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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

空白の世紀と倭の五王の謎?(その1)

2022-11-30 22:44:37 | 古代史
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すいません。やっぱり計算ミスしていました(;´Д`)仁徳天皇の崩御年を間違って378年としてしまいましたが、正しくは377年でした。図も修正して、本文に対応する記述を赤の番号①~⑧を追加し、本文中に追加しました。よろしければご参照ください(#^.^#)

三世紀後半から四世紀末までシナの歴史書から倭国の記述が消え、空白の世紀と呼ばれています。東アジアと倭国がどういう時代だったかは、半島北部を支配していた高句麗の好太王碑やその後の倭の五王といわれるヤマトの大王の朝貢に関するシナの史書の記録などを頼りに考えるのですが、応神・仁徳天皇の時代なのですが、本当はどうだったのか、ほとんど分かっていません。日本書紀の倭の五王に対応すると考えられる天皇は下図のとおり存在するのですが、例によって日本書紀にも古事記にも、その時代の天皇がシナの王朝へ朝貢した記載が全くないので、倭の五王のことも実際のところ、よくわかっていないのです。

今まで見たように日本書紀には本当の歴史が隠ぺいされていることが分かってきました。どんな史実を隠したのか、そういう視点でこの時代を解明したいと思います。今回はすでに解明したヤマト建国の過程の延長としてこの時代を考えていきます。かなり強引な説になるかも知れませんが、何せ現状では全くと言っていいほど分かっていませんので、わずかな手掛かりを見逃さず、リーゾナブルな説明ができるということをご理解していただければいいと思います。ちょっと長くなったので分割しますが、最後までお付き合いください(#^.^#)



まず日本書紀の内容を具体的に見ていきましょう。次の表は小沢一雅「古事記崩年干支についての疑念」(2009年)表1から一部引用した該当する時代の古事記・日本書紀の天皇崩御の年の一覧表です。古事記・日本書紀に記載される享年を赤字で追加しました。これを見ると反正から飛んで、安康・雄略が記載されていません。古事記はすべて記載されています。日本書紀は応神・仁徳の享年があり得ない年齢です。しかし、古事記でも応神・雄略はもっとすごい話になっていますから、とても信ぴょう性がないように見えます。



すでに見たとおり、日本書紀は藤原不比等が不都合な史実を隠ぺいし、歴史を改ざんするのが目的で編纂したのですから、このようなあり得ない年齢にしているのは、何かを隠した証拠だと思います。すでに、「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」で見たように、天武天皇の崩御後の真相は、長男の高市皇子が天皇に即位していると推理しましたので、日本書紀ではそれを否定するために母の宗形氏は身分が低いので即位できないとしました。

ところが応神天皇の皇太子菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)の母は和邇氏で、「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?」で述べたとおり、宗像の神々を祀る氏族で、国生みの女神イザナミもムナカタ一族だったのですから、高市皇子の即位を隠し持統天皇を即位させた日本書紀の嘘がバレたのです。

編纂当時の人も皇后が天皇に即位するなど前代未聞のあり得ない話と知っていますから、前例として敏達天皇の皇后を推古天皇として即位させる話や、皇極(斉明)という女性天皇を創作し、さらに神代では高天原の支配者としてアマテラス女神を創作し、孫の文武天皇の即位の正統性のために天孫降臨神話も創作したのです。ということで、応神天皇崩御後に母方がムナカタ海人族和邇氏の血を引く菟道稚郎子が播磨国風土記に見られる宇治天皇として即位していたと考えられます。

古事記は基本的に日本書紀の記述に沿いながらも、所々で日本書紀の内容と違えています。日本神話では日本書紀にない大国主神話を挿入していますので、神代の主役のひとりであることをアピールしています。つまり、神話の大国主はヤマト建国の主役の実在人物ですので、古事記は史実を示唆しようと努力しているのです。

古事記はすでに「王年代紀は記紀神話を正した!」に述べたように古事記序文を書いた多人長(おおのひとなが)の家系と秦氏は深い親交があり、史実の伝承を共有していたと推理できます。ですから、古事記は何とかして歴史の真相を伝えるために多人長が書いたと考えられますから、享年があり得ない二人の天皇は、実は60年で一巡する干支をわざと一運増やしていると考えると、応神天皇は70歳、雄略天皇は64歳と読め、古事記に記載されたすべての天皇の享年は妥当な年齢となります。

なぜこのようなまどろっこしいことをしなければならないかは明らかです。もしも藤原氏が隠した史実を暴露する目的を藤原氏に悟られたら、酷い仕返しがあるからでしょう。先代旧事本紀や万葉集や懐風藻など当時の文献はすべて、藤原氏に悟られないように婉曲に暴露する努力が行われています(関裕二「古代史 不都合な真実」じっぴコンパクト新書2018に詳しい)。したがって、ここでは修正した古事記の享年に基づいて推理したいと思います。

応神天皇は、上述のとおり古事記の甲午年394年から60年引いて334年に70歳で崩御したと考えると、265年生まれとなります。母は北陸や近江を根拠地としていたムナカタ海人族の姫巫女台与です。父はムナカタ海人族を束ねる王久々遅彦で、記紀神話で大国主命とされた人物です。応神天皇の生まれ年がぎりぎり倭の女王が朝貢した記録にある266年の前年です。247年に13歳の台与が女王に立ったとして265年は18年後ですから31歳の子ですので妥当です。

これまでは、応神天皇は台与が女王に立ち、その数年後に大国主が妃にして生まれた最初の子と考えていましたが、こうであれば、応神天皇の前には兄や姉たちが沢山居たはずです。記紀で景行天皇とされた尾張王建稲種命が父の仇討ちで大国主や台与や赤坂比古を討ちますから、その時に生き延びた二人の間の子供たちもいたと思います。また、大国主は神話の記述から数多くの妃がいたと想像されますから、大国主の子孫が後世、日本書紀で大国主久々遅彦を隠すために創られた、五代の天皇に仕えた三百歳を超える白髪・白髭の老人武内宿禰を祖とするとした紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏・波多氏などの有力な古代豪族としてヤマト王権を支えたと考えています。しきりに建国の史実を伝えようとする秦氏はこの波多氏だと考えています。

応神天皇崩御が即位41年とありますので、これを信じると即位の年が293年となります。応神天皇の即位は日本書紀では、三輪山の大物主(大国主)の祟りにより崇神天皇が大物主の子大田田根子を探し出して祀らせた話です。実際は280年に呉が西晋に滅ぼされて、呉の人々は同郷の倭人を頼って列島に流れて来たと推理しています。大陸で一面も出土していない三角縁神獣鏡はこの時の呉の職人が作ったものと推理しています。狗奴国(ヤマト)の人々は、西晋の朝貢国だった倭国を滅ぼして建国したので、次は狗奴国が討たれると心配して、倭国女王の子を呼び寄せてヤマトの大王としたと推理しています。ですから、纏向遺跡にあった狗奴国をヤマト(卑弥呼や台与の邪馬台国)と呼ぶことにしたということです。

