刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その2)

2021-12-29 01:36:46 | 古代史
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自転車くまさんの写真から、茶臼塚古墳の墳頂に置かれた大国主狗古智卑狗(久々遅彦)の本地仏の石仏が(注1)、もしもうてな遺跡を見ているならば、そこで戦死したことを示唆していると考えました。くまさんに尋ねたところ「古墳は、石の風車を背にしていますので東南方向を向いています。その先が台台地方向であることは間違いありませんが、ピンポイントで台(うてな)古墳かどうかまでは確認していません。」とお返事を頂きましたので、国土地理院の航空写真をもとに検討しました。



もしも向かって右側の石の風車が真後ろにあるならば、南東よりも右になるので、南南東よりも少しだけ東になります。うてな遺跡は南南東から5度も南側になります。

そこで、南東方向に何かあるかを調べてみると、木野神社という同じ名の神社が二つ見つかりました(手前が山鹿市菊鹿町で奥が菊池市木野の木野神社です)。GoogleMapで見たところ、御祭神はどちらも正確には分かりませんが、どちらも猿田彦大神の石碑が見つかりましたから、恐らくサルタヒコを祀っているのでしょう。

実は、サルタヒコについてはすでに「【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!」で記事にしており、その正体は龍蛇神(奴国の大王)であり、大国主の分身であることを突き止めています。本当のご祭神は、神社名から木霊の久々智神(久々遅彦)とわかりますから、大国主と先代の狗古智卑狗なのですよ。これについては後でまた述べますが、当時から首長は偉大な父祖の霊魂を自らに取り込み、父祖と霊的に一体になることでその重責を果たし、偉業を成し遂げることが出来ると信じられていたようです(注2)。

もしもこの石仏がこちらを向いていたならば、先代狗古智卑狗の終焉の地を示唆しているのかも知れません。菊池市木野神社の方が地名から考えると古いのではないかと思います。ということで、石仏が正確にどこを向いているかによって、さらに詳細な推理を楽しめます(^_-)-☆

さて、大国主の本地仏弥勒菩薩を調べると、胎蔵曼荼羅の中央部に描かれた大日如来から北東に現れています。



そこで茶臼塚古墳の付近を見ると南西約600mの所に、御宇田神宮(みうたじんぐう)がありました。光孝天皇仁和二年(886年)に伊勢・熊野・八幡三社を勧請し、その後、四條天皇仁治元年(1240年)に「阿蘇一宮を合祀し四座一殿として御宇田大明神と号す」とあります。御祭神は天照皇大神、豊受日賣大神、素盞男命、健磐龍命(たけいわたつのみこと)、阿蘇津日賣命の五柱とあります。伊勢神宮内宮から天照皇大神、外宮から豊受日賣大神、熊野大社から祭神櫛御気野命つまり素盞男命で、阿蘇神社から健磐龍命(阿蘇都彦命)と阿蘇津日賣命ですから、宇佐八幡神宮からはどなたを勧請したのでしょう?!

実は、「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その4)」で述べましたが、アソツヒコとアソツヒメは大国主久々遅彦と女王台与がその正体です。そして、宇佐八幡神宮の神功皇后のモデルは台与ですので、大国主が八幡大神の正体なのです。二人の間の子が応神天皇です。最初のヤマトの祭祀王応神天皇は大国主の霊魂を受け継いでいるので矛盾はないのですよ!そして、伊勢外宮の豊受日賣大神も正体は台与なのですから、内宮の天照皇大神は当然、大国主大神なのです。「能楽が建国の真相を伝える?」で述べたとおり、「思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事今更なにと磐座や・・」ですから、伊勢の神(天照皇大神)と三輪の神(大国主)は同体だということを江戸時代までのかなりの人は分かっていましたよ(「アマテラス大神はヘビだった?」参照)。

そして、天照大神の本地仏が大日如来ですから、茶臼塚古墳の上に石の祠が先に置かれたのならば御宇田神宮が後で創建されたことになりますが、同時なのかも知れません。

さてここからが更に大発見です!

御宇田神宮から北東の茶臼塚古墳のラインを更に伸ばしていくと、一体どこにたどり着くのでしょうか?

はい、答えは佐田京石の置かれた宇佐市安心院町佐田地区でした(注3)。

これもすでに「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」で見たとおり、卑弥呼の死後に男王に立った尾張王タラシナカツヒコ(記紀では仲哀天皇、神話のカグツチ)を大国主が討ちました。そして、魏使張政の進言を入れて、台与を対外的に女王とし、魏を後ろ盾にして、もともと支配していた日本海沿岸部などに加えて、卑弥呼の九州・四国・中国西部まで版図にし、列島のほとんどの部分を手に入れることが出来ましたので、記紀神話で大国主と名付けられました。戦いに勝利して最初に訪れたのが卑弥呼の墓。そこから卑弥呼を妻垣神社の奥宮「一柱騰宮」で改葬した後に、佐田地区で豊葦原を瑞穂の国に変える国造りをしたと推理しました。

しかしその前に、父である先代狗古智卑狗の墓参りをしたはずです。ですから山鹿市から、安心院町三柱山の卑弥呼の墓に向かうルート上に、褐鉄鉱が産出される佐田地区を発見したと思われます。鉄製農工具などを作り、そこの葦原を水田に変えて、王都とした場所だったと推理しました。佐田京石はサルタヒコが都として祭祀を行った場所という意味なのですから。標高475mの米神山の西麓の佐田京石が、祖霊への感謝と加護を祈ったストーンサークルだと考えられます。父狗古智卑狗やスサノヲ大王など皇祖神の霊魂が宿る場所かも知れません。米神山の北西麓の田んぼの中に、こしき石(いわ)という男性のシンボルが山頂に向けて置かれています。米神山には何か霊的なものが漂っています。

この山の中腹に月の神谷と呼ばれる柱状節理が見られる場所があり、佐田京石もそこから採られたのではないかと思います。そこにまた陽石と呼ばれる男性のシンボルのようなものが幾つかありますが、何と、それらが全て南西を向いていると、ある方の動画で知りました(8:04では南東と言い間違えていますが、その後直ぐに、南西と言い直しており、14:34に全て南西を向いていると明言されています)。

さて、どなたでしょうか?



