刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】宇佐八幡のなぞが真相へ導く!(^_-)-☆

2023-05-30 17:25:55 | 古代史
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【隠蔽】隠された神!?記紀には登場しない謎多き『八幡神』の正体とは?【ゆっくり解説】
レイの謎解き日本史ミステリー【ゆっくり解説】@YouTube


興味あるいい情報をありがとうございます。日本建国の真相が分かると八幡神の正体も分かりますよ。
宇佐神宮で三柱の神様が祀られてますが、地方神ではなく、朝廷が祟りを最も畏れた神様です。
詳しくは拙ブログ「【刮目天の古代史】宇佐八幡のなぞが真相解明へ導く!」をご参照ください!(#^.^#)


宇佐神宮の一之御殿が八幡大神、三之御殿が神功皇后となっていますが、神功皇后は9世紀初めに、最後に鎮座しています。宇佐神宮では八幡大神が、725年に神宮寺の弥勒寺の前身と同時に建立されてますから、八幡大神の本地仏が弥勒菩薩だと分かります。

その後、733年に二之御殿が作られています。この中央の一番立派な場所、二之御殿で祀られているのが比売大神で宗像女神です。比売大神はすでに、恐らく四世紀ごろから渡来人と言われる辛嶋氏によって宇佐の稲積山で祀られていて、古くは宇佐市安心院町妻垣神社奥宮の一柱謄宮(足一謄宮)で祀られていました(注1)。

日本書紀では神武天皇が東征し、最初に立ち寄った場所とあります。母の玉依姫を祀った場所だとしており、ウサツヒコとウサツヒメが天皇をもてなし、あろうことか藤原(中臣)氏の祖神天種子命が姫を娶り、藤原氏が由緒ある名門氏族としています。しかし、後で述べますが、ウサツヒコとウサツヒメは夫婦の神ですし、中臣氏の出自が分かっているので、この話は日本書紀のフェイクだったのです(詳細は「中臣氏の正体もか?」参照)。藤原氏にとって最重要なこの話を古事記は無視してますから、古事記の役割も分かります。

比売大神はムナカタ海人族が古くから奉斎する、航海安全と豊漁を祈願する海娘神です。今でも半島東部沿岸部の海神堂で祀られています。日本の道祖神で見られる陽物崇拝文化がグロテスクなまでに残されていますが(「韓国における伝承文化の観光資源化」参照)、縄文系海人族が半島で活動していた証拠の一つと考えています。山陰などで出土する鹿骨のアワビ起こしが半島南部・東部沿岸部でも出土していますので同じ文化圏になっていたのです(詳細は「【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?」参照)。



三女神というのは、日本書紀のカモフラージュで、海娘神は下図の中央の女神のことです。二人の侍女も一緒に描かれていますので、日本書紀の編纂者はこのような絵を見て三女神として誤魔化したと思われます。住𠮷三神や海神(わたつみ)三神などの三柱の神はよくあるものと誤魔化すために不比等らによって作られたものでしょう(^_-)-☆。


【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎 参照)

八幡神の原形は、現在の宗像大社の「みあれ祭」に見られるように、百隻以上の漁船にそれぞれ掲げた多数の色とりどりの大漁旗を依り代とする女神のことなのです。



ですから、宇佐神宮の八幡大神は比売大神を隠す目的ですり替えた神ウサツヒコだと推理できます。それは朝廷が最も畏れる、高天原の命令で国譲りさせられた大国主命がその正体です。そして神話の大国主命は、高天原を追放された乱暴者の神スサノヲの子孫ということですが、その正体は、北九州から山陰、越(こし)を拠点とするムナカタ海人族を束ねる王で、王年代紀第18代奴国王素戔嗚尊の子孫でした(「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)。豊岡市久久比神社の祭神久久能智神(くくのちのかみ)です。上棟式の祭神屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)としても祀られており、スサノヲの王子イタケルと同じ木霊ですのでイタケルの子孫です。魏志倭人伝に狗奴国の王よりも先に登場する狗故智卑狗(久々遅彦)のことだったのです。熊本県菊池市は久々遅彦に因む地名ですので、多くの研究者は狗奴国が熊本にあったとしていますが、狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコの誤写)は吉備を平定してヤマト建国の基礎を築いた第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫ですから、狗奴国は桜井市纏向遺跡だったのです。

上棟式の祭神のもうひと柱屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)はその妻ですからウサツヒメのことなのです。その名前から伊勢神宮外宮の豊受大神であり、伊勢神宮内宮の祭神天照皇太神の正体大国主久々遅彦が(詳細は「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)」参照)、卑弥呼の死後の内戦に勝利して13歳で女王に立てた台与(とよ)のことです。後に妃にされた、卑弥呼と同じムナカタ族の姫巫女なので卑弥呼の宗女なのです。



久々遅彦は台与を伴って、真っ先に、倭国大乱で戦死した先代狗古智卑狗を菊池で弔った後に、卑弥呼の三柱山古墳に墓参に訪れて、安心院盆地の南側の一柱謄宮で祀ったと推理しています。日本最初の新婚旅行でしょう。嫁が若すぎますが(;´Д`)

妻垣神社の社名は、日本で最初の歌として知られる「八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を」というスサノヲが妻イナダヒメを娶った喜びの御歌に因むものです。スサノヲはすでに奴国宮廷楽師の師升らの反乱で殺されていますから、オロチ退治の話は創作です。大国主久々遅彦が龍蛇神ニギハヤヒ大王の子孫の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)を討った史実を基にして創作されたものだと分かります。ですから、大国主をその祖先のスサノヲとし、台与がスサノヲの妻イナダヒメということですので、ウサツヒコとウサツヒメは大国主と台与のことなのです。記紀や神社の由緒に登場する夫婦の神、男女ペアの神のほとんどは、大国主久々遅彦と台与のことなのです。サルタヒコとアメノウズメもそうですし、男女ペアの神は道祖神でも見られますよ(^_-)-☆

日本書紀では応神天皇の母を神功皇后にし、父を仲哀天皇としています。しかし、仲哀天皇の父ヤマトタケルが薨去して38年後に仲哀天皇が生まれた計算になりますので、作り話と直ぐに分かります(注2)。

応神天皇の本当の父は、常に神功皇后の傍らで助けた三百歳の老人武内宿禰とされた久々遅彦だったのです。住吉大社に残された「モガリに皇后と住吉大神に夫婦の密事があった」というヤバい伝承から、皇后に常に寄り添っていた武内宿禰を示唆する伝承だと分かります。つまり海の神である住吉大神はスサノヲのことですが、オロチ退治の話しと同様に、首長霊を纏った大国主久々遅彦は霊的に奴国王スサノヲと一体なのです。だから、大国主久々遅彦が応神天皇の本当の父親だと暴露しているのですよ(^_-)-☆。

久々遅彦は王の襲名で、代々の狗奴国王に従った人物です。台与を娶った大国主久々遅彦は、60歳くらいの老人だったと考えられます。だから後の人は狗奴国ヤマトに殺された悲劇の女王台与を憐れんで、カゴメ歌や箸墓伝承、天女の羽衣などの話を創作したのだと考えています。江戸時代までの多くの人は、不比等が作った日本神話ではなく、山岳信仰や神仏習合や道教などの影響を受けた史実に基づく神話・伝承を伝えてきたのだと思います。明治政府の神仏分離令は、伝統文化を破壊した日本の文化大革命だったのです。日本人は不比等の呪いに気づかないと、世界一のすばらしい伝統国家が消滅し、取り返しがつかないことになります(詳細は「不比等はイエス様に匹敵する?」参照)。

記紀が天皇の歴史書でないと分かると、様々な謎が解けてきますよ(^_-)-☆



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(注1)これでお分かりのように渡来人ではありません。秦氏も同様に、卑弥呼と関わりのある倭人なのです(「武内宿禰はユダヤ人なのか?」参照)。上で述べたように、当時の半島南部には江南出身や縄文人と混血した倭人が活動していました。

(注2)日本書紀に仲哀天皇は成務天皇48年に数え31歳で皇太子になったとありますので成務天皇18年が生年となります。しかし、仲哀天皇の父の日本武尊(ヤマトタケル)は景行天皇40年に薨去しており、景行天皇60年に崩御され、1年後に成務天皇が即位していますので、仲哀天皇は日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になります。

仲哀天皇は卑弥呼が暗殺された後に狗奴国から追討軍を率いて倭国に到着し、倭国王に立った尾張王をモデルとした架空の天皇です。それを不服とした大国主久々遅彦に討たれたので、後に尾張王乎止与命の後継者建稲種命(タケイナダネノミコト、熱田神宮祭神)が仇討ちして日本が建国されます。日本書紀では仲哀天皇の祖父の景行天皇の話にして誤魔化しています。また、日本武尊の東国遠征の話も伝承では副将として参加したことになっていますが、建稲種命の事績ということです。古墳時代初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況の調査から判明しています(日本書紀で崇神天皇四道将軍から応神天皇即位まで約350年の記事が3世紀後半の史実だったと判明。詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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本当は怖い七福神の謎(;一_一)

2023-05-28 22:47:07 | 古代史
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前回2022-01-14 17:58:38(初版2019-08-12 16:59:55)にアップしましたが、この記事の内容、初めての方は理解が難しいかなと思いましたので、とりあえず(注6)を加えました。疑問点がございましたら遠慮なく指摘してください。よろしくお願いします。

七福神(しちふくじん)とは、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の神である。七柱は一般的には、恵比寿、大黒天、福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人、弁財天とされており、それぞれがヒンズー教、仏教、道教、神道など様々な背景を持っている。Wiki「七福神」より)

その起源は『一個人』(2017年7月号)に依れば「室町時代、京に住む庶民の現世での利益を求める心から福の神信仰がはじまったとされる。はじめは、三神や八神など、人数にばらつきがあった。」とある。



七福神それぞれの簡単な説明は以下のとおりだ。
恵比寿
イザナミ・イザナギの間に生まれた子供「蛭子」(ヒルコ)もしくは大国主の息子である「事代主」(コトシロヌシ)などを祀ったもので古くは「大漁追福」の漁業の神である。時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす神となった。唯一日本由来の神である。
大黒天
インドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神。日本古来の大国主命の習合。大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。
毘沙門天
元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神。福徳増進の神であったが、仏教に取り入れられてから、戦いの神としてしだいに民衆に信仰される。日本では毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)と呼ばれる。
弁才天(弁財天)
七福神の中の紅一点で元はインドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。仏教に取り入れられ、音楽・弁才・財福・知恵の徳のある天女となり選ばれた。七福神の一柱としては「弁財天」と表記されることが多い。
福禄寿
道教の宋の道士天南星、または、道教の神で南極星の化身の南極老人。寿老人と同一神とされることもある。長寿と福禄をもたらす。
寿老人
道教の神で南極星の化身の南極老人。日本の七福神の一人としては白鬚明神とされることもある。
布袋
唐の末期の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したといわれる仏教の禅僧。その太っておおらかな風貌が好まれ、手にした袋から財を出し与えてくれる。弥勒菩薩の化身ともいわれている。

しかし、なぜヒンズー教、仏教、道教、神道のこれらの神が福をもたらすと信じられたのだろうか?

今回はこの謎に挑戦してみよう(*^▽^*)

記紀神話に登場するヒルコか事代主か?という日本由来のエビス様が七福神のだいたい筆頭で現れているのは何かのヒントのような気がする(^_-)-☆

次の大黒天は、最澄が比叡山で台所の神様として祀ったのが次第に人々に拡がったとも言われている。その名前から出雲神話の大国主命が神仏習合したものだとすぐわかる。

二柱とも日本の神が外国の神に習合したものなのか?

しかし、次の毘沙門天は、仏教の守護神の帝釈天に仕える、日本では甲冑を着けて武器を持ち、邪鬼を踏みつける姿の四天王(東方持国天、南方増長天、西方広目天、北方多聞天)のひとり多聞天のことだ。刮目天は広目天の双子の兄弟としているが、一般には全く知られていない。毘沙門天は日本の神と習合していないという話のようだが、何故なのか理由が分からない。それも七福神の秘密なのだろうから、あとでまた考えるね。

その次の弁財天だが、これは宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)の主神市杵島姫が習合したと言われている。「日本書紀」が建国の真相を誤魔化すために三女神としたが、本当は宇佐神宮の中で八幡大神応神天皇の一之御殿や神功皇后の三之御殿よりも立派な二之御殿に祀られている比売大神(ひめのおおかみ)、すなわち宗像神市杵島姫命が邪馬台国の女王「卑弥呼」だったと刮目天が突き止めたのだ(注1)。

弁財天は実在人物卑弥呼の神格八幡比売大神・宗像女神が習合したものだったのだ。(^_-)-☆

そして、共に南極星の化身の福禄寿と寿老人は航海の目印となる同一神だが、日本の白髭神社の祭神白髭明神サルタヒコもニニギノミコトの天孫降臨を導いた神でもあるのだ。Wikiに白髭神社ではまれに神武天皇の東征を導いた塩土老翁神(シオツチノオジ)を祭神とされているとあるから、これらの神はすべて同一の教導の神だと記紀の秘密を自ら暴露しているのだ(*^▽^*)

老人というと記紀に登場する人物では第8代孝元天皇三世孫で蘇我氏を始めとする有力氏族の祖の武内宿禰が直ぐ思い浮かぶ。第12代景行天皇から16代仁徳天皇の五代の天皇に仕えた三百歳を超す長寿の人物ということになる。いや、三百歳の長寿と云えば、龍宮城から浜に戻って玉手箱を開けると、白い煙と共にたちまち老人になってしまった浦島太郎(浦嶋子)の話とも合致するのだ(注2)。

さらに、住吉大社の伝承では仲哀天皇のモガリに神功皇后が住吉大神と夫婦の密事をしたとあり、応神天皇の本当の父が仲哀天皇ではないかも知れないと、記紀の記述に反する真相を示唆するものだと関祐二さんが指摘した。神功皇后に常に寄り添っていたのは白髪の老人武内宿禰だ。彼が住吉大神のことで、本当の父親だったという衝撃的な事実を暴露する話なのだ。もともと記紀では仲哀天皇は父のヤマトタケルの薨去後38年たって生まれた勘定になっているから、その存在自体怪しい。まして、その祖父の景行天皇が仲哀天皇崩御後に九州遠征した記紀の内容に合致する第三次倭国大乱の痕跡を見出せることを刮目天が発見したから、例によって「日本書紀」が建国の真相を誤魔化すために年代を誤魔化した作り話だと分かる。(【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*)【検証18】倭国大乱の痕跡だ!【検証19】日本建国のための戦いだ! 参照)(2023.5.30 赤字訂正)



関祐二さんはまた、神功皇后が卑弥呼の跡を継いだ台与だと指摘した。刮目天は、九州の宗像を根拠地とし、東部九州、四国、中国西部を支配下にしていた卑弥呼の宗像海人族の一派で、米子を根拠地として出雲から北陸や新潟や内陸部の会津あたりまで支配下に置いて、越人文化を取り込んだ縄文海人族だと突き止めている(【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`))。

そうすると狗奴国の官として「魏志倭人伝」に紹介された狗古智卑狗(注2)が、記紀の中で武内宿禰やサルタヒコとして登場した人物の正体であり、応神天皇の本当の父親だったということなのだ。卑弥呼の後に倭王に立った男王に皆が承服せず、千人以上が殺される内乱となって、結局男王が死んで台与が女王に即位したと魏志倭人伝が伝えている。台与と狗古智卑狗に殺されたその男王こそ、神の祟りで突然崩御された仲哀天皇のことなのだと関祐二さんが推理した(関さんは武内宿禰が狗古智卑狗とまでは言ってなかった)。その時女王を継いだ台与は13才だからまだ子供を産むには早すぎる年齢だから、卑弥呼が死んだ247年から3年から4年後に応神天皇(ホムダワケ)が生まれたのだろう。

狗古智卑狗(久々遅彦)は狗奴国ヤマトの大王卑弥弓呼(もう一人のハツクニシラススメラミコト崇神天皇のモデル)を裏切って、倭国王となった実在の人物なのだ。邪馬台国の卑弥呼の宗女として台与を女王にし、魏に朝貢させた(注3)。狗古智卑狗こそ、北部九州・四国・中国西部に加えて、新たに新潟までの日本海沿岸部など列島の大半を支配する倭国の大王となったので、記紀神話や出雲風土記では葦原中国の国津神大国主命として登場させているのだ。

<国譲り神話>
高天原は大国主命に国譲りを迫ろうと、最初に使者として送ったアメノホヒは大国主の家来となり、三年たっても高天原に戻らなかった。次に送ったアメノワカヒコは大国主の娘の下照比賣と結婚し、八年経ってもいっこうに任務を果たさないので、天から矢を撃って殺してしまった。その次に経津主神(フツヌシ)と武甕雷男神(タケミカズチ)を派遣した。大国主命の力自慢の子タケミナカタが立ち向かったが、タケミカズチに敗れ、信州諏訪まで逃亡し、そこから出ない約束で許された。大国主は息子の事代主に相談してくれと二人に伝えた。美保ヶ崎で漁をしていた事代主は話を聞いて、船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。つまり、呪いながら海に沈んで行った。そこで大国主命は、一番立派な神社を作って祀ってくれるのであれば国譲りを了承しようということで、日本一豪壮な出雲大社が作られたというストーリーだ。

この出雲の国譲り神話こそ、狗奴国ヤマトが台与と狗古智卑狗の倭国に再度討伐軍を派遣して倭国を滅ぼした第三次倭国大乱と、その後の史実に対応するのだ。記紀では真相を隠すためにデタラメな話で粉飾している。ヒルコは高天原を追放されたスサノヲともとれるが、大国主の子の事代主も大国主自身のこととも考えられる。ここではエビス様もまた狗古智卑狗と考えておく。各地の神社伝承も記紀に合致するものはヤマト政権によって作られたものなのだ。しかし、本当は何であったのかは祭神名を隠したつもりでも、隠しきれるものではない。下の図は台与と狗古智卑狗の倭国を滅ぼした後に、日本建国で非業の死を遂げた卑弥呼と台与と狗古智卑狗が怖ろしい怨霊になって天変地異を起こすと考え、祟られないように丁重にゆかりの地の神社で祀っていることを示している(注4)。



真相は、その地で再び宗像海人族が台頭するのを怖れ、九州宗像の周辺には物部氏を配置したということなのだ。また出雲の西にも物部氏を配置して、出雲国造家にアメノホヒの末裔を充て、大国主の霊を鎮めたのだろう。

山岳信仰が、日本古来の古神道や、伝来してきた仏教(特に天台宗や真言宗などの密教)への信仰と結びついて、「修験道」とされる独自の宗教が生み出されたと言われる。そこでは台与を富山・新潟で白山比売や菊理媛と名前を変えて祀っているようだ。(注5)弥彦神社に尾張氏の祖天香山命を配置したのも宗像海人族の勃興を抑えるためなのだろう。

つまりヤマト政権が最も恐れたのは、奴国の大王素戔男尊(スサノヲ)の直系の大国主命(狗古智卑狗)と宗像海人族の奉祭する神々(イザナミと同じ母系である卑弥呼と台与)なのだ。(2022.1.16 青字訂正)

この三柱の怖ろしい神の祟りを畏れて、この神々の鎮魂のために福を呼ぶ立派な神々だと持ち上げているのだ。


ここまで分かってしまうと七福神の謎は解けたことになる。弥勒菩薩の化身が布袋なのだが、実は宇佐神宮の神宮寺の名前が弥勒寺であることからそこで大国主命狗古智卑狗をご本尊弥勒菩薩として祀っていたと分かるのだ。記紀神話のアマテラス女神の子天之忍穂耳命の本地仏弥勒菩薩としているが、アマテラス女神は第19第奴国王天照大神尊ニギハヤヒからすり替わった持統天皇のことだから、天之忍穂耳命から日向三代は作り話と考えている。

そして、最後の謎の毘沙門天も、物部・尾張勢に取り囲まれて高良山で壮絶な戦死を遂げた狗古智卑狗を持ち上げるために戦(いくさ)の神様としたのだとわかる。だから毘沙門天も大国主命の本地仏であると推理できる。

そうなると武士が台頭する時代に武家が八幡大菩薩を守り本尊としたのも、応神天皇自身は武力による功績はほとんどなく(注6)、三韓征伐や仲哀天皇の皇子との戦も神功皇后のものだから、後ろに居る父の大国主命が護国霊験威力神通大菩薩=八幡大菩薩の正体なのだと分かる。宇佐神宮でも本来は応神天皇の父で真の八幡大神狗古智卑狗を祀るべきなのだが、建国の真相をあからさまにすることになるので、朝廷に憚り一之御殿に応神天皇を八幡大神として祀ったものと考えられるのだ。(2023.5.29 赤字追加)

つまり、七福神の六柱までが大国主命狗古智卑狗で、紅一点弁財天が卑弥呼なのだ。

そうなると台与はどこに行った?

実は福禄寿と寿老人は同一神なので、寿老人の代わりに吉祥天が入っているケースがあった。Wikiによれば、「仏教においては、父は徳叉迦(とくさか)、母は鬼子母神であり、夫を毘沙門天とする」とあり、毘沙門天の妻ならば台与のことだ。吉祥天は羽衣を纏った天女であり、羽衣伝説が各地にある。伝承はそれぞれ多少違うのだが、共通する部分は、水浴びしている天女の羽衣を男または老人が奪ったので、返してもらうために福を授けるというものだ。男とは結婚して子を授かっている。つまり老人の狗古智卑狗と結婚して応神天皇を産んだ台与を暗示する話なのだ。いつの間にか、七福神から外されているが、吉祥天を加えた八福神として信仰している地域もあるとのことだ。

(注1)宗像大社の三女神の主神がイチキシマヒメであり、宇佐神宮の比売大神である邪馬台国の卑弥呼(ひめこ)のことだ。
弁天様が卑弥呼だよ(^_-)-☆
「卑弥呼」神社は五万とあるよ(^_-)-☆


(注2)スサノヲが師升らのクーデターによって殺害され、その子(初代狗古智卑狗で木の神久々遅命であり五十猛命と同一人物か)がスサノヲの母イザナミの宗形海人族(米子を根拠地とする)に育てられて、成人して半島南部の鉄素材を入手し、出雲から日本海沿岸部を支配する王に推戴されたと考えている。その直系の男子が代々久々遅彦(狗古智卑狗)として出雲・丹波王の王位を継いだと考えている)。丹後半島に鍛冶製鉄の拠点を作り、父の弟で奴国の大王位を受け継いだ天照大神尊ニギハヤヒに鉄製武器を供給し、ニギハヤヒの吉備平定を助けたと考えている。また、大国主と少彦名の神話から丹後半島の西側の円山川から朝来を経由して、あるいは由良川から福知山を経由して加古川を下って播磨・淡路島さらに摂津・河内・大和へも青銅製農工具などを供給し、ヤマトの開発・発展に寄与したのではないかと考えている。勿論、敦賀から琵琶湖に入り、淀川を下って摂津や河内から大和入りするルートもある。

(注3)「魏志倭人伝」に登場する狗奴国王卑弥弓呼を、吉備を平定しヤマト王権の基礎を築いた奴国の大王天照大神尊ニギハヤヒの直系の大王で、旧奴国王族を纏向に集めたハツクニシラススメラミコト崇神天皇のモデルと推理した。ここから、狗奴国の官狗古智卑狗が出雲・丹波の王で武内宿祢のモデルであると考えた。同様に纏向遺跡で出土した外来土器を参考にすると、仲哀天皇は、纏向の狗奴国に集まった旧奴国王族の有力者でニギハヤヒを祖とする尾張王と推理できる。神功皇后のモデルは卑弥呼の宗女台与であり、越・近江を含む日本海沿岸部を支配していた宗像海人族であると推理した。台与が西晋または魏に贈った青い大勾玉は、日本では珍しい糸魚川産の青ヒスイと考えられ、越を支配していたからこそ贈ることができたものと関祐二さんも推理した。阿蘇山で採れるガラス製という説もあるようだが、阿蘇も支配下に置いていたと思われる先代の卑弥呼が魏に贈っていないので青い大勾玉は天然ヒスイと思われる。また神功皇后は気長足姫(おきながたらしひめ)で、父は開化天皇玄孫・息長宿禰王とあるので、後の近江の豪族息長氏の祖と考えられることから近江も支配下に置いていたとした。


糸魚川天然青翡翠(ヒスイ)勾玉


また、倭国に来ていた二人目の魏使張政の進言で台与を女王に立てた模様で、帯方郡址の墳墓から太守張撫夷という塼が発見されているので、東夷の倭国を手なずけた功績で太守に出世したのだと考えている。

(注4)狗古智卑狗と似た読みである久々遅彦(久々遅命)は兵庫県豊岡市の久々比神社に祭神として祀られていることから、豊岡を根拠地として出雲・丹波を支配していたものと考えられる。その相殿には大国主命とその妻とした宗像三女神の多紀理比売命(タギリヒメ)を祀っている。つまり、多紀理比売命は台与のことだろう。また田木津姫(タギツヒメ)も物部氏の『先代旧事本紀』では後に大己貴神(大国主命)に嫁ぎ、八重事代主神と高照光姫命を生んだとタギリヒメと同じ話が記されているから、三女神のイチキシマヒメが主神であり、それを誤魔化すために残りの二人の伝承が作られたのだ。それを知ってか、安心院町の三女神社の鳥居のひとつには「二女神社」と書かれた扁額を掲げていることからも分かる。つまり比売大神は卑弥呼だけであったのを台与のコピーを二人にして卑弥呼と一緒に三女神として祀ってそのことをカモフラージュしたということなのだ。

勿論、帥升(正しくは師升)のクーデターで残酷な拷問を受けて多分殺されたスサノヲ(第18代奴国大王)も祟るはずなので、熊野本宮大社を始めとして各地で祀られている。多分、金印のありかを白状させ、師升が奴国王として振る舞うためだろう。金印が手に入れば生口を160人も連れて行く必要が無かったのではないか(^_-)-☆

(注5)與止日女神社は佐賀市周辺の淀姫神社でも祀られている淀姫が祭神だが、記紀神話では神功皇后の妹の豊姫とされている。だがヨドは台与(トヨ)の文字を入れ替えただけの隠語なのだ。また、菊理媛(ククリヒメ)は久々遅彦と「クク(空侯、虚空)」が共通するから台与を連想させる。ヤマト政権に憚って台与を祀ることを隠す目的だったのだと分かる。台与は記紀に登場する神功皇后のモデルで、鉞(まさかり)を武器にして戦った女傑として描かれている。恐らく吉野ヶ里遺跡に立て籠もっていたが、第三次倭国大乱ではオオタラシヒコ(景行天皇)の軍勢に包囲され、背振山系から伊都国に落ち延びて半島へ逃亡しようとしたのではないかな(^_-)-☆だが、伊都国でまたヤマトの軍勢に包囲されて、その地で壮絶な戦死を遂げた模様だ。平原王墓が台与のものだと見ている。そのイメージから、台与の鎮魂のために甲冑姿の女傑として持ち上げたのだろう。神功皇后の三韓征伐は4・5世紀の倭の五王の時代の事績なのだ。

(注6)八幡大神は軍神とされていますが、三世紀後半の日本建国の戦乱で八幡大神大国主が主役として活躍したからなのです。しかし、不比等はあくまでも建国の史実を隠したかったために国譲り神話を創作し、8世紀半ばに藤原氏が八幡大神を八幡大菩薩応神天皇にすり替えたのです。そのために、隼人の反乱で勝利したためという故事も創作したと見ています。wiki「隼人」によれば「隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半 - 8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ない[39]。」とあり、土蜘蛛や熊襲と同様に創作した、大国主配下の縄文系ムナカタ族の人々と推理しています。阿多隼人という種族はムナカタ族の祖神アタカタスノミコトを連想させます。愛宕権現はその子孫である卑弥呼の弟赤坂比古の鳥栖市にある巨大円墳愛宕神社古墳の墳頂にある石祠から推理しています。

藤原氏は大国主命の正体を隠すために、数えきれないくらいたくさんの別名、分身を作って分からなくしています。しかし、宇佐神宮の神宮寺が弥勒寺ですので、本当の八幡大神大国主久々遅彦(狗古智卑狗)の本地仏が弥勒菩薩だと分かりました。これによって七福神の謎も分かりました。

日本の神仏習合が本格的に始まったのは不比等が原八幡神卑弥呼の痕跡を跡形もなく消そうとしたので、卑弥呼にゆかりのある法蓮上人が進言して大国主を八幡大神とし、卑弥呼を八幡比売神として祀らせたことから始まったと推理しています。

【関連記事】
大野寺 しだれ桜 『弥勒菩薩と布袋・大黒天の共通点』


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2023-05-21 00:35:36 | 古代史
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学校では教えない「邪馬台国第二弾」魏志倭人伝から見た倭国
ジャパン・ファースト@YouTube


刮目天
魏志倭人伝の内容を詳しく解説頂き感謝します。邪馬台国の場所が問題になって二、三百年が経過しても決着していないので、今までの多くの研究者は根本的なところで思い違いしているのではないかという感想を持ち、調べました。

Up主様も卑弥呼が倭国の女王ということに疑問を持たれたとありましたが、全く同感です。それは卑弥呼の死後にも男王が立ち、それに不服な勢力と千人以上死ぬような内戦の後に卑弥呼の宗女の台与13歳を女王に立ててようやく国が治まったとあります。ですから、内戦が勃発し勝者が、13歳の子供を卑弥呼の後継の女王として魏を後ろ盾にしたと分かります。ということは女王とされても倭を実際に統治できる王であるはずありません。卑弥呼の場合も倭国大乱で何らかの事件があって、巫女を外交上倭国の女王にせねばならない理由があったと推理できますね。それは倭国の事情ではなく、魏の事情だったのかも知れないというのが最初のアイデアでした。岡田英弘「日本史の誕生」がヒントになりました。

Up主様は倭国大乱の原因が伊都国の内紛とおっしゃっていましたが、その根拠となる考古学などの成果は何でしょうか?

当方は、倭国大乱の痕跡を弥生後期後半(二世紀末から三世紀初頭)の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて発見しました。これによって大乱の原因も卑弥呼の正体もすべて判明しました。続きがありますが、長くなったのでここまでで打ち切ります。よろしければ拙ブログ「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」をご参照いただき、ご意見も頂戴できれば幸いです(#^.^#)



ジャパン・ファーストさん
コメントありがとうございます。
リンク先の解釈を読ませていただきました。
私見としては、神話には裏付けできるだけの物証がありませんので、史実と神話とを切り離して考察せざるを得ないのかと思ってます。
ですが、非常に興味深い考察をされていると感心しており、狗奴国の立ち位置にも信憑性があるように思いました。


刮目天
@ジャパン・ファースト さん 早速ご参照いただき、うれしいご意見まで頂戴して、どうも有難うございます。

神話ですが、おっしゃるとおり、考古学の事実と異なり、現実離れした話になっているのは長い間の伝承だからという、至って好意的な理解が読者になされるものですね。特に、日本神話は日本民族のアイデンティティとまで考えられています(注1)。

しかし、日本書紀では編纂を仕切っていた藤原不比等が神話を創作したと分かりましたので、不比等の目的もほぼ全容が見えてきました。長くなりますので、ブログで記事にしましたので、よろしければご参照いただき、またご意見を頂戴できれば幸いです。よろしくお願いいたします。


父の中臣鎌足が藤原氏を天智天皇より賜ったという話になっています。つまり中臣氏の遠い祖先天児屋根命が藤原氏のルーツということで、高天原神話で女神アマテラスの岩戸隠れで重要な仕事をし、神武東征でも玉依姫の墓参で宇佐市一柱謄宮(いっちゅうとうぐう)に立ち寄りウサツヒコの歓待を受けて、天児屋命の孫の天種子命が神武天皇の許可でウサツヒメを娶る話も挿入し、由緒ある名門氏族という出自にしています。

しかし、高天原神話も神武東征神話も不比等の創作だと推理できるいくつかの証拠を発見しましたので、中臣氏・藤原氏の出自を誤魔化すことが神話の目的のひとつだと分かりました。

中臣氏は古い氏族ではなく、南北朝時代から室町時代初期に完成した日本の初期の系図集「尊卑分脈」によると、もとは、卜占 (ぼくせん) ・祭祀を職とした卜部(うらべ)で、6世紀前半に、鎌足の父御食子(みけこ)の祖父常盤連(ときわのむらじ)が中臣連の姓を賜ったとありますので、こちらが信頼できます。鹿島神宮で元々香島神という水神を祀っていたとありますから(松尾光「書き換えられた中臣氏の系譜と本性」歴史研究669巻2022年6月号p.93)、中臣氏は水神(ナーガ・龍蛇神、初代奴国王天御中主)の家臣という意味で間違いないようです。不比等が国譲り神話で大国主から力ずくで奪った神タケミカズチとフツヌシを鹿島神宮・香取神宮で祀っていますが、前者は尾張王建稲種命(熱田神宮の祭神、景行天皇とされ、日本武尊のモデルになった実在人物)です。後者は天理市にある物部氏の石上神宮(いそのかみじんぐう)の祭神布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)で、タケミカズチが持っていた剣とされています。中臣氏は吉備のニギハヤヒ大王の下で卜占を行っていた氏族だと考えられます。

そして、鎌足の出自は百済王子余豊璋(よ ほうしょう)という説も信ぴょう性があります。ですから、こういう史実を隠すために神話にしたということだったと分かったのです(詳細は「藤原鎌足は日本人じゃない?ブッブー!」「【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?」参照)。

そして日本書紀の秘密のメインテーマが、日本建国で活躍した豪族の史実を、上述のとおり大国主命の国譲り神話を創って誤魔化し、隠したことだったのです。内容は相当歪曲されていますが、考古学の成果から推理した史実から創作されていたことが分かりました。

大国主命の正体は、高天原を追放された暴れん坊の神スサノヲの子孫ということですが、スサノヲは奴国宮廷楽師師升らの反乱で殺された18代奴国王だということも宋史王年代紀によって判明しましたから、高天原神話は史実を誤魔化すために作られたのです(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)。

ご存じの通り、天孫降臨神話も持統天皇が孫の文武天皇を異例の15歳という若さで即位させたことの正統性のために創作したものですし、不比等が娘宮子を天皇の妃にして、朝廷の実権を握ったということはよく知られています。しかし、そこにはほとんど知られていない秘密があったことを突き止めました。卑弥呼は和邇氏の祖(先代)赤坂比古の娘ですが、ムナカタ族でした。応神天皇の本当の父はムナカタ族を束ねていた大国主久々遅彦です。母は、女王台与だということも隠されていますが、考古学や民俗学の成果から判明しました。

そして、応神天皇の皇太子ウジノワキノイラツコが、応神天皇崩御後に兄であるオオサザキ(仁徳天皇)に皇位を譲るために自殺したという、あり得ない美談を創作していますが、実はイラツコが宇治天皇として即位していたと突き止めました。皆さん聞きたくないかもしれませんが、聖帝とされた仁徳天皇が宇治天皇を暗殺して即位したと推理しています。だから、宇治天皇の墓がヤマトの大王の象徴である前方後円墳にはなっていないのです。和邇氏がその所領地の中で、和邇氏特有の巨大円墳を造って丁重に遺骸を葬ったのです(卑弥呼の三柱山古墳が日本最大です)。本体に副葬品を入れると盗掘されると考えたのか、造り出しの中に納めたので、21世紀の現代に発掘できたのでしょう。国内最大の蛇行剣は大国主(ナガスネヒコ、トビヒコ)の霊剣です。そして珍しい楯形銅鏡が鼉⿓⽂(だりゅうもん)、つまり鼉(ワニ)と龍の文様ですから和邇氏(ムナカタ海人族)と奴国王(ナーガ=龍蛇神)を表しているのです。最後の奴国王スサノヲの子孫大国主の孫でムナカタ腹の宇治天皇で間違いないと思います。



和邇氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘が生んだ人物です。不比等がわざわざ近江に出かけて和邇氏の神社を日群社(ひむれのやしろ)と変えさせた日牟禮八幡宮の元の祭神が日触使主です。応神天皇の由緒は後に、藤原氏が作らせたものです。裏山は、地元では日触山と呼ばれています。この人物はその名前から見て日蝕を示唆していますので、日食が原因で殺された卑弥呼の弟赤坂比古だと推理しています。和邇氏は天理市和邇坐赤阪比古神社で宗像女神市杵嶋姫命を祀っています。卑弥呼のことなのです(詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」参照)。

ですから、和邇氏は宗像氏・宗形氏と同じムナカタ族なのです。そして天武天皇崩御直後に皇太子だったと思われる大津皇子が冤罪で刑死とも自殺ともいわれていますが、不比等によって謀殺されたと見ています。長男の高市皇子は母が宗形徳善の娘で出自が低いために即位できず、太政大臣だったとしています。しかしその子長屋王の広大な邸宅跡から出土した木簡から親王宣下を受けていた、つまり天皇の皇子だったことが分かりましたので、日本書紀がウソをついていたことがバレてしまいました(しかし、通説では特別待遇だったとしていますが、正史は天皇の歴史書だからウソだったと気づかなかったのです)。高市皇子は即位していたはずです(宗形天皇とします)。それは、ムナカタ腹の二人の天皇を隠したことから分かるのです。そして高市皇子は42歳で薨去し、翌年文武天皇が即位していますので、不比等らに暗殺されたと考えています。つまり、史実は、持統天皇は即位していなかったいう衝撃的な話なのです。

高市皇子が宗形天皇として即位していたことを隠すために卑弥呼の一族であるムナカタ腹の二人の天皇、宇治天皇と、その甥と推理した仁徳天皇の皇子住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ、住吉天皇)を表から隠したのだと分かりました(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)から(その3)」参照)。



そうなると、天武天皇の皇后が持統天皇に即位した正統性を言うために前例として推古天皇と皇極・斉明天皇も創作したことが容易に分かります。持統天皇の後の五人の女帝も実は、即位しておらず、称制(天皇の執務代行)だったと分かりました。天皇自身が執り行う宮中祭祀は女性天皇にはできないと思います。未婚の皇女は、南北朝まで伊勢神宮と加茂神社で斎王(姫巫女)となって大国主を祀っていました(「伊勢神宮はいつ誰が創建した?(その1)(その2)」参照)。そのことは、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺で天智天皇から飛んで、孫の光仁天皇より歴代の天皇を祀っていますが、明治になるまで女性天皇は誰一人祀られていないということから確認しました。また、仏事に掲げる肖像画も江戸時代の二人の女帝のものは明治になって作られたと分かっています。

日本書紀は不比等や父鎌足らの悪行と藤原氏の出自を誤魔化すために作られたものです。そのために日本神話が創作されたということなのです。権力で朝廷の人々を黙らせて、藤原氏が末永く権力を欲しいままにするための仕掛けが日本書紀の完成だったのです。その前段階で、大宝律令を制定し、太政官と神祇官を並立させて、神祇祭祀を中臣氏が独占しました。その後も不比等の子孫らが地方の神社の社名・祭神名・由緒なども日本書紀に添って、書き換えさせたのです。特に、宇佐神宮は入念に史実を隠ぺいする由緒書にして、八幡大神の正体である大国主を隠し、応神天皇にすり替えています。原八幡神であった卑弥呼を比売大神として祀り、さらに応神天皇の母神功皇后とされた女王台与も三之御殿で祀っています(注2)。

脱線気味ですが、話しを元に戻して、結局、多くの日本人は壬申の乱を勝利した天武天皇が編纂を命じたので正史「日本書紀」が天皇の歴史書だと思い込まされていたのです。これに気づくと様々な謎が解けてきますよ(^_-)-☆

(注1)しかし、江戸時代までは、古事記はほとんど読まれてはいませんでしたが本居宣長が発掘し、高い評価を与え、平田篤胤がその影響を受けて、復古神道を提唱したものが、明治時代に国家神道とされ、今の記紀神話が戦前の国史教育で定着したものなのです。それまでの神話は、神仏習合や道教の影響もあって今と全くと言っていいほど、違ったものになっていたのです(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」講談社現代新書)。


(注2)八幡大神の本地仏を弥勒菩薩として宇佐神宮の神宮寺弥勒寺で祀っています。また八幡大神は軍神とされていますが、三世紀後半の日本建国の戦乱で八幡大神大国主が主役として活躍したからなのです。しかし、不比等はあくまでも建国の史実を隠したかったために国譲り神話を創作し、8世紀半ばに藤原氏が八幡大神を八幡大菩薩応神天皇にすり替えたのです。そのために、隼人の反乱で勝利したためという故事も創作したと見ています。wiki[隼人」によれば「隼人が文献上多く登場してくる7世紀後半 - 8世紀代の墓の遺構については、現地九州南部ではほとんど検出されておらず、確実に「隼人の墓」と位置づけられる墓制は、現状では不明といわざるを得ない[39]。」とあり、土蜘蛛や熊襲と同様に創作した、大国主配下の縄文系ムナカタ族の人々と推理しています。阿多隼人という種族はムナカタ族の祖神アタカタスノミコトを連想させます。愛宕権現はその子孫である卑弥呼の弟赤坂比古の鳥栖市にある巨大円墳愛宕神社古墳の墳頂にある石祠から推理しています。




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邪馬台国は比恵・那珂遺跡なのか?( ^)o(^ )

2023-05-19 22:49:52 | 古代史
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【遂に解明⁉】邪馬台国と卑弥呼の宮殿の場所とは?【ゆっくり解説】
レイの謎解き日本史@YouTube


興味ある情報をたくさん提供していただき有難うございます。紹介していただいた考古学の成果は邪馬台国を特定するための基礎情報ですが、弥生前期から後期までの遺物がほとんどのようですから、そこから直接邪馬台国を特定することはできないものばかりだと思います。つまり、どれも人間が容易に持ち運べるものばかりのようです!やはり、邪馬台国には持ち運べない卑弥呼の巨大な 墓が存在しているはずでしょう!

比恵・那珂遺跡には卑弥呼の墓と比定されるものはありません!そこは奴国の中心都市で、当時の列島最大の交易センターだったことがわかり、弥生中期から後期初頭までの王宮のあった須玖岡本遺跡に後漢光武帝から金印を賜った王が居たと分かります。

その50年後に伊都国王帥升が倭国王として朝貢しています。ですから何らかの政変があったことを意味します。

そして、その後7、80年すると倭国大乱が何年も続き、弥生終末期に卑弥呼が登場します!

そこまでの倭国の状況を把握すると邪馬台国の場所も卑弥呼の正体も分かります。

そして、卑弥呼の墓が発見されて邪馬台国問題は解決ですよ。

考古学、民俗学などの成果から有力な仮説を導きましたので、よろしければ拙ブログをご参考にしてください^_^




卑弥呼の正体は、魏志倭人伝の以下の文章にあるだけですから、上で述べたように倭国大乱の原因を考古学の成果によって推理すると分かります。

其國本亦以男子為王 
住七八十年 倭國亂相攻伐歴年
乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆 
年已長大 無夫壻 有男弟佐治國


その国というのは倭国全体のことです。七、八十年前までは男王が倭国を治めていたのですが、倭国が乱れて、何年も互いに攻め合っていたとあります。ですからこの男王は伊都国を王都としていた帥升(正しくは師升)の一族だということが分かります。そしてどういう勢力が戦争をしていたのか?ということも上で述べたとおりです(詳細は「倭王帥升は何者だ?」参照)。

つまり、後漢から金印を貰った奴国が107年に朝貢した帥升らに滅ぼされたわけですから、奴国の遺族と倭国が戦ったと推理できます。西暦180年から190年ころには後漢の朝廷内の宦官と豪族の権力闘争が激しく繰り返し政変が起こっていました。天候不順で農作物が不作なこの時期に地方の役人たちの農民への苛政によって、184年には太平道の教祖張角が信者を指導して大規模な農民反乱「黄巾の乱」が起こっています。半島でも韓人や濊人が強盛になって楽浪郡の統制が効かず、乱れた模様が三国志韓伝にあります。したがって、この時期の倭国は、楽浪郡との交流が思うようにできずに、伊都国に交易に来る華僑らも、危険を冒してまで来る者は激減したと思われます。そのため列島内の倭人らも奴国の交易センター比恵・那珂遺跡に来なくなり、倭国も衰退気味だったと考えられます。

一方、半島南部の鉄素材は奴国が滅んだ後も旧奴国の勢力が独占して、列島内の倭人たちに供給する鉄のネットワークが作られていた模様です。この時期にも列島各地で鉄製品が出土していることから分かります。



各地の首長(部族長)らは鉄の供給元を支配している人物を王と仰ぎ、部族長の姫たちを王に嫁がせて、族長間の序列ができ、部族内での族長の権力が強まったと容易に想像できます。それを表すものが、二世紀後半から三世紀初頭の出雲から山陰・北陸などで盛行した大型の首長墓である四隅突出型墳丘墓です。古墳時代はここから始まったとみてもよいくらいですが、弥生時代後期後半の多くは地形を利用した墳丘墓ですので、古墳と区別しています。


特に、丹後半島には傑出した副葬品が見られる赤坂今井墳丘墓などがあります。形式も四隅突出型ではない大型方形墓ですので、各地の首長たちの頂点に立った人物の墓だと分かります。




奴国の隆盛を支えた交易品のひとつは玉類でした。丹後半島の玉作りの集落の奈具岡遺跡は代表的なものです。その地名は「ナーガ(奴)の丘」という意味ですから、弥生中期ごろから奴国王が直接支配していた集落だったことが分かります。ここに糸魚川のヒスイなどを持ち込み、半島南部の鉄素材から鉄針などの工具をここの鍛冶炉で自作して、勾玉や管玉などの加工を行っていた模様です。日本海沿岸部を根拠地としていたムナカタ海人族の首長たちをその傘下にしていたのは旧奴国の王族です。




帥升という人物ですが、帥姓は当時は師姓でしたので、奴国の宮廷楽師だったことが分かりました。ですからクーデターによって倭国王になったと分かりました。殺された奴国王が記紀神話で高天原を追放された乱暴者の神スサノヲで、宋史王年代紀第18代王でした(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。その王子のイタケルがクーデターを逃れて祖母イザナミの実家のあった米子市宗形神社で養育されて成人し、ムナカタ族をまとめる王に推戴されたわけです(詳細は「丹波はスサノヲ・大国主の故郷だった」参照)。

スサノヲは三国史記 第四代新羅王脱解尼師今(だっかい にしきん)のモデルとなった人物だと考えています。新羅はまだ建国されてはいませんが、丹後半島と朝鮮半島の辰韓・弁韓を行き来していました。脱解尼師今の系譜の最後の王が大国主久々遅彦だったのかもしれません。

大国主の祖父で出雲風土記の国引きを行った八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が、各地に散っているムナカタ族の族長を傘下にした史実に基づく伝承ではないかと思います。栲衾志羅紀(たくぶすましらき)の三埼(みさき)は新羅のことでしょう。

後に、半島からの渡来人と言われる秦氏などが列島に戻って様々な技術を提供して活躍しますが、この時代に半島南部に居た倭人がほとんどだと考えています。秦氏は、その正体が大国主久々遅彦である武内宿禰を祖とする波多氏だと考えています。血統的につながっている者だけでなく、様々な技術者集団のようですが、その当時のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の遺跡は列島にないと思いますのでユダヤ人ではない倭人のはずですよ(^_-)-☆、また、四・五世紀にすでに豊前地方で比売大神卑弥呼を祀っていたと考えている、初期の宇佐神宮の禰宜だった辛嶋氏も秦氏とつながっているようですから、半島南部に定着していた大国主傘下のムナカタ海人族ではないかと考えています。



倭国とは対照的に隆盛になっていたので、倭国を攻撃して、師升の一族の倭王難升米は苦しめられていたということです。ですから、前回も述べたとおり、204年、公孫氏が半島の混乱を沈めて、楽浪郡の南に帯方郡を設置しましたので、ムナカタ海人族を率いて倭国を攻撃していた先代狗故智卑狗(大国主の父)が菊池川に築いた最前線集落の方保田東原遺跡などが倭国側に襲撃されて、狗故智卑狗が戦死したと推理しています。王を喪ったムナカタ族の赤坂比古(和邇氏の祖)が倭国王難升米に懐柔されました。姫巫女(卑弥呼)市杵島姫命が告げる太陽神の神託に基づいて政治を行う条件で狗奴国を裏切って、倭国側についたのです。詳細は前回「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」述べていますので、ご参照ください。


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邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!(^_-)-☆

2023-05-14 23:33:43 | 古代史
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古代日本史:日本神話と邪馬台国の謎解き【私見】
minerva scientia@YouTube


刮目天
11 か月前
比較言語学の観点から記紀を読み解くということですが、記紀の素性を正しく把握していないと考古学の成果と矛盾してしまいます。日本書紀は天武天皇が編纂を命じましたが、崩御して30年以上経って完成しています。当時の権力者だった藤原不比等が、藤原氏が権力を握り続けるために、不都合な日本建国の史実を神話で隠し、デタラメな話で歴史を改ざんしていることが、考古学や民俗学などから判明しました。

例えば、魏志倭人伝に登場する地名や人名などは、漢字を読み書きできない倭人の発音を聞いて魏の役人が韻書の冒頭の字を当てたというのが通説になっていましたが、最近北部九州などで出土していた砥石と思われたものが硯石であったり、博多の弥生後期の遺跡から木製の組机が出土していましたから、倭人は文字を使っていたことが分かります。そして糸島市の三雲遺跡番上地区では楽浪土器が集中的に出土しています。伊都国に華僑や外交使節団がやって来ていたと考えられています。つまり、倭人の中で彼らと交流し漢字を読み書きできた人がいたと考えられます。そのひとつの証拠が伊都国というとても深い意味のある地名が残されていることです。その他にも証拠が出てきました。

そして神話で高天原とされたのは、金印をもらった奴国王が支配していた倭国のことだったことも分かり、日本書紀の編纂者もこの史実を知っていた証拠まで出てきました。

ということで、史実に基づいて科学的な手法で推論し検証して、日本建国以前の東アジアの状況から三世紀の建国の過程まで解明しました。よろしければ拙ブログ、たとえば最近の記事「伊都国の意味がヒントだった?」などをご参照ください。できれば比較言語学の観点からご意見を頂けると幸いです。お邪魔しました(*^▽^*)


ジャパン・ファースト様
1 か月前
私も地名由来が濃厚かと思いますが、母方の出身地由来という可能性もありますので、卑弥呼が火國出身や火國在住とまで断定出来るかは何とも言えないかと思います。考古と照らし合わせると菊池地域は熊本平野と同じ免田式土器圏ですので、狗奴国のクコチヒクも菊池彦とも解釈できます。
ただ菊池川下流やその北部の火國に邪馬台国があったのなら、火國でもかなり納得出来るかと思います。


​ @ジャパン・ファースト さん 気づかずに、返事が遅れてすいません(^^;)
とてもいいご指摘です。有力視されている邪馬台国北部九州説の方は、狗奴国が菊池の地名から熊本とされています。ですから火國に邪馬台国があったとすると、さらにその南に狗奴国があるということになり、とても邪馬台国に対抗できる勢力ではなさそうです。そこで、倭国大乱の痕跡を、弥生後期後半(2世紀末ごろ)の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて見つけましたので、卑弥呼が登場するまでの主な戦場は北部九州だと分かりました。鹿児島や宮崎などの南九州には戦闘の痕跡は見あたりませんでしたから、邪馬台国は熊本ではなく、狗奴国も別の場所にあったと分かります(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。後で述べますが、狗奴国の官として王よりも先に登場する狗古智卑狗の正体も分かりました。これにより倭国大乱の実態がかなり判明しました。説明が長くなったのでブログ記事にします。よろしければお越しいただき、疑問点などコメントいただけると幸いです(#^.^#)


北部九州の、主として佐賀平野・筑紫平野の環濠集落の溝から出土した鉄鏃・銅鏃は倭国の敵方である狗奴国の攻撃の痕跡だと考えられます。そして、出土した鉄器の器種を調べると、当時狗奴国側は大分県大野川流域から熊本県阿蘇山麓にかけて、半島南部の板状の鉄素材を持ち込んで鉄製武器の製造工房群を造っていたと分かりました。さらに熊本県菊池川流域の方保田東原遺跡などを最前線基地として、外来土器の出土から、山陰・畿内や西日本各地から兵士を呼び寄せて、倭国を攻撃したと推理できます(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

(左クリックで拡大)

倭国側は、半島の混乱で楽浪郡との交易も困難で、一方的に狗奴国に攻撃されて相当疲弊していた模様です。なんと当時、鉄が豊富にあったはずの福岡市唐原遺跡などの住居跡から銅鏃が見つかっています。鉄が不足して青銅器を溶かして銅鏃を作った模様です。そして、狗奴国側の方保田東原遺跡の環濠などから銅鏃が出土していますから、倭国側の攻撃の痕跡と考えられます。

(左クリックで拡大)

204年に公孫氏が半島を平定して帯方郡を設置したので、倭国は息を吹き返し、狗奴国側に反撃を加えたものと考えられます。そしてこの戦争になんらかの決着があって、卑弥呼が登場したのです。倭国攻略を指揮していた狗奴国の官狗古智卑狗が倭国の攻撃で戦死したのが原因だと推理しました。狗古智卑狗の墓も比定しました(詳細は「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その4)」参照)。



半島南部の鉄は北九州を拠点とし玄界灘を活動域とする縄文系海人ムナカタ族が狗奴国側の集落に供給していた模様です。狗古智卑狗は北九州、山陰や北陸などを拠点とするムナカタ族を束ねる王でした。兵庫県豊岡市久久比神社の祭神久久能智神(久々遅彦)が正体です。この祭神は全国の建物の上棟式の祭神屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)で、木の霊ですから、奴国の宮廷楽師師升らの反乱で殺された奴国王スサノヲの王子イタケルの子孫です。イタケルは奴国を脱出しました。祖母イザナミの実家の米子市宗形神社で養育され、成人してムナカタ族の王に推戴され、子孫が代々久々遅彦を襲名しました。

これで倭国大乱の原因が判明しました。卑弥呼の正体も分かります。

大活躍していた王が戦死して途方に暮れていたムナカタ族和邇氏の祖赤坂比古(天理市和邇坐赤阪比古神社祭神が市杵嶋姫)が倭国王難升米(師升の一族の伊都国男王、「伊都国の意味がヒントだった?」参照)に懐柔されました。卑弥呼(姫巫女)市杵嶋姫による太陽神の神託によって政治を行う条件で、狗奴国を裏切ったのです。

市杵嶋姫は不弥国(宗像市田熊遺跡を中心とするウミ国)で生まれましたが、海に面して物騒なので、野麻国(ヤマ国、宇佐市安心院町宮ノ原遺跡)に疎開していました。三女神社を宮室としていました。神社のすぐ西側のV字溝の中から古墳時代初頭(3世紀末)の狗奴国側(卑弥弓呼大王と同じニギハヤヒ大王を祖とする尾張勢)のものと推理した銅鏃が出ていますから、卑弥呼の死後に狗奴国勢に攻撃されたものです。後述する尾張王の事績を、日本書紀で景行天皇の九州遠征の話にされ、討たれた菟狭の川上(駅館川上流)の土蜘蛛鼻垂(はなたり)とされた、邪馬台国を護っていた勢力との戦闘の痕跡です。ここが、いくつかある三女神降臨伝承地のひとつで、葦原中国の宇佐嶋ということです。

史実を誤魔化すために、宗像三女神とし、いくつもの降臨伝承を藤原不比等やその子孫らが作っています。安心院盆地は当時は広大な葦の群生地で、卑弥呼市杵嶋姫の居た三柱山台地の南北に川が流れていますので、海の中にある島に例えられたということです。魏志倭人伝にある卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の急造りの、国内最大の円墳三柱山古墳が宮室の西側で見つかり、その横の原野が血野(現在は知野)という、殉葬のために奴婢百余人が殺されたと思われる地名もありました。また、日食が理由で殺されたことを示唆する「ヒカケ」という地名がその南側に残っており、卑弥呼の墓の遥拝所(頓宮)と見られる同じ名前の三女神社がありました。宮室寄りの河原に温泉が出るようで、現在はすっぽんが養殖されています。その場所に露天風呂があったはずで、入浴中の卑弥呼が刺客に暗殺されたと想像しています。その場所には七世紀に国東半島の六郷満山を開基したと伝わる、伝説の仁聞菩薩が彫ったとの伝承のある乳不動という石仏があります。さらに後世に墓を直接目視できないようにするために土盛りされており、そこにヒカケ横穴群が見られます。アマテラス女神の天の岩屋戸を連想させます。

また、頓宮の摂社として大国主命を祀る金毘羅宮と、大国主の祖父で出雲風土記に国引きで登場する八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)を祀る八束神社がありますので、卑弥呼は大国主の祖父の娘が赤坂比古に嫁いで生まれた姫で、大国主とはいとこになると推理しました。大国主は卑弥呼を弔った後にその東側の安心院町佐田地区で最初の国造りを行ったことが霊山米神山やその麓の佐田京石というストーンサークルなどから推理できます。この地が豊葦原の瑞穂の国だったのです(詳細は「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。



宇佐市史によれば和名抄の宇佐郡野麻郷が安心院町に比定されています。卑弥呼は、実際は倭国を統治する女王ではなかったということですが、卑弥呼(院)がこの地に疎開して安心したという故事が安心院の地名の由来でしょう。魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事や海南島に近い風俗・地理などの倭国の情報は、倭国王難升米が帯方郡太守劉夏と談合し、司馬懿の功績を大きく見せるために作られたものだと確認できました(詳細は「景初三年問題が謎を解く鍵でした!」参照)。邪馬台国という国名も難升米が書いて劉夏に教えたもので、ヤマ国の女王(台)が統治する国という意味ですからフェイクだったのです。逆に、邪馬台国の位置が分かったので、行程記事のトリックも図のとおり判明しました(詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。



赤坂比古の傘下の九州中・南部、中国西部、四国西部などの勢力が倭国に加わり、狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)と対立しました。ニギハヤヒ大王の子孫と推理した卑弥弓呼は倭国に対抗するために纏向遺跡を建設して、各地に散っていた旧奴国側の首長を呼び集めました。纏向遺跡出土の外来土器に尾張王の支配する東海のものが半数を占めていました。日本書紀で仲哀天皇とされ、卑弥呼の死後に狗奴国を裏切り、倭王に立った狗奴国の有力者の尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト、尾張国造の祖)がモデルだと推理しました。倭国側についた四国の勢力は、当初は伊予・土佐勢だけでしたが、倭国が帯方郡との交流や半島南部の鉄まで入手できるようになり、隆盛になったので、後に讃岐・阿波勢も狗奴国を裏切って倭国側になったことも纏向遺跡の外来土器から推理しています。紀州の勢力も参加したようです。卑弥呼大王ら旧奴国の勢力は、恨みのある師升の一族と裏切り者の赤坂比古らを呪詛する祈祷を連日行って、復讐計画を練ったと思われます。出土した大量の桃の種はそのような祈祷に使用されたものでしょう。



この後の展開が少しありますが要点のみかいつまんで述べます。乎止与命が率いる倭国征討軍が奴国に到着して、倭国王難升米を追い払ったので、狗奴国を裏切り倭国王に立ちました。倭国大乱で戦死した狗古智卑狗の子の久々遅彦らが不服で内戦になり、久々遅彦の味方をした卑弥呼の弟赤阪比古(先代はすでに亡くなって宮ノ原遺跡の直径約120mの巨大円墳奥城古墳に埋葬されたと推理)が鳥栖市で乎止与命を討ちました。九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に埋葬されたと考えています。

内戦に勝利した久々遅彦は卑弥呼の宗女台与を13歳で女王に立て、魏を後ろ盾にして狗奴国と対立しました。列島内の多くの勢力が久々遅彦の傘下になったのです。上で述べた大国主命の正体なのです。その後、尾張王の子建稲種命(タケイナダネノミコト、熱田神宮祭神で、日本書紀で仲哀天皇の祖父景行天皇とされ、建国の真の主役大国主を隠すために創作された日本武尊のモデルと推理)が親の敵討ちで大国主らを討ちました。日本書紀に景行天皇の九州遠征の話として詳しく載っていて、前述の鉄鏃・銅鏃の出土状況と一致していますから、史実を基に作られたと分かりました。さらに大国主傘下の北陸や東海・関東などの勢力を鎮撫して狗奴国ヤマトが日本建国を果たしました(日本書紀で崇神天皇の四道将軍の話としている、その詳細は「【検証19】日本建国のための戦いだ!」「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)」参照)。

従来のように、魏志倭人伝の記述を正しいと考えて、その文章を素直に解釈すれば邪馬台国にたどり着くだろうということで、数多くの研究がなされましたが、この考えでは千年かかろうが真相には到達できないということが、すでに証明されていたのです。行程記事が政治的理由によるフェイクだったからなのです。

また、現存する最古の正史「日本書紀」についても、最近の歴史学会では津田左右吉の成果からかなり研究が進んだようですが、やはり根底には天皇の歴史書だという思い込みがあるので、真相にまでは到達できなかったのだと思います。吉田一彦「『日本書紀』の呪縛」(集英社新書 2016年)は不比等の呪縛から目覚めさせてくれるもので、これまでの研究者の考え方の問題がよくわかる、とても参考になる本です。

前回の記事でも述べましたが、文献の内容を概ね正しいとして素直に信じるのではなく、疑わしい部分は考古学や民俗学などの成果である物証から文献の内容の信ぴょう性をしっかりと評価することが重要です。また、それだけに留まらず、それら内容が誰によって何の目的で作成されたのかを、可能性を徹底的に推理して、構築した仮説を検証する科学的な手法によって、初めて真相に迫ることができるのです。

しかし今回の推理も、歴史の真相を説明する仮説ですので真相そのものではないかもしれません。現在分かっている事実に基づく仮説ですので、このようなことがあった可能性が高いというのが結論になります。ですから、今後新たな事実や重大な事実誤認が発見されたら、別の有力な仮説が登場するかもしれません。いずれにしても、個々の遺物や文献の内容はいくつもの解釈ができ、何が正しい解釈なのか直ぐには分かりませんので、諸説が存在し、古代史は謎だらけのままだったのです。しかし、このような一定の期間を挟む仮説を立てることにより、その仮説に合致する解釈ができれば、それを正解として選択し、発見的な推論を進めることができるのです。このような第三の推論法と呼ばれるアブダクションによる手法が問題解決に結びつく科学的探究の手法なのです(詳細は「【刮目天の古代史】古代史を推理する」参照)。

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