大国主らの倭国を滅ぼした人物は、崇神天皇とされた狗奴国大王卑弥弓呼と同じ、吉備で奴国を再興してヤマト政権の基礎を築いた第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫の尾張王建稲種命と推理しました(注1)。倭国や列島各地の残党を討ってヤマト建国の英雄として凱旋した一族ですが(熱田神宮の祭神建稲種命は、ヤマトタケルの副将軍として東征に従軍し、他の神社伝承では帰路に水死したとされている。)、上の話から分かるように大国主らを殺したことが引け目・負い目になったようです。それでも、記紀では景行天皇とされて隠された建稲種命の子孫とされる仲姫命(なかつひめのみこと)を即位2年294年に応神天皇の皇后とされました(建稲種命の子かも知れません)。そこで、翌年295年に大鷦鷯尊(おほさざきのみこと、仁徳天皇)を生んだと推理しました。

また、応神天皇即位6年298年には和邇氏の日触使主(ひふれのおみ、卑弥呼の弟赤坂比古)の子宮主宅媛(みやぬしやかひめ)を妃としています(注2)。大鷦鷯尊と同様に、その翌年299年に菟道稚郎子が生まれたとしました。大鷦鷯尊よりも4歳年下なのですが、応神天皇は恐らく大国主サイドの強い要請があったために優秀な人物だったこともあり、皇太子にしたと日本書紀にあります。

応神天皇は仲姫命の姉妹高城入姫と弟姫も妃にしています。狗奴国王の物部氏の祖の一族や尾張王の勢力が跡継ぎを生んでもらうために送り込んだと考えられます。高城入姫から額田大中彦皇子と大山守皇子が生まれています。

wiki「菟道稚郎子」によれば「翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に遭って殺された。」とあり、「この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという。」という話ですが、美談とされています。しかし、こんな現実離れした話は、日本書紀の正体がバレていますので、デタラメだとすぐに気づきます。

そうすると真相はどうだったかですが、菟道稚郎子は応神天皇の崩御334年の二年後の壬申年に自殺したと日本書紀にあります。その年に埋葬されたとか散骨されたという伝承まであります。しかし、その336年は丙申年で、近い壬申年は312年と372年となりますから、矛盾します。編纂者がすでによく知られていた菟道稚郎子の本当の没年を間違って書き残したとすれば、宇治天皇として崩御した年と考えられます。

そうなると、応神天皇崩御の334年に即位した宇治天皇(菟道稚郎子)が崩御した年を後の壬申年372年と考え、仁徳天皇は、翌年まで待つ必要はないのでその年に直ぐに即位したと考えられます。宇治天皇が別の人物を皇太子としていれば争いはあったかもしれませんし、宇治天皇が仁徳天皇を次の天皇にと考えていたのかは全く分かりませんが、妹の八田皇女を大鷦鷯尊の後宮に納れるよう遺言したと日本書紀にありますので、本当は宇治天皇が在位中に大鷦鷯尊に嫁がせたと推理できます(2022.12.4 青字追加)

しかし、仁徳天皇の崩御年は古事記によると丁卯年427年で享年83歳とありますから、これですと、345年に生まれたことになり、父である応神天皇が崩御して11年もあとに生まれたことになり、矛盾します。一運戻して367年に崩御したとすると、285年に生まれた計算になります。そうすると母の仲姫命が皇后になる応神天皇二年294年よりも9年も前に生まれたことになり、これも矛盾します。

ですから古事記の崩年干支は使えないということになり、困りました。一晩悩みましたが、翌朝になって結論が出ました(^_-)-☆

古事記は仁徳天皇の崩御の年をわざと真実と異なる丁卯年にして、この時代は宇治天皇を隠していることを示唆しようとしたと推理しました。

それでは本当の仁徳天皇の崩御年はいつかですが、それは母が皇后になった翌年に生まれ、83歳で崩御したのではないかと推理しました。つまり大鷦鷯尊は295年に生まれ、83歳つまり82年後377年に仁徳天皇が崩御したということです(2022.12.4 赤字訂正)

なぜ、丁卯年に仁徳天皇が崩御したと嘘を書いたのかですが、宇治天皇の事績と関係があると思います。丁卯年427年の一運戻して367年に宇治天皇が何かをした記念の年なのかもしれません。宇治天皇に関して何か証拠が出てくればいいのですが、現状では、日本書紀の編纂者が歴史改ざんに疲れて、本当の宇治天皇崩御の壬申年をそのまま残してしまったという仮説を考えるしかないようです(#^.^#)

下に図を載せたので、確認してみてください。わたしも疲れましたが、皆さんも少し疲れてきたと思いますので、続きは次回にします。またよろしくお願いしますね( ^)o(^ )



(注1)卑弥呼が247年に暗殺され、その直後に狗奴国(旧奴国)による倭国追討軍が到着しました。卑弥呼が死んだことを知った弟赤坂比古は先代の父が狗奴国を裏切って倭国に加わっていたので、狗奴国への戦意が喪失して恭順したと推理しました。そこで、倭国王は勝ち目がないとみて半島に逃亡したので、追討軍の大将だった尾張王乎止与命(おとよのみこと)が狗奴国を裏切り、倭王に立ったのです。それを不服としたムナカタ海人族の王久々遅彦が尾張王と戦うことになり、赤坂比古が味方して尾張王を殺したと推理しました。赤坂比古が和邇氏の祖で、卑弥呼が日食のために暗殺されたことを示唆する名前の日触使主(ひふれのおみ)と不比等が名付けたと推理しています。



内乱の勝者久々遅彦が13歳の台与を女王に立て、魏を後ろ盾にして纏向遺跡に王宮を構えていた狗奴国(旧奴国)王卑弥弓呼と対立しました。大国主久々遅彦が台与を妃としていますが、265年に魏から帝位を禅譲された西晋に、翌年朝貢したという記録があります。それ以降の倭の五王の最初の讃王が東晋に朝貢した413年までの約150年間の記録が空白ということです。それでも、考古学や民俗学などの成果から、尾張王を継いだ建稲種命が大国主と赤坂比古と台与まで討ち取って日本建国した、その真相を前回の記事に述べた内容などから推理したのです。

(注2)ヤマト政権は天照大神尊ニギハヤヒ大王を祖とする物部氏の祖である狗奴国王や尾張王が実権を持っていましたが、この頃には応神天皇側の発言力が出てきたのだと考えられます。ですから、権力は応神天皇を支える大国主を祖とする豪族や台与の実家を祖とする息長氏と卑弥呼を祖とする和邇氏などの豪族との権力争いを繰り広げたという構図が見えてきます。


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆

2022-11-23 12:25:37 | 古代史
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一般に余り知られていない古代豪族和邇氏について、すばらしい動画を見つけましたので以下のようなコメントしました。まず動画をご覧になることをお勧めします。日本建国でとても重要な役割を果たした和邇氏の祖先が日本書紀で隠されてしまいましたが、微かな痕跡をつなぎ合わせてその正体を発見できました。これによって邪馬台国問題もヤマト建国の問題もほとんど解決できたと思います。かなり込み入ったディープな話ですので、眉に唾つけながらで結構ですので、納得されるまでお付き合いください。疑問点をぜひお教えください。よろしくお願いいたします(^_-)-☆



【氏族深掘】「 和邇氏」黎明編

【歴史解説】 2022/11/19 結城屋@YouTube


有難うございます。とてもいい解説です。和邇氏はヤマト王権成立の過程を調べていてその正体が分かりました。ヒントは東大寺山古墳群付近にある和邇坐赤坂比古神社の御祭神二柱が宗像氏が祀る神々だったことで確信できました。つまり主祭神がアタカタスノミコトとイチキシマヒメだったのです。前者が宋史王年代紀第17代王伊弉諾尊の妃となったイザナミの父だと推理しました。つまり和邇氏はムナカタの一族で玄界灘を主な活動域とした縄文系の海人族だったのです。

この後にイチキシマヒメが卑弥呼だったという話まで行こうと思ったのですが、そこに至るまでにちょっと説明が長くなり過ぎたので、拙ブログにて記事にしました。よろしければ、お越しいただき、疑問点などをコメントしてくださるとありがたいです。


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イザナギは初代天御中主の子孫の奴国王であり、江南出身の倭人アズミ族らの王だったのです。天は海、中は奴(nag)と同じナーガ=龍蛇神を表しますから、ナーガを信奉する倭人の王という意味です。地名で那珂、那賀、長柄などもナーガを信奉する倭人アズミ族が開発した土地だと分かります。天御中主は記紀神話でも最初に高天原に現れた神とされていますが、実は紀元前473年に越によって滅ぼされた呉の王族だったのです。倭人の手助けで半島南部に逃亡し、暮らしていましたが、恐らく寒冷化の影響で福岡市早良平野の吉武・高木遺跡に移り住みました。

日本最初の王墓がここで見つかっています。第二代王天村雲尊、第三代王天八重雲尊までの王妃や王族の墓が見つかっています。天村雲尊の墓には三種の神器(剣・鏡・玉)が副葬されています。スサノヲがオロチ退治で手に入れたとされる天叢雲剣は二代王に因むもので、後に神話で女神アマテラスから孫のニニギノミコトに渡され、さらに日本武尊の草薙剣と名前が変わったあります(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

しかし、高天原は福岡平野から筑紫平野にかけて奴国王が支配した倭国のことだったのです。それは日本書紀の仲哀天皇紀に博多を儺県(なのあがた)としたことから判明しました。

wiki「追儺」によれば「大晦日(旧暦12月30日)に疫鬼や疫神を払う儀式」とありますが、「儺(な)」は、「鬼やらひ」「神やらひ」という意味なのです。高天原を追放された乱暴者の神スサノヲの事件を示唆しています(注1)。

そうすると57年に後漢光武帝より金印を賜った奴国王が倭国を支配する王だったのですが、107年には倭国王帥升(范曄後漢書の原本では倭の回土=ウィト国王師升とあったとされています)が朝貢していますので、倭国に何らかの政変があったことを示唆しています(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。師姓は古代中国の宮廷楽師の官位だということも知られていますので、奴国の聖職者らが反乱を起こしたと推理できます。つまり、倭国王に認められるために160人もの生口(戦争奴隷)を献上したのです。志賀島で発見された国宝金印は奴国王の配下のアズミ族のひとりがそのクーデターから逃げる途中で隠したもので、師升らが王を拷問しても金印が手に入らなかったので師升らが朝貢したと推理できます。殺されたのは第18代奴国王素戔嗚尊(スサノヲノミコト)です。

ですから最も重要なことはこの史実を日本書紀の編纂者は知っていながら、高天原神話を作ったという証拠なのです。何のために?

実は現存する最古の正史は天武天皇が編纂を命じたものですが、完成は崩御から34年後なのです。完成させたのは時の権力者藤原不比等です。不比等は二世紀末から三世紀の日本建国時代に活躍した豪族たちの史実が不都合だったので、神話を創作して史実を隠し、建国後の歴史も不比等や父鎌足らの悪行を隠ぺいするために創作したので、日本書紀は藤原氏のための偽の歴史書だったのです。後で述べますが、不比等は各地で豪族が祀っている氏神の神社などに行って、祭神名や神社名を強権で変更させたと分かります。後に不比等の子孫たちは徹底的にやっていますので、現在の神社伝承の多くは創作された日本書紀神話に合うようなものに変えられているのです。

しかし、その中には神話と矛盾する伝承が密かに残されていたものもありました。歴史を抹殺された氏族が真相を残すためである可能性がありますが、政権に遠慮して、すぐわからないようにするために、かなり婉曲なものにしています。たとえば、住吉大社には「仲哀天皇のモガリで神功皇后と住吉大神に夫婦の密事があった」とか、宗像大社には「ムナカタの子がスミヨシ、その子がウサ」というものが残されています。住吉大神は父伊弉諾尊から海を支配するように命じられたスサノヲですからその母伊奘冉尊がムナカタ海人族であり、その子孫が宇佐八幡大神応神天皇だということです。応神天皇は仲哀天皇の子供ではなく、本当の父は神功皇后の傍らにいて常に助けた三百歳の白髪・白髭の老人武内宿禰で、スサノヲの子孫の大国主(久々遅彦)だよと暴露する内容なのです。仲哀天皇は、日本書紀の記事から、その父日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になりますから、この人物が創作だと直ぐに分かりますので、記紀に矛盾する伝承の方が正しいと分かるのです。

そして、その証拠は考古学などの成果から得られました。三世紀後半(弥生終末期から古墳時代初頭)の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、日本書紀の崇神天皇から応神天皇即位までの約350年の事績が日本建国の戦いの史実を基にして、時代を引き延ばして創作されたことを見つけました(詳細は拙ブログ「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。

話を戻してイチキシマヒメですが、厳島神社の主祭神です。神話では宗像三女神の一柱とされていますが、三女神の主祭神ですから宇佐神宮の比売大神のことなのです。葦原中つ国の宇佐嶋に三女神として降臨されて、水沼氏が奉斎していると日本書紀の一書に書かれていますが、宇佐市安心院町三柱山の三女神社が降臨地ということなのです。

ここには不思議な伝承が沢山ありますが、三女神社の二の鳥居の神額に「二女神社」とあり、神話の秘密を暴露しているのです(拙ブログのPC版のバーナー参照)。地元では三女神社を「さんみょうじんじゃ」と読んでいます。「三は妙だ。女は少ない!」という謎かけだったのです。つまり三女神は比売大神であるイチキシマヒメのことを隠すためのフェイクなのです。なぜ隠す必要があったのかが謎です。

四世紀から七世紀くらいまで沖ノ島祭祀が行われ、六世紀ころまではヤマト王権が直接祀っていたようで、王権の中枢部にいた和邇氏が中心だったと分かります。

沖ノ島で女神を祀っていた謎ときのヒントは二世紀後半の倭国大乱です。これも、鉄鏃・銅鏃の出土状況から倭国大乱の実態が分かりました。つまり、クーデターを逃れた奴国王族が沖ノ島経由で半島南部の鉄を入手して、大分県大野川流域から阿蘇山麓まで武器製造の鍛冶集落をつくり、熊本県菊池川上流域に前線基地(方保田東原遺跡・うてな遺跡)を作り、倭国の領域である佐賀平野から筑紫平野などを襲った模様が見て取れます。また、倭国側が前線基地を襲った痕跡も見つかりました。これによって、卑弥呼が登場することも推理しました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

倭国は、半島が混乱していた二世紀後半は楽浪郡と交易できずに衰退していたので、その間も半島南部の鉄をムナカタ海人族(和邇氏の祖)を使って仕入れて隆盛になっていた旧奴国(狗奴国)の官狗古智卑狗に一方的に攻撃されていたのです。ところが、公孫氏が半島の混乱を収めて204年に帯方郡を設置したので、倭国は息を吹き返し、上の前線基地を急襲して狗古智卑狗を殺したと推理しました。大活躍していた王を失った和邇氏の祖赤坂比古が難升米に懐柔され、その娘イチキシマヒメを姫巫女(卑弥呼)として太陽神のお告げにより政治を行うことで、狗奴国を裏切って倭国側についたと推理しました。狗古智卑狗の墓は山鹿市茶臼塚古墳であることも分かりました(詳細は拙ブログ「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)・(その2)(その3)狗古智卑狗の霊ライン?」参照)。

そして三百年かけても分からなかった邪馬台国問題も分かりました。上で述べたとおり、魏に朝貢するために景初三年六月帯方郡に出かけた大夫難升米こそ、本当の倭国王だったのです。魏志倭人伝でも倭国が乱れる前の7・80年は男王が支配していたとありますが、難升米という名前から師升の子孫だと判明しました。当時はニンベンを省略するのが流行だったようで、国宝金印の印面からだけでなく、師升王が作ったと考えられる日本最初の金石文「室見川銘板」にも二か所も例が見られたことからも分かります(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ」参照)。

難升米が魏の有力者司馬懿の部下の帯方郡太守と談合して、ライバルの孫呉をその東方海上から挟み撃ちにして圧迫する位置に倭国王の王宮があるとするために、姫巫女卑弥呼を女王とし、帯方郡より万二千余里という過大な里数を政治的な意図で書いたのです。魏志倭人伝の邪馬台国への行程の記事も、西晋の基礎を作った宣帝司馬懿の功績を実際以上に大きく見せるためのトリックだったのです(「景初三年問題が謎を解く鍵でした!」参照)。

卑弥呼は倭国大乱期に海に面して物騒な不弥国(うみこく、宗像市田熊遺跡が中心集落と推定)から野麻国(やまこく、宇佐市安心院町宮ノ原遺跡)に要害堅固な城を構えて、そこに疎開していたのです。三女神降臨地の葦原中つ国は葦が群生するナーガの国という意味ですから、この場所を意味していました。安心院という地名の意味は卑弥呼(院)が安全な国に疎開して安心できたという史実を表すもので、「アジム」という読みは、葦生(あじぶ)からという説もありますが、元々アズミ族が拓いたことから付けられたものでしょう(詳細は拙ブログ「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」などを参照)。


(「投馬国へ水行してみませんか?」参照)

日本書紀応神天皇紀に百済の王仁(わに)が漢字を日本に伝えたというフェイク記事があるので、多くの日本人は弥生時代には倭人は漢字を読み書きできないと誤魔化されていました(注2)。しかし弥生時代後期にはすでに文字が使われていた証拠である木製組机が福岡市雀居遺跡で丸ごと出土していましたし、最近では硯の欠片も北部九州などで多数出土していたと分かりました。弥生後期にはすでに漢字が一部使われており、師升が延光四年(125年)に王宮を造って祭祀を整えたことを記念して室見川銘板を作っていたことも分かりました。室見川銘板は奴国滅亡を裏付ける重大な証拠だったのです。

ですから倭国王難升米は漢字を読み書きし、直接シナ人と交渉できる教養人で帯方郡太守と直接談合したということが、回土(ウィト)国を伊都国と書き改めて魏に教えたことから分かります。これは儒教の古典「孟子」に記された殷(商)王朝初期の有名な政治家伊尹(いいん)に因む、好い国名ですが、伊尹は放蕩者の主君を追放したことで評価が議論される人物なのです。難升米の祖先師升=儺升王の事績と重なるものです。倭国の秘密であるべき乗っ取りの史実を知っていて伊都国と書ける魏の役人はいないはずです。難升米が書いて教えたものなのです(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。

下図に日本建国に関わる実在人物の系譜を示していますが、卑弥呼が宇佐神宮八幡比売神として朝廷より皇族に与えられる品位(ほんい)という高い神階が贈られています。これは卑弥呼の父先代赤坂比古に嫁いだ卑弥呼の母の父が大国主の祖父で、国引き神話の八束水臣津野命(やつかみずおみつぬ)だったからと推理しました。なので卑弥呼は大国主とは従妹になります。このことが卑弥呼の墓の遥拝所の摂社に八束神社があったことから分かりました(詳細は「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。

また、卑弥呼の弟で和邇氏の祖とされる赤坂比古が、卑弥呼が247年3月24日の日没前の日食のために難升米によって殺害されたことを示唆する日触使主とされた人物であることも分かりました。持統天皇5年(691年)、藤原不比等が直接近江八幡市の現日牟礼八幡神社に行って日群社(ひむれのもり)と社名を変更させ、祭神名も変更したと推理しています。元々の社名も祭神名もおそらく日蝕を示唆する名前だったと分かります。(詳細は「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」「愛宕権現の正体は赤坂比古か?」参照)。





(注1)貞観五年(863年)に疫病の流行が起こったので、疫神や怨霊の祟りということで、京都市中京区東寺神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)が行われました。その翌年には富士山大噴火が起こり、スサノヲの本地仏として牛頭天王を祀る祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)が祇園社(現在の八坂神社)で行われ、現在まで祇園祭の山鉾巡業として残っています。その後も地震や津波などが多発し多くの犠牲者が出ました。スサノヲは蘇民将来(そみんしょうらい)の説話で疫鬼の総元締めとして祀られています。神話に登場するスサノヲは高天原を追放されたとはいえ、その後出雲に降り立ち、ヤマタノオロチを退治してクシナダヒメを娶っているので疫病神ではなくなって人格がガラッと変わっていますので祟るはずありません。実はすでにスサノヲ大王は殺されているので、オロチ退治は史実ではないので、当時の人々の観念上の話です。ですから、スサノヲは非業の死を遂げた最後の奴国王と分かっていたというのが先に述べた王年代紀の存在で分かるのです(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」参照)。つまり最後の奴国王スサノヲの子孫大国主久々遅彦がヤマト王権によって殺されたという史実も伝承として持っていた秦氏や弘法大師空海の弟子などが、日本に祟りをなす怨霊神の元締めとしてスサノヲを祀ったのだと推理しています。


(茅の輪くぐり神事 三つの輪 – 宮地嶽神社 より)

(注2)王仁の名前も名古屋市名東区猪高町和爾良神社の伝承の和邇氏から取った名前だと分かります。詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その1)」を参照してください。四世紀以降に尾張を和邇氏が支配した模様です。正式の読みは「ワニラ」神社ですが、地元では尾張王は父の仇討ちで和邇氏の祖赤坂比古を殺したので、尾張は悪くないという意味で「カニラ」神社と読んでいるのだとと分かります。ちなみにカニは尾張の代名詞ですよ(「抹殺された尾張氏の謎(その3)」「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」参照 )


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初めての方は「【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆」に基本的な考え方を説明していますので、是非ご参照ください!
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魔神の逆襲か?W!(*´Д`)

2022-11-22 18:06:39 | 古代史
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前回記事にした動画に再度反論コメントが来ましたので、おつきあいください(#^.^#)

【最新DNA解析】日本人は一体どこから来たのか?「古代日本人」のルーツとは!?【ゆっくり解説】

魔神NAO
@刮目天
ところでライダイハンは
ベトナムに謝るべきですよね?
ハントー人は恥ずかしい事してますよね?


日本人は
ハントー人みたいに
目が細くないし
<中略>
顔は全く似てないよ?
ハントー人は日本人に憧れてるなか?


ハントー人はワイ族えべんきだよ。
モンゴルから来た。

日本人は
東南アジア系
ハントー人はモンゴルだよ。
全く違います。


刮目天
​ @魔神NAO さん ちょっとわたしの言葉が足らなかったようですが、半島も日本も古くからいろいろなルーツの人々が集まって民族を形成していますよ。

 濊人は三国志東夷伝に記述がありますが、エベンキ族とは違う縄文人に近い人々のようです。エベンキ族はシベリアから満州(中国東北地方)にいたツングース系の人々で、モンゴル民族の多数を占める北方アジア人の仲間ということだと思います。目の細いという特徴を持っていますね。

 彼らが半島へ流入してきた歴史について概略を述べます。

 5世紀から7世紀まで半島北部を支配した同じツングース系扶余族から分かれた高句麗に支配されますが、紀元前3世紀に大陸から移ってきたシナ人の新羅に滅ぼされ、倭国が支援した百済も唐と連合して滅ぼし半島を統一します。

 12世紀に同じツングース系の女真族が沿海州から中国大陸の中原まで支配する金王朝を作りますが、半島は新羅が衰退し、10世紀に多分シナ人の王建により建国された高麗が半島を支配します。その後13世紀にモンゴル民族の侵攻があり、その時モンゴル民族が沢山半島にやって来たので、現代の朝鮮民族が形成されたのだと思います。



 朝鮮民族の男性のルーツを調べると、圧倒的にシナ人が多く約40%ですが、紀元前11世紀の箕子朝鮮の人々が1/3で次に、モンゴル民族の約52%・満州民族で約27%占める北方アジア人系が9.3%になっています。その中にエベンキ族もいるのかも知れませんね。半島の歴史を考えるとそんな感じですから、一つのルーツで決めつけるのは間違いだと分かります。

 それから、ライダイハン問題は全く別の話です。これはベトナム戦争時代の韓国軍の人道犯罪ですから、ここで詳しく言及しません。しかし、現在日本に対して、戦前の日本が従軍慰安婦の強制連行をしたり、徴用工の強制労働を行ったという全くデタラメな話を半島の人々は信じており、ベトナム戦争時の人道犯罪を隠ぺいするために日本を強請っているという側面があります。

 なぜ日本に対して反日感情を持つかについてもいろいろと議論がありますが、戦後の日本政府がこれらの言いがかりを完全否定しなかった経緯が大きいと思います。

 それは、戦後の日本の中枢を握った人々が、自分たちの戦争責任をすべて、日本のために戦った軍部に押し付けて、日本国民を洗脳したからです。ですから、自分たちが犯した犯罪行為を隠ぺいするために戦前の日本を叩く反日教育を日本国民に行っているのです。日本の周辺の国はその嘘を逆手にとって周辺国が反日プロパガンダをやっているのです。その歴史捏造プロパガンダを支えているのは日本の支配層なのですから、日本国民は反省して、正しい日本精神を取り戻さないと、このままでは消滅しますよ。詳しくは拙ブログ「最大の反日国家は日本だった?」「陰謀論という陰謀!」を参照してください。


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ヤマトタケルの正体は誰?(^_-)-☆

2022-11-19 11:17:54 | 古代史
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2022-01-28 17:15:30にこの記事を掲載しましたが、その後ヤマトタケルの正体が判明していますので、末尾にそれに関する内容を追加しました。お付き合いください(#^.^#)

井上章一「なぜ9世紀初頭の伊勢神宮はヤマトタケル伝説を黙殺したのか? その記述の変遷から見えたもの」1/26(水) 12:01配信 婦人公論.jpといういい記事を見つけました。
 かいつまんで言うと、延暦二十三年(804年)に伊勢神宮が神祇官に提出した伊勢内外宮の儀式帳の中にヤマトタケルの記事がないので、記紀のヤマトタケルの話は創作だと分かるという内容です。現在は内宮で女神アマテラスを皇祖神として祀るとされる伊勢神宮には、三世紀の日本建国時代にヤマト王権との繫がりを示す考古学上の遺物がなく、伊勢湾西岸地域では六世紀以降にようやくヤマト王権の支配が及ぶようになるようです(山中章「考古学からみた古代王権の伊勢神宮奉祭試論」参照)。ですから、伊勢神宮内宮の創建が、 垂仁天皇二十六年という話も創作だと分かりますし、ヤマトタケルが東征にあたり立ち寄った伊勢神宮の斎宮の起源とされる、叔母のヤマトヒメの話も創作だと分かります。だいたい皇祖神を宮中から追い出す話など、とても考えられない話ですからね。卑弥呼がヤマトヒメだという説もありますし、卑弥呼が天照大御神だという説なども学説になっているようですが、共に実在人物ではないですから、学説として扱うなど噴飯ものですよね(【日本人必見】女神アマテラスは血塗られた皇祖神!」参照)。

いずれにしても井上章一氏の記事に目を通して頂くと、最初(2020-08-11 18:16:48)に掲載した本記事の内容がご理解しやすくなるかもしれません。どうぞ、お付き合いください(*^▽^*)

神功皇后のご実家 坂田郡 伊吹山麓
2020-08-10 【九里】を探して三千里

kunorikunori様
いつもいいヒントを頂き、大変有難うございます。
早速、伊吹山の山頂に行って参りました(*^▽^*)
そこで発見したもので、すべての謎が解けたようですよ(@_@)。

まずは、高島市の長田神社ですが、ご祭神が事代主!ご存知のとおり大国主の長男で、国譲り神話に登場する神です。高天原の命令で大国主に国を譲るように迫ったタケミカズチは鹿島神宮の祭神で藤原氏の遠祖ですが、大国主は事代主に聞いてくれと言いました。Wiki「事代主」によると海で釣りをしていたようですが、「承知した」と答え、船を踏み傾け、天ノ逆手を打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまったとあります。つまり、呪いの言葉を放ちながら自害したようです。釣りと女性好きのちょっと間抜けで人気者のキャラの事代主ですが、神武天皇の妃媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の父で、七福神の恵比寿様として商売繁盛の神様としても多くの人々から慕われています。

しかし、神武天皇は創作と分かっていますから、事代主もお話の中だけの人物のようです。「記紀神話」の神武天皇は、神功皇后と仲哀天皇から生まれたとする応神天皇の分身だと突き止めています。仲哀天皇も、モデルは尾張王だと推理していますが、日本書紀が創りだした架空の人物です。ですから、応神天皇の本当の父は大国主狗古智卑狗(久々遅彦)ですので、事代主は大国主のことと考えてもいいでしょう。

この長田神社の相殿に、なんとアメノウズメが祀られています。アメノウズメは記紀神話では天の岩戸の話にも登場しますが、邇邇芸命(ににぎ)の天孫降臨の場面に登場するサルタヒコとアメノウズメとはペアの神なのです。ですから、そのサルタヒコは事代主・大国主と同一神だということも分かります。ということは、何のことはない、アメノウズメはサルタヒコ=大国主の妃、女王台与のことだとわかるのです。サルタヒコ・アメノウズメのペアは大国主・台与のペアの分身と考えていいということです(本当は怖い七福神の謎)。

東大阪市の長田神社の祭神も品陀別命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、多紀理毘売命(大国主命と神婚伝承のある宗像女神台与)ですが、摂社の琴平神社には大物主(大国主)が祀られていると思います。

さて、次にkunorikunori様が着目された日撫(ひなで)神社のご祭神は少彦名命、息長宿禰王、應神天皇とあり、息長宿禰王は神功皇后台与の父です。少彦名命ですが、大国主と一緒に国造りした神ですから、娘台与を大国主に嫁がせた息長宿禰王のことではないかと考えています。

そして、日撫をネットで検索すると、ナント・ナント凄いところで見つかりました(*^。^*)

兵庫県豊岡市に日撫(ひなど)という地名があり、その直ぐ横に久々比神社があるじゃないですか!

ご祭神は久々遅命、つまり魏志倭人伝で登場する狗奴国の官狗古智卑狗(久々遅彦)でした。13歳の台与を女王にして、その後娶った大国主のことです。相殿の神が大国主命と多紀理比売命となってますからやっぱり台与のことです。ここでも台与がムナカタ海人族の姫巫女・祝女(はふりめ)だったのだと分かります。

久々比は鵠(くぐい、コウノトリ)ということですが、日本書紀 垂仁紀に口のきけない誉津別(ほむつわけ)皇子がコウノトリを見て声を出したので天皇が喜び、捕まえてくるように指示し、久々比神社まで追いかけ、そこで捕まえたので、その地の産土神を祀ったという話になっています。しかし、例によって後付けの伝承でしょう。元の神社名は恐らく久々遅彦神社ではないかと思います。祭神はスサノヲの子イタケルと同じ木の神で、建前の時に祀る木霊ですから、イタケルの直系の子孫。代々、久々遅彦を襲名したのだと思います。

大国主の先代久々遅彦が、熊本県菊池市に軍事基地を造って度々倭国の筑紫平野を脅かしていたと推理しています。第一次倭国大乱の時期です。204年に公孫氏が半島を平定し、帯方郡を作ったので半島情勢が落ち着き、倭国との交易が再開して、倭国も勢いを取り戻した模様です。倭国王難升米は目障りだった菊池市付近の軍事基地(方保田東原遺跡・うてな遺跡)を攻撃し、先代の久々遅彦が戦死したのではないかと推理しています。

半島南部の鉄素材を沖ノ島経由で旧奴国王族に供給していたムナカタ族が久々遅彦を失い動揺したので、難升米王は、停戦を呼び掛け、ムナカタ族を懐柔したと推理しました。ムナカタの姫巫女卑弥呼が太陽神の神託を倭国王難升米に伝えることにより、政治を行うこととしたと考えています。魏志倭人伝では男弟ということにした、伊都国男王で奴国を滅ぼした師升王の子孫です。

倭国大乱期から、卑弥呼はムナカタ族の根拠地の不弥国(うみこく、宗像大社付近)から、安全な野麻国(やまこく、宇佐市安心院町)へ疎開して、要害堅固な山城に匿われていたので、卑弥呼(院)が安心できたという故事から安心院の地名が生まれたのでしょう。元はアズミ族が開発した土地でしたので、アジムと発音したようです。邪馬台国は野麻国(やまこく)に居る女王(台)のクニを意味しますが、これは239年大夫難升米(伊都国男王)と魏の実力者司馬懿の部下の帯方郡太守劉夏が談合して、魏の朝廷の人々の目を引くように倭国を女王の統治する国としたことに依ると推理しました。ですから、安心院町や周辺に耶馬渓という地名は残っていますが、邪馬台国が野麻国(やまこく)のことと知っているのは当時の教養人だけで(注1)、ほとんどの倭人は邪馬台国と言われてもどこのことなのか分からなかったと思います(*^^)v。

話をもとに戻して、kunorikunori様が指摘された「大阪長田神社 ー 日牟禮八幡宮 ― 日撫神社 ― 伊吹山 が直線だった。」ですが、本当に一本の線で繋がります(^_-)-☆

最初に申し上げたヤマトタケルの正体ですが、伊吹山の山頂で祀られている弥勒菩薩、つまり大国主久々遅彦の本地仏を発見しました。山頂にはヤマトタケル像が有名ですが、弥勒菩薩の祠が何と二か所もありました(*^▽^*)



ヤマトタケルの話と大国主の話は全然違うものですが、ヤマトタケルは記紀神話の登場人物でしかなく、大国主久々遅彦こそ日本建国で活躍した実在人物でした。日本神話のスーパースターのヤマトタケル(日本武尊)を何故登場させたのかですが、本当の建国の主役を隠す目的だと思われます。古事記の方はそうはさせじと大国主の神話をたくさん登場させていますから分かります。そして、ヤマト朝廷から最も畏れられていたのが、出雲大社や宇佐神宮寺の弥勒寺をはじめ日本全国で最も丁重に祀られている人物だから分かります。日本建国の主役でヤマトに国譲りした大国主は祟るのです。勿論、祟るというのは祟られる方に後ろめたい問題があるからですが(;一_一)

関裕二さんの「創られた英雄 ヤマトタケルの正体」(PHP文庫)の中で、ヤマトタケルの御陵が鳴動すると持統天皇が勅使を立てて霊を慰める話や、晩年の持統天皇が天武天皇にゆかりのある東国へ行幸された話など、ヤマトタケルと天武天皇との共通点など数々の興味深い話が紹介されています。その中で印象深いのはヤマトタケルが大国主と関わりがあることに言及されている点でした。

神功皇后台与に常に寄り添って助けた武内宿禰(たけしうちのすくね、古事記では建内宿禰)こそ大国主狗古智卑狗のことなのですが、その武(建)は猛(タケル)でヤマトタケル日本武尊を連想させます。持統天皇は天武天皇が皇太子としていたと思われる大津皇子を謀略で自害させて皇位を奪ったことの後ろめたさから、天武天皇の祟りを畏れたと思われ、表向きはヤマトタケルとしていますが、ヤマトタケルは大国主の分身でもあるので、天武天皇が日本書紀では天智天皇の兄弟となっていますが、実はそれも誤魔化しでしかなく、本当は大国主の末裔であることを示唆しています。

さて、kunorikunori様が発見した直線上の日撫神社の日撫(ひなで、ひなど)という言葉の意味ですが、勿論人間は太陽を直接手で撫でることはできません。それは日触(ひふれ)と共通しています。日は太陽神を表すと見て、神に身を寄せて、手で触れて、撫でて霊を慰めることだと思います。その太陽神が大国主です。大国主を歴史から隠した物部氏や藤原氏の横暴から大国主にゆかりのあるムナカタ一族を護ってほしいという願いが込められているようです。

日食が原因で殺された卑弥呼の霊を祀っていた神社名や祀った先祖の名前を強引に不比等によって変えられたことの反発から日蝕を連想させる日触という言葉を発明したのではないかと想像しました(卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう)。豊岡市日撫(ひなど)を根拠地としていた大国主ゆかりの一族が霊を慰めるために発明した言葉が日撫ではないかと思います(注2)。ですから同様に、日食により殺された卑弥呼の霊を祀るために日蝕を連想させる日触(ひふれ)という言葉を発明したのだと、ヤマトタケルが伊吹山で教えてくれたようです(*^▽^*)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、最初に述べたとおり、ヤマトタケルの正体について分かったことについて述べます。この人物は日本建国のスーパースターとして不比等が真の主役であった大国主久々遅彦を隠す目的で登場させたと推理しました。ヤマトタケルの父の景行天皇は実は、ヤマトタケルの子で、景行天皇の孫の仲哀天皇とされた尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)の仇討ちを成功させた人物の尾張王建稲種命(タケイナダネノミコト)だったのです。その後、ヤマトに戻り、崇神天皇とされた狗奴国王卑弥弓呼の命を受けて大国主の傘下だった列島各地の勢力を討って日本建国を行った英雄です。崇神紀では四道将軍の話を創って誤魔化していますが、古墳時代初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況から景行天皇の九州遠征もヤマトタケルの出雲や東国遠征も尾張勢が参加したことを表す銅鏃が環濠や溝から出土していることから判明し、物語はすべてこの時期の史実を誤魔化すために作られたものと分かりました(【付録】参照)。


(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」からMyMapで詳細な地図データが分かりますよ(^_-)-☆)

建稲種命は熱田神宮の祭神のひと柱としてヤマトタケルとその妃宮簀媛(みやずひめ、生没年不詳)らとともに祀られています。宮簀媛は建稲種命の妹とされる尾張氏の祖ということですが、物語のみに登場する人物です。建稲種命については神社伝承ではヤマトタケルの東国遠征で副将として参加し、東征の帰路に駿河(伊豆)沖の海で水難事故で死んだという伝承が残っています。ヤマトタケルの物語は建稲種命をモデルとして作られたものだったのです。

熱田神宮のご神体は草薙剣ですが、ヤマトタケルが東征にあたり立ち寄った伊勢神宮でおばの倭姫命(やまとひめのみこと、生没年不詳)から授かった天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という三種の神器のひとつである神剣です。天叢雲剣は高天原を追放されたスサノオが出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に、オロチの体内(尾)から見つかった剣という話です。どういうわけか女神アマテラスが孫のニニギノミコトに授けて天孫降臨させたという話になっています。しかしこれらの神話も作り話です。史実は宋史 第二代奴国王天村雲尊が孫の第四代王天爾聞尊(あめのににぎのみこと)に剣・鏡・玉を王の印(レガリヤ)として与えて、福岡市吉武・高木遺跡の王宮から王宮を春日市須玖岡本遺跡に新造させ、博多の比恵・那珂遺跡に交易都市を建造させた史実を基にして作られた話だと推理しています(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。日本書紀の編纂者は福岡市の奴国が第18代王スサノヲが奴国宮廷楽師師升らのクーデターで殺された史実を知っていたことが、スサノヲが高天原を神やらひ(追放)された乱暴者の神であることを意味する「儺県(なのあがた)」と博多の地名を仲哀天皇紀14年に書いていることから判明しました(注3)。

建国の英雄ヤマトタケルの話などは、史実を誤魔化すためのフィクションだと分かりましたが、一旦盗まれた草薙の剣が返還・奉納されたことに因み熱田神宮に伝わる、酔笑人(えようど)神事という奇妙で愉快な祭りが、真相を暴露しているようですよ( ^)o(^ )。



【付録】日本書紀による第10代崇神天皇即位から第15代応神天皇即位までの年表


【関連記事】
抹殺された尾張氏の謎(その1)~(その3)尾張と言えばカニだ~わ!
サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?

【参考記事】
卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)
卑弥呼を不比等から護った人物?(;一_一)
本当は怖い七福神の謎(;一_一)
古代史の謎を推理する(^_-)-☆

(注1)【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆で見たように、当時の王や大夫の階層は漢字を読めたという証拠がこの銘板です。伊都国男王難升米は孟子も勉強していたと思われます。伊都は殷(商)王朝初期の有名な政治家伊尹(いいん)に因む都だと思います。奴国の司祭・楽師らのリーダーだったと思われる師升がクーデターを起こし、スサノヲ大王を殺害し、奴国を乗っ取った人物だと推理しています。難升米は師升王の一族でしょう。難(儺)升が姓で米(まい)が名ではないかと思います。鬼(スサノヲ大王)を追い出した(儺=おにやらい)楽師升に因み難升を姓にしたのだと思います。難は儺の略字です。漢委奴国王の金印に見られる委が倭の略字と同様にんべんが省略されたものと思います。と書きましたが、米は首長を表す意味もあり、難升米は師升(儺升)一族の頭(かしら)という名前だと思います。(2022.11.19 赤字追加)

(注2)日撫神社の由緒書『山田造火撫直ありて、共に後漢霊帝4世の孫阿知使主の族也と云う、之によれば、ニ氏の俗或は此地に居る者、其の祖先を祀れるか」と、また「神社覈録」でも、「祭神火撫直祖神譽」と記されている。』とありますが、日撫という言葉がいかにも不自然なので、朝廷に神社名変更を強制される前に、由緒書で「日」を「火」に変えたのではないでしょうか。

(注3)女神アマテラスも、クーデターを逃れて吉備で奴国を再興してヤマト王権の基礎を築いた、スサノヲの弟で第19代王天照大神尊ニギハヤヒ大王から連想して創作されたものです。吉備津彦として隠されましたが、今上陛下の祖先です。天照皇大神については昔から男神説がありましたが、明治になるまでは多くの人々は伊勢神宮の御祭神はヘビ、つまり三輪山の大物主大神、大国主久々遅彦だと知っていたのです。

明治政府が、平田篤胤(ひらたあつたね)の記紀神話に基づく復古神道から国家神道を創設して、日本書紀を国史として国民に教育したので、多くの日本人は天皇の歴史書だと勘違いしていますが、正体は藤原氏に都合の良いウソの歴史書だったのです。平安時代後期までに6回、朝廷の中で講義が行われていた記録がありますが、それ以降は、僧侶などによって伝えられているだけで、ほとんど知られてはいませんでした。  
 
また、古事記は江戸時代に本居宣長が発掘するまでほとんど知られていなかったのです。ですから、中世には日本神話の内容は神仏習合の影響もあり、日本書紀とは全く異なるものであったことが知られています。斎藤英喜「読み替えられた日本神話」(講談社現代新書1871、2006年)に詳しく書かれています。ですから、記紀神話を日本民族のアイデンティティーと信じている多くの日本人は藤原不比等の嘘にまんまと騙されているのですよ。女性天皇や女系天皇を待望する日本国民が8割ですから、真相に気づかないと日本はとても危ないですよ(;´Д`)


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今が皇国日本の歴史上最大の危機でしょう!(;´Д`)

2022-11-16 00:11:36 | 古代史
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日本の危機については、最近の古代史ではない三つの記事「最大の反日国家は日本だった?」「陰謀論という陰謀!」「外国の反社勢力となら付き合っていいのか?」で詳しく述べました。刮目天の国民経済の師匠の三橋貴明先生が古代史を発信されているのは国民にナショナリズムを取り戻してもらおうというご主旨なのであまりお邪魔したくないのですが、戦前の皇国史観をそのまま述べておられるので、皇室の危機につながる間違いをその都度指摘するコメントを入れさせていただいています。ぜひ、下の動画をご覧になってから、以下の拙コメントもご参照ください。よろしくお付き合いください(#^.^#)


聖徳太子一族を滅亡させた黒幕の正体〜教科書が言わない史上最大の皇室の危機
【11月18日(金)23:59までの期間限定)】(三橋貴明)三橋TV@YouTube


刮目天
大化の改新があったかのかどうかについては学会でも決着していない問題となっているようですが、日本書紀がどういう歴史書なのかについてははっきりしてきています。つまり天武天皇が編纂を命じたことになっていますが、完成したのは崩御後34年も経ってからです。時の権力者を調べると藤原不比等です。日本の古代史が謎だらけなのは、藤原不比等が現存する最古の正史を創作したことが原因なのです。日本書紀の内容は考古学や民俗学などの成果と全く矛盾しますし、それぞれの内容の時代にはあり得ないことが多数あり、信ぴょう性はほとんどありません。ただし、歴史の事実に基づいて歪曲・改ざんしたものと考えられますのですべて排除すべきではないと思います。(末尾の【関連記事】参照)

 例えば蘇我入鹿が聖徳太子の子山背大兄王(皇子ではありません)を殺した話など現実離れしたものですし、山背大兄王の墓も見つかっていません。実在人物ではないといえます。乙巳の変が三韓の調のタイミングで行われると、宗主国としての威信が地に落ちますのであり得ない話なのです。その後の大化の改新の詔も内容が日本書紀の潤色であることは郡評問題からも明らかにされています。大化が日本最初の年号であることも疑われており、後に追贈されたという意見もあります。(wiki「大化の改新」参照)

 一連の政変については否定しませんが、日本書紀の内容ではないのです。日本書紀は藤原氏が権力を握り続けるために、建国時代に活躍した豪族を没落させるために行った歴史改ざんであり、朝廷の神祇祭祀を奪うために日本神話を創作したのです。これらの証拠は考古学の成果などから科学的に突き止めました。記紀神話を日本民族のアイデンティティと考える方にはショックでしょうが、日本書紀が勝者の歴史書だというのが事実であり、サヨク思想とかイデオロギーとは全く関係のない純粋に学術的な話なのです。詳しくは拙ブログ「ヤマト建国から邪馬台国がわかる」をご参照ください。

 ついでで恐縮ですが、最初の女帝推古天皇からすべての女性天皇が創作であることも突き止めています。推古天皇は隋書の記述と矛盾しますから創作だと直ぐに分かります。斉明(皇極)天皇は万葉集の歌で軍王(いくさのおおきみ=聖徳太子=蘇我蝦夷)がお相手であり、舒明天皇も斉明天皇も創作だったことが、万葉集研究家渡辺康則「聖徳太子は天皇だった」(青空出版2014年)で突き止められています。持統天皇も即位していない証拠が見つかっています。持統の孫の文武天皇を即位させることの正統性を主張するために、天孫降臨神話が作られ、女帝の前例も作られたのです。京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺では天智天皇から飛んで光仁天皇より今上天皇まで歴代の天皇が祀られていますが、明治になるまで女性天皇は祀られていませんでした。江戸時代の二人の女性天皇の肖像画は、明治になって作られたと知られています。女性が天皇になれないのは差別ではなく、奈良時代から南北朝まで未婚の皇女には斎王制度がありました。神の妻という役割だったのです。天皇は皇祖神の霊を身に着けて国家の安泰と国民の安寧をもたらすのが役割で、女性差別の問題ではなかったことも突き止めています。


【関連記事】
え!記紀は天皇の歴史書じゃないのか?
王年代紀は記紀神話を正した!



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