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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

邪馬台国探究のための哲学と方法(その2)

2022-09-23 12:19:46 | 古代史
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前回、この表題で記事にしましたが、邪馬台国の会の 第401回講演会の記録におまけで付けた「2.邪馬台国探究のための哲学と方法」の内容だったようです。本番は第402回講演会だったようで、本日、以下の新しい講演記録が発表されていましたので分かりました。早とちりして失礼な評論をしてしまったかもしれませんね。不快に思われたなら、お許しください。今回の内容は安本美典先生の邪馬台国北部九州説のお話でした。前段は幅広く深い学識経験をお持ちの安本先生が邪馬台国問題で採用する論理構造の根幹となる公理主義について、その実例によって分かりやすく解説頂いているので、とても勉強になりました。最後の部分で具体的な邪馬台国問題への適用について詳しく解説されていましたので、浅学を顧みず、大胆に、いくつか問題点を述べさせていただきました。どうぞお付き合いください( ^)o(^ )。


第402回 邪馬台国の会
邪馬台国の探究のための哲学と方法
-邪馬台国問題はなぜ解けないか-



■私の邪馬台国論の論理構造
わが国の古代史全体を統一的、構造的に把握しようとするばあいには、私は、公理(仮説、仮定、前提、出発点)としてつぎの二つを設定したいと思う。           
【公理I】
「『古事記』『日本書紀』に記されている天照大御神以下の五代、および諸天皇の代の数は、信じられるものとする。」(これは、代の数のことをのべているのであって、ある天皇と、つぎの天皇との関係は、親子関係であるとはかぎらない。)

【公理Ⅱ】
「西暦何年ごろに活躍していたか、実年代が不明の天照大御神以下の五代、および古い時代の諸天皇の活躍の時期は、活躍の時期がはっきりしている諸天皇の一代平均の在位年数をもとに、推定しうるものとする。」

この二つの公理を設定するとき、つぎのようなことがらが、定理的に導出される。
(1)天照大御神は、卑弥呼とほぼ同時代の人となる。(そしてこの二人が、ともに女王的な存在で、宗教的な権威をもち、夫をもたなかったこと、天照大御神が、のちにわが国最大の政治勢力となった大和朝廷の系譜上の人物であること、などは、この二人が同一の人物であることを指向する。)

(2)神武天皇は、西暦280~290年ごろの人となる。(このころからあとに、大和に古墳がおこり、刀剣、矛、鏃、鉄、鏡、玉などの分布の中心が、九州から大和に移っている。すなわち、記紀に記されている神武天皇の東征によって説明しうると思われる事実が存在する。)

(3)崇神天皇は、西暦350~360年前後の人となる。(奈良県天理市大字柳本に存在する崇神天皇の陵を、東大の考古学者、歴史学者である斉藤忠博士は、四世紀の中ごろ、またはそれをやや降るころのものとしておられる。)

そしてさらに、(1)の「系」として、記紀によれば、天照大御神(卑弥呼)の活躍していた場所が、北九州であると考えられ、また大和朝廷が九州に興ったと考えられる少なからぬ根拠が存在するところから、
(1)邪馬台国は、北九州である。
ということがみちびかれる。

以上の議論は、【公理I】【公理Ⅱ】をもうけ、そこから、統計学、確率論などの数学の論理をかけて、「定理」、あるいは「系」をみちびきだすという形をしている。

<中略>

要するに、邪馬台国議論の全体の構造としては公理的方法を用いましょう。それで全体が説明できますよ。それを導くには、できるだけ数学的な方法を用いましょう。それがゲームチェンジャーになりうる。


前段で詳しく説明されたとおり、邪馬台国問題解決のために具体的に【公理Ⅰ】と【公理Ⅱ】を立てて演繹的に結論を導かれていますが、やはりその前提となる公理群には間違った思い込みがあるので、それによって導かれた結論は必然的に誤りになるという主張をします。

【公理Ⅰ】にある天照大御神以下の五代は、ニニギノミコトの天孫降臨とその後のイワレヒコ(神武天皇)誕生までの日向三代の神話ですので、これらの神話が史実である証拠が必要です。定理(2)神武天皇は、西暦280~290年ごろの人となる。とすることにより逆に、公理の妥当性を主張しているようにも取れますが、この神武天皇によるヤマトへの東征が行われた考古学的な痕跡が見当たりません。

ナガスネヒコとの戦闘で敗北して、熊野を回って東から攻めたという話を裏付ける考古学的なものが発見されていないと思います。したがって、その定理は仮説ですので、検証しないと事実とは認められません。

 3世紀前半の纏向遺跡には北部九州どころか九州の土器が見当たりませんが、東海や山陰・北陸その他の地域の土器が集まって来ています。また、3世紀後半での戦争の痕跡を銅鏃・鉄鏃の出土状況を調べると「大和に古墳がおこり、刀剣、矛、鏃、鉄、鏡、玉などの分布の中心が、九州から大和に移っている。」ことが神武東征とは別の経緯で起っていると見るべきなのです。神武天皇が武力で大和王権を成立させたのではなく、もとは北部九州の勢力(旧奴国)が北部九州の勢力(卑弥呼らの倭国)を武力で制圧して統一したと考えるとこの事実を説明できます(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

安本先生は公理について以下のように述べられています。
私は、「公理」は、たしかに「それ自身で完全に明証的なことがら」で、「万人に承認される明晰なことがら」でなければならないとは考えない。その意味では、パスカルよりも、ゆるやかな立場をとりたいと思う。

私が、「公理」は、あるていど、経験的事実や直感に合致したものが望ましい、と考えるのは、そのような立場の方が説得力があると考えるからであって、そのような立場をとらなければならないという論理上の根拠は存在しない。


この辺の塩梅はよく理解できませんでしたが、ということは意地悪く言えば、パスカルほど確固たる信念を持って言う「ことがら」ではないということのようですかね(*´Д`)。

【公理Ⅱ】についても、3世紀後半の戦争の痕跡が、定理(3)で西暦350~360年前後の人とされる崇神天皇の四道将軍のルートや、その後の第十二代景行天皇の九州遠征及び、その皇子ヤマトタケルの東海遠征などのルート上で発見されています。ということは第十代崇神天皇からヤマトタケルの物語はヤマト王権成立の時期の史実を、時代を引き延ばして誤魔化したということになります。また、仲哀天皇は父のヤマトタケルが薨去して38年後に生まれた計算になりますから、記紀の話は作り話だと直ぐに分かります(注1)。したがって、垂仁天皇が実在したのかさえ定かではないのですから、記紀の順に在位した天皇の年代を平均在位年数から推測することもできないということなのです。つまり、【公理Ⅱ】も成り立ちません(「【検証19】日本建国のための戦いだ!」参照)。



天照大御神から神武東征は史実を誤魔化すために創られた物語ですので、天照大御神以下五代の神々も実在人物ではなく、モデルとなる実在人物はいるかも知れませんが、作り話と見るべきです。卑弥呼は二世紀末から247年頃までの人物なのですから、その正体を創作された天照大御神(「卑弥呼=天照大御神」仮説)とすることはとてもオカシなことですし、これらの話が3世紀のヤマト王権成立の過程と矛盾するのでこの仮説は成立しないということなのです。

それから、前段で説明されているベイズ統計により邪馬台国が福岡にある確率が99%という主張ですが、魏志倭人伝には倭国の風俗の説明で鉄鏃や絹織物などがあると書かれていますが、邪馬台国に集中しているとは読めません。邪馬台国への行程記事からそのまま受け取れませんが、倭国の中心的なクニである北部九州の伊都国などから相当遠隔の地にあると考えられますので、倭国は99%が福岡県にあるとしか言えません。また、親魏倭王の金印、銅鏡や絹織物の痕跡などは人が容易に持ち運べますので、それが数多く見つかった場所が邪馬台国だということもできません。しかし、九州の倭国内で径百余歩(直径約150m)の円墳のある場所は卑弥呼の墓である可能性があると考えられます(「卑弥呼の墓は見つかってるよ!」参照)。

日本書紀は天武天皇が編纂を命じましたが、崩御から30年以上後に完成しています。当時の朝廷を牛耳っていた藤原不比等が自分に都合の良い話を創作したということが分かっています(「え!記紀は天皇の歴史書じゃないのか?」参照)。安本先生も記紀から計算すると紀元前660年に即位した神武を西暦280~290年ごろの人と記紀のウソを見抜いたのですから、天照大御神の神話もウソだと容易に気付くはずです。しかし、そうではないのは恐らく記紀は天皇のために書かれた歴史書だという思い込みが強くあるからだと思います。戦前の国史教育の影響ではないかと思います。あるいは、歴史を書くには現存する日本最古の歴史書によらざる得ないという思い込みがあるからかもしれません。

しかし、それが不比等によって改ざんされた歴史書だからと言って全て捨てるわけにもいきません。だから、不比等の目的を読んでウソが書かれたと思われる部分から史実を推理することで、真相に迫れると考えました。その手法は史実と考えられることをもとに仮説を立てて、その史実や事象群の原因を推理して、考古学などによって検証するアブダクションの手法が有効だと考えています。

いずれにしても、公理により論理的に結論を出すことは一般的には正しい手法ですが、千七百年前の邪馬台国問題では、公理を立てて演繹的な妥当な推論による手法は余り有効とは思えません。つまり、公理を立てる段階で間違う可能性が高いからです。特に文献に書かれたことを真に受けると間違う恐れがあります。誰によってどういう目的で書かれたかを分析して、考古学や民俗学などの成果によって文献の内容の信ぴょう性を調べる必要があるわけです。邪馬台国問題はなぜ解けないのかという答えはこの辺りにあります。

(注1)日本書紀に仲哀天皇は成務天皇48年に数え31歳で皇太子になったとありますので成務天皇18年が生年となります。しかし、仲哀天皇の父の日本武尊(ヤマトタケル)は景行天皇40年に薨去しており、景行天皇60年に崩御され、1年後に成務天皇が即位していますので、仲哀天皇は日本武尊が薨去して38年後に生まれた計算になります。(2023.10.13 追加)

邪馬台国探究のための哲学と方法は?(その1)


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民族は言語と神話で区別するのか?(@_@)

2022-09-15 21:03:56 | 古代史
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いつも拝読している宮崎正弘先生のメルマガに興味ある記事がありましたので、例によって以下のような内容の記事をアップしました。どうぞお付き合いください( ^)o(^ )

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☆◇◆◇◆☆◇◆◇◆☆◇◆☆◇◆◇☆◆◇◆☆◇◆◇☆◇◆◇◆◇☆◇◆◇
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和四年(2022)9月15日(木曜日)弐
        通巻第7464号 
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(読者の声1)徐福の伝説を真に受けると侵略を招くことになる。
 日本人は、徐福伝説の現代的な意味を知らないので非常にアブナイから廃止したい。中共が、日本人はシナ人の末裔だから従うべきだと言い出すからだ。プーチン流の兄弟国理論だ。
 もともとこの話は、司馬遷が後世に書いた史記が源だ。魔法使いが始皇帝を騙して、大金と少年少女を連れて出航し、帰ってこなかったというものだ。
何処へ行ったかなど書いてない。そして実際に出かけたかも不明だ。というのは支那は始皇帝が死亡すると項羽と劉邦の大戦乱に陥ったから、魔法使いは金は私物化し、少年少女は奴隷に売り飛ばしたのではないか。
とにかく分かっていないのだ。あくまでもお話だ。
 以前、私はある会合で、中共の日本支社の幹部が、「支那の慣習である七夕を現代日本人が祝っているがこれは日本人がシナ人の末裔だからだ」と言ったので、即、手を挙げ、民族は神話と言語で区別するのが決まりだから、両民族はまったく別の民族だと反論した。するとその人は私に握手を求めてきた。これだから油断できない。
 日本人はお人好しで間抜けで大陸民族の恐ろしさを知らない。
意味もなく面白半分にお社を作っている。それが悪用されるから、今後関係の施設は全部廃棄すべきだろう。
因縁を付けられないようにしておくのだ。歴史の防衛だ。
   (落合道夫)


 貴誌第7464号(読者の声1)で落合道夫様から徐福伝説に関するご意見がありました。結論は、周辺の恐ろしい大陸国家から因縁を付けられぬようにするために「今後関係の施設は全部廃棄すべきだろう」というご意見でしたので、いささか驚くと同時に怖い時代になったと感じました。
 暗殺された安倍元首相は政治家の誰もがほとんど手を付けなかった危ない日本の安全保障法制を、これに抵抗する反日勢力と戦って新たに成立させた功労者です。国際的にも「自由で開かれたインド太平洋」を提唱し、関係各国がこの戦略を採用したので独裁国家の野望が少し頓挫してきています。日本と自由主義圏を護ろうとした偉大な日本のリーダーの功績を貶めたい反日国家の手先やそれに騙される愚かなワイドショー民が国葬に反対しているようです。日本人としてとても恥ずかしいと思います。
 先日、国防の最前線である沖縄で県知事選が行われましたが、その結果を見ると、県民意識の現状はとても危ういと感じています。多分沖縄が近い将来、最初に呑み込まれると思いますが、その時日本のシーレーンが確保できず、日本全体の安全保障は成り立たなくなります。日本という国家はおしまいです。もしも日本が呑み込まれたら日本人の人権を護る仕組みがたちどころに消えてなくなります。弱体化した民族はたとえ臓器を生きたまま強奪されても、強制労働させられても、矯正施設に入れられて日常的な暴力を受け続けても誰も救出してくれません。日本国民は、現在おぞましい民族浄化や人権侵害が目の前で起こっている事実から目を背けると、明日は我が身です。
 さて、落合様が「民族は神話と言語で区別するのが決まり」とおっしゃっていますが、天武天皇が崩御した後に、藤原不比等が権力を握り、その子孫が権力を維持し続けるために、藤原氏の出自を隠し、不都合な史実を改ざんする目的で、不比等が日本神話を創ったことを突き止めています(詳細は拙ブログ「え!記紀は天皇の歴史書じゃないのか?」参照)。
 最近の遺伝子解析によって日本列島にいつごろ、どのような人々がやって来て日本民族となったのかがほぼ解明されています(「拙ブログ「日本列島に集まった人々とは?」参照)。日本人のルーツですが、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」ということも明らかになりました。奴国は紀元前219年に徐福が来日する約250年前に滅んだ呉の王族の子孫によって作られたクニでした(拙ブログ「【決定版】金印贋作説を討つ!」参照)。半島南部に展開していたかつての領民であった江南出身の倭人に助けられて生活していましたが、寒冷化の影響だと思いますが、福岡市吉武・高木遺跡に南下して移り住んだ天御中主(あめのみなかぬし)が最初の奴国王です。天叢雲尊(あめのむらくものみこと)、天八重雲尊(あめのやえくものみこと)までの三代の王族の王墓群が見つかって「やよいの風公園」ホームページで展示されています。
 第四代王天彌聞尊(あめのににぎのみこと)が祖父天叢雲尊の三種神器を頂いて、福岡平野に列島最大の交易都市比恵・那珂遺跡(ひえ・なかいせき)の基礎を作り、春日丘陵の須玖岡本遺跡に王宮を遷して奴国隆盛の礎を築きました。不比等は最高女神アマテラスオオミカミを創作し、この史実をもとにニニギノミコトの天孫降臨神話を創り史実を改ざんしました(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。



 江南出身の倭人は龍蛇神(ナーガ)を信奉していましたが、呉の太伯の父で周の先王古公亶父(ここうたんぽ)の祖先が黄河中流域で夏王朝を建てました。初代の禹王の金文は龍蛇神を表しています。その祖先が人面蛇体の天皇伏羲(ふっき)と泰皇(人皇)女媧(じょか)の夫婦で、人類の始祖神と考えられています。
 シナ人の祖先は三皇のひとり地皇神農です。伏羲が没した後に神農とその子孫である炎帝が地上を支配しました。その後の五帝神話では、炎帝の子孫で邪悪な戦さの神でグロテスクな化け物の蚩尤(しゆう)が登場します。シナ人の祖先は中国神話ではあまりいい役回りではないので、シナ人独自の神「玉皇大帝(ぎょくこうたいてい、天帝)」という最高神を新たに創作し祀ったのが道教です。
 不比等に隠された日本民族の本当の神話は、天皇伏羲・女媧の中つ国(ナーガの国=龍蛇神国)神話なのです。詳しくは拙ブログ「【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)」で中国の新石器文化とYーDNAについて調べましたのでご参照ください。


 また、日本列島の人々の父系のルーツについてもY-DNA解析が進んでおり、本土の現代日本人男性の約39%が縄文人D-M55、約25%が江南の倭人O-47z、約17%がシナ人O2などです。アイヌ人は現代男性の80%が縄文人D-M55、20%が北方アジア諸民族の海洋民オホーツク人系C2で、沖縄人は約60%の男性が縄文人系、シナ人系16%、倭人系11%、殷(商)人系11%です。ですからこれらの人々の言語や文化は列島固有の縄文人の言語や文化が基層にあります。古墳時代前期までに倭人と混血した縄文人がヤマト人となって主体を占める大和朝廷に、3世紀から8世紀にかけて従属させられた伝承のある九州人(熊襲・隼人)と同様に、アイヌ人や沖縄人には日本民族形成の歴史の一コマがあるのだと思います。北米や豪州のいわゆる白人移民と先住民族との関係とは全く異質のものだと思います。
 なお、天皇陛下の父系のルーツは上記の天皇伏羲・禹王に由来すると考えられますが、遺伝的形質を決定する22対の常染色体は、半分以上が縄文系と倭人系などの混血ですので、すでに日本民族に固有のものとなっているのだと思います。
 以上のことから、日本の場合、神話や伝説は権力者によって政治的に操作されて利用されていますので「民族は言語と歴史で区別する」と言う方が正確だと思います。徐福関係の施設を壊してもいくらでも言いがかりをつけてきますので、日本人が本当の歴史を知って国防意識を高めて、敵の侵略を抑止できる日本の国防力を充実させればいいです。直ぐに緊縮財政を止めて、国防力の基盤となる国民経済を復活させる必要があると思います。拙ブログに図などを付けて説明していますので、疑問点などをお寄せください。よろしくお願い致します。
(刮目天)

【関連記事】
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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その20)神仏習合の発祥地と言われる宇佐のなぞ?

2022-09-10 23:15:17 | 古代史
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7.記紀と日本人の信仰の謎
⑥神仏習合の発祥地と言われる宇佐のなぞ?




なぜ宇佐八幡神宮や宇佐の地に多くの謎があるのでしょうか?

初代天皇が神武天皇ならば、東征で最初に立ち寄った宇佐の地は母の玉依姫が亡くなり、祀られている地ということですから(注1)、宇佐神宮に神武天皇が祀られているのならばまだ納得できますけど、なぜ応神天皇なのでしょうか?

宇佐神宮HPによれば、聖武天皇が疫病や社会不安から国を鎮護するための国家的大事業として東大寺を建立しましたが、大仏鋳造直後の天平勝宝元(749)年12月に八幡大神とお供の宇佐宮の女禰宜(めねぎ)大神杜女(おおがのもりめ)が大仏を拝するため、天皇が使う高貴な紫の輿(こし)に乗って東大寺にやってきました。これにより、朝廷から八幡大神に神階一品、比売大神に二品が贈られました(注2)。神輿の発祥とされています。

そして、聖武太上(しょうむだいじょう)天皇、考謙(こうけん)天皇、光明皇太后(こうみょうこうたいごう)の行幸のもと、僧侶5000人の読経(どきょう)、呉楽(くれがく)、五節舞(ごせちのまい)などの法要が賑々しく営まれました。また、三年後の天平勝宝4(752)年に聖武太上天皇・孝謙天皇が大仏殿に入御され、続いて八幡神も入御になりました。そのとき、「神明霊威」により内裏に「天下太平」の文字が出現しました。おめでたいということで、年号を天平勝宝から天平宝字に改元したといわれています(宇佐神宮HPより)。八幡神の大仏建立への協力に対して、朝廷から封戸800戸・位田60町が贈られています。

これらによって、八幡神は一地方神から国家神になったとされていますが、素性の分からない一地方神が来ても多分これほどの歓待や感謝はされないないでしょうに。元々最も重要な国家神だったからだと直ぐに分かりますよ!

さらに、神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣があり大混乱が起こりました。宇佐八幡宮神託事件として知られていますが、なぜ最高神の天照大御神の神託を伊勢神宮に聞きにいかなかったのかと思いませんか?

答えは簡単でしょう!高天原神話も神武東征も藤原不比等の創作だと分かれば、謎はほとんど氷解しますね(^_-)-☆

また天照大御神も神武天皇も実在人物ではないならば、玉依姫も創作ということですが、宇佐神宮の中央の第二殿に祀られている比売大神はだれ?というのも疑問です。ですが、既に比売大神は宗像三女神として伝えられていたので、この伝承からも神武天皇の話も、その母の話も全部ウソだと分かりますが(^_-)-☆

でも、それを声高に言う人もあまりいなかったようです。神道に「神をないがしろにする言葉を発して、神の怒りをかう」ので言挙(ことあ)げしないという話がありますからでしょうか?(注3)

しかし、ウソはウソですからウソの神を敬ってもご利益がないので、当時の朝廷の人々も分かっていたのですよ。神名を藤原氏によって変えられた神様たちの正体を皆さん知っているので、創作された神武天皇ではなく実在人物だった応神天皇を神様として祀っていたのです。

しかし、明治時代に記紀神話に基づく国家神道が創設されて、全ての日本国民に国史教育されたので、記紀が天皇の歴史書だという思い込みのために、こんなすぐに分かるウソ話が放置されてきたということです。ですから、今までの記紀に基づく定説はもう一度根本から見直しする必要があるのです。気が遠くなりそうですが、不比等の目的が分かれば、どの部分が改ざんされたかも推理できるので、一つひとつ考古学や民俗学の成果などの事実と突き合わせて、隠された歴史の真相に迫れることを【刮目天の古代史】で説明してきました。

ですから、多くの日本人の信仰の原点ともいえる八幡信仰の起源と謎の多い宇佐神宮創建について、ここで、考えてみたいと思います。前置きが長くなりすぎましたので、できるだけ要点だけ述べたいと思います。もしも、疑問点がございましたらご指摘ください。

さて、縄文時代から日本列島に住む人々は、数多くの自然災害に見舞われて、大切な肉親を突然喪う経験や、洪水や地震で住まいが壊れたり、自分自身も死にかける経験をしたと思います。なぜこのような酷い目に合わねばならないのか、と考えたと思います。すでに(その18)で見たように、多くの日本人は祖先神(へび神)を敬わず、疎かにしたためと考えたのだと思います。

しかし、必死に祖先神を祀っていても自然災害は起り得ます。そこで、修行によって悟りと共に神の祟りを抑える超能力が得られるという考えが起こったようです。飛鳥時代の行者役 小角(えんの おづぬ)が創始したと言われる修験道です。古来より日本人は神奈備や磐座を信仰していますが、常人を寄せ付けない厳しい山岳に霊的な力が潜んでいると考え、霊山を崇拝する山岳信仰が起こり、霊山での難行・苦行によって悟りが得られると考えたようです。

すでに二世紀後半ころ出雲や吉備を中心とする狗(旧)奴国勢力の間で米神(首長霊)信仰が起こると、最大の崇りを起こす神霊は、最も高貴な神であるはずだという信仰も生まれたと考えられます。(その17)で述べたように、日本建国時代に非業の死を遂げて神格となった卑弥呼・大国主久々遅彦・台与らを朝廷や民間でも最も畏れ敬い祀りました(注4)。それまで多くの人々が祀っていた地の神(祖先神へび神)の信仰も根強くありますが、朝廷が力を入れて祭祀したので、多くの人々もこれらの特別なへび神(龍蛇神)への信仰に変わって行ったようです。龍蛇神(ナーガ)信仰については中つ国神話を(その19)で説明していますので、ご参照ください。

四世紀ころに朝廷で縄文海人ムナカタ族の和邇氏が力を持つようになったので、卑弥呼や大国主・台与とゆかりのある半島南部の倭人が冶金技術や仏教・医術や巫術などを持って福岡県東部から大分県北部に居住するようになりました。スサノヲの王子イタケルの末裔との伝承がある辛嶋氏が宇佐市の稲積山で卑弥呼を祀ったようです。元々は比売神卑弥呼の依代とするために多くの旗を立てて祀ったのでこれを原八幡神と呼ぶことにします。現在でも宗像大社のみあれ祭では、姫神を呼び寄せて神幸するために、多くの船が色とりどりの数多くの旗をなびかせている様子が見られます。

すでに上記の修行僧らが四世紀頃から香春岳や英彦山に入ったと考えられるので、これが日本の修験道の始まりかも知れません。(その16)で述べましたが、豊国奇巫(とよくにのあやしきかんなぎ)が五世紀末に雄略天皇の病気治療で宮中に呼ばれていますので、この頃が仏教公伝の時期と考えられます。七世紀初頭の用明天皇の病気にも豊国法師が参内していますので、かなり古くから豊国には高度な医術を持つ巫覡(ふげき)である僧侶の集団が存在していることが宮中でも知られていたようです。

天武天皇の崩御後、八世紀初頭に権力を握った不比等は、藤原氏が将来も権力を握り続けるために、その出自を隠し、誤魔化す目的で、不都合な日本建国の史実を改ざんし都合の良い神話や歴史を創作しました。たとえば大国主の国譲り神話を創作し、建国の史実を神話に変えてしまいました。そしてそこで活躍させた神々を藤原氏の氏神として春日大社などで祀っています。そして、史実については三世紀後半の建国の戦いとヤマト王権の成立の時代を、崇神天皇から応神天皇の即位までの約三五〇年の話に引き伸ばして歴史を改ざんしました(「え!記紀は天皇の歴史書じゃないのか?」参照)。ですから、建国で実際に活躍した人物らの実名を隠すために、様々な神の名前を創作して、史実を知らない人々に訳が分からないようにしました。特に、大国主を表す神名の数は多過ぎて、ここで書ききれないほどです。

不比等は、和爾氏が近江で卑弥呼を祀っていた現在の日牟禮八幡宮に行って社名を日群社(ひむれのもり)と変えさせています。豊国でも盛んに祀られている卑弥呼を隠すために上記のとおり神武天皇の母玉依姫の話を創作しました。

卑弥呼の死後、大国主久々遅彦が内戦に勝利して倭国を手に入れました。まだ十三歳だった台与を卑弥呼の宗女として外交上倭国女王に立てて、魏を後ろ盾にして狗(旧)奴国と対立しました。大国主が最初に訪れたのが魏志倭人伝で邪馬台国とされた宇佐市安心院町の宮ノ原遺跡です。卑弥呼の宮室が三女神社で、その東側200mに魏志倭人伝にある径百余歩(直径約150m)の円墳があります。大国主は安心院盆地を挟んで南側の共鑰山(ともがきやま、妻垣山)の磐座「一柱騰宮」で卑弥呼を祀りました。そして安心院町佐田の米神山で祖霊祭祀を行い、豊葦原を水田に変えて瑞穂の国を造りました(詳細は(その7)参照)。

そのために、宇佐市安心院町を中心として数多くの遺物や伝承が残されているのですが、それらを消すために不比等がしたことが、原八幡神卑弥呼を先程のとおり神武天皇の母玉依姫とし、比売大神として祀り、大国主を八幡大神として入れ替えました。712年(和銅5年)駅館川左岸に鷹居社を造り、八幡大神を祀りましたが、4年後には小山田社に遷しました。

英彦山で修行をして、当時豊国巫僧集団を纏めていた法蓮上人に不比等が相談して、八幡大神の本地仏を弥勒菩薩として祀ったのが、日本の神仏習合の始まりではないかと考えています(「卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう」「卑弥呼を不比等から護った人物?」参照)。

720年に日本書紀が完成して、不比等が亡くなった後の八世紀後半に不比等の子供たちが八幡大神を、大国主と台与の子である応神天皇として祀りました。これは米神(首長霊)信仰を利用して大国主を隠したのですが、応神天皇は父である大国主の霊を身に付けているので、応神天皇を祀ることによってその祖霊を祀っているのです(「なぜ皇位継承が男系男子だけなのか?」参照)。

宇佐神宮の歴史年表にありますが、725年に現在の宇佐神宮のある小椋山に一之御殿を建てて祀りました。その際、東側の日足に弥勒禅院が建てられましたが、さらに733年に宇佐寺神宮の境内に神宮寺として弥勒寺が建立され、法蓮上人を初代別当としています。そして、八幡大神の託宣により、二之御殿に比売大神が鎮座することになりました。恐らく辛嶋氏が上記の稲積山から乙咩(おとめ)社酒井泉神社郡瀬(ごうぜ)神社を建てて祀っていたと考えられるので、さらにそこから遷されたものと思います。 765年に八幡大神が勅使に『我は既に共鑰山に示現しているので社殿を設け祀るように』との御神託を下したので、一柱騰宮を奥宮とする妻垣神社が創建されたとの社伝があります。つまり、八幡大神は比売大神卑弥呼なのですよと自ら告白したみたいですね。余りやり過ぎたので、祟りを怖れたのだと思います。宮司の矢野家は藤原氏と伝えられています(矢野武夫「卑弥呼の墓発見」安心院町文化連盟 1931年)。(2022.9.13 赤字追加)

ここでは、記紀とそれに基づく神社伝承を横に置いて、事実から真相を推理していますので、もしも不快になられたらどうぞお許しください(/・ω・)/

(注1)「一柱騰宮」の伝承地がこのブログにあるように三カ所ありますが、上で述べた妻垣神社の本宮が本物です。他の二カ所は藤原氏によって史実を誤魔化すために創られたものと考えています。

(注2)品位は皇族に与えられる特別な神階です。六国史の終了時点で比売大神も、国生み・神生みをされた淡路一宮伊弉諾神宮の伊弉諾尊も一品とされ、備中一宮吉備津神社の吉備都彦命 が二品となっていますが、後に八幡大神と八幡比売神と合わせて四柱全てが一品となっています。品位の神階を持つ神様は四柱だけなのです(その17)にすでに述べていますのでこれを参照すれば不思議でも何でもないのですが、最高神であるはずの天照大御神にも初代神武天皇にも、日本建国で大活躍した英雄の日本武尊(やまとたけるのみこと)にも、他のすべての神様どなたにも贈られていないのです(@_@)

伊弉諾尊に対して、『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日条では、「伊佐奈岐命」の神階が無品勲八等から一品勲八等に昇叙されている。とあります。(Wiki 「伊弉諾神宮」より)
備中一宮吉備津神社の吉備津彦命に対して、以下のように神階が贈られています(wiki「吉備津神社」より)。
六国史時代における神階奉叙の記録
承和14年(847年)10月22日、無位から従四位下 (『続日本後紀』) - 表記は「吉備津彦命神」。
嘉祥元年(848年)2月21日、従四位上 (『続日本後紀』) - 表記は「吉備津彦命神」。
仁寿2年(852年)2月20日、四品、官社に列す (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「吉備津彦命神」。
仁寿2年(852年)8月27日時点、四品 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「吉備津彦命神」。
天安元年(857年)6月3日、四品から三品 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「吉備津彦命神」。
天安3年(859年)1月27日、三品から二品 (『日本三代実録』) - 表記は「吉備都彦命」。
六国史以後
天慶3年(940年)、一品


(注3)言挙げについては、以下に示す柿本人麻呂の歌(万葉集 第13巻 3253番歌)が知られています。
 
葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ我がする 言幸(ことさき)く ま幸(さき)くませと 障(つつ)みなく 幸(さき)くいまさば 荒礒波(ありそなみ) ありても見むと 百重波(ももへなみ) 千重波(ちへなみ)しきに 言挙げす我れは
訳: 葦原(あしはら)の瑞穂の国は神の国柄として言葉に出して言いつのらないのですが、私は申し上げます。言葉に出してご無事でと。ご無事でいらっしゃいませと。何事もなくご無事でいらっしゃって、変わらぬ今の姿のままお逢いしとうございます。荒磯に寄せる百重波千重波のように幾度もご無事であれと言葉に出して申し上げます。

刮目天も不比等にたぶらかされて日本が壊れないようにするために、古代史の真相を探求していますので、無作法をお許しください(/・ω・)/

(注4)3世紀後半に日本が建国されて、最も活躍した尾張王建稲種命は大国主に殺された父オトヨ命を祀りましたが、後に日本建国の史実が不都合であった藤原不比等の命令でカグツチとして秋葉神社で祀るようになったと推理しています。同様に上記のとおり、四世紀から朝廷で力を持った卑弥呼の一族である和邇氏が卑弥呼と卑弥呼の弟赤坂比古を近江八幡市で祀っていましたが、祭神名と社名まで変えられてしまいます。和邇氏やゆかりの人々が四世紀から六世紀に祀っていた卑弥呼を不比等によって宗像三女神とされ、赤坂比古は日食に因む神名から日触使主(ひふれのおみ)と変えられたと推理しています。

【関連記事】
卑弥呼は何故隠された?(´・ω・`)
卑弥呼を不比等から護った人物?(;一_一)
卑弥呼はどのように隠された?(;´Д`)



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邪馬台国探究のための哲学と方法は?(その1)

2022-09-05 22:38:50 | 古代史
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学術的な記事が沢山集められているので、時どき参照する邪馬台国の会のホームページにある講演会の内容ですが、先日のぞくと先月の8月28日に表記のタイトルで講演会が行われることが分かり、講演会の記録がアップされるのを楽しみにしていました。面倒な話で恐縮ですが、お付き合いください( ^)o(^ )

邪馬台国探究のための哲学と方法
第401講演会記録 邪馬台国の会


本日、ページを見たら出ていましたので、早速拝見しました。しかし申し訳ないですが、少しがっかりしました。なぜ解決しないのかというような副題に沿った内容とは程遠いものでした。結論は「このように、いろいろな観点から議論すべきである。」ということで、よくわからんから、自分で考えろ!と言われた感じです(*^▽^*)

ここで、例示されたいくつかの問題も邪馬台国問題を解決するために乗り越えるべきものではなく、個々の説に対する魏志倭人伝に載っている用語の解釈でしかないものなどです。

色々と解釈できるよね!ということで終わっていますから、このことが問題解決できない理由だということに気付いて欲しかったです。

つまり、そこで終わるから問題は解決しないのですよ!

色々な解釈はあっていいのですが、その中に正解があり、不正解もあるはずです。

どうやってそれを判断するかというプロセスがあることに気付いていないということなのです。そのプロセスはつまり問題解決のための方法・手法ということです。

その方法とは?

はい、その答えは人それぞれです!

う?そんなことはないでしょう!

問題の解明に挑戦しようとする人々が研究者です。素人もプロも集まっていますが、ほとんどの研究者はすでに多大な時間をこの探求に費やして、自分なりの結論を持っているのですが、対立する別の説の方たちから問題点を指摘されており、それに対するクリアな反論によって、自説を他の多くの研究者に理解してもらうことができていない状態だと、もどかしく感じておられると思います。

それに対して、研究者ではない一般の方がいます。興味があるが、様々な事情から自ら探求しようとは考えない方ですから、学会が定説を出してくれればよいと考えているか、自分が納得できる説があればそれでよいと考えておられる、拙ブログの読者などの至極まともな方たちです。ヨイショ!(*^▽^*)

上で述べた多くの研究者は、よほど頭が柔軟な方でないと、自らの誤りを認めて自説を曲げることは不可能ですから、これはこれで良いのかも知れません。しかし、プロの歴史学者は歴史の真実を探求する研究者ですから、歴史の真実に近づくための科学的な方法を持っていないとプロの歴史学者とは言えないと思います。

では歴史の真実とは何か?

これは簡単な問題ではないですが、事実に裏打ちされた一連の物語(ヒストリー)、つまりプロが提唱するヒズ・ストーリーです。真実かどうかは神の領域ですので、軽々に断定できないと言われるかもしれませんので、およそ真実を表していると考えてよいと思われるレベルです。歴史の真相を表している可能性が高い推論なのですから、上で述べた一般の方々の誰でもが納得できる合理的な、つじつまの合う彼の物語です。

ここまで理解できると、次が問題です(´ω`*)

事実というのは、考古学や民俗学などの成果から得られます。発掘された遺構や遺物などは事実を語ってくれますが、その歴史上の位置付けは、他の事象群との前後関係から考えて解釈すべきです。ですから、この段階ではヒストリーの仮説です。この仮説を関連する新たな事実によって検証(テスト)することによって、仮説は修正されるか、仮説の詳細化や適用範囲の拡張ができます。

ここで重要なことは、仮説の検証によって、新たな事実に対する解釈のどれが正解なのかも分かることなのです。

従来、このプロセスが不十分だったので問題が解決されないまま残されているのだと思います。例えば、邪馬台国北九州説ですが、纏向遺跡のヤマト王権の成立過程との関係まで十分に明らかにできていませんから、学説と呼ぶにはオソマツです!

もう一つ重要なことは、仮説は事実に裏打ちされているので、偏見のない一般の方々は誰でもが納得できるということです。

これを科学的と言います。

その事実に対する正解の解釈を得るためには、前後の事象群によって検証するための、一連の歴史の真実を記述する適切な仮説が必要ということなのです。

しかし仮説を検証すれば分かるのですが、どのようにでも解釈できる史料文献から仮説を構築しても、簡単には正解は得られません。それなのに、仮説を検証しないで放置すると、事実に基づかないので古代妄想かも知れません。検証を繰返すことによって仮説が修正されねばならないということなのです。

何故ならば、文献は著者や編纂者がどういう目的で残したものかを十分に吟味して、予め信頼性をチェックしなければならないからです。

書かれたことが真実であるかどうかは事実と合致しているかどうかを検証すべきなのです。

従来は、根本史料として古事記や日本書紀などの六国史を採用して歴史を構築していますが、これらが天皇の歴史書だという思い込みから、好意的に考古学や民俗学の成果との不整合や矛盾を無視して来たために古代史問題が解決していないのだと思います。

例えば、この講演記録の前半部分の話ですが、藤原不比等が創作した高天原神話の天照大御神を卑弥呼とする説のことです(例えば「え!記紀は天皇の歴史書じゃないのか?」参照)。奈良時代までの記紀に記された天皇がその通り在位していないということは多くの研究者が指摘していますし、逆に、実在の天皇を隠していることも分かりました(「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」参照)。拙ブログでも日本建国の過程を考古学の成果から解明して分かりました。例えば「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」に考古学の証拠を示しましたが、崇神天皇から応神天皇即位までの約350年間の六代の天皇とされた人物は、同時代の人物や架空の人物でした(「【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その13)」参照)。

すでに、「なぜヤマト王権の始まりが分かるの?」に詳しく述べましたが、三世紀に纏向遺跡でヤマト王権が始まった事実は、発掘された考古学の成果やシナの文献に記された東アジアの情勢などから検討して間違いありません。

ですから、こういう事実を無視して、自説に都合の良い文献解釈によって構築された仮説は、事実に反する思い込みの仮説ですから、淘汰されないと問題は解決できないということなのです。これはプロの学者の集まりである学会の使命なのです!(;一_一)

なお、仮説構築については米国の十九世紀末から二十世紀初頭の哲学者・論理学者・数学者・科学者であるC.S.パースが提唱する手法が使えます。詳しくは「一つの事象にいくつもの解釈あり!」を参照してください( ^)o(^ )



(その2)につづく

【参考記事】
【刮目天の古代史】古代史を推理する
【古代史問題の科学的解決手法



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【衝撃】百済王のなぞ?いつ・誰が背乗りした?

2022-09-03 03:01:11 | 古代史
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中々、勉強が進みませんので、次の記事が書けませんでした。申し訳ないです。このテーマを前から考えていたのですが、丁度いい動画を見つけましたので、記事にすることにしました。最後までお付き合いください(*^▽^*)




坂田隆「古代の韓と日本」新泉社(1996年)を参考にして考えていますが、一応、現時点での推理(仮説)を書きます。と言いますのも、百済についてのシナの史料と記紀や三国史記の内容が余りにも違うということは前から指摘されていましたが、通説では違いを無視して、矛盾がないように説明しています。三国史記は1⒉世紀の新羅の金富軾が完成させたものなので、記紀の内容とも若干ずれはあるものの、日本書紀を参照したのは明らかですから、記紀の内容が天皇の歴史書だという思い込みを捨てると、シナの史料と矛盾するならば、シナの史料をベースに検討しなければならないということなのです。

坂田氏は、この本の第一部で、「一つの百済」説では説明できない、以下のようなシナの歴史書と日本の史書で異なる内容があることを示しています。

①百済の所在地  
 シナの史書では、四世紀後半は楽浪郡に都を置き、五世紀には遼西の晋平郡晋平県を都としたとあります。日本史書はずっと半島南部尉礼(いれ、漢城)・久麻那利(くまなり、熊津)に居たことになっています。

②国力
 371年に高句麗の平壌城を攻め、高句麗故国原王が戦死して、翌年には東晋が百済王余句(近肖古王)を鎮東将軍領楽浪太守に封じています。490年には北魏が数十万騎で百済を攻めましたが、撃退しています(南斉書)のでかなりの強国でした。
 一方、日本史書では天皇が派遣した将軍によって王が廃立され、日本に王子を差し出していた弱小国でした。

③対高句麗敗戦と王都南遷の年代 
 百済が高句麗に敗れて南遷するのが502年以降ですが、日本史書では475年に敗れ、477年に南遷したとなっています。

④百済王の名前
 五世紀以前の十人の王名に一致するものがないのですが、従来は類似しているということで同一人物と考えています。

⑤系譜
 シナの史書に見える余慶・牟大が日本史書では蓋鹵王(がいろおう)・末多(むた)とありますが、従来は王名の類似で同一と認めて、シナの史書と日本史書で系譜が異なることを無視していました。

⑥在位年代
 蓋鹵王は諱が慶司なので、宋書の百済王余慶と同一人物としていますが、宋書で余毗の在位は430年-450年で余慶は457年ー458年在位となっていますから王位交代が日本では 蓋鹵王(455-475)の在位中に行われたことになります(坂田上掲書 pp.75-76)。

つまり一時期に別々の「二つの百済」があって、それらが六世紀初頭に一つの百済として合一したことが述べられています。
日本書紀の記述は信頼できないことが、疑いではなく完全に分かりましたので、日本書紀に基づく百済に関する情報を疑うべきです。

百済は元々北方アジアのツングース系部族の高句麗と同様に扶余族から分かれた国ですので、遼西を領有した時期があってもいいのですが、日本書紀ではそれを無視していますので、百済の歴史を詳しく説明したくないのだと分かります。それは百済がかつては楽浪を支配し、日本よりもシナから上位の冊封を受けていたことも事実であり、日本の古代史にも関係するからだとすぐに分かります。

坂田氏は日本書紀に対して疑いの目は向けるものの、完全否定までしていないので、百済が二つから一つになったと考えれば矛盾は解決するとしています。

それでは、二つの百済の正体は何だったのかですが、ひとつは高句麗と同族の百済です。『隋書』によると、高句麗の東明王の子孫の仇台が、二世紀末の遼東太守公孫度の時代に204年に帯方郡となる土地に存在していました。半島の韓人・濊人が強盛になって暴れたので、師升王の一族の支配する倭国は公孫氏の支配する楽浪郡との交易ができなくなり、衰退します。一方で旧奴国は半島南部の鉄を入手して鉄交易ネットワークを列島内に築き、隆盛になって、倭国を苦しめました。これが倭国大乱です。公孫度が仇台を懐柔するために娘を娶らせ、公孫氏は帯方郡を設置して半島の混乱は収束しました。仇台の百済は隆盛になり、公孫氏が魏の司馬懿によって滅ぼされた後も馬韓を支配し、西晋が衰退して東晋の時代に遼西も領有した強国になりました。

もう一つの百済は、日本書紀に述べられた半島南部にづっと居た百済です。三国志で紹介された馬韓五十余国の一つの伯済国です。馬韓は「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」で説明しましたように、紀元前230年頃に戦国七雄の一つである韓が秦に滅ぼされ、前223年にはが滅亡しています。滅ぼされた国の人々は馬韓に逃亡したと考えています。



実は、wiki「百済史年表」の冒頭に「『広韻』には、百済王の扶余氏は「中国呉の夫概から出た扶余氏」と記録されている。」と紹介されていました。呉の夫概を調べると、なんと、最後の呉王夫差の父闔閭の弟でした。「紀元前505年、兄が呉越の戦いの最中に、こっそりと陣払いをし、自立して呉王を名乗ったが、戻ってきた闔閭の兵に敗れて、楚に亡命した。その後、楚から領土の堂谿を与えられて、その子孫は堂谿氏と称した[2]。」とwiki「夫概」にありました。つまり、夫差の子孫が福岡市吉武・高木遺跡に降り立った天御中主ですから、同じ呉王族夫概の末裔が馬韓に逃げて伯斉国の王となったと推理できます。当然、伯斉国の人々は倭人です。

馬韓の伯済国は呉王族が支配する倭人の国だったようです。

さて、六世紀初頭に高句麗に敗退した遼西の百済が、故地の馬韓に逃げ延びたのですが、百済王が民衆に暴虐な振る舞いをするので、馬韓の国人が立ち上がり、百済王を殺して王を立てたと「日本書紀 武烈紀」にあります。殺された王が牟大(むだい、東城王、生年不詳 - 501年)です。そして、この時に百済王を名乗った人物が武寧王(ムリョンワン、462年 - 523年)だと推理しています(注1)。(2022.9.5 赤字追加)

wiki「武寧王」によれば、『梁書』では余隆、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、「諱は嶋王という。これは昆支王の子である。則ち末多王(東城王)の異母兄である」としながらも、「今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。末多王は昆支王の子である。これを異母兄というのはまだ詳しく判らない[1]」としている。とあります。

日本書紀では史実を誤魔化すために、「武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王を倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。」としています。坂田氏は昆支(加須利)君の子で、末多(牟大)王とは異母兄弟と推理していますが(上掲書 p.108)、百済の遠祖の、東明王とは、まったく血はつながってはいないというのが刮目天の推理です( ^)o(^ )

半島南部の倭人国家だった任那を百済に割譲したのも、百済復興のために日本が必死になったのも、百済が、ヤマトの大王家と同じ呉王族の倭人国家だったからと考えると納得できませんか?(^_-)-☆

523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明)ですが、その子孫の高野新笠(たかの の にいがさ、天高知日之子姫尊あめたかしるひのこひめのみこと)が桓武天皇の生母ですから、天皇陛下とゆかりがあるのは、呉王族の子孫だったということです。あくまでも推理ですが(^_-)-☆

と書きましたが、先ほど「藤原鎌足は日本人じゃない?ブッブー!( ^)o(^ )」に訂正しました。武寧王系統の百済王族と鎌足系統の藤原氏は倭人系(O-47z)です。呉王族(原始夏人系O1a)ではないと考えています。(2024.1.30 赤字訂正)

【参考記事】
渡来人は異民族とは限らない?

(注1)百済の建国について、「百済は『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国を母体として、漢城(現在のソウル)を中心として、少なくとも4世紀前半頃までには成立していたと見られ、日本の学界ではこの4世紀前半頃の成立とする説が定着している[7]。」とwiki「百済」にあります。しかしこの百済はツングース系の百済ではなく呉王族が支配する倭人の百済で、すでに紀元前三世紀には馬韓に存在していたので、三世紀末に編纂された「三国志 韓伝」にも記載があるわけです。


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