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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

え!記紀は天皇の歴史書じゃないのか?(;一_一)

2022-08-25 05:00:20 | 古代史
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連載の記事の内容の確認調査や分かりやすい図の検討・作成などで、なかなか発表できません。申し訳ありません。悩んでいる間に、本日、いつも拝読している宮崎先生のメルマガに、いい内容の記事が上がってきました。例によって普通の方には過激すぎてちょっと気が引けます。でも、これを突破しないと皆さんに真相に気付いていただけないと思い直して、また(読者の声)に、投稿しました。お付き合いのほどよろしくお願い致します( ^)o(^ )

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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
      令和四年(2022)8月24日(水曜日)
         通巻第7438号  
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(読者の声4)貴誌7437号で、『古事記』の話題が取り上げられました。少し前にもご紹介しましたが、私は現存『古事記』の序文は後世の偽作であり、太安万侶は実在したが『古事記』編纂には関わっていない。また、稗田阿礼と言う人物は実在しなかった。とした上で、原『古事記』の完成は序文が記載するよりも100年近く前の舒明天皇の時代である痕跡を見つけた、と述べました。
『古事記』は推古天皇の記事で終わっていますが、よく読めば、次の舒明天皇が、それとは言われずに読む人が読めば分かるように書かれています。その痕跡を見出し、舒明天皇の在世中に完成していたと推定しました。
また神武天皇以前のことは神話であるとして、まともに取り上げられることは少ないですが、伊奘諾・伊奘冉両尊による?馭慮嶋上陸は、実際にあった事件が、神話的な誇張や脚色が行われたもので、その場所は北部九州から始まったことも見出し、現在掘り下げ中であります。この時代のことは考古学的出土物はありますが、文字資料は極めて少なく、その少ない文字資料を神話として切り捨ててしまえば、古代を探る手がかりも捨てることになります。
脚色などを取り除き、その芯になる出来事を見出して、我が国の古代の実相に迫るのが古代を探求する難しさであると同時に意味あることでもあると考えております。
よろしければ、お時間があるときにお訪ねください。
https://yamataikoku.exblog.jp/
『古事記』序文の検証は下記から
https://yamataikoku.exblog.jp/28824954/
『古事記』完成時期の結論をお急ぎの場合は下記へ
https://yamataikoku.exblog.jp/28878773/
伊奘諾・伊奘冉両尊による国生みは下記からです
https://yamataikoku.exblog.jp/29049295/
  (高柴昭)


 貴誌第7438号にて高柴昭様が、「現存『古事記』の序文は後世の偽作であり、太安万侶は実在したが『古事記』編纂には関わっていない。また、稗田阿礼と言う人物は実在しなかった。」と述べられましたが全く同じ意見です。また、「神武天皇以前のことは神話であるとして、云々」についても基本的に同じ考え方です。しかし、ほとんどの研究者も、多くの日本人は、712年に完成したとされる現存する最古の歴史書「古事記」や720年に完成した現存する最古の正史「日本書紀」の正体を理解していないと思います。

 「日本書紀」は天武天皇が編纂を命じたのは事実だと思われますが、その完成は崩御後三十年以上も経ってからです。その時の権力者は藤原不比等でした。天武天皇の妃鵜野讃良(うののさらら、天智天皇皇女)と組んで、天武天皇の優秀な皇子たちを謀略で排除して皇位を奪い、藤原氏が外戚として実権を握り続け、繁栄できるようにしました。有力貴族の合議で政治を行えるようにするために大宝律令を制定し、藤原氏に都合のよい神話を創作して朝廷の祭祀を独占しました。藤原氏に都合の悪い豪族の祭神や神社の名前まで強権で変えさせています。その最後の仕上げが「日本書紀」の完成でした。不比等は藤原氏の将来を安堵してその年に亡くなっています。

 土橋寛「持統天皇と藤原不比等」中公新書(1994年)関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」(ワニ文庫2016年)に二人の謀略の内容が詳しく述べられていますが、それでも十分ではないことがわかりました。不比等の目的が藤原氏・中臣氏の出自を誤魔化し、日本建国の史実を隠ぺいして、父鎌足が中大兄と行ったヤマトの大王家へのテロ・反乱や不比等自身が行った悪行を隠蔽するために「日本書紀」が編纂されたということに気付けば、ほとんどの史実が改ざんされていたことが分かります。
 たとえば、不比等の子藤原四兄弟の陰謀で殺された長屋王が親王宣下を受けていた証拠が見つかっています。つまり長屋王は高市皇子の子ですから、高市が即位していたという証拠です。しかし、通説では、長屋王は特別待遇だったかもしれないとして、「日本書紀」で高市皇子の母が身分の低い宗形徳善娘尼子娘であるので即位できないから太政大臣とされたとしています。
 しかし、応神天皇の皇子菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)は玄界灘を支配していた縄文海人ムナカタ族の和爾氏の祖日触使主(ひふれのおみ)の娘宮主宅媛(みやぬしやかひめ)の子です。宗形氏と同族の和邇氏は、四世紀から六世紀にかけて多くの妃を出す有力な豪族でしたし、菟道稚郎子は皇太子でしたから、高市皇子の母の身分が低いということはなかったと分かりました。高市皇子の即位を隠すために、応神天皇崩御後の皇位継承争いを創作し、神武天皇崩御後のそっくりな話をでっち上げて、よくある話だということにして史実を誤魔化していることも分かりました(拙ブログ「【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?」参照)。
 不比等は高市皇子が即位できるようにするために、皇太子だったと考えられる大津皇子を謀殺し、その代わりに鵜野讃良の子草壁皇子を皇太子にする約束があったと考えられます。しかし、草壁が直ぐに病死したので、天皇が長屋王を皇太子にしようとしたようです。そのために不比等らは天皇を密かに弑逆して、草壁の子珂瑠(かる)を十五歳で文武天皇として即位させ、不比等の娘宮子を文武天皇の妃にしたと推理しています。
 神代で、女神アマテラスが孫ニニギノミコトを地上の支配者にするという天孫降臨神話を作って正当化しましたが、持統天皇がアマテラスでニニギが文武天皇ということです。しかし、高市が即位していたとすれば持統天皇は存在しないのです。ですから、女帝の前例として推古天皇と皇極(斉明)天皇を創作しています。舒明・斉明天皇も創作だということは万葉集研究家の渡辺康則氏が「聖徳太子は天皇だった」(青空出版 2014年)で突き止めています。
 すべての女性天皇は存在しなかったことは京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺で明治になるまで祀られていませんでしたので分かりました。女性天皇も女系天皇も日本の歴史上存在していません。奈良時代から南北朝時代まで未婚の皇女が伊勢神宮と賀茂神社の巫女となる斎王制度がありました。斎王は神の妻なのです。天皇は皇祖神の霊と一体となってその霊力によって国家の安泰と国民の安寧を図る役割です。男女差別ではなく、単に役割が違うのです。(2022.11.17 赤字修正)
 また、「古事記」は高柴昭様のご指摘のとおり、九世紀に朝廷で「日本書紀」を講義していた多人長(おおのひとなが)が書いたものです。原「古事記」はあったとしても「古事記」とは全く異なるものだと考えています。「古事記」は基本的に「日本書紀」の内容に沿いながら、神代では大国主神話を書き加えて、全体としてストーリが理解できるようにしています。
 しかし「日本書紀」が国譲り神話として隠した日本建国の主役大国主は、代々、北九州から山陰・北陸を拠点とする縄文海人ムナカタ族を束ねる王でした。貴誌第7405号(読者の声1)で紹介させていただいた最後の奴国王スサノヲの子孫であり、久々遅彦(くくちひこ)と呼ばれた人物です。兵庫県豊岡市久々比神社の祭神屋船久々智命で、スサノヲの子イタケルと同じ木霊ですので、上棟式の祭神とされています。「魏志倭人伝」に登場する「狗古智卑狗」は大国主の先代です。二世紀末から三世紀初頭の倭国大乱や三世紀後半の日本建国の戦いの模様が鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べて、分かりました。
 建国の史実を隠すために、神武東征や神功皇后による応神東征の話を創作しています。しかし真相は崇神紀の大国主大神の子大田田根子を呼び寄せて祀らせた話に近いものです。初代ヤマトの祭祀王は、武内宿禰とされた大国主久々遅彦と神功皇后のモデルとされた女王台与の子の応神天皇でした。
 応神天皇の父とされる仲哀天皇は、父ヤマトタケル薨去の38年後に生まれた計算になりますから、杜撰な作り話です。ヤマトタケルは本当の日本建国の主役の大国主を隠すために創作されたスーパースターです。吉備で奴国を再興し、ヤマト王権の基礎を築いた「王年代紀」(宋史)第十九代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の直系の子孫で、建国で実際に活躍した尾張王建稲種命(たけいなだねのみこと)をモデルにしています。これは纏向遺跡の外来土器のデーターから分かりました。東海の土器がほぼ半数でした。仲哀天皇は建稲種命の父乎止与命(をとよのみこと)がモデルで、住吉大神、つまり大国主久々遅彦に卑弥呼の死の後の内乱で殺された人物です。熱田神宮で祀られている建稲種命の、父の仇討ち話がサル・カニ合戦として語り継がれています。建稲種命は景行天皇の九州遠征の話のモデルにもなっています。つまり、景行天皇の孫の仲哀天皇は、実際は建稲種命の父乎止与命をモデルにした話だったということですから、とんでもない歴史改ざんでした。

 これらのことは、崇神天皇の四道将軍の遠征ルートと景行天皇の九州遠征、ヤマトタケルの東国遠征のルートが、上で述べた古墳時代初頭(三世紀後半)の戦闘の模様を示す鉄鏃・銅鏃の出土状況と一致したことにより、すべて判明しました(詳細は拙ブログ「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。
 「古事記」は「日本書紀」の記述と少しずつ違えて、「日本書紀」が改ざんした史実に気付かせるように意図的に作られています。多くの研究者や日本人は「日本書紀」を天皇の歴史書だという思い込みから、考古学や民俗学の成果と矛盾するにも拘らず、「日本書紀」を好意的に解釈してこれらの矛盾を無視していますから日本の古代史が謎のまま残されてきたのでした。
 「日本書紀」が『天皇の歴史書』というのは思い込みに過ぎず、『藤原氏のための偽の歴史書』だったと分かると、日本人の正体も古代の多くの謎も解けてきます。詳しくは拙ブログ「【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?」で連載していますので、よろしければご参照ください。通説とは違いますので、疑問点などをブログにお寄せいただけると研究が進みますので、どうぞよろしくお願い致します。
(刮目天)




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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その18)縄文時代から日本人の祖先神は蛇だった?

2022-08-19 00:52:17 | 古代史
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7.記紀と日本人の信仰の謎
④縄文時代から日本人の祖先神は蛇だった?

日本の神はどこからきたのか? 自然現象から宗教が発生するワケ
「カミ」から考える、日本人の心の歴史
2021.04.14 佐藤 弘夫

神道の源流を自然崇拝のアニミズムに見出す根拠として、しばしば天孫降臨にあたっての葦原中国(あしはらのなかつくに)の様子を描写する『日本書紀』の言葉が引用される。

そこでは、ニニギノミコトが赴(おもむ)こうとしている下界の葦原中国には、多くの「蛍火(ほたるび)のかがやく神」「蠅声(さばえ)なす邪しき神」がいて、「草木ことごとくによくものいう」と記述されている(神代下)。

だがこの表現は、人間と自然との親和的で「対称的」な(兄弟のような)関係を述べたものにすぎない(中沢、2002)。草木国土が、そのまま崇敬の対象としての神であることを強調する言葉ではない。

弥生時代や古墳時代の祭祀遺跡を調査しても、当時の人々が個々の草や木を、アニマをもつカミとして崇敬したという証拠は見出せない。


古くから日本人は通説のアニミズムでは説明できない宗教観を持っていたのだと知って驚きました。これもやはり「日本書紀」による間違った刷り込みだったようです。佐藤氏は人類がカミと感じるのは人々に畏怖の念を抱かせる自然現象(イナズマ・台風・太陽・月の天体運行など)や超人的な能力の動物(クマ・鳥・マムシなど)や、巨木・巨石などの奇観のスポットという具体的なモノであり、これらが始原的なカミの姿だったと説明されています。

縄文時代草創期後半(1万5000年前?)から見られるという土偶も、新しい命を生み出す女性の出産をカミの仕業だと見て、カミが宿る聖なるモノとして無事に出産することを土偶に祈祷していたのかも知れませんね。妊婦を描いた有名な縄文のビーナスは縄文時代中期(5500年前 - 4400年前)に製作されたものです。

そして、びっくりしたのは長野県諏訪郡富士見町藤内遺跡から出土した縄文中期の「蛇を戴く土偶」でした。



藤森栄一は『縄文の八ヶ岳』という本の中で、縄文中期一番シンボル的なものはヘビではないかと言っています。」(菅田正昭『縄文時代の信仰について・1』平成16年1月 講演録 より)

そこで、縄文土器の変遷を見ると、縄文時代早期(1万1500年前 - 7000年前)から前期(7000年前 - 5500年前)までのものは表面の装飾があまり見られない実用的な深鉢や円筒土器が多いようですが、中期(5500年前 - 4400年前)ころの土器は表面に棒状の粘土を張り付けた縄目文様が付けられ、実用性もあるのかも知れませんが、有名な火焔型のような装飾性・芸術性に富む土器が見られるようになります。

このように縄文土器は前期から中期にかけて大きな変化が起こっていますが、土器の表面の模様にヘビを象ったものが見られるようになります。蛇信仰の人々が列島にやって来て、その人々の文化が拡がったのではないかとも考えられます。しかし、「日本列島に集まった人々とは?」で説明しましたが、第一段階(狩猟採集民)(約4万年前から約4400年前、旧石器時代から縄文時代の中期)で列島に固有の縄文人(D1a2=旧D1b=D-M55)が生活していました。また縄文時代よりも少し前にすでに列島に到着して最初の新石器文化を担ったと考えられるC型縄文人(C1a1=C-M8)の存在を考えていますので、縄文中期になってこれらの人々の中で自然発生的に蛇信仰が起こったのでしょうか?もしもそうだとすると、その原因はよくわかりません。

しかし、第二段階(漁撈・園耕民)(約4400年前-3000年前)の時期より少し前に遼河文明のひとつである紅山文化(こうさんぶんか、約6700年前-4900年頃)が見られます。紅山文化の人々は、ブタやヒツジを飼い農耕を行っていました。また、野生動物を狩ったり野草を採ったりする狩猟・採集の生活も行っていました。狩猟、採集、漁撈などありとあらゆる生業に依存して生活する狩猟採集民である縄文人とも、水田稲作や畑作を「選択」して「主な生業」とする、いわゆる弥生時代の水田稲作民である農耕民とも異なる園耕民と言われる人々だったようです。つまり、農耕だけでなく、採集狩猟も生業としている紅山文化の人々が園耕民に当たるようです。

従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した[3]。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、後の中国文化へと発達した可能性が指摘されている[4]。(wiki「遼河文明」より)とあります。

紅山文化の墳墓からは、ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。ブタ、トラ、鳥のほか、龍を刻んだものも見つかっている。工芸の水準は高く、紅山文化の大きな特徴となっている。「猪竜/ 玉猪竜(zhūlóng)」(燭陰(Zhulong)とは別)と呼ばれる紅山文化の玉竜(竜を彫った玉)の造形は単純であり、竜が円形になっているものが多いが、後期になると盤竜・紋竜などの区別がはっきりとしてくる。考古学者の中には、後に中原で始まった竜への崇拝は、紅山文化にその源を発するという見方もある。wiki「紅山文化」より)とあり、「牛河梁遺跡など、紅山文化の祭祀遺跡にみられる円形や方形は、天円地方の宇宙観がすでに存在していたことを示唆している[7]。」とありますので、かなり進んだ精神文化を持っていたようです。



縄文後期に列島では上述の第二段階の漁労・園耕民が見られるようになりますので、紅山文化の人々(遼河人)の一部が列島にやって来て、C型縄文人や縄文人と交わって蛇信仰を拡げたのでしょうか?しかし列島中部では縄文中期に爆発的に起こっていますので、それはないと思います。

縄文時代前期中頃(約5900年前)から中期末葉(4200年前)の大規模集落跡である青森市の三内丸山遺跡は、この遼河人(ハプログループNは現代日本人男性の0.8%)が作ったという説がありますので、もしもそうであるなら、すでに縄文中期前葉(5500年前)の三内丸山遺跡に遼河人が来ていて、先住の縄文人と一緒に生活して先進の紅山文化を伝えたと考えられます。そうなると斉藤成也教授が『日本人の源流――核DNA解析でたどる』(河出書房新社)で主張する第二段階の時期を縄文後期から縄文中期に変更する必要がありますので、もっと検証が必要ですね(´ω`*)

ということで、縄文中期の蛇信仰の発祥は今のところは自然発生説か遼河人による渡来説ということです。どなたか詳しいことをご存知であればお教えください(/・ω・)/

縄文人が蛇信仰を持つようになった理由は以下の二点だと吉野裕子氏が「蛇」(講談社学術文庫1999, p.55)の中で述べておられます。
(1)まず、ヘビの形態が何よりも男根を連想させること
(2)毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃の下に仆(たおす)強さ


縄文土器の蛇がつねに荒々しく躍動し、生命力そのものと見えるのは、蛇によって象徴されるものが、縄文人の性に対する情念そのものだからであろう。
 この情念はさらに進んで、「縄文土偶の女性神の頭部にマムシそのものを戴かせ、又、有頭(亀頭)石棒に代表される石製蛇体神として表現される(宮坂光昭『蛇体と石棒の信仰』)に至るのである。
」とあります。

また、蛇には他の生物に見られない特徴があります。「蛇の目にはマブタがないために、その目は常時、開き放しで、まばたくということがない。・・・蛇の目に出合うと、人間はじっと蛇から睨みつけられているように思う。その結果、蛇の目は特に「光るもの」として受け取られ、古代日本人の感覚に対して、蛇の目は非常に訴えるものがあったのである。」(吉野上掲書 p.120)。とありますから、太陽と結びつくようです。太陽の光を鏡(かがみ)が受けると蛇の目と同じ効果、あるいはそれ以上の効果があります。中国伝来の青銅鏡(せいどうきょう)を「カガミ」と訓まれた理由は、蛇の目(カカメ)から転じたもので、蛇信仰からきたと説明されています(吉野上掲書 p.124)。

そして人々が目を見張るその形状・毒の強さ・生命力旺盛さの相乗効果から蛇を祖先神と考えるようになったようです。日本人の新しい命は、他界である「荒神(蛇)の森」から産まれ、子供から成人に成長して、最後は死ぬと元の「荒神の森」に戻るという考え方だと吉野裕子氏が祖神祭を説明しています(「日本人の生死観」河出文庫 2015, p.124)。祖先神を祀る行為は、漢字「祀」が示すように高坏(示)の上に蛇(巳)を置く、つまり三宝の上に鏡餅をお供えするのはとぐろを巻いた蛇のことだったのです。



卑弥呼を縄文海人ムナカタ族の姫巫女と突き止めていますが、宇佐市安心院町三女神社の三柱石が石棒そのものでした。魏から鏡百枚を賜ったのは卑弥呼が蛇巫女だったからでした。卑弥呼の鬼道の正体は蛇巫女の祖霊祭祀だったのです。

卑弥呼の墓は見つかってるよ!


取り敢えず、ここまでお付き合い、ありがとうございます。日本人の祖霊信仰(蛇信仰)には道教の陰陽五行説、山岳信仰の修験道や神仏習合などが入ってきて、とても奥深いものになっています。門外漢の刮目天は勉強しながらやってますので、時間がかかります。もし間違った思い込みなどがあれば遠慮なくご指摘いただけると助かります。

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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その17)日本建国で非業の死を遂げた神々の祟りを朝廷は怖れた?

2022-08-17 09:54:31 | 古代史
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次の記事の執筆に手間取っていますが、2022-08-14 13:56:19に掲載したこの記事も読み直すと、ちょっと説明不足の感じがしましたので、(注2)その他を赤字で追加しました。よろしければご参照ください。疑問点がございましたら遠慮なくお願い致します( ^)o(^ )

7.記紀と日本人の信仰の謎
③日本建国で非業の死を遂げた神々の祟りを朝廷は怖れた?
古代律令制度では人臣に対して位階が最高位の正一位を含めて三十段階あったようですが、神様にもランクがあったのをご存知ですか?神階と呼ばれており、正一位から正六位上まで十五段階ありました。元々は同じ神様でも神社によって神階が違いますので、神社の祭神のランク付けということのようです。

神に位階を授けた最初の記録は『日本書紀』において天武天皇元年(673年)7月に壬申の乱に際して霊験を現した大和国の高市御県坐鴨事代主神(たけちのみあがにますかものことしろぬしのかみ)牟狭坐神(むさにますのかみ)村屋坐弥富都比売神(むらやにますみふつひめのかみ)に位を授与したとする記述である[1]。とあります。

事代主神は大国主の長男です。高天原のタケミカズチが大国主に国譲りを迫った時に、事代主は呪いを掛けて海に沈んだという話があります。牟狭坐神は身狭社に居る生霊神、天活玉命(あめのいくたまのみこと)とのことですが、「吾は高市社にいる事代主である。また、身狭社にいる生霊神である。」と言ったとあるので、事代主のことと考えられます(wiki「天活玉命」より)。

また、弥富都比売神は大国主命の后神三穂津姫命(みほつひめのみこと)で、出雲の美保神社(島根県松江市)で、子の事代主と共に祀られており、「本当は怖い七福神の謎」で説明した「天女の羽衣」と縁が深いとあります。つまり、台与のことなのです。一緒に祀られている大己貴命(大国主命)の別名が三穂津彦命です。三穂津彦命・三穂津姫命がウサツヒコ・ウサツヒメ、アソツヒコ・アソツヒメなどと同様のペアの神であることから大国主と台与のことだと分かります。



事代主神も、「本当は怖い七福神の謎」で見たように、話を創作して真相を誤魔化すための大国主神の分身なのです。またこの話から、天武天皇は大国主と台与の子孫だと分かりますので、ニギハヤヒ大王の子孫の中大兄(奴国王=龍蛇神国王の正統な後継者の意味)、つまり天智天皇とは兄弟じゃないことも分かります。万葉史観渡辺康則「聖徳太子は天皇だった」でも二人の両親とされる舒明天皇も斉明(皇極)天皇も実在ではないと突き止めていますので、すべて藤原不比等のでっち上げだったことが分かるのです。(2022.8.17 赤字追加)

話を「神階」にもどして、ちなみに正一位の神様と言えば、京都市伏見稲荷大社 稲荷大神を思い浮かべます。ここの神様が最高位と言うことですが、実際は数多くいます(注1)。佐賀市稲荷神社の稲荷神は最初、従五位下が授けられ、その後も進階を重ね、天慶5年(942年)に諸神に対しておこなわれた授位で正一位に叙せられた。佐賀市地域文化財データーベースサイトにありました。

しかし、お稲荷さんですから狐ですよ。でも唯の狐ではないようです。伏見稲荷大社では主祭神を下社宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)としています。古事記に登場する女神ですが、日本書紀では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と書かれ、食物神です。wiki「ウカノミタマ」によれば、平安時代の『延喜式』(大殿祭祝詞)には、トヨウケビメの別名ともされる[6]屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)が登場するが、この女神について祝詞の注記では「これ稲の霊(みたま)なり。世にウカノミタマという。」と説明しており、ウカノミタマを女神と見なしていたことがわかる[2]。とあり、伊勢神宮外宮の祭神豊受大神のことで女王台与がその正体だとすぐに分かります。ですから、伊勢神宮内宮の祭神は、台与を妃とした大国主命のことだと分かるのです(注2)(2022.8.17 赤字追加)

実は神階には皇族に与えられる位階と同じ品位という特別な神階があります。下は、六国史終了時点の品位の一覧です(神名は神階授与時の表記で、括弧内は『延喜式』神名帳での鎮座国と現神社名、最終的には全て一品)。この四柱の神様だけが普通の神階よりも格上ということで、朝廷が特別待遇している神様なのです。

一品
伊佐奈岐命 (淡路国 伊弉諾神宮)
八幡神、八幡比咩神 (豊前国 宇佐神宮)
二品
吉備都彦命 (備中国 吉備津神社)


伊佐奈岐命は、国生みの神で、スサノヲとその弟ニギハヤヒの父ですから、最も重要な皇祖神と位置付けられています。江南出身の倭人の初代奴国王天御中主が皇祖神なのですが、その子孫のイザナギ大王が縄文海人ムナカタ族のイザナギ姫を娶り、一緒に国生み・神生みしたという事実を、大和朝廷も日本人のアイデンティティと考えていたことが分かります。恐らく日本書紀が隠したので、朝廷は奴国のことを時と共に忘れてしまったのだと考えられます。しかし十世紀に東大寺の僧奝然(ちょうねん)が宋の太宗に日本の王年代紀を献上して、「日本は古の倭の奴国」だったと思い出したようです(^_-)-☆

次の宇佐神宮の二柱は、応神天皇と比売大神とされています。しかし、なんで第十五代天皇だけが篤く祀られているのか従来謎でしたが、実はその父仲哀天皇も、日本建国の真相を誤魔化すための創作で、本当の父は大国主命だったことは既に解明してこのシリーズ(その14)でも説明しました。応神天皇は日本を建国した大国主を祀る、日本最初のヤマトの祭祀王(初代天皇)だったのです。大国主命を隠すためですが、首長霊(米神)信仰によれば大国主命と霊的に一体なのです。

地上の葦原を瑞穂の国に変えて中国(なかつくに)の国造りした神ですが、上述のとおり女神アマテラスの子孫に国譲りをしました。しかし国譲り神話は不比等にとって不都合な建国の真相を誤魔化すために創られた話です。

実際は、吉備を平定して奴国を再興した天照大神尊ニギハヤヒの子孫の狗奴国大王卑弥弓呼を裏切って、倭国王になった人物で、台与を女王に立て魏を後ろ盾にして狗奴国と対立しました。というか、ほとんど列島の主要部を抑えていました。ヤマト王権である狗奴国は大国主命久々遅彦と女王台与の倭国を滅ぼしたので、その崇りを畏れたという話も(その14)で説明しました。ですから、台与はお稲荷さんとして、大国主命は八幡大神という名前に変えて篤く祀られています。(2022,8,17 赤字追加)

また、比売大神は倭国王難升米によって暗殺された女王卑弥呼です。狗奴国が直接手にかけたわけではないですが、狗奴国の大軍が難升米の倭国を追討しようと押し寄せてくるタイミングで北部九州一帯で日食が起こったので、太陽神を祀る卑弥呼が不謹慎であったためと難升米は判断したようです。ですから、ヤマトのせいで非業の死を遂げた卑弥呼の祟りを怖れたのだと考えています。(2022.8.17 赤字追加)

そして、卑弥呼は皇族に与えられる品位の最高位です。縄文海人ムナカタ族の狗奴国を裏切った族長赤坂比古の娘で姫巫女だったと推理していますが、皇族とされていますので、大国主命の父で先代狗古智卑狗(久々遅彦)の姉(もしくは妹)が赤坂比古に嫁いで生まれた娘だったと考えられます。卑弥呼を葬った径百余歩の急造の円墳を河原から遥拝するヒカケ三女神社の摂社が大国主命を祭神とする金毘羅宮と八束神社とありました。八束神社の祭神は「出雲国風土記」の「国引き」に登場する八束水臣津野命(やつかみずおみつぬ)だったと推理できます。卑弥呼の祖父は先代狗古智卑狗の父だったと推理できます(「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照)。

宇佐神宮の上記の二柱と共に祀られている神功皇后のモデルとされた女王台与には品位は与えられていないので、台与は直接皇族につながってはいないようです。大国主の国造りのパートナーだったスクナヒコナのモデルと推理した神功皇后台与の父息長宿禰王は、開化天皇五世孫ということにしていますが、神功皇后台与の祖父が迦邇米雷王(かにめいかずちのみこ、生没年不詳)とあり、尾張王建稲種命を示唆する人物ですから、神功皇后の系図も創作だったと見ています(カニメは尾張王という意味で、雷王はタケミカズチを示唆している「抹殺された尾張氏の謎(その1)~ (その3)尾張と言えばカニだ~わ!参照)。台与の父息長宿禰王は縄文海人ムナカタ族の近江・北陸を支配した支族だったと推理しています。(2022.8.17 赤字追加)

さて、最終的に一品とされている最後の吉備都彦命ですが、この人物も何故特別扱いなのか、従来は謎だったと思います。朝廷は天照大御神にも神武天皇にも、あの建国の英雄ヤマトタケルにも一品を与えてはいませんから、吉備で鬼退治した桃太郎のモデルとなったこの人物こそ、ご皇室にとって最も縁の深い神(皇祖神)だったと認識していたのです。その正体を朝廷は必至で隠しましたが、その崇りが怖ろしいのでバレましたね!そうです!今上天皇もこの人物ニギハヤヒ大王の子孫だったのです(「天皇陛下はニギハヤヒ大王の男系男子?」参照)。

【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?

これだけ、シッポが出ていたのに今までなぜ分からなかったのか?現存する日本最古の正史「日本書紀」は天武天皇が編纂を命じたのですが、崩御して三十年以上経って完成している事実を無視していました。天皇の歴史書だという思い込みがあったのが一番の原因でしょう。

これに気付けば、正史に基づく従来の定説はほとんどひっくり返りますから、ミもフタもない話と嫌われるかもしれません。しかし、真実を無視すると多くの日本人は酷い目に合うと思いますよ!

当時の朝廷が実在の神様をしっかりとお祀りしていたのは、そういうことなのだと思います(^_-)-☆




(注1)wiki「正一位」によれば、正一位に叙された神社は以下のとおりです。
神産日神、高御産日神、玉積産日神、足産日神(宮中八神殿→皇居宮中三殿神殿に合祀)
賀茂御祖神(山城国 賀茂御祖神社)・・・807年
賀茂別雷神(山城国 賀茂別雷神社)・・・807年
辛国息長大姫大目命、忍骨命(香春神社、福岡県田川郡香春町大字香春733)・・・843年
第54代仁明天皇御宇(833〜850)の承和十年(843年)三月三日、辛国息長大姫大目命、忍骨命を共に正一位に叙し賜ふ『神位宣解』
伊波比主命神(下総国 香取神宮)・・・850年
大神大物主神(大和国 大神神社)・・・859年
大己貴神(大和国 大名持神社)・・・859年
松尾神(山城国 松尾大社)・・・866年
石上神(大和国 石上神宮)・・・868年
日本大国魂大神/倭大国魂神(大和神社、奈良県天理市新泉町星山306)・・・897年
今木神(山城国 平野神社)
春日神(大和国 春日大社)
枚岡天児屋根命(河内国 枚岡神社)
建御賀豆智命神(常陸国 鹿島神宮)
大比叡神(近江国 日吉大社)


は大国主命の別名か分身として祀られていると推理しています。

(注2)屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)は兵庫県豊岡市久久比神社で屋船久久能智命(やふねくくのちのみこと)とともに木の神として祀られています。建物の工事の安全を祈る「上棟式」で祀られる神様です。クーデターで殺されたスサノヲの王子イタケルが木の霊とされるので、この久久能智命が、イタケルの子孫の狗古智卑狗(久々遅彦)のことと推理しました。先代は倭国大乱で大活躍しましたが、その子の大国主命久々遅彦のことです(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。ですから、屋船久久能智命とペアの屋船豊宇気姫命が台与のことだと分かります(^_-)-☆

なお、「古事記」に武内宿禰が琴を弾いて神功皇后に神がかりさせて住吉大神の神託を仲哀天皇に伝えたとあります。富来隆『「虚空津姫」と「狗古智卑狗」と』大分縣地方史 No.32-33 (1964. 1) によれば、狗古智卑狗の発音は、このような神事(カジリ)に使う琴が前漢時代(紀元前二世紀から一世紀)に空侯(クウコ)と呼ばれることから空侯ツ彦(クコツヒコ)かもしれないと指摘しています。そうすると狗古智卑狗「空侯ツ彦」はカジリに使う琴によって武内宿禰と一致します。記紀で、武内宿禰は五代の天皇に仕えた三百歳の人物とされるので、ニギハヤヒ直系の(狗)奴国王に仕えた、縄文海人ムナカタ族を束ねるイタケルの直系の子孫が代々、久々遅彦を襲名していたと推理しました。(2022.8.17 追加)


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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その16)日本書紀の仏教伝来の記事はウソだった?

2022-08-10 00:00:08 | 古代史
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いつも勉強させていただいている「ねずさん」の動画に、随分前に、ちょっと言葉足らずのコメント入れましたが、つい忘れていました。お付き合いください( ^)o(^ )

7.記紀と日本人の信仰の謎
②日本書紀の仏教伝来の記事はウソだった?( `ー´)ノ


学校では教えない日本で仏教が広まった意外な理由|小名木善行 69,128 回視聴 2021/11/11 @YouTube

物部と蘇我の仏教をめぐる対立というのは「日本書紀」の虚構だと分かって来ています。当初から仏教は受け入れられています。理由も分かっています。物部氏は百済と関係が深く、蘇我氏は新羅ですが、どちらも仏教を取り入れています。両者の対立は半島南部の鉄の利権の対立です。物部(ニギハヤヒ)系と蘇我(スサノヲ・大国主)系の氏族が大王位を巡って血で血を洗う抗争にまで発展しています。「日本書紀」はその最後の武力抗争である壬申の乱を勝利した天武天皇が命じて編纂が始まりましたが、崩御の約三十年後の720年に、当時の権力者藤原不比等によって完成されました。ですから、不比等は藤原氏の権力を正当化するために、不都合な歴史を隠蔽し、改ざんしていることが分かってきました。つまり、「日本書紀」の正体は天皇家のものでなく、勝者藤原氏の歴史書なのです。詳細は拙ブログ「刮目天のブログ」で説明していますので、よろしければどうぞ!お邪魔しました。

以上のような書き込みを唐突にしましたが、もう少し詳しく述べる必要がありますね。ご存知のとおり、仏教伝来の年をめぐって諸説あり、「日本書紀」では欽明十三年(552)とされ、また「元興寺縁起」では欽明七年の戊午年(538)となっていますので、通説では欽明天皇の時代に仏教公伝があったとされています。〔しかし、 欽明七年は丙寅年(546)になり、戊午年は先代の宣化天皇三年になりますから、関裕二「古代史 不都合な真実」(じっぴコンパクト新書342)にあるように日本書紀が改ざんした歴史の真相を暴露する目的だったのかも知れません。〕(2022.8.11 赤字追加)

しかし、五世紀後半のヤマト王権がすでに仏教を取り入れていた可能性があることは、新撰姓氏録(巻二十和泉国 神別の条)の記事から推理できます。雄略天皇の病気(日本書紀では二十三年(470年)七月に病気になり八月七日に病気が重くなり崩御)を治すために、「豊国奇巫」(とよのくにのあやしきかんなぎ)が宮中に呼ばれたという記事があり、ここから推理できます。

巫(かんなぎ)は古神道のシャーマン(巫覡)のことですが、香春岳から宇佐にかけて、三世紀末から半島南部(新羅)との交流があり、道教や仏教が導入され八幡信仰が行われていました(「卑弥呼を不比等から護った人物?」参照)。すでに原八幡神は宇佐八幡宮の祭神であるムナカタ女神(比売大神、卑弥呼)であることは突き止めています。

時代は下って587年、用明天皇の病気のために「豊国法師」が招かれたという記事(注1)から「豊国奇巫」は新羅仏教(注2)の僧侶だったと推理できます。古代神道の巫覡であれば多くの人々が見慣れていますので、「奇巫(あやしきかんなぎ)」という言葉は使われるはずはないので、異国の不思議な巫覡つまり法師ということを伝える言葉だと分かります。

雄略天皇二十三年(470年)には仏教公伝があった(新羅仏教が伝わっていた)ということなのです。

それではなぜ、日本書紀で蘇我馬子と物部守屋・中臣勝海の仏教公伝をめぐる抗争があったと記されたかが問題ですが、上にコメントしたスサノヲ・大国主系豪族とニギハヤヒ系豪族の抗争の事実を隠すためだと推理できます。

しかし、中臣勝海は藤原不比等の一族なので、敗者側に置かれるのは矛盾するように見えますが、中臣氏の始祖アメノコヤネが日本書紀の創作でしたので、実は中臣氏の存在は鎌足の正体(百済王子扶余豊璋)を隠すために創作された氏(うじ)なのかも知れません。何故、藤原に改姓しなければならなかったのかを考えると、中臣氏が古くは遡れない一族だったからだと推理できます。中はナーガ(龍蛇神)の意味ですから、中大兄の家臣という意味なのです。ニギハヤヒ大王の血筋の奴国王の跡継ぎで欽明天皇・敏達天皇の子孫天智天皇のことですが、日本書紀にはどこにも皇子と書かれていません(渡辺康則「万葉集があばく 捏造された天皇・天智<上><下>」大空出版 参照)

日本書紀を信じる方にとっては、なんじゃこれ?ですが、これで驚くことはないですよ(^_-)-☆

実は諏訪大社の江戸時代までの筆頭神官家が守屋家だったということで、物部守屋も創作だったというトンデモない話なのです。物部氏も仏教を取り入れて、物部守屋よりも少し後になるようですが、飛鳥時代初期の七世紀前半創建とある渋川廃寺を氏寺にしていました。恐らく、下の記事で述べた諏訪大社創建の話がもとになって、大国主・台与の末裔の蘇我氏(実は大王家、一族の名前にみな豊が付きますよ。渡辺康則「聖徳太子は天皇だった」大空出版 参照)と物部氏(ニギハヤヒ大王家)の抗争話を誤魔化すために崇仏・廃仏抗争を創作したものと推理しています。

あの諏訪大社の神様も?

(注1)日本書紀用明天皇紀に豊国法師(とよくにのほうし)が参内し、それに反発した物部守屋と中臣勝海が挙兵する話が以下の通りあります。

二年夏四月二日、磐余(いわれ)の河上で、新嘗(しんじょう)の大祭が行なわれた。
この日、天皇は病にかかられて宫中に帰られた。
群臣(まえつきみ)がおそばに侍り、天皇は群臣まえつきみに言われた。
「私は仏、法、僧の三宝に帰依したいと思う。卿けいらもよく考えて欲しい」
群臣は参内して相談した。

物部守屋大連(もののべのもりやおおむらじ)と中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)は、勅命の会議に反対して、
「どうして国つ神くにつかみに背いて、他国の神を敬うことがあろうか。大体、このようなことは今まで聞いたことがない」
と言った。
蘇我馬子大臣(そがのうまこおおおみ)は、
「詔みことのりに従ってご協力すべきである。誰がそれ以外の相談をすることになろうか」
と言った。
穴穂部皇子(あなほべのみこ)は豊国法師(とよくにのほうし)をつれて、内裏に入られた。物部守屋大連は、これを睨んで大いに怒った。このとき押坂部史毛屎(おしさかべのふびとけくそ)が慌ててやってきて、こっそりと大連に告げて、
「今、群臣たちは、あなたを陥れようとしています。今にもあなたの退路を絶ってしまうでしょう」
と言った。
大連はこれを聞き、別業(なりどころ)のある河内の阿都(あと)に退いて人を集めた。

中臣勝海連は自分の家に兵を集め、大連を助けようとした。
ついに太子彦人皇子(ひつぎのみこひこひとのみこ)の像と竹田皇子(たけだのみこ)の像を作ったまじないをかけて呪った。
少し経ってから事の成り難いことを知り、帰って彦人皇子の水派宮(みまたのみや)の方へ着いた。


(注2)wiki「朝鮮の仏教」によれば、新羅への伝搬は諸説あるが、528年(法興王14年)に、高句麗からもたらされた仏教の受容を訴えた異次頓(朝鮮語版)の殉教を経て公認されたという説が有力である[1]。とありますが、すでに「高句麗へは372年(小獣林王2年)に、前秦王苻堅が胡人の僧順道を派遣したことが初伝であり、この時期には般若系の思想や格義仏教が伝わっている。」とあるので、新羅は公認前ですが、民間では仏教が伝わっていたと考えられます。


日本書紀が偽の歴史書だと分かると全てひっくり返る感じがしますから、逆に面白くないかも知れませんね(*´Д`)
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漢字を伝えたのは百済の王仁?(;一_一)

2022-08-07 19:01:16 | 古代史
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わたしの読者は既に分かっておられることですが、多くの邪馬台国ファンには当時の倭人は漢字を読み書きできないという記紀の刷り込みがあるので、それも邪馬台国問題が解決しなかった大きな原因だと思います。そこで、折角発表された動画に、例によって不躾なコメントしましたが、ウップ主様は心のひろい方で助かりました。どうぞお付き合いください!( ^)o(^ )


【古代中国の発音を復元】魏志倭人伝の地名と人名を古代音で予測復元

631 回視聴 2022/08/05 この動画の趣旨は、邪馬台国論争で地名や人名を漢音や呉音等の日本語で議論する無意味さを知って頂くために作成しました。
魏晋代の発音を上古音、中古音を参考に予測復元し、魏志倭人伝の地名、人名の発音を復元してみました。
予測復元された発音を聞いてくだされば、邪馬台国論争で言葉遊びをしている無意味さを理解していただけるものと思います。


刮目天
この動画の趣旨に「邪馬台国論争で地名や人名を漢音や呉音等の日本語で議論する無意味さを知って頂くために作成しました。」とありますが、何故無意味だと主張されるのでしょうか?従来、弥生時代の倭人は漢字を読み書きできないから、倭人の発音を聞いた魏の役人が、韻書の冒頭の文字を宛てたとするのが通説でした。ですから、当時のシナ人が漢字を書いたので当時のシナ人の発音で議論すべきだというご主張であれば、申し訳ありませんが、誤りですよ。

最近考古学の話題になっていますが、弥生中期から北部九州などで発見された砥石と思われていたものが硯石の欠片であることが分かって来ています。また、松江市の田和山(たわやま)遺跡でみつかった弥生中期後半の石板に、文字(漢字)が墨で書かれていました(「紀元前後、国内最古の字? 田和山遺跡の石製品に黒い線」朝日デジタル2020年2月2日 17時48分)。さらに、福岡市雀居遺跡(ささいいせき)では弥生後期の木製組み机が丸ごと出土しています。

魏志倭人伝にも伊都国に置かれた一大率が女王への文書や賜物を検査して間違いなく届けることになっているとありますから、倭人が目録などの文書を読み書きできたということなのです。例えば、卑狗は彦(ひこ)のことだと分かりますから、卑狗を古代のシナ語で読んでも無意味なのです。

倭国の地名や人名などは漢字を読み書きできた倭人が書いて教えたものなのです。この事実を理解すると、邪馬台国問題は一気に解決に向かいます。この伊都国という国名も、とても深い意味がありますし、狗奴国や狗古智卑狗や卑弥呼、卑弥弓呼などはこの人間が、漢字を読めない、あるいは敵対勢力である無教養の人々をバカにして卑字を多用したものだと分かるのです。詳しくは拙ブログ「変わる弥生時代観!」「伊都国の意味がヒントだった?」などをご参照ください!お邪魔しました(/・ω・)/


日本書紀応神紀(四・五世紀のこと?)に漢字は百済の王仁(わに)が伝えたというのが日本人にかなり刷り込まれていますので、その思い込みが問題解決を邪魔していたのだと思います。Wiki「王仁」にもありますが、この人物は日本書紀のフェイクだと思います。つまり架空の人物です。古事記も大きな役割を果たしましたが(注)、弥生時代の倭人は漢字を知らなかったという刷り込みによって、日本建国の歴史を誤魔化すという目的がまんまと成功しましたから、本当に恐れ入りますね(/・ω・)/

(注)日本書紀の説明によると以下のとおりです。
十六年の春二月に、王仁わにが来て、すぐに太子・菟道稚郎子うじのわきいらつこが師とされ、多くの典籍を王仁わにに習われたが、何事にも通暁し不明とすることはなかった。いわゆる王仁わには書首ふみのおびとらの始祖である。」( 菅野雅雄,『日本書紀』 巻第十(応神紀))

さらに古事記に以下のような説明がされていたので、多くの日本人は百済から伝わったと信じてしまったわけです。
また(天皇は)また百済国にお命じになって、「もし賢者がいたならば、献上しなさい」と仰せになった。そこでその命を受けて(照古王が)献上した人は、名は和迩吉師わにきしで、論語十巻・千字文一巻と合わせて十一巻を和迩吉師に託して献上した〔この和迩吉師は文首ふみのおびとらの祖先である〕。」(菅野雅雄,『古事記』(中巻・応神天皇二十年己酉))


最後までお付き合い、ありがとうございます。
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