刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日本の古代史が謎な理由?(@_@)?

2023-08-27 16:58:56 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

宮崎先生のメルマガに興味のある内容がありましたので、投稿しました。通説と全く違いますので、メルマガに採用されるか分かりませんが、以下のような内容ですのでお付き合いください(#^.^#)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和五年(2023)8月27日(日曜日)
        通巻第7883号
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(読者の声1)『古事記』序文について額面通りに受け取るのは大いに疑問です。『国史烈々』を興味深く拝読しております。賛同できる部分が多いのですが、所々に首を傾げざるを得ない部分もあると感じております。
大勢にあまり関係ないところで異論を挟むのも如何なものかと遠慮しておりました。通巻第7881号につきましては基本的なところで、事実確認が不足しているように見受けましたので、一言申し上げます。
 宮崎論によれば、「つまり天武天皇の勅によって、稗田阿礼が記憶して口承し、それを太安万侶が書き取ったのが古事記である」と通説をそのまま受け取っておられますが、これは大いに疑問です。
結論から申し上げれば、『古事記』序文は後の時代に作られたもので、別の言い方をすれば捏造です。また太安万侶は実在の人物ですが、古事記の編纂には関わっていません。また、稗田阿礼は架空の人物もしくは仮に存在していたとしても古事記の内容を口承したというのは、全くの捏造でそのような事実はなかったと考えられます。
誤解のないように申し上げますと『古事記』全体が捏造と言っているわけではありません。ただ、序文を捏造した場合、内容に全く改変がなかったとも考えにくく、『古事記』を扱う場合にはその点を慎重に見極める必要があると考えています。
1)『日本書紀』の天武天皇紀に『古事記』編纂の詔がない。
『日本書紀』30巻のうち、2巻に渡るのは天武天皇紀だけで(神武天皇でも1巻だけ)、他の天皇とは記述量が桁違いで、『日本書紀』は天武天皇紀と言っても良いくらい、天武天皇について詳しく書かれています。その天武天皇紀に今日の研究者を唸らせる「古事記」編纂の詔がないのは、うっかり忘れられたとか、失われたとか言うような説明では説得力がありません。初めから無かったとした時に腑に落ちるように思います。
2)稗田阿礼が誦み習ったのは誰からなのか明らかでない
「帝皇の日繼及び先代の舊辞を誦み習はしむ」という言い方は誰かが誦むことを(そのまま)習い覚えると言う意味になると思われますが、元が信頼できるという前提が無ければ意味を成さないと思います。習った稗田阿礼のことは官位や役職は記載せぬまま、「年は是れ廿八。人と為り聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に拂るれば心に勒しき」と言葉を尽くして紹介しながら、習う元のことについて一言も触れていないのは極めて不自然です。
 3)通説の通りであったとしても、『日本書紀』には応神天皇の時代に文字の伝来記事があり、遅くとも応神天皇の時代以降においては、天皇の周辺には、文字の読み書きができる人がいたことは疑い難く、文字の伝来から少なくとも300年以上後になっても、我が国に文字がなかったとする古事記序文を額面通りに受け取るのは困難です。
 4)序文によれば稗田阿礼が勅を受けたのは28歳の時で、時を経て太安万侶が阿礼から聞き写したのは32年の後で阿礼は60歳ということになり、当時としては相当の年配です。長い中断期間を含めて、これだけのものを長期間にわたって覚えていたのは稀有なことに属すると思われますが、それにも拘らず、『日本書紀』の編纂者の中に稗田阿礼が入っていないばかりか、『日本書紀』や『続日本紀』に稗田阿礼について一言の記述も無いのは不自然な感じは否なめません。
これを稗田阿礼が特別な能力を持っていたためと説明されることがありますが、それであれば尚更『日本書紀』に記載が無いことが理解出来ないように思います。
5)更なる疑問は、覚えていたものを(阿礼から)聞いて書き取ったと言いながら、人の名前について「姓におきて日下を玖沙訶(くさか)と謂ひ、名におきて帶の字を多羅斯(たらし)と謂ふ、かくの如き類は、本の隨(まま)に改めず」として、わざわざ読みにくい字の名前についてその読み方の説明をしていることです。
ここで言う「本の隨(もとのまま)」とはどのような意味でしょうか。岩波文庫の『古事記』(倉野憲司・武田祐吉校注)によれば、従来の慣用通りに用いて改めない、と説明してあります。
聞いたことを書き留めるのですから、どのような字が用いられていたのか分からないはずで、聞き書きするときは当時普通に使われていた文字を使うと考えられるので、わざわざ注釈を入れる必要は無いと思われるにも拘らず、字は従来通りの字を用いた、という説明には違和感を感じます。
校注をそのまま受け入れた場合、従来から人の名前については慣用的に一定の文字が用いられていたことになり、仮に文字による伝承などが記録されていなかったことを受け入れたとしても、名前だけは文字で書かれていたことを意味し、極めて不自然です。
  (高柴昭)

(宮崎正弘のコメント)これらの御疑念は、拙著『歩いて見て解けた「古事記」の謎』に書き込んでおります。序文が後世の作文であることも明記しております。
 古事記は712年のおよそ、三十年前にできていたというのが小生の推論です。太安万侶の墓は奈良市の郊外の茶畑から発見されました。阿礼の墓らしきは、大和郡山の売太(めた)神社と言われています。境内の大塔は「語り部の郷」でした。


(読者の声2)「国史烈々 連載(30)」の関して、「天武天皇の勅によって、稗田阿礼が記憶して口承し、それを太安万侶が書き取ったのが古事記」と、宮崎先生は書かれておりますが、小生も中学時代にそのように習った記憶があります。
 しかしながら、古事記に太安万侶が書いた序文には、引用(但し現代文訳)
(1)「 ここにおいて天武天皇の仰せられましたことは わたしが聞いていることは、諸家で持ち傳えている帝紀と本辭とが、既に眞實と違い多くの僞りを加えているということだ」
引用(2)「そこで本辭の違つているのを惜しみ、帝紀の誤つているのを正そうとして、和銅四年(711年)九月十八日を以つて、わたくし安萬侶に仰せられまして、稗田の阿禮が讀むところの天武天皇の仰せの本辭を記し定めて獻上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に從つて、こまかに採録いたしました」と記されております。
 仮に、稗田阿礼が記憶の大天才であったとしても、彼は諸家が提出した「帝紀」「本辞」を読んで暗誦したことが推測されます、でないと、阿礼は誰から、かかる膨大な神代から始まる万世一系歴代の大君の歴史を伝承暗誦したのか? という疑問が生じます。
 合理的に考えますと、阿礼を実在とすれば、阿礼は太安万侶の有能な編集助手であったか、つまり、古事記は太安万侶が、諸家の帝紀・本辞から総合・総覧的に編集し校正を加えて完成した帝紀であり、それを「古事記」と名付けたのでは、と愚考する次第ですが、如何でございましょうか。
 以前に先生にご質問致しましたが、小生は、その存在が明記されている「帝紀、本辞」が書き物のかたちで存在していたと考えられるのに、全く現存していない点に、奇妙さを感じております。
  (KI生、尼崎市)

