刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その4)纏向遺跡は卑弥呼の裏切りに対応するために造られた政治都市だった

2022-06-30 17:59:01 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

大幅に改定しましたので「纏向遺跡は卑弥呼に敵対する狗奴国だった(^_-)-☆」をご参照ください。


次もよろしくお願いいたします( ^)o(^ )
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その3)倭国大乱と卑弥呼の謎

2022-06-27 00:00:31 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

⑬で米神山と山鹿市茶臼塚古墳の位置を示す図を追加しました。詳しくは【謹賀新年】狗古智卑狗の霊ライン?に関連記事がありますので、よろしければご確認ください( ^)o(^ )

4.倭国大乱と卑弥呼の謎
①倭国大乱の原因は奴国を滅ぼした師升一族への復讐だった
【検証18】倭国大乱の痕跡だ!
倭国大乱は、半島の混乱で衰退した倭国と、半島南部の鉄を手に入れて列島内の鉄交易ネットワークを作り隆盛となった狗奴国(旧奴国)の勢力との戦争でした。狗奴国の官狗古智卑狗は大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて鉄製武器製造の鍛冶集落を造り、さらに熊本県菊池川上流に攻撃拠点「方保田東原遺跡・うてな遺跡」を造って、倭国の領域である佐賀平野と筑紫平野、時には福岡平野西部や王都のある伊都国まで襲撃した模様です。鉄鏃と銅鏃の出土状況を調べて分かりました(^_-)-☆


②狗奴国の官(先代)狗古智卑狗の戦死が卑弥呼を登場させた
公孫氏が半島の混乱を収拾し、204年帯方郡を設置したので倭国王難升米は早速朝貢し、勢力を取り戻したと推理しています。難升米は菊池川の狗奴国の拠点を襲撃し、最前線で大活躍していた先代狗古智卑狗は、菊池市うてな遺跡か同市木野神社付近で討ち死にしたと推理しています。王を失った、玄界灘を支配していたムナカタ族の族長赤坂比古が途方に暮れていたところ、復活した倭国王難升米に懐柔されて、娘の卑弥呼(通称ヒメゴ)による太陽神のお告げによって倭国の政治を行う条件で狗奴国を裏切ったと推理しています。赤坂比古に従った九州全域(倭国のあった北部九州を除く)や中国西部と四国などの勢力が倭国に加わり、倭国は半島南部の鉄資源も抑えた模様で、隆盛になりました。この後の話は次回です(^_-)-☆

【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)(その2)

菊池川上流の倭国攻撃拠点を見下ろす小高い丘に造られた山鹿市茶臼塚古墳(津袋古墳群)の上に大日如来の石の祠が置かれています。大日如来は胎蔵曼荼羅の中央部にあり、北東方向に大国主命の本地仏「弥勒菩薩」が配置されています。スサノヲ大王の子孫でムナカタ族の王(先代)狗古智卑狗の跡を継いだ大国主狗古智卑狗(久々遅彦)が内戦に勝利して倭国を手に入れました。最初に国造りした豊葦原瑞穂の国(宇佐市安心院町佐田地区)の米神山を、先代の墓の大日如来が指しているとわかりました。その米神山中腹に置かれた石柱群の方角が、何とすべて南西なのですよ!米神とは首長霊のことだったのです。これらの石柱は首長霊のエネルギーを取り入れるアンテナだったのですよ!これには興奮しました。重要なヒントを頂いた自転車クマさん米神山の貴重な情報を頂いた超古代文明研究家猿田彦氏に改めて心より感謝致します!(/・ω・)/


米神山から225度が正確な南西方向ですが、231度はそれよりもほんの6度だけ西寄りですので、ほとんど南西と見ていいと思います(^_-)-☆(2022.6.27 追加)

③伊都国の意味が多くの謎を解き明かすカギだった
伊都国の意味がヒントだった?
倭国が朝貢していた公孫氏が魏の将軍司馬懿に滅ぼされ、司馬懿の残虐行為のうわさを聞いて震え上がった倭国王難升米は、司馬懿の部下の帯方郡太守に呼び出され早速、朝貢のために郡に出かけました。難升米が倭国の情報を太守に漢字で書いて伝えた人物であったことが、伊都国の深い意味を知れば分かります。それによって、数々の謎が解けてきました( ^)o(^ )

④魏志倭人伝の邪馬台国への行程記事のウソは政治的な理由だった
投馬国へ水行してみませんか?
邪馬台国への行程記事改ざんの政治的な理由が分かれば、実際の邪馬台国への行程は推理できますよ(^_-)-☆


⑤魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓はここだった
卑弥呼の墓は見つかってるよ
卑弥呼の正体は宇佐神宮の主祭神比売大神=宗像三女神です。三女神の主神は厳島神社の祭神市杵島比売命(イチキシマヒメ)ですから、三女神は卑弥呼を誤魔化すための日本書紀の創作です。しかし葦原中つ国の宇佐嶋に天降りしたという伝承を残してくれたので、邪馬台国がどこか分かりました。卑弥呼の居城は宇佐市安心院町下毛の宮ノ原遺跡でした。宮室は三女神社です。邪馬台国とはヤマコクに住む台(女王)の治める国という意味です。倭国王難升米が帯方郡太守と談合して女王ということにしましたから、魏志倭人伝のフェイクでしたよ。これホントです!(^_-)-☆

卑弥呼はいつものように河原の露天風呂「卑弥呼の湯」で天然温泉を楽しんでいたところ、難升米が送った刺客に襲われて、ヒカケ三女神社辺りで殺されたと推理しています。卑弥呼の宮室に出入りしていた一人の男が難升米のスパイだったと見ています。卑弥呼の日常生活を熟知しているこの男の手引きで卑弥呼が殺害されたとみています。その後、全部で百名ほどの奴婢を口封じのために、卑弥呼の墓の横の原野で殺したと推理しています。大量の血が流れたのでその地を「血野」と呼んだと推理しています(注)。

卑弥呼は最初この地に葬られましたが、後に大国主と台与が訪れて、安心院盆地を挟んで南側の妻垣神社の本宮「一柱騰宮」で改葬され、さらに8世紀初頭に宇佐神宮本殿下の亀山(小椋山)に葬られたとの伝承があります。ヤマト政権は卑弥呼の祟りを特に怖れたようですので、沖ノ島の奥津宮で4世紀から7世紀まで丁重にお祀りしています(^_-)-☆

⑥岩戸神話は日食で殺された卑弥呼の史実から創作した
卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう(@_@)
近江八幡市日牟禮(ひむれ)八幡宮が、卑弥呼が日食のために殺されたことを示唆するムナカタ族和邇氏の神社だったのですよ。

和邇氏は4世紀から天皇の妃を出すまでになり、有力豪族として大和盆地の北部も所領としました。この和邇坐赤坂比古神社や、前回説明した東大寺山古墳で出土した中平紀年銘鉄刀から数々の謎が解けてきました(^_-)-☆

祭神の阿田賀田須命(アタカタス)は縄文海人ムナカタ族の祖神、市杵島比売命が卑弥呼、赤坂比古は卑弥呼の弟で和邇氏の祖、日本書紀の和珥日触使主(ひふれのおみ)です。次回また説明しますが、日食によって難升米に卑弥呼が暗殺されたことを知り、狗奴国軍に投降して、大活躍したので、日食に因む名前となったと推理しました。ですから本当は日蝕使主(ひはえのおみ)だったのを藤原氏が強権で変えさせたのでしょう。後に愛宕大神として各地で祀られています。アタゴはムナカタ氏の祖神アタカタスの子孫という意味でしょう(^_-)-☆

父の先代赤坂比古の墓は卑弥呼と同じ安心院町宮ノ原遺跡にある直径約120mの円墳奥城古墳と比定しています。敬愛する漢籍の先生がご心配されていた卑弥呼の円墳は急造りだったので、土止めの石積みもありません。やはり盛土がかなり流れていますが、千八百年後の現在も形をとどめています。奥城古墳は時間をかけて造成したようです。石の土止めは確認していませんが、しっかり作られた様子で、現在は園内の展望台になっていますから驚きです(@_@)

(注)地元には以下のような伝承がありますが、卑弥呼を隠すのが藤原氏の政策でしたから、その関係者が作った話だと推理しています。
安心院を納めていた安心院氏滅亡のとき、峠で城主の息子で7歳の安心院千代松丸と家来たちが戦で亡くなりました。その惨劇のあった地区を「血野」と呼んだそうです。
別の記事では「安心院千代松丸の行方については、九人ヶ峠で斬殺された説、日田方面に逃げ落ちる途中、萱籠(墓が建っている所)で殺された説など、諸説伝えられています。」とあります。九人ヶ峠は知野(現在の地名)から西側の院内町に出る場所の地名で、約1km離れています。ですから千代松丸の伝承は諸説あり、余り分かっていません。

また、卑弥呼の殺害現場と推理したヒカケ三女神社から墓を目視して遥拝できないように土を盛り上げて隠しています。そこに、天岩戸をイメージしたのか、ヒカケ横穴群が作られています。国東半島の六郷満山を開基した、宇佐氏の祖とされる法蓮上人の教団が作ったものと推理しています。「卑弥呼の湯」のあった場所に仁聞菩薩が作ったとされる乳不動と石仏群がありますが、仁聞は実在人物ではなく、これも法蓮教団が作ったものだと考えています。ヒカケ三女神社の三女神の石塔と二つの摂社「金毘羅宮」と「八束神社」も卑弥呼の鎮魂のために造られたのだと推理しています。元は大国主が作ったものではないかと思います。

【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
卑弥呼の話はここにまとめていますので飽きるまでどうぞ!( ^)o(^ )


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その2)古墳時代のはじまりの謎

2022-06-26 00:01:08 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

今回は奴国宮廷楽師師升が奴国から奪った伊都国王の倭国の時代の話です。後半に倭国大乱が起こります。お付き合いください(*^▽^*)

3.古墳時代のはじまりの謎
①古墳時代の幕開けは半島南部の鉄による首長権の増大だった
 甕棺墓の時代に王墓は、王族のための集団墓域に作られました。ところが二世紀中葉から首長単独の四隅突出型墳丘墓が出雲で出現し、日本海沿岸部に拡がります。同時に、吉備には前方後円墳のルーツとも考えられる楯築王墓が登場します。その後、近江で発祥と考えられる前方後方墳も東国で盛行します。
 出雲から丹後半島などの鍛冶集落に半島の鉄素材を持ち込み、農具・武器などの鉄製品を製造して、狗奴国側の各地に配布する鉄交易ネットワークが作られたと考えられます。鉄の元締めだったスサノヲの子孫の狗古智卑狗を頂点として各地の首長(部族長)の系列化が進み、首長たちの権力拡大が鉄製品供給によってもたらされたことから、従来の祖霊信仰から首長霊に対する信仰に移っていったと考えられます。
なぜ皇位継承が男系男子だけなのか?



②伊都国王は公孫氏に朝貢していた
 後漢王朝は宦官と豪族たちの権力争いで地方の統治が緩み、遼東郡太守の公孫氏は独立王国を築こうとしていました。周辺の蛮夷を手なずけようとしていましたので、伊都国王はこの時期までは楽浪郡や遼東郡あたりまで、どうにか行けたと思います。その後、韓人や濊人が強盛になって暴れて、半島支配が困難になったので、倭国が楽浪郡との交易できなくなり、衰退していったのだと考えています。
中平紀年銘鉄刀は卑弥呼のものか?


③吉備で奴国を再興して、ヤマト王権の基礎を築いたのは天照大神尊ニギハヤヒ大王だった
 伊都国王師升とその一族が支配する倭国は楽浪郡との交易で栄えました。この時期の壱岐原の辻遺跡と今宿五郎江遺跡などから楽浪土器が数多く出土しています。楽浪郡との交易ルートになっていたようです。奴国王の時代に発展した奴国の比恵・那珂遺跡群も列島内の交易センターとして当初は機能していたようですが、上述の鉄交易ネットワークの発生によって徐々に減退して行ったと推理できます。倭国側の列島内交易センターの息の根を止めるために、瀬戸内航路の要衝であった吉備を抑えるためにスサノヲの弟ニギハヤヒが立ち上がり、ムナカタ族の支援を受けて、恨みのある倭国側に着いた吉備の在地勢力を討ち、この地で奴国を再興しました。宋史 王年代紀で第十九代王天照大神尊、先代旧事本紀では天照國輝彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと))とされヤマト王権の基礎を築いた人物です。
【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?
日本ピラミッドの謎?
広島県庄原市の日本ピラミッド葦嶽山で師升に殺されたスサノヲ大王を祀り、復讐を誓ったと推理しています。巨石群が配置され、ドルメン(石の供物台)が築かれた鬼叫山からニギハヤヒたちの叫び声が聞こえてきそうです(;一_一)


④天皇はニギハヤヒ大王の男系男子だった(日本は古の倭の奴国)
なぜ皇位継承が男系男子だけなのか?



最後までお付き合い、ありがとうございます。予定に届きませんでしたので、数回では終わりません。まだまだ続きます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その1)

2022-06-25 09:30:09 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

タイムリーな記事が出ていましたので、2022-06-24 17:18:09の記事の文末に【参考記事】を追加しました。お付き合いください(*^▽^*)

前回のブログで紹介しました波乗りジョニーのアブダクションによる手法は、古代史でトンデモナイ発見をさせてくれました。見方を変えると見えないものまで見えてきますよ(^_-)-☆
今回から数回に分けて記事にします。どうぞお付き合いください(*^▽^*)


1.日本民族と半島の謎
①日本民族のルーツは縄文人と倭人とシナ人だった
日本列島に集まった人々とは?


②日本に水田稲作・天蚕を伝えたのは江南の倭人だった
【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?

東鯷人(とうていじん)って?ナマズじゃないんです( ^)o(^ )

③半島の歴史はBC12世紀の箕子朝鮮から始まった
半島の古代史だ!(漢四郡まで)半島南部の縄文人や倭人は戦争難民のシナ人を受け入れた(*´Д`)


2.奴国の謎
①天御中主が福岡市吉武・高木遺跡に降り立った初代奴国王だった
【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?

吉武高木遺跡の3号木棺墓の副葬品(やよいの風公園より)


②北部九州の倭国の支配者は奴国王だった
【検証9】奴国時代の話(その1)(その2)



③半島南部の鉄を支配したのはスサノヲとその子孫だった
新羅の脱解王が奴国大王?



④倭王帥升は奴国王スサノヲを殺した徐福の子孫の宮廷楽師だった
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?

徐福伝説(佐賀市)「あそぼーさが」より

【参考記事】
古代朝鮮の伽耶(かや)には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明!
2022.06.23 THURSDAY 川勝康弘@ナゾロジー
オーストリアのウィーン大は古代朝鮮(4~5世紀)の「伽耶」の古墳において、日本人に特徴的な縄文人のDNAを多く持つ人々が埋葬されていたと発表。伽耶で当時の倭国人はいったい何をしていたのでしょうか?


結果、8人中6人のDNAが現代の韓国人に類似する要素を持った遺伝子だった一方で、残りの2人のDNAは日本の縄文人に近い遺伝子を多く持っていることが判明しました。

現在の韓国人の遺伝子は非常に均質性が高く遺伝的に孤立しており、縄文人に特徴的な遺伝子を持った人々はほとんど存在しません。

そのため研究者たちは、古代の朝鮮半島に住む人々は、現代に比べて遺伝的多様性が大きかったと結論しました。

しかし、かつては存在したはずの縄文人の遺伝子は、なぜ現代の韓国人にはみられなくなってしまったのでしょうか?

この疑問について研究者たちは、現在の韓国人の祖先を構成する、中国北部出身の集団が原因であると述べています。

この集団は朝鮮半島の海岸線に沿って勢力域を拡大したと考えられており、伽耶などの地域に住んでいた縄文人の遺伝子を持つ人々は最終的に排除・吸収された可能性があるようです。


中国北部出身の集団は衛満率いる燕人の武装集団のことでしょう!箕子朝鮮を滅ぼし、半島北部先住の縄文人男性を皆殺しにした可能性があります。半島南部は倭国の勢力圏でしたので、縄文人と江南系の倭人との混血が進んだと考えています。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

白い渚を走る?アイツがやって来たのか?(@_@)?

2022-06-20 18:58:16 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

最近聞いてないので、なんかおかしいなと思って、YouTube見たら青いなぎさを走り~でしたね!ごめん(*^▽^*)

以前にご紹介した桂川様のいい動画「卑弥呼の墓」の拙コメントへご意見いただきました。ちょっとくたびれて休んでいたのですが、大好きなサザンの曲を思い出してようやく復活しました。お付き合いください( ^)o(^ )

@波乗ジョニ夫 さん この時代の謎について、いろいろと想像を巡らすのは楽しいですが、事実に基づかないと空想や幻想(古代妄想)でしかないですから、仮説は、例えば万有引力の法則のように、科学的な信念となるまで何度も検証を繰返す必要があります(拙ブログ「古代妄想のすすめ!(^_-)-☆」参照)。

しかし従来の仮説構築と検証方法に重大な欠陥があることに気付きました。当然、証人はいませんから、物証を探し出す必要があります。ところが物証となる、一つの事象に対しても、幾つもの解釈があるのが普通ですから、どの解釈が正解かがよくわからないということなのです。

 例えば、ある場所で親魏倭王の金印が見つかったとしても、発見された場所にもよるかも知れませんが、簡単に持ち運びできますので、そこが邪馬台国であると単純に決められません。邪馬台国かも知れないと言えるだけで推測でしかないのです。

 それでは卑弥呼の墓はというと、持ち運びできないので、それよりましですが、卑弥呼の墓と言い切るためには色々と傍証を固めなければ、だれも納得しないと思います。

径百余歩は当時では約150mですが、いや、短里で測ると約1/5の30mだとか、ここのコメントで見られたように、殉葬された奴婢の墓も含めた大きさだとか、「径」は差し渡しの意味だから必ずしも、円墳とは限らない等々です。色々と意見がありますから、どうしてそこが卑弥呼の墓だと言えるのかを、当時の社会状況の説明や様々な状況証拠が伴いますが、一つひとつの状況証拠が、確実なのかという疑問も生じます。

卑弥呼が証言してくれるわけでもないので、すべて推論で導くしか手はありませんが、このような従来の方法ではお手上げ状態です。仮説と言っているモノがすべての事実に合致しないものまでたくさん登場し、ほとんど検証もされません。わしは絶対大和だと思う!いや四国だよ!と、空想的なこだわりによって、こだわる人の数だけ仮説がありますね(;´Д`)

そこで、科学的な解決手法に気付きました。

波乗りジョニーが説明してくれるアブダクションという、良く知られた演繹法や帰納法ではない第三の推論方法を導入し、結果から原因を推理する科学的な手法を用いれば、複数ある事象の解釈のうち、仮説に合致するものを正解として選択することができますよ(^_-)-☆。



 このような事実に基づくこの解釈が正解であると分かると、その仮説は強化され、更に事実に基づくこの仮説によって推理を重ねることにより仮説の詳細化や仮説が説明できる範囲を拡張できます。

そして、すべての事象群を矛盾なく説明できるものが有望な仮説となります。

これによって、従来、関連性が分からずに誰も考えられなかったような大発見も可能なのです。

 もしも、どの解釈も仮説に合致しないならば、その仮説はどこかが間違っているかもしれない、ということで見直す必要が出てきます。

 このような科学的な推論手法で、今まで分かっている事象群によって仮説を検証して、事実に基づく蓋然性のある仮説を得ました。「古代史の謎を推理する」をご参照ください。



推論結果の一部についてご説明します。刮目天の仮説によれば、卑弥呼の死の直前の状況は図のとおりです。



 卑弥呼の死後に狗奴国側の軍勢が北部九州に到着しました。玄界灘を支配するムナカタ海人族の姫巫女卑弥呼(ヒメゴ)の弟で族長赤坂比古(和邇氏の祖、愛宕大神、日触使主)が、卑弥呼が247年3月24日日没直前の日食のために倭国王難升米に暗殺されたことを知ったので狗奴国軍に投降しました。そこで、倭国王難升米は金印を持って半島に逃亡したと推理しています。
 無傷で倭国を手に入れた追討軍の主将の尾張王が、魏使張政の進言で、狗奴国王卑弥弓呼(奴国第19代王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫ヒコミコ)を裏切って倭国王に立とうとしたことで、副将として参加していた山陰から北陸のムナカタ海人族を束ねる王狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社祭神久々遅命で、奴国宮廷楽師師升らに殺された第18代奴国大王スサノヲの子イタケルの子孫)が反発し、内戦となります。
 結局狗古智卑狗側に立った赤坂比古が、尾張王を鳥栖市に追い詰めて討ち、九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬りました。狗古智卑狗が内戦の勝者となり、結局狗奴国を裏切り、近江・北陸を支配するムナカタ族の13歳の姫巫女台与を卑弥呼の宗女として、卑弥呼と同様に対外的に女王として立て、魏を後ろ盾としたと推理しました。九州、四国、中国西部の倭国の領域に山陰から北陸・近江などを加えて列島主要部の大半を支配したので、記紀神話で大国主と呼ばれた人物です。265年に司馬懿の孫の司馬炎が魏から帝位を禅譲されたので、女王台与が266年に朝貢しました。
 その頃、狗奴国は劣勢に立たされていましたが、呉の紀年銘鏡が宝塚市安倉高塚古墳山梨県鳥居原狐塚古墳から出土していますので、呉を後ろ盾にして対立したと推理しています。父王を殺された尾張王が九州遠征し、苦難の末に大国主狗古智卑狗を高良山で討ち取り、赤坂比古も討ち、それぞれ祇園山古墳愛宕神社古墳に埋葬しました。さらに、伊都国に逃げた女王台与を追い詰めて、武器を持って勇敢に立ち向かった台与を討取ったと推理しています。平原王墓に埋葬しました。
 ところが、280年に西晋が呉を滅ぼしたので、狗奴国は後ろ盾を失い、大国主らの祟りだと怯えて国内は大混乱したようです。西晋に滅ぼされることを心配し、そこで一計を案じました。大国主と台与の鎮魂のために、二人の子を祭祀王として纏向に呼び寄せ、表向き、ヤマトの大王に立て、卑弥呼と台与の後継者ということにしたと推理しました。纏向の狗奴国を邪馬台国(ヤマト)と呼ぶことにしました。父大国主を桜井市茶臼山古墳で、母の台与を纏向箸墓で祀りました。大陸で一面も出土していない三角縁神獣鏡に景初三年銘などのものを呉の鏡職人に作らせて、卑弥呼の鏡としたとも推理しています。
 この史実を日本書紀では崇神天皇が大物主の祟りで多くの人が死んだので、子のオオタタネコを呼んで祀らせて収まったという話にしています。しかし、史実を隠すために神武天皇や応神天皇の建国神話や仇討ちした尾張王の話を景行天皇の九州遠征の話にしたことが考古学の成果から判明しています。「【検証19】建国のための戦いだ」などをご参照ください。




 この仮説は考古学などの成果を使って検証し、それらを矛盾なく説明できることを確かめていますから、有望な仮説の一つと考えています(「【刮目天の古代史】仮説を検証する」参照)。しかし、他にも事実に基づく仮説は存在するのかもしれません。

そこで、仮説間の優劣は、従来謎だった部分をどれだけ数多く、クリアに解明できるのかによって判定できると考えています。例えば、なんでヤマトの大王を天皇と呼ぶのか?などのことです。それらは日本建国の謎を解き明かすことによって分かることを示しました(^_-)-☆

 それから、古事記については日本書紀の前に成立したとされていますが、9世紀に突然表に出した、宮廷で日本書紀を講義していた多人長(おおのひとなが、太安万侶の子孫)が言い出したものです。序文は人長が作ったものです。内容も日本書紀に沿っていますので、ほとんどデタラメな話ですが、日本書紀の歴史改ざんを暴露する部分も見えるので有用です。いずれにしても、記紀は歴史書としてはインチキですが、当時の人々の考え方を伝える第一級の文学作品と考えるのが正しい見方だと思います。詳細は岡田英弘「倭国の時代」(ちくま書房)を参照ください。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング