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邪馬台国大和説は過去の学説だよ!(^_-)-☆

2021-10-30 12:24:05 | 古代史
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箸墓近くに「卑弥呼の宮殿」邪馬台国は纒向か
2021/10/27 08:00 小畑 三秋 産経新聞


タイトルから見て邪馬台国大和説を否定するのかと期待して読んだら、またガッカリしました。
いわゆる邪馬台国が奈良県桜井市の纏向遺跡にあったとする説は、多くの史料・証拠から否定され、学術的には今や九州説が主流と言っていいと思います。しかし、相変わらず、マスメディアがいい加減な論説記事を発表するので、素人はまだ畿内説が有力な学説として生きていると考えてしまいます。

すでに「考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国」という書籍を、長年、橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘・調査に携わってきた専門家の関川尚功氏が出しています。この研究グループが提唱している大和説を、立場上否定しにくいしがらみなどがあると拝察されますが、真実を探求する学者として勇気を持って大和説を否定されたことはとても立派な態度だと思います。



マスメディアは本来ならば、こういう真っ当な学者の説を取り上げて、邪馬台国問題に興味を持っている多くの読者に紹介するのが使命ともいえるはずです。専門家による学術的な論争を踏まえて、マスメディアが中立な立場でそれらを紹介するものであるべきですから、もしもこの記事の発信者が大和説を否定するものに異議があるのならば、学会などの場で正面から論争を挑むべきだと思うのですが、それを避けて従来の説で塗りつぶすようないい加減な論説記事ですから困ったものです。

纏向遺跡は三世紀初頭に三輪山の西側の山麓一帯に突如出現した大集落です。当時の列島で最大級の広さを誇る遺跡です。ヤマト王権のシンボルである前方後円墳の発祥地で、遺跡に水田跡が見られない、祭祀を中心とする政治都市です。掘立柱建物の住居跡から、王族や各地の首長クラスの人物が集まっていたことがわかります。大型の建物は祭祀などを行った場所でしょう。当時の祈祷に使ったと思われる桃の種が大量に見つかっています。


このような纏向遺跡が邪馬台国にふさわしい当時の大集落だからといっても、三世紀の倭国の様子を記述した「魏志倭人伝」に記述された以下のような倭国の特徴に合わないのですから、邪馬台国ではないと本当は最初から分かっているのです。権威ある学者が提唱するので有力な学説だと思い込まされてきただけです(紫字で示した原文とカッコ内の翻訳文はwiki「魏志倭人伝」より引用)。

「竹箭或鐵鏃或骨鏃(竹の矢は、あるいは鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃である)」
奈良県全体の鉄鏃の出土数はわずかです。福岡県・熊本県・大分県の方が圧倒的に多い。
「倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾・・・所有無與儋耳・朱崖同(倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕らえ、体に入墨をして、大魚や水鳥の危害をはらう。後に入墨は飾りとなる。・・・風俗・習慣・産物等は儋耳(廣東儋県)・朱崖(廣東けい山県)と同じある)」奈良県は海に面してはいないので、九州辺りの風俗に近い。
「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣(倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな、裸足である)」奈良県は温暖な土地とは言えない。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種(女王国の東、海を渡ること千余里、復、国があり、みな倭種である)」纏向遺跡の東側も、南側であっても深い山地で、いきなり海を渡るという表現は出来ない。
「其死、有棺無槨、封土作冢(人が死ぬと、棺はあるが槨(そとばこ)は無く、土で封じて塚をつくる)」畿内の墓には木製などの槨がある。
「卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩(卑弥呼が死んだので大いに塚をつくった。径は百余歩)」卑弥呼の墓が箸墓のような前方後円墳であるとは書かれておらず、直径約150mの円墳であり、そのような墓は纏向遺跡の周囲に見られない。

さらに、この新聞記事には以下の読者をミスリードする内容があり看過できません。

通常の集落遺跡では地元の土器が大半を占めるが、纒向遺跡では、東海や山陰、瀬戸内、九州などの特徴をもつ土器が15%ほどに上ることが分かった。いずれも3世紀を中心とした土器で、邪馬台国の時代と重なった。

しかし、発掘された外来の土器について上の記事で述べている九州の土器が見られるというのは全くウソではないのですが、非常に少なく、外来土器の1%以下なので、以下のデータに現れません。そのことを言わないと、九州の人々まで他の地方の人々と同じように来ていたと読者が誤解します。



九州の人々がほとんど纏向遺跡に現れていないという事実は、邪馬台国が纏向遺跡ではないことを明確に示す証拠と言えるものなのです。北部九州は列島で最初に開けた場所で、奴国や伊都国に弥生時代の倭国の王宮や交易センターが存在しましたし、祭祀に用いられる青銅器の製造工場をもつ大集落のある地域です。大陸や半島の文化を取り入れる玄関口なのです。ここが遅くとも二世紀には倭国と呼ばれていた領域に間違いないのですから、それと敵対する纏向遺跡は狗奴国以外に考えられないということです(注1)。邪馬台国の南に狗奴国が在ったとする「魏志倭人伝」の記述を疑った方が良いということなのです。「魏志倭人伝」は、当時の魏の実力者司馬懿が政治的目的で邪馬台国への行程などを誤魔化して魏使の報告書に書かせたものを基にした記事だったと突き止めました。詳細は【刮目天の古代史】古代史を推理する(^_-)-☆をご参照ください!

