刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

記紀と日本の保守との関係?(@_@)?

2024-03-30 15:28:12 | 古代史
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刮目天
みなさんは驚かれるかも知れませんが、記紀神話は本居宣長が古事記を発掘して絶賛したことで、それに影響された神道家平田篤胤が復古神道を説いた、江戸時代に作られた新しいものですよ!

それまでは多くの日本人には、記紀神話とは全く異なる、神仏習合、修験道や道教に影響を受けた神話が語られていたのですよ(斎藤英喜「読み替えられた日本書紀」角川選書2020 参照)。

日本書紀で創作された神話は藤原不比等が不都合な建国の史実を隠すためだったのです!

先に完成したとされる古事記は、9世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長(おおのひとなが)が突然、表に出してきたものです!正史に古事記の記録はないし、日本書紀が参照した痕跡もないので、人長の作った偽書ですが今の日本人は天皇の歴史書と洗脳されているので気付けません!日本書紀が隠した史実を、藤原氏に悟られないようにして暴露するために作られた暗号書なのですよ!多くの古史古伝も同じ目的で作られたものですよ。

それに気づけば不比等の意図を読んで推理すると謎の古代史を解くことが出来ます。

例えば富雄丸山古墳の被葬者も分かりましたよ(詳細は「 刮目天 富雄丸山古墳からまた出てくるか?」参照)。勿論、邪馬台国も卑弥呼の墓も発見しています(「刮目天 邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)日本人の信仰が多神教のアニミズムというのも記紀の創作なのですよ。詳しくは「刮目天の古代史」をご参照下さい!


保守」の意味はWiktionaryによれば、(政治) 伝統を守り急激な改革に反対すること。あるいは正常な状態を守ること。とあります。

日本の伝統的な政治形態は天皇陛下を戴く「八紘一宇=天下を一つの家のようにすること」を根本思想とするものだと思います。これについて保守の思想と絡めて少し考えてみたいと思います。

「八紘一宇」は正確には日本書紀(巻第三・神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」)にある文章から抜き出して一部書き換えた第一次近衛内閣の国民総動員令のパンフレット「八紘一宇の精神」が始まりのようです(詳しくはwiki「八紘一宇」にありますがそれ程間違ってはいないと思います)。

当時は日本国民の心を一つにして難局を乗り切るということだったと思います。この高邁な精神の日本がもしも大東亜戦争に勝利していたら今の世界は全く違った、今よりもずっとマシな世界になっていたはずですが、残念ながら日本の敗戦によって「八紘一宇」の政治思想は戦争をもたらした危険思想のような響きの用語と誤解されているようです(*´Д`)

しかし、戦後80年になろうとしている現在、多くの日本人の「今だけ、金だけ、自分だけ」精神を見れば、戦後教育が完全に間違っていたことが証明されていると思います。小学生がいじめで自殺するような社会はまともではありません。堕落し腐敗した政治はこのような国民精神の反映なのでしょう。日本人の精神を元に戻す必要があると思います。

日本書紀は藤原不比等の政治文書ですので、藤原氏の権力の正統化を主張して、藤原氏だけが繁栄することを目指したものです。建前として「八紘一宇」の思想を表に出したに過ぎないのですが、当時の人々も「八紘一宇」を善なる思想・理想と見ていたことは事実だと思います。

つまり、火山列島という過酷な地理的環境に暮らす日本人は、突然発生する自然災害に見舞われたときに、最も身近な家族や仲間の命を護ることが優先されますが、近隣の人々との協力がないと最愛のものも喪います。ですから日ごろから家族のような気持ちで近隣の人々に接するというのが伝統的な日本人の心になっていたということではないかと思います。朝廷を牛耳っていた藤原氏も、当時の人々も怖ろしい天変地異は平等に、建国時代の人々の怨霊によって降りかかると信じていたので、仏教に帰依して、ひたすら神仏の加護を祈り続けたのでしょう。

科学技術の進歩によってこれらは迷信だと考える人々が増えていますが、例えば大地震がいつ起こるかという問題など、まだ科学でも解明できていない問題は数多くあります。上で述べた日本人の助け合い精神を失うと突然の不幸が待っていると思います。日頃の国土強靭化の対策は日本では欠かせないのです。

それを無視する一部の人たちの身勝手な発想の、行き過ぎた社会変革は元に戻さねばならないと思います。例えば、すべての人の努力はそれぞれ報われるに越したことはないのですが、いろいろな事情で、すべての人が報われるとは限りません。自分だけが報われて他の人がひどい目に遭うような社会制度の変革は、間違いです。弱者への十分な手当てが必要ですが、それができなければ止めなければならないのです。社会制度の変革は、「八紘一宇」の精神を基にしてよく考える必要があるということだと思います。そして、良くない変革だと分かった時には、勇気をもって元に戻す精神が「保守」の心ではないかと考えています。

とにかく、今の政権は国民をバカにしています!直ぐにでも辞めさせなくてはなりません( `ー´)ノ
政治と自分の生活は別だとの考えは全く間違っています。政治プロパガンダ「国の借金」は詐欺ですから、緊縮財政から積極財政に舵をきりましょう。消費税は日本国民の命に関わる税制ですから、廃止しましょう!これを主張している政党に任せないと日本は消滅しますよ!

今やっている犯罪者政党よりもマシな選択肢に投票するしかないと思いますよ(;^ω^)

【関連記事】
国民の支持がなくても権力に固執?冗談じゃない!


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日本人も世界共通のヘビ信仰だった!(^_-)-☆

2024-03-29 11:22:26 | 古代史
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#三年も前の動画ですが勉強になる内容でしたので視聴し、いつものようにコメントしました。よろしければお付き合いください(;^ω^)



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高天ヶ原に最初に降り立った神は記紀神話で天御中主神とされていますが、実在人物ですよ!
紀元前4世紀初頭に福岡市早良平野に降り立った最初の王です。吉武・高木遺跡に日本で最初の王墓が見つかっています。宋史 王年代紀にある三代の王天御中主、二代目天村雲尊、三代目天八重雲尊と王族の墓です。



天は「あま」で海を意味し、中はナーガ=龍蛇神ですから江南地方のナーガを信仰する海人族の王という名前です。地名に那珂・那賀・長柄・中山など、ナーガに因むものは海人アズミ族が列島に入植した場所を表しています。紀元前473年呉が越に滅ぼされ、王族が半島南部に倭人に助けられて生活していましたが、寒冷化により南下した模様です。

四代目天彌聞尊(あめのににぎのみこと)が祖父から三種の神器を貰って周辺の糸島半島や福岡半島を平定し、春日市須玖岡本遺跡を王宮とし、奴国隆盛の基礎を築いた人物です。記紀神話ではこの史実をもとに天孫降臨神話を創作しています(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

第十六代王沫名杵尊が西暦57年後漢光武帝より国宝金印を賜っています。その鈕は蛇(ミズチ)を象っていますのでナーガを信仰する民族ということです。つまり新唐書・宋史にあるとおり「日本は古の倭の奴国」で歴代奴国王は皇祖神だったのです。第十七代王伊弉諾尊が縄文海人ムナカタ族の姫伊弉冉尊を娶り、王族レベルで混血が始まりました。その子第十八代王素戔嗚尊(スサノヲ)が伝統的な奴国祭祀から縄文系祭祀に変えようとしたので宮廷楽師の師升らが反乱し、スサノヲから金印の在りかを聞き出すために拷問し、手に入れることができなかったので殺したと推理しています。スサノヲの部下のアズミ族が金印を持って逃亡し、その途中志賀島に立ち寄与って埋めたと考えられます(「【金印贋作説】亀井南冥は冤罪でしょう!」参照)。



日本は奴国を脱出したスサノヲの弟ニギハヤヒやスサノヲの王子イタケルのその子孫が師升王の一族を滅ぼして三世紀末に日本が建国されます。日本最古の歴史書が天皇の歴史書だと洗脳されているので気づかないのですよ。ちなみに卑弥呼の墓径百余歩の日本最大の円墳「三柱山古墳」も見つかっていますよ(「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)。詳しくは「刮目天の古代史」をご参照ください。

