刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

邪馬台国筑後山門説ってどうよ?(#^.^#)

2022-02-27 22:50:25 | 古代史
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古代史ファンに人気の関裕二さんの話題を最近よく耳にし、YouTubeでも講演や対談などされている番組を見ています。いつもフォローしている「世界の街角」さんのブログにも丁度話題にしたい記事がありましたので、以下のようなコメントをさせていただきました。おつきあいください( ^)o(^ )

関裕二氏の邪馬台国・卑弥呼論
2022-02-25 08:36:57 世界の街角さん


邪馬台国・関裕二説は? (katumoku10)
いい話題をありがとうございます。
関裕二さんも多くの研究者の方が筑後の山門県(ヤマトノアガタ)を邪馬台国に比定されています。理由は大体以下の通りだと思います

①山門(ヤマト)という地名が一致

②土蜘蛛の女首長田油津媛(たぶらつひめ)が卑弥呼に対応する

③卑弥呼の墓の候補として蜘蛛塚古墳が存在する

④卑弥呼の居城の候補として古代の山城女山神籠石が存在する


しかし、これらの墓や遺構は247年の卑弥呼の死よりも後の三世紀末に近い後半かそれ以降のものと思われますので、三世紀半ばの魏志倭人伝に描かれた邪馬台国とは違うと思います。詳しくはブログにするつもりですので、よろしければどうぞお越しください。
(mashさんすいません、赤字は後で追加・訂正した部分です)

ということですが、現代の学会での邪馬台国論争はよく知られるとおり、主として魏志倭人伝の行程記事を解釈して導かれた内藤湖南氏に始まる大和説と白鳥庫吉氏に始まる九州説が主流になっているようです。しかしご存じの通り、すでに江戸時代の学者新井白石が最初大和説を唱えて、後で筑後山門説に変えましたので、古くからある話ですが、現代でも解決できていないのは驚くべき話です。そして九州説に肥後の山門説もありますが、この筑後山門説は現代でも九州説の有力候補のひとつとされています。しかし、上でこの説を否定する結論を先に述べました。以下に、もう少し丁寧に理由を述べます。

まず、①ですが、正確に言うと山門(ヤマト)と邪馬台の最後の「ト」の発音が異なります。前者は甲類の「ト」で後者は乙類の「ト」と区別され、邪馬台は「ヤマトゥ」に近い発音です。当時の倭人ははっきりと区別していたようです。邪馬台に由来すると思われる「大和」も奈良時代に万葉仮名で書かれたもの(夜麻登など)は乙類の「ト」で記されています(安本美典『「倭人語」の解読』勉誠出版、2003, pp.164-165)。

山門は山地への入り口という意味でしょう。海への入り口は水門(ミナト、湊)です。どちらも甲類の「ト」で、普通名詞で、山門の地名は確か播磨にもあったと思います(2022.2.28 追加:播磨国風土記美囊郡(みなぎのこほり)に山門領(やまとのみやつこ)が出てきます)。ですから、ヤマトの末尾での乙類の「ト」は固有名詞とするときに区別されるのかも知れません。

そこで、「臺(台)」の意味を見ると、以下の通りです。
(1)「うてな(高い建物)」、「ものみやぐら」、「台地(表面が比較的平らで、周囲より一段と高い地形)」(例:灯台)
(2)「ダイ(物を載せるもの)」(例:台座)
(3)「中央官庁(つかさ)」、「朝廷」、「御史台(中国歴史上の官署の一つ)また、その長官」
(4)「他人の敬称」(例:貴台)


邪馬台国の場合の「臺(台)」の意味は(3)か(4)に該当し、卑弥呼を邪馬国(ヤマコク)に住む女王という意味で「臺(台)」を使ったと考えられます(注1)。

次に②の卑弥呼の正体です。日本書紀の神功皇后紀仲哀天皇九年春二月に筑紫の香椎宮で天皇が神のお告げに従わなかったために突然崩御されました。皇后は祟った神を知るために三月吉日を選び自ら神主になって、武内宿禰に琴を引かせて中臣の烏賊津使主(イカツオミ)に神託を聞く審神者(さにわ)に命じて聞き出したところ、先に四柱の神の名を告げた最後に住吉三神であったと伝えられます。そして、神の言葉を聞き出し、皇后は熊襲を討ち、三月二十五日に山門県(ヤマトノアガタ)に行き、土蜘蛛の田油津媛(タブラツヒメ)を殺しました。兄の夏羽(ナツバ)が兵を構えて迎えていましたが、妹が殺されたことを聞いて逃げたとあります。

そして、「三十九年、この年、太歳己未(たいさいつちのとひつじ)。

魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢を持ってきた。太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。(難升米・劉夏が正しい)

四十年、魏志にいう、正始元年。建忠校尉梯携らを遣わして、詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。(梯儁が正しい)

四十三年、——魏志にいう、正始四年。倭王はまた、使者の大夫の伊声者掖耶ら八人を遣わして、献上品を届けた。
(伊聲耆・掖邪拘が正しい)」とあります(『日本書紀・日本語訳「第九巻:神功皇后」』より)。

太歳己未は239年にあたります。魏志倭人伝の卑弥呼の記事が引用されますから素直に読めば、田油津媛はすでに死んでいますので、卑弥呼ではないと日本書紀が伝えています。この記事の前にも後にも田油津媛は登場しませんから、日本書紀が、卑弥呼が田油津媛であることを誤魔化すためにこの記事を挿入するとは考えられません。卑弥呼であるはずの田油津媛を誤魔化すためであれば、何も田油津媛を登場させる理由はありません。ですから、卑弥呼の正体が田油津媛だという説は成り立たないと思います(注2)。

また、③の蜘蛛塚古墳についてですが、Google Mapに掲載された「みやま市教育委員会の説明板」のとおり、もとは前方後円墳だったそうですから、土着の首長墓ではありません。魏志倭人伝にある径百余歩(直径約150m)の円墳でもありません。纏向のヤマト王権に繋がる人物の墓となります。もしも説明板の景行天皇の九州遠征であれば、考古学の成果から女王台与が西晋に朝貢した266年以降になります(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。(2022.2.28 赤字追加)

そしてこの古墳の横に菅原道真を祀る老松神社がありますが、その境内に二体の地蔵尊を祀るお堂があります。地元の方が土蜘蛛の田油津媛と夏羽を祀っているのかもしれません。もしかしたら二人は実在人物だったのかもしれませんが、田油津媛は卑弥呼ではないと思います。この土地の首長兄妹の伝承があったので、日本書紀の編者が使ったのかもしれませんね(注3)

最後の④の女山神籠石ですが、古代の山城「女山城(ぞやまじょう)」の石組みです。wiki「女山神籠石」によれば「城は古塚山に土塁を巡らすことによって構築され、谷部4ヶ所では石塁の水門が構築される。」、「女山城は文献上に記載のない城であるため、城名・築城時期・性格等は明らかでない。天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の朝鮮半島での政治的緊張が高まった時期には、九州地方北部・瀬戸内地方・近畿地方において古代山城の築城が見られており、女山城もその1つに比定される。」とあります。しかし、この石組みは、高良山の神籠石と同じ時期のものであれば、女王台与の時代に大国主久々遅彦によって作られた可能性が高いと思います。大国主は高良山で戦死して、久留米市の祇園山古墳に葬られたと推理しました。ですから、卑弥呼がなくなった後の270年ころになります。

以上見たとおり、筑後国山門は邪馬台国ではありません。なお、魏志倭人伝にも「女王国東渡海千餘里 復有國 皆倭種(女王国の東、海を渡ること千余里。また国あり、皆、倭種)」という記述にも合致していませんし、行程記事からだけでは誰もどこかに確定することはできません。


(注1)魏志倭人伝の原本に「臺(台)」とあったのかはっきりしませんが、12世紀の版本には邪馬壹(壱)国とありますので、邪馬壹国を探している方がいるかもしれません。しかし、当時の倭人は「ヤマイチ」・「ヤマイイ」というような母音が連続する発音はしなかったようです(2022.2.28 安本上掲書p.15)。また邪馬壹(壱)を「ヤマウィ」と発音することはあったかもしれませんが、意味を考えると邪馬臺(台)がふさわしいと思います。五世紀に成立した范曄「後漢書」では邪馬臺国と明記されていますので、原本にそうあったか、あるいは、「魏臺」が魏の明帝を指すことから、東夷の女王に臺を使うのを憚って原本か写本で似た字「壹」に変えたのかも知れません。范曄は魏の皇帝に憚る必要がないので正しく書いたと思われます(2022.2.28 赤字追加)

(注2)そして、ここで重要なことは日本書紀の編纂者は魏志倭人伝を読み、卑弥呼の存在を知っていながら、卑弥呼と何の関係もない神功皇后紀に魏志倭人伝を引用しているのですから、暗に神功皇后紀は創作だと告白していると考えるしかないということです。何のため?藤原不比等の命令で編纂に実際に当たった人物の良心なのか、奢りなのか?その意図はわかりませんが、編纂者は神功皇后紀が創作だと自白しているわけです。多くの研究者はこれを見逃しているようですが、「日本書紀」が天皇の歴史書だという思い込みからでしょうね(*´Д`)

当たり前ですが、神様のお告げを信じなかったために仲哀天皇が突然死ぬなどという話も事実ではないとすぐにわかります。もしも仲哀天皇が実在人物ならば、殺した住吉大神も実在人物です。それは魏志倭人伝に、卑弥呼の死後に男王が立ったので、国中服さず千人が殺される内戦になって、改めて卑弥呼の宗女で十三歳の台与が女王に立てられて国が収まったという話があります。この男王が仲哀天皇とすると、住吉大神とされた人物に殺され、そしてその人物によって台与が女王に立てられたと考えられます。

さらに日本書紀では神功皇后の「六十六年、この年は晋の武帝の泰初二年である(「泰始」が正しい)
晋の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。
」とあり、この倭の女王は台与と考えられます。この文章を残した日本書紀の編者は神功皇后の正体は台与だと告白しています。そうすると、皇后に常に寄り添い助けていた武内宿禰が住吉大神であるとわかります。神功皇后紀の内容の時間的な前後関係はでたらめですが、関裕二さんはこのように推理しています。

刮目天はさらに武内宿禰(住吉大神)の正体が兵庫県豊岡市久々比神社の祭神久々遅命(くくのちのみこと、棟上げ式の祭神)であり、スサノヲの子で木霊イタケルの直系の子孫であり、さらに魏志倭人伝の狗奴国の官狗古智卑狗のことだと突き止めました(詳細は「 狗古智卑狗という人物?」参照)。



(注3)道祖伸のペアの神は大国主と台与ですので、この二人を祀っているのかもしれません(「道祖神もやっぱり(^_-)-☆」参照)。

【付録】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆






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卑弥呼神社?弁天様ですよ(^_-)-☆

2022-02-23 05:50:58 | 古代史
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2018-09-17 22:58:51に「弁天様が卑弥呼だよ(^_-)-☆」というタイトルで掲載しましたが、リンク先が途切れていたので、少しだけ改訂しました。日本のリベラルのインチキについて教わった田中英道先生がなぜ卑弥呼神社がないのか ――日本のどこにも存在しない「邪馬台国」と主張されています。しかし、正史「日本書紀」やそれに基づく官製の神社伝承は「古代史の盲点はここだ」で述べたとおり、歴史の真相を隠すためのものです。卑弥呼という名称はもとは敵対していた倭国王難升米が魏の役人に書いて教えたもので、漢字を読み書きできない倭人をバカにしたものです。本当は「日御子」あるいは「姫巫女」ということでしょう。この記事のタイトルも変えましたので、お付き合いください(*^▽^*)

【武田鉄矢】定説がヒックリ返る壮大な話!『実は邪馬台国は 』
2018/03/30 に公開 武田・中野・論客CH@YouTube
(現在リンク先がありませんが、以下のようなコメントをしました。)
范曄の後漢書には邪馬台国とありますが、魏志倭人伝には邪馬壹国とあります。
でもヤマイーとかヤマイチとかいう国はありませんよ(^◇^)

古代の倭人語では母音が続くことはないということが分かっています(^_-)-☆

邪馬壹ですが、邪馬臺の「臺」の字が魏の皇帝を意味するので畏れ多いので、原本では似た字「壹」としたようですが、ヤマイチではなくヤマトゥ(ヤマドゥ)と読みます。山門(ヤマト)とも違う!邪馬臺(台)の発音はヤマトゥなのです!

九州説も畿内説も皆さん、「女王国東渡海千餘里、復有國、皆倭種(女王国の東へ、千余里のところにまた、国がある。皆、倭の種族である)」(藤堂他2名「倭国伝」講談社学術文庫2010,p.111)という「魏志倭人伝」の記述を無視して、都合の良いように解釈するからどこにでも置くことができますよ。九州説では福岡も山門も西都原も、もちろん畿内説の纏向も当てはまりません。ですから、建国の歴史を考古学の成果などで推理する必要があります(「なぜヤマト王権の始まりが分かるの?」参照)。

この記述に合う場所は、有力な説ではたった一つだけです。

宇佐市安心院(あじむ)町の邪馬台国は女王(御台様)が住むヤマ国という意味ですよ。

倭国大乱期に、海に面して物騒な縄文系ムナカタ海人族の不弥(ウミ)国から、安心院町(和妙抄の野麻郷)の邪馬(ヤマ)国に疎開して女王(院)が安心したというのが安心院町名の由来です。ここには耶馬渓もあります(*^▽^*)

仙の岩(宇佐市安心院町 宇佐市公式観光サイトより 綺麗な写真がたくさんあります!)


「魏志倭人伝」に卑弥呼は多くの兵士に厳重に警護されたとあります。その卑弥呼の宮室(三女神社)墓(径百歩=直径約150mの円墳)が安心院町三柱山で見つかってます。昔から地元の伝承も残っていますが、朝廷に遠慮して広くは知られていなかったようです。拙ブログのバナーにしている「二女神社」の神額は卑弥呼にゆかりのある方の謎かけでしたからとても面白いですよ(^_-)-☆

朝廷にとって卑弥呼はとても恐ろしい祟る存在でしたので、特に篤くお祀りしてます。

建国の歴史の真相を隠すために宇佐神宮では比売大神の名前で祀っていますし、宗像大社・宗形神社などでは宗像三女神としています。でもそれだけでなく宗像三女神の主神のイチキシマヒメとして、日本全国の厳島神社でお祀りされています。江島神社の弁財天も卑弥呼ですよ(注)。


八幡総本宮宇佐神宮ホームページより


天平勝宝元年(749年)東大寺大仏建立への八幡大神の託宣により朝廷が贈呈した神階が宇佐神宮の応神天皇に一品、比売大神に二品です。八幡大神(応神天皇ですが大国主と一体です)の一之御殿、神功皇后(女王台与)の三之御殿より中央の比売大神の二之御殿の方が立派です。比売大神も最終的には一品となっています。数ある神様の中でも品位を奉授された神様は、後に二柱の皇祖神、淡路島伊弉諾尊に一品、備中吉備津彦命(実は饒速日命)に二品で、わずか四柱だけですから本当に特別扱いになっています。地震や火山噴火などの天変地異は建国時代にヤマトに恨みを持って亡くなった高貴な三柱の神(大国主、台与、卑弥呼)の祟りが引き起こすと信じられていました!朝廷自身が隠した歴史の真相を暴露しているようなものですから、解明のヒントになりました(^_-)-☆

247年3月24日の北部九州で観測された日食が原因で卑弥呼が伊都国男王に暗殺されたその場所まで突き止めました(「卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?」参照) 

卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)

卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう

(注)三女神のタギツヒメとタギリヒメは古事記と先代旧事本紀で大国主と結婚したとしています。これはこの二女神の正体が大国主の妃になった女王台与だとほのめかして、真相を暴露しています。江島神社の御祭神は宗像三女神となっていますが、市寸島比賣命(イチキシマヒメ)をお祀りしている中津宮は、もとの上之宮で、文徳天皇仁壽三年(853年)に慈覚大師(じかくだいし)が創建したとあり、下之宮の辺津宮は建永元年(1206年)将軍・源實朝の創建とあります。興津宮は龍神伝説発祥の地である相模湾を臨む岩屋に一番近いとありますが、創建の年が不明です。


五頭龍伝説(まんが)より



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【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆

2022-02-18 00:00:16 | 古代史
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2020-02-01 10:59:26に記事にしましたが、土器のド素人の刮目天が調べたものをもとに図を作成し、考察していました。その後弥生時代から古墳時代前期にかけて日本列島各地の土器の併行関係が考古学者によって示されましたので(【付録】参照)、それに基づき図を改訂しました。あやふやだったところが明確になって仮説を支持するものになっていました。ちょっと煩雑な話ですが、重要なところですのでお付き合いください。

邪馬台国大和説は纏向遺跡が女王卑弥呼の都(みやこ)邪馬台国としている。その旗頭は著書やシンポジウムなどで大和説論者として活躍されている大和の考古学の第一人者の石野博信先生だ。昨年の2019年4月にも「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」(新泉社)を出版されて、そこで改めて大和説を主張するようになった根拠を「纏向遺跡は邪馬台国の候補地となるか」(pp.120-141)を中心に述べられているので、今回は主としてここを話題にしたい。

卑弥呼が使った土器は何式か?という話から始まる。卑弥呼が登場する前の「倭国乱」が起こった時期について「魏志倭人伝」では「その国も、もとは、男を王としていた。男が王となっていたのは七、八十年間であったが国が乱れて、攻め合いが何年も続いた。そこでついに、一人の女性を選んで女王とし、卑弥呼と名付けた。」(藤堂明保他、「倭国伝」講談社学術文庫2010,p.111より)とある。范曄の「後漢書」には「倭国大乱」の時期を「桓帝・霊帝の間(一四六~一八九年)」(同書p.32)とあるのを「梁書」に後漢霊帝の「光和年間(一七八から一八三年)」と書き替えてあるので、「卑弥呼が女王の位についたのは一八〇年代末から一九〇年頃となる。」とされた。そして「魏志倭人伝」に二四七年か二四八年に卑弥呼が死んだとあり、さらに次の女王台与が仮に二八〇年ころまで続いたとすればとして、西暦一九〇年から二九〇年頃までが邪馬台国時代としている(石野同書、pp.121-122)。

しかし、卑弥呼が女王に共立された時期だが、「倭国乱」が光和年間までで終わるということは「魏志倭人伝」のどこにも書いていない。「後漢書」は「倭国大乱」が始まったのは桓・霊年間だろうとしたのを「梁書」ではさらに光和年間に絞ったようで、光和の直後に乱が収まったというその根拠は怪しい。元々「魏志倭人伝」では男王がいた時期は、その男王を、107年に後漢に朝貢した師升王とその系統と考えると「魏志倭人伝」や「後漢書」では桓帝の時代から乱れ始めて霊帝の頃までは師升の一族が倭国王だったと考えられるが、その後は誰が王か分からない程本格的な混乱が長く続いたと考えられる。混乱が長年続いてようやく卑弥呼が登場すると考えるべきだ。

何故なら「魏志 韓伝」では桓帝・霊帝の頃に半島でも濊人・韓人が強盛になって混乱したとあるので、「倭国大乱」の時期と重なるのだから、半島情勢と連動していると考えられる。そうすると、半島情勢が収まる時期までは倭国乱が続いたと考えられるのだ。つまり公孫氏が204年に帯方郡を設置した時期だ。半島が静穏化したので、倭国では敵対勢力と話し合って女王を共立して混乱が収まったということだと推理できる(注1)。

図は纏向遺跡の築造と関わりある唐古・鍵遺跡と一緒に、纏向遺跡の遺構・遺物の変遷を示すものだ。卑弥呼が女王に即位する時期が丁度、纏向遺跡で大溝が掘削され、遺跡が成立する時期なのだ。だから邪馬台国大和説では女王卑弥呼が纏向遺跡を都として造ったのだとしている。だが、女王の即位と纏向遺跡が成立する時期が同じだからと言って、纏向が邪馬台国だとは言えないことは、纏向遺跡の外来系土器から分かるのだが、これについて以下のように書かれている(石野、同書pp.129-130)(注2)。

纏向遺跡では、その土器の分布状況からきわめて特徴的なことがわかってきた。出土した他地域の土器=外来系土器だ。九州系の土器では筑紫と豊後の土器がある。瀬戸内海沿岸の伊予・讃岐・阿波と日本海沿岸の出雲・伯耆・因幡などの土器、北陸・東海・関東の土器もある。これはいったい、どういうことなのか。他地域の土器がどのくらいきているかというと、調査地点によって異なるが、全土器量の一五から三〇パーセントくらいの割合で出土している。
<途中略>
土器が動くのではなくて、人が動いて土器が動く。たとえば大分の人が大分の名産物を壺に入れて持ってきた。それがカラになって捨てられて、いま遺跡に落ちていると考えるのが普通で、単純に言い直せば、一〇〇人のうち一五~三〇人は外来の人たちがいる街、それが纏向だということになる。一〇〇人のうち三〇人が外来人の街というのは、この時代の普通のことかといえばとんでもないことで、三世紀の近畿の一般的集落では一〇〇人のうち三人から五人が普通だ。たとえば大阪府の池上曽根遺跡とか、あるいは奈良県の唐古・鍵遺跡などの、近畿地方の弥生時代の大集落ではよその地域で作られた土器が出てくるが、その数は三パーセントから五パーセントだ。したがって、街の中を一〇〇人のうち三から五人くらいの外来の人がブラブラ歩いているのが普通で、二〇人から三〇人になると、これはきわめて異常ということになる。
<途中略>
邪馬台国はどこにあるかは、外来系の土器、よそから来た土器がたくさん落ちている所を探せばいい。いまも田圃・畑に土器片は落ちている。これらの土器片の分布調査をていねいにおこない、その土器片がどこでつくられたかを一所懸命に調べれば、発掘しなくてもある程度都市的な要素を持った候補地を探すことができる。そういう点からみても、纏向という遺跡は邪馬台国の候補地の一つになると思っている。

という主張から、纏向遺跡の外来系土器のデータを見つけた。オリジナルの図では石野・関川が1976年に提案した旧編年で時期が示されているので、年代が示されている現在の纏向編年(石野同書p.123の図)との対応を調べて赤字で記載した(ズバリ対応表が見当たらなかったので素人の刮目天が調査した。間違いがあれば指摘してください、と書きましたが前文のとおり改訂したものを下に示します)。(2022.2.17 赤字追加)



確かに、日本列島の様々な場所の土器がきているが、このデータでは外来系土器は15%で、その約半分は東海のものだ。外来系土器が30%というのはどういうことなのか全く不明だ。そして器種は甕が60%以上ある。纏向遺跡では各地域の首長層が居住する掘立柱建物が数多くあることが分かっているので、その従者が米などを煮炊きしたということなのだろう。水田はない純粋の政治的な目的で人々が集まった都市なので、唐古・鍵遺跡から外来の人々のために食物を運んできたのだろう。

そこでこの図からは先生が主張する筑紫や豊後の土器があったのか全く分からない。しかし同書の中に、筑紫と豊後の土器の記載を見つけた(石野同書pp.158-159)。

まず筑紫の土器だが、卑弥呼の治世に造られたとする勝山遺跡から鍛冶製鉄に使う送風管の先端部(ふいごの羽口)の断面が北部九州で見られるかまぼこ型の土器の破片が出土していた(纏向勝山遺跡1次調査)。近畿では断面形状はちくわ型なので、多くのヒトやモノが集まる卑弥呼の都と考える纏向遺跡にも北部九州の鍛冶技術が導入されていたということなのだ。

しかし勝山遺跡から布留0式土器が見つかっているとWIKI「纏向勝山古墳」にあったので、勝山遺跡が造られた時期は纏向4類の後期、およそ270から280年頃になるのだ。この時期は卑弥呼の時代ではなく、次の女王台与が西晋に朝貢した266年よりも後だ。刮目天が、纏向ヤマトに倭国が滅ぼされ、ヤマト勢に北部九州が占領されたと推理した時期なのだ。だから北部九州の人々は纏向にはきていないが、北部九州を占領したヤマト勢の誰かが纏向ヤマトに北部九州の鍛冶技術を持ってきたと考えれば、北部九州の甕が出土していない事実と合致するのだ。

また、豊後の土器は国東半島の安国寺遺跡のものらしい。安国寺遺跡から大和型纏向甕の完成品が二点出土しているので、これも上と同じヤマト勢が国東半島を占領した時期に、ヤマト側の人間か安国寺遺跡から在地のわずかな数の人が纏向にやって来たという解釈でつじつまが合うのだ。

つまり、卑弥呼や台与が支配していた時期には纏向に北部九州の人間はほとんど来ていなかったことを外来系土器のデータが示しているからだ。

「魏志倭人伝」には、北部九州の伊都国に一大率を置いて、女王への贈り物をチェックして届ける任務があると書かれている。それをそのまま信じれば、纏向遺跡に北九州の人々が来た痕跡がほとんどないのは、纏向遺跡が邪馬台国ではないからだと考えられる。

もしも「魏志倭人伝」の一大率の記述がデマだとすると、陳寿や関係者が何故デマをいうのか全く分からない。伊都国は奴国の時代から対外交易センターの役割を担っていたという物証が数多くあるわけだから、一大率を置く伊都国を経由しないで壱岐や対馬や狗邪韓国から直接、邪馬台国に女王への贈り物を運ばなければならない理由はない。邪馬台国が纏向遺跡であればなおさら地理的に別のルートがあるはずないし、大率に秘密にしなければならない理由も考えられない。

もしも邪馬台国が纏向に在ったのならば、女王が住まう政治都市である纏向遺跡には多くの人々を抱えているので、都の外部の様子を女王に知らせる役割の部下も居るのが自然だから、女王は国内外の情報を適宜入手しないと国を統治できないのだ。伊都国側が誤魔化すこともできないだろう。

だから、纏向に北部九州の人の痕跡がほとんどないということは、纏向が女王卑弥呼の邪馬台国でない事実を示す決定的な証拠なのだ。

北部九州との交流の痕跡はふいごの羽口だと言っても、それでは北部九州の冶金技術者らが来たという証拠にはならない。もしも勝山古墳の築造期が邪馬台国の時代だとすると、纏向ヤマトの人間が北部九州の冶金作業場から盗んできたか何らかの手段で入手したのであって、北部九州の人間が纏向を訪れたという証拠にはならないのだ。つまり北部九州と纏向の双方向の人的交流はほとんど見られないので敵対国同士だったのだ。だから纏向のヤマト勢は北部九州勢によって魏・西晋との交流も妨害されていたと考えられるのだ。それが280年頃までの邪馬台国時代の畿内の状況だったのだ(注3)。

そして、纏向遺跡は前方後円墳で代表されるヤマト王権の発祥地であることも間違いない事実だ。ということは、邪馬台国は纏向遺跡ではないので、刮目天の仮説のとおり一方的に纏向ヤマトに邪馬台国が滅ぼされたとしか考えようがない。邪馬台国東遷説は成り立たない。

そして「魏志倭人伝」には明確に、女王に属さない同じ倭人の敵対国として狗奴国が紹介されている。狗奴国は邪馬台国の強力なライバルということで、宗主国である曹魏は黄幢(正規軍の軍旗)を倭国に送って魏が後ろ盾であることを示し、狗奴国をけん制している。敵対する纏向ヤマトは狗奴国であった可能性が高い。

もしも狗奴国が、たとえば北部九州に在った邪馬台国の南に存在する熊本だというのなら、山陰・北陸・吉備・東海などの支配階級の人々が集まる、邪馬台国と交流していない対立している政治都市の纏向ヤマトは一体何者なのか全く説明できない。内外の史料に纏向ヤマトとして邪馬台国と戦った記録が一切見られないが、纏向ヤマトがある時突然、列島を支配したなど到底考えられない。何も記録のない、狗奴国でもない纏向ヤマトに多くの人々が集まって、何をしていたのか全く不可解だ。纏向遺跡で出土した木製の仮面や桃のタネは何のためなのかすらその目的はよく分からない。

また、もしも東海に狗奴国が在ったとするのなら、東海の人々が来ていた纏向ヤマトは何者なのだ?敵対する狗奴国が纏向ヤマトを支配したというのであれば、邪馬台国であった纏向ヤマトが狗奴国の支配国となっているということだから、「魏志倭人伝」の記述と全く矛盾する。

つまり邪馬台国ではない纏向ヤマトは卑弥呼と敵対した狗奴国以外に考えられない。



そこで狗奴国の場所が判明すれば、范曄の「後漢書 東夷列伝倭条」の「自女王國東度海千餘里、至狗奴国」から邪馬台国は瀬戸内海を西に千余里(約450km)渡った宇佐に在ったと分かるのだ。(【関連記事】范曄だけが「魏志の筆法」を見抜いた(^_-)-☆)

「魏志倭人伝」に「鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。年、巳(すで)に長大なれども夫婿無し。男弟有りて国を佐(たす)け治む。王と為りてより以来、見(まみ)ゆること有る者少なし。婢千人を以って自ら侍らしむ。唯男子一人のみ有て飲食を給し、辞を伝えて出入りす。居処・宮室・楼観・城柵、厳(おごそ)かに設け、常に人有て兵を持ちて守衛す。」とある。

卑弥呼の統治を補佐する男弟は、伊都国に常駐する一大率という刺史のような役割の伊都国男王で、倭国王師升の一族だろうと推理できる。この男王が敵対していたムナカタ海人族を懐柔して宗像の卑弥呼を女王に立てた人物だ。倭国の政治の実権を持ち、都市部から離れた要害堅固な居城の中の卑弥呼が太陽神から授けられた神託によって政治を行っていたと考えている。孫栄健さんが推理したとおり、魏朝廷から倭国軍の大将として黄幢を授けられた大夫難升米が男王だろう。

婢千人というのはシナのいつもの大げさな表現だ。卑弥呼が死んだときに奴婢が百余人殉葬したとあるから、女王に仕える婢は百人程度と考えてよいと思う(注4)。そうすると、卑弥呼の居城は宇佐津から駅館川を遡った安心院町の三女神社の在る台地に在ったと分かる。「日本書紀 神代上第六段一書第三の条に「日神が生れた三柱の女神を、葦原中國の宇佐嶋に降らせられた。今、海北道中に在す。なづけて道主貴(みちぬしのむち)と曰す。筑紫の水沼君らの祭神である。」とあり、水沼氏が奉祭したという土地の伝承もあり卑弥呼は三女神とされた宇佐神宮の一品八幡比売大神なのだ。

宇佐平野には全長200mを超す環溝を設けた小部遺跡があり、長官の伊支馬(いきま)が居館を置いて、大分平野などを含む広域の邪馬台国全体を統治していたと考えている。赤塚古墳は前方後円墳であるので、ヤマト勢が宇佐を占領して、その地を支配した将軍の墓だと考えている。

【付録】
王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




【参考記事】
小部遺跡で古墳時代の大型掘立柱建物が発見されました 宇佐市社会教育課ホームページ

【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)


(注1)中平銘鉄刀が4世紀後半頃の築造の奈良県天理市東大寺山古墳から出土しており、中平は光和の後に続く184から189年。
「「梁書」に「光和の時倭国が乱れて、卑弥呼が女王になった」と書いてあり、「中平」年号の刀があるということは重く考えるべきであろう。」(石野同書、p.132)
その時期はまだ半島は乱れていたから、卑弥呼が女王になったので後漢の朝廷や公孫氏が与えたというのは怪しい。別の目的で作られたこの刀を4世紀にヤマト勢が半島に進出した際に入手した可能性が高い。

あるいは、倭国王が公孫氏から与えられたものだったが、その後、魏の太尉司馬懿が公孫氏を滅ぼしたので、難升米がムナカタ海人族の赤坂比古(卑弥呼の弟)に下げ渡したのかも知れない。(2022.2.17 赤字追加)

(注2)その後の210年頃纏向石塚古墳が築造されている。最初の前方後円墳のようなので、纏向遺跡を造った人物の墓だろう。吉備との繋がりを示す弧文円盤が見つかっている。刮目天は吉備大王天照大神ニギハヤヒの直系で狗奴国王卑弥弓呼が旧奴国王族を纏向の地に呼び寄せて、対邪馬台国問題を話し合ったものと推理している。この石塚古墳は卑弥弓呼王の墓だと考えている。この纏向1式の時期に特に吉備の土器が増えて、その後は順次減少しているのが分かる。大王が亡くなったので、本籍地の吉備から弔いのために多くの人々が集まっているということだろうね(^_-)-☆

(注3)邪馬台国に魏が正規軍の軍旗を届けたことから、敵対する狗奴国は呉を後ろ盾にしていた可能性が高い。呉の紀年銘鏡が山梨県と兵庫県でそれぞれ1面づつ発見されている。つまり、邪馬台国と狗奴国の抗争は三国志の魏と呉の代理戦争でもあったのかも知れない(^_-)-☆

(注4)多分日食によって伊都国男王の命令で卑弥呼の世話をする一人の男に殺されたのだろう。彼が男王に神のお告げを伝える役目であり、宮室に出入りできる唯一の男子にだったから分かる。卑弥呼はいつものように宮室(三女神社)の南西の河原に湧き出ている温泉に入っていたところを突然引き出されて殺されたと推理できる。その場所が日食に因む「ヒカケ」という地名だったのだ。その地に同名の三女神社が造られ、頓宮つまり卑弥呼の墓の遥拝所だったようだ。さらにそのすぐ北側に下市横穴群が掘られており、アマテラスが岩戸隠れした場所だと誰かが示唆したようだ。恐らくその場所に人聞菩薩(にんもんぼさつ)という謎の僧が造ったとの伝承のある乳不動があるから、横穴を掘った人物も人聞菩薩に関係がありそうだ。人聞菩薩は実在人物ではなく宇佐氏の中興の祖の僧法蓮(ほうれん)が関係しているらしい。実際には法蓮か彼の弟子が造ったのだろう。ヒカケの三女神社の西側の摂社は殺された卑弥呼の怨霊を封じ込めるために造られたものだろう。背筋が凍るような霊気が漂っている(;´Д`)

卑弥呼の墓の遥拝所に何がある?
卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)


最後までお付き合いありがとうございます。通説と違いますので、疑問点などをお寄せください。
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【検証17】狗奴国は纏向の旧奴国だよ(*^^)v

2022-02-17 00:19:58 | 古代史
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2020-04-22 12:53:43 に掲載しましたが、関係地図を加えて分かりやすくしました。専門的な話もありますが、さほど難解な話ではないと思いますので、お付き合いください。


弥生後期から古墳初頭にかけてのヤマト王権成立過程における北部九州の変化の模様を詳細に調査された福岡の考古学者 久住猛雄さんの論文「3世紀のチクシと三韓と倭国」に基づき、刮目天の仮説を検証している。すでに【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)で狗奴国について検証したが、今回はさらに検証を進めたい。

3.3世紀前半〜後半(弥生終末期新相/古墳早期〜古墳時代初頭)の北部九州と「狗奴国」の再検討
(3)「狗奴国」はどこか? 〜「狗奴国」肥後説の再評価〜
 筆者は「邪馬台国畿内大和説」である。ただし「倭国」における北部九州、「伊都国」と「奴国」の役割と実力を大きく評価する立場である。その点、「邪馬台国畿内説」の論者の一部に、当時の北部九州の役割を軽視し、その「衰退」を主張する見方には異議を申し立てる立場である。「畿内説」は、卑弥呼に対峙した「狗奴国」について、東海説(濃尾平野や遠江)、近江説、毛野説などがあり、最近は濃尾平野説が通説化しているが、疑問がある。


纏向遺跡には九州の外来土器がほとんど見つからないことから、考古学的に邪馬台国が纏向になかったことは明らかなのだ【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆)。だがそういう重要な考古学の知見を無視して多くの考古学者が畿内説を支持しているようなのだから、何が理由なのか不思議だが、刮目天は科学的にこの問題を解明することにしか興味がないのでここではその理由に立ち入らない。

さらに狗奴国「王」の「倭人伝」での存在について、ある時期に公孫氏政権が「王」と認めた機会があったのではないかという仁藤敦史の説が注目される(仁藤 2009)。その場合、近江や濃尾、東日本の首長が「王」として認められるような中国との直接的なパイプがあったのだろうか?庄内式期(布留0式期以前)までの近江以東の考古資料は、中国系文物はあっても稀少であり、疑問である。

仁藤さんの説については後で触れるが、久住さんのおっしゃるとおり、公孫氏から王と認められるような狗奴国が近江以東の東日本に在ったということは考古学的にも認められない。しかもこの庄内式期の早い段階から東海や近江の人々、しかも首長や大臣クラスの人々が纏向遺跡にやって来て、一緒に祭祀を行っていると見られることから、纏向遺跡を邪馬台国としたとしても近江以東の東日本が邪馬台国に対立する狗奴国ではないことは明らかなのだ。じゃあ、狗奴国は一体どこなのかということになる。

 実は「畿内説」でも、学史上「狗奴国」を肥後や南九州(「熊襲」)に比定する説は根強い。その場合、女王国(倭国)連合の、「其の南、狗奴国」の「南」は正しいとする。畿内大和説の内藤湖南も狗奴国肥後説であった。狗奴国の「官」「狗古智卑狗」がクコチヒコ=ククチヒコ(菊池彦)とする説は古くからあり、菊池川流域の拠点集落を治める肥後狗奴国の対女王国連合への前線長官とする説がある(菊池秀夫2010)。近年では熊本県立装飾古墳館の木﨑康弘による狗奴国肥後説が体系的で説得力がある(木﨑 2014・2015)。

「邪馬台国畿内説」であるなら肥後や南九州に狗奴国が在ると考えるということは、この時期に畿内とほとんど交流のない北部九州はいったい何なのかということになる。結論は「畿内説」は間違いで、「邪馬台国北部九州説」を考えるしかないのに何故「畿内説」なのか分からない。シナ・半島への玄関口の北部九州との関係を考えれば、邪馬台国岡山説も徳島説なども同じ状況でしょう。熊本説は狗奴国をどこに置くのかな(;´Д`)

 弥生後期後半から古墳初頭の肥後は、大型で多重の環濠集落が多く分布し、鉄鏃が多数出るなど「戦争状態」を想起させる。「狗古智卑狗」は菊地川上流の山鹿市方保田東原遺跡の首長とされ、「王」は緑川流域で古代の「球磨駅」が近くに想定される城南町新御堂遺跡とされる。新御堂は方保田東原に準じる規模の広大な二重環濠集落である。装飾長頸壺が特徴的な「免田式」の分布は最後に肥後南部の球磨盆地に収斂するが、女王国連合のうち実質的には北部九州の圧力により「狗奴国」が縮小し南遷したと木﨑は説明する。

狗奴国は北部九州に圧迫されて小さくなって南に逃げて、最終的に纏向ヤマトを乗っ取ったというのは全く考えられない。だが、最近は少人数で神武東征したという説もあるようなのだが、そういうことは「記紀」には書いていないから、どうしても神武東征に持って行きたいための苦し紛れの説だろう。でも、大国主と台与の倭国が纏向ヤマトに滅ぼされたが、二人の間に生まれた子供が、纏向ヤマトに呼び寄せられて応神天皇として即位したと考える刮目天説に近いことは近い。しかし刮目天説は纏向ヤマトが狗奴国とするのだから少数東遷説とは決定的に違うんだよ(^_-)-☆

菊池秀夫さんも、菊池川上流の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡は狗奴国の官狗古智卑狗が指揮する前進基地であって、狗奴国王卑弥弓呼の居る中心部は宮崎県一ツ瀬川流域の川床遺跡付近だとしているようだ。その根拠として、川床遺跡の北方の名貫川下流右岸の東平下周溝墓群の中の一号円形周溝墓から畿内の「庄内式」の高坏が見つかっており、さらに付近では、日向で最古級の前方後円墳が見つかった新田原(にゅうたばる)古墳群や大型の前方後円墳のある西都原(さいとばる)古墳群があるので大和王権の起源となる地域ではないかということだ(「邪馬台国と狗奴国と鉄」彩流社2010,pp.201-202)。

しかし、日向の首長クラスの墓で「庄内式」の高坏が見つかったということは、畿内と何らかの繋がりはあるという程度なのだ。しかも纏向遺跡には日向の土器は全く見つかっていない。また、前方後円墳の最古のものは纏向石塚古墳であり、新田原の前方後円墳はその後に築造されたものだ。西都原の前方後円墳は四世紀築造だから、九州がヤマト勢によって占領された後の話なのだ。「日本書紀」では神武東征が日向を出発地としているので、ヤマト王権のふるさとと考えたいのは分かるが、【検証2】前方後円墳のルーツ?で検証したとおり前方後円墳の属性にも北部九州の奴国を起源とするものは数多くみられるが、南九州の影響を受けたという証拠は全く見つからないのだから、「日本書紀」の神武東征はフィクションと考えるしかないのだ。

 「狗古智卑狗」の拠点とされる方保田東原は青銅器の出土が豊富で、集落面積は吉野ヶ里に匹敵し(約 40ha)、環濠や集落内を縦横に区画する複数の条溝が存在する。また肥後では弥生後期から古墳初頭の鉄器の出土数が非常に多く(菊池秀夫 2010)、鍛治技術も北部九州に匹敵し、鉄素材も北部九州経由の輸入だけでなく、韓半島や中国王朝からの独自入手や(村上恭通 1998・2007)、さらに阿蘇の褐鉄鉱を用いた小規模製鉄の可能性まで指摘されている(塚本浩司ほか2016)。重要なのは、肥後北部や中部の大型拠点集落では、漢鏡や中国銭貨などの中国系文物が意外に多いという事実である(表2、木﨑 2014)。特に中国銭貨の多さは特筆される。

阿蘇の褐鉄鉱を用いた小規模製鉄の可能は高いと思うが、質や収量の問題があったようだ。【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚))で見たように板状の鉄素材が多く見つかっており、半島南部の鉄素材を持ち込み鉄製武器を大量に作ったと考えている。

北部九州では壱岐は別格として糸島沿岸から博多湾岸に多く、筑前内陸部・筑後・肥前(佐賀平野)では中国銭貨は稀少で、肥後での分布数は距離と反比例となる。このような特定の遺物の出土パターンは、特異な交渉(交易)の存在を示す可能性があり、「使者交易」(レンフルー、バーン(訳)2007)が想定される。この地域では青銅器生産はこの時期しておらず、原材料搬入ではない交易に伴う搬入が考えられる。楽浪土器の出土は今のところないが、中国王朝や中国地方政権との直接交渉が十分考えられる地域であり、仁藤敦史の想定する「狗奴国王」称号の成立条件が存在する。

肥後北部や中部の大型拠点集落では、漢鏡や中国銭貨などの中国系文物が意外に多いという事実が在るにも拘らず、楽浪土器が少ないということは、直接華僑が入り込んで交易したのではなく、倭人が半島経由で持ち込んだものと考えられる。ということは肥後は北部九州の倭国を攻撃するための狗奴国側の軍事基地は間違いないが、在地の人々から食糧調達などの目的で、その対価として中国系文物が使われたのだと推理できる。菊池が狗奴国の官狗古智卑狗(大国主の先代)に因む地名であることからも狗古智卑狗が活躍した地域であったと考えられる(【検証14】奴国~邪馬台国時代のつづきだよ(*^^)v)。



 肥後では古墳初頭(ⅡA期併行)から伝統的な脚台付甕の脚台が除去されて北部九州と同じ丸底長胴甕になり、高坏も北部九州型に転換し(この変化は肥後北半部が早く南半部はⅡB期)、ⅡB〜ⅡC期に福岡平野の「北部九州型布留甕」が伝播し土器様相が一変する。

弥生後期以来の最有力の大型拠点集落が分布した菊地川、白川、緑川の中・上流域には有力な前期古墳が築かれず、玉名(菊地川下流)、宇土半島基部(緑川下流)に築かれ始め(ⅡC期)、その頃までに弥生後期以来の拠点集落群が解体する。狗奴国(実際は「クマ国」か)が球磨盆地に後退し衰亡したとの説は(木﨑 2015b)、考古資料と整合的である。

「魏志倭人伝」には狗奴国と女王国の結末が書かれていないが、菊池秀夫さんは、大分県豊後大野市高添遺跡では突然家屋が解体され、「周辺の遺跡でも家屋の廃棄の痕跡が見られ、古墳時代の前期前葉以降に突如として人的活動の痕跡が消えてしまい、墓地も全く発見されていない。・・・西弥護免遺跡の環溝内の住居跡の多くが焼失し、平安時代まで空白になっている・・・・・・前述した五箇所の全ての地域において、弥生時代と古墳時代の間に連続性が見出せないのである。このことは、さらに九州全体についても言える。つまり、古墳時代になって女王国連合と狗奴国の両方が消滅したか、移動したという仮説しか考えられないのである。(菊池前掲書,pp.199-201)と注目すべきことを書いておられる。なお、五箇所の遺跡は、方保田東原を中心とする菊池川流域、西弥護免遺跡を中心とした白川流域、狩尾遺跡群を中心とした阿蘇谷の地域、高添遺跡を中心とした大分県大野川流域、宮崎県川床遺跡を中心とした一つ瀬川流域だ。



じゃあ、勝手に北部九州と肥後・日向の狗奴国が消滅したか纏向に移動してヤマトになったということなのかな?これでは「ヤマト王権成立の説明にはならないと思うけど(;´Д`)

先に述べた仁藤さんが主張する狗奴国の条件に「中国王朝や中国地方政権との直接交渉が十分考えられる地域」だというのは非常に重要な指摘で、これは前回も述べたが、魏のライバルの呉が狗奴国の後ろ盾になっているはずだと考えられるのだ。しかし、上で述べたとおり狗奴国が肥後や日向ではこれに該当しない。北部九州の邪馬台国連合倭国と対立する纏向の狗奴国ヤマトはすでに述べたように、物証として呉の紀年鏡が山梨県取居原古墳と 兵庫県安倉古墳に見つかっているし、呉の孫権の動きを考えても、敵対する魏が難升米に正規軍の旗「黄幢」をさずけたことから見ても、纏向の狗奴国ヤマトは魏と敵対する呉の同盟国とだと推理できるのだ。

つまり、狗奴国を中・南部九州とする仮説も、古墳時代初頭にどうして纏向遺跡にヤマト王権が成立したのかが全く説明できないが、纏向遺跡に狗奴国が在ったという刮目天の仮説であればヤマト王権成立のほとんどの謎が解けるのだ。

【検証6】倭国大乱の実相は?(*^-^*)で述べたが、第三次倭国大乱を「記紀」では仲哀天皇の祖父である景行天皇の熊襲征伐の話にして誤魔化しているが、実際に、豊後、日向や肥後などはその戦場になったことが鉄鏃・銅鏃の分布から推理できることを示した(注1)。最終的にヤマト勢が大国主・台与が支配していた北部九州を占領し、そのまま四世紀から六世紀まで九州の大半を物部氏が支配し続けることになったようだ。特に宗像大社の周り北九州に物部氏が集中しているので、多くの研究者は物部の出身地と勘違いする方が多いが、物部は吉備のニギハヤヒ大王の一族なのだ。六世紀に大和朝廷に反乱を起こしたとされる筑紫の君磐井も出身地は諸説あるようだが、吉備の物部氏である可能性が高いと考えている。これについてはまた、検証したい。



以上、【検証13】から今回の【検証17】まで三世紀の北部九州を中心に詳しく調べた結果、刮目天の仮説によって矛盾なく説明できることを改めて示すことができた。紀元前九世紀か十世紀頃に江南出身の呉人(倭人のルーツ)によって水田稲作が日本列島に導入されて弥生時代が始まったのは間違いないが、日本の青銅器文化は春秋の呉王の末裔天御中主(あめのみなかぬし)が弥生中期初頭に福岡市早良平野に降り立ったことに始まる。何度も述べて恐縮だが、漢の倭の奴国王の金印が蛇紐なのだから蛇(ナーガ)を神として祀る民族だった。天御中主はその王を意味するのだ。「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」というシナの歴史書(新唐書、宋史)のとおりであるので、天御中主こそ日本の始祖王であり天皇家の皇祖神であることは間違いない事実だ。これによって日本建国に関わる多くの謎が解き明かされるのだ。

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆





(注1)「日本書紀」と史実について
仲哀天皇の熊襲征伐は卑弥呼が死ぬ原因となった247年3月24日の日食の後の第二次倭国大乱に対応し、仲哀天皇は住吉大神の神託を信じないために死んだ。これはヤマト勢を主将として率いた尾張王が倭国王に立ったために狗奴国の官狗古智卑狗(武内宿禰=住吉大神のモデル)と内戦が起き、殺された史実に対応することはすでに述べた。

その後に仲哀天皇の祖父の景行天皇の登場だから、史実を誤魔化すためのデタラメだった。仲哀天皇はその父の日本武尊(やまとたける)が死んで38年後に生まれた計算になるから景行天皇・日本武尊・仲哀天皇の関係は全て作り話だと分かるのだ。日本建国の英雄日本武尊は誰がモデルなのか今は分からないが、初代応神天皇が即位して東国を鎮撫して回った四道将軍のひとり大彦命かその子の武渟川別か、東国の治定にあたったとされ、上毛野君や下毛野君の始祖とされる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)などの尾張王ではないかと思う。四道将軍のルートは、四世紀の前方後円墳の伝播地域とだいたい重なっているので、史実と考えられるのだ。(2024.1.25 赤字訂正)

刮目天は纏向遺跡の外来系土器の中で東海勢の土器が最も多いことから、仲哀天皇は倭国王に立った男王であり尾張王と推理した。景行天皇はその後を継いだ尾張王だろう。尾張氏は物部氏と同族で、奴国の正統な後継者で吉備を平定しヤマト政権の基礎を築いた真の皇祖神天照大神尊ニギハヤヒの子天香語山命を祖とする有力豪族だ。東海は祭祀の面では隣接する近江にルーツのある前方後方墳を採用しており、近江との繋がりが強いので、「記紀」では近江出身の気長足姫(おきながたらしひめ)を仲哀天皇の后神功皇后という設定にしたのだろう。第二次倭国大乱で遠征軍の主将を務められる有力者だったということだ。そして「魏志倭人伝」では狗奴国王卑弥弓呼よりも先に紹介された狗奴国の官狗古智卑狗が一番の有力者だから尾張王(仲哀天皇)を殺した出雲・丹波王で、近江・北陸を支配するムナカタ海人族の十三歳の姫巫女の台与を女王に立てたと推理した。

【検証19】日本建国のための戦いだ!
【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)~(その4)
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有
抹殺された尾張氏の謎(その1)(その2)
尾張と言えばカニだ~わ!


ということで、最後までお付き合いありがとうございます(*^▽^*)
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正史は正しい歴史なのか?|д゚)

2022-02-15 16:17:58 | 古代史
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2020-05-11 14:48:16に掲載した記事ですが、若干追加しました。お付き合いください(*^▽^*)

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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)5月11日(月曜日)弐
       通巻第6495号 
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愛読している宮崎正弘先生のメルマガに以下の記事を投稿しました。早速、先生の読者の皆さんに興味を持っていただきました。心より感謝いたします。投稿記念にブログにしました。ご意見などコメントはこちらに下さい。よろしくお願い致します(*^▽^*)

(読者の声2)貴誌6493号の高柴昭様のご意見は日本人の多くが理解できるものでしょう(【付録】参照)。「魏志倭人伝」に邪馬台国への行程が詳しく書かれているので、これを信じて正しい解釈をすればたどり着けるはずだと多くの方が考えているようです。

しかし多くの研究者が二・三百年かかっても、現代に至るまで未だに確定されていません。

その理由はいろいろ指摘されています。「魏志倭人伝」は三世紀末に西晋の史官陳寿によって編纂された「三国志」の一部ですが、その原本は現存せず、誤写もあるような十二世紀頃の南宋期の版本で議論していることも、字句の解釈が分かれる一因でしょう。

そのためもあるのか、最初に意中の場所があって、結論をそこに持って行くために内容まで変更して解釈する説もあり、理由抜きで都合の悪い記述を無視するものもあり、とても万人が納得する話にはならないからという指摘もあります。

しかし高柴昭様が述べられたような日本人に共通する正史や史官に対する考えが、実は思い込みに過ぎないというのが根本に在ること、宮脇淳子先生の師匠で夫の岡田英弘先生の「日本史の誕生」(弓立舎,1994,pp.48-72)によって気付かされました。古代史研究にはまったきっかけでした。(2020.5.14 黒字修正)



それでも、多くの文献史学者も、以下でかいつまんで述べる岡田先生の内容がエレガントではないという理由で排除しているようです。これも研究が停滞する大きな理由のひとつです。

史官は歴史家だから事実を真面目に書いているはずだと主張しているのです。

しかし、どんな文書でも執筆するにはそれなりの立場の人がそれなりの理由や目的をもっているので、必ずしも事実だけを書いていないかも知れないと疑うのは当然の姿勢でしょう。まして古代ならば権力者に不都合な事実はとても書けないと考えるのが常識でしょう。当時なら本当に首を刎ねられますし、今だとビルの屋上からですか? そういう意味で『少なくとも、「信頼するのはバカ」と切り捨てることの傲慢さ』とまで断じるのは如何なものかと思います。

「魏志倭人伝」で陳寿が最も主張したかったことは、魏の実力者で後の西晋の礎を作った司馬懿(西晋の宣帝)の功績でした。遼東郡太守公孫氏を破り、韓半島を支配し、倭国まで懐柔して、ライバルの呉を挟み撃ちにしました。(2022.2.15 黒字修正)

この功績が、西域の大月氏を魏に朝貢させて蜀を抑え込んだ曹真(曹操の甥)を超えるものだということでした。それは西晋の実力者で陳寿のパトロンであった張華の顔を立てるためでした。「三国志」を正史にした人物です。

具体的には、邪馬台国が帯方郡から東南、万二千余里で、呉を圧迫する東の海上にあり、更に魏の朝廷の目を引くように女王が支配する東夷の大国ということにしたということです。



ですから邪馬台国に行く行程は実際の卑弥呼の宮室の場所を基にして、倭国のことを全く知らない魏の朝廷の人々が納得する程度のつじつま合わせで方角・里数・日数や戸数などを書き換えたということなのです。

いくら正しく解釈してもこのような行程記事では誰も邪馬台国にたどり着けません。

ただしすべて陳寿の創作ではなく倭国に訪れた二人の魏使(梯儁と張政)の報告書に基づき司馬懿の功績を強調したということでしょう(司馬懿の部下で帯方郡太守劉夏と倭国大夫難升米との談合で梯儁の報告書が作られたと推理しています)。

「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ
【検証22】難升米という人物は?(その1)~(その3)

なぜそこまで言えるかですが、当時、魏都洛陽から大月氏の都カーピシ(アフガニスタンのバグラム)まで万六千三百七十里ということになっており(一里約450m)、洛陽から楽浪郡(平壌付近)まで五千余里ですので、邪馬台国までを万七千余里にして曹真の功績を超えているとしたかったからとわかるからです。(2022.2.15 黒字追加修正)

陳寿は大月氏の朝貢記事も、曹真が大司馬(現在でいう国防長官か)に昇任する記事もあっさりと触れてはいますが、曹真を称えるはずの西域伝を意図的に書いていません。渡邉義浩氏も陳寿が曹真の功績を隠ぺいしたことを「魏志倭人伝の謎を解く」(中公新書2164,pp.38-41)で述べています。

後に裴松之が「魏志倭人伝」の注で「魏略 西域伝」を引用し陳寿の偏向を正しています。また「三国志」で西晋の基となった曹魏だけ正式な王朝として本紀で扱い、呉・蜀は列伝扱いです。何よりも凄いのは、たかが東夷の王でしかない卑弥呼の朝貢を絶賛した異例とも思える詔勅を、ほぼ全文掲載していることです。(2020.5.14 黒字修正)

事実を淡々と記載すべき歴史家の態度ではないのです。司馬懿の功績を書きたいために「三国志」を編纂したと言っても過言ではないと思います。

これが当時の史官の正しい価値観なのです。

多くの日本人は正史は何となく正しい歴史だと勘違いしています。

現存する日本最古の正史「日本書紀」も編纂を命じた天武天皇が崩御した約30年後に完成しています。その当時の権力者藤原不比等は、皇后鵜野讃良(持統天皇、天智天皇皇女)が優秀な皇子たちを排除して即位したことの正統性を主張するために、皇祖神天照大御神を女神ということにして高天原神話を創作しました。

また建国当時活躍した氏族の物語を抹殺し、天皇家さえ貶めて神話に閉じ込め、藤原氏に都合の良い歴史に改ざんしています。

その後に神話に基づく伝承を各地の神社に残させて粉飾しましたので、古代史が訳のわからないものになっているのです(多くは関裕二氏の「古代史不都合な真実」実業之日本社2018 などの数々の著書を参考にしています)。(2020.5.14 黒修正)


例えば、「神功皇后紀」に「魏志倭人伝」の女王の朝貢記事などを引用しています。編纂者は有力氏族の伝承なども集めているので、建国の真相を知っていたはずです。平安時代までの多くの人々も知っていたので、疫病や天変地異が起こる度に朝廷は、建国時代にヤマトに恨みをもって亡くなった貴人たちの祟りだと信じ、ゆかりの神社の祭神に田などを寄進し、神階を上げて丁重に祀っています。

祟るはずのない神(神功皇后、宗像三女神=宇佐神宮比売大神)を怖れており、 祟られる側に問題があることを告白していると関裕二氏が指摘しました。(2020.5.14 黒字修正)特に国譲りをした大国主は様々な名前で日本各地で祀られていますので朝廷が正体を明 らかにしたくない実在人物だと分かります。

出雲大社にある大国主の銅像


狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆

宇佐神宮にはじまる神仏習合も歴史の真相をあから様にできないので本地仏(弥勒菩薩)として祀ったと考えています。七福神も男性6名は全て大国主狗古智卑狗で、弁財天が宗像女神卑弥呼、8番目の吉祥天が台与だと突き止めました。

本当は怖い七福神の謎(;一_一)


四柱の神(伊弉諾尊・八幡大神・八幡比売神・吉備津彦命=物部氏の祖饒速日尊=天照大神尊)だけが最終的に最高位の品位が贈られていますから謎を解くカギになりました。

正史は権力者が権力を維持するための「かくあるべし」という理念で書かれた政治文書だというのが正しい理解です。

ですから、書かれたものをそのまま信じると罠にかかります。

しかし真相解明のヒントが隠されているので、全く無視するのも間違いです。編纂時の権力者の意図などを推理し、シナの歴史書(「新唐書」・「宋史」)に記載された「日本は古の倭の奴国」を最初の仮説として、考古学などで検証・推論を繰り返す科学的手法(アブダクション)によって古代史の真相を解明しました。

ヤマト王権の成立過程や邪馬台国の位置・卑弥呼の墓など数々の謎が解けました。詳しくは拙ブログをご覧ください。定説・通説と異なるので、疑問点などをお寄せ下さい。


「古代史の謎を推理する」

【付録】
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)5月10日(日曜日)
       通巻第6493号 
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(読者の声2)宮崎氏の論は、現代の中国論については誠に鋭いものがある一方で、古い時代のことでは、現在の価値観で、過去のことを推し量る過ちを犯してられる様にも思われます。
 ある人の先祖が悪人だから、その末裔である、ある人も悪人である、と決めつけることができない様に、過去のことは過去の価値観や状況などに基づいて考えるのが普通で、現在のある人が悪人だから先祖も悪人に違い無いと決めつける事は出来ないと思っております。宮崎氏の場合はそうではないか、或いは場合によって基準が違っている様に見受けられる所があり、この点は改めて頂いた方が今後の論調に説得力が増す様に思い、あえてメールを差し上げる次第です。
 具体的には、令和2年(2020)5月3日(日曜日)弐 通巻第6450号において、宮脇淳子『朝鮮半島をめぐる歴史歪曲の舞台裏』(扶桑社新書)の書評の中で、次の様に述べておられます。
「両国にとっての歴史認識とは客観的事実などどうでも良いし、そのときどきの支配者のご都合主義が投影される。各王朝の『正史』は史実が疑わしい。『魏志倭人伝』を信頼している日本の歴史家がまだいるが、バカとしか言いようがない。」
 翌日の、5月4日通巻第6485号の中の、石平『石平の裏読み「三国志」、英雄たちに学ぶ乱世のリーダーシップ』(PHP研究所)の書評の中では、『三国志』については著者の石平氏のことを「石平氏は孔子の『論語』に通暁し、儒教に造詣が深い。北京大学で哲学を学んでいる」として大変評価されており、その石平氏が説かれる『三国志』を下にした人物の解説には特段の異論は持っておられず納得されている様にお見受け致しました。
 石平氏の評価自体は私も全く異存はありませんが、一方で宮脇淳子氏の書評の中では「バカとしか言いようがない。」とまで言われる疑わしい史書(『三国志』)に基づいて、石平氏の『石平の裏読み「三国志」、英雄たちに学ぶ乱世のリーダーシップ』は著されています。また、所謂『魏志倭人伝』は紛れもなく、その『三国志』の中の一部であります。ご承知の様に『魏志倭人伝』という史書は存在せず、正式には『三国志』の中の「魏志」その中の「東夷伝」さらにその最後に位置する「倭人条」のことを略して『魏志倭人伝』と言っているのであります。
 普通の考えでは、『魏志倭人伝』が信頼できないのであれば、『魏志倭人伝』が含まれる『三国志』も信頼できないはずで、その信頼できない『三国志』に基づいた人物評であれば、それほど意味がないことになる、或いは宮崎氏の言い方を借りれば、『三国志』に基づいた論などバカのやること、になると思います。
『論語』に通暁し、儒教に造詣が深い。北京大学で哲学を学ばれた石平氏ともあるお方が、信頼できない『魏志倭人伝』が含まれる『三国志』に基づいた論を発表されたのであれば、宮崎氏は、まずその点について一言あってしかるべきで、それはなしに上記の書評をされたのは『魏志倭人伝』は信頼できないが『三国志』は信頼できるとお考えなのか、信頼できない『三国志』に基づいているが石平氏の人物評価は納得できると言われるのか、あるいは別の考えをお持ちかもしれません。
 いずれにせよ、「『魏志倭人伝』を信頼している日本の歴史家がまだいるが、バカとしか言いようがない。」とまで言われる以上、二つの書評における中国史書の扱いの違いについて、その根拠とともにお考えをお聞かせ頂きたいと存じます。
 念のために申し上げます。私は中国の言う歴史が信頼できないのは、近年になり、特に共産党が政権を獲ってからが顕著で、全くの捏造と言える様なことまでも行われる様になりましたが、それ以前は、自分の政権の正当性を高めるため前の政権を悪く言う様なことはありましたが、目的もはっきりしないままに単に出任せを言う様なことは無かったと考えています。
 むしろ『魏志倭人伝』は、その理由は長くなるので省略しますが、中国正史の中でも最も信頼できるものの一つだと考えております。
 それに留まらず、古代の史官は生命を賭けても事実を記録することを誇りとしていたのであり、その様な思いで記録されてきた史書を、現在の状況に合わないとして、「信頼するのはバカ」と切り捨てるのは傲慢であると申し上げざるを得ません。
 古代の状況をご理解頂く一助として『史記』に記載ある次の逸話をご紹介します。
 春秋時代に、現在の山東を中心として斉という国がありました。初めて覇者となった桓公が治めた国です。その後裔に荘公と言う君主が居た時のことです。荘公は家臣の崔杼という者の妻が美人であったので、屡々崔杼の所に行き密通していました。崔杼はそれを知っていて復讐の機会を狙っており、ある時に屋敷内で荘公を弑してしまいました。
 その時の太史(史官)は「崔杼、荘公を弑す」と記録したので、崔杼は太史を殺しました。すると、その弟がまたその通り記録したので、崔杼はまた弟を殺しました。
 その末弟が、また同じ様に記録すると崔杼は(諦めて)これを放任したのです。
 実際の話はもう少し複雑ですが、簡単に要点をまとめると上記の様になります。
これをもって全てとする訳ではありませんが、当時の史官がどのような心構えで歴史を記録していたのか、その一端はご理解い頂けたのではないでしょうか。
 歴史書に誤りや誇張などが無いとは申しませんが、少なくとも、「信頼するのはバカ」と切り捨てることの傲慢さをご理解頂けたのではないかと考える次第です。
   (高柴昭)

(宮崎正弘のコメント)御指摘有り難う御座います。ただし書評のなかの作品評価と、考証は別物なので、宮脇女史の著作は史論、石さんのそれはリーダーシップ論です。付け加えますと、石さんの表題は、たしかに三国志となっていますが、本のなかで論じているのは三国志演義です。ご存じのように『三国志』と『三国志演義』は別物で、前者はいわゆる『正史』、後者は創作で、史実とは無関係です。
 問題の魏志倭人伝は邪馬台国と卑弥呼のことで日本が刮目し始めたわけですが、日本の歴史学界が熱中してきた観点は、あたかもそれを史実のごとくに受け取って、邪馬台国の場所捜しという熱狂を生んだ。ですが、記紀には卑弥呼も邪馬台国も一行の記述もなく、また卑弥呼神社もありません。ゆえに邪馬台国と卑弥呼の存在は信頼に値しないと思います。
 あらゆる学説は仮説です。
 林房雄は『神武天皇実在論』のなかで、こう言います。
 「百人の学者が自分の好みと個人的判断に従って、同一資料から百種の推理小説を創作している」(中略)魏志倭人伝も「原本は三世紀頃のシナの史家によって書かれた日本史らしいものであって『記紀』よりも約五百年ほど古い。すでに『日本書紀』の「一書に曰く」にも引用されており、本居宣長は『魏志倭人伝信ずるに足らず』と一蹴している、戦後の日本古代史家は「信ずるに足る古文献」として一斉にこの謎の多い文献に飛びついた」

 さて現代日本人が、敗戦を境に武士道精神を喪失して、まるで戦前の日本人とは異なる価値観に支配されているように、中国人もあの唐詩選の時代の高らかな詩の精神を忘れてしまった。共産主義全体主義下の中国人は金太郎飴のように見えた時代もありましたが、天安門事件から三十一年も経過して、40歳以下の中国人も又、過去の中国人の価値観を共有しておらず、そのうえ過去三十年、ひたすら「右肩あがり」の経済環境に育って大学の新卒者が847万人もいる時代。この人たちの人生観、価値観が現代のアメリカ人のそれに酷似してきた変化に小生は注目しています。
 いずれにせよ、御指摘のこと承りました。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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