刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】今年の大発見第1位!(^_-)-☆

2023-12-30 23:04:33 | 古代史
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いよいよ令和五年(2023年)の大発見第1位です。考古学的にはこの発見が最大の話題だったと思います。一気に国宝級の超豪華な副葬品が二点も発掘されて、日本中沸き立ったのではないかと思います。一体誰の墓だろう?と皆、首をかしげているはずです。しかも大和盆地で前方後円墳ではない大型の円墳ですから、天皇の墓ではない有力者のものだと考えている方が多いのではないかと思います(^_-)-☆



ところがこれは、「富雄丸山古墳の被葬者は?(^_-)-☆」で述べたとおり、紛れもなく天皇の墓だと思います。それも、記紀には登場しない天皇です。そ~なんです、日本書紀が隠した天皇のひとりです。播磨国風土記に登場している宇治天皇ですから、応神天皇の皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ)です。

応神天皇崩御後に、異母兄の大山守皇子が反乱を起こすのですが、同じく異母兄の大鷦鷯尊(おほさざきのみこと、仁徳天皇)が事前に菟道稚郎子に知らせたので、大山守皇子は殺されます。菟道稚郎子は皇位を大鷦鷯尊に譲ろうとするのですが、大鷦鷯尊も辞退し、3年の空位の後に菟道稚郎子が自殺したので結局大鷦鷯尊が即位することになったという美談?となっています。古事記では病死だそうです。大鷦鷯尊は有名な民の竈(かまど)の話にあるように善政を行ったので聖帝(ひじりのみかど) とされています。

これとそっくりな話があります。初代神武天皇の崩御の後の異母兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)の反乱を知った兄弟、兄神八井耳命(かんやいみみのみこと)と弟神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと、綏靖天皇)が先手を打って弓で暗殺することになりました。兄は手が震えて弓を射てなかったので、代わりに弟が手研耳命を射殺したことで、兄がこれを恥じて皇位を弟に譲ったということになっています。



しかし、仁徳天皇即位の話もとてもあり得ない作り話として疑われるので、架空の初代神武天皇を創作し、崩御後の皇位争いの前例を作って、皇位争いはよくあることだとしたようです。応神天皇が初代天皇であることも同時に隠したのです。しかし、なぜ隠すのかを考えると、ここに藤原不比等が隠したい大きな秘密があったと分かりました。それは、天武天皇の崩御後に即位していた長男の高市皇子を藤原不比等が暗殺して朝廷の権力を握った経緯を隠し、権力の正統性を押し付けるためだったと推理しました。

日本書紀では高市皇子の母は宗形徳善の娘尼子娘(あまこのいらつめ)で、身分が低いために即位できないので高市皇子は太政大臣になったとされていますが、高市皇子の長男長屋王が皇子であることを示す長屋親王と記された木簡が広大な邸宅跡から発見されていたのです。つまり高市皇子は天皇だったのです。

そして応神天皇の皇太子菟道稚郎子の母は、和邇氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘宮主宅媛(みやぬしやかひめ)で、和邇氏は縄文海人ムナカタ族だったことは天理市和邇坐赤阪比古神社のご祭神が宗像女神市寸島比売命(いちきしまひめ)卑弥呼であることから分かりました。卑弥呼が倭国王難升米に暗殺された原因が、247年3月24日の日没直前の日食でしたので、日食に因むような名前の日触使主は和邇氏の祖で卑弥呼の弟赤坂比古のことだったのです。和邇氏は五世紀の雄略天皇や六世紀の継体天皇など、天皇の后妃を出していますから、和邇氏がムナカタ族の系譜だったことも隠したのです。不比等は近江八幡市の和邇氏の祖である卑弥呼や赤坂比古を祀る社(やしろ)にわざわざ出かけて、社名を日群社(ひむれのもり)に変えさせた証拠となる歌が日牟禮八幡宮に残っています。恐らく元は日蝕社(ひはえのもり)だったと推理しています(詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)。

