刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その14)狗奴国がヤマトになったのは大国主の祟りだった

2022-07-17 00:29:51 | 古代史
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6.日本建国の謎
④狗奴国がヤマトになったのは大国主の祟りだった
ここまで尾張王建稲種命の活躍を見てきましたが、魏を後ろ盾にして、国造りも上手にやって隆盛になり、列島の大部分を味方につけた大国主の倭国が、なぜ消滅寸前の狗奴国に敗れてしまったのか?謎が残ります。建稲種命が強かったからなのか?建稲種命をモデルとした景行天皇の九州遠征の様子から想像するに、前半は大国主にコテンパンにやっつけられて、負傷した兵士らを運び、命からがら西都原まで落ち延びて、そこで次々と亡くなった兵士らを川床遺跡で葬ったと推理しています(注1)。

200名ほどの戦死者でしたから、そこから考えると九州遠征した当初の軍勢は500名程度だったと思われます。大分県での戦いまでで、ほとんど半減したのではないかと思われます。南九州で食糧調達のために集落を移動して、狗奴国の援軍を待ったようです。景行紀では六年も滞在したとあります。ようやく援軍が到着して、熊本方面から北上して、大国主や赤坂比古、最後は女王台与まで討って、倭国を崩壊させたと推理しています。大国主は前半戦で建稲種命を散々懲らしめたので、油断していたのでしょうか?大国主は推定で80歳前後の白髪の老人だったようです(注2)。大国主神話から考えても妃は大勢いたはずですので、早く子供に王位を譲っていたらよかったのかも知れませんが、子供達には大国主ほどのカリスマ性がまだないので、老体に鞭打って頑張っていたのですかね(;´Д`)

大国主と台与らを討った後に、大国主傘下のムナカタ海人族が復活しないように、北部九州は従軍した物部氏の一族が占領したようです。建稲種命が率いる尾張勢はいったん纏向遺跡に戻り、前回見たとおり、東海・関東や北陸の大国主傘下の勢力を鎮撫するために遠征したということです。建稲種命の大活躍で狗奴国が大国主の倭国を吸収し、統一を果たしましたが、帰路に駿河湾で水死したという伝承があります(注3)。建稲種命をモデルとして悲劇の英雄ヤマトタケルの物語が創作されたものと考えています。藤原氏にとって建国の史実がとても都合が悪いので、史実を誤魔化す目的で、真に活躍した大国主や建稲種命らの事績を隠すためでした。

これで、ようやく列島の混乱が収まり、国造りを始めようとしていた狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)に、後ろ盾としていた孫呉が西晋に滅ぼされたという重大情報が飛び込んできました。280年のことです。卑弥弓呼大王だけでなく、情報を知った狗奴国の人々は、倭国を滅亡させたので、西晋に仕返しされるのではないかと心配し、相当混乱した模様です。日本書紀崇神紀では以下のように書かれています。

五年、国内には疫病が多く、民の死亡者は、半数以上に及ぶほどであった。
六年、百姓の流離する者、或いは反逆する者あり、その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。


そこで一日中、天神地祇にお祈りをした。その後、天照大神(アマテラスオオミカミ)、倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。

ということで、天照大神と倭大国魂が宮中から遷されることになりましたが、託した姫らに異変があり困ったので、七年春二月十五日、天皇は八十万の神々をお招きして占いをされました。このときに、大物主神(オオモノヌシノカミ)が倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソノヒメノミコト)に神憑りして、「天皇はどうして国が治まらないことを憂えるのか。もし、よく私を敬い祀れば、きっと自然に安定するだろう」と告げられました。

さらに、この夜の夢に一人の貴人が現われ、そして殿舎に向って自ら大物主神と名乗って、「天皇よ、そんなに憂えなさるな。国が治まらないのは、私の意によるものだ。もし我が子である大田田根子(オオタタネコ)に私を祀らせたら、たちどころに安定するだろう。また、海外の国も自ら降伏するだろう」と告げた。天皇は夢の言葉を得て、ますます喜ばれた。あまねく天下に告げ、大田田根子を探した。とあります。

茅淳県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)で見つかり、大物主神を祀らせたところ、ここで疫病がやっと収まり、国内はようやく鎮まった。五穀はよく捻って百姓(おおみたから)は賑わった。ということです。

茅淳県は現在の大阪湾の東部、堺市から岸和田市一帯のようです。古事記では河内国の美努村(現在御野県主神社のある八尾市上之島町)で見つかったという違いがありますが(注4)、内容的には同じです。異説はありますが、大物主神は大国主命の和魂(ニギタマ)とされています。wiki「荒魂・和魂」によれば、神道における概念で、神の霊魂に、荒々しい側面である荒魂(アラタマ)と、穏やかな側面の和魂があるとされています。

また、大物主神のお告げを伝えたのは大物主の妻で、纏向遺跡最大の前方後円墳箸墓の被葬者の倭迹迹日百襲姫命(ヤマトとトビももそひめ)です。トビは蛇(へび)の別称で大国主のことです。ヤマト(物部氏は日負い鶴が家紋)と大国主(亀がシンボル)とを何度も何度も唱える姫という意味の名前です。ヤマトに殺された大国主の妃の悲劇の女王台与が正体です。図の亀甲紋の中に閉じ込められた剣花菱が台与を表しています。剣を持って勇敢に狗奴国勢と戦って戦死したので、神功皇后のモデルとされました(「箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?」参照)。



ということからわかるように、記紀で述べられた崇神紀の混乱は、280年の呉の滅亡によって後ろ盾を失い、西晋に追討される恐れが生じた狗奴国の混乱を表していると考えられます。狗奴国の人々は戦死した大国主と台与の祟りと考えたので、二人の間に生まれた子供を探し出して、両親を祀らせたということです。台与は神功皇后のモデルですから第十五代応神天皇(ホムダワケ)とオオタタネコは同一人物だったのです。大国主と台与を祀る初代祭祀王で、ニギハヤヒ大王の子孫狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)から大王位が譲られたということになります。つまり、大国主と台与の倭国を滅ぼした狗奴国が、西晋に朝貢した女王台与の子を、邪馬台(ヤマト)国の正統な後継者としてヤマトの大王にすることにより、西晋から追討されることを回避したということなのです。

ですから、纏向遺跡の狗奴国をヤマトと呼ぶことにしたということです。

なんと素晴らしいアイデアなのでしょう!

もう十分に血が流れたので、争いは止めましょうという意味もあります。

そして応神天皇の皇后は仲姫命(なかつひめのみこと)ですが、wiki「仲姫命」によれば、「品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。」とあります。しかしすでに見たように景行天皇の正体は尾張王建稲種命ですから、仲姫命は建稲種命の子か孫ということになります。仲(なか)はナーガ(龍蛇神)を意味しますからニギハヤヒ大王の子孫の尾張王の一族ということが分かります。大王の外戚として尾張氏は実権を握ったことになります。その主筋の狗奴国王卑弥弓呼は大王を引退し、その一族である物部氏が尾張氏と共に初期の倭国の政治を主導したと考えられます。

また卑弥呼の弟で和邇(和珥、わに)氏の祖赤坂比古(日触使主)の娘宮主宅媛(みやぬしやかひめ)を応神天皇の妃とし、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、矢田皇女、雌鳥(めとりの)皇女を生んだといいます。ですから、当初から敵対していた大国主傘下の勢力も取り込んで、ノーサイドということにしたのです。大きな和の国という理念から新たに日本(倭)国が作られました。後世に奈良盆地を大和国と書いて、読みはそのままヤマト国としたのです(注5)。




(注1)川床遺跡の説明によると、円形、方形周溝墓44基、土壙墓149基で構成される集団墓で、鉄刀、鉄鏃などの鉄製品が91点副葬されていた。弥生時代後期の遺跡らしい。個々の墓の副葬品は少なく各墓で1,2個、殆どの土壙墓では鉄鏃1個が副葬されていた。また、周溝墓では鉄刀などが副葬されているが、宗教的な豪華な副葬品はない。その様式は北九州のものらしい。

200人ほどの戦死者です。狗奴国勢の墓ですので北九州の様式ではないと思います。円形周溝墓は前方後円墳の原型とも言われる橿原市瀬田遺跡や赤穂市東有年・沖田遺跡などでも見られるものです。方形周溝墓は弥生前期に畿内や東海で発祥し、盛行した様式です。物部氏や尾張氏の指揮官クラスの墓ではないかと考えられます。また、土壙墓は敵の矢で負傷して亡くなった兵士のものでしょう。

(注2)公孫氏が帯方郡を設置したのが204年で、その直ぐ後に倭国王が先代狗古智卑狗を討ったと推理しています。その後倭国王難升米に懐柔された先代赤坂比古が狗奴国を裏切ったと推理しています。大国主は10歳前後の子供で、父の財産をすべて奪われて、丹後半島まで落ち延びたのではないかと想像しています。その時の話が大国主神話の因幡の白兎と考えています。白兎が大国主の子供時代です。ですから、そこから266年の台与の朝貢の後ですから、270年ころに建稲種命に仇討ちされたので、大国主は80歳前後の老人だったと考えています。白髪の武内宿禰のイメージです。神功皇后のモデルの台与は247年ころ13才ですから、270年ころはまだ36歳くらいでしょう(^_-)-☆



(注3)wiki「内々神社(うつつじんじゃ)」によると、「東国の平定を終えた日本武尊が内津峠に差し掛かった時、早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から副将軍である建稲種命が駿河の海で水死したとの報告を受けた。それを聞いた日本武尊は「ああ現哉々々(うつつかな)」と嘆き、その霊を祀ったのが内々神社の始まりという。」とあります。

(注4)オオタタネコは大国主と台与の子ですから畿内ではなく九州に隠れていたはずです。関裕二氏は崇神紀のオオタタネコの話が史実に近い話で、初代天皇は九州から呼び寄せられたと推理しており、それを誤魔化すために日本書紀で神武東征や神功皇后東征を創作したと推理しています。そして、オオタタネコは鹿児島神宮に隠れていたと推理していますが、由緒に「正八幡宮、国分正八幡、大隅正八幡等とも称し全国正八幡の本宮でもあります。」とあるので、いいと思います。台与と一緒に逃れたとされていたようですが、台与は伊都国で戦死し、平原王墓に葬られたと推理しています。したがって、父大国主と一緒に高良山で戦っていて、父が戦死したので、そこから密かに鹿児島神宮に落ち延びたのではないかと考えています。護衛したのが大伴氏の祖道臣命(みちのおみのみこと)ではないかと考えています。神武天皇の東征の先鋒を務め、神武天皇即位の際には宮門の警衛を務めた人物とされています。

(注5)ところが人間の世界はそれほど単純ではなかったようです。赤坂比古が建稲種命の父を殺したので、仇討ちされましたから、両方の一族は最後まで和解できませんでした。大国主らの子孫とニギハヤヒ大王の子孫とのヤマトの大王の相続争い、権力争いが激化したようです。和邇氏が力を持って尾張氏は衰退させられ、和邇氏が尾張を領有したようです。やはり、八世紀末の桓武天皇まで尾を引いたようです。両サイドの氏族の確執を利用して漁夫の利を得たのが、七世紀に台頭した藤原氏でした。そういう見方で、隠された古代史は解明できると考えています。関裕二氏が解明の先頭に立っています。「女系で読み解く天皇の古代史」(PHP新書)は優れた内容ですが、女性天皇の存在を信じておられるようですので、少し心配です。女性天皇は藤原氏の虚構ですから、斉明天皇がダミーだと見抜いている万葉史観の渡辺康則氏は飛鳥・奈良時代を解明する優れた推理をしていると考えています。


ここまでお付き合い、ありがとうございます。
次は、藤原不比等がやったことを書く予定ですので、またお付き合いください( ^)o(^ )
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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その12)景行天皇の九州遠征の史実は、尾張王建稲種命の父の仇討だった

2022-07-11 00:37:33 | 古代史
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6.日本建国の謎
②景行天皇の九州遠征の史実は、尾張王建稲種命の父の仇討だった
景行天皇の九州遠征の話は、すでに(その5)及び(その6)で詳しく述べたとおり、先代尾張王乎止与命(ヲトヨ、仲哀天皇のモデル)が大国主(狗古智卑狗)・赤坂比古に殺されたので、その仇討のためなのです。民話のサル・カニ合戦は尾張王の仇討話だったのです。詳細は「抹殺された尾張氏の謎(その1)(その3)尾張と言えばカニだ~わ!」及び「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」を参照ください。

図に示した「日本書紀」の景行天皇の九州遠征の話にそって、尾張王建稲種命がどのような戦いをして仇討ちを成功させたのかを詳しく推理していますので、まだの方は以下の記事をご一読ください(*^▽^*)

(左クリックで拡大)

【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)景行天皇が周防佐波(防府市)に到着されてから、九州に入り、投馬国とすでに卑弥呼のいない邪馬台国(宮ノ原遺跡)に屯する賊(大国主軍)を退治する話になっています。実際は相当痛めつけられたようですよ(;´Д`)。

【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その2)大国主が整備した鉄製武器製造コンビナートの大野川中・上流域での激戦の模様です。沢山の血が流れた血田の地名が現在緒方川流域の知田とされていると分かりました。地名というのは、卑弥呼の墓の横の奴婢百余人が殺された場所を示唆する血野の例のように、千何百年も変わらなかったようですからホントに驚きますね!(@_@)!。

【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その3)天皇軍は強い抵抗を受けて、散々な目に遭って南九州に落ち延び、そこで援軍の到着を何年も待ってたようです。体制を整えて、改めて熊本方面に進出し、敵を打ち払う話です。景行天皇が攻撃したとされる天草半島の旧高来郡の今福遺跡の溝から銅鏃が8個も出土していました。溝の銅鏃は尾張王の勢力が攻撃した証拠なのです。景行紀と一致したのでこれには驚きました。

【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その4)いよいよ倭国の本拠地を襲い平定する話です。大国主は高良山に神籠石を設置して山城を築いていましたが、その地で戦死して、祇園山古墳に葬られたと推理しています(「神籠石は最初に誰が作った?」参照)。

祇園はスサノヲ牛頭天王と関わりのある地名です。これも(その3)で説明した米神(首長霊)信仰なのです。大国主もスサノヲも霊的に一体だと分かると、隠したつもりでも分かってしまいます。天神様と牛の関係について様々な説があると思いますが、これも実は、菅原道真が天穂日命 (アメノホヒノミコト)の子孫で、天穂日命はアマテラスとスサノヲの誓約(うけい)で生まれたのでスサノヲの子に当たります。だから、菅原道真と天神アメノホヒとスサノヲはすべて霊的に一体だということを示しています。

尾張王建稲種命は鳥栖市で赤坂比古を討って、仇討ちに成功しました。そして父乎止与命が葬られた赤坂古墳に詣でています。鳥栖市永吉町に永世神社があります。由緒書は以下のとおりです。

肥前風土記によると、景行天皇が高良の行宮からお帰りの途中、酒殿泉のほとりで食事をされた時お召しの御鎧が平常とちがって光り輝いているので、占なわせたところ、この土地の神々が、天皇の御鎧をほしがっているとのことであった。
天皇は「そうであったのか、では、永世の宝とせよ。」と仰せられ御鎧を奉納せられた。それで永世神社ととなえ、この辺を永吉の里といった。その鎧の貫緒はほとんどみだれ落ちたが、鎧や兜の板は今も残っていると記されている。


祭神は住吉大神・八幡大神・地主神となっていますが、先の二柱は大国主久々遅彦のことで、後で祀られたとのことです。ですから地主神が乎止与命と建稲種命で、藤原氏によって地主神とされたと考えられます。

最後に、女王台与まで伊都国に追い詰めて殺してしまったので、建稲種命は後々まで祟られます。本来ならば大国主の倭国を滅ぼした日本建国の立役者として末代まで褒められ敬われるはずなのですが、後世の天変地異・災害などは大国主と台与の祟りだと当時の人々は信じていましたので、大きな功績にもかかわらず、大きな顔ができなかったようなのです。最初に父王がヤマトを裏切ったと言うこともあるのだと思います。そこで藤原不比等は尾張王の弱点を利用して、景行天皇の話として史実を隠したわけです。これについてもまた後程説明する予定です。


ここまでお付き合い、ありがとうございます。まだ続く予定です。最後までどうぞよろしくお願いします(/・ω・)/
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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その11)青谷上寺地遺跡の虐殺は大国主への復讐による狗奴国勢の無差別テロだった

2022-07-10 00:00:11 | 古代史
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6.日本建国の謎
①青谷上寺地遺跡の虐殺は大国主への復讐による狗奴国勢の無差別テロだった
前回、大国主の国造りが成功し、従来狗奴国側だった人々が大国主の傘下になってしまい、畿内を中心に尾張・播磨などの狗奴国(旧奴国の正当な後継者ニギハヤヒ大王の一族)は押しつぶされそうになってしまいました(大国主久々遅彦もニギハヤヒの兄で最後の奴国王スサノヲの直系の子孫)。狗奴国王卑弥弓呼(記紀の崇神天皇)は、なんとか苦しい形勢を挽回しようと、裏切り者たちに対して纏向遺跡で毎日祈祷・呪詛を行ったと思います。特に、狗奴国王と同族のニギハヤヒ大王の子孫の尾張王乎止与命(ヲトヨ、記紀では仲哀天皇)が大国主・赤坂比古らに殺されたので、その子の建稲種命(タケイナダネ、記紀の景行天皇、仲哀天皇の祖父)は、鳥栖市の赤坂古墳に埋葬された乎止与命を纏向遺跡内の前方後方墳メクリ古墳で改葬して後継者の儀式を行ったと推理しています。その後、大国主らに仇討ちしますが、記紀では景行天皇の九州遠征として詳しく書かれていますので、次回詳しく説明します。

ここで多くの専門家は、青谷上寺地遺跡の事件は弥生後期後半(二世紀末から三世紀初頭)の倭国大乱の時期に起こったと考えているようですが、その時期の集団戦闘(矢戦)の痕跡は佐賀県・福岡県・熊本県の三県で見つかっているだけです。鳥取県青谷上寺地遺跡を含めて日本列島のその他の場所での集団戦の痕跡が見られないことは、弥生後期後半の鉄鏃・銅鏃の出土状況を調べることによって分かっています(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。

さて、まだ若い、血気盛んな建稲種命は、父の恨みを晴らすために取り敢えず、大国主久々遅彦の根拠地だった丹後半島の集落を襲ったと考えられます。京丹後市函石浜遺跡を攻撃した痕跡だということは、出土した銅鏃から考えられます。丹後半島を含めて倭国側は鉄素材は潤沢に供給されていますので、鉄鏃を使用しているはずです。しかし狗奴国側は鉄素材の供給が完全に止まっていますので、銅鐸などの青銅器を鋳潰して鏃(矢尻)を作ったと考えられます。

次に鳥取市の青谷上寺地遺跡を襲ったと推理しています。新生児を含む男女109名の遺体が溝の中に無造作に投げ入れられていました。中には骨に銅鏃が刺さったままの遺体もありました。函石浜遺跡では狗奴国側の銅鏃の外は、恐らく倭国側の兵士や居住者のものと考えられる鉄鏃・石鏃が出土していますが、青谷上寺地遺跡では鹿の骨で造った狩猟用の矢尻(骨鏃)以外はすべて銅鏃ですから、ここには鉄鏃を装備した倭国側の兵士は居ない無防備の集落だったと思われます。その西側約50キロの麦木晩田遺跡は丘陵にあるムナカタ海人族の大規模な城と言ってもいい拠点集落ですから多くの兵士が駐屯していたはずです。もしも警戒していたら青谷上寺地遺跡に警護隊が派遣されていたはずです。ですから、襲撃されることなど全く予期していなかったということでしょう。

日本列島では兵士による民間人へのこの規模の無差別大量殺戮はほとんど考えられませんから、怨恨によることは明らかです。犯人は尾張勢を中心とする狗奴国側の兵士であると推理できます。
事件の詳細は以下の記事にありますのでご参照ください。

【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?

なお、上の記事にもその時点で分かったDNA解析結果について考察しましたが、核ゲノムを含む最新の解析結果が発表されていましたので(篠田謙一・神澤秀明・角田恒雄・安達 登「鳥取県鳥取市青谷上寺地遺跡出土弥生後期人骨のDNA分析」国立歴史民俗博物館研究報告第 219 集、2020。)、新たに分かったことについて考えてみます。ちょっと長いので申し訳ないですが、お付き合いください。

ミトコンドリア DNA のハプログループ別の内訳を図 3 に示した。ハプロタイプの多様性を反映して,13 種類のハプログループに分類されている。このうち最も大きな比率を持つのはハプログループ D4b の 24 % で,次が N9a の 15 % であり,それ以外は 10 % 以下の比率だった。現代日本人で最も多いハプログループである D4a は 2 体のみだったが,ハプログループ D4 に属するものは全体の 45 % を占めており,現代日本人の 32 % [Tanaka et al., 2004]を大きく上回っている。注目すべきは,この中で明らかに縄文系と考えられるハプログループがほとんどないことである。縄文の代表的なハプログループは M7a と N9b であるが[Adachi et al., 2011],青谷上寺地遺跡のサンプルでは,前者が 1 例認められるだけだった。すなわち,青谷上寺地遺跡に見られる母系の DNA 系統は,ほとんどが弥生時代以降に日本列島にもたらされたものだと考えられる。」(p.168)



wiki「ハプログループD (mtDNA)」によれば「ハプログループDは48000年前に東アジアで誕生し、東アジア・東南アジア・北アジア・中央アジアそしてアメリカ大陸に至るまで広範囲に観察される。形質人類学におけるモンゴロイドの分布域と概ね重なる。日本人の約41%-42%がこの系統に属する[4][5][6]、D4は日本人の30%以上が属す最も高頻度のグループとなっているが、D5は僅か5%程度となっている[7][8][9][10][11][12]。長寿の傾向がある遺伝子とされている[7][8][9][10][11][12]。」とあります。

そして有名人のハプログループmtDNA D4b系統の記事に、長野・湯倉洞窟遺跡 縄文人骨に見られたとあります。なんと縄文時代早期(約7,920年-7,795年前)の人骨とありますから、これはもう縄文人と呼んでもいいと思います。

ですから、恐らく日本列島内のD4のハプログループは、3%の縄文系M7aと共に、縄文時代から列島に居たと考えられるので、縄文人と考えてもよさそうです(合計48%です)。つまり、残りの52%くらいが弥生時代に列島に来たのだと考えられます。しかし、これらの中にも縄文時代から列島に来ていた可能性もありますね。

なお、井上貴央「青谷上寺地遺跡の弥生人と動物たち」(鳥取県教育委員会H18.3,p.22)に「F群かそれに属すると考えられるものが 2 点」とあり、「日本列島に集まった人々とは?」で越南由来のハプログループFは倭人(Y染色体DNA O-47z)の母系かもしれないと述べましたが、今回の解析結果では消えていますし、該当ページも閲覧できないので、F群は最初からなかったと考えてよいようですね(*´Д`)

更に男性と判定された 5 体について,Y 染色体 DNA のハプログループを推定した(表3)。下顎 10 号は DNA 断片の数が足りずに決定に至らなかったが,他の 4 個体に関しては,2 体でサブグループまでを判定し,2 体で大分類までのハプログループの決定ができた。興味深いことに,決定できた 4 体のハプログループのうち,渡来系の弥生人のハプログループと考えられるものは 21 号頭骨の一体のみ(ハプログループ O)で,残りは縄文系と考えられているタイプだった(ハプログループ C1 と D)。この結果は,ミトコンドリア DNA とは全く逆の傾向を示すことになった。」(p.169)

日本列島の人類集団の形質は,縄文から弥生時代にかけて大きく変化したことが知られており[例えば Dodo and Ishida, 1990; Matsumura,1994],弥生時代は日本人の成立を考える上で重要な時期である。基本的には,弥生時代を通して在来集団と渡来してきた集団の混血が進んだと考えられるので,今回解析した青谷上寺地遺跡集団の遺伝的な変異が大きいという事実は納得できる。一方で,母系に遺伝するミトコンドリア DNAの多くが渡来人に由来するものであるのに対し,父系に伝わる Y 染色体 DNA の大部分が在来の縄文人に由来するものだと考えられることは,婚姻が在来系集団と渡来系集団の間でランダムに行われなかった可能性を示唆している。しかし解析できた Y 染色体ハプログループのデータが 4 例と少ないので,現段階ではこの問題に結論を出すことは難しい。その解明は今後の課題としたい。」(p.172)

しかし、「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」で示したとおり、現代日本人の男系のルーツはすでに分かっています。C1は現代日本人男性に2.3%見られるC型縄文人系(C1a1=C-M8)と考えられます。またOについては25.1%見られるO-47z(倭人)だと考えられますので、つまりこの時期には倭人と縄文人との婚姻が行われ、混血が進んでいたと考えられます。王族レベルでも一世紀後半に婚姻が行われたことは、イザナギ・イザナミの国生み・神生み神話から分かります。イザナミは米子市宗形神社を根拠地とした縄文海人族でしたよ(^_-)-☆


(「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)

核 DNA データから SNP 情報を抽出し,アジアの他集団との比較を行った結果では,青谷上寺地の各個体は,現代日本人の範疇に入ったが(図 4),狭い範囲に固まることはなく,現代日本人の中に広範に散在する形となった。いくつかの個体では,分析できた SNP の数が少ないので,そのためによるバイアスを見ている可能性はあるが,比較的ゲノムのカバレッジが高かった 15 号と8 号は大きく離れており,今回分析した個体同士の遺伝的な構成がバラついていることは間違いない。」(p.169)



結果のこの図からも、青谷上寺地遺跡の人々はもう現代日本人とほとんど同じなのだと分かります(^_-)-☆。

ですから、「日本列島に集まった人々とは?」にも述べましたが、七世紀に百済から大量に渡来した人々もほとんど倭人と考えていいようですよ。

今回の解析では,解析した 32 サンプルで 29 のミトコンドリア DNA の種類(ハプロタイプ)を確認した。ミトコンドリア DNA は母系に遺伝するので,同一の配列を持つもの同士は,母系につながる親戚,例えば母と子,同じ母から生まれた子ども同士などの関係にある。その中で共通するミトコンドリア DNA のハプロタイプが全体の 1 割に満たないことは注目に値する。青谷上寺地遺跡では,狭い溝の中から 5300 点もの人骨が散乱状態で出土した。同時期に遺棄されていることから同時代を生きた人々であると判断でき,先祖と祖先の関係を見ているわけではないので,この事実は彼らの大部分が同時期に生きた母系の血縁関係のない人々であったことを示している。核ゲノム解析でも,解析した個体のゲノムは広く現代日本人集団の中に散在しており,集団として遺伝的な多様性が高かったことが示されている。
 ヒトの流入が少ない長く続いた村落では,同族の婚姻が増えることで,やがて構成するミトコンドリア DNA のハプロタイプは少なくなるのが一般的である。その場合は,特定の数種類のタイプが多数を占めるようになることが,これまでに行われた縄文時代の遺跡で確認されている[Shinodaand Kanai, 1999]。これに対し,都市のように多くの人々が流入や離散を繰り返しているような地域では,同時期に多数のミトコンドリア DNA のタイプが観察されることが予想される。
」(p.172)

ということで、青谷上寺地遺跡の人々が縄文海人族だったと気付けばすべて理解できますね(^_-)-☆


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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その10)大国主が鉄器生産の技術革新をもたらした

2022-07-08 15:26:58 | 古代史
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5.大国主と台与の謎
⑦大国主が鉄器生産の技術革新をもたらした
大国主の国造りの第一歩は豊葦原を瑞穂の国に変えることでした。そして、列島内の交易・流通センターであった奴国比恵・那珂遺跡群を整備して繁栄しました(「【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ」参照)。さらに福岡県東部の周防灘沿岸部にも第二センターを作って列島内の交易を盛んに行ったようです。また、対外交易の拠点として従来から伊都国がその役割を果たしていたので、それを補強するために山陰から北陸の玉造り工人を呼び寄せて、潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡を作って帯方郡・楽浪郡との活発な交易で倭国が大いに隆盛になったようです(「【検証16】3世紀後半の伊都国だよ」参照)。

この時期になって、鉄器生産の技術革新が起こったことがよく知られています。大国主が国造りの一環で技術革新を推進したのだとわかります。村上恭通「古代国家成立過程と鉄器生産」(青木書店 2007),阿部大誠『「折り曲げ鉄器」の性格と鉄器生産』大阪公立大学『フォーラム人文学』No.15,2017などの文献で、弥生時代から古墳時代前期の列島各地の鉄製造技術の発達について詳しく述べられていますので、これらを参考にして説明します。

まず、朝鮮半島南部から高温鍛冶を可能にする技術が最初に福岡市博多遺跡に持ち込まれています。鞴(ふいご)で風を炉に送り込むことができる羽口を持った鍛冶炉を作ったことにより、高温での連続的な操業が可能となりました。これによって、鉄に溶け込んだ不純物を除去でき、製品の品質が上がりました。また従来の半島から持ち込まれた鋳造鉄器の剥片や半島南部から供給された板状鉄斧などの残りを集めて溶融し、鉄器の再利用ができるようになりました。

少し戻って列島内の鉄器製造の歴史を簡単に見てみましょう。

第一段階は「弥生中期末葉に竪穴遺構を工房とした鉄器生産が北部九州で開始される。この段階の鉄製品は穂摘具である摘鎌を除くとほとんどの利器が鉄器化しており、その作りも後期以降のそれと比較しても遜色がない。しかし、鉄鎌には折り返し甲類があり、また朝鮮半島では発達しない方形板鋤先があるので、すでに朝鮮半島とは異なる指向性や生産上の工夫をみせている。昌原市茶戸里墳墓群の優れた鉄製品と比較すると、そこには歴然とした技術の差が看取できる。したがって、中期末葉段階に誕生する鍛冶工人は、三韓人による直接技術指導受けたとしても、その内容をそのまま厳密に維持することはできず、みずからの趣向を反映させた、いわば弥生的な鍛冶技術を生み出したこととなる。」とあります(村上pp.291-292)。

紀元前三世紀の大陸からの戦争難民であるシナ人(秦人など)が半島南東部(辰韓)に入植していますから、製鉄や鉄器製造技術は彼らがもたらした技術でしょう。弁辰などの在地の倭人がこのシナ人の指導を受けて鉄の製錬や精錬をしていたと考えています。ですから三韓人と言っても、シナ人から技術を習得した弁辰の倭人が北部九州から技術習得に来た倭人を指導したと考えています。

紀元前219年(弥生中期中葉)に奴国王の要請で来日した徐福一行の冶金技術者が青銅器製造技術をもたらし、奴国が祭祀用の青銅器鋳造を行って、奴国内で生産できるようになったと推理していますから、彼らの弟子が鉄器の鍛造技術を半島で見学して、北部九州で始めたのではないかと考えています(注1)。これらの技術は当初は中国山地の庄原市和田原B遺跡などや丹後半島の玉造り集落の京都府奈具岡遺跡などで行われるようになります。また木製品の加工用工具などが鳥取県麦木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡などで数多く造られています。青谷のものは器種が豊富なことで知られています。

第二段階は、弥生後期後半(二世紀後半から三世紀前半)の倭国大乱前後の戦乱の時代を反映して、鉄鏃を中心とする大量の武器製造が行われるようになります。特に北部九州の倭国の領土では狗奴国の攻撃を受け、相当疲弊した模様ですが、狗奴国側の勢力を支えるのが大分県大野川流域から阿蘇山麓と最前線基地としての菊池川中・上流域の集落群で、日本全国でこの時期に出土する鉄鏃の約36%が出土しています(注2)。

狗奴国側は、沖ノ島経由で半島南部の板状鉄斧などの鉄器の素材を豊富に手に入れることができ、鉄の交易ネットワークによって益々隆盛になっていきます。一方、倭国側は半島が混乱して楽浪郡との交易が途絶えて、鉄素材が枯渇し、住居内で青銅器を鋳潰して銅鏃を作っていた跡が福岡市の幾つかの集落で見られます。そして、狗奴国側の最前線基地である菊池川上流域の方保田東原遺跡やうてな遺跡の環濠で銅鏃が出土していますから、公孫氏が半島の混乱を収めて帯方郡を設置したので(204年)、倭国は勢いを盛り返したと推理しています。倭国側が狗奴国側を銅鏃を用いて攻撃した痕跡が認められます。これによって倭国攻撃を指揮していた狗奴国の官の先代狗古智卑狗が戦死したために途方に暮れていた、沖ノ島経由での鉄素材の供給を担っていたムナカタ族の族長(先代)赤坂比古を倭国王難升米が懐柔して、卑弥呼が登場したことはすでに(その3)で述べました。

第三段階は三世紀後半(古墳時代初頭)に倭国の大半を手に入れた大国主が、上述のとおり半島南部の高温鍛造の技術を博多遺跡に導入したことから始まったわけです。

図には倭国側の新しいタイプの炉を導入した痕跡のある遺跡のみをプロットしています。従来狗奴国側であった東国の人々までも大国主の倭国のうわさを聞いて九州に頻繁に出かけるようになり、大国主との縁故を作ることによって、新技術を導入したと推理しました。終末期から古墳初頭の鉄鏃・銅鏃の出土状況から、矢戦の痕跡に重なり、記紀の四道将軍や景行天皇・ヤマトタケルの遠征ルート上にこれらの遺跡があることからも確かめられていますが、その詳細は次回以降で述べます。

狗奴国側については、第二段階までの弥生時代の鍛造遺構を持つ代表的な遺跡を青丸で示しています。纏向勝山遺跡に博多遺跡と同様のかまぼこ型羽口の欠片が見つかっていますが、後に狗奴国軍が北部九州の倭国を攻略して纏向遺跡にもたらされたものだと推理しています。これは次回以降に話題にする予定です。



この技術を傘下の鍛冶集落で使用させたので鉄器の普及が一気に進みました。これらの集落でも羽口の小型化や様々な工夫がされて、鉄器生産の技術革新が始まり、古墳時代中期ころには各生産工程の専業化によって鉄器生産技術は一層進歩したようです(村上p.126)。

大国主がもたらした技術革新によって鉄器が様々な分野の生産効率を上げ、人々が豊かに暮らせるようになりました。大国主の倭国が狗奴国に滅ぼされた後世になっても、大国主は日本全国の人々に慕われ、畏れられてヤマト朝廷だけでなく民衆レベルでも盛んに鎮魂や加持祈祷が行われるようになります。これについては、後でまた詳しく述べたいと思います。

(注1)日本で最初の青銅器製造は、弥生中期初頭(紀元前四世紀ころ)熊本県八ノ坪遺跡の工房と知られています。北部九州はそのころ半島から南下した江南系倭人の奴国王天御中主の一族が支配を始めていました。恐らく熊本の人々は縄文系海人ムナカタ族だったので、その頃は奴国の直接支配が及ばなかったと考えています。奴国王とムナカタ族の王族レベルの婚姻は弥生後期前葉(一世紀半ばころ)の第十六代王伊弉諾尊と伊弉冉尊から始まったと考えられます。

(注2)九州全体の鉄鏃出土数は約60%で、九州を除くと矢戦の痕跡が見られませんから戦争は九州であったと分かります。



      住居、墳墓、戦跡、その他、 計
九州    349 、 41、 22、 27、 439
中国・四国 179、 23、 0、 27、 229
その他     36、 25、 0、 10、 71
計      564、 89、 22、 64、 739



専門用語があるので、分かりにくかったかもしれませんが、ここまでお付き合い、ありがとうございます。つづきもよろしくお願い致します( ^)o(^ )
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【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その9)日本が珍しい宝石の島というイメージは台与の朝貢からだった

2022-07-06 05:44:15 | 古代史
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5.大国主と台与の謎
⑥日本が珍しい宝石の島というイメージは台与の朝貢からだった

前回見たとおり、大国主は安心院町佐田地区で倭国王になって最初に国造りを始めました。ここで米神(首長霊)に感謝とご加護を祈る儀式を行い、この地を最初の都に定めました。恐らく、部下を一部残して国造りを続けさせて、大国主は台与を伴って投馬国を視察したと思います。魏志倭人伝に五万戸とあったので、周防灘に面した福岡県東部や北九州市と遠賀川流域を含めて考えています。実際の戸数はかなり誇張があると思いますが、列島最大の交易・流通センターのあった奴国は二万戸でいいと思いますが、投馬国は奴国に次いで、多くの人が集まった地域だと考えています。この後も半島とのつながりがあるようですので、大国主は、半島南部の倭人をこの地に入植させたと考えています。

北九州市小倉南区城野遺跡では弥生時代中期後半ころから玉造りが盛んにおこなわれており、赤色チャート、玉髓(ぎょくずい)、ジャスパー、メノウなどの石材と伴に大量の石錐などが出土しています。九州では後期終末から古墳時代初期の糸島市潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡と共に玉造り工房のある代表的な集落として知られています。出雲石と呼ばれる花仙山産の碧玉製勾玉が出土していますので、年代的にも大国主が運び込ませたものだと推理できます。その他、京都府奈具岡(なぐおか)遺跡などの山陰から北陸にかけて存在する玉造り工房とともに城野遺跡では列島内でもかなり早く玉造りが行われた集落です。伊都国へは大国主や台与の父の息長宿禰王が九州に玉造り職人を呼び寄せて、対外交易を行ったと考えています。

265年に司馬懿の孫の司馬炎が魏から帝位を禅譲され西晋を建てました。翌年266年倭女王の台与が朝貢を行ったことが魏志倭人伝に以下のとおり記録されています。

壹與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹 (台与は倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を遣わし、魏使張政等を帯方郡に帰還させるために一緒に送った。そして、魏の朝廷に詣り、男女の生口三十人を献上し、穴をあけた白珠(真珠)五千個、青い大勾玉二枚、異文雑錦二十匹を貢いだ。)」とあります。

台与の朝貢は西晋皇帝へのお祝いですから、親晋倭王として引き続きよろしくお願いしますという意味で、倭国としては精一杯豪華な貢物を献上したのでしょう。ですから青い大勾玉は、糸魚川でしか採れない珍しい天然青ヒスイと考えられます。つまり、台与の一族が越を支配していたからこそ献上できたということになります。

糸魚川天然青翡翠(ヒスイ)勾玉


もしも青色の勾玉がガラス製ならば、火山は263年に滅んだ蜀の領土だった四川省峨眉山がありますし、朝鮮半島の北に長白山(白頭山)もありますから、勾玉に加工はされていないとしても、青色のガラス玉は、大きさにもよるでしょうが、魏や西晋でも珍しいものではなかったと思います。倭国としては、西晋の人々にとってとても珍しい天然青色ヒスイの大きな勾玉二個を目玉?として送ったと考えるのがいいと思います( ^)o(^ )。

これらの貢物によって、その後の中国では日本を珍しい宝石が採れる国と考えられるようになったとあります(王勇「中国史のなかの日本像」農山漁村文化協会 2000)。隋書 俀国伝に「魚眼精」という鶏の卵大の青い勾玉の記述があります。その文章の直前に阿蘇山の話があるので、ガラス製の勾玉と考えたくなりますが、それを倭国が献上した記録はないので、やはり台与の献上した勾玉のことでいいと思います。

そして、応神天皇を即位させた神功皇后も越・近江を支配する息長宿禰王の娘ですから、神功皇后は台与がモデルということです。記紀では神功皇后は斧・鉞(まさかり)を武器にして敵を蹴散らした女傑となっています。後でまた述べますが、糸島市平原遺跡の女王墓の棺の上に素環頭太刀が置かれたことは、太刀を持って奮戦して殺された台与の史実を示唆するものです。そこから、神功皇后が女傑のイメージとして創作されたということでしょう(「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)。

神功皇后は仲哀天皇の熊襲征伐にあたり、敦賀を出発して天皇と落ち合った場所が豊浦津(とゆらのつ、下関市長府)とあります。また皇后の妹の名が豊姫で、さらに神功皇后が豊浦津で拾った如意の珠は、山幸彦が竜宮城で貰った潮満玉と潮干玉を連想させるものです。山幸彦の妻が豊玉姫で神武天皇の祖母に当たるとして、トヨという名が神功皇后の周りに数多く登場します。ここからも女王台与をモデルに創作されたものだと考えられます。

それから、正始八年(247年)に倭国への二人目の魏使の張政が到着した時すでに卑弥呼が死んでいて、男王が立って殺し合いになり約千人が死んだとあります。その後、張政の進言で台与が女王に立てられたということです。張政は266年に台与が朝貢するまで倭国に滞在していたと考えられます。ですからその後の大国主・台与の倭国が滅亡するまではいませんでしたが、それまでの経緯を全て知っていたはずです。大国主と一緒に邪馬台国を訪れて、径百余歩の卑弥呼の墓を目撃したと考えています。

皇帝の補佐役だった司馬懿(179 - 251年)も大国主・台与の倭国成立の真相を張政から報告されて知っていたはずです。ですから、難升米が帯方郡に無事に逃亡できたとしても、張政の活躍で難升米は用済みになったので、司馬懿の命令で暗殺されたと推理できます。親魏倭王の金印はどこに行ったのでしょうか? もしも、司馬懿の手に落ちたとすると、台与に渡すとなると、その経緯を説明しなければならないので、そのまま鋳潰されるはずです。その場合は、金印は永遠に出てこないということですね。

歴史にもしもはないでしょうが、難升米があの時、張政と一緒に帯方郡に逃亡していたら、難升米の運命も違っていたし、日本建国の様相もその後の歴史も、随分と違ったものになっていたことでしょうね(^_-)-☆。

張政は司馬政権の指示で倭国に滞在し、二十年近く大国主の外交顧問として活躍したのでしょう。帯方郡址の墳墓から太守張撫夷という塼が発見されているので、東夷の倭国を長い間手なずけた功績で、下級役人から太守にまで出世したということだと考えられます。

【検証23】魏使張政って?!


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