点と点が集まれば

2023-11-04 22:50:32 | 
父と母の結婚生活

幸せなんてあっただろうか。


些細なことで一方的に怒る父
それに立ち向かい喧嘩を買う母

幼い私にはそういう構図に見えて
父の繊細さや苦悩が見えずにいた。

母は父が理想の夫ではないことに見切りをつけていたし、父の優しさを受け付けなかった。

結婚してはいけない2人が結婚し
兄と私が生まれたとしか思えない。


父が母に悪く言う度
母が父の愚痴を私たちに言う度

私は大好きな人を悪く言われて傷ついていました。


それでも私が仲を取り持てば幸せな時もあるはず。
そうやって、父と母が離婚しないように見張っていました。


誤魔化していた日々の末、父のアルコール依存症が増してしまい、父が母にはじめて手をあげてしまいました…

私は早く離婚をさせてあげればよかったと後悔しました。



まずは、アルコールを断たせて
父の残りの人生は父に責任をもってすごしてもらおうと思いましたが…

アルコールが抜けた父はひどい認知症だったということがわかったのです。

あれだけ父に苦労をした母は、
父が認知症だと知ると毎日泣いて
父を精神病院から退院させて私(母)が面倒を看ると言っていました。



父と母は水と油

そう思い込んでいた私ですが

離れて暮らす2人をみていると
案外幸せな日々もあって
そんな日々がまだ2人を繋ぎ止めているのかもしれないと思うようになりました。


救急病院に運ばれた日も、
父は母に「死にそう」と言いましたが、
母は父に「大丈夫 死なへん。こんなんで死なへんから。」と言いました。
すると父は苦しみながらも頷いていました。
また右手の手のひらを母の前に出して
「お金くれ」とジェスチャーをし、
母はその手のひらを上から叩いて、
2人で笑っていました。

昨日の面会時も、父は母のことを真っ直ぐみて安心していました。

帰り間際に母が父の車椅子を押して
真っ白になった父の髪の毛を触っていました。

こんな時に
こんなところに
幸せはやってくるんだと思いましたが

だったらお父さんが元気なときに幸せがほしかったと思ってしまいました。

病院からの帰り道、
「お父さんのこと、見捨てられへんねん。
最後までみてあげなあかんねん。
身内兄弟みんな縁を切ってるから、1人はかわいそうやろ」
と母が言っていました。


施設に入ることになっても沢山会いにいってお父さんは1人じゃないって思えるようにしてあげないとねって話をしました。


漠然とした不安はいつどんな時も側にあります。

でも結局、なるようになっていくのを見守るだけなのでしょう。



夜、オトと散歩をしました。

「今日 じーちゃんとこ行っててん。
じーちゃん なんやかんやでばーちゃん来たら安心してたわ。」

そうオトに伝えると

「よかったやん。長年一緒にいてるから安心するんやな。」と言ってくれました。



「でも、ちょっとしか続かんで。
長いこと一緒にいるとまた喧嘩とかしそうやわ。」と私



「じゃあ、これからも会うのはちょっとだけにしたら?」とオト



「そんなんでええの?」と私


「ちょっとずつが積み重なればいいんちゃう。」とオト


「なるほどね。
点と点が集まれば線になるみたいな?

それってめっちゃ目を細めて遠くから見ないと線にならないんじゃない(笑)?」


そう私が言って


2人で笑いながら夜の散歩をしました。



お父さんのその後

2023-11-04 20:06:15 | 
11月1日(水)
入院先の病院から私の携帯に着信がありました。

父が順調に回復に向かっているとの連絡でした。



心配していた食事もとれているとのことで、きざみ食を食べているとのこと。

『父はまだ生きていける』
そう確信し、母と私は良かった良かったと胸を撫で下ろしたのでした。





11月3日(金)
父の面会に行ってきました。

ナースステーションで面会の紙を記入している間に、看護師さんが車椅子に乗せた父を連れてきてくれました。


父は、私たちを見つけるなり笑顔で両手を大きくふりました。


思っていたより元気そうでよかった
…そう思って安心したのも束の間




父は私たちに声をなかなか出さなかったのです。



しばらくは、話しかけても声もなく頷くばかりでした。



「お父さん、しんどかったもんね。
死ぬかと思うくらいだったもんね。」


救急で運ばれて来た時、父は母に
「死にそう…」と言っていたことを思いだし声をかけてみました。

すると父はやっとのことでかすれた声をだしました。

「申し訳ないことをした…。
こんな風になるなんて…。」

父は小さく震えたかすれた声で、はじめて私たちに「ごめん」と言ってくれました。


お酒のこと?と思いましたが
そうではありませんでした。


父の頭の中はどうやら40才代
勤め先の仕事でとても責任のある仕事をしていたようです。

環境問題に関わる仕事をしていたのを思いだしました。
汚染水や泥水を浄化させる装置を設計したりする仕事をしていたのです。

父の勤め先は家族経営で社長は父の義兄でした。
社員は父の他に何人か居ましたが、仕事のほとんどは父が中心となってやっていました。

そんな状況でしたから、仕事という仕事の責任の重さを一身に背負って頑張っていたそうです。

家では、そんな仕事の愚痴を母に沢山話をしてはお酒を浴びるように呑んでいたのです。


「あぁ、あのことかいな。

あの仕事は成功したやん。大丈夫やで。」


母がいち早く父の言っている意味をくみ取りました。




「いや、何かに感染したんや。
こんなに危ない仕事やと思わなかったんや。」


そう力なく声を震わせて落ち込む父。


「あぁそうや、社長は大丈夫か?」

義兄である社長はもう10年以上前に亡くなっていますが…


「…うん。元気やで。だから心配ないよ。」

そう母が答えました。


はぁーっと言って良かったというふうに胸を撫で下ろしていました。


それから

「だから、もうワシに会いにきたらあかん。お前らにうつしたらあかん。
もう早く帰ってくれ。」

と私たちに言いました。


父はいつもこんなに不安と隣合わせで仕事を頑張ってくれていたんだと思いました。
現場では危険な作業も職人と一緒にやっていたんだと後から母に聞きました。


「お父さん、お父さんは私たちにうつしちゃいけないって思ってくれてるんやね。

早く帰ってほしいなら、もう帰ることにするけど、また会いにくるからね。

何回も来るから。」


父の気持ち(思い込み)を否定しないように、でも見捨ててないよってわかるように
声をかけて帰りました。






家に帰って布団の中で沢山泣きました。

父の力ない姿に、勝手に傷ついてしまいました。


お酒を飲み過ぎなければ、いいお父さんやん‼️

なんであんなに私たちが止めても飲み続けたんやっ‼️って。


ごめんって言えるなら、
酒を呑んでは母や私たちを威嚇していたあの時に言って欲しかった。

せめて、いつも苦労をかけていたって
お母さんには謝ってほしかった…


こんなに、痩せほそって
人生に落胆している父を
施設にいれるしかない今を
どうしたらいいのか

どうしようもない今を
受け止める覚悟を泣きながらでもしていくしかありません…


そして
次会うときには父に

今まで頑張って働いてくれてありがとうと言いたいです。





























手術と気がかりと

2023-10-25 23:07:30 | 
父がイレウス管を入れて1週間

症状の改善はされませんでした。


「管を入れたまま退院か手術か
ご家族で話し合って決めてください」

そう内科の先生から電話があったと
母からLINEが入っていたのが水曜日。

父の体はもうすでに沢山の手術跡でいっぱいだったのと
なぜかその時はもう父は長くないようなしていました。

「管を入れたまま退院で、その後緩和ケアをしてくれるような病院に転院希望です」

そう答える為、金曜日に私から病院に電話をしました。


けれども、内科の先生と話をしてみると、
どうも父の場合『手術をする』の1択しかなかったようです。


肺炎の原因は腸閉塞
腸閉塞を治さないと肺炎は繰り返される

また、7年前の直腸がんの転移も考えられる


そういう訳で
今日父は腸閉塞の手術を受けました。


手術室に入る前に母と私で父の顔を見ました。

意識朦朧としているのか私たちをみても
誰ともわからずにキョトンとする父でした。



そして急に顔を歪めて「喉が痛い」
そう弱々しく呟きました。


飲まず食わずでもう14日

イレウス管を左鼻から入れてずっと耐えてきたのですから、喉が痛いに決まっています。




手術は朝の9時過ぎから始まり12時前には終わりました。
短時間で終わったのでほっとしました。




腹腔鏡をお願いしていましたが、
中を覗くと腸が柵状に何個も癒着していて開腹手術にせざるをえなかったようでした。


開腹してみると腸があちこちで癒着している上に、腸捻転もおこしていたようでした。

癒着はなんとか離してあとはバイパス手術をしたとの事でした。



「お父さん、肝臓がかなり悪いみたいで栄養がほとんどないみたいよ。
普通の健康な人と比べると25%くらいしかない。

この場合、手術の跡やバイパスした箇所がちゃんと修復されるかっていうのがあるね。

あと気になるのが、ご飯が食べれるかっていう事です。
嚥下がうまくできるかなって。

施設や認知症病棟ではどうやったんやろ。

お父さん、食がもともと細い?

お酒のんでたんやったらあんまり食べるタイプじゃなかったんじゃない?」


とてもよく分かってくださるザックバランな先生に心許して

「そうなんです。
お酒で栄養をとっていたタイプなんです。」
なんて言って母と私は困った父の話をポロポロと漏らしては少し談笑をしました。

けれども心の内では
先生の指摘した『気がかり』を気にしていました…



帰りにICUの父を見てから帰ることにしました。


ベッドの上でスースーと寝ていました。


管が外れてスッキリした顔を見て安心しましたので
父に話しかけず帰ることにしました。












暗い夜

2023-10-16 23:56:00 | 
父は腸閉塞の為イレウス管の挿入手術を急遽しました。


鼻から小腸までチューブを挿入し、腸液を排出することで腸内圧力が下がり腸管が開くということを期待するというものでした。


手術前に父のベッドから離れないといけなくなったので
「お父さん、今からちょっと行かなあかんから行ってくるけど必ずまた戻ってくるからね!」
と耳元で言いました。


父は小さく頷いてくれました。


父の元を去った後、待機室に案内してくれた看護師さんが
「実はもうしばらく会えないんですよ。
入院後1週間は面会ができないんです。
1週間後も予約制でご家族の誰かおひとりだけ15分面会になるんです。」



私があまりに『必ずお父さんに会いに行く』と父に強く伝えていたので申し訳なさそうに教えてくださったのです。





そうか…
お父さんに嘘をついてしまった…





ぽっかりと何か穴があいたような気持ちになりながら父のイレウス管手術を待ちました。


待合室の大きな窓にはすっかり夜が広がっていました。
暗い黒い景色の中
時々通る電車の光の流れを
母と私はぼんやり眺めて
父の手術が終わるのを待ちました。



父の手術が終わったのは夜の10時でした。

父 転院

2023-10-16 13:58:55 | 
木曜日、父の認知症病院の担当医師から電話がありました。

「お父様の事なんですけれど、水曜日から嘔吐を繰り返し食事を取れない状況だったようなんです。(水曜日は休診日の為担当医師が対応できなかったとのこと)

今日も腹痛と嘔吐を繰り返して食事もできていないようです。

恐らく、腸の癒着か何かになっているかと思いますので消化器内科がある病院へ転院を進めていってよろしいでしょうか?」


父の腹部はカチカチに固くなって膨れているとの事。


私は仕事にまさに向かっている最中だったのですが…

混乱しながらも優先すべきは父なんだと気付き

すぐに仕事を休ませてもらえるよう職場に電話をかけました。




それから、家まで止めどなく流れてくる涙をマスクで受けながら
夫へ
母へ
電話をし、今からどう動くかを決めながら帰りました。







転院先の病院が決まったのは結局夕方の4時でした。

父が転院先のB病院に救急車で着いたのは夕方6時前。

救急処置室へ入れたのは夕方6時を過ぎてからでした。


細いベッドで寒いと震えている父と対面しました。



「熱が38度あったようなんです。
今、コロナの検査を出していまして
その結果が出ないことにはお布団を貸し出しをできないことになっていまして…。」

そういう訳で
父は風を通さないとされている不織布のシートを2枚被せているだけなんだと看護師さんから説明を受けました。



急に現れた私と母を認識した父が首をもたげました。


「お父さん しんどいって聞いて来たんやで。」

そう言って父の冷たい手を私と母の手で温めました。


今 どこにいて
何でここに居てるかわからない父の顔。

時々やってくる腹痛に顔を歪めながら
父が苦しむ姿を祈るような気持ちでただ見つめることしかできませんでした。



7時頃にやっと救急の医師から呼ばれ
腸閉塞と誤嚥性肺炎になっているようだと知りました。