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【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)定説は根拠を疑いましょう(*^^)v
【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-☆【検証5】を深堀り!
まだ箸墓が卑弥呼の墓なの?!(;´Д`)卑弥呼のあとの女王台与(トヨ)の墓ですよ!

(注1)纏向遺跡の最古の前方後円墳は石塚古墳で、210年頃築造ですから、纏向1式の年代です。刮目天はニギハヤヒ大王の直系の子孫の初代狗奴国王卑弥弓呼(「ひこみこ」の誤写か)の墓と推理しました。この頃にも、その後の大王か有力者と思われる人物の葬儀にも九州の人々は来ていないのですから、北部九州の倭国は敵対勢力と推理できます。ちなみに、土器の種類ですが、鉢・高坏・器台は葬儀や他の祭祀で使われるもので、纏向1式が最も多いですから重要な儀礼が行われことが分かります。

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆





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日本の歴史の始まりはこうだ(その8)

2021-10-29 00:13:46 | 古代史
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今回は倭国と三国時代の国々との関わりを理解するために、既にバラバラに述べて重複する内容もありますが、後漢王朝と三国時代の前半までの年表に沿って、そこで何があったのか簡単に見て行きます(注1)。以下の倭国に関係する記事は紫字で書きます。

25年 建武元年 劉秀(光武帝)が帝位につき、洛陽を都とす。

57年 (中元二年)倭の奴国王(「宋史 王年代紀」第十六代王沫名杵尊)が朝貢し、金印紫綬を賜う。前漢の武帝がシルクロードで西域との交易のために漢四郡を設置して東夷を支配しましたが、急に領土拡張したので財政難から楽浪郡だけを残して三郡は廃止されます。倭国との取引の拠点は半島南部の勒島から壱岐そして伊都国に変わり、華僑を王都の中に住まわせました(三雲遺跡番上地区から楽浪土器が出土しています)。伊都国には奴国王族を配置し、対外交易を管理・監督させました(「魏志倭人伝」の大倭の役割)。華僑が欲しい倭国の珍しい産物を手に入れることが出来るように倭国を支配する奴国王に依頼するために光武帝が冊封体制に組み込んだと考えられます(注2)。


106年 (延平元年)和帝が崩御し、第三代皇帝章帝の孫劉祜が即位(第六代安帝)。

 このころ、「宋史 王年代紀」第十七代王伊弉諾尊とその妃伊弉冉尊(宗像大社の伝承によるとイザナミは縄文海人ムナカタ族の姫)の子スサノヲが奴国大王となります(第十八代王素戔烏尊)。スサノヲ大王は王子の頃からムナカタ族と一緒に半島南部に渡り、鉄素材を入手して奴国や丹波(タニワ)などの鍛冶工房で鉄製品を作らせていました(「三国史記」新羅第四代王脱解のモデルと考えられる)。
 ムナカタ族の行う縄文系祭祀に親しんだ大王が即位すると、奴国の伝統的な宮中祭祀に対し宗教改革を行おうとしたと考えられます。そこで奴国の祭祀を司る宮廷楽師の師升らが反乱を起こします。大王がいつものように旅行から奴国に帰還した時に、待ち伏せした反乱兵が大王と多数の部下を捕らえました。「漢委奴国王」の金印の在りかを聞き出すために大王を拷問したようですが、すでに部下のアズミ族がいち早く持ち出して逃亡していましたので、結局大王は殺されました(アズミ族が逃亡する途中で志賀島に寄り、石の下に金印を隠しましたので江戸時代になって発見されました)。
107年 (永初元年)約500年間続いた奴国が滅亡し、師升等が後漢に朝貢しました。160名もの捕虜にした大王の部下を奴隷として献上して、師升が倭国王として認められ、伊都国に都を作りました。
 王子五十猛(イタケル)と大王の弟ニギハヤヒが縄文系のムナカタ海人族の助けで出雲・伯耆方面に逃げました。

 旧奴国勢力は、スサノヲ大王の縁故で半島南部の鉄素材を入手して勢力を伸ばします。イタケル王子の子孫が丹波(タニワ)に鉄製品を製造する鍛冶工房や玉造工房を造り、列島内の交易を盛んに始めます。玄界灘、日本海沿岸部などを活動域とするムナカタ海人族の王とされ、代々、狗古智卑狗(久々遅彦)の王名を襲名します。
 列島各地の首長(部族長)は久々遅彦王との縁故を結び系列化が進みます。王や各地の首長の権力が増大して、従来の大型銅鐸に見られる穀霊・祖霊祭祀などが廃れ、首長霊信仰がはじまります。偉大な先王の霊魂が首長に宿り、先王の霊魂と一体になって首長が力を発揮できるようになるという信仰ですから、王名が代々襲名されるのでしょう。
 主に日本海沿岸部に、大型の四隅突出型墳丘墓が、また丹波や畿内に貼石のある方形墓が作られるようになります。後に、近江・東海・畿内に前方後方墳が営まれるようになり、古墳時代が始まります。
 日本の王墓に墓誌が作られない理由は、この首長霊信仰により、亡くなった王の業績も祖先神の力によるものであって、次の王に霊力(パワー)が引き継がれるという思想があったからと考えられます。




125年 (延光四年)三月十日(4月30日)、安帝が崩御。 五月に、倭国では「祭祀を整え、(伊都国を)永久の王都とした」との紀年銘の入った銅製「室見川銘板」が作られました(1948年に福岡市西区、室見川河口付近で発見)。日本で作られた現存する最古の金石文です。弥生中期から硯(すずり)片が北部九州で発見されており、後期の雀居遺跡では木製の組机が発見されていますので、当時の倭国で文字が使われていたと考えられます。伊都国では通訳が居たはずで、当時から漢字を読み書きしてコミュニケーションできる人が居たことは確かです。
(左クリックで拡大)
 「日本書紀」には応神天皇15年(284年)に百済から漢字の典籍が伝わったとあるので、「室見川銘板」の重要性に気付かなかったということだと思います。また、奈良時代に奴国は儺県(なのあがた)とされていましたが、「儺」は「鬼やらい」のことです。つまり鬼のような乱暴者のスサノヲ大王を追い払った師升の事績から来ます。さらに伊都国は殷王朝初期の政治家伊尹(いいん)が出来の悪い王を追放した史実と師升王の事績が重なることから伊尹が定めた都という意味で伊都国と名付けたと分かります。つまり宮廷司祭師升の事績は史実だと考えられます。

126年 安帝の子劉保が即位(順帝)。
この頃、ニギハヤヒが縄文系のムナカタ海人族の支援で吉備を平定し、奴国を再興します。ニギハヤヒ大王(第十九代王天照大神尊)が亡くなると、楯築王墓に葬られました。楯築神社の御神体「亀石」に描かれた弧帯文は、後の纏向遺跡の前方後円墳に副葬された弧文円板や弧文石と同じヘビを象ったもので、「亀石」にはさらに大王の顔が彫られています。中国神話の天皇伏羲と同じ人面蛇体ですので、初代王天御中主(アメノミナカヌシ、海神龍王)に始まる奴(ナーガ=龍蛇神)国王の子孫のヤマト大王を七世紀末に天皇と呼ぶようになります。「新唐書」「宋史」で「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」と書かれた理由です。


  
145年 後漢草創期の功臣の一人の梁統の玄孫梁冀により章帝の玄孫である劉纘が即位(質帝)。梁冀は外戚として権勢を振るう。
146年 質帝が梁冀に毒殺される。
147年 章帝の曽孫劉志が即位(桓帝)。この時代から後漢朝廷がかなり乱れます。

159年 (延熹二年)梁冀の専横に対して桓帝は単超ら5人の宦官と謀り、梁冀派の宦官を逮捕し、兵を動員して梁冀の豪邸を囲みます。梁冀は妻子らと共に自害し、梁氏一族はことごとく処刑されました。
   
167年 (延熹十年)宦官による政権掌握に不満を抱いた外戚、豪族勢力が糾弾するも、宦官たちはこれに大規模な弾圧を行いました(党錮の禁)。
この頃から、周辺の統治も弱まり、半島では韓人・濊人が強盛になり、楽浪郡から人々が散り、統治出来なくなります。倭国も楽浪郡との交易ができなくなり、徐々に衰退します。

168年 (永康元年)十二月、桓帝が崩御し、章帝の玄孫劉宏が即位する(霊帝)。桓帝の皇后の竇妙、大将軍竇武、太尉(後に太傅)陳蕃らにより擁立された。
169年 宦官排斥が計画されるが、事前に露見して、外戚や陳蕃ら士大夫が排除され、宦官(曹節、侯覧、王甫)が権力を掌握しました(第二次党錮の禁)。

184年 張角が挙兵、黄巾の乱が起こる。
    曹操孫堅劉備らが討伐軍に加わる。
185年 宦官13人が列侯となる。

189年 霊帝が崩御。少帝劉弁即位。

霊帝の時代は宦官を重用し、売官が行われ官吏は堕落しました。民衆には重い賦役を課して民心は完全に離反しました。黄巾の乱の結果、皇帝権力が衰退して地方豪族の力が強大化しました。この群雄割拠から三国時代への前段階の時代でした。霊帝の外戚で大将軍何進が司隷校尉袁紹らと謀議を重ね、十常侍ら宦官の一掃を図りました。地方豪族に対する宦官排除の命に応じた、并州董卓(へいしゅうのぼく とうたく)が洛陽に入り、武力を背景にして朝廷を牛耳り、少帝を廃し、劉協(献帝)を即位させました。董卓は廷臣の最高職である相国にまで上り詰めて、専横を極め、暴虐の限りを尽くしました。董卓の悪逆非道に対して袁詔が反董卓の諸侯連合の盟主となり、挙兵しました。

190年 董卓は洛陽に火を放ち、献帝を連れて長安に遷都。
192年 しかし董卓が暗殺されます。
    反董卓諸侯連合は解体し、内戦が起こります。
    劉備が徐州で曹操に反乱を起こし敗れ、袁詔を頼ります。