(宮崎正弘のコメント)すべてが手書き、副本は書写ですから残ること自体が奇跡に近いと思います。国記、天皇記は「乙巳の変」の翌日に、蘇我蝦夷が焼却したことになっており、真相は不明ですが、古事記は蘇我氏のことを意図的に省いたか、あるいは仕上がったが、削除したというのが小生の推理です

 通巻第7883号(読者の声1)(読者の声2)で「古事記」が話題になりましたので、最新の研究成果について紹介させていただきたいと存じます。
 日本の古代史に謎が多いのは文献と事実、つまり考古学や民俗学などの成果とが合致していないのが理由です。普通は事実に基づき文献批判すべきなのですが、多くの日本人は、文献の内容は正しいとして、都合の好いように解釈して乗り切ろうと努力していますので、謎は残されたままです。文献が政治文書だということに気づけば解明できるのですが、洗脳されているので難しいのです。
 どういうことかを説明します。現存する日本最古の正史「日本書紀」は、ご存じのとおり天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと学校で習っています。しかし、その完成は崩御の34年後なのです。時の権力者は藤原不比等でした。皇后とされた鵜野讃良(うのさらら、持統天皇)と組んで皇位を簒奪しました。鵜野の孫軽皇子(文武天皇、天武天皇と鵜野の子草壁の皇子)を異例の十五歳で即位させ、不比等の娘宮子を妃とした事実を正当化するために、日本神話を創って、その後の歴史も改ざんしていることが事実で検証して分かりました。

 史実は、鵜野は即位しておらず、天武天皇の長男高市皇子が即位しているので、持統天皇は実在しないと分かりました。また、皇后が即位するというあり得ない話を押し付けるために、前例として「隋書倭国伝」の内容と矛盾する推古天皇(敏達天皇皇后)を創作しました。また、天皇が三韓の調を受けている際中の暗殺劇など外交的に見てもあり得ない話ですので「乙巳の変」の時の皇極天皇(舒明天皇皇后、重祚して斉明天皇)も創作です(中大兄の母というのもウソ、舒明天皇もフェイクだと万葉集研究家の渡辺康則氏が突き止めています)。その後のすべての女性天皇もフェイクだということも分かりました。
 京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺では天智天皇とその孫光仁天皇から歴代の天皇を祀っていますが、明治になるまで女性は天皇として誰ひとり祀られていないことが分かりました。仏事に掲げる江戸時代の二人の女性天皇の肖像画も、明治になって作られたようです。

 未婚の皇女には奈良時代から南北朝時代まで斎王制度があり、伊勢神宮と加茂神社に本当の祭神天照皇大神(大国主命、初代応神天皇の父)の妻として仕えていました。文武二年創建の伊勢神宮へは鵜野も、明治以前の歴代天皇もどなたも参拝していません(詳細は筑紫申真「アマテラスの誕生」講談社学術文庫参照)。壬申の乱を勝利した後に天武天皇皇女が斎王として派遣されていますが、天武天皇の祖神は大国主命(高野御子)ですので京丹後市竹野(たかの)神社を斎宮としたと推理しています(「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)・(その2)」参照)。ヤマトの大王(天皇)は皇統の男系男子が継承するというのが宗教上の決まりで、伝統ですので、内親王でも女性は即位できません。男女差別ではないのです(「天皇陛下の本来の仕事とは?!」参照)。

 不比等は、唐の律令制度を日本の実情に合うようにするということにして、太政官と神祇官に分けた大宝律令を制定しました。律令によって天皇や有力豪族を縛り、天皇の外戚として実質的に太政官の上に立ち、政治の実権を握りました。正史によって過去を支配してその権力の正統性を独占するために神祇官に同族とされる中臣氏をつけました。日本建国時代に活躍した豪族の祭神名、神社名や由緒書を強権によって変えさせました。そして藤原氏の出自を隠すために祖神に大活躍させた神話を作り、不都合な史実の隠ぺい・歴史の改ざんを行いました(「藤原鎌足は日本人じゃない?ブッブー!」「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」「中臣氏の正体もか?」参照)。
 不比等は藤原氏の繁栄を信じて「日本書紀」の完成した720年に亡くなっています。不比等の子孫も朝廷の実権を握り続けるために神社行政を行ったので、ほとんどの神社伝承は史実と矛盾するものになっています。しかし、藤原氏に気づかれないような内容にして秘匿されてきた記紀に反する神社伝承は、謎の解明のヒントになりました。また荒唐無稽な内容の古史古伝がいくつも存在しますが、すべて藤原氏の歴史改ざんが原因だったようです。

 「古事記」もその一つなのです。九世紀の朝廷で「日本書紀」を講義した学者多人長(おおのひとなが)が突然、表に出してきたものです。その序文に「日本書紀」の前に完成したと書かれていますが(712年)、すでに皆様がご指摘の理由のとおりです。加えて、姓(かばね)のない稗田阿礼が天皇のお傍に侍る舎人などではありえません。さらに皇族でもなく歴史書編纂の実績もない太安万侶に天皇が編纂を命じることなどもあり得ない話です。ですから、「古事記」は人長による偽書なのですが、基本的に「日本書紀」に沿った内容を載せながら、神名・人名などの読み方を記載し、「日本書紀」の内容をより詳しく説明した文章を付け加えたり、「日本書紀」にない大国主神話も登場させていますので「原古事記」はあったはずです。
 しかし、それは記紀とは全く内容が異なる歴史書でしょう。神武天皇皇子を祖とした多氏と、「日本書紀」で百済の弓月王を祖とされた秦氏はどちらも本貫地が隣同士で大国主命(記紀の武内宿禰)を祖とする一族でした。これらの人々は共有している歴史の真相を暴露しようとウズウズしています。秦河勝を祖とする能楽(猿楽)の隠されたテーマが日本建国の真相だと突き止めています(「秦氏の正体と能楽のひみつ?」「秦氏と古事記の関係?」参照)。
 「古事記」は「日本書紀」とは矛盾する独自の崩年干支を付け加えていることなどから、正史が隠した史実に導く暗号書だったことが分かりました。先日豪華な副葬品で話題になった奈良市富雄丸山古墳の被葬者も、「日本書紀」が隠した天皇のひとりでした。応神天皇の皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が即位していたと推理しました(「播磨国風土記」にある宇治天皇)。詳しくは「刮目天の古代史 空白の世紀と倭の五王の謎(その1)~(その3)」「富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?」「富雄丸山古墳の被葬者は?」を参照してください。


 藤原氏にとって和邇氏が活躍した日本建国の史実が都合が悪いので、和邇氏の祖の宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼も隠しています(天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神です)。しかし、「三国志」そして「魏志倭人伝」も政治文書だと分かれば権力者の意図を推理して邪馬台国の場所も判明しています。卑弥呼の墓は宇佐市「三柱山古墳」です(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」,「卑弥呼の墓は今?」など参照)。


「古事記」はご存じのとおり、江戸時代まで祭祀に関わる氏族によって細々と伝えられてきたのですが、江戸中期の国学者本居宣長によって発掘され、高く評価されるようになりました。神道家平田篤胤がその影響を受け復古神道を作り、幕末の志士らの人気になりました。
 明治になるまで人々の間で伝えられてきた、神仏習合、山岳信仰の修験道、道教・陰陽道などの影響を受けた、記紀神話と全く別物の神話が日本に存在していました。しかし、明治新政府によって神仏分離令が発せられて、多くの寺院などとともに破壊されてしまいました。
 国家神道が創設され、学校教育でも記紀神話に基づく国史が教えられましたので、戦後も日本国民に記紀神話が定着しています。しかし、それはほとんど日本民族の古来からの神話ではない全く新しい神話だったのです。というか、藤原氏が権力を維持するために創作した神話と歴史だったということなのです。天皇の歴史書ではなかったと気づくと、古代史の謎がどんどん解けてきます。考え方の詳しい話は【刮目天の古代史】をご参照ください。
(刮目天)



通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

卑弥呼の墓は今?(@_@)

2023-08-25 18:10:17 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

フォローしている古代ミステリー研究家の百畑キクリ様のブログ「古代史を探る」に「三柱山遺跡(安心院)を見て来た」という記事を見つけましたので早速、何度もコメントのやり取りをさせていただきました(合計35件)。丁度、三柱山古墳を見学する計画を立てていましたので、大変参考になりました。改めて御礼申し上げます。今回は、今年の7月末に表題のとおり卑弥呼の墓の現況を調べましたのでご報告いたします。お付き合いください(#^.^#)

宇佐市安心院町のレジャー施設家族旅行村「安心院」に入ってすぐ左側に管理棟があり、大きな駐車場が広がっています。この写真は駐車場内から撮影された、お借りしたものですが(GoogleMap 2016.11 omotenashi.com)、この右側(北側)に見える軽食・喫茶「真賀里」の後ろのケビンが見える小山が魏志倭人伝にある径百余歩(直径約150m)の卑弥呼の墓と推理した円墳「三柱山古墳」です。写真の左側の駐車場のロータリーに十数個の立石が置かれています。どこかで見たような景色ですね(^_-)-☆




1980年頃から始まった家族旅行村建設で偶然見つかった石棺群が広い施設内に8か所あります。報告書によれば、この第8石棺群ついては、『現在、喫茶「独歩」の裏に露出しているもので、造成中にも石棺が出土したと聞く。数基の石棺群であったようである。』とあります(安心院町教育委員会「宮ノ原・三柱山所在遺跡の調査報告書」1984年3月 p.94)。しかし、百畑氏の写真から見て1基分にも満たない様子です。そして、「以上8か所の石棺群について、配置や構成はすべて不明である。」となっていますので、家族旅行村の管理棟の中に宮ノ原遺跡の出土品を展示しているとのことで、職員の方に話を聞こうと思っていたのですが、マヌケな話、休日だったのか、閉鎖されていました。先日「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」でご報告した米神山登山でかなりバテましたので、その後ここに来る予定を変更したからですね。残念!とりあえず、気を取り直して、管理棟の北側の登り口から古墳に入っていきました。下の図に要点を示します。



有難いことに百畑氏からダニ対策のアドバイスを受けていたので、米神山登山と同じ長袖・長ズボンの服装で、事前にダニ除けスプレーを足元を重点に、全体にたっぷりかけて入ったので汗もたっぷりかきましたが、水分補給を十分できたので、熱中症にもならず全く問題はありませんでした。所要時間も1時間未満でした。

墳頂に近づくにつれて笹などが身長くらいの高さまで繁茂して、深い藪になっており、行く手をかき分けながら進みました。図中に歩いた経路を示しましたが、かなりアバウトです。雑草が枯れる冬場に登るのが正解のようですね(;´Д`)

鎖の柵のある場所に行く前にコンクリートの基礎が二か所ありました。建設当初は長い滑り台が墳頂の北から南にある現在の滑り台まで設置されていた模様で、その基礎が残されていたのでしょう。

そして写真①で示した鎖の柵の内部の墳頂に石棺が配置されていたはずです。ここからは傾斜がきつくてとても墳頂まで上がれませんでした。写真②には、雑草に隠れてはっきりとは見えないのですが、石棺の蓋と考えられる厚さ20cm程度、幅1mくらいの石板が立てた状態で2個置かれています。ですから、後に石棺の蓋が開けられて、副葬品なども移されたと考えられます。そして写真③のとおり、大きな岩石が柵の内部に3個くらい、外にも3個くらいあったかな?いやもっとかも知れませんが、散乱しています。古墳上ですから、一見、謎ですが、もとは祭祀用の環状列石(ストーン・サークル)だったと推理しました。そうすると最初の写真の駐車場ロータリーに配置された多数の立石も、もとはこの古墳に置かれていたのかも知れません。建設工事の中で移動されたものかもしれません。小さいものがロータリーの中で利用されたのではないかと思います

このストーン・サークルですが、卑弥呼の死後の内戦に勝利した大国主久々遅彦が、まだ13歳くらいの女王台与を伴って卑弥呼の墓参に来たと推理していますから、大国主が卑弥呼の祭祀のために運び込んだものではないかと考えています。大国主は米神山や佐田京石など行くところ、至る所でストーン・サークルによる祭祀を行っていることを見ていますので、ここでもその可能性が高いと思います。

ここでの祭祀の後、岩石愛好家の大国主は安心院盆地を挟んで南側の妻垣神社奥宮の一柱謄宮(いっちゅうとうぐう)で再度、磐座祭祀を行っていると推理しています(「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」参照)。「古事記」は真相を暴露する暗号書ですので、足一謄宮(あしひとつあがりのみや)と名前を変えているのは、何らかの理由で卑弥呼を二か所で弔う必要があったことを暗示しているようです。それは現在は謎ですが、大きな発見が潜んでいるのかも知れませんね。いつか分かるかも知れませんよ(^_-)-☆

なお、ここから北東約500mのところに第6石棺群「奥城古墳」が見つかっています。同報告書に「道路断面に3基が並んで口を開けている。」とありますが、状況がよく分かりません。現在はブドウ園の展望台になっています。