そして応神天皇崩御後の史実は、ヤマト王権成立の過程で起きた狗奴国の内部抗争に関係する話だったのですが、日本書紀では神武東征神話を創って史実を誤魔化しました。仁徳天皇の母は応神天皇の皇后仲姫命(なかつひめのみこと)で、品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田屋野姫命(建稲種命の女)とありますが、景行天皇は尾張王建稲種命のことなので、仲姫命は尾張王の一族なのです。卑弥呼の死後に、尾張王建稲種命の父乎止与命(をとよのみこと)が倭国討伐軍の大将として、倭国軍を蹴散らし、倭国王に立ちました。それに不服だった大国主の新たに部下となった卑弥呼の弟赤坂比古(愛宕権現)に直接討たれたので、建稲種命は父の敵討ちで、大国主、女王台与と赤坂比古を討ったのです。この史実は日本書紀で景行天皇の九州遠征の話になっています(詳細は「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」参照)。ですから大国主の子である応神天皇は和邇氏腹の菟道稚郎子を皇太子にして、応神天皇の崩御後に宇治天皇が即位しました。恐らく和邇氏一族が隆盛になって尾張の地も所領にしたので、尾張氏腹の大鷦鷯尊が暗殺して皇位を奪ったようです。

そして大鷦鷯尊は菟道稚郎子の妹八田皇女(やたのひめみこ)を妃としていましたので、二人の間に生まれた長子と推理した住吉仲皇子(すみのえなかつみこ)に仁徳天皇崩御後に皇位を与えたと推理しています。しかし、日本書紀で長兄とされた大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと、履中天皇)と弟水歯別命(みずはわけのみこと、反正天皇)に暗殺されました。そのために、住吉天皇の皇子雄朝津間稚子宿禰皇子(おあさつまわくごのすくねのみこ、允恭天皇)が履中天皇と反正天皇を暗殺、という悲劇の連鎖が倭の五王の時代に起こったと推理しています。

多くの方が日本書紀を天皇の歴史書だと思い込んでいたために、不比等の日本書紀編纂の一番大きな目的に気付かなかったようです。古事記を作った九世紀の学者多人長(おおのひとなが)は多氏の祖神を神武天皇の皇子神八井耳命としていますが、本当は菟道稚郎子に繋がる一族だったので、隠された史実を藤原氏に気付かれないように暴露する暗号書にしたのだと分かりました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)(その3)」参照)。



ということで、仁徳天皇に暗殺された宇治天皇(菟道稚郎子)の母方和邇氏一族によって遺骸が引き取られて富雄丸山古墳に立派な副葬品とともに埋葬したと推理しています。菟道稚郎子は宇治市莵道丸山にある宇治墓(うじのはか)を宮内庁は治定していますが、和邇氏の祖(卑弥呼とその父赤坂比古、弟日触使主)がすべて巨大円墳に葬られていることを見つけていますので、それに次ぐ大きさの大型円墳である富雄丸山古墳の被葬者は宇治天皇(菟道稚郎子)でしょう。天皇ですので本来は前方後円墳で葬られるはずでしたが、仁徳天皇に配慮して和邇氏がその領地で密かに埋葬したのだと思います。


(詳細は「卑弥呼の巨大円墳が日本最大だよ!」参照)


今までに見られない超豪華な副葬品が発見されましたが、蛇行剣文字通り剣身が蛇のように曲がりうねっている(蛇が進行しているさまの如く)形状をしており、東南アジアの蛇信仰が源流のようです。国内で出土したものは70本近くあり、本州から37本が出土し(この内、中部地方出土のものは12本)、残りの半数は南部九州地域に集中し、広域に分布を見せながらも、南部九州に集中しているという空間的に限定された二つの背反する現象となっています。80cmを超えるものは富雄丸山古墳のもの以外にありません。

また、鼉龍文盾形銅鏡(だりゅうもんたてがたどうきょう)は富雄丸山古墳以外には見られないものです。「」という漢字は「ワニ、特にヨウスコウワニ」という意味とあります。富雄丸山古墳の「富」は、「とび、蛇神」です。出雲市富神社(とびじんじゃ)で見たように祭神は八束水臣津野命と天之冬衣命(大国主の父、魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗、久久比神社祭神久々遅命)で大国主までの出雲三代は龍蛇神なのです。「富雄」は「富尾」とみると大国主の子孫という意味になります。そして「和邇氏」は「和珥」「丸邇」「丸」とも書かれるので、「丸山」は和邇氏の円墳という意味だと思います。




富雄丸山古墳の北側は奈良市中町ですが、「中」は「ナーガ、龍蛇神」という意味です。天平8(736)年、聖武天皇の勅命で、行基が建立した霊山寺(りょうせんじ)があります。薬師如来が本尊ということですが、大国主を表す毘沙門天立像と台与の本地仏の十一面観音立像が重文に指定されています。霊山寺の裏に葛上神社(くずがみじんじゃ)があり、主祭神は建速須佐命(たけはやすさのおのみこと)ですが、相殿に大山咋神(おおやまくいのかみ) 杣谷大明神社(そまたにだいみょうじん)、天照大神(あまてらすおおみかみ) 天照皇大神社、三筒男命(みつつおのみこと) 住吉神社があります。「葛上」は「九頭龍」と同じで「国津神(くにつかみ)」を意味するようで、すべて大国主を祀っているのです。さらに霊山寺奥之院では弁財天卑弥呼を祀っていますので、和邇氏の一族が祀っていたと考えられます。

ということで、今年も一年間、皆様のご支援で大発見をいくつもできました。どうも有難うございました。大きな怪我や病気にもならずに、夏には九州旅行をして数多くの史跡を見学してとてもいい成果が得られました。来年もまたお付き合いのほど、どうぞよろしくお願いいたします。それでは皆様、良いお年をお迎えください(#^.^#)。

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【刮目天の古代史】今年の大発見第2位!(^_-)-☆

2023-12-28 23:55:18 | 古代史
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今年の第2位はこれでしょう。発掘説明会の動画を何度も見ました。知事さんと同様に心がときめきました。いや、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国とは考えてはいませんが、被葬者が気になったので今年の夏に吉野ヶ里遺跡の新築日吉神社に行ってきました。なんと、「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?(@_@)?」で述べたとおりでしたので、とても驚きました(@_@)!

ご神体の薬師如来像と周りの石祠から分かりました。被葬者はやはり大国主の国造りのパートナーでした。石棺の横幅から肩幅が36cm? 子供と変わらないサイズです。石棺の内部に朱が敷かれていたようですし、場所的にも遺跡全体を見渡せる位置です。そして石の蓋に彫られた記号のような絵は星座を表しているとの説が有力です。高貴な女性の墓でしたら首飾りなどの玉類が沢山出てきたはずです。ですから男性のシャーマン王の墓でいいと思います(^_-)-☆


(クローズアップ現代 2023年7月4日 午後2:52 公開 より)


卑弥呼の死後に大国主久々遅彦が尾張王乎止与命(をとよのみこと、記紀の仲哀天皇)との内戦に勝利して13歳の台与を卑弥呼の跡の女王に立てて、魏を後ろ盾として狗奴国と対立したのです。台与は神功皇后のモデルとなった人物ですので、その父が近江・北陸を拠点とするムナカタ海人族の息長宿禰王(おきながすくねのみこ)です。石棺の被葬者はこの人物だと推理しています。



息長氏の根拠地である滋賀県坂田郡、現在の米原市日撫神社(ひなでじんじゃ)に少毘古名命(すくなひこなのみこと)・息長宿禰王(おきながすくねおう)・応神天皇が祀られています。「延喜式神名帳の坂田郡五座の一つ。神功皇后戦勝祈願復員の時にお礼として建立したと伝えられています。そのため歴代天皇の厚い崇拝がありました。」とあります。

祭神の応神天皇は正史「日本書紀」では仲哀天皇が父となっていますが、仲哀天皇はその父日本武尊(やまとたけるのみこと)が薨去して38年後に生まれた計算になりますので、どちらも架空の人物なのです。応神天皇の本当の父は大国主久々遅彦で、母が台与と推理しています。米神(めのかみ、首長霊)信仰では応神天皇は父の霊を身に纏っていると考えられていたので古代人にとっては矛盾はないのですが、表向き大国主を隠すために祭神としたと考えられます(^_-)-☆

ちなみに、大国主久々遅彦は豊岡市久久比神社で祀られていますが、その隣の地区が日撫なのです。だから、人々が太陽神である天照皇大神大国主命をとても慕っているので、日撫という地名になったのだと考えています。豊岡市日撫は「ひなど」と呼ぶようですが。

ついでですが、滋賀県野洲市須原13に苗田日撫神社(なえたひなでじんじゃ)という小さな社を見つけました。祭神は天照皇大神とありますので、大国主久々遅彦のことですね(^_-)-☆その隣に兵主大社があります。「旧中主町のほぼ中央にある神社で、平成30年には建立1,300年を迎える歴史ある神社です。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、別名八千矛神(やちほこのかみ)です。奈良時代初めの創建という、県下でも有数の古社です。」だそうですから、この地区でも大国主はとても人気がありますね。

そして大国主は身長七尺(約2.2m)の猿田彦(さるたひこ)を分身とするので、恐らく巨漢だったようです。上述のとおり、息長宿禰王が極端に小柄な人物だったので大国主神話で二人の対比で少彦名命とされたと考えています。少彦名命は御伽草子の一寸法師のモデルとも言われています。当時は子供には、大人にない特別な能力があると信じられていたようですので、鬼退治の主人公として子供がよく取り上げられているのだと関裕二さんが指摘していました(^_-)-☆

息長宿禰王の系譜は開化天皇の皇子彦坐王(ひこいますおう)の曾孫となっています。しかし、父迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ)は「迦邇(かに)」が尾張、「米(め)」が「頭目(かしら)」を意味しますので尾張王という意味です。そして「雷王」ですから国譲り神話の「タケミカズチ」を連想しますので、日本建国の英雄の尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと、日本武尊のモデル)が正体である景行天皇と同一人物となりますから、息長宿禰王の系譜を誤魔化すために作られた系図だと推理しています。日本書紀には事績が記されていない彦坐王の名前も、架空の人物だと直ぐに分かるものですから、ちょっと笑ってしまいますね( ^)o(^ )



息長宿禰王は上記のとおり近江坂田郡とヒスイの産地である糸魚川下流域を根拠地とするムナカタ海人族と見ています。弥生後期の国内最大級の集落伊勢遺跡もこの部族が造ったので、伊勢神宮外宮に豊受大神台与が内宮よりも先に祀られたと考えられます。だから伊勢神宮に天照大神を祀ったのでしょう。伊勢周辺ももとは息長一族のテリトリーだったと考えています。ニギハヤヒ大王の子天香山命が吉備から大和の葛城に進出し、葛木坐火雷神社を宮として鏡作りの工人を抱えていたので、その子孫乎止与命を、息長宿禰王が尾張に呼び寄せたのではないかと考えています。ですから尾張王と親密な関係だったので、台与が仲哀天皇の皇后とされたのだと思います。初期の前方後方墳も東近江市神郷亀塚古墳が発祥で、乎加神社(おかじんじゃ)では台与を豊遠迦比売命(豊岡姫命)・白山比売(白山比咩神)として祀っていると考えています。尾張王は狗奴国王卑弥弓呼(ひこみこ、記紀の開化・崇神天皇)の前方後円墳に対抗して、近江の前方後方墳を継承したのだと思います。尾張に青銅器職人が多いので近江でも大型の三遠式銅鐸が作られたのです。また、尾張勢は鉄鏃よりも銅鏃を好むようなので、尾張王の足跡を発見できました。鉄のネットワークを握って隆盛になっていた出雲三代の久々遅彦(王の襲名)と尾張王の関係は、もともとあまり良くなかったのではないかと思います。

そして日本書紀では、本当の初代応神天皇の史実を誤魔化すために神武天皇を登場させていますので、記紀で神功皇后とされた台与は、神武天皇の母玉依姫に対応します。ですから神武天皇の父ウガヤフキアエズが大国主のことなのです。すでに「日向三代神話は出雲三代がモデルだった!」で述べたとおりです。米原市の北が長浜市ですから出雲の国引きの神八束水臣津野命(略称、八束命)の別名長浜明神(記紀の海神豊玉彦)に因む地名になっています。長浜市内に長浜明神社を探したのですが、見当たりませんでした。しかし「長浜」という地名が残っていますので、多分どこかの神社の境内社か摂社として隠されているのだと考えています。長浜市竹生島に弁財天卑弥呼が祀られていますが、竹生島竜神拝所があり、その向かって右手には、仏教の守護神「八大龍王」がありますので、八束命を祀っているのではないかと考えられます(「龍ゆかりの神社⑥竹生島」参照)。つまり、息長氏も出雲三代の王に従う縄文系ムナカタ海人族ということなのです(^_-)-☆





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【刮目天の古代史】今年の大発見第3位!(^_-)-☆

2023-12-27 10:00:25 | 古代史
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2023年は数えるところ残りわずかになってきました。今年も皆様の応援で古代史の探求を行ってきましたが、心に残る大発見をいくつもしたと思います。表現力不足でその重要性を伝えきれていませんが、改めて思い起こしたいと思い、このテーマにしました。今回は、日本建国の真の英雄で、残念ながら日本書紀で隠された尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと)の終焉の地で発見した沼津市高尾山古墳について取り上げます。半年前の下の動画にコメントしましたが、本日、コメントに「いいね」がつけられた連絡がありましたので思い出しました。よろしければ、お付き合いください(#^.^#)



いい話題をありがとうございます。被葬者が判明しています。尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと)です。熱田神宮の祭神で、記紀で景行天皇とされた方ですが、天皇ではありません。纏向遺跡を王都とした狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤記、記紀の崇神天皇)と同じ宋史王年代紀第十九代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫です。神武東征ですでにヤマトに降臨していたという神話は、ヒコミコがヤマトの大王だったということです。詳しくは「【検証26】建稲種命の終焉の地は?」をご参照ください。お邪魔しました( ^)o(^ )

【関連記事】
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サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?

弥生時代後期後半と終末期~古墳初頭のデータを公開しています。以下のリンク(1)及び(2)をクリックしてGoogle MyMapにジャンプしてください。
(1)倭国大乱(後期後半)の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)
(2)終末期~古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況(by 刮目天)
ご興味のある皆様と意見交換し、有意義な議論によって研究を進展させるのが目的です。疑問に思ったこと、その他ご質問を歓迎します。なお記号などの詳細は上図および「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」をご参照ください。

国譲り神話の史実は?(^_-)-☆
不比等は日本建国の史実を隠すために国譲り神話も作って、建稲種命に申し訳ないので藤原の氏神タケミカズチとしてしっかりと祀っていますよ。やはり、日本人なのでホットしますね(^_-)-☆


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歴史の噓を暴露してくれるの?!(#^.^#)

2023-12-20 20:06:12 | 古代史
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いい動画がありましたので、いつものコメントしました。よろしければおつきあいください(;^ω^)




いつも楽しませてもらっています。とても上手に話されるので、つい引き込まれますが、神武天皇や欠史八代の話などは日本建国の史実を隠すために作られたもので事実ではないということに気付かないと、本当の日本の古代史を見つけることができないですよね(*´Д`)

多くの皆さんは日本の現存する最古の歴史書が天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと習ってきましたが、正史「日本書紀」の完成は崩御して34年後なのです。その時の権力者は藤原不比等ですので、天皇の歴史書の姿を借りて藤原氏が権力を握り続ける正統性を述べる文書だったのです。

天武天皇の妃鵜野讃良(うのさらら、持統天皇とされていますがウソ、日本には女帝は存在していません、詳細は「不比等はイエス様に匹敵する?」参照)と組んで、優秀な皇子たちを謀略で殺し・排除し、鵜野の孫の文武天皇を15歳で即位させて、不比等の娘宮子を妃にしました。律令制度を整えることにより、建国時代に活躍した先祖を持つ豪族の台頭を抑えるためにでたらめな建国神話を作り、天皇の外戚となって、天皇を貶めて、嘲笑し、天皇の権力さえも奪ったのですよ。

日本書紀はその集大成でしたので、720年の完成を見て安心して不比等は亡くなりました。藤原氏の子孫たちも相当やり手で、悪辣でしたので、ライバルはほとんど謀殺されたり、失脚させられて藤原氏が天下を握り続けます。社名や神社伝承や祭神名までも藤原氏が中臣氏に命じて日本書紀に合うように強引に変更させています。不比等が卑弥呼を祀る神社の社名まで変えさせた証拠もありますよ(詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)。

日本書紀よりも前の712年に完成したとされる古事記は、9世紀に日本書紀を講義していた学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出してきたもので、正史に古事記についての記録もありませんし、正史やその前の歴史書で引用・参照した痕跡もありません。

多くの方は記紀が天皇の歴史書だと信じているので、偽書だと認めることができないでいます。だから真相が謎のままなのです。古事記は日本書紀で隠された史実を、藤原氏に悟られることなく暴露するための暗号書なのです(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)~(その3)」「富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?」など参照)。

上述のとおり、不比等は日本が建国される、ヤマト王権が誕生する3世紀の卑弥呼の時代の史実が都合が悪いので、日本書紀で史実を隠したのです。驚くと思いますが、高天原神話・国譲り神話などは不比等が創作したものですよ。そして、古事記は江戸中期に国学者の本居宣長が発掘して大絶賛するまで、ほとんど世の中に知られていなかったので、記紀神話は江戸時代に作られたと言っていいのです。江戸時代までは記紀神話と全く異なる神仏習合、修験道や道教に影響を受けた神話が人々に語れていたのですが、明治維新の神仏分離令で完全に破壊され、記紀に基づく国史を学校教育で教えたので、戦後の皆さんも記紀の内容がほぼ史実だと思い込まされているのです(#^.^#)