196年 (中平六年)公孫度が遼東太守となり、高句麗・烏桓を討つ。 師升王の子孫の倭国王(難升米の先王)は旧奴国勢力の攻勢に対して公孫度の支援を受けるために遼東郡の襄平に使節を送り、中平紀年銘大刀を賜わったと考えられます。

200年 曹操が、官渡(現在の河南省鄭州市中牟県北東)で袁詔を破る。
    孫策が没し、弟孫権が呉を継ぐ。
201年 劉備が汝南(現在の河南省周口市)で曹操に敗れ、今度は劉表を頼る。
202年 袁詔、没する。

204年 曹操が袁尚を倒し、河北を平定。
  公孫度が死に、子の公孫康が遼東太守を継ぎ、反抗していた韓・濊を討ち、 楽浪郡の南18県を別けて帯方郡を設置します。 倭国王難升米が使節を送り、恭順の姿勢を示し、 旧奴国(狗奴国)との戦況を報告し、軍事支援を得ます。 倭国は勢力を取り戻し、菊池川沿いの旧奴国の最前線基地を襲い、玄界灘・日本海沿岸部・九州東岸などを活動域とするムナカタ海人族らの王の 狗古智卑狗(久々遅彦)が戦死します。

王を失った、玄界灘を渡って半島の鉄素材を旧奴国側に供給していたムナカタ 海人族の族長赤坂比古(アタカタスミ)を懐柔に成功します。難升米王が野麻国の姫巫女卑弥呼による太陽神のお告げによって 政治を行うことで両者が合意し、九州全域、中国西部、 四国西部(後に全域)等 が、狗奴国を裏切り、倭国側に着くことになります。
 劣勢だった倭国の危機は去り、半島南部の鉄素材を入手できるようになり、奴国の交易センターも改修して活発に取引が行われるようになり、隆盛になりました。狗奴国側に着いていた四国東部や紀伊半島沿岸部の勢力まで倭国側に着いた模様です。前回の纏向遺跡の外来土器の出土状況から見て取れます。

 反対に狗奴国側に半島の鉄素材が全く回らなくなり、衰退することを怖れた 狗奴国王卑弥弓呼は纏向に旧奴国勢力を集めて、恨みのある倭国王や裏切り者のムナカタ族の赤坂比古や卑弥呼らを呪詛し、倭国徴伏の祈祷をして、 倭国攻略の作戦計画を練っていたと推理できます(注3)。




205年 曹操、袁譚を斬り、青州を平定。袁熈、袁尚が烏丸に逃亡。

207年 曹操、烏丸を討つ。 烏桓の大人(単于)楼班と袁煕・袁尚兄弟らが曹操に追われて 遼東郡に逃れてきました。公孫康は曹操が攻めてくる事を恐れ、楼班をはじめ袁煕・ 袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出しました。公孫康はこれにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命されました。

   このころ 劉備、三顧の礼により諸葛亮を軍師とします。
208年 曹操が丞相となり、南征して聖人孔子の子孫孔融を殺す。
    諸葛亮が孫権を説得して同盟を結び、曹操を赤壁で破る。

214年 劉備、成都に入り、益州を領土にする。

216年 曹操、魏王となる。

219年 劉備、漢中王となる。
    関羽と子関平が孫権に敗れ、斬られる。
220年 曹操が死に、長子の曹丕が後漢献帝を廃し、皇帝に即位(魏文帝)。
    曹操の諡を武帝とする。
221年 劉備が漢(蜀)の皇統を継ぐ(昭烈帝)。
222年 呉王孫権が独自の年号黄武元年とする。
223年 (章武三年)四月、昭烈帝(劉備)が崩御、 子の劉禅が後を継ぎ、諸葛亮が丞相として政務を執った。

226年 (黄初七年)五月 魏文帝(曹丕)が崩御、 長男曹叡が即位(魏明帝)。
 
だいたいここまでが前回までの倭国の話と東アジア情勢です。この後、公孫氏が魏の太尉司馬懿に討たれ、帯方郡も魏に落ちたので、倭国王難升米が魏に朝貢します。二十一世紀の現代まで謎の邪馬台国への行程記事のトリックなどを次回に詳しく述べる予定ですので、またよろしくお願いします。

【日本の歴史の始まりはこうだ】(連載中)
(その1)天地開闢神話と史実について
(その2)古代の鉄について
(その3)弥生時代に何があったのか
(その4)日本建国の神たちと史実について
(その5)伊都国時代前半の様子
(その6)倭国大乱と卑弥呼の登場
(その7)狗奴国の都(纏向遺跡)の出現

(注1)日本大百科全書(ニッポニカ)「漢の時代(年表)」の解説を参考にした。

(注2)倭人同士の交易は、すでに弥生中期後半(紀元前三世紀)ころから、当時の列島最大の都市の比恵・那珂遺跡が作られ列島内の交易センターとして機能していました。倭国王は奴国の須玖岡本遺跡の王宮に住み、その周辺で青銅器などを製造する官営工場を造って、各地の首長に青銅鏡などを配布していました。奴国での交易権を与える代わりに、主に丸木舟で奴国に集まる人々に、約10~30キロごとに配置された海辺の集落で食料・水や宿などを供給させていたと考えられます(長野正孝『古代史の謎は「海路」で解ける』PHP新書968, 2015, pp.29-33 を参考にした)。

(注3)日経新聞の記事(2010年9月17日 17:00)によれば、「邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、2009年に確認された大型建物跡(3世紀前半)の近くから、祭祀(さいし)に用いたとみられる2千個を超す桃の種や大量の土器、木製品が見つかり、同市教育委員会が17日、発表した。

桃は古代中国の神仙思想で邪気を払い、不老長寿を招くとされる。桃の種は弥生時代の遺跡でも広く出土するが、1カ所でこれほど大量に見つかった例はないという。古代祭祀の実像や纒向遺跡の中心とみられる大型建物の役割を探る重要な手掛かりになりそうだ。」
とあります。毎日、必死に神に祈っていた様子が目に浮かびます。


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イデオロギーが古代史を歪曲する?

2021-10-26 00:01:00 | 古代史
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この動画では「大化の改新」が史実だとしていますが、現代の学会では否定するのが主流です。それはサヨクとかイデオロギーなどとはまったく関係のない、真実を探求する学問の世界なのです。

646年の「改新の詔」に現れる地方行政組織の「郡(こおり)」は、当時は「評(こおり)」が使われており、701年大宝律令以後に「郡」と改められたことが、藤原宮の木簡の発掘から明らかになっています。つまり、大化改新の詔は偽物だということです。また詔にある中央集権化は、すでに聖徳太子が制定したと言われる冠位十二階によって、氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用するという流れがあり、蘇我氏もそれに協力して天皇を中心とする政治を行っていたことが「日本書紀」にあります。したがって「大化の改新」は虚構だと考えられます。

そうなると皇極天皇四年(645年)、三韓(新羅、百済、高句麗)の調の儀式が行われている最中に「乙巳の変(いっしのへん)」で蘇我氏を滅ぼす事件は、三国の使者が目撃することになりますから、それは日本の威信を損なうものでしかなく、ストーリーそのものもデタラメの可能性が高いのです。

中大兄と藤原鎌足がクーデターを行って政治の実権を握ったことは事実でしょうが、そうなると二人はむしろ大和朝廷が行っていた外交政策に反対する立場だった可能性が高いのです。クーデターを成功させた中大兄は中々即位できませんでした。多くの人々が中大兄らのやり方に抵抗したからだと考えられます。

中大兄は、すでに660年に唐・新羅の連合軍によって滅ぼされた百済を再興する為に、兵5,000と軍船170艘を百済王子豊璋(ほうしょう)に与え、白村江の戦いで敗北する失策をやっています。敗北後に、大宰府防衛のために水城と大野城を築くほか、対馬、長門、讃岐、大和にも急きょ山城を築き、都を近江に遷して即位したとあります。関裕二氏は鎌足が豊璋だという説を出していますが、かなり説得力があります。

そういう目で見れば、動画にある聖徳太子の子の上宮王家山背大兄王一族が皇位争いで蘇我入鹿に追い詰められて自害する話なども、あり得ない作り話だと直ぐに分かります。入鹿の従弟にあたるとされる山背大兄王ではなく、蘇我氏一族ではない舒明天皇の皇子の古人大兄皇子を蘇我氏が皇位につけるなどは考えられない話です。(2021.11.6 赤字訂正)

聖徳太子の存在も、中大兄と藤原鎌足が行った悪行の事実を隠すために作られた架空の人物像なのです。太子が偉大な聖人であればあるほど上宮王家を滅ぼした蘇我氏は、亡ぼされても当然の悪人になる構図だと、関裕二氏が指摘しています。蘇我入鹿は架空の人物で、馬子と蝦夷は天皇だったことも渡辺康則氏の万葉集の研究から分かって来ています。中大兄も皇子とは「日本書紀」にありませんから、天智天皇として即位していなかったかもしれません。橿原市小綱町(しょうこちょう)の入鹿神社が存在しても朝廷によって破壊されていないのですから面白いですね。

万葉集研究から中大兄の両親である舒明天皇も皇極・斉明天皇も架空の人物と分かって来ています。最初の女帝の推古天皇も「隋書 倭伝」の記述から男の天皇だったことがわかりますから、天武天皇の崩御後に皇位を奪った皇后鵜野讃良(うののさらら、持統天皇)の前の二人の女帝は前例を創作するための藤原不比等のフェイクだったのです。持統天皇から後のすべての女性天皇も、女性特有の事情から天皇の宮中祭祀を完全に行えないので、本当の天皇ではなく称制と見るのが正しいようです。江戸時代のご皇室の菩提寺に掲げられた肖像画に二人の女性天皇のものがないとのことです(注1)。女性差別ではなく役割の違いなのです。

「日本書紀」の神話は、出雲の国譲りなどで藤原氏の遠祖タケミカズチ(春日大社・鹿島神宮の祭神)に活躍させる内容になっていますから不比等によって創作されたものだと分かります。正史は権力者が権力を維持する正当性を主張するために作られるものですので、権力者にとって不都合な真実は隠蔽され、歴史が改ざんされます。「日本書紀」は天皇家の祖先の日向三代の神話や雄略・武烈天皇の悪行も伝える、天皇家すら貶める記事も見られますから、天皇家の歴史書であるはずありません。日本の建国で活躍した先祖を持つ古代豪族を抑えて、鎌足らの朝廷に歯向かったトンデモない悪行を隠してそれを正当化し、藤原氏のみが繁栄するように創作された勝者の歴史書なのです。

江戸時代の文化人らは天照大御神が男神で、その正体はヘビだと知っていました。しかし、明治時代に西洋列強に対抗するために国民を「記紀神話」に基づく復古神道でまとめる必要があり、国家神道を創設し、学校教育で「記紀」の内容を国史として国民全員に教育しました。それが戦後も生き続けているのです。

ヤマト王権は三世紀初頭に突然登場した纏向遺跡で始まっていることは、その象徴である前方後円墳の発祥地であることからも明らかになっています。九州の勢力が武力で成立させたという神武東征神話は、纏向遺跡の外来土器の発掘から虚構だと分かっています。三世紀の奈良盆地で九州の土器はほとんどありませんし、大規模な戦争があった証拠も発見されていません。逆に近畿の庄内式土器や東海のS字甕が北部九州で数多く発見されています。当時の鉄鏃・銅鏃の出土状況からも畿内の勢力が北部九州を拠点とする倭国を滅ぼして、奈良盆地で王権が成立したことが考古学的に分かっているのです。

ですから保守に人気のある神武天皇東征説は現在では学説とは呼べないものなので、学問的に全く相手にされないのですが、専門家がほとんど構ってくれないのでイデオロギー問題にしているようです。

 この動画を作成した方は戦後の歴史教育を批判し、日本国民統合のための国史教育の復活を目指しているようです。しかし、歴史学の進展に目を向けず、「日本書紀」が正しい歴史であるという前提で、つじつま合わせの荒唐無稽な1年2倍年暦説を主張するのはいただけません。「倭人が正歳四節を知らず、春耕・秋収で年紀となす」という「魏志倭人伝」の注に引用された「魏略」逸文を、当時の倭人が1年を春と秋で2年と勘定していると解釈して、初期の天皇の異常な寿命の長さを説明しています。しかし魏略逸文は正しくは、倭人が中国宮廷の季節ごとに行われる儀式を行わず、ただ春と秋の祭祀を行っていると言っているだけなのです。「日本書紀」に春と秋の記事が1年おきに出てきているのであればいいのですが、実際はそうはなっていませんから、この説が誤りだと直ぐに分かります。

「記紀」はほとんど虚構だといっても、古代史研究で全く無視するのも間違いです。当時の人々の考え方を伝える第一級の文学作品と捉えるのが正しいと思います。そこには古代史の謎解明のヒントが満載されていますので、不比等らの意図を推理することにより古代史の真相が解明できるからです。

「歴史学(れきしがく)とは、過去の史料を評価・検証する過程を通して歴史の事実、及びそれらの関連を追究する学問である。」wiki「歴史学」にあります。文献・史料を歴史学に用いる際には、様々な面からその正当性、妥当性を検討する「史料批判」が行われます。最終的には史料に書かれたことが事実かどうかは、すでに信ぴょう性があると認められた史料や考古学の成果などによって検証する必要があります。

歴史学に政治的なイデオロギーを持ち込むと真実から離れてしまい、最早、万人が理解できる科学・学問ではなくなります。歴史は権力者のための政治文書と考える全体主義者(ファシスト)に利用されますから注意が必要です。権力維持のために都合の悪い事実を無視し、事実を主張する人々などの罪のない人々への迫害はやりたい放題です。世界はそういう独裁国のひどい人権弾圧をやめさせようと圧力をかけています。それにもかかわらず、世界と一緒に人権弾圧を非難しない日本は、世界から人類の敵の仲間と見なされています!今度の選挙で非難決議に反対する勢力を一掃したいものです。

【参考記事】
刮目天の古代史】古代史を推理する
【刮目天の古代史】仮説を検証する!
【刮目天の古代史】謎を解明する(^_-)-☆

(注1)2021.6.11の記事「能「弓八幡」は何を伝えたかったのか?」wiki「女性天皇」から引用した以下の内容が現在消えていました。
江戸時代の女帝、明正天皇と後桜町天皇。明治維新後に想像で描かれたもの。皇室の菩提寺・泉涌寺は、江戸期の天皇14人のうち12人の肖像を所蔵しており、仏事の際に掲げていたが、女帝の肖像だけが存在しない[8]。


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なぜ日本の古都は奈良から始まったのか?(^_-)-☆

2021-10-24 00:19:01 | 古代史
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興味ある記事だったのでコメントをしようとしましたが、長くなってしまいましたので記事にしました。最後までお付き合いください。

それは奈良盆地でヤマト王権が成立したからですが、なぜ奈良県桜井市の纏向遺跡なのかが分かりました。

ヤマト王権は奴国の宮廷楽師だった師升らのクーデターで倭国を奪われた奴国大王スサノヲとニギハヤヒ兄弟の末裔だったのです。旧奴国がヤマトの狗奴国です。師升王は107年に後漢に朝貢し、奴国王にかわって倭国王として認められました。

クーデターを逃れて出雲に逃亡したスサノヲの弟ニギハヤヒが、吉備を平定して奴国を再興しヤマト王権の基礎を築いた人物です(「宋史 王年代紀」第十九代王天照大神尊、スサノヲの姉アマテラスは藤原不比等の創作です)。ニギハヤヒ大王の墓が楯築王墓です。楯築神社の御神体「亀石」の文様は、纏向遺跡の古墳に副葬された弧文円板や弧文石のデザインと同様にヘビを象った模様です。「亀石」にニギハヤヒ大王の顔が彫られており、体はヘビですから、奴(ナーガ、龍蛇神)国の王を示すもので、中国神話の天皇伏羲(ふくぎ)と同じ人面蛇体です。ヤマトの大王を天皇と呼ぶ理由も分かります。ニギハヤヒ大王の末裔が河内や尾張・伊勢方面に展開しました。

スサノヲ大王の子イタケルもクーデターから脱出し、米子の祖母イザナミの実家の縄文海人ムナカタ族に育てられました。その子孫は丹波(タニワ)に拠点を持ち日本海側を支配したムナカタ海人族の王となります。「魏志倭人伝」に登場する狗奴国の官の狗古智卑狗(豊岡市久々比神社の祭神で棟上式の祭神久々遅命)は代々襲名した王名です。六代目辺りが大国主命と呼ばれる列島の大部分を支配した人物で、後に狗奴国ヤマトに滅ぼされます。その史実を基にして出雲の国譲りの神話が作られています。



その大国主命の先代の王が、スサノヲ大王(新羅第四代王脱解のモデル)のコネによって、半島南部の鉄素材を沖ノ島経由でニギハヤヒ大王の子孫の旧奴国(狗奴国)王族に供給して、狗奴国側は勢力を蓄えていました。後漢末期の朝廷の混乱の影響で半島でも韓・濊が暴れて楽浪郡が統制できなくなってしまいます。倭国は楽浪郡を通じて後漢との交易が出来なくなって徐々に衰退していました。

狗奴国の狗古智卑狗は大分県大野川流域から熊本県の阿蘇山麓にかけて半島の鉄素材を持ち込み、鉄製武器を作る鍛冶工房の集落を多数作りました。さらに、熊本県菊池川沿いに最前線の軍事拠点となる集落(方東保田東原遺跡、うてな遺跡)を作って、倭国の佐賀平野・筑紫平野から福岡平野・糸島平野(伊都国の王都三雲遺跡)まで侵攻しました。当時の鉄鏃の出土状況から狗奴国側がかなり優勢で、倭国側を苦しめていたことがわかります。これが二世紀末の倭国大乱です。


(左クリックで拡大)

ところが204年、遼東太守の公孫氏が半島の混乱を収めて、楽浪郡を分割し、南に帯方郡を設置しました。早速、倭国は公孫氏の救援を得て勢力を盛り返し、狗奴国の最前線基地を攻略しました。そこで狗奴国の官狗古智卑狗(大国主の先代)が戦死しました。王子(大国主命)はまだ幼く、王を失って途方に暮れていた、玄界灘を支配していたムナカタ海人の族長赤坂比古(アタカタスミ)を倭国王難升米(魏から詔勅と軍旗が直接授けられているので卑弥呼の男弟で、師升王の子孫の伊都国男王と推理)が懐柔に成功しました。

ムナカタの姫巫女「卑弥呼(宗像女神イチキシマヒメ)」が太陽神のお告げを難升米王に伝えて政治を行うことで両者が合意しました。卑弥呼は海に面した不弥国(ウミコク、宗像市付近)で生まれたようですが、戦乱で物騒になったので、野麻国(ヤマコク、宇佐市安心院町三柱山)に疎開していました。後に、難升米王が魏に朝貢した時に政治的な理由から卑弥呼を倭国女王ということにしたので、野麻国の女王(台)が支配する国という意味で邪馬台国と言う名前として魏に届けました。

これによって、北部九州の倭国は、東部から中・南部九州、中国西部、四国西部、後に四国東部、紀伊半島沿岸部まで加わり、劣勢を逆転して狗奴国を圧倒しました。



そこで、ニギハヤヒ大王直系の子孫の狗奴国王卑弥弓呼(「ひこみこ」の誤写か)は、吉備は危険ですので奈良盆地纏向遺跡に政治都市を作り、各地に散っていた王族らを集めて倭国攻略の作戦を練りました。纏向遺跡の建物建設や大溝や古墳などは唐古・鍵遺跡や河内などの集落の人々(主としてムナカタ海人族と同じ縄文系)が携わって、纏向遺跡に結集した王族たちの食料も彼らが供給したと考えられます。

三輪山麓の纏向遺跡が王都に選ばれた理由ですが、関裕二氏も指摘していましたが、倭国に対面する西側が生駒山地・金剛山地で護られており、もしも倭国に侵攻されても、奈良盆地東側の笠置山地を抜けて東海地方に容易に逃げることが出来る安全な場所だったからだと考えられます。

【参考記事】
刮目天の古代史】古代史を推理する
【刮目天の古代史】仮説を検証する!
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ヤマト騙しの罪務省デマから日本を救うMMT!

2021-10-22 18:59:31 | その他
文芸春秋の記事で矢野財務省事務次官が、財務省が推し進めている緊縮財政政策を破る各党の選挙公約をバラマキだと批判しました。これは選挙妨害ですし、国家公務員法に違反する行為なので、ネットではかなり批判されています。でも財政破綻論のマスメディアや地上波の言論人たちはMMT(現代貨幣理論)に様々なレッテルを貼って国民を騙して擁護しています。元財務大臣で自民党の副総裁も矢野次官の法律違反の雑誌投稿を許可したという話も漏れています。この自民副総裁は野党時代に三橋貴明さんと対談して、MMTの考え方を理解していたので、何らかの個人的な利益のために国民を裏切っていますから、そろそろ引退してもらわないと日本国民は困ります。

「自国通貨建ての国債発行で債務不履行(デフォルト)は起こらない」という事実を云っただけのMMTに対して、財務省が従来からメディアや政治家を使って国民を洗脳する緊縮財政に反するために「国の借金で財政破綻するいかがわしい放漫財政の無責任な理論だ」というような様々なレッテルを貼って国民を騙しています。何故、財務省が緊縮財政を推し進めるかもすでに分かっていますが、ここでは述べません。

刮目天は古代史に特化すると決めていたので他の記事を降ろしていますが、今回は止むにやまれぬ大和魂から、刮目天の読者の皆様にプロパガンダを蹴飛ばしていただき、正しい財政政策によって日本を取り戻してもらいたいとの思いから、記事にしました。今度の衆院選で、日本の復活を阻むMMTを理解しない政治家に国会から退場してもらいたいので、今回は特別に記事にしました。

正しいマクロ経済学は、長く理系の仕事をしてきた刮目天が定年後に三橋貴明さんの動画で勉強しました。日本の未来を決めるとても大事な国政選挙ですので是非、最後までお付き合いください。わたしのくたびれた頭で理解できる程度の話で大したことないですが、皆様の疑問点など、分かる範囲でお答えしますので、遠慮なくお願いします。

なお、MMTについては京都大学の藤井聡先生の動画がありますので、こちらを先に見ていただくのがいいかも知れません。



さて、YouTubeにもマスメディアにもしばしば登場する若者に人気の評論家の反MMTの動画がアップされており、罪務省プロパガンダに洗脳された方がコメント欄で頑張っている議論に参加しましたので、まずここからご理解ください。

【ひろゆき】MMT(現代貨幣理論)に批判的なひろゆきまとめ【ひろゆき マクロ経済学 国債】
10,638 回視聴2021/06/30
 

tobacco juice 
>日本のような長期デフレ下で利上げをすることは自殺行為です。連鎖倒産や自治体の破産が起きます。日本でスタグフレーションが起きたら、詰みです。

しかし、すでに深刻なデフレ不況だったのに、新型コロナの影響で輸入品目の価格高騰が進んでいますから、悪性インフレのスタグフレーションに突入なんですよ。

貴方が主張するような従来の考え方の政府・日銀が、利上げできないから、通貨の信用を護るためにPB黒字化する増税などと言い出せば、余計景気は悪化して、貴方が言うように更に深刻化しますよ。

財政再建という言葉も本当の意味では物価を安定させながら経済成長するという意味ですから、経済成長させないPB黒字化は財務省設置法にも違反する財政不健全化の政策目標なのですよ。

通貨の信認が問題になるのは、海外の投資が増えすぎている状態で、一気に資本の海外流出が起こり通貨安となる状況です。2008年にそれまで高金利で海外の投資を集めていたアイスランドでは、リーマン・ショックの影響で急激に海外資本が引きあげられて住宅バブルが崩壊してたのです。急激な通貨安になったので、アイスランドは財政赤字はたったの20%くらいだったのですから財政赤字による通貨の信認低下はまったく関係ないのですよ。外国資本がGDPの30%以上入っていたからだと思いますよ。つまり市場が外国に乗っ取られていたのです。

ですから、日本でも通貨安のために輸入品のさらなる高騰が起こりますから、金利を上げることによる円高誘導が必要ですが、金利の上昇は変動型国債の利払いが直ぐに問題になります。

そこで、利上げする前に日銀が民間銀行等からこれらを買い上げるしかないでしょう。そうすれば、利上げによる当面の国債利払いを日銀が吸収できます。日銀のBSが膨らみますが、政府と日銀の連結決算で実質上国債が消えますので問題ありません。民間銀行等の日銀当座預金は積上がりますが、現在はデフレで民間銀行は借り手が居ないので実体経済にはあまり反映されないと思います。

たとえ金利が上がって民間銀行に貯金が増えても、貸し手が居ないので市中金利は下げざる得なくなります。だから、そのうち円安に傾きますから、政策金利を上げたり円高誘導して、金融緩和によるさらなる円安をできるだけ喰い