奥城古墳は、正始八年(247年)の卑弥呼の死よりも4年前の正始四年(243年)に亡くなったと推理している父赤坂比古(ムナカタ海人族和邇氏の祖)のもので、魏志倭人伝の大夫伊聲耆(いせぎ)とされた人物の墓と推理しています。お伊勢さんの語源は赤坂比古のような縄文系のシャーマン王からきたと思います。吉野ヶ里遺跡の謎のエリアの石棺の被葬者と推理した息長宿禰王(おきながすくねのみこ、記紀で神功皇后とされた女王台与の父、神話の少彦名命)と同様に、密室で太陽神が憑依した姫巫女からその神託を聞き取り、大勢の部下たちに声に出して託宣する役割なので、卑弥呼の父赤坂比古に難升米が伊聲耆(年寄りのシャーマン王の意味)と名付けたものと推理しています(詳細は、「卑弥呼の父・弟が魏志倭人伝に登場していた?」参照)。

また、ここの遺跡で唯一、副葬品が見つかった第5石棺群「大平古墳」は、三角縁神獣鏡の欠片が出土していることなどから、日本書紀に残された伝承にあるとおり、卑弥呼の死後に日本を統一した狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)に卑弥呼の奉斎を命ぜられた筑紫の水沼君のものと推理しています(詳細は「本当に卑弥呼の墓なのか?」参照)。

何かお気づきのことがございましたら、お教えください(*^。^*)

【関連記事】
邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!
申し訳ないですが、従来考えられていたような大集落には卑弥呼はいませんでしたよ(^_-)-☆

【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
卑弥呼のことを調べた記事を集めていますので、是非ご覧ください。

女王の居城(詳細は「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

弥生人は戦争好き?ウソですよ( `ー´)ノ

2023-08-20 06:46:19 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

水田稲作が導入された弥生時代になって起こった戦争の原因を、人口の増加・資源不足(適地や水の奪い合い)・蓄積された富の略奪・思考的変化とするのが従来の定説のようになっていました。受傷人骨の数と甕棺の数を福岡平野・宝滿川上・中流域で調査して、従来の弥生時代開始の年代観(紀元前5世紀から前4世紀)では人口密度が高いほど受傷人骨が多いことは言えたようですが、弥生時代が紀元前10世紀に始まる歴博の年代に変わり、そのようなことは言えないことが分かってきました(中田朋美等「弥生時代中期における戦争」情報考古学Vol.24No.1-2,2019)。

その論文の中で、弥生前期から受傷人骨が見られるようになり暴力の頻度が多くなったようですが数は少ないので調査は難しいとあります。確かに弥生時代になって縄文時代に比べて人間を殺傷できる大きな石鏃が登場したり、暴力で物事を解決する大陸の考え方が半島を通じて列島にもたらされたと考えられます。

そして、中期になって数多く受傷人骨が見られるようにはなりますが、上のようなことが原因で集落と集落や複数の集落よりなるクニの間で戦争があったとは言えない!つまり上述の弥生時代の戦争の定説は誤りだった!ということです(^_-)-☆

前期末から中期初頭(紀元前4世紀)に日本の最古の王墓が福岡市吉武高木遺跡で見られるようになります。「王年代紀は記紀神話を正した!」で述べたように、半島南部から天御中主(あめのみなかぬし)の一団が早良平野に南下し、二十三代までの王が筑紫日向宮に居たことが宋史 王年代紀に記されています。この王墓は初期三代の王とその一族のものですので、残りの奴国王は須玖岡本遺跡に王宮を遷したと考えられます。そして王年代紀には最後の王の四男の神武天皇が大和州橿原宮に王宮を遷したとあり、王年代紀を記した新唐書・宋史に「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」と明記されています。つまり記紀神話で最初に高天原に降り立った神天御中主は日本の皇室の祖先で最初の奴国王ということで、高天原は弥生時代の奴国王が支配した倭国の領域(福岡平野・糸島平野・筑紫平野・佐賀平野などの集落群)だったことが分かります。前回「天皇陛下は縄文系?」で述べたとおり、考古学や民俗学の証拠から天御中主は紀元前473年に滅んだ呉の王族だったと考えていますから、Y染色体DNAは原始夏人O1aと考えられます。



王年代紀は上の図のとおり、王の名を列挙しているだけなのですが、王の治世の年代は記紀神話から検討できます。高天原を追放された暴れん坊の神スサノヲが王年代紀第十八代王素戔男尊にあたりますから、107年に後漢安帝に朝貢した伊都国王師(帥)升が奴国を滅ぼしたと考えられます(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。帥姓は曹魏末期の司馬氏政権の司馬懿の長男司馬師の諱(いみな)を避けるために師姓から変更されたことが「廣韻」という文献にあります。また、師姓は周代以前から宮中祭祀を担当する楽師の官位だと「風俗通義」に見られます。したがって師升は奴国の王宮で祭祀を担当していた楽師らの長の司祭だと分かりますから、その人物が奴国王スサノヲを殺して倭国を奪ったと推理できます。

後漢書に記された奴国王の金印が江戸時代になって志賀島で発見されます。古事記にスサノヲが高天原の八百万の神に拷問されて財産を没収されたとの記事から、西暦57年に後漢光武帝から賜った「漢委奴国王」の金印の在りかをスサノヲから聞き出すために拷問したが、すでにスサノヲの部下のアズミ族(江南系倭人)が逃走する途中で志賀島に立ち寄って埋めて隠したと推理できます。したがって師升らが160人もの生口を後漢安帝に献上した理由は、金印を手に入れることができなかったので代わりに倭国王と認めてもらうためだったと分かります。捕虜にしたスサノヲの部下や奴国王族が奴隷として献上されたと推理できます。

そうすると、記紀神話のスサノヲの父で国生みの神イザナギは第十七代王伊弉諾尊(いざなぎのみこと)ですから、縄文海人ムナカタ族の姫イザナミと結婚し、倭国がムナカタ族の支配していた列島各地の産物を入手して、対外交易でさらに隆盛になった史実が国生み神話となったと考えられます。

ムナカタ族のイザナミとの婚姻によって生まれた奴国の後継者素戔男尊はムナカタ族を伴って鉄の産地である半島南部や倭国の交易品である勾玉などの工房のある丹後半島などを盛んに視察して整備し(奈具岡遺跡など、詳細は「丹波はスサノヲ・大国主の故郷だった」参照)、母方の縄文系祭祀に親しんだと思われます。伝統的な奴国の祭祀に縄文系の祭祀を導入する宗教改革を行おうとしたことが奴国宮廷祭祀を司る楽師らの反発を生み、奴国滅亡の原因となったと推理できます。

また、伊弉諾尊の先代王沫名杵尊(あわなぎのみこと)が上の金印を賜った王とすれば西暦57年が沫名杵尊の治世となります。そうすると早良平野に天御中主が登場した弥生前期末(紀元前4世紀初頭)から第十六代の王までの約460年間を均等に割り振れば一世代30年となりますから、この時代の王位は父から子への継承と考えてもよさそうですね。

そして、スサノヲが師升らのクーデターで殺されたので、奴国は滅亡したはずですが、第十九代王天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)以下第二十三代王まで、正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)、 次は天彦尊(あまつひこのみこと)、次は炎尊(ほむらのみこと)、次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)と記されています。この時代について少し考えてみましょう。