また、魏志倭人伝は3世紀ごろの日本のことが書いてあるので、正しく解釈すれば邪馬台国も卑弥呼の墓も見つけられると考えてやっていますが、正しく解釈することの意味がよく理解できていません。だからいまだに正しい答え=真相が見つけられないのですよ。魏志倭人伝は、西晋の基礎を作った魏の実力者司馬懿の功績を称えるのが目的の政治文書なので、書いてあることが事実と食い違う理由を考えれば、真相に近づけます。

ですから、編纂者の目的や意図を考えて、真相を推理して、仮説を構築し、事実、つまり考古学や民俗学などの成果によって検証すると、蓋然性の高い仮説が得られます。そのような科学的な手法で推論を重ねると、ヤマト王権の成立過程が分かります。その中で倭国大乱やその結果生まれた邪馬台国の場所も分かるのです。詳しくは「【刮目天の古代史】古代史の謎はアブダクションで解明できる!(^_-)-☆」をご参照ください。ちなみに卑弥呼の墓「三柱山古墳」も発見しています(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)。お邪魔しました(#^.^#)


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【刮目天の古代史】古代史の謎はアブダクションで解明できる!(^_-)-☆

2023-12-17 20:07:17 | 古代史
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3ケ月前にいい動画があって、コメントしたものですが、よろしければお付き合いください(;^ω^)


刮目天
日本の古代史が謎である理由は文献と事実つまり考古学や民俗学などの成果が合致していないのが理由です。多くの日本人は、文献を都合の好いように解釈して乗り切ろうとしていますが、謎のままです。文献は政治文書だということに気づけばいいのですが、洗脳されているので難しいのです。

現存する日本最古の正史「日本書紀」は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書と学校で習っていますが、完成は崩御34年後です。時の権力者は藤原不比等でした。皇后とされた鵜野讃良(持統天皇とされているがウソ)と組んで皇位を簒奪して孫を即位させた事実を隠すために、日本神話を創って、その後の歴史も改ざんしていることが事実を検証して分かりました。

古事記ですが、九世紀に朝廷で日本書紀を講義した学者多人長(おおのひとなが)が突然表に出してきたものです。その序文に正史の前に完成したと書かれていますが、正史には古事記に関する記録が一切ないですし、引用した痕跡もありませんから、人長が作った偽書なのです。正史が隠した史実に導く暗号書だったことが分かりました。

詳しくは「刮目天の古代史 空白の世紀と倭の五王の謎」などを参照してください。藤原氏にとって日本建国の史実が都合が悪いので卑弥呼も隠していますが、権力者の意図を推理して邪馬台国の場所も判明していますよ。卑弥呼の墓は宇佐市「三柱山古墳」です(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)。お邪魔しました(^_-)-☆

@user-pt1uu7lv9f
歴史書なんて時の権力者が都合良く書くものなのに今さら何言ってんの?

刮目天
@user-pt1uu7lv9f さん あなたセンスがいい👍
結構気づいている人はいるようですが、そこで思考停止しているので解明できないようですよ😓
歴史書編纂の真の目的を見つけると真相に辿り着くことができるのですよ!19世紀から20世紀にかけて活躍したC.S.パースと言う米国の偉人をご存知ですか?彼が提唱したアブダクションを適用すると真相解明できますよ☺️
具体的な方法は刮目天の古代史 古代史を推理する!をご参照下さい。



【関連記事】
一つの事象にいくつもの解釈あり!
この手法は、19世紀後半から20世紀初頭の哲学者、論理学者、数学者、科学者であり、プラグマティズムの創始者として知られるチャールズ・サンダース・パース(1839年9月10日 - 1914年4月19日)が提唱した科学的解決手法を古代史の分野に応用したものです。一般の方には余り知られていない人物ですが、「アメリカ合衆国の哲学者たちの中で最も独創的かつ多才であり、そしてアメリカのもっとも偉大な論理学者」ともいわれる偉人でした。



第3の推論法「アブダクション」とは
RtomyL 2018年10月20日 08:31

とても分かり易く解説されていますので、初めての方はどうぞ!(^^♪

アブダクション
幻想の近現代 2021年9月4日 18:25

最初の説明は分かり易いですが、C.S.パースの思索過程に沿った歴史の説明の部分は難解ですので、本格的に勉強される方向けですよ(;^ω^)

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