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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

弥生時代に神代文字あったのか?(*^。^*)

2022-04-29 02:35:38 | 古代史
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四国テレビ 高知


高知県内3つの遺跡で出土していた板状の石6点が、弥生時代の硯とみられることが分かりました。四国で初めての確認で、弥生時代に県内で文字が使われた可能性を示す貴重な資料となります。

このほど発見された、弥生時代の方形板石硯(ほうけいいたいしすずり)と呼ばれる硯です。現在の硯とは異なり平たく、長方形や台形に近い形をしています。方形板石硯については、国学院大学の柳田康雄客員教授の研究により、近年、九州の北部から近畿・北陸にかけて、確認事例が増えています。県内3つの遺跡から出土していた弥生時代の遺物でも、6点が方形板石硯だったことが分かり、26日、県立埋蔵文化財センターで記者発表が行われました。弥生時代の板石硯が確認されたのは、四国で初めてです。これにより、弥生時代に、一部の地域では文字が使われていた可能性があることが分かりました。

「見てあっと驚いたのが、きれいな長方形が2点もあるということ。(福岡の)御床松原遺跡以外で、5ミリ以下の板石が見つかったのも初めて。今回の硯が発見されたことで、一定の文字文化を前提とした交流が(九州と)あった」(国学院大学 柳田康雄 客員教授)

今回発表された方形板石硯は、南国市の県立埋蔵文化財センターで、4月28日から5月8日まで展示されることになっています。


北部九州では特に伊都国で、楽浪土器が集中して出土しているので、中国からの外交使節や華僑が来ていたと分かっています。糸島市教育委員会文化課作成の「三雲・井原遺跡番上地区330番地現地説明会資料」(平成28年3月5日)によれば、弥生時代中期からの遺跡とあり、硯の時期は特定されていません。これによると中国の戦国時代末から硯が使われ始めたようですが、普及するのは漢代だそうです。紀元前108年に前漢の武帝が半島に漢四郡を置きました。真番郡を半島南部において産出される鉄を管理し、倭国との交易を管理させていたと考えています。しかし、漢王朝は遠征に多額の出費をしたことで、経済的に4郡全部を維持できなくなり、楽浪郡(平壌付近)だけ残して、三郡はすぐに廃止しています。真番郡は前82年に廃止となったので、代わりに倭国が支配するようになったと考えています(「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」参照)。

『漢書』地理志には、紀元前1世紀頃の日本列島の様子が以下のように書かれています。

「それ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為す。歳時をもって来り献見すという。」

列島に百余国も倭人の国があって、定期的に楽浪郡に品物を献上しに来るとありますので、この時期は北部九州の奴(ナーガ=龍蛇神)国が列島全域を支配していたわけではなく、各地の縄文海人族が勝手に楽浪郡に行っては交易していたと考えられます。

しかし、奴国ではすでに弥生中期中葉(紀元前三世紀)には列島最大の都市(比恵・那珂遺跡)を造り、列島内の交易を盛んに行っており、須玖・岡本遺跡に王宮を置いた奴国王(龍王)が、交易などから税を徴収して隆盛になったと考えられます。

この頃の王墓である巨石下甕棺墓には豊富な副葬品が見られます。特に副葬品の中に発見されたガラス壁の破片数個が注目されます。武器型青銅器や銅鏡などと比べて特に貴重なものであり、周制の子爵を表す王権の象徴とされるものです(王金林「邪馬台国と古代中国」学生社1992.p.99)。つまり、新唐書・宋史王年代紀に初代王は天御中主とあり、龍蛇神とされる歴代の奴国王(龍王)が、春秋時代の子爵であった呉の王族の末裔「太伯の後」であったことを示しています。紀元前四世紀初頭に半島南部から吉武・高木遺跡に移り住んだと考えています。

そして、伊都国の王墓や朝倉郡夜須町峯遺跡でも玉璧の破片が出土しており、奴国王族を配置したと考えられます。吉野ヶ里遺跡では発見されていないので、その王は奴国王族ではないことも分かります(「【検証9】奴国時代の話(その1)(その2)」参照)。

「史記」巻百十八「淮南衡山列伝」によると紀元前219年に方士徐福が海神(奴国龍王)の要請で三千人の童男童女・五穀の種・百工を連れてきたとあります(注1)。方士は宗教・医学・薬学・工学・化学の幅広い知識と技術を持った人のことです。百工は種々の手工業技術者と考えられます。この頃に王宮の横の須玖タカウタ遺跡「日本最古級の銅戈の土製鋳型」「国内最古の多鈕鏡の鋳型」などが発見されています。つまり奴国の官営工場が造られた時期と一致しますので、徐福が連れてきた冶金技術者と考えられます(注2)。また、ずっと後の107年に後漢安帝に朝貢した師升らは、奴国宮廷楽師たちであると考えられるので、奴国の祭祀を担当する人々にはそれなりの出自や経歴が必要です。なので、彼らの祖先は徐福が連れてきた楽師らの可能性が高いと思います(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。そして、徐福伝説は佐賀県に数多く残されていますので、「淮南衡山列伝」に徐福が平原広沢で王となったという記述もあり、上のような貢献によって奴国王から吉野ヶ里遺跡の王とされたのではないかと考えています(注3)。

その他の地方首長墓からは後漢鏡の破片が出土するようになりますが、57年に後漢光武帝から金印が与えられた奴国王は地方首長と爵封関係を結んでいたと考えられます。記紀神話の国生み・神生みの皇祖神のイサナギは王年代紀第17代王伊弉諾尊であると考えられます。また、妃のイザナミの墓所比婆山は、いくつか比定地はありますが、宗像大社の伝承に、記紀にない「ムナカタの子はスミヨシ」とあり(関裕二「海峡を往還する神々」PHP文庫、p.188)、スミヨシは海神住吉大神ですからイザナギから海を治めるよう命じられたスサノヲのことと考えられます。イザナミが第18代王素戔嗚尊の母であることから、米子市の宗形神社に近い島根県安来市伯太町の可能性が高いと考えられます。つまり、イザナミは縄文海人ムナカタ族の姫ということになります。国生み神話は、上述の漢書地理誌の列島百余国のうち奴国王族が直接支配する北部九州を除き、縄文海人ムナカタ族が支配している国と考えられます。奴国王はこれと婚姻関係を結び、爵封関係を結ぶことによって対外交易も独占的に支配したと考えられます。

シルクロードの延長として倭国の珍しい産品を求めて楽浪郡から華僑がやって来たのは紀元前二世紀ころからですから、弥生中期後半からと考えられます。福岡市の雀居遺跡で木製組み机が出土したのは弥生後期のものだと考えらていますので、上の記事で硯石が発見された近畿・北陸、そして今回の高知県のものも弥生後期ごろではないかと考えられます。ということは北部九州の江南系倭人だけではなく、縄文海人ムナカタ族の一部も文字を使った可能性があるということです。千七百年も前の話ですので、なかなか発見されないかもしれませんが、いつかは文字が書かれている木簡・竹簡か土器や石などが発見されるのかもしれません。また、それらの文字が漢字であるかどうかはわかりません。縄文系だとすると神代文字なのかもしれませんね(「変わる弥生時代観!(^_-)-☆」参照)。

(注1)「史記」の「秦始皇本紀」によると紀元前219年に徐福等が斉国の狼邪で始皇帝に会い、蓬莱・方丈・瀛州の三神山に仙薬を持つ仙人がいると報告すると、数千人の童男童女を連れて海を渡り仙薬を探すように命ぜられたとあります。「淮南衡山列伝」に前210年に再度始皇帝に会って仙薬がまだ手に入ってないのは大鮫魚が邪魔しているので、退治してほしいと告げたとあります。しかし、「秦始皇本紀」では前212年に始皇帝は徐福も含めて方士に騙されたとして方士や学者を捕らえて生き埋めにしていますので、前210年の話は矛盾します。それについて龜山勝「安曇族と徐福」(龍鳳書房 2009, pp.289-299)で解説されています。結論は、徐福自身が始皇帝に面会したのは前219年だけで、前210年は徐福のグループの方士であろうとのことです。『「淮南衡山列伝」で司馬遷は、その文才の趣くままに書き、徐福の逃亡がBC二一九年であったかBC二一〇年であったかは、それほど問題ではなかったのでしょう。』とあります(同書p.299)。したがって、弥生時代の年表を前219年に訂正しました。


(注2)日本で最古の青銅器製造の遺跡は紀元前三世紀前葉の八ノ坪遺跡(熊本県)とのことです(藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」講談社現代新書 2015,p.113)。土器が単品ではなくセットで出土していることから、半島南部から移住してきた人としています。もしも、江南系倭人(アズミ族)であれば奴国王の支配下ですので、その時代にすでに奴国で生産されていなければならないと考えられます。したがって、八ノ坪遺跡の住人はおそらく縄文人か江南の倭人と混血した縄文系倭人と考えられます。

(注3)『福永(光司)氏は、文献実証学の立場から、・・・・・「徐福と吉野ヶ里の墳丘墓とを結びつけるものとして、墳丘墓の南側にある祭祀遺跡と西南の方向から入る墓道がある。これらは漢の武帝が、泰山の麓で行った明堂の祀りと一致していることが確認できた」と指摘しています。』(龜山勝「安曇族と徐福」龍鳳書房 2009, pp.300-301)


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日本書紀だけでなく続日本紀までもが?(*´Д`)

2022-04-25 09:28:34 | 古代史
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拙ブログ記事「ヤマト王権のルーツは吉備そして奴国だった(^_-)-☆」に次いで「近江と尾張の関係?(^_-)-☆」で以下の動画へのコメントを紹介しましたが、ウッP主様からお返事をいただき、やり取りをしました。おつきあいください( ^)o(^ )

考古学的に見る邪馬台国の場所。
2,123 回視聴2022/04/16 kanrekiman@YouTube


kanrekimanさん
中臣氏の系図では宇佐津臣(宇佐)→御食津臣(気比)→伊香津臣(伊香具)→梨津臣(乎彌)→神聞勝命となっているので、中臣氏・尾張氏・物部氏の先祖は宇佐で繋がってるような気もします。個人的にはここに大山祇一族も絡んでるかと思ってます!

刮目天一
@kanrekiman さん いい情報を有難う御座います。
宇佐氏は謎があります。中興の祖とされる法蓮上人がその功績から一族に宇佐氏を賜ったと記録にあるのですが、現在の宇佐氏の系図に法蓮が記載されていないので驚きます。

あの時代の系図は創作されている場合がありますし、そこから判断するのは難しいですね。だから藤原氏との関係を見て真偽を判断しています。

大山祇(おおやまつみ)は総本社大山祇神社(愛媛県今治市大三島)の祭神となっていますが、山神社などでも祀られ、製鉄や鉱山開発の神とされています。なので、鉄の流通を支配した大国主の分身として創作された神だと考えています。

中臣氏は奴国王の家臣という意味があり、半島南部を根拠地としていた江南系のアズミ族の支族かなと思っています。スサノヲ大王が殺されて吉備で奴国を再興した19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の一族が物部氏と尾張氏です。中臣氏とは直接つながらないのではと考えています。と言いますのも、不比等は物部と尾張をとことん没落させて、物部氏の祖神フツヌシや尾張氏の祖神タケミカズチまで藤原氏の氏神にしていますからとんでもない奴ですよ。

藤原氏については、鎌足が百済王子との関裕二説が良いと思っています。百済は高句麗と同じツングース系扶余族から分かれて遼西を支配して強盛だった時代がありましたが、高句麗に討たれて、ソウル付近に落ち延びたと記録されています。その後馬韓の中の伯済国が百済を名乗ったという伝承もありますので、その時に倭国王配下の任那の援助で扶余の百済国から半島南部の倭人の百済国にすり替わったのではないかと考えています。

つまり、この時代の百済王子は倭人でしょう。ですから藤原氏は半島出身の倭人と考えており、半島につながりのある中臣氏とも親密な間柄だったから、鎌足は中臣意美麻呂を不比等の姉の婿として迎えて、ついでに鎌足自身が出自を隠すために中臣家の養子になったのではないかと考えています。藤原氏が諸藩ですと身分が低いので、不比等の娘たちが天皇の妃にはなれないので血統を操作したのだと思います。

鎌足が晩年に藤原氏を賜り、自動的に意美麻呂が藤原の氏の長者になりましたが、不比等が成長し天武天皇の妃鵜野讃良の子草壁皇子を皇太子にするための策謀を実行し、多分皇太子だった大津皇子を自殺に追いやりました。飛鳥浄御原令が施行して判事に任官し、皇后鵜野讃良(持統天皇ですが、本当は即位していない称制だったと考えています)の後ろ盾で実権を握るようになりました。そして意美麻呂を中臣に戻す詔まで作らせて不比等が氏の長者になった経緯があります。

でもこの時代にどうも高市皇子が即位していた模様です(注1)。ですから、不比等の話も不自然なので史実かどうかわかりません。藤原氏が権力を握り続けたことで正史が正されなかったのが大きいですね(*´Д`)!

ということで、建国時代を解明したので、そこから順次検証していけば歴史の真相が見えてくるのだと考えています。先は長いですが。


【関連時期】
神話が隠した不自然な史実(;一_一)
藤原不比等はどうやって権力を握ったか(^_-)-☆

渡来人は異民族とは限らない?
関裕二氏の「鎌足百済王子説」から藤原氏の出自は渡来人だが( ^)o(^ )

半島の古代史だ!(漢四郡まで)

(注1)高市皇子の長男長屋王は、「官位は正二位・左大臣。 皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。」(wiki「長屋王」より)とあるが、同wikiの以下の長屋親王説にあるとおり、長屋王は親王宣下を受けているので、高市皇子が天皇に即位していたと考えられる。ということは持統天皇も即位していないことを意味する。

【長屋親王説】
長屋王の邸宅跡から発掘された木簡に「長屋親王宮鮑大贄十編」の文字があったこと、『日本霊異記』の長屋王の変に関する説話では「長屋親王」と称されていることなどから、在世時には長屋親王と称されていたとする学説もある。長屋王と吉備内親王の間の子供達が外祖母にあたる元明天皇によって二世王の待遇(元来は天武天皇の三世王)を受けていることなどから長屋王に対しても特別待遇がされていた可能性もある。通常の律令解釈によれば、親王は天皇の息子または孫に対して天皇から親王宣下を受けない限り名乗れなかったとされる。


つまり、桓武天皇の命により編纂され、最終的に延暦16年(797年)に成立した続日本紀も藤原氏に不都合な史実を隠ぺいしたと考えられる。京都の天皇家の菩提寺の泉涌寺では明治時代になるまで、天智天皇から江戸時代までの女性天皇を誰一人祀っていないことが知られている(関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」(ワニ文庫)2016、p.243)。

最初の女帝とされた推古天皇は、隋書に倭の大王が男であることが明記されているから、フェイクであることは明らか。また、次の皇極(斉明)天皇も、万葉集研究家渡邊康則氏が「聖徳太子は天皇だった」(青空出版)で実在しないことを突き止めているから、すべての女性天皇はフェイクだったと考えられる。



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神籠石は最初に誰が作った?( ^)o(^ )

2022-04-22 23:12:30 | 古代史
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今回のテーマ「神籠石(こうごいし)」は「九州地方から瀬戸内地方にある、石垣で区画した列石遺跡の総称。一般には『日本書紀』や『続日本紀』に記載がなく遺構でのみ存在が確認される山城を指す。」(wiki「神籠石」より)とありますが、文献が一切なく、7世紀の白村江の敗戦後に作られたという説が有力です。しかし、神籠石の名前の由来は、高良大社の主祭神高良玉垂(たまだれ)命が大石の上に神馬の蹄(ひづめ)の址を残されたと伝承のある磐座「馬蹄石」から始まる列石です。高良大社の祭神としては他に八幡大神と住吉大神(仲哀天皇こと尾張王ヲトヨはこの神の祟りで死にました)を祀っており、これらの神はどちらも大国主のことです(八幡大神を応神天皇とするのは後のことです)。また本殿内には御客座があり、豊比咩大神(とよひめおおかみ)が合祀されており、高良玉垂命とは夫婦との説もあるようで、大国主と台与のことだと直ぐに分かります。大国主が高良山城に立てこもり奮戦して戦死したと推理した内容を下の動画にコメントをしましたので、お付き合いください( ^)o(^ )


考古学的に見る邪馬台国の場所。
1,950 回視聴2022/04/16 kanrekiman@YouTube

Y Oさん
動画お疲れ様です。
面白かったです。 墓の形で考えれば、これが正解に近いのではないかと存じます。
あとは「神籠石」が何者が作ったかの考察があればなぁと思っております。


kanrekimanさん
コメントありがとうございます!
高良大社の神籠石は磐井の乱のときに磐井が高良大社に山城を作ったという伝承もあるのでその時かもしれませんね。高良は戦略上の要所ですから邪馬台国の時代から山城として使われていた可能性もあるし、天智天皇時代に唐の侵攻に備えて改築したという可能性もあると思います


刮目天一
@kanrekiman さん 卑弥呼が倭国王難升米に暗殺された後に狗奴国側の倭国征討軍が北部九州に到着し、卑弥呼の弟赤坂比古が倭国から離反したので、難升米は帯方郡に逃亡したのだと考えています。

無傷で倭国を手に入れた征討軍の大将尾張王ヲトヨが狗奴国王卑弥弓呼を裏切って倭国王に立ったので、副将の山陰・丹波、北陸を支配する狗古智卑狗と内戦になって結局狗古智卑狗が勝利し、魏使張政の進言で13歳の台与を女王に立て、魏を後ろ盾にして狗奴国と対立することになります。

邪馬台国女王卑弥呼の領土を手に入れて、狗奴国側の領土を除いてほとんど支配したので、後世大国主と呼ばれました。狗奴国は恐らく呉を後ろ盾にしていたのですが、狗奴国側の実力者尾張王ヲトヨが殺されたので、父を殺された恨みを晴らすために建稲種命が大国主に復讐します。

その当時、大国主側の集落青谷上寺地遺跡などが狗奴国勢に攻撃され、無防備の人々が虐殺されます。そして尾張勢は大国主の本拠地を攻め、結局高良山に立てこもった大国主を討ち、女王台与を伊都国に追い詰めて敵(かたき)を討ちました。

そのころに大国主が高良山に山城を築いた址が神籠石として残っているのだと思います。

討たれた大国主は祇園山古墳に、女王台与は平原王墓に葬られたと推理しています。

日本書紀では尾張王ヲトヨが九州遠征で神の祟りで殺された仲哀天皇、その子の建稲種命を仲哀の祖父の景行天皇として誤魔化していますが、民話のさるカニ合戦はこの話をモチーフにして伝えられたものですよ。詳しくは拙ブログ「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その4)」「サル・カニ合戦の元ネタは日本建国の戦いだった?」「抹殺された尾張氏の謎(その1)、(その2)」「尾張と言えばカニだ~わ!」をご参照ください。



(左クリックで拡大)



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近江と尾張の関係?(^_-)-☆

2022-04-21 17:33:14 | 古代史
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前回の記事「ヤマト王権のルーツは吉備そして奴国だった(^_-)-☆」にウップ主様からお返事を頂き、とてもいいやりとりをさせていただきました。お付き合いください(*^▽^*)

考古学に見る邪馬台国の場所 
2022/04/16 kanrekiman@YouTube



kanrekimanさん
大国主と婚姻関係のある宗像は遠賀川から瀬戸内かけて影響力を持った一族だったんでしょうね。同じく八王子で近江に伝承の多い天津彦根一族が銅鐸文化の担い手だったような気がします。天津彦根の子孫が河内国造ですし、同じく河内含む近畿一帯に分布するカミムスビ系の三嶋溝杭・天湯川・天道根・猿田彦あたりが銅鐸時代から古墳時代の変遷に絡んでそうですね。饒速日と尾張氏は同族っぽいので籠神社がある丹波は物部氏の故地かなと思っています。吉備は出雲とのつながりから天穂日あたりがあやしいかと。
宇佐神宮には口伝で記紀とは違う継承を残していますし、他の神社にも口伝で隠れた神話を残してるところがありそうですから早く公表してほしいですw


刮目天一
@kanrekiman さん 早速いいお返事ありがとうございます。とても参考になります。
河内ですが、吉備のニギハヤヒ大王の一族が桜井市の纏向遺跡に政治都市を作るまえに移り住んできた場所のようです。纏向遺跡は唐古・鍵遺跡の人々の労力で作られています。スサノヲ大王の息子イタケル(初代狗古智卑狗)配下の縄文系の人々です。出土した絵画土器に男女の羽振(祝人・巫女)の姿があり、縄文海人ムナカタ族の姫巫女(通称ヒメゴ)であった卑弥呼や宗女台与の姿を見て取れます。その他の絵画土器から銅鐸に描かれた動物などと同じ絵が描かれているので、銅鐸文化の担い手だったと分かります。



ニギハヤヒ一族の尾張氏の祖は葛城山麓の高尾張を本拠地にして、ここから尾張に移って来たようです。ですから、尾張のもとの住民も縄文系だったようで、伊勢遺跡などの近江の人々との交流がかなりあったようです。最古級の前方後方墳も近江の神郷亀古墳のものが尾張や河内に作られています。ニギハヤヒ大王の配下で、すでに弥生前期から遠賀川流域に展開していた江南系倭人アズミ族が東海や信濃などを支配しており、奴国王の血を引く尾張氏が彼らの王に推戴されてたと推理しています。彼ら鏡作りが得意ですので、鉄器ではなく青銅器作りの人々のようです。ですから戦闘用は銅鏃を好んでおり、全国で尾張氏配下が活躍したことが分かりました。日本海側の縄文海人ムナカタ族を支配したスサノヲ直系の王久々遅彦が鉄器の流通を支配していましたが、尾張氏は対抗意識があったようですね。
日本書紀では神武天皇が高尾張の土蜘蛛を退治したとありますが、神武の話は建国の史実を隠すために創作されたもので、ほとんどの神社伝承も古代史を誤魔化すために藤原氏が創作したものだと睨んでいます。伝承の中からたまに日本書紀に矛盾するものが真相を伝えるものと考えていいと思います(^_-)-☆


kanrekimanさん
葛城は上鴨・中鴨・下鴨神社から年神→事代主→饒速日→剣根→武内系葛城氏のというような権力の推移が見て取てるような気がしますね
神郷亀古墳は興味深いですね!前方後方墳は物部氏の墓の可能性もあるし、分布を見ると新撰姓氏録にある天孫系が前方後円墳で天神地祇系が前方後方墳とう見方もできるし考察のし甲斐があります


刮目天一
​ @kanrekiman さん そうなんですヨ。神社伝承を素直に読み取ると頭がこんがらがってきますが、それが目的で日本書紀と神社伝承が作られたようですから酷いものです(注1)。当時の藤原氏でない人々はデタラメだと知っていましたが、そのような作り話で神祇祭祀を中臣氏に握らせて、本当に建国時代に活躍した祖先をもつ豪族を律令体制で締め付けて地方に追いやって没落させ、地方の荘園までも強権で奪いつくしたのが藤原氏ですから相当憎まれていますよ。結局地方で武士が台頭することになったのも中央での藤原氏の律令国家の私物化への不満からでしょう。

初期の前方後方墳の話ですが、近江の神郷亀塚古墳(全長37.9m)のほか、近江では法勝寺SDX23(全長22m)、河内に久宝寺遺跡南群1号墳(全長16.5m)と尾張の朝日遺跡の近くに廻間遺跡SZ01(全長25m)が1期(三世紀初頭)のものです。方形周溝墓に前方部を作ったものです。近江が前方後方墳の発祥地だと思います。

神郷亀塚古墳の横に豊遠迦比売命(豊岡姫=豊受大神)と白山比売を祀る式内社の乎加(おか)神社がありますが、どちらも女王台与のことです。神功皇后台与の一族の息長氏の祭祀場でしたよ。伊勢神宮外宮の祭神ですから、内宮の祭神天照大御神は台与を妃とした大国主命狗古智卑狗ですよ(「アマテラス大神はヘビだった?」参照)。ここから南西約10kmに南北400m・東西700m,広さ30haの大型宗教都市の伊勢遺跡があります。建物の構造が伊勢神宮本殿の神明造りになっているのですからどうも、伊勢神宮は伊勢遺跡を支配した息長氏が六世紀頃造ったと考えられますよ。これについてはもっと調べてから拙ブログで記事にしたいと思っています。いいヒントをどうも有り難うございます(*^▽^*)


【参考文献】
植田文雄「前方後方墳の謎」学生社 2007

(注1)日本書紀では神武天皇が高尾張の土蜘蛛を退治したとありますが、神武の話は建国の史実を隠すために創作されたもので、ほとんどの神社伝承も古代史を誤魔化すために藤原氏が創作したものです。ちなみに神武東征において、先に天孫降臨していたニギハヤヒが義理の兄であるはずのナガスネヒコを殺して神武を即位させたという話は、吉備のニギハヤヒ大王の直系の子孫の狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)がナガスネヒコとした大国主狗古智卑狗を討って国譲りさせた後に大国主の子供(応神天皇)を呼び寄せて祭祀王にした史実を誤魔化すものです。

狗奴国ヤマトが大国主の倭国を奪う話は、神代では大国主の国譲り神話で藤原氏の氏神タケミカズチを活躍させる神話を創作しました。また、神武東征や神功皇后による仲哀天皇の皇子たちを討って応神天皇を即位させる話も作りました。さらに崇神紀の四道将軍派遣の後に大国主の祟りでオオタタネコを呼び寄せて祀らせる話を作りましたが、討った大国主と女王台与の間の子どもを纏向に呼び寄せて、三輪山で父大国主を祀らせ、母台与を箸墓で改葬させてヤマト王権が成立した史実に近いものです。

このようにこの時代の史実を何重もの似たような話で誤魔化す目的で日本書紀が作られたのですから恐れ入ります。しかし、三世紀後半(弥生終末期から古墳初頭)における狗奴国ヤマトが日本を統一して建国した第三次倭国大乱の史実が、四道将軍と景行天皇とヤマトタケルの遠征の話として創作されたことを、鉄鏃と銅鏃の出土状況の調査から史実を基にして創作したものだったことが分かりました(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)(^_-)-☆



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古代史サイコパス・ランキング?( ゚Д゚)

2022-04-18 22:17:18 | 古代史
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とてもいい動画を見つけたので、コメントしました。おつきあいください( ^)o(^ )


ゆっくり歴史考察・調査チャンネル


刮目天一
面白かったです(^_-)-☆
表向きは天皇の歴史書のはずなのに、こんなサイコ野郎を載せるのってあり?
そうなんですよね。色々とヒントを出してくれている日本書紀なのに日本人は正しい歴史だと思い込んでいるから。でも江戸時代まではほとんどの日本人は日本書紀なんて知らなかったし、知っていた文化人も正しい歴史書とは思っていなかったようなのですよ。多くの人々は天照大神は男の神で、正体はヘビと思っていましたから。でも明治になって国史として学校で教えるようになったから日本の正しい歴史だと思わされているだけですよね(;´Д`)

ゆっくり歴史考察・調査チャンネルさん
コメントありがとうございます!日本書紀を全否定はしませんが、当時の有権者の都合良く書かれている部分は多い気がしますよね。

刮目天一
@ゆっくり歴史考察・調査チャンネル さん ハートマーク有難う御座います。最初は、藤原氏に都合のよいようにちょっと潤色して、書き加えただけだろうと考えていました。でも調べるうちにトンデモない歴史改ざんが至る所にあることに気付きました。

神代の話はほとんどデタラメだと分かりました。しょっぱなの天地開闢で幾つも説を出して、如何にも古い話だから人々の間で伝えられている神話には色々な説があるよね!と好意的に思わせる手管はたいしたものです。でも仲哀天皇が父の日本武尊が薨去して37年後に生まれた計算になるなど、ウソが直ぐバレる杜撰な話もあります。神功皇后紀も神話の延長で書いていて、史実を誤魔化すためでした。説明すると長くなるので拙ブログ「日本神話の正体は?(その1) (その2) (その3)」や「史書の中に隠された史実?(^_-)-☆」等々をご参照頂きたいのですが、それでも十分な説明になっていないと今思っています。



なにせ「日本書紀」編纂を命じた天武天皇が崩御して30数年後に完成したことになっていますが、実はその間に建国時代に活躍した祖先をもつ豪族を苛め倒し、祭神名や神社名を強権で書き変えさせていた証拠も見つかっています。日本中の神社についても色々な名前の神様を創作して祀らせて由緒も創作させています(勿論不比等の死後に数多く作られています)。その過程で神話の構想が生まれたのだと睨んでいます。

不比等は701年に大宝律令を制定して、708年神祇伯に姉の夫の中臣意美麻呂を据えて神社行政を握らさせて、律令体制を利用して、しかも外戚として天皇を利用し、有力氏族を全て没落させて、藤原氏だけが権力を握り続ける計画でしたから恐れ入ります。ですから、不比等はその集大成の「日本書紀」が完成したのを見て安堵してこの世を去りました。

ということで、歴史の内容は不比等の執念で全くと言っていいほど改ざんされ尽されています。ようやく、関裕二さんや飛鳥・奈良時代は万葉史観の渡辺康則さんの成果によってその内容が明らかになって来ていますが、日本建国時代の史実がその後の古代史の謎の解明のカギを握っていることを掴みました。

不比等の目的が分かりましたので、書かれている内容を基に科学的に歴史を復元する手法を適用して、かなり蓋然性のある仮説ができました。よろしければ拙ブログをご覧ください。どうも長々とお邪魔しました( ^)o(^ )

ゆっくり歴史考察・調査チャンネルさん
コメントありがとうございます!ブログ拝見させて頂きました。確かに地方に伝わる伝承や風土記等と日本書紀はかけ離れた話が多々ありますね。天武天皇の時代を境にもしかしたら、大きな歴史修正があったのかもしれませんね。


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最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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