記紀神話では、高天原を支配する姉のアマテラスと弟スサノヲの誓約(うけい)で生まれた五皇子の長男オシホミミ(正哉吾勝速日天押穂耳尊)の子ニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が父を飛び越えて葦原中国を支配する神勅を受けて藤原氏の遠祖アメノコヤネ(天児屋命)などの神々を連れて、日向の国高千穂の峰に降り立つ話が天孫降臨神話です。

王年代紀の第四代王が天彌聞尊(あめのににぎのみこと)ですから第二代王天村雲尊(あめのむらくものみこと)が孫である天彌聞尊に王権のレガリアである三種の神器を持たせて吉武高木遺跡から、奴国の王宮が春日市須玖岡本遺跡ですから、福岡平野に進出させた故事に基づくものと考えられます。三種の神器のひとつが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とされていることからも分かります。また、天孫降臨神話は、通説では、ニニギノミコトは宮崎県の高千穂の峰に降りたとされていますが、古事記では以下のように記されています(wiki「ニニギ」より引用)。

邇邇藝命(ニニギノミコト)は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に相対しており、笠沙の御崎(かささのみさき)にまっすぐ道が通じていて、朝日が真っ直ぐに差す国であり、夕日が明るく照る国である。だから、ここはまことに善い土地だ」と言われ、地底の磐石に太い宮柱を立て、天空に千木ちぎを高くそびえさせた、壮大な宮殿にお住まいになった。

とあります。高千穂は高い山を意味する言葉で、魏志倭人伝の狗邪韓国(くやかんこく)とされる金官加羅国の始祖首露王(しゅろおう)が天から山に降ってきた卵から生まれたという伝説があり、その山が亀旨峰(クジの岳)ですので韓国に近い場所を示唆しています。上の話を現実的に考えると、天彌聞尊が吉武高木遺跡の西の飯森山・高祖山を越えて、糸島平野を平定して三雲遺跡に王宮を造った史実を言っているのではないかと推理できます。

ニニギノミコトは吾田長屋笠狭岬(あたながやかささのみさき)に至り、オオヤマツミ(大山祇神)の娘で絶世の美女コノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)と出会います。糸島市細石神社(さざれいしじんじゃ)の祭神で、姉の日本一不美人とされた磐長姫(いわながひめ)とともに祀られています。オオヤマツミは二人セットでニニギノミコトに嫁に出そうと思ったのですが、姉だけ突き返されましたので天孫の寿命が短くなるだろうと告げたという話があります。

コノハナサクヤヒメが生んだ山幸彦ホオリノミコト(火折尊または彦火火出見尊)と豊玉彦の娘豊玉姫の間にウガヤフキアエズ(鸕鶿草葺不合尊)が生まれますが、お産の模様を見ない約束を山幸彦が破りました。豊玉姫が龍(古事記では八尋のワニ)の姿をしており、辱められたとして生まれたばかりの子を置いて海に去ります。そしてその子を豊玉姫の妹玉依姫が養い、成人して結婚し、生まれたイワレヒコ(磐余彦尊)が、日向から東征の旅に発って大和の地で神武天皇として即位する神武東征神話に繋がります。ニニギからウガヤフキアエズまでを日向三代と呼んでいます。

神武天皇は本当の初代天皇である応神天皇の史実を隠すために日本書紀で創作された人物なので、神武天皇の父第二十三代王彦瀲尊は、クーデターを逃れたスサノヲの王子イタケルの子孫である大国主命とされた久々遅彦のことだと考えられます。そして大国主久々遅彦の母は豊玉姫ですから和邇氏つまり縄文海人ムナカタ族だったのでしょう。玉依姫は豊玉姫の妹とありますが、応神天皇の母ですから神功皇后のモデルとなった台与のことです。近江・北陸などを根拠地とする同じムナカタ海人族です。ワニの一族なのですから、大国主久々遅彦(記紀の武内宿禰)と台与(記紀の神功皇后のモデル)の子である初代応神天皇のY染色体DNAは原始夏人のもののはずですが、形質を決定する遺伝子(22対の常染色体)はほとんど縄文系のもので占められていると考えられますね。

さらに神話の女神アマテラスは男神と考えられる第19代王天照大神尊の名前から創作されたことも分かります。天照大神尊はクーデターを逃れたスサノヲの弟ニギハヤヒ(先代旧事本紀の天照国照彦櫛玉天火明饒速日命)だと推理しました。奴国を滅ぼした師升の倭国が楽浪郡との交易で隆盛になったので交易に参加して栄えていた、瀬戸内海航路の要衝の吉備の豪族を、裏切り者として、ムナカタ族の支援を受けて討伐し、吉備を奪って奴国を再興した実在人物と推理しています。日本書紀では吉備津彦の鬼退治の話になっています(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。

二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱の時代の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べると、倭国の佐賀平野・筑紫平野が主戦場であることが分かり、それ以外の列島各地には明確な集団戦の痕跡は全く見られませんでした。ですから、倭国とその周辺領域以外では戦争はなかったのです。

(左クリックでGoogleMapにジャンプ)

(左クリックで拡大)

倭国大乱は、伊都国を王都にした師升の一族難升米(なしょうめ、王の襲名)に対する旧奴国勢力の恨みが戦争の原因です。その後の卑弥呼が登場する話は「女王を共立した赤坂比古は?」で述べましたが、大国主の父で狗奴国の官狗古智卑狗が難升米に討たれたことで、玄界灘を支配していたムナカタ族赤阪比古(和邇氏の祖)を難升米が懐柔して邪馬台国連合倭国が成立しました。それがきっかけで、吉備で力を蓄えたニギハヤヒ大王の子孫の狗奴国王卑弥弓呼(ひこみこ、第9第開化天皇)が桜井市纏向遺跡に王宮を造って、各地に散った旧奴国の王族や家臣たちを呼び寄せて、日本統一の戦争の後に、この地でヤマト王権が生まれたと推理しました(詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」参照)。難升米が帯方郡に行き、太守劉夏と談合して司馬懿の功績を持ち上げるために卑弥呼を女王として、女王の都の邪馬台国が孫呉を圧迫する戦略上重要な位置にあることにして、旧奴国の勢力を魏志倭人伝の狗奴国と呼んだことも判明しました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

ですから、最初の弥生時代の戦争の話題に戻すと、天御中主が早良平野に降り立った時にはすでに、縄文系倭人が有田遺跡などで水田稲作を行って生活していたところに突然現れたので、在地の部族長らが天御中主を王として受け入れるまでに何らかの抗争があったと考えられます。その証拠が、吉武高木遺跡の特定集団墓から少し北側の弥生時代前期末の吉武大石遺跡にありました。ここに葬られた、銅剣の副葬品から武将のものと考えられる人物の受傷人骨です。三体とも骨に石製剣の刃先が嵌入しています。銅剣を帯びた天御中主の家臣団の力で有田遺跡の周辺集落の人々を抑えて支配し、奴国の基礎を築いたことが推理できます。

その後、天御中主・天村雲尊・天八重雲尊の三代の王は対外交易で威信財などを入手して、隆盛になったと考えられます。そして王権をより拡大するために糸島平野や福岡平野などに進出させたのが先述の天孫降臨神話のもとになった第四代王天彌聞尊の故事だと考えられます。そこでも、天彌聞尊をはじめとする領土拡張期の奴国王を人々が受け入れる際には同じような抗争があったと考えられます。奴国王の支配を受け入れた部族長に鏡などの青銅祭器を与えたのだと考えられます。

ということで水田稲作を導入したために戦争が起こったとするのは間違いでした。コメを食べる弥生人も、そしてその血を引く現代日本人も、決して好戦的ではないことが分かって、ほっとしました(^_-)-☆

二世紀末から三世紀に多くの血が流れましたが、日本人はその後ずっと、この建国時代に亡くなった大国主・台与そして卑弥呼の三柱の祟りを特に畏れました。地震や津波や火山噴火や疫病などの災害はこれらの神の祟りなのです。歴代天皇はこれらの神々の鎮魂の祭祀を今も行っているのだと思います。常に国家安泰と国民の安寧を祈ってくださる天皇陛下が居られる国なので、国民は安心して暮らせるのだと思います。

【関連記事】
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有




読みにくい文章を最後まで読んでいただき有難うございます。どうもお疲れ様です。(^◇^)
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

天皇陛下は縄文系なのか?(@_@)?

2023-08-18 17:55:06 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

標記の話題は日本のルーツを考える上でとても興味があるものです。とても良い動画にコメントしました。そこで紹介した拙ブログ記事「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」を崗上虜囚様が見られてコメントを頂き、とてもいい意見交換ができました。改めて感謝いたします。長い話で恐縮ですが、どうぞお付き合いください(#^.^#)

【真実】渡来人が高い技術を持ち込んだ→大嘘!教科書の定説がひっくりかえる!【衝撃】
歴女は古代史を語りたい@YouTube


刮目天
渡来人が技術を伝えたというのは真実です。でも渡来人が列島固有の縄文人と混血して日本人ができたのですから何もおかしなことではないですよ。縄文人は渡来人の技術を受け入れて自分のものに変えてしまう特殊な力があったようです。それが今の日本人に受け継がれているのですよ(^_-)-☆

Y染色体 DNAの解析から、渡来人は江南出身の倭人(Oー47z)であることが分かっています。日本に水田稲作技術が伝わった紀元前10C以前から半島の南半分は倭人と縄文系海人族(ムナカタ族)が渡って住み着いていましたから、そこで倭人との混血も始まって、列島にも展開したのでシナ人O2(旧O3)から倭国と呼ばれるようになったのですよ。

半島の北半分は、もともと山東半島の龍山文化の担い手で殷(商)王朝を興したO1b2*(O1b2からO-47zを除く)の人々が、末期(BC.11C)に王族の箕子と共に移り住んでいました(箕子朝鮮)。現代の朝鮮民族の男系のルーツは、この人々(約1/3)と、満州のツングース系(約9%)とBC3Cの戦国時代の戦争難民などのシナ人(約40%)で構成されます。

半島南部の倭人・縄文人は7世紀半ばまでにほとんど列島に移動しましたので、現在の半島にはほとんど居ません。これらの人々を渡来人と言っているのですがルーツは日本人と同じですよ。

ただ半島に取り残された男性は殺され、女性はシナ人と混血したはずです。だから半島人の顔つきは日本人とよく似ているのです。ゲノム分析でも日本人とシナ人の中間に来ています。

結局、技術を伝えたのは今の半島人ではないということです。だから水田稲作の伝来ルートが半島経由であろうが、直接日本であろうがどちらも倭人が伝えたのですから何も不都合はありませんよ!

詳しくは拙ブログ「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」「半島の古代史」などをご参照ください!お邪魔しました( ^)o(^ )





拙ブログ「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」への崗上虜囚様のコメント(抜粋)!(詳細はこの記事のコメント欄参照)
現在では天皇のY遺伝子は、D1a2a1b(D-IMS-JST022457)と推定されています。
それにしても天皇のY遺伝子がDタイプだと言うことは凄いことなので、現在これを元に色々妄想している処です。

私は先祖が菅原道真だとの言い伝えがあり、菅原道真は天照大御神の子である天穂日命の子孫であることになっていますが、とある本に「菅原道真は大国主神の直系で大国主神は北の方の国からやって来た」と記述が有ったので、自分の先祖は大陸の北の方からやって来たかも知れないと思ってDNAを調べて見ました。結果はD-CTS1982、Dタイプでした。

天穂日のY-DNAは定かでは有りませんがD-CTS220の情報も有り、Dタイプの可能性があります。そして天皇がDタイプの説はむしろ欧米の方が定説になっており、それは源家等天皇を出自とする子孫程、自分のDNAを調べようと方が多く、その結果だと思います。又、竹田恒泰氏は自分のDNAが何であるかは言いませんが、天皇が半島や大陸から来たことは言下に否定し、縄文どころか岩宿時代を熱っぽく話されているのを見ると、竹田恒泰氏も自分のDNAを調べて話しているのだなあと思っています。

若し天皇家が周の国の血を引いていれば、代々伝承され日本書紀等にも誇らしく載せてある筈ですが、神代の話は噴火の事か?と思えれる話ばかりです。これらの事から天皇のY-DNAは99%Dタイプだと思っています。


刮目天
(「【吉野ヶ里遺跡】え?日吉神社ご神体が仏像なの?」に)菅原道真のことも書いていますのでご参照ください。大国主久々遅彦の一族だと推理しています。YーDNAは奴国王天御中主の子孫ですから原始夏人O1aだと考えています。

天皇陛下の血筋をDNA検査で調べるというのも不敬に当たるので、竹田恒泰氏が本当に調べておられても公表できないのでしょうね。天皇家は室町時代から戦国時代くらいまで、かなり不遇だったようですからその時に入れ替わっているということも考えられます。でも、もしも刮目天の推理どおりのY-DNAでなかったとしても、天皇家は日本の象徴となる由緒ある家系であることは間違いないですよね(^_-)-☆

それから、日本書紀ですが、天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと、ほとんどの日本人は思い違いされています。完成したのは崩御して34年後です。時の権力者は藤原不比等です。妃の鵜野讃良と組んで皇統を簒奪したと推理しています。持統天皇もすべての女帝もフェイクだと推理しています(詳細は「天皇陛下の本来の仕事とは?!」など参照)。

日本神話は、江戸時代にできた新しいものなのですよ。それまでの神話は、全く異なるもので、史実から伝承されている神話になっていましたよ。ここが分かると謎の多い古代史の真相を解明することができるのです。拙ブログをご参照ください!
とてもいい議論ができ、どうもありがとうございました。これからもどうぞよろしくお願いいたします(#^.^#)