そうなんですよ!猿田彦という名前の方なのです!

日本の超古代文明、二万三千年前の巨石文化を研究されている方です!

この動画は以前にも見ていましたが、再度見直して南西向きを確認して、ほんとにビックリしました!

米神山は山頂にストーンサークルが置かれていますし、麓には佐田京石という立派な祭祀場もあり、すでに「日本ピラミッドの謎?」でご紹介した「太古日本のピラミッド」を記した洒井勝軍によるピラミッドの定義に合致するようです。猿田彦氏は国東半島の猪群山ピラミッドなども紹介されていました。最初に述べたとおり猿田彦大神は大国主の分身ですから、この方にやはり猿田彦大神の霊が乗り移って大活躍していただいているのでしょう!

そういう刮目天自身も、大国主大神をはじめとする日本建国で活躍した英雄たちの霊に導かれて、固く絡まった糸玉のような古代史の謎を徐々に解きほぐすことができたのだと実感しています。

大国主の父祖の霊的エネルギーが、陽石をアンテナにして米神山に注がれているようです。神々の霊的エネルギーで覆われた日本という国は、至る所がこのような神霊スポットとなっているのでしょうね!「【衝撃】卑弥呼の霊が不比等のウソを暴く?」で卑弥呼の霊ラインを引いてみて分かりましたが、ライン上にゆかりの神社仏閣が並んで、いろいろと教えてくれます。今回も、狗古智卑狗の霊ラインに導かれました。また、共有化したいと考えています。

来年は2022年寅年ですから歳男になります!

内憂外患で日本が存続できるかどうかが危ぶまれます。来年は特に重要な年になるかと思います。

でもきっと、神々の力によって多くの日本人が覚醒して、苦難を乗り越えることが出来ると信じています。

(注1)自転車くまさんから下図のとおり、石仏の「右手が左手の指を包むような形を智拳印(ちけんいん)といい、大日如来独特の印相」であることから大日如来であるとのコメントを頂きました。そうすると弥勒菩薩が修行して最高位の大日如来になったとして、先代狗古智卑狗の本地仏としてこの大日如来の石仏が古墳上に置かれたものと考えられます。



なお、この写真を見ると、一番右にある石の風車が石仏の正面の右側に見えており、他の風車が隠れていますので、石仏は南西よりも南寄りに向いているようです。やはり、うてな遺跡の方角に近いようです。

(注2)たとえば大国主とその先祖のスサノヲを同じ神社の祭神とすることが時々見られます。安心院町佐田地区の佐田神社は大国主が王宮を置いたところと思います。この佐田神社の祭神はサルタヒコではなく、スサノヲ、大山祇、武内宿禰の三柱です。つまりすべて同体なのだと分かります。

天皇即位後の大嘗祭で行われる、皇祖神と一体になるとされる真床負衾(まとこおうふすま)が最も重要な儀式のひとつと考えられています。皇祖神の男系の男子だけが天皇(ヤマトの大王)の位を受け継ぐ資格が与えられていることを示しています。これは秘儀なのでどのような内容のものか天皇陛下と担当の侍従だけしか知りません。他の者には明らかにされていないのです。

一方、宮中祭祀に置いて女性は巫女、つまり神の妻という位置づけなので、ヤマトの大王にはなれません。未婚の皇女が斎宮として加茂神社と伊勢神宮で大国主大神を祀る制度が奈良時代から南北朝時代までありました。女性天皇は天武天皇の皇后鵜野讃良(持統天皇)の即位を正当化するために作られたフェイクなのですから、宮中祭祀を完全には行えません(先の二人の女帝は日本書紀の創作です)。天皇家の菩提寺泉涌寺で仏事に掲げる歴代天皇の肖像画に二人の女性天皇のものがなかったので、明治になって作られたと分かっています。女性が天皇とはみなされていなかった証拠と言えます。女性差別ではないのです。役割が違うだけなのです。

(注3)大国主に関わる名所古跡がたくさんあります。パンフレットをダウンロードしてご覧ください。江戸時代の反射炉跡もあります。大国主の時代から製鉄が行われていた名残でしょう。


ここまでお付き合い、ありがとうございます。(その3)につづきます。

皆様には今年も暖かいご支援をいただき、心より感謝いたします。
良いお年をお迎えになることを祈念いたします。
来年もどうぞよろしくお願い致します。

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【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その1)

2021-12-25 02:01:54 | 古代史
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二世紀末から三世紀初頭の(第一次)倭国大乱で大活躍した、大国主久々遅彦の父の先代久々遅彦の墓を探していました。熊本県山鹿市から菊池市にかけてその時代の墳丘墓や古墳を見ていましたが、津袋茶臼塚古墳がこの地区の古墳群の中で一番古く、最も高い場所に築造されている1辺約20mの方墳だと知りました。方形墳は丹後半島周辺で盛行した墓制です。後で説明しますが狗古智卑狗のものかと考えていましたが、決め手がありませんでした。

ところが、いつもフォローさせていただいている自転車くまさんの記事(2019-03-16 03:10:45掲載)が検索にかかりました。写真を拝見すると、何と、その墳頂に置かれた石の祠の石仏が弥勒菩薩?とあったのでこの茶臼塚古墳に間違いないと確信しました。石仏の両手が前で組まれていて、手の印形までは拡大してもよく見えませんが、大国主狗古智卑狗の本地仏である弥勒菩薩の印と考えられます。この辺りでは珍しい方墳の、しかもその墳頂に他の仏像を置く理由が考えられないからです(注1)(2022.1.1 自転車くまさんより大日如来だというコメントを頂いたので、注を追加します)

早速、記事のご紹介と写真の掲載をお願いしたところ快諾頂き、再度、多大な時間と労力をおかけし、良い写真にしていただきました。最初の帰路は雨に祟られたとか、大変申し訳ありませんでした。心から感謝いたします。今回は、この今年最後の大発見について記事にしました。少し、長くなるので二回に分けました。最後までお付き合いください(*^▽^*)

津袋古墳群②ー茶臼塚古墳・小町塚古墳
2021-12-22 21:31:32 熊本から気ままに山と自転車のブログ 



魏志倭人伝で狗奴国の王よりも先に紹介された狗奴国の官狗古智卑狗が、大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて鉄製武器の製造のために当時の最先端の軍事コンビナートを作り、さらに菊池川流域に方保田東原遺跡うてな遺跡を築きました。ここを最前線基地として、佐賀平野・筑紫平野を襲撃して倭国王を相当、苦しめていたと推理しています。

しかし、204年に公孫氏が半島を平定し、帯方郡を設置したので、倭国王がその支援を受けて菊池川流域の集落を攻略し、狗古智卑狗を討って戦局を引っ繰り返したと推理しています。

それによって、王を失った縄文海人ムナカタ族の玄界灘を支配していた赤坂比古の一族(後の和邇氏の祖)が倭国王に懐柔され、一族の姫巫女による太陽神の神託に従って政治を行うことを条件に狗奴国を裏切る申し出を受諾したと推理しました。魏志倭人伝では女王卑弥呼の共立とされていますが、政治的な理由でそのように書かれたと推理しました。

ということで、この場所に先代久々遅彦の墓があれば、この仮説を支持する重要な発見になります。まず気になるのは、県教委は茶臼塚古墳を四世紀後半から五世紀初頭に築造されたものと見ています。髙木恭二著「菊池川流域の古墳」( 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ第 173 集 2012 年 3 月、p.513)によれば、「主体部は不明ながら周溝から土師器の壺が発見されており[中村幸史郎1986a],大塚古墳に先行する段階のもので方墳であることは重要である。この茶臼塚古墳の近くには径 15.8 m,高さ 3 mの円墳である小町塚古墳と小町塚西箱式石棺があり,小町塚古墳は舟形石棺をもつ。」とあります。年代の決定は周濠の土師器によるものとみられます。主体部も残っておらず、石祠があるだけですから、盗掘ではないでしょう。多分箱式石棺と思われますが、時代も不明ですが石棺ごとどこかに移された可能性もあります。この茶臼塚古墳は上のとおり、この辺りにはほとんど見られない方形墳です。南方約3kmのうてな遺跡と、南西方向に約3.4kmの方保田東原遺跡を見下ろす標高109mの高台にあり、墳頂に松の木が平成19年に枯れるまで植えられていたとのことで、恐らくどちらの遺跡からも見ることができるようにするためだったと思われます。一本松公園の名称となっており、この古墳はこの地域のシンボル的な存在であるようです。

現在は山鹿市に在りますが、東側の菊池市の地名は「平安時代中期の承平年間(931年 – 938年)に編纂された辞書『和名類聚抄』ではこの地名を「久々知」と註していることから、上代から古代にかけてはこの地域は「くくち」と呼ばれ「鞠智」と表記していたことがわかる。」とあります(wiki「菊池氏」より)。魏志倭人伝にある狗古智卑狗は兵庫県豊岡市の久々比神社の祭神久々遅命(くくのちのみこと)・久々智神(くくちのかみ)と推理しました。この神は上棟式の祭神で、木の神であり、鍛冶の神でもあります。両親は伊弉諾・伊弉冉となっていますが、スサノヲの子イタケルも木霊とされているので、狗古智卑狗はスサノヲ・イタケルの直系の子孫と考えています(久々遅彦は襲名され、大国主の先代です。古事記に大国主はスサノヲの六世孫とあります)。

狗古智卑狗は上述のとおり、倭国大乱で狗奴国軍を率いる大将として活躍しましたが、倭国王難升米によって方保田東原遺跡とうてな遺跡が攻撃されて、ここで戦死したと推理しました。倭国側は半島が混乱していた時期は鉄の供給が途絶えて銅鏃を作って使用していたことが分かっており、これら二つの遺跡のそれぞれの溝から銅鏃が発見されていますので、倭国側の攻撃があったことが分かります(「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。
(左クリックで拡大)
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方保田東原遺跡は、「幅8mの大溝をはじめとする多数の溝や100を超える住居跡、土器や鉄器を製作したと考えられる遺構が見つかっている」約35haの大規模な集落です(wiki「方保田東原遺跡」より)。弥生後期の住居跡から鉄鏃が大量に出ています。山陰や近畿など西日本各地の土器が運び込まれています。また、うてな遺跡は菊池川支流の迫間川東側の台地にある弥生後期の大型集落跡です。1号方形周溝墓~3号方形周溝墓・1号木棺~4号木棺・1号壷棺が検出されています。

方形周溝墓は弥生前期末の近畿に見られ、古墳前期にかけて列島で広く分布していますが、特に近畿以東で盛行しており、西には余り見られない墓制です。「方形周溝墓は弥生時代より早い時期に朝鮮半島に大量に発見されている。墳丘墓は、水稲耕作などと共に朝鮮半島南部から伝えられたものと考えられているが、北部九州では方形周溝墓は極めて少なく近畿地方に発見され始める。その理由は方形周溝墓を作る集団が北部九州に定住した後、短い時間に近畿地方に直ぐ移動したからだと考えられている。」とありますが(wiki「弥生時代の墓制」より)、半島に渡った縄文海人族が列島に戻って畿内で始めたと考えられます。ですから、狗古智卑狗が率いた縄文系の人々が倭国大乱で倭国軍と戦って戦死して埋葬された可能性があります。周溝の土師器は、三世紀後半の大国主久々遅彦と女王台与が倭国を支配した時期に、慰霊の儀式をした際に置かれたものかも知れません。

先代狗古智卑狗は恐らくこの「うてな(台)」を居城としており、ここで戦死したのではないかと思います。方形周溝墓は集団墓ですので、王墓はやはり、二つの遺跡を見渡す高い場所である茶臼塚古墳が最もふさわしいと思います。卑弥呼の父の赤坂比古が築造したと考えられます。
(つづく)

(注1)茶臼塚古墳石仏は大日如来 (自転車くま)2022-01-01 10:34:59
茶臼塚古墳石仏について、大日如来のことがありましたので、写真を再度検証したところ、石仏は大日如来のようなので「津袋古墳群②ー茶臼塚古墳・小町古墳」を追記・訂正させて下さい。自転車くま
(追記・訂正:2022.1.1)
2015.12.2の探訪記で、茶臼塚頂きの石仏の手が写真では合掌をしているようなので「弥勒菩薩?」ではとしていましたが、2021.12.22の写真をトリミングして確認(写真7参照)したところ、「右手が左手の指を包むような形を智拳印(ちけんいん)といい、大日如来独特の印相」(仏さまのハンドサインー彼岸寺ホームページ)のようなので、訂正させて頂きます。

というコメントを頂き、以下のようにお返事しました。
Re:茶臼塚古墳石仏は大日如来 (刮目天 一(はじめ))2022-01-01 12:44:32
ただいま大日如来を確認しました。日本密教では、両界曼荼羅(金剛界曼荼羅・胎蔵曼荼羅)の主尊とされ、さらには虚空にあまねく存在するという真言密教の教主[5]、「万物の慈母」[9]、とされる汎神論的な仏[4]。wiki「大日如来」より)
ということは、先代狗古智卑狗の本地仏弥勒菩薩が、さとりによって最高位の大日如来に位が上がったのですね。やはり、茶臼塚古墳は先代狗古智卑狗の墓でいいかと思います。そして北東に米神山で、米神山から大日如来の霊的エネルギーを吸収して大日如来の依り代となる神奈備山となったということなのかしら。
大変貴重な情報をありがとうございます。




ここまでお付き合い、ありがとうございます。このあとも、大発見が続きますので、お楽しみください(*^▽^*)
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高天原は奴国だ!

2021-12-19 22:49:27 | 古代史
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2016-12-15 02:41:00 に記事にしたものをかなり加筆し改訂して再掲します。最後までお付き合いください。



(2020.3.1 朝倉卑弥呼伝説より)


この図のとおり北部九州と大和の中の数多くの地名とその位置関係もほぼ一致します。福岡平野から福岡県朝倉郡夜須町(現在は筑前町)を中心とする筑紫平野一帯というかなり広い範囲が該当します!「新唐書」・「宋史」に書かれた「日本は古の倭の奴国」ということを考えると、奴国は福岡平野のみならず、筑紫平野も奴国だったと言えそうですね!

考古学の成果から、三世紀の奈良県桜井市の纏向遺跡がヤマト王権の発祥の地だと分かっています。その前身が奴国ということです。つまり、二世紀初頭に奴国宮廷楽師師升らのクーデターによって滅亡した奴国を偲んで、ヤマトの大王らが大和の地名を故地の奴国に一致させて名づけたということでしょう(「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)!

そこで、魏・西晋代の学者の魚豢(ぎょかん)が撰した「魏略」では「倭人が呉の太伯の後裔」とされています(注1)。太伯は周王朝初代武王の曾祖父の古公亶父(ここうたんぽ)の長男で、末の弟季歴に王位を譲り、次の弟の虞仲と共に長江河口付近に呉を興したと伝わっています。つまり倭人と呼ばれた長江河口の水田稲作・漁労の民の王となった人物であり、Y染色体DNAは倭人のものと異なります(「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)。

倭人は長江河口から東や南に小舟で移動し、江南の水田稲作文化を各地に伝えています。越人は呉の倭人とY染色体DNAが少し異なりますが、倭人と同様の文化を持っており、東南アジアからインド沿岸部に文化をもたらしています。スリランカの西のインド・タミル地方は弥生文化とそっくりですので、タミル地方で見られるY染色体DNAから考えて、越の民が文化の運び手のようです。また、マダカスカルの天蚕(てぐす)は長野県安曇郡を原産地とするので、倭人が直接か、越人を介して運んだと考えられます(「東鯷人(とうていじん)って?」「弥生文化はインドのタミル人と縄文人の邂逅で生まれたのか?」参照)。

一般に言われる渡来系の弥生人というのは、江南の倭人という意味ですが、列島から渡った縄文人が半島南部にも住んで居ました。倭人が半島や列島で縄文人と混血したので、どちらも倭人と呼ばれた弥生時代人のことですから、略して弥生人です。



紀元前473年、呉が越によって亡ぼされて、呉の王族の一部が倭人の手助けで半島南部に落ち延びました。呉王族は寒冷化が進んだ紀元前四世紀中頃に南下して、北部九州(福岡市の早良平野)に移ったと推理しました。吉武・高木遺跡には日本で最初の王から三代の王の墓と見られるものが見つかっています。日本列島の最初の王が、奈良時代の人々に天御中主として記憶されていました。記紀神話に登場する高天原の最初の神である天御中主は奴国の初代の王なのです(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

呉王の姓は周王と同じ姫(き)氏で、周王から子爵として封じられていました。奴国の須玖岡本の王墓からガラス璧が出土していますが、周の子爵の王標(王を示すもの)です。奴国大王が呉王に繋がる血筋との伝承どおりであることを示しています(「【検証9】奴国時代の話(その2)」参照)。

また、伊都国の王都三雲南小路遺跡でもガラス璧片が複数個見つかっています。さらに、朝倉市夜須町峯遺跡からも璧片が見つかっており、奴国大王が中国に倣って峯遺跡を支配する王に与えたものです。鏡と共に奴国大王が地方の王・首長との間に爵封制を採っていたことを示すものです(王金林「邪馬台国と古代中国」学生社1992.p.99)。璧片は銅鏡よりも貴重なものですから、伊都国王も峯遺跡の王も奴国の王族だったと推理できます。

やはり、日本で七世紀後半にヤマトの大王に天皇の称号があてられたのは、中国神話に登場する三皇(天皇・地皇・人皇)の筆頭の天皇にあたる伏羲氏が周の先王古公亶父の遠い祖先だったからなのです。伏羲氏の子孫が中国最初の夏王朝を興こした禹(う)で、古公亶父はその末裔ということなのです。

そうすると奴国とヤマト王権との繋がりですが、上のクーデターで奴国から脱出したニギハヤヒが、縄文海人ムナカタ族の支援で吉備を平定し、奴国を再興してヤマト王権の基礎を築いた人物と推理しました。二ギハヤヒは「宋史 王年代紀」第十八代王素戔嗚尊(スサノヲ)の次の天照大神尊にあたる男王なので、スサノヲの姉アマテラス女神ではなく、弟と考えられます。

記紀では神武東征以前に大和に降臨していたとされ、アマテラス女神の子孫の彦火火出見(ヒコホホデミ、神武天皇)に大王位を譲ったことになっていますが、日本建国の史実を隠すための作り話です。三世紀の纏向遺跡に九州から大和に軍勢が押しかけて戦ったという神武東征の痕跡がありません。史実は、ニギハヤヒの子孫のヤマトの大王が伊都国を王都とした師升王の一族の倭国王を武力で滅ぼして、その後少し経緯がありますが、最終的に三世紀末にヤマト王権を成立させたと分かっています(【付録】参照)。

スサノヲとニギハヤヒ兄弟の父は十七代奴国王伊弉諾尊(いざなぎ)で、母の伊弉冉尊(いざなみ)は鳥取県米子市を拠点とする縄文海人ムナカタ族の王女です。ニギハヤヒは母の一族を頼って落ち延びて、支援を受けたと考えられます。呉王族の末裔の倭国王と縄文系族長の姫が婚姻によってはじめて生まれた奴国王の末裔でヤマトの大王が日本列島を統治することになるわけですから、記紀で国生み・神生みという神話になるわけです。

そしてニギハヤヒ大王は倉敷市の楯築王墓に葬られますが、そこに楯築神社があります。その御神体「亀石」が天皇伏羲氏と同じ人面蛇体でしたから、七世紀に壬申の乱で勝利した大海人皇子が即位して、はじめてヤマトの大王が天皇という称号を名乗ることになります。それ以前の天皇の漢風諡号は八世紀に淡海三船によって贈られたものです。

通説では、奴国とヤマトの繋がりが全く無視され、「漢書 地理誌」に「それ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国と為る。歳時をもって来り献見すという。」とあるように奴国も列島にたくさんある国の中の有力なひとつという位置づけでした。ですから、日本は古(いにしえ)の倭の奴国であって、北部九州の奴国が記紀神話の高天原であったことに全く気付かれなかったということでした!

奴国という国名は一見して、奴隷の国のようですから、「漢委奴国王」の金印を委奴国(いとこく)と読む方もいます。しかし、これは全く間違いです。奴国はナーガ=龍蛇神の国、奴国大王は龍王だったのです。地名の那珂・那賀などからも分かります。中山や長柄などの中・長のつく地名等も奴国やヘビに関係するものです。北部九州から列島各地に展開した安曇族(江南系の倭人の部族)が名付けたものかも知れません。大国主など奴国の大王の血筋の神を祀る神社に行くと手水舎(てみずや)に置かれた青銅製などの龍の口から水が出ています。龍王の血筋を祀っているということでしょう。見ようとしないと見れないということでした(^_-)-☆

【付録】



(注1)太伯には子がなかったようで、最後の呉王夫差は、太伯と一緒に呉を建国した弟虞仲の後裔です!
 また、古公亶父が「後漢書」に出てくる亶州(たんしゅう)の古(いにしえ)の父祖を意味するので、亶州は倭人の住む日本列島を指すと云うことになります!古公亶父の逸話を見ると、仁徳天皇の「民のかまど」と同様に、民を大切にする王ということで一致しますから、天皇家が中国古代周王朝の末裔であると「日本書紀」を編纂した奈良時代の人々も知っていたということでしょう。
 奴国が奈良時代に儺県(なのあがた)と呼ばれたということも、「儺」の意味が「追儺=鬼やらい」ですので、奴国宮廷楽師らのクーデターが史実だったことを七世紀の人々が知っていて、それを隠してデタラメな歴史を書いた証拠と言えます(詳しくは「【検証22】難升米という人物は?(その1)」参照)。


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「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`)

2021-12-18 12:38:10 | 古代史
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2018-06-02 00:21:39に記事にしましたが、古代史について発信されているユーチューバーのまあちゃんさんの動画『【[邪馬台国】旧唐書・新唐書から見える古代日本の成立について考えてみました。』(2018/05/31 )にコメントしたところ、この記事をYouTubeで流して頂きました。古代史研究の盲点の重要事項ですので、少し書き足して再度この記事を掲載いたします。最後までお付き合いください。



日本という国号に関しては、応神天皇が即位した280年頃に、ヤマト王権が倭国から大倭国、大和国へ、そして日本国へと変えようとしたようだ。西晋の恵帝(290-306年)の代に「日本」という号が見られるのだ(神野志隆光『「日本」国号の由来と歴史』講談社学術文庫、2016年10月11日、p.68-69)。

倭国は、ヤマト王権のルーツである奴国から国王を追放した、恨みのある帥升王が興した国だから、ヤマト王権にとって不名誉な歴史のある国名だ(詳細は、「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」 参照)。

だが、ヤマト王権がいくら国号を変えようとしても、当時はシナの了解がなければ国際的に認められないのだ(;´Д`)

607年の聖徳太子から隋の煬帝に宛てた有名な手紙「日の出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや云々」からも、日本国は対等の独立国だという意識があらわれている(藤堂明保ほか「倭国伝」講談社学術文庫2000、p.192)。

いつまでも倭国としてシナの冊封体制に組み込まれているのは嫌だと考えていたことが分かる。この話の載っている「隋書」までのシナの正史には国号をすべて「倭国」として記されているのだ。

聖徳太子の考えが天武天皇に引き継がれ、シナに「日本国」の国号を認めさせるために日本の正史「日本書紀」を編纂するように詔されたのだが、完成前に崩御され、さらに持統天皇に引き継がれた。シナの律令制度導入に取り掛かっている頃の701年に遣唐使粟田朝臣真人を派遣して「倭国」から「日本国」へ国号変更をシナに正式に要請した。

シナの朝廷(丁度、則天武后が国号を唐から(大)周に変更していた)に倭の奴国からヤマト王権成立までのややこしい経緯を詳細に述べることもできないので、恐らく都を筑紫から大和に神武天皇が遷されたと記した『帝紀』・『旧辞』に基づいて神武東征を説明したのだろう(注1)。

しかし、その中に金印を賜った倭の奴国の話が出てこなかったから、シナ人には史実を無視して高天原神話や天孫降臨の神話などを説明したとしても、全く理解できなかったのだと思う。

さらに、南朝梁の任昉(にんぼう)が撰したとされている『述異記』(じゅついき)という「山川等地理に関する異聞や、珍しい動植物に関する話などを多く集め」た小説集の中に「日本国に重さ一斤(約500グラム)の金の桃がなる木がある」(増訂漢魏叢書. 載籍第71册,国会図書館デジタルコレクション18コマ左頁)という話が出ており、当時のシナ人たちに「日本は黄金の国」とのイメージが出来上がっていたこともあるのだと思う(王勇「中国史の中の日本像」農山漁村文化協会,2000,pp.74-75)。

945年に完成した「旧唐書」の編纂者らは、倭国の条の冒頭に「倭国は古の倭の奴国也」と書き、
日本の条に
日本国は、倭国の別種也。其の国、日の辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或いは曰く、「倭国自ら其の名の雅やかならずを悪み、改めて日本と為す」と。
或いは云う、「日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり」と。
其の人、〔唐の〕朝〔廷〕に入る者、多くは自ら大を矜(ほこ)り、実を以って対(こた)えず。故に中国は焉(これ)を〔どこまで真なりや〕と疑う。
』とあり(藤堂、上掲書,pp.205-208)、更に粟田真人の後の遣唐使の話の中で「日本に調布の制度があるなんて嘘だろう」とも書いている。

大和朝廷としても、838年最後の遣唐使を送った後に、これ以上シナに納得してもらうのは難しいということも遣唐使廃止に繋がっているのかもしれない( ^)o(^ )

そして、唐が滅び、五代十国から宋になって、984年東大寺の僧奝然(ちょうねん)に「王年代紀」などを持たせて遣使した。太宗に謁見し、これらを献上し、手厚くもてなしを受けた。『太宗は、日本国王が一姓の世襲であり、臣下もすべて世襲の官だと聞くと、嘆息して宰相にこう言われた。「彼らはたかが島国の夷(えびす)だ。にもかかわらず、国王の位は久しきにわたって世襲し、その臣もまた親の後を継いで絶えることがない。これこそ古の理想の道と称すべきであろう。ひるがえって中国は、・・・・』(藤堂、上掲書、pp.300-301)。

「王年代紀」には初代天御中主から彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)までの二十三代の王都は「筑紫の日向宮」にあって、彦瀲尊の4男神武天皇が大和の橿原宮に遷し、その後の64代円融天皇まで書かれている。

これによって、シナは日本の神代の話が倭の奴国のことだと理解した。だから、1060年に完成した「新唐書 日本」の冒頭で日本は、古の倭の奴也と書いてもらい、「倭国」から「日本国」にようやく認められたことが分かる(注2)。

結局、国号変更を正式に認めてもらい、史書に載せてもらうまでに、ヤマト王権成立から何と、800年近く掛かったという気の長い話だ!(;´Д`)

大変、お疲れ様でした(^◇^)

【付録】中国文献(三国志~宋史)に関連する年表

(左クリックで拡大)


(注1)『帝紀』・『旧辞』の存在は「古事記」序文に書かれている。九世紀の朝廷で「日本書紀」の講義をしていた多人長が序文を書いたと考えられている。Wiki『帝紀』によれば『681年(天武天皇10年)より天智天皇2子の川島皇子と忍壁皇子が勅命により編纂し、皇室の系譜の伝承を記したという。』とあるが、現存しない。720年に完成した「日本書紀」も、712年に完成したとされる「古事記」も『帝紀』・『旧辞』を参考にして編纂されたとされているが、たとえそれらが記紀の編纂当時に存在していたとしても内容は異なるはず。「日本書紀」は藤原不比等が権力を維持するために、不都合な日本建国の歴史を隠蔽し、藤原氏に都合のよいように改ざんした歴史書だと分かって来た。このような正史は、701年に完成した大宝律令と共に、朝廷で藤原氏が他の豪族を追い落とし、藤原氏だけが栄耀栄華を誇るための道具として利用された。「古事記」は基本的に「日本書紀」に倣いながら、歴史の真相を暗号のようにして暴露している(「古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その4)」参照)。
 正史が編纂された奈良時代から平安時代・室町時代くらいまでの人々は日本建国の真相を理解していたようで、天変地異は建国当時の悲惨な死に方をした貴人の祟りだと信じて各地で丁重に祀っていたことから分かる。祟るはずのない人物(神功皇后や宗像三女神など)が祟るのだから、正史のウソがわかる。最近の研究では万葉集も歴史の真相を暴露するための暗号であることが明らかにされている。江戸時代の文化人らも皇祖神天照大御神が男性だと突き止めていた。
 記紀に書かれた神話などは史実が基になっている部分があるので、編纂者の真の目的を推理すれば、古代史の謎を解くためのヒントを与える貴重な古典文学だというのが正しい理解だ。

(注2)「新唐書」では王が筑紫日向の宮に三十二代居たと書いているが、王の名を列挙していない。1345年に完成した「宋史」の記述が二十三代の王を列挙しているので、これが正しいと思われる。


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何故、大和をヤマトと呼ぶのか?

2021-12-15 00:31:06 | 古代史
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2018-02-18 12:44:44に記事にしましたが、若干追加して再度掲載します。お付き合いください。

安本美典「倭人語の解読」(勉誠出版)によれば、現代日本語と今から千二百年以上前の日本語の大きな違いは、現代の5つの母音(a,i,u,e,o)に加えて、ï、ë、öの合計8個の母音を区別して用いていたということだ(p.38)。

山門(ヤマト、yamato)と邪馬臺(ヤマトゥ、yamatö)はそのために最後の部分の発音が明確に違うようだ(前者が甲類のト、後者が乙類のトゥ)。ちなみに「ヤマタイコク」というのは新井白石が最初にそう読んだようだが(同書p.165)、ヤマトゥが正しい発音だ。

海への入り口は水門・湊(ミナト)であって、山地への入り口が山門(ヤマト)という、どちらも甲類のト(to)。どちらも地形を表す普通名詞なので、日本各地にそういう地形に基づく地名があっても何ら不思議なことではない。実際、邪馬台国九州説の筑後山門や肥後国山門郡、針間の国の山門(播磨国風土記)などが見られる。

しかし、「邪馬台」は「山門」と確実に区別して発音されていたわけだから、地名が「山門」だから「邪馬台国」だということにはならないのだ。

万葉かなで書かれた「大和(夜摩苔や夜麻登などと書かれている)」と「邪馬台」との音が一致するのは、「見方によってはふしぎなことではないだろうか」と安本氏も指摘している(同書p.165)。

つまり、大和は明確に山門とは異なり、固有名詞「邪馬台(ヤマトゥ)」を意味するのだ。そう考えると大和をヤマトと呼んだ経緯がヤマト王権の成立と関係すると容易に思いつく(「大和」は厳密には「ヤマトゥ」と発音するが、通常「ヤマト」と書かれているので、ここでもそれに倣っている)。

三世紀初頭、纏向遺跡に出現した狗奴国が滅ぼした倭国の女王台与(「日本書紀」の神功皇后のモデル)と大国主命久々遅彦(「日本書紀」の武内宿禰のモデル、スサノヲの子イタケル直系の子孫で、山陰・北陸などの縄文系ムナカタ海人族を率いる出雲・丹波王、狗奴国の官 狗古智卑狗)との間の子供「ホムダワケ(応神天皇)」を纏向に呼び寄せ、ヤマトの大王(祭祀王)とした狗奴国(ヤマト政権)側の事情があったということだ。

つまり、魏の帝位が禅譲された西晋によって280年に呉が滅ぼされたのだが、狗奴国は呉という大きな後ろ盾を失ったので、次は西晋に滅ぼされることを狗奴国王卑弥弓呼(ヤマトの大王、奴国最後の王スサノヲの弟で吉備を平定し、奴国を再興した19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の直系の子孫、記紀では崇神天皇)は怖れたはずだ。臣民もみな動揺したので、倭国女王として西晋に朝貢した台与の後継者として応神天皇を即位させたと推理した。

「日本書紀」では、三輪山の大物主大神(大国主命)が祟って、疫病で民が半分ほど死んでしまい、大神の子のオオタタネコを呼び寄せて祀らせろとの大神の神託に崇神天皇が従ったので国は平静に戻ったという話になっている。「日本書紀」の神武東征や応神即位のための神功皇后の東征は、日本建国の史実を誤魔化すための藤原不比等の創作なのだ。オオタタネコの話の方が上の推理した史実に近いことは考古学の成果から分かる。つまり、三世紀の纏向遺跡から九州の土器がほとんど出土しないことから、九州の大軍勢が纏向に押し寄せて攻め滅ぼしたという事実はないことが分かるのだ。ヤマト王権の成立過程については以下の図のとおり推理している。



日本の国号だが、シナの朝廷では後漢以来、大宝元年(701年)第八次遣唐使粟田真人によって「日本」と改称を要請するまで「倭国」で通っていた。大国主と台与が支配した列島主要部を纏向遺跡の狗奴国が全て支配下に置いたので、粟田真人のシナへの説明によれば「倭国」から「大倭国」へと改称したのだろう。ニギハヤヒ大王の直系の子孫ら(物部氏・尾張氏ら)によるヤマト政権は、応神天皇を即位させ、それまで敵対していた大国主や台与にゆかりの列島各地のほとんどの部族を懐柔した。そしてヤマト王権への従属の証として、各地の部族の首長らは前方後円墳を導入し、三角縁神獣鏡による祭祀様式を受け入れたと推理している。

いずれにしても、三回の大乱を経験した後は大きな内乱は起こらず、ヤマト政権は「言向(ことむ)け和(やわ)する」ことで大きな和の国が生まれたという意味で大和国としたのだ。ただし、「大倭」がこのように「大和」と書かれるのは、随分と後のようだ。『日本の歴史において、「やまと」の表記が「大和」に統一されたのは757(天平宝字元)年頃と考えられており、同年発布された「養老律令」が「大和」表記の普及に大きな影響を果たしたと考えられています。』とある(『「大和」という言葉の使用は七世紀からで、それまでは存在しなかった? 〜ヤマト政権のアイデンティティ』 Japaaanマガジン 歴史・文化 湯本泰隆@2021/12/12 より引用)。

ということで、西晋の朝廷に対して、魏に朝貢した女王卑弥呼の宗女で、西晋に朝貢していた女王台与の国を、台与の子の応神天皇(ホムダワケ)が継承した国だと理解させる目的で、纏向の大倭国の王都「大和(ヤマト)」を「邪馬台(ヤマト)」と発音するようにしたのだと推理している。

国号を日本と変更したときには、「旧唐書」に見られるようにシナ人は全く別の国かなと戸惑ったようだ。しかし、日本は古の倭の奴国で、都を筑紫の日向宮から大和(邪馬台)に王宮を遷したことが分かって納得してもらったということで、以降のシナの歴史書には「日本」と明記されるようになったのだ(「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`))。

初代応神天皇以降、スサノヲ・大国主とニギハヤヒの直系の子孫による権力争いが起こり、ヤマトの大王はこの二系統から出ることになる。いずれの系統も第十七代伊弉諾尊が皇祖神となるが、天智天皇の孫の光仁天皇から今上天皇まではニギハヤヒ系の天皇となっていると推理している。巷に氾濫する何とか王朝説などというのは、この大和国「日本」においてあり得ないのだ(^_-)-☆

【参考記事】
鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有

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(注1)「三角縁神獣鏡のうち、銘文中に魏の年号が記された鏡が4面ある。島根県雲南市加茂町大字神原・神原神社古墳出土の「景初三年」鏡、群馬県高崎市柴崎町蟹沢・蟹沢古墳、兵庫県豊岡市森尾字市尾・森尾古墳、山口県周南市竹島御家老屋敷古墳の3古墳から出土した同型の「正始元年」鏡3面である。これらの鏡4面は、すべて文様の神像と獣形像が同じ方向に並ぶ同向式である。」とあるが(wiki「三角縁神獣鏡」より)、これらは280年に呉が滅んだ後に呉の工人が日本に逃亡し、ヤマト政権が邪馬台(ヤマト)国の後継国であることを示すために、卑弥呼が魏の朝廷から与えられた鏡であると主張する目的で作らせたフェイク鏡だと推理している。当時の三角縁神獣鏡はシナ大陸では出土していないので、日本で作られたものなのだ。


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