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日本と大陸・半島とは古くから一体だった‼

縄文中期から縄文人もヘビを信仰するようになっていますから、日本人は蛇を信奉する民族で間違いないのです。鏡は太陽信仰のシンボルと思えますが、実は鏡(かがみ)は「カガ=蛇」そして「ミ=目または霊」からきた言葉ですよ。吉野裕子「蛇」にありますが、蛇神は男性のシンボルでもあり、石棒が崇拝されています。安心院町三女神社の三柱石がその石棒です。半島の東海岸に男根公園がありますが、縄文系の人々が祀ったものですよ(^_-)-☆

日本書紀に基づく神道の祝詞には、神代に八百万の神々が居て、山川草木に神が宿るとされ、アニミズムによる多神教だったように考えられていますが、縄文時代の人々はこのようなアニミズムでは説明できない宗教観を持っていたことが分かってきました。佐藤弘夫「日本人と神」(講談社現代新書)の中で、「人類がカミと感じるのは人々に畏怖の念を抱かせる自然現象(イナズマ・台風・太陽・月の天体運行など)や超人的な能力の動物(クマ・鳥・マムシなど)や、巨木・巨石などの奇観のスポットという具体的なモノであり、これらが始原的なカミの姿だった」と説明されています。

日本人の信仰がアニミズムというのは記紀の創作なのです。

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆





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銅鐸祭祀は何故、消えた?(@_@)?

2024-03-27 15:08:14 | 古代史
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邪馬台国の有力候補に急浮上?伊都国東遷説について説明します!【邪馬台国論争】
岡上佑の古代史研究

@kyupytarou
伊都国東遷説
ざっくりの解説ありがとうございます。

九州説 畿内説 どちらでもない説

古代史に興味を持って日が浅い立場から一言申し上げます。

本編でも触れておられましたが銅鐸から銅鏡に様変わりしたのは何故なのか…祭祀の流行が一変した要因がキモだと思っています。

卑弥呼の銅鏡百枚が一変する要因なのか…

妄想に答えはありません。

明日 富雄丸山古墳の現地説明会行ってきます。
妄想広げて来ます。


岡上佑の古代史研究室
すごいですね!多分ものすごい人でなのでしょうね!! いきなりシンボルを切り替えるというのは、当時の宗教的・迷信的な世界観としては、一大事ですからね!よほど大きな事件があったと考えて、不都合全くないと思います。

刮目天
とても素晴らしいもうそうです(^_-)-☆
祭祀の方式が変わるのはそれなりの、大変なことがあったからだと思います。
もともと銅鐸は弥生中期の奴国宮廷での伝統的な祖霊祭祀で使われた高さ10cm程度の舌のある小銅鐸でしたが、縄文系の人々が金属器の魅力から取り入れ祖霊・穀霊の祭祀を行い徐々に大型化して、しまいには据え置きのバカでかい「見る銅鐸」になりました。縄文人は創意工夫が上手で現代日本人に受け継がれています(^_-)-☆


二世紀初頭に奴国が宮廷祭祀の楽師師升らの反乱で滅ぶと、スサノヲ大王の王子イタケルが奴国から出雲に逃げ、その子孫が縄文海人ムナカタ族の王として半島南部の鉄素材を供給する鉄のネットワークを作り、隆盛になりました。恨みのある師升王の一族の倭国は半島の混乱で衰退したので、抗争が激化します。リーダーの権力が強大化し、各地の部族長も元締めの王(狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久久遅神社の祭神で木の霊イタケルの子孫)と血縁関係を結んで序列化し、部族内の権力が増大したのだと思います。出雲地方発祥の大型四隅突出型墳丘墓が日本海沿岸などに普及し、墳丘上で首長霊祭祀を行って首長の継承儀礼が行われます。縄文系の人々の銅鐸祭祀が東に移行しながら消えて古墳時代に入ります。


クリックすると、王や妃など人物の様子が見れますのでどうぞ(^_-)-☆


鏡は縄文海人族の太陽神信仰の祭器です。卑弥呼も縄文系ムナカタ族の姫巫女です(宗像女神イチキシマヒメ)。太陽神が憑依して神託を述べるのを巫(かんなぎ)が解読して皆に伝えるシャーマン王のヒメ・ヒコ体制で部族を指導していたそのままの形で古墳時代になっても継続したということでしょう(^_-)-☆

【関連記事】
国引き神話は史実だった?(その1)(その5)西谷墳墓群の被葬者は?
出雲国風土記の八束水臣津野命は最期の奴国王スサノヲの孫で、各地に散っていた部下を出雲に集め、裏切り者の倭国王師升らに復讐するために半島南部の鉄のネットワークを作ったと推理しました。鉄素材を大分県大野川流域から熊本県阿蘇山麓に集め、鉄製武器を供給する鍛冶集落を数多く造り、山鹿市方保田東原遺跡に山陰から畿内の兵士を集めて、佐賀平野筑紫平野などの倭国の集落を襲い倭国王難升米を苦しめました。倭国大乱です。

大倭日高見国が日本建国の謎を解く
八束水臣津野命から三代の王が日本建国の主役でした。最後の大国主久々遅彦が纏向遺跡の狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)に討たれて日本が建国されます。大国主の祟りで初代祭祀王として、台与との間の子ホムダワケが両親の祭祀王として纏向遺跡に呼ばれました。初代天皇応神(大田田根子)です。藤原不比等は建国の史実が不都合だったので神話を創作して隠しました。しかし、人々の心まで完全に隠すことはできなかったので、考古学や民俗学などの成果から推理できました(^_-)-☆


【検証22】難升米という人物は?(その1)
奴国を滅ぼした師升王の末裔の倭国王難升米が、「魏志倭人伝」で伊都国男王、一大率、男弟、そして魏への使者の大夫(たいふ)と、それぞれ、別の人物が居るかのように記載された理由は、倭国が女王を統治者とするエキゾチックで遠いところにある大国として魏の朝廷の人々の興味を惹くためだったということです。

女王卑弥呼は、本当は倭国の統治者ではなく、縄文海人ムナカタ族のシャーマン王赤坂比古(卑弥呼の父、伊聲耆=年老いた巫(かんなぎ)、古代豪族和邇氏の祖)に太陽神の神託を与える、王族の巫女(ひめみこ)だったと推理しています。古琉球および琉球王国を中心に沖縄で信仰された琉球神道の原型と考えられる原始的な信仰を鬼道ということにして難升米が魏側に伝えたのだと考えています。難升米は、卑弥呼の伝える太陽神の神託を倭国の政治に取り込むことで、沖ノ島経由の海北道中ルートを支配しているムナカタ族を懐柔したと推理しました。倭国と敵対する狗奴国側に半島南部の鉄を供給させないためです。


【吉野ヶ里遺跡】石棺の謎が判明した?
エジプト文明でもそうですが、太陽神信仰は鳥とも関係します。縄文海人ムナカタ族が作ったと考えている唐古・鍵遺跡出土の男女の祝(羽振り)を描いた土器の線刻画から分かります。吉野ヶ里遺跡謎のエリアの石棺の被葬者は卑弥呼の宗女台与の父で近江・北陸・越のムナカタ族を率いる王息長宿禰王(おきながすくねのみこ)と推理しました。巨漢だった大国主久々遅彦の国造りのパートナーですが、極端に小柄でしたので大国主神話で少彦名命(すくなひこなのみこと)とされています。米原市日撫神社の祭神として祀られていますよ(^_-)-☆



王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)





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大倭日高見国が日本建国の謎を解く(^_-)-☆

2024-03-24 10:59:26 | 古代史
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刮目天
いい話題をありがとうございます。
日本書紀が一番隠したい人物に関係する国々が大倭日高見国(おおやまとひだかみのくに)で、その中の日高見国は北上川流域を指しています。つまり、最後の奴国王スサノヲ(宋史 王年代紀第十八代王)の子孫の三代の王が、出雲・丹波を根拠地として、日本海沿岸部などの縄文海人ムナカタ族を束ね、日本建国に活躍した、本当の初代天皇応神(オオタタネコ)の系譜だったことを突き止めました。

日本書紀は日向三代神話の初代で神武天皇の曾祖父ニニギノミコト、神武の祖父二代目ホオリノミコト(山幸彦)、神武の父三代目ウガヤフキアエズノミコトとして史実を隠したのです。

日本書紀ではニニギの父で女神アマテラスの子正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊とされていますが、藤原不比等が天武天皇の皇后で持統天皇とした鸕野讚良(うののさらら)と組んで皇位を簒奪したことの正統性を言うために高天原神話と天孫降臨神話を創作したのです。



古事記は日本書紀で隠された史実を藤原氏に悟られないようにして暴露するために九世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出してきたものです。正史にも記録はありませんし、日本書紀が参照した痕跡もないのですから、人長が作った偽書なのですが、多くの人々は、記紀が天皇の歴史書だと信じているので気付かないようですよ(#^.^#)

つまり古事記は日向三代の初代の別名を天津日高日子番能邇邇芸能命(あまつひこひこほのににぎのみこと)、三代目を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこ ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと)としています。二代目だけ天津日子穂穂手見命としていますが、富士市高尾山穂見神社の主祭神が天津日高日子穂穂手見命とされていますので分かります。

日高見は穂高見「ほだかみ」のことで、「ほだ」は炉やかまどでたくたきぎ。小枝や木切れなどのことです。つまり、高天原をスサノヲと共に追放されて出雲にたどり着いた木の霊五十猛命(イタケルノミコト)を指していますので、日高見(穂高見)はその子孫を示唆しています。出雲三代の史実の詳細は「日向三代神話は出雲三代がモデルだった!」をご参照ください!


【関連記事】
赤坂今井墳丘墓の被葬者は?(^_-)-☆


王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆






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【邪馬台国論争】纏向遺跡説がダメな理由(#^.^#)

2024-03-22 22:27:41 | 古代史
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#今話題の邪馬台国纏向説がダメな理由を分かり易く述べている動画がありましたので、早速コメントしました。皆さんは、ちょっと飽きられているかも知れませんので、少し気が引けますが、よろしければ、お付き合いください。まずは動画をどうぞ!(#^.^#)



纏向遺跡が邪馬台国ではないという反論に対して纏向説の人は真面目に答えようとしていません。

それどころか、NHKを使って印象操作だけで一般大衆に纏向説を押し付けようとしているようです。

これは真実を科学的に探究する学者の姿勢ではないのです。

反論できないのだから結論として、纏向遺跡に卑弥呼はいた、邪馬台国だと言うのは単なる思い込みだと言えますよ。(^_-)-☆

倭国の玄関口であった北部九州の土器が纏向にほとんど見られないことは致命的だと思います。

むしろ、纏向遺跡の前方後円墳で重要な祭祀を行って、東海や山陰など九州以外の人々が参加しているのに、

九州の人は参加していないということは、九州の倭国の人々と敵対勢力だったことになります。

纏向遺跡でヤマト王権が3世紀後半に成立するわけですから、纏向遺跡の勢力が邪馬台国を滅ぼして、

何らかの理由でヤマトと名乗ったというのが分かり易いです。

つまり纏向遺跡は邪馬台国のライバルの狗奴国だったのが、ヤマトと名乗らざる得ない事情があったと推理できますね(^_-)-☆

こういう事実による妥当な演繹的推論を考えない、非科学的な姿勢の研究者が邪馬台国問題を仕切っているのが現状でしょう。詳しくは「なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?」ご参照ください(;^ω^)

【日本建国の概略】

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆日本神話は藤原不比等が不都合な史実を隠すために創作したのですよ(^_-)-☆


倭王帥升(すいしょう)は何者だ?

二世紀後半の後漢桓帝・霊帝の時代に宦官と豪族の権力闘争から、後漢は衰退し、半島支配が崩れて大混乱したので、倭国は対外交易が停滞し、国力が弱まっていました。

一方、日本海沿岸部を根拠地とする縄文系ムナカタ海人族を束ねる、帥升に殺された奴国大王スサノヲ(「宋史」 王年代紀第十八代王素戔嗚尊)の子孫(狗奴国の官狗古智卑狗、久々遅彦、ムナカタ海人族を束ねる王の襲名)が半島南部の鉄素材を狗奴国勢に供給して隆盛になって、倭国の領土をしきりに攻撃し倭国を滅亡寸前まで追い詰めていました。
【検証18】倭国大乱の痕跡だ!
弥生後期後半の鉄鏃・銅族の出土状況の調査結果から分かりました

ところが、公孫氏が半島を平定し、204年に帯方郡を設置したので、倭国は息を吹き返し、油断していた久々遅彦(日高彦)が伊都国男王難升米に討たれてしまいました。玄界灘の海運を担って、半島南部の鉄素材を狗奴国勢に供給していた、日高彦の右腕ムナカタ族の赤坂比古(卑弥呼の父、倭大夫伊聲耆、和邇氏の祖)が難升米に懐柔されました。

【邪馬台国問題】魏志倭人伝は信用できるのか?
238年公孫氏を討った魏の実力者司馬懿が倭国王難升米に朝貢を促し、帯方郡における両者の交渉で、司馬懿を持ち上げるために、ライバルの呉を東方海上から挟み撃ちにする戦略上重要な位置に東夷の大国の倭国の都「邪馬台国」が在るとして、外交上卑弥呼を倭国女王ということにしました。
伊都国の意味がヒントだった?
邪馬台国への行程記事は難升米が書いて教えたことが分かりました(^_-)-☆

卑弥呼の墓は見つかってるよ!
邪馬台国とされた場所は赤坂比古の要害堅固な居城宇佐市安心院町宮ノ原遺跡です。卑弥呼は三女神社を宮室としていた宗像女神イチキシマヒメですよ。径百余歩の墓は三柱山古墳です。墓の横の地名が血野です。百余名の奴婢を殺して殉葬したことを示唆しています。墓の南約400mの遥拝所がヒカケ三女神社です。247年3月24日の日没直前の日食のために殺されたことを示唆していますよ(^_-)-☆



親魏倭王卑弥呼が死ぬ直前の列島の様子が上の図です。日本書紀は仲哀天皇の熊襲征伐の話にしていますが、纏向遺跡の狗奴国が倭国追討軍を送ります。

狗奴国軍が到着すると、卑弥呼の死を知った弟赤坂比古が戦意を喪失したので、倭国は総崩れとなり、難升米は半島に逃亡。無傷で倭国を手に入れた尾張王が倭国王に立つと、それに不服とした副将の久々遅彦が赤坂比古を味方にして尾張王を討ちました。久々遅彦は魏使張政の進言で、13歳の台与を女王に立て、狗奴国王を裏切りました。半島の鉄資源を手に入れて、華僑や韓人との対外交易によって倭国が隆盛になり、列島主要部の勢力をほとんど傘下にしたので、後世、大国主と呼ばれました。当時最先端の高温鍛冶技術も惜しまず傘下に提供したので、大人気の神様ですが、祟りが最も恐ろしい!(*´Д`)


尾張王建稲種命(熱田神宮祭神、ヤマトタケルのモデル)が父の仇の大国主・台与と赤坂比古を苦難の末に討ち取りました。記紀の景行天皇の九州遠征の話とされていますが、遠征ルート上に尾張勢が好んで用いた銅鏃を発見しましたので史実と分かりました。青谷上寺地遺跡を襲撃したのも尾張勢だと分かりましたよ(#^.^#)

【検証26】建稲種命の終焉の地は?
さらに纏向に帰還すると、卑弥弓呼大王(記紀の崇神天皇)に大国主の傘下を鎮撫する命令を受け、早速遠征に出かけました。駿河国で流れ矢に当たって戦死し、沼津市高尾山古墳に葬られたと推理しました。

後を継いだ尾張王と物部勢が遠征して、卑弥弓呼大王が列島を統一しました。日本書紀では崇神天皇の四道将軍の話になっています。
【検証19】日本建国のための戦いだ!

三世紀後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況の分布から崇神天皇から応神天皇即位までの約350年の話に引き延ばされていることが分かりました(^_-)-☆

スサノヲの弟ニギハヤヒ大王の子孫で、卑弥弓呼大王と同族の尾張王をモデルとした仲哀天皇は父ヤマトタケルが死んで38年後に生まれた計算になるので、日本書紀の杜撰な作り話ですよ(#^.^#)




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