以下はこの記事で補足した内容です( ^)o(^ )

天御中主はナーガ(龍蛇神)を信奉する海人族(倭人)の王という意味の名前です。それを裏付ける地名などのほか、物証としては須玖岡本遺跡D地区王墓などで出土したガラス璧片(奴国王が周王朝から子爵に封じられた呉王族の証拠)や国宝金印「漢委奴国王印」(つまみが民族の特徴を表すヘビ)や楯築王墓の神社のご神体弧帯文石(人面蛇体の天皇伏羲と同じ)や古い前方後円墳に見られる弧文円板(ヘビのデザインです)などがあります。ですから、天皇家のルーツは呉王族そして人面蛇体の天皇伏羲・人皇女媧を祖神とする夏王朝を興した禹王の子孫です。最後の奴国王スサノヲまでは原始夏人O1aではないかと考えています。


(鏡よりも価値のある王の印の玉璧が置かれています)




しかし、すでに「王年代紀は記紀神話を正した!」で「皇族の男系男子も同様に、武家社会を築いた平氏や源氏は天皇の子孫ですので、現代日本人男性の3.4%しかいない原始夏人系O1aではなく、紀元前二千年ごろに始まる夏王朝から四千年もの長い時間経過の中で、現代日本人の約25%の倭人のもの(Oー47z)に変わっている可能性が高いと思います。」と述べました。

つまり、この家系は殷王朝期は不遇な時代でしたので太伯の父の古公亶父(亶州=日本の父という意味)までに血筋が変わった可能性もあるということです。この場合倭人のものに変わった可能性が高いということです。

また、弥生中期から倭国を支配していた奴国が弥生後期に宮廷楽師の師升らに滅ぼされたので、奴国から逃げた王族も縄文海人ムナカタ族に助けられた時代があり、血筋が途切れて、ムナカタ族のイザナミの家系の王族が久々遅彦(ムナカタ族を束ねる王の襲名)を継承した可能性も絶対ないとは言えません。その間にムナカタ族から妃を貰っていますので、ゲノム的には縄文系優位になっているはずです。初代応神天皇はその子孫です。

特別な神階「品位(ほんい)」を差し上げている神が四柱あり、皇祖神として伊弉諾尊(第17代奴国王)が最も古く、初代王天御中主はありません。しかし、藤原氏はこの最初の皇祖神は都合が悪いので差し上げてはいないのだと考えています。応神天皇の系統は奈良時代で絶えていますので、今の天皇家は第19代王天照大神尊ニギハヤヒ大王の直系の子孫だと考えています。吉備津彦ということにして品位を差し上げています(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。そしてニギハヤヒの妃も縄文海人ムナカタ族ですから、ゲノムとしては同様に縄文系だと思います。

古くから名家の血筋が途絶えるときには、別の名家からの養子によって家を残すという考え方はあったと思います。その場合は、YーDNAを調べても天御中主のYーDNAと異なり、天皇家に繋がる源氏の血筋が縄文系ではないかという崗上虜囚様のご意見どおりとなります。

刮目天の仮説を検証するのにはY-DNAが原始夏人O1aで一致すれば大きな証拠になると思いますが、もしもそうでなくてもこの仮説には上述のような証拠が多数ありますので、仮説をすべて棄却することにはならないと考えます。

万世一系の皇統の男系男子による皇位継承は日本人にとって大事であることは当然ですが、その本当の意味は、由緒ある天皇家は独自の伝統・文化を何千年も継承しているということではないかと思います。宮中祭祀や儀式や御物などが由緒ある天皇家である証(あかし)なのです。それを継承してきた天皇陛下の役割はとても大きなものだと思います。万が一誰かにすり替わることが長い歴史の中であったとしても、天皇陛下が主催する伝統儀式を、幼いころから親しんでいない一般の人間が心理的にも物理的にも継承できるはずないのですから、とっくに廃れていると思います。ですから、そのようなことはとても考えにくいと思います(^_-)-☆



【関連記事】
天皇即位の密教の儀式の正体?

松野連系図は正しいのか?


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ(^_-)-☆

2023-08-16 07:44:12 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

とてもいい動画を見つけましたので、コメントしました。お付き合いください(#^.^#)


【ゆっくり解説】卑弥呼の墓説がある宇佐神宮の謎
日本史の何だコレ?@YouTube


とてもいい解説をありがとうございます。宇佐神宮の中央の一番立派な二之御殿に祀られる比咩大神(ひめおおかみ)が卑弥呼ですよ。宇佐神宮の創建には日本建国の秘密が隠されています。なぜ邪馬台国を隠さねばならないのか、その事情を推理しています。ややこしい話なので、よろしければ拙ブログ「刮目天の古代史」をご参照ください。



宇佐神宮の創建は725年八幡大神を一之御殿で祀ったことから始まり、733年に二之御殿で比咩大神を祀ることになりましたが、実は比咩大神原八幡神卑弥呼はすでに4世紀ころから秦氏の支族の辛嶋氏によって宇佐郡稲積山で祀っていたのを藤原氏が卑弥呼の史実を隠すために宇佐神宮で祀った経緯があります。その時の八幡大神は応神天皇ではなく、神宮寺として弥勒寺を創建していますので、弥勒菩薩を本地仏とする久々遅彦(狗古智卑狗、兵庫県豊岡市久久比神社祭神、全国の上棟式祭神で木霊屋船久々智命、玄界灘、山陰から近江・北陸・越(コシ)を拠点とするムナカタ海人族を束ねる王)で、列島の大半を支配したので記紀で大国主命とされた人物です。久々遅彦と女王台与(記紀の神功皇后)が纏向遺跡の狗奴国勢に討たれ、狗奴国が日本を統一しましたが、大国主の祟りによって狗奴国の後ろ盾の孫呉が西晋に滅ぼされたことで、次に追討されるのを恐れ、大国主と台与の子ホムダワケ(大田田根子)を探し出して祭祀王にし、纏向遺跡をヤマト(邪馬台)と呼んだと推理しました。本当の八幡大神は大国主なのですが、後に応神天皇として歴史の真相を隠したのです。

そして卑弥呼が居た場所は宇佐市安心院町三柱山台地の宮ノ原遺跡で、三女神社(さんみょうじんじゃ)が宮室でした。葦原中つ国宇佐嶋に三女神が降臨し水沼君が奉斎した伝承がありますが、安心院盆地内に水沼社があり、水取りした場所という伝承がありますので、藤原氏によっていくつか降臨伝承が作られていますが、この場所が本当の降臨地と突き止めました。

この地でイチキシマヒメ卑弥呼とその父赤坂比古(和邇氏の祖)の墓を発見しています。日本最大の直径150mの円墳「三柱山古墳」と三番目に大きい直径約120mの円墳「奥城古墳」です。「女王を共立した赤坂比古は?」で述べたように父赤坂比古が正始四年に魏に朝貢し、その途中で亡くなった倭大夫伊聲耆(いせぎ)をこの地で葬ったと推理しています。

