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秦氏と古事記の関係?(^_-)-☆

2023-07-25 18:33:54 | 古代史
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前回の記事で渡来系氏族の秦氏は「実は「日本書紀」で隠された日本建国の真相を伝えたくてムズムズしている一族なのです。同様に「古事記」を創作した九世紀の学者多人長(オオノヒトナガ)は秦氏と関係があったようなので、建国の史実を共有していた模様です。」と書きました。これについて記事にします。お付き合いください(#^.^#)


日本書紀崇神天皇五年、国内には疫病が多く、民の死亡者は、半数以上に及ぶほどであった。

六年、百姓の流離する者、或いは反逆する者あり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。

そこで一日中、天神地祇にお祈りをした。
その後、天照大神(アマテラスオオミカミ)、倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。


とあり、「元々倭大国魂神は大地主大神として天照大神とともに孝昭天皇の時代から瑞籬宮の大殿に同殿共床で祀られていた」とあります。

ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。
そこで天照大神を豊鍬入姫命(トヨスキイリビメノミコト)に託し、大和(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った。
そして、堅固な石の神籬(ひもろぎ、神が降臨されるところ)を造った。


これが女神アマテラスを伊勢神宮に遷してお祀りする切っ掛けになった話なのですが、天照大神は皇祖神である女神アマテラスのはずなのですから、本来天皇の守護神のはずなので奇妙な話です。倭大国魂は大国主久々遅彦のことで、史実は崇神天皇が討ったヤマト大王への反逆者なのですが、後で述べますがその祟りが天皇を苦しめていたという話です。神に祟られた天皇との名前からも分かりますね(^_-)-☆

そしてこの笠縫邑ですが、wikiに「比定地については、檜原神社(桜井市 三輪)、多神社(磯城郡 田原本町多)、笠縫神社(磯城郡田原本町秦荘(庄)、秦楽寺境内南東隅)、笠山荒神社(桜井市笠)、多神社摂社の姫皇子神社、志貴御県坐神社(桜井市金屋)、小夫天神社(桜井市小夫)、穴師坐兵主神社(桜井市穴師)、飛鳥坐神社(高市郡 明日香村飛鳥)、長谷山口坐神社(桜井市初瀬手力雄)、等々。」とあり、例によって訳が分からなくなっています。最初の桜井市の檜原神社、笠山荒神社、志貴御県坐神社、小夫天神社、長谷山口坐神社は大物主大神が祀られている三輪山やその付近ですから、二柱を同じ場所に遷しても意味がありません。こんなに比定地があるのもおかしな話です。これは宇佐神宮周辺でも見ましたが、同様に藤原氏が様々な比定地を作って訳が分からなくしたと思われますね(;´Д`)。(2023.8.29 赤字訂正、以下すべて修正)

しかし、 磯城郡田原本町多にある多神社という説ですが、この多神社は正式には多坐弥志理都比古神社(多坐彌志理都比古神社、おおにいますみしりつひこじんじゃ)ということで、現在の祭神は神武天皇の他、多氏の祖神である神八井耳命(カミヤイミミノミコト)や太安万侶となっています。しかし古くは、『延喜式神名帳』には「大和国十市郡 多坐彌志理都比古神社二座」と記され、珍子 賢津日霊神尊(うつのみこ さかつひこのみこと)と天祖 賢津日孁神尊(あまつおや さかつひめのみこと)が祀られていたとあります。神武天皇崩御後に皇子たちの相続争いがあり弟神沼河耳命(綏靖天皇)に皇位を譲った神八井耳命が多氏の祖とありますが、応神天皇崩御後の皇子たちの相続争いとほとんど同じなので作り話だと直ぐに分かります。



そして、珍子 賢津日霊神尊は神武東征で水先案内した珍彦(うずひこ、倭国造の祖)が連想させられます。「日本書紀」では後に、椎根津彦(しいねつひこ)に名を改められたとあり、「古事記」では槁根津日子(さおねつひこ)とされています。天孫降臨神話でニニギノミコトを道案内した猿田彦と同じ役割で、教導の神とされています。これは初代応神天皇が本当の父の大国主の祟りによって即位したことを表しているので、猿田彦も珍彦も大国主久々遅彦の分身なのです(^_-)-☆

天祖(あまつおや)は女神ですので天皇の母親という意味にとれます。初代応神天皇の母の神功皇后のモデルとなった女王台与でしょう。ですからこれらサカツヒコ・サカツヒメの二柱の男女の神は例によって大国主久々遅彦と女王台与のことだと直ぐに分かります(^_-)-☆

ということで多氏の本当の祖は大国主久々遅彦と女王台与だったと考えられ、多氏の本拠地(多神社)が笠縫邑というのもいいのかも知れません。女神アマテラスは藤原不比等の創作ですので、最終的に伊勢神宮に遷された本当の天照大神は大国主だったことを示唆しています(詳細は「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)」参照)。

また、笠縫邑が秦庄にあったという笠縫神社という説ですが、これもバッチリ秦氏の根拠地になりますから、上のとおり天照大神の正体が大国主のなので、前回見たように秦氏が太秦の広隆寺や松尾大社で大国主の本地仏弥勒菩薩や大国主の分身オオヤマクイを祀っているのとは矛盾はありません。さらにこの笠縫神社は、神宮寺ではありませんが真言律宗の秦楽寺(じんらくじ)の中にあります。秦楽寺は百済王から贈られた観音像を聖徳太子が秦河勝に与えたことに始まるとの寺伝がありますが、現在のご本尊は平安時代に作られた千手観音です。その右と左に聖徳太子像と秦河勝像が安置されています。観音菩薩は元々男性と女性の姿をとるようですが、中国に伝わって女性と見られる「慈母観音」などが日本に伝わったとされます。

前回述べた秦氏の伝承から、秦氏が大国主久々遅彦の子孫で、宗像女神卑弥呼を祀る人々ともかかわりがありますので、千手観音は卑弥呼と同じ母系の伊弉冉尊の本地仏ではないかと思います(卑弥呼はイチキシマヒメですから弁財天が本地仏です)。つまり秦氏はもともと半島南部に居た縄文系海人ムナカタ族で、大国主久々遅彦である武内宿禰の長男である波多八代宿禰[5](はたのやしろのすくね)を祖とする波多氏だったということなのです([5] 『古事記』では波多八代宿禰とするが『日本書紀』では羽田が編者の一人となったため波多を羽田に変更し羽田矢代宿禰と書く)。

多氏の根拠地多神社から東に約500mのところにある笠縫神社が秦氏の根拠地の秦庄にあったということで、多氏も秦氏も、どちらも加羅・新羅と関係の深い大国主久々遅彦の子孫で、両氏の母方はムナカタ海人族だったと考えられます。ですから歴史の真相を共有し、多人長は「古事記」によって藤原不比等が隠した真相をあからさまには暴露はできないので、暗号をちりばめたということだったのです。

そして、秦氏ですが、秦楽寺の門前の説明板には、雅楽の楽人や猿楽にも関係する人たちが秦庄には数多く居り、「秦楽とは、秦の楽人である」と書かれているようです。寺の前に、能楽の金春流の猿楽役者の金春大夫の屋敷があったと記されており、観阿弥・世阿弥と同じ秦氏とのことです。

ということで「日本書紀」に記された笠縫邑は多神社か秦楽寺かははっきりしませんが、いずれにしても「日本書紀」崇神紀の天照大神はこの付近の集落の人々が祀った大国主久々遅彦なのです。

そして、先ほどの日本書紀崇神六年の記事のつづき「また日本大国魂神は、淳名城入姫命(ヌナキイリビメノミコト)に預けて祀られた。
ところが渟名城入姫命は、髪が落ち体が瘦せてお祀りすることができなかった。
」とあるのは、日本大国魂神である大物主大神(大国主久々遅彦)の祟りは恐ろしいと強調しているのです。

その後崇神八年に大物主大神の妻倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトビモモソヒメ)が神憑りして大物主大神の祟りなので、子のオオタタネコに祀らせるようにという神託を天皇に告げたので、天皇は探し出して祀ったところようやく治まったという話です。この話から大国主武内宿禰と百襲姫命である神功皇后台与の子ホムダワケを狗奴国王卑弥弓呼崇神天皇が探し出して、初代祭祀王応神天皇を即位させたというヤマト王権の始まりが推理できるのです。

【関連記事】
秦氏の正体と能楽のひみつ?(^_-)-☆







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秦氏の正体と能楽のひみつ?(^_-)-☆

2023-07-23 13:06:48 | 古代史
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渡来系氏族と言われる秦氏については、「日本書紀」では応神天皇紀に百済から弓月の君が百二十県の民を引き連れて帰化した話があり、平安時代初期に編纂された「新撰姓氏録」にも応神天皇十四年融通王(弓月王)が百二十九県の百姓を連れて帰化してきたとあります。そこに「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の内容があるのですが、「その出自は明らかではなく、これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたというのが定説になっている」とwiki「秦氏」にあります。実は「日本書紀」で隠された日本建国の真相を伝えたくてムズムズしている一族なのです。同様に「古事記」を創作した九世紀の学者多人長(オオノヒトナガ)は秦氏と関係があったようなので、建国の史実を共有していた模様です。

一方、「日本書紀」は藤原不比等により創作されましたが、関裕二氏は藤原鎌足の正体が百済王子豊璋と見ています(詳細は「藤原鎌足は日本人じゃない?ブッブー!( ^)o(^ )」参照)。「日本書紀」では弓月君が帰化に当たり新羅に邪魔されて民を加羅に留め置かれていると訴えています。不比等は新羅を敵視して秦氏の出自を誤魔化していたようです。というのも、秦氏は根拠地とした京都市右京区太秦の広隆寺を氏寺としており、聖徳太子像と共に有名な弥勒菩薩半跏像を祀っています。つまり、半島南部から山陰・越を根拠地とする縄文海人ムナカタ族を束ねた大国主久々遅彦の本地仏なのです(詳細は「【刮目天の古代史】宇佐八幡のなぞが真相へ導く!(^_-)-☆」参照)。秦氏は養蚕や織物の技術を持つ加羅や新羅と関わりの深い氏族なのです。

秦氏とゆかりのある松尾大社では大山咋神(おおやまぐいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと)の二柱を祭神としています。大山咋神は大国主の分身です。そして中津島姫尊は宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼のことです。四世紀の豊前地方で八幡比売神卑弥呼を祀っていた辛嶋氏は秦氏の支族なのです(詳細は「神仏習合の発祥地と言われる宇佐のなぞ?」参照)。

「秦氏本系帳」にも秦氏の最初の娘が大山咋神の子を産んだとあり、秦氏は大国主久々遅彦の子孫という伝承なのです。そして、秦河勝は聖徳太子に仕え、四天王寺の建立にも携わったとされています。聖徳太子は用明天皇(蘇我馬子)の皇太子で豊浦天皇として即位した、蘇我蝦夷のことだと万葉史観から分かっています(渡辺康則「聖徳太子は天皇だった」大空出版参照、関裕二氏は聖徳太子が蘇我入鹿としていますが、どちらも架空の人物と見ています)。



ですから不比等は新羅・加羅に関係する日本建国の歴史を誤魔化すために「日本書紀」を完成させたので、新羅寄りの「古事記」と百済寄りの「日本書紀」が共に天武天皇のご遺志で作られたというのは誤魔化しだということが分かるのです(^_-)-☆。

江戸時代まで猿楽と呼ばれて人々に親しまれていた現在の能を大成した室町時代初期の観阿弥・世阿弥親子ですが、伝承では、聖徳太子に仕えた秦河勝の子孫です。ユダヤ人と言いう説が流布されていますが、残念ながら違うと思いますよ(;´Д`)

すでに秦氏に関して記事にしていますので、お付き合いください(#^.^#)

正史のウソを朝廷が告白?(^_-)-☆
東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に見せた日本の王年代紀によって、「日本が古の倭の奴国」だったということを告白したので、以後の中国の正史に倭国ではなく日本として記述されるようになった。

渡来人秦氏はどこからきた?
当時の半島南部には江南出身や縄文人と混血した倭人が活動していました。

武内宿禰はユダヤ人なのか?
秦氏も同様に、卑弥呼と関わりのある倭人なのです。秦氏の祖は武内宿禰とされた大国主久々遅彦の子孫波多氏がその正体だと思います。

箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?(*^^)v
箸墓の被葬者ヤマトトトビモモソヒメはヤマト政権とトビ(へび=大国主)を怨んでいたはずとみんな思っていた!

能楽が建国の真相を伝える?(^_-)-☆
江戸時代まで猿楽と呼ばれた能楽を大成した観阿弥・世阿弥は秦氏だった。そう言えば奝然上人も秦氏だった。どうも秦氏は歴史の真相を暴露したくて仕方がない氏族だったようです(^_-)-☆

能楽「翁」は大国主のサンバだった?(*^。^*)

能「弓八幡」は何を伝えたかったのか?


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天照大神を男神とする説(^_-)-☆

2023-07-17 21:58:44 | 古代史
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2018-07-07 23:13:26にアップした記事を少し改訂して再掲いたします。お付き合いください(#^.^#)

【邪馬台国】天照大神を男神とする説があります。調べてみました。
2018/07/05 に公開 まあちゃん@YouTube




JAZZFUNK01さん

天照大神が、もとは男神であったという説の論拠になっているのは

・紀記の成立が(天武天皇の政策を否定した)持統天皇以降であること。
 ・天照大神と高皇産霊神と、持統天皇と藤原不比等の関係の相似性。
 ・天照大神と天忍穂耳尊(息子)と瓊瓊杵尊(孫)、持統天皇と草壁皇子(早世した息子)と軽皇子(文武天皇・孫)の関係の相似性。
 ・現伊勢神宮の成立が天武天皇~持統天皇以降の時代であったこと。

・天照大神の紀記での初出の名前が「大日孁貴」であること。
 ・「孁」の本来の意味は「巫女」…つまり「神を祀る側」の存在として記されていること。
  (「祀る者」が「祀られる者」に後世になって変化した。)
 ・伊弉諾尊と伊弉冉尊の「長子」は「ヒルコ」であったこと。「ヒルコ」に対する「ヒルメ」であり、(縄文時代から続く)ヒメ・ヒコ信仰の典型。紀記神話から意図的に消された「男神」が居たとも考えられる。

・伊勢神宮外宮に祀られているのが「豊受大神(豊宇気毘売神)」という女神であること。
 ・また、伊勢神宮内宮の正殿床下中心に立てられる「心御柱」の存在。
  式年遷宮の際に一番最初に祀り移される「心御柱」は、明らかに「リンガ=男神の象徴」であると考えられる。

・伊勢神宮よりも古くから大和で祀られている大神神社のご祭神が「大物主大神」であり、大和を最初に造成した神であると天皇家が認識していること。
 →崇神天皇の御製歌「此の神酒は我が神酒ならず倭成す大物主の醸みし神酒幾久幾久」

・大神神社に由来する三輪神道では「天照大神と三輪大明神は一体分身」とされていること。

・神武天皇より先に大和を治めていた「ニギハヤヒノミコト」は、「天照国照彦火明櫛玉饒速日命」の名前を持ち、やはり「太陽神(天照)」と見なされること。

等々…

これら全ての論拠を肯定するワケではありませんが…
少なくとも、「神仏混淆」や「武士の台頭」といった後世の牽強付会で説明されるべきではありません。



刮目天一
JAZZFUNK01さん 詳しい解説をありがとうございます。
でも精力的に話題提供していただいている「まあちゃん」さんもアマテラス女神に少し疑問があるのでこの動画をアップされたのだと思いますよ( ^)o(^ )
わたしも男神説ですが、とても参考になります。

ヤマト王権は、ご存知の通り、皇位継承のレガリア=三種の神器から倭の奴国の系統だと分かりますし(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)、シナの正史「新唐書」にも「日本は古の倭の奴也」と明記されてますね(*^。^*)

奴国は57年後漢光武帝から賜った金印の紐のデザインから分かるように、龍蛇神(ナーガ)を信仰する水田稲作・漁労民族国家ですので、そのような国名になっています。そして、ヤマト王権の発祥の地の三輪山に祀られている大物主大神(大国主命)もご神体は蛇だとされていますから一致します。

そして、「日本国」へ、八百年も掛かったのか?で紹介した「宋史」日本伝の中で、984年第64代円融天皇が、「初代天御中主から23代の王が筑紫の日向宮に居て、最後の王の4男の神武天皇が大和州樫原宮に都を遷して、その後も、一姓の世襲で王位継承している」という内容の『王年代紀』を東大寺の僧奝然(ちょうねん)に持たせ、宋の皇帝に差し出して、ようやく日本国への変更が認められたという経緯からも明らかです(注1)。



いわゆる天之御中主神に始まる高天原神話の時代が奴国にあたることを日本の朝廷が正式に認めたので、シナの朝廷もようやく了解したということです。

そして、その中に17代奴国王が伊弉諾尊、18代が素戔男尊、19代が天照大神尊と記載されていることから、「記紀」にある女神アマテラスがスサノヲの姉という話もデタラメで、天照大神がスサノヲの次の王だということを日本の朝廷が認めたということですし、考古学的にも全く矛盾のない信ぴょう性のある話です(天照大神と物部氏については、いろいろと謎があり、現在まとめています)。

つまり、天照大神が男王であることは奈良・平安時代から恐らく明治直前までご皇族は皆ご存じだったと思いますよ(*^▽^*)。なぜなら、伊勢神宮には持統天皇から明治天皇まで天皇はどなたも行幸されず、ご皇族も熊野本宮・石上神宮・大神神宮・賀茂別雷神社などにしか詣でていないからです(原田常治「古代日本正史」同志社、1976,p.165)。

日本各地の神社のご祭神を見ても天照大御神や神武天皇に比べ、スサノヲと応神天皇をお祀りする神社の数が圧倒的ですので本当の皇祖神がどなたかを皆知っていたのだと思います。女神アマテラスは持統天皇の皇位継承の正統性を主張するために「日本書紀」でねつ造されたというのが事実ですよ(*^▽^*)

ついでにヤマト王権成立に関して概略を述べさせてもらえば、19代奴国王天照大神尊は物部氏の祖ニギハヤヒ、初代神武天皇は応神天皇のことで、ニギハヤヒの直系の大王=狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤写か?)が二人目のハツクニシラススメラミコト崇神天皇でしょう。この狗奴国ヤマト(纏向)の大王が政治的な理由でスサノヲ直系の狗古智卑狗(久々遅命=大国主命=武内宿禰)と女王卑弥呼の宗女台与(神功皇后)との間の子ホムダワケをヤマトに呼び寄せ初代祭祀王とし、列島に前方後円墳と三角縁神獣鏡を広めて物部氏が外戚として政治の実権を握ったのがヤマト王権成立の真相ですよ( 詳細は「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」参照)( ^)o(^ )




(注1)日本国の国号は、通説では大宝元年(701年)第8次遣唐使 粟田真人によって唐(当時は則天武后の大周)に変更を申し出て了承されたとされていますが、その後の945年に完成した「旧唐書」の編纂者らは、倭国と日本の二本立てで記しています。そして倭国の条の冒頭に「倭国は古の倭の奴国也」と書き、648年(貞観二二)までのことを記し、703年(長安三)以後を日本の条に記しています。その中で、
『日本国は、倭国の別種也。其の国、日の辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或いは曰く、「倭国自ら其の名の雅やかならずを悪み、改めて日本と為す」と。
或いは云う、「日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり」と。
其の人、〔唐の〕朝〔廷〕に入る者、多くは自ら大を矜(ほこ)り、実を以って対(こた)えず。故に中国は焉(これ)を〔どこまで真なりや〕と疑う。』
とあり(藤堂明保ほか「倭国伝」講談社学術文庫2000,pp.205-208)、更に粟田真人の後の遣唐使の話の中で「日本に調布の制度があるなんて嘘だろう」とまで書かれています。つまり、倭国は日本国だという国号変更の主張は実際には了承されていなかったということです。日本書紀の内容に添って説明したので、後漢光武帝への朝貢の話がなかったことが大きな原因と考えられますね(詳細は「日本国」へ、八百年も掛かったのか? 参照)(^_-)-☆

【関連記事】
卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)

邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!

【参考図書】
伊勢神宮の暗号 (講談社+α文庫) 文庫 – 2013/1/22
関 裕二 (著)

古代史 不都合な真実 12の古代文書が暴く「日本書記」の嘘
(じっぴコンパクト新書) 新書 – 2018/1/10
関 裕二 (著)


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邪馬台国はヤマタイコクと読まない?(*^。^*)

2023-07-15 01:31:02 | 古代史
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2018-05-06 00:53:05に記事にしたものですが、少しだけ追加して掲載します。お付き合いください(#^.^#)

【邪馬台国】2邪馬台国はヤマト国と読む
まあちゃん 2018/02/03 に公開 YouTube

邪馬台国から続く日本の成立を探求しています。邪馬台国を「やまたいこく」とよんだところから日本の成立場所が分からなくなったと思っています。邪馬台国は、「やまとこく」と呼びます。日本の始まりは邪馬台国であり、邪馬台国の場所は九州北部でしかありえません。それを立証するのがこのチャンネルの目的です。このシリーズを見ていただくと納得していただけると思います。

邪馬台国(やまたいこく/やまとのくに)は、2世紀 - 3世紀に日本列島に存在したとされる国(くに)のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったとされている。古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが[注釈 1]、江戸時代に新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読した[注釈 2] ことから「やまたいこく」の読み方が広まった。日本の文献には邪馬台国や卑弥呼の存在は一切記載は無く日本では存在は立証されていない。所在地について、今も議論が続いている。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/04 02:00 UTC 版)


邪馬台国の「台」は「ト」と読め、山門(ヤマト)ではないかという説がありますが、大和(ヤマト)を日本書紀では「耶麻騰」「夜摩苔」と記され、古事記でも「夜麻登」と書かれて、「トゥ」に近い「ト」の音なのです。つまり、奈良時代の日本語では「ト」が甲類、「トゥ」が乙類と明確に区別されたと考えられるので、邪馬台は「ヤマト」ではなく「ヤマトゥ」の発音だったわかります(安本美典「倭人語の解読」勉制出誠 2003 pp.176-195)。

山門という地名は日本書紀神功皇后紀山門県に現れ、柳川市・みやま市にあった筑後国山門郡と比定されています。また、「和名抄」に肥後国菊池郡山門郷が見られ、播磨国風土記にも播磨国山門領(やまとのみやつこ)という役職が登場し、その場所は特定されていませんが、播磨国に山門があったと思われます。

また、寺院の山門(さんもん)はもと山に建てられ、普通、山号で呼ばれることが多い。滋賀県伊香郡西浅井町山門(やまかど)という地名も見られ、地形由来の山門(やまかど)という姓も「三重県熊野市有馬町に分布あり。三重県多気郡大台町栃原では江戸時代に農業、林業に従事していたと伝える。栃木県宇都宮市に安土桃山時代にあった。」とあります。

一方、類語で水門(ミナト)が記紀に見られます。これらのことから、山門(ヤマト)は地形を表す一般名詞として使われたと考えられます。

これらのことを考えると、邪馬台国は普通名詞の山門のことではないと考えられます。

それではどうして、奈良県大和盆地で大和と書いて「ヤマト」と呼ぶのか?については、山地への入り口という地形からという説もありますが、大和をそのように読むことはできないので、理由は別にあったと考えられます。

記紀や万葉集などで倭・大倭・日本・大日本がすべて「ヤマト、オオヤマト」と読まれています。これは纏向にあった狗奴国が列島を統一したのですが、ある理由で纏向遺跡の地を邪馬台国(ヤマトゥ)と呼ぶ必要があったのだと推理していますが、詳細は「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」を参照してください(^_-)-☆

そして邪馬台の台(臺)の字の意味を考えると邪馬台国の謎が解けます。

三省堂 大辞林に依れば、以下のとおりです。

【 台 ( 臺 ) 】 [音] ダイ ・タイ
①高い建造物。 「 台閣 ・灯台 ・番台 ・楼台 ・露台 ・舞台(ぶたい) 」
②物を置いたり人が上ったりする道具。 「 台座 ・縁台 ・鏡台 ・燭台 ・茶台 ・飯台 ・平均台 」
③高く,平らな土地。 「 台地 」
④もとになるもの。 「 台帳 ・台本 ・土台 」
⑤役所。 「 鎮台 ・御史台 ・弾正台 」
⑥相手に対する尊称。 「 《 ダイ 》 貴台 ・尊台 ・老台 」 「 《 タイ 》 台翰(たいかん) ・台書 ・台墨 」
天子や皇族などに対する敬語。 「 《 タイ 》 台命 ・台覧 ・台臨 」
⑧天台宗のこと。仏教の宗派の一。 「 台密 」 〔本来,「台」は我(われ)の意。物見櫓(やぐら)の意の「臺(だい)」とは別字〕


魏臺と書いて魏の明帝を指し、皇帝(王)そのものを指す場合もあるようです。

ここから、邪馬台は邪馬(ヤマ)国に住む女王で、

邪馬台国はその女王の都(クニ)という意味
と考えられます。

ちなみに、邪馬台国を宇佐市安心院町と推理しましたが(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)、

宇佐市史(上巻P.324)によれば、和妙類聚抄宇佐郡野麻郷が安心院町に比定されており、当時から「ヤマ」国と呼ばれていた模様です。





安心院盆地の南側に聳える龍王山の南側の仙の岩耶馬渓と呼ばれてますよ(*^▽^*)。


ちなみに安心院(あじむ)の地名の由来は、YAHOO知恵袋に依れば、以下のとおりだそうです。

①大古、安心院盆地には広大な湖が在り、一面に葦の生い茂った
土地であったことから、「葦生」と書いて(あじぶ)→(あじむ)と転訛した。

②八幡大菩薩が各地遊化の途中、18番目に行幸したのが比咩大神(比売
神〈ひめがみ〉)の故地・都麻垣(宇佐宮八摂社の1つ妻垣社:現在の宇佐市
安心院町妻垣203=妻垣神社)において修行をし、利生を語り合った結果として、
安楽の御心を得られたため、安心院と言った。『八幡宇佐 宮御託宣集』

③筑前糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東区和白〜粕屋郡新宮町付近)を
本拠地として全国に移動した阿曇(あずみ)族がこの地に定住し、宇佐八幡
宮の奥の院であるこの地を守ったことから、あじみの院→安心院。


宇佐神宮本殿の応神天皇と神功皇后の間に挟まれた

二の御殿に祀られる比咩大神(比売神〈ひめがみ〉)が

宇佐嶋に降臨した奴国王族に繋がる縄文海人ムナカタ族の姫巫女「卑弥呼」

と考えています。


第一次倭国大乱期に海に面して危険な宗像の地(不弥(ウミ)国)から安全なヤマ国に疎開したわけで、

この地が、女院=三后・准后・女御・内親王などで、特に院号を与えられるような高貴なお方)のこころを安んじたという故事に因むのが正解ではないかな(^_-)-☆

九州での戦乱を終結させるために

伊都国に住む倭国王と玄界灘を支配したムナカタ族(和邇氏の祖)が和解して女王に立てた後も(注1)、

この安心院の宮室(三女神社)の下の河原に湧き出ている天然温泉に入って、コラーゲンたっぷりのすっぽん料理を食べて、どぶろく(濁り酒)を飲んで快適に暮らしていたんじゃないでしょうか(*^-^*)

(注1)魏志倭人伝には女王とされていますが、これは政治的な理由で書かれたものです(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。倭国王がムナカタ族を懐柔しましたが、ムナカタ族の族長の姫巫女(ヒメゴ)に太陽神が憑依して告げる神託に基づいて政治を行う条件でムナカタ族は狗奴国を裏切ったと推理しています(詳細は「【刮目天の古代史】宇佐八幡のなぞが真相へ導く!」参照)。

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詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」参照。


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天皇陛下の本来の仕事とは?!(^_-)-☆

2023-07-12 12:22:24 | 古代史
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皇位継承に関して男女同権を主張し、秋篠宮家を貶めて、愛子内親王への国民の人気を煽って女性天皇・女系天皇を待望する空気を作っています。女性天皇・女系天皇が擁立されると日本は確実に分断されますので、とても心配しています。天皇陛下の真の役割を古代史研究によって突き止めました。GHQが敗戦後の日本国民に押し付けた占領憲法によって、天皇陛下のご存在を、今の国民が決めるようなものではないことは明らかです。以下の動画にコメントしました。どうぞ、お付き合いください(;´Д`)

【特別対談】小田部雄次 静岡福祉大学名誉教授「万世一系」「変わらず男系男子」「女性天皇はリリーフバッター」は本当か?【7月10日14時から配信】
古是三春_篠原常一郎@YouTube 


とても重要な話題をありがとうございます。これに関連し、古代史研究の最新成果をご紹介させてください。というのも、天皇に対する多くの国民の誤解を解かないと日本の将来が危ういと思うからです。少し長いですが、お付き合いください。

日本の古代史については謎が多いので、何が真実か分からない状態なのですが、これはわたしたち日本人の思い込みが一番の要因だと気づきました。その思い込みについては以下に述べますが、結論を先に述べます。

天皇陛下の本来の仕事ですが、日本国憲法で規定された国事行為などは天皇以外の皇族が代理で行える性質のものです。

天皇陛下の本来の仕事はこれです。三世紀に始まる日本建国の動乱・古墳時代の考え方のもとになる米神(めのかみ、首長霊)信仰により、皇祖神(第十七代奴国王伊弉諾尊・十九代王天照大御神尊饒速日大王)の霊力を身に着けて、自然災害・疫病などの原因と考える建国時代に不慮の死を遂げた三柱の神(伊勢神宮内宮天照皇太神・宇佐神宮の真の八幡大神・出雲大社大国主命ククチヒコ、伊勢神宮外宮豊受大神・神功皇后トヨ、八幡比売大神イチキシマヒメ・ヒミコ)の鎮魂により、国家の安泰と民の安寧を祈る宮中祭祀です。これらは表向きは隠されていますが、考古学などの成果から分かりました。ですから、皇位継承の有資格者は皇祖神の男系男子のみなのです。平安時代の朝廷が皇祖神と宇佐神宮の神々に、皇族に与える特別の神階「品位(ほんい)」を贈っていることからも分かります。

そして、歴史上女性天皇はひとりも存在しないことも分かりました。京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺(せんにゅうじ)では歴代の天皇をお祀りしていますが、明治になるまで女性天皇を誰一人天皇として祀ってはいなかったことも根拠になります。ですから、伝統国家日本を維持するためには、戦後GHQにより皇族離脱させられた宮家の中から現在皇位継承可能な方を皇族に復帰させる以外に選択肢はないと考えます。お若い悠仁親王殿下おひとりだけに重荷を負わすわけにはいかないと思います。

さて、日本人は、現存する最古の正史は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと学校で習っています。しかし完成したのは崩御から34年後です。当時の権力者は藤原不比等でした。日本の建国の史実が都合が悪いので、神話を創作して史実を隠したことが考古学や民俗学などの成果から分かってきました。

日本書紀よりも先に完成したとされる古事記は、九世紀の朝廷で日本書紀を講義した学者多人長(おおのひとなが)が日本紀講に当たり突然表に出してきたものです。それまでの正史などに一切記録はありませんし、日本書紀にも参照した痕跡はありません。人長が創作したものなのです。日本書紀に添って書かれていますが、所々違えています。不比等に隠された本当の歴史に導くための暗号書だったことが、空白の四世紀と倭の五王の系譜を調べて分かりました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)から(その3)」参照)。

古事記は江戸時代まで祭祀に関わる氏族によって細々と伝えられてきたのですが、江戸中期の国学者本居宣長によって発掘され、高く評価されるようになりました。神道家平田篤胤がその影響を受け復古神道を作り、幕末の志士らに人気となりました。明治になって、それまで人々の間で伝えられてきた、神仏習合、山岳信仰の修験道、道教・陰陽道などの影響を受けた記紀神話と全く別物の神話が存在していましたが、神仏分離令が発せられて、多くの寺院などとともに破壊されてしまいました(詳細は「アマテラス大神はヘビだった?」「天皇即位の密教の儀式の正体?」参照)。

国家神道が創設され、学校教育でも記紀神話に基づく国史が教えられましたので、戦後も日本国民に記紀神話が定着しています。しかし、それは本来のものではない全く新しい神話なのです。というか、藤原氏が権力を維持するために捏造した神話と歴史だったということなのです。天皇の歴史書ではなかったと気づくと、古代史の謎がどんどん解けてきます。また、邪馬台国問題の基本文献である魏志倭人伝も同時代史なので、当然ですが政治文書なので、二、三百年も議論しても分からなかったのです。権力者の作った歴史書は政治文書だと分かると、その目的を推理することにより真相を解明できますよ。詳しい話は【刮目天の古代史】をご参照ください。長々とお邪魔しました(;^ω^)

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【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!(*^▽^*)
楯築神社のご神体の弧帯文石(亀石)が人面蛇体なのです。つまり、中国神話の天皇伏羲の末裔の天御中主龍蛇神の子孫ですから大発見でした。魏略逸文「自謂太伯之後(自ら謂う、太伯の後と)」は正しかったようです。太伯は初代呉王です。紀元前1900年夏王朝を興した禹王の末裔なのです。禹王も蛇体で、伏羲・女媧の末裔なのですから天皇陛下は人類の始祖神の末裔なのですよ(詳細は「中国神話は日本人の神話だった?」参照)。


【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?(;´Д`)


神話が隠した不自然な史実(;一_一)

伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)

神仏習合の発祥地と言われる宇佐のなぞ?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その20)



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