刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】2022年の大発見!(^_-)-☆

2022-12-29 22:54:57 | 古代史
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今年も残り少なくなりました。正月の準備で皆様お忙しいことと存じます。一年間、皆様のご支援のおかげでいくつもの発見ができました。前回、「日本史を疑え!」を記事にしましたが、日本人の多くは正史「日本書紀」は天皇の正しい歴史書だから、そのまま真実ではない部分もあるかも知れないが、概ね我が国の歴史が書かれているはずだという強い思い込みがあるので、正史や日本神話を否定する刮目天の説はバカげたトンデモないヤツと顰蹙を買っていたかもしれません。そのような中でとても柔軟なアタマで、拙論を素直にご理解いただいた読者の皆様方には、心から感謝いたします。できれば多くの日本人に古代史の真相を考えていただきたいとの思いから、皆様に励まされてこの古代史ブログを書きづけています。

特に、今回は表題のとおり、刮目天が印象に残る今年の大発見を改めて考えてみたいと思い、本年最後の記事にしました。科学技術で様々な自然現象の解明が進み、その恩恵によって便利になった一方で、忘れてしまった古代人の純真な心を、わたしたち現代人に思い起こさせてくれる不思議な大発見をしました。

前置きが長くなりましたが、重要な発見を昨年のクリスマスに記事にしました。熊本県の神社や遺跡などを自転車で活発に走り回ってご紹介していただいている自転車クマさんのブログによって倭国大乱から卑弥呼の登場までの謎を解く重要なヒントを教えていただきました。改めて心より感謝いたします。

二世紀末から三世紀初頭にかけて大活躍していた旧奴国の英雄久々遅彦(狗奴国の官狗古智卑狗)が熊本県山鹿市・菊池市を流れる菊池川の上流に造った最前線基地(方保田東原遺跡・うてな遺跡)で、倭国王難升米の急襲を受けて戦死したと推理していたので、その墓を探していました(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

そこで驚く発見を昨年しました。茶臼塚古墳という方墳が玄界灘から日本海沿岸部を根拠地とするムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦(代々襲名)の墓だと確信したのは、墳頂に置かれた大日如来の石祠でした。その皇子である大国主が最初に国造りした豊葦原の瑞穂の国の位置を示すものでした。つまり胎蔵曼荼羅の真ん中の中台八葉院の中央に大日如来が描かれていて、その八方向に四如来(宝幢如来、開敷華王如来、無量寿如来、天鼓雷音如来)と 四菩薩(普賢菩薩、文殊菩薩、観自在菩薩、弥勒菩薩)が描かれています。それらの配置は決まっていて、大日如来の北東方向に大国主の本地仏である弥勒菩薩が位置しているのです(宇佐八幡神宮の本当の八幡大神は応神天皇の父大国主です。神宮寺は弥勒寺です。詳細は「【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その20)7.記紀と日本人の信仰の謎⑥神仏習合の発祥地と言われる宇佐のなぞ?」参照)。すでに宇佐市安心院町佐田神社を王宮とし、米神山(標高475m)の西側山麓のストーン・サークル佐田京石を祭祀場としたことを突き止めていましたが、正にその方向を指しているのです(「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」参照)。

一方、米神山の中腹に月の神谷という場所があり、柱状節理から切り出した複数の石棒がなんと、南西方向に揃って向いていたのです(刮目天は実際に見ていませんが、猿田彦TVの動画で分かりました)。大国主が父王の墓の方角に石棒を向けているのは霊的なエネルギをこの山に取り込む目的だったことが分かりました。新しい王は偉大な父祖の霊を自分自身に纏うことによって、さらに素晴らしい業績を上げられると信じていたことが分かりました。


月の神谷の揃って南西方向に向けられた石棒群
(「米神山」ゆっくり気ままな山歩記 よりお借りしました)


二世紀末から三世紀前半の日本海沿岸部に見られる四隅突出型墳丘墓で首長の即位儀礼をおこなったと考えられますが、これはそれと同じ考え方です。そしてこれが三世紀後半から始まる古墳時代に繋がるものだと考えています。天皇即位の儀式の中に真床追衾(まどこおうふすま)という天孫降臨神話に基づく儀礼があります。これも皇祖神の霊と一体になって民の安寧と国の安泰を祈ることができるという考え方です。

米神山の場合には倭国大乱で大活躍した父王の霊を山に取り込み、国造りを成功させるためだと考えられます。古墳時代から今上天皇まで連綿と続く、いわゆる首長霊信仰をこの霊山に因み米神信仰と名付けました。名前の「米」は難升米(なしょうめ、伊都国男王で師升王の子孫の倭国王)や迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ、神功皇后の祖父、カニは当時の尾張の代名詞、国譲り神話でタケミカズチとされた尾張王建稲種命を連想します)で見られ、首長の意味と考えられます。

上の内容の詳細は「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その3)」を参照してください。

これらの発見は2021年の大発見でしたが、ようやくここから先が2022年の大発見につながる話なのです。しかしその話はすでに、「【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その21)7.記紀と日本人の信仰の謎⑦高野山の秘密?」にしましたので、これを参照してください。弘法大師空海が和歌山県の高野山に金剛峯寺を開いたのは、大国主の霊を鎮めるためだったのです。大国主は高野御子(たかののみこ)と呼ばれていました。そして大国主の生誕地が分かったのです。

すでに兵庫県豊岡市の久々比神社のご祭神が久々遅命で、この神が日本全国の建物新築時の棟上げ式で祀られる木の神だったので久々遅彦(狗古智卑狗)の正体だと突き止めています(「狗古智卑狗という人物?」参照)。つまり奴国宮廷楽師の師升らの反乱で殺された宋史王年代紀の第18代王素戔男尊の皇子イタケルと同じ木霊なのですから、久々遅彦がスサノヲの子孫だと分かりました。

そして、久々遅彦が王宮にしていた場所が豊岡市竹野町鷹野神社でした。そこから猫崎半島の付け根にある小山に五社大明神があり、鷹野神社の元宮という説明がありました。


五社大明神の祭神の中央の天照皇大神は大国主のことですよ(^_-)-☆

その半島の先に向かって賀嶋山が伸びていますがその手前の浜に「誕生の浦」と書かれた石碑があったのです。由来は、鹿島神宮で祀られている神タケミカズチが上陸した場所とあります。国譲り神話で大国主から武力で国を奪った神なのです。史実は尾張王建稲種命(たけいなだね)による父の仇討ちと列島統一です。日本書紀では崇神天皇紀四道将軍のタニワノミチヌシとして隠されています。そこが何で「生誕の地」?ですから、大国主高野御子の生誕の地以外に考えられません。


その確信の根拠となったのが、狗古智卑狗の霊ラインでした。山鹿市の茶臼塚古墳から米神山へ北東方向に描いたラインを延長すると、なんと不思議なことに大国主の生誕地にたどり着いたからなんですよ!これって偶然だと思いますか?
しかも今まで、何本も霊ラインを書いてきましたが、これほどの精度のものは描けませんでした。大国主の霊が導いてくれたとしか考えられませんよ(^_-)-☆


(左クリックでMyMapに移動しますのでご確認ください)


ということで、信じるか信じないかはあなた次第です(#^.^#)
また、来年もどうぞよろしくお願いいたします。
そうそう、最後に高野山の記事で発見した面白い歌を再掲して今年の締めにしたいと思います。

たかのみこ いとも怪しと見まし鳬(かも) 猿まろをしも引きたててとや
精選版 日本国語大辞典「高野御子」の解説 より引用)神の使いの猿まろは猿田彦のことで大国主の分身ですよ!

よいお年をお迎えください!

【関連記事】
【大発見!】大国主命の生誕地か?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その22)
7.記紀と日本人の信仰の謎⑧猿田彦大神の石碑のなぞ?



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卑弥呼は公孫氏だったのか?( ^)o(^ )

2022-12-27 00:00:05 | 古代史
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6,403 回視聴 2022/11/05 古本屋えりえな@YouTube


非常に面白いのですが、卑弥呼が公孫氏一族だと決めつけたのは晋書に「宣帝之平公孫氏也」とあったからのようですが、その後に続く文章「其女王遣使至帯方朝見」との繋がりから、文章は「司馬懿が公孫氏を滅ぼすと、その女王が帯方郡に使いを遣わした」という解釈が正しいのですよ。この文は魏志倭人伝を要約したものと解されます。ですから、「卑弥呼が公孫氏だ!」ということにはなりませんよ。

ちなみに、卑弥呼は倭国大乱の結果女王に共立されますので、倭国大乱が倭国とどういう勢力の戦いなのか?なぜ、両者は戦わないとならないのか?などを考えていくと一つの事実が浮かび上がります。

それは57年に後漢光武帝より金印を賜った倭の奴国王の次に107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升とあるので、倭国に50年後に政変があったことに気づきます。後漢書は原本が残っておらず、その後後漢書を参照した史書から、倭面土国王師升だと考えられますが、白鳥庫吉は倭の回土国(ウィトコク)としました。つまり魏志倭人伝の伊都国のことで、伊都国男王は師升王の子孫だと考えました。

中国古代では師姓は宮廷楽師の官位を表しますので、奴国で祭祀を担当する人物だったと推理できます。つまり奴国でクーデターを起こし、倭国の宮廷楽師らが王位を奪った事件があったと推理できます。奴国王は殺され、倭国王と認められるために大量の奴国王の部下らを捕虜にして奴隷として献上したと推理できます。殺された奴国王が宋史王年代紀の第18代王素戔男尊です。高天原を追放された乱暴者の神スサノヲのことです。

なぜわかるかというと日本書紀仲哀紀に奴国の博多を儺県(なのあがた)としているからです。儺(な)は鬼やらひ・神やらひ、つまり疫病神を追い払う行事のことです。これによって、ウィト国を伊都国と書いて魏に教えた人物が特定できるのです。

伊都国は孟子に登場する殷(商)王朝初期の政治家伊尹(いいん)に因む国名で、伊尹は放蕩者の王を追放したことでその評価が議論された人物なのです。師升王の事績と一致します。(注)

そして卑弥呼が魏に遣わした大夫難升米が師升王の子孫だということが分かります。当時ニンベンが省略されるのが流行でしたので、国宝金印に倭を委と書かれていることから分かります。他にも例を発見しています。そして「米」は頭目(かしら)を意味する言葉ですから儺(難)升米は師升王の子孫の伊都国男王だったのです。伊都国と書いて司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏に教えた人物だったのです。

ですから、倭国大乱は、倭国王師升の一族と、クーデターを逃れた旧奴国勢力との戦いだったのです。難升米は狗コロの奴国と蔑んで狗奴国として魏に教えたのです。これは弥生後期後半(二世紀末から三世紀初頭)の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて分かりました。まだまだ続きますが、長くなるので、よろしければ拙ブログ「伊都国の意味がヒントだった?」「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」などをご参照ください!

ちなみに卑弥呼の出自はムナカタ海人族和邇氏の祖イチキシマヒメですよ。
径百余歩の巨大円墳も宇佐市安心院町の宮ノ原遺跡で発見しましたよ。
お邪魔しました(#^.^#)

(注)「伊」ウィクショナリ
字源
・会意形声
・「人」+音符「尹」。「尹」は、手で神杖を持った様を表わす象形文字。伊は神の意志を伝える聖職者。治める人の意を表す。調和をさせる様、殷初期の伝説の宰相伊尹(いいん)に因み嘉字とされ、人名、地名に用いられる。


【関連記事】
【刮目天の古代史】卑弥呼の謎
王年代紀は記紀神話を正した!
消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?


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日本の店じまいか?!"(-""-)"

2022-12-25 10:58:25 | 歴史問題
2022-12-17 09:28:51に記事にしましたが、国債費について(注1)を追加して文末に補足しましたので、ご覧ください。ついでに、文末に【おまけ】で日本をダメにした元凶について、1年前から始まったロンブーの初回の面白い動画に今頃コメントしました。このシリーズとても人気があるようですので、ご存じのない方はぜひご覧ください。どうぞよろしくお願いします( ^)o(^ )

日本国民にとって非常に重要な記者会見をしていただきました。首相を持ち上げるコメントが多く見られました。しかし、間違った発想で国防力強化の方針を決めましたから心配なのでYouTubeニュース動画にコメントしまくりました。お付き合いください!



防衛力の抜本的強化ということは間違いなく重要ですので賛成ですが、やり方が目的に合っていないことに気づくべきですよ!

国防と経済は一体です。どちらがだめでも我が国の将来は暗い!
ゼロ・サムではなく国防と経済の両方とも向上させねばならない!
それがないと残念ながら、口先だけの防衛力強化で日本の消滅となって終わります!

安定的な財源確保の正しいやり方は、国防国債発行以外にありません。
防衛力強化は公共事業の最たるものです。
財政法4条の但し書きに相当しますので、法律上も全く問題ありません。

国の借金で将来世代にツケを回すな!」というのは間違った発想なのです。民間企業や家計の発想です。国には打ち出の小槌(通貨発行権)があるのですから。自国通貨建て国債発行で財政破綻しないことは財務省のHPにあるように明らかなのです!

政府の子会社の日銀があるので財政破綻しない仕組みを国が持っているからです。国債の償還は利子を含めて借換債を発行して問題ありませんし、それを今までやってきています。現在まで一般会計の約1/4は国債費(注1)、年によって違いますが例年4割くらいが国債に依存して国の政策を実現してきているのです。国債の累積残高がGDPの何倍になろうとも関係ありません。これを問題視するのは間違った発想なのです。(2022.12.25 赤字追加)


(昭和40年から発行を始めた国債の推移が分かります)





(日銀が半分くらい買い取っていますので大丈夫です!日銀には利子も払う必要がありません。手数料を除いてほとんどが政府に戻されますから。



政府の黒字は民間の赤字だ!という事実を無視した、

間違った発想でPBの黒字化というさらに間違ったやり方を正しいと信じているから

国民経済が健全にならないのです。

打ち出の小槌を振るための正しい指標はネットの資金需要(企業貯蓄率+財政収支)です。国民にどれだけ資金を回せるかの指標です。この指標をGDP比マイナス5%程度にすると国民にとって心地の好い経済状態になるのです。詳しくは、「岡三証券:アンダースロー(日本経済の新しい見方)」2022/10/20転載  をご覧ください。

こういう正しい経済指標を用いて国債発行することによって国防力向上と経済再生が両方とも実現できるのです!

すべての財源は国債でいいのです。

税制は国民に正しい経済行動を誘導する仕組みです。
市中の資金を国が回収して経済を安定化するための仕組みなのです。
勿論、税収を財源に使うことはできますが、税収は補助的な財源なのです。

税収だけで国を運営せよとする財政法4条はGHQが日本に押し付けた日本の消滅を狙った不合理な法律なのです。間違ったやり方で将来世代は生まれてこない日本にしています!

暗殺された安倍元首相の遺言が正しいことに岸田首相も多くの国民も気づくべきです。

【関連記事】
PBに代わるべき正しい指標「ネットの資金需要」


ネットで国民経済の勉強していますが、三橋貴明さんの動画にネットの資金需要について解説がありました。主流派経済学者が適用した経済理論がデフレ期には適用できないものだったために起こった、間違った政策で起こされた現象です。


(2022.10.26 キャプチャした図に年度と法人税の推移を書き入れました)


青いバーチャートが民間企業の貯蓄を示し、マイナス側が借り入れ金の割合です。赤いバーチャートが政府の財政収支で、マイナス側が財政支出の割合です。ネットの資金需要は企業と政府のそれぞれの割合を足したものです。どれだけお金を家計に回せるかという指標です。

これは物価指数と関係があり、プラス側に行くと市場にお金が出回らないということで経済は失速するということです。逆に、この指標を過度にマイナス側に振れすぎるようになると過度の資金需要となり物価高で苦しむことになるようです。この指標をここではマイナス20くらいにするとバブル崩壊前の、資金が十分に行き届き国民が豊かになったと実感できる経済状況のようです。

重要なネットの資金需要の論点を理解して下さい
「岡三証券:アンダースロー(日本経済の新しい見方)」2022/10/20転載

要旨
新しい資本主義の定義は、まずは積極財政の力で、ネットの資金需要(企業貯蓄率+財政収支)を新しい目標である、対GDP比-5%に拡大して、その水準を維持し、家計に所得を回すことだ。もちろん、米国や英国のように、ネットの資金需要を-10%より強くしてしまえば、インフレが問題化してしまうことになるので、そうなってはじめて、財政政策を緊縮にすべきだ。ネットの資金需要が過大であった米国と英国のインフレは、ネットの需要が過小であった日本の状況とは全く違う。

ネットの資金需要を、過小な0%でも過大な-10%でもなく、適度な-5%に維持することが、新しいマクロの財政規律になる。プライマリーバランスの黒字化というこれまでの財政規律は、経済の状況がどうであれ、財政黒字を目指してしまうことで、マクロ経済を考慮することができず、質が悪すぎた。古い財政運営を維持して、プライマリーバランスの黒字化を強行して、またネットの資金需要を消滅させれば、家計に所得は回らず、新しい資本主義は失敗してしまうことになる。


【経済対談】「気鋭のエコノミスト・会田先生登場!金融・経済主流派ではできないデフレ脱却の答えがここにある「ネットの資金需要」とは」
西田昌司×会田卓司 シン・アベノミクス対談VOL.1 配信日:2022年9月1日
ネットの資金需要という指標は岡三証券のエコノミスト会田卓司さんが提唱した新しい、正しい考え方です。

「日銀の債務超過問題を指摘するYouTuberがいるらしいが、そもそも日銀の仕組みにそんなことはありえない!左翼勢力の東京裁判史観が起因している」
西田昌司がズバッと答える一問一答【週刊西田】配信日:2022年4月26日

【財政法】「戦後日本の財政政策はどこで間違ったのか?財政出動に限界はあるのか?」
西田昌司×稲田朋美 シン・保守対談VOL.2 配信日:2022年10月27日

(注1)国債費の内訳は償還日が来た国債の償還費+利子です。償還費は借換債という名前の国債を発行しますので、永久に残ることになります。でも政府の子会社の日銀が国債を買い取れば利子すら必要がなくなり実質上消えます。外国では償還費は予算に明示しません。日本だけです。ですから、国債を発行しても政府には大した負担はありません。国の借金という表現もどうかと思いますし、将来世代にツケを回すことなどありません。将来世代は現役世代から生まれますので、現役世代をいじめることによって将来世代も生まれてこない少子高齢社会になっているのです。政府の失政なのです。すべての財源は国債でいいのです(^_-)-☆
これについては以下の動画が分かりやすく解説していましたので、是非、ご覧ください(#^.^#)
防衛予算のための増税は必要ありません!経済視点で見た岸田"増税"政権に反対の理由
8,545 回視聴 2022/12/24 森永康平のビズアップチャンネル @YouTube


【おまけ】日本をダメにした元凶だろう!
【成田悠輔×田村淳】台湾有事はもう目の前!?…習近平へメッセージを送れ!【クリエイティブ政策談義】
日経テレ東大学@YouTube


いい話題をありがとうございます。
主流派経済学者が御用学者化して、財務省の希望に沿った緊縮路線を支持し続けたから経済成長しないダメな国になったのです。以下のように処方箋がデタラメだったから日本はくたばりかけているのです。少子化は自然現象ではないのですよ。
一番の元凶は消費税です。付加価値(=利益+人件費)にかかる税なので、税を軽減し利益を出すために経営者は人件費を外注して仕入れに回すので、従業員の給料が増えないのです。日本国民は貧乏になっています。そして経済格差が広がっています。上位10%の人が約半分の金額を所得しています。下位50%と上位1%の人がほぼ同じ約14%くらいです。

国の借金という財務省のプロパガンダを蔓延させたマスメディアも元凶ですよ。自国通貨建て国債発行で財政破綻しないことは財務省のHPにもあるし、国債を償還するために借換債を永久に発行できるので財政破綻しない仕組みを国は持っているのです。昭和40年から国債発行を始めて現在まで、GDPの2倍を超えても財政破綻は起こっていませんから事実が示しているのです。

バブル崩壊後の法人税減税も企業の貯蓄を増やすだけで、投資にも給料にも使われないのです。正常な経済では企業が銀行に借金することにより信用創造によっておカネの量が増えるのですが、借りる必要ないほど貯蓄はあるし、需要が減退しているデフレ状態では投資しても儲かりまヘン。民間がカネ使わないなら政府が国債を発行して財政出動により景気回復させるのが正しいのです。

今回の防衛力増強に対して、増税や別の予算を削るなどは折角の景気回復と防衛力アップのチャンスを自らドブに捨てて、日本の消滅に導きます。正しくは、長期にわたり国防国債を発行して、裾野の広い防衛産業を興し、経済を拡大する方針を政府が宣言すれば、民間はその方向に動き、経済も国防力も確実に向上します。

ただし、国債はいつでも無限に発行できるわけではなく、日本の供給能力や経済状況の制約がありますから、ネットの資金需要(企業貯蓄率+財政収支)を見る必要があります。国民に資金をどれだけ回せるかの指標です。政府の黒字は民間の赤字という事実を無視するPB黒字化は間違いなのです(^_-)-☆。

【関連記事】
国民貧困化の犯人は消費税だった!
増税一直線が日本を滅ぼす!




日本史を疑え!(^_-)-☆

2022-12-23 21:44:48 | 古代史
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以前にも精力的に歴史解説をされておられる結城屋様の興味ある和邇氏に関する動画にコメント入れましたが、今回もまた以下の動画に間違いを指摘するコメントをしました。しかし、動画の内容を否定するものだったので、嫌がらせのコメントと受け取ったようでスパム扱いされたようで、大変申し訳ありませんでした。それで、今回は「日本書紀」研究について少し考えてみましたので、お付き合いください(#^.^#)



結城屋@YouTube 

刮目天
弥生時代に文字を使っていなかったというのは記紀のデマだったことが最近の考古学の成果から分かってきています。従来、砥石の欠片だと思われていたものが硯石だったと分かってきました。また、弥生後期の福岡市雀居遺跡では木製の組机が丸ごと出土しています。魏志倭人伝にも、市場での取引に税を取っていたとあります。計りの重り石も発見され、当時から十進法を使っていたと分かっています。
そして、重要なことは、伊都国の三雲遺跡の番上地区には楽浪土器が集中して出土しており、華僑が滞在した場所で、伊都国王などと交流していることが分かります(詳しくは「変わる弥生時代観!」 参照)。

ですから、当時の倭人の中にはシナ語を話し、漢字を読み書きできる倭人が居たと考えられます。その証拠が、魏志倭人伝に描かれた地名です。シナ語で読んでも通じません。従来文字を読み書きできない倭人から魏の役人が発音を聞いて韻書の冒頭の字をあてたとされていましたが、これも誤りだと分かりました。
伊都国という地名は特別な意味があったのです。これは107年に後漢安帝に朝貢した倭国王帥升(正しくはウィト(回土)王師升)が、孟子に登場する殷王朝初期の政治家伊尹(いいん)と同様の事績があったことを意味しています。これがヒントになって邪馬台国も卑弥呼も倭国大乱もヤマト王権成立の過程も考古学や民俗学の成果で検証して分かってきました。詳しくは「伊都国の意味がヒントだった?」をご参照ください。お邪魔しました(^_-)-☆


この記事のタイトルは東大史料編纂所教授の本郷和人氏の最近の著書「日本史を疑え」文春新書2022年のタイトルです。

「定説」も「最新学説」も一から見直そうという帯封が本屋で目に入り、直ぐに購入して、ざっと目を通しました。中世史のご専門ですが、古代から江戸時代までのポイントを述べられていました。その「第一章 日本史を疑ってみよう」で歴史研究者が何を注意しなければならないかが述べられていました。刮目天は読んだことはありませんが、第一級の史料とされる「満済准后日記」を例に取り上げて、中世の「日記」は自分だけが読むプライベートなものではなく、読み手は書き手の子孫だという指摘から始まり、「研究者は史料について、「それはどういう意図で記されたか」絶えず考えながら読んでいかねばなりません。それが私の考える「史料を疑う」ということです」と重要な指摘をされています(p.24)。

紙に書かれた文字資料を主なエビデンスとしている。これがいわゆる史料です。」から「史料において重要なのは、「いつ」「どこで」「誰が」書いたか。リアルタイムに当人が書いたものほど史料価値は高いとされます。そうした一次史料と呼ばれるものには、大きく分けて「古文書」と「古記録」があります。」とあり(p.25)、「日本史は古文書、古記録がたくさん残っているおかげで、より信頼できる史料をもとに歴史書のウソを指摘することができます。」とありました(p.27)。そして、三宝院満済の日記について「史料が一級であることと、そこに真実がすべて書かれていることはイコールではありません。満済は日記に”嘘”を書いたわけではない。しかし、「意図的に書かなかった」ことは十分にあり得ると思うのです。」と述べておられます。

しかし、歴史研究者が文字で書かれた一次史料を重視するので、根本史料である現存する最古の正史「日本書紀」について通説に問題があることが分かりました。

「日本書紀」が「誰が」編纂したのかについては、wiki「日本書紀」に、「不比等は『日本書紀』編纂の全般に関わったと考えられ、『日本書紀』編纂のリーダーは舎人親王であるが、実際の責任者は不比等であり、」とありますが、「どういう目的で」編纂されたかについては、「不比等は自ら携わった大宝律令の理念を『日本書紀』で歴史化したという主張した[37]。」と高寛敏氏の説(「古代の朝鮮と日本(倭国)」有斐閣2007年)を取り上げているので、多分多くの研究者も「日本書紀」が天武天皇の命令で編纂されたことと、天皇の正式な歴史書の体裁なので、上で述べた本郷和人氏の指摘のように、真実を述べてはいないかもしれないが、歴史そのものは嘘ではないという考えから、高氏のような好意的な説が固定概念になっているのではないかと考えています。

それでも、「日本書紀」の内容については、これまでの膨大な研究の中で、数多くの疑念が持たれているのも事実ですので、「編纂の目的」をもう一歩、深く分析する必要があったことが分かりました。つまり、考古学や民俗学などの成果とはっきりと矛盾する内容については、文章を好意的に解釈するのではなく、これらの矛盾は「日本書紀」の嘘と認識し、編纂者の意図・編纂目的を追求すべきです。

藤原不比等は、その権力を維持するために、三世紀の日本建国時代に活躍した豪族らの史実が邪魔だったったので、日本神話を創作して藤原氏の遠祖を活躍させ、天皇の歴史書の形で正式な歴史を改ざんしたことを、考古学などの成果を用いて実証的に突き止めました。

「日本書紀」完成の720年以降、平安期を通じて「日本書紀」の訓読に関する講えんが6回行われた記録があります。しかし、藤原氏によって没落させられた豪族らは、それぞれ家伝を密かに持っていたと推測されます。十世紀ころには日本書紀の内容が風化していただろうと庭 伊豆太郎「王年代紀と正史(下)」(東アジアの古代文化、1982秋号pp.158-160)によって指摘されています。984年に宋に留学した東大寺の奝然(ちょうねん、俗姓秦氏)が太宗に職員令とともに献上した「王年代紀」によって高天原神話が「日本書紀」の虚構であって「日本は古の倭の奴国」だということが認められ、その後のシナの正史「新唐書」「宋史」でも国号を倭国から日本国に改められたという事実がありました。歴代奴国王のことも、通説ではほとんど無視されています。文献だけではなく総合的な史料批判を行うべきです。この表題の著名な歴史家の渾身の作品が古代史の専門家の間違った通説を考え直す、いい切っ掛けになってほしいと期待しています(^_-)-☆

【関連記事】
王年代紀は記紀神話を正した!


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日本の天皇陛下は皇帝なのか?

2022-12-20 21:27:52 | 古代史
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謎だらけの我が日本【ゆっくり解説】


いい話題をありがとうございます!
天皇はなぜ現代まで二千年以上存続しているのかという多くの人々の疑問は、考古学や民俗学の成果から日本建国の歴史を解明して分かりました。

日本の天皇家の皇祖神は記紀神話が伝える天御中主です。新唐書・宋史にあるように「日本は古の倭の奴国」です。王年代紀が奴国王と天皇の系譜ですよ。

天御中主が弥生中期初頭(紀元前4世紀初頭)に福岡市早良平野の吉武・高木遺跡に降り立った最初の王です。天は海を、中は奴と同じナーガ=龍蛇神を意味し、揚子江河口のナーガを信奉する海洋民族倭人の王という意味の名前です。那珂や那賀、長柄、中山などの地名は倭人が開発した場所の地名ですよ(^_-)-☆

二世紀初頭の第18代奴国王スサノヲの時に宮中楽師帥升(伊都国を王都とした師升)らのクーデターにより、奴国王族の一部が出雲などの日本海沿岸に逃亡し、吉備を平定して纏向遺跡でヤマト王権を作ったのが日本の起源です。

その過程で、吉備を平定したニギハヤヒ(スサノヲの弟)がスサノヲの子孫の大国主を殺して纏向遺跡でヤマトを建国したのですが、大国主の祟りによって、大国主の子を呼び寄せて、3世紀末に記紀で第15代とされた応神天皇としたのが初代天皇です。現代まで、スサノヲとニギハヤヒの両親伊弉諾尊(第17代奴国王)・伊弉冉命(縄文海人ムナカタ族)の子孫が天皇となって続いています。

なぜ正しくこのことが伝わらなかったのかですが、99%の日本人は現存する最古の歴史書が古事記で、最古の正史が日本書紀で、天皇の歴史書だと思い込まされているからです。日本書紀は天武天皇が編纂を命じたものですが、崩御して34年も後に完成しています。というか、すでに帝紀・旧事が完成していたのですが、これらを作り替えた奴がいたのです。時の権力者の藤原不比等です。

ヤマト建国で活躍した豪族らの史実が不都合だったので、神話を創作して、中臣・藤原氏の祖神に活躍させ、その後の建国の歴史も都合の好いものに書き換えたのです。でも、完全に違うものにはできませんから史実に基づいて歴史を改ざんしたということなのです。

古事記は前回の拙ブログに書きましたが、日本書紀のウソを暴露するのが目的で9世紀の宮廷で日本書紀を講義した多人長が創作したものです。考古学や民俗学の成果を用いて科学的に検証して推論しましたので、詳しくは拙ブログ「古事記の誤解」をご参照ください。お邪魔しました( ^)o(^ )



表題ですが、ほかに訳しようがないので皇帝(エンペラー)とされていますが、適切ではないと思います。応神天皇は即位当初は権力があったわけではなく、有力豪族らの力のバランスで生まれた存在でしたが、その後は「謎の世紀と倭の五王」で推理したように王権が集中された時期がありました。
六世紀末に藤原氏が台頭すると藤原氏の都合の好いように律令制によって一応合議制で政治を行うのが建前になり、王権が天皇に集中することは無くなり、主に権威の存在となりましたので、現代まで続いているのだと考えられます。そういう意味では、不比等は良いこともしたのかも知れませんね( ^)o(^ )

この動画でもありましたが天皇の一番大きな仕事は宮中祭祀です。皇祖神と霊的に一体となって国民の安寧と国家の安泰を祈り続ける「大神主」か「大国主大神の子孫」というのが意味的に正しいと思います。憲法で定められた国事行為や公的業務は皇太子殿下をはじめとするご皇族も代理で行うことができますが、宮中祭祀の中には天皇陛下しかできない儀式があるようです。

女性天皇は日本書紀の創作なのですが、天皇の国事行為などを女性にさせたとしたら称制と呼ぶべきで、歴史上その役割から考えて女性天皇は存在しないと考えています。京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺では天智天皇から飛んで孫の光仁天皇の後の歴代天皇を祀っており、仏事には歴代天皇の肖像画を掲げていたとされていますが、江戸時代の二人の女性天皇の肖像画は明治以降に創られたものだと知られています。明治までは女性天皇は祀られていませんから分かります。不比等の呪いに騙されて国民が女性天皇を待望すると、将来は日本は消滅しますよ(*´Д`)


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