藤原不比等は権力の正統性を主張するのに邪魔なムナカタ海人族の史実を隠す必要があったので卑弥呼が「日本書紀」から消されたのです。和邇氏というのも誤魔化すために作られた氏族名かも知れません。宗像氏・宗形氏と同祖だということは、天理市和邇坐赤阪比古神社の御祭神が宗像氏の祖神阿田賀田須命と三女神の主神市杵島姫とされていることから分かります。しかし、卑弥呼を隠した藤原氏はその祟りが恐ろしいので、中臣氏・藤原氏の氏神を祀る春日大社の第四殿で、祖神天児屋根大神の后であり、その正体を天照大御神とされた比売神として卑弥呼を祀っていると推理しています。



日本書紀の中で神武東征で最初に立ち寄った神武天皇の母玉依姫の墓所の一柱謄宮(いっちゅうとうぐう、安心院町妻垣神社奥宮)でウサツヒコとウサツヒメの歓待を受けたとしています。春日大社第三殿に祀られる天児屋根の孫天種子命がウサツヒメを娶る話まで創作しています。卑弥呼の死後の内戦に勝利した大国主が台与を伴って卑弥呼を弔うために三柱山古墳に墓参し、一柱謄宮で祭祀を行った史実を隠すために作られた神話だと推理しました。

出雲神話で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治をしたスサノヲがイナダヒメを娶った喜びから松江市八重垣神社で読んだ日本で最初の歌

八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を

からこの妻垣神社の社名が作られていることから、大国主がウサツヒコで台与がウサツヒメだということが分かります。一柱謄宮の候補地は市内にあと二か所ありますが、妻垣神社が比咩大神の元宮ですので、申し訳ないですが誤魔化すためだと分かりますよ(^^;)

また、上述の内戦で第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫で狗奴国の有力者の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、尾張国造の祖、秋葉神社祭神カグツチ)を大国主が討って倭国王に立ったものと推理しています。乎止与命は、記紀で仲哀天皇とされて住吉大神の神託を信じなかったために祟りで突然崩御する話となっています。天皇陛下も尾張王も龍蛇神天御中主(アメノミナカヌシ)の子孫ですので大蛇(オロチ)ですから、ヤマタノオロチ神話は卑弥呼の死後のこの内戦をもとにして作られた伝承だと考えられます。八岐大蛇の神話は従来、乱暴者の神が突然良いことをする神に変貌するわけですから、出雲国風土記にもありませんし、様々な説があります。スサノヲはすでに奴国宮廷楽師の師升の反乱で殺されていることを突き止めていますから、この話も大国主の史実を誤魔化すために創られたと分かります。

大国主は、卑弥呼を祀った後に、安心院町佐田地区で最初の国造りを行っています。豊葦原瑞穂の国というは、佐田川流域の群生した葦を払って水田にした故事からきています(詳しくは「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。


倭国大乱の英雄で倭国王難升米に討たれた大国主の父の狗古智卑狗の霊を祀るために日本一立派なストーンサークル佐田京石米神山の麓に作っています(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。また米神山の中腹の月の神谷に多数の石柱を父の終焉地に向けていることから謎が解けました。

父の墓は恐らく、四世紀の宇治天皇の御宇に和邇氏が英雄狗古智卑狗を顕彰するために広大な鹿本平野を見渡す山鹿市一本松公園に立派な方墳茶臼塚古墳を造ったと推理しています。藤原氏に隠された宇治天皇は応神天皇の皇太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)で、母は卑弥呼の弟赤坂比古日触使主の姫宮主宅媛だと推理しています。応神天皇が崩御されて即位したのですが、オオサザキ(仁徳天皇)に暗殺されたと推理しています。先日豪華な副葬品で話題になった奈良市富雄丸山古墳の被葬者だと考えています(詳細は「富雄丸山古墳に隠された大きな秘密?」参照)。

そして茶臼塚古墳の墳頂に大日如来の石祠が置かれているのです。そこから鬼門(北東)の方角に前述の弥勒菩薩を本地仏とする大国主が居ることが胎蔵曼荼羅に描かれているので分かります。そして米神山の石柱が揃って裏鬼門(南西)に向けられていることからすべて判明しました。米神山にひとりで登って、石柱の方角を確認してきました。少し甘く見たようで、軽い熱中症にかかってバテましたので、ひとつだけしか確認できませんでしたが、他の石柱も同じ向きに向いているようですよ(^_-)-☆



磁北の補正を図に加えましたが、コンパスの置き方にもよりますが、かなり正確に茶臼塚古墳に向いているようですからとても不思議!。恐らくは下図のとおり、米神山から南西方向に見える山々を目印に設置したと考えました。

ところが、茶臼塚古墳から米神山へ約80kmの直線をさらに伸ばしていくと、何と、なんと、約400kmも先に、豊岡市竹野町で五社大明神を祀る古い社にたどり着きます。鷹野神社の由緒からその元宮とのことですので、大国主の父狗古智卑狗の王宮と推理しました(詳細は「【大発見!】大国主命の生誕地か?」参照)。

(左クリックでMyMapに移動しますのでご確認ください)


そしてこの地で大国主久々遅彦が生まれたと考えられる伝承まで見つけてしまいました。この不思議な一直線を狗古智卑狗の霊ラインと呼んでいます(詳細は「【刮目天の古代史】2022年の大発見!(^_-)-☆」参照)。さらに平安時代まで大国主は高野御子(たかののみこ)と呼ばれていたことを突き止めました。弘法大師空海の修行場の高野山の山号は高野御子大国主から来ていると分かりますから、空海は大国主大神の鎮魂によって国家安泰を祈ったのだと分かりますよ。最澄は大黒天としていますが、これも大国主大神のことだと直ぐに分かりますね(^_-)-☆



また、大国主の祖父で出雲国風土記の国引き神話の八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノミコト)が様々な根拠地のムナカタ族を配下として集めた出雲の地に大国主大神を祀る杵築大社(出雲大社)を造ったのです。どこのご祭神も拝殿の参拝者に正面を向けているものですが、ここでは西方を向いているそうですから、すべて大国主久々遅彦の史実を隠すために出雲に大社(おおやしろ)を創ったことを、申し訳ないという気持ちが込められているようです(詳細は「【刮目天の古代史】出雲大社は新しい名称だった!」参照)(^_-)-☆

ちょっと話が発散気味なのでこの辺りで止めますが、宇佐の地にはまだまだ隠された秘密があると思います。国東半島の六郷満山も神秘的ですよ。日本建国の刮目天仮説から従来の謎がどんどん解けるので楽しくなりますね( ^)o(^ )ご興味を持たれた方は一緒に謎ときに参加してください。秘密を暴かれて不快な方もいるかと思いますが、学術的な調査ですのでどうぞお許しくださいね(#^.^#)


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング