて本当に存在するのか、思うことも捨てない。
 対等な人同士として対話する。
 どうしてそれがそんなに難しくなってしまったのか、と思います。
 コンクリートで固めること。それが「近代化」であり「脱田舎」であり「進歩」であった時代。
 コンクリートには波が当たると「ざばーんざばーん」とただうるさいだけ、と石牟礼さんは言います。
 渚や浜、自然を生かす手作りの石垣というものがある。隙間があって、そこには生き物が住める。
 水俣と福島は未来だと思います。
 人が超えていかなければならない課題を提出した場所として。
 対話しかない。と私は思っています。
 複雑であればあるほど。もう一部の政治家(とその一味)が決めて、一方的に「説明」する時代なんかじゃない。
 白か黒かじゃない。
 複雑さを単純化するところに嘘が発生します。そしてその嘘は隠される。毒と同じで。
 花というのは、人間の中にある生命としての強さのようなものでしょうか。
 水俣病に侵されても、その人が紡いで物語る中に、花は垣間見えて、希望が光るようでした。
 当然、話に花が咲くためには、語りを聴く人がそばにいます。分断ではなく、舫(もや)い。
 舫うとは、船と船をつないだり、船を岸につなぐこと。

「知らないことは罪」そうおっしゃった方がいました。杉本栄子さん。石牟礼さんが紹介しています。
 近代は罪に満ちています。私もはっとしましたのでここに記しておきます。(134ページ15行-135ページ10行)

「道子さん、私は全部許すことにしました。チッソも許す。私たちを散々卑しめた人たちも許す。恨んでばっかりおれば苦しゅうてならん。毎日うなじのあたりにキリで差し込むような痛みのあっとばい。痙攣も来るとばい。毎日そういう体で人を恨んでばかりおれば、苦しさは募るばっかり。親からも、人を恨むなといわれて、全部許すことにした。親子代々この病ばわずろうて、助かる道はなかごたるばってん、許すことで心が軽うなった。
 病まん人の分まで、わたし共が、うち背負うてゆく。全部背負うてゆく。
 知らんちゅうことがいちばんの罪ばい。人を憎めば憎んだぶんだけ苦しかもんなあ。許すち思うたら気の軽うなった。人ば憎めばわが身もきつかろうが、自分が変わらんことには人は変わらんと父にいわれよったがやっとわかってきた。うちは家族全部、水俣病にかかっとる。漁師じゃもんで」
 こうおっしゃったのは杉本栄子さんという方ですが、亡くなってしまわれました。彼女が最後におっしゃったひとことは、「ほんとうをいえば、わたしはまだ、生きとろうごたる」というお言葉でした。

 石牟礼道子・藤原新也 著/河出書房新社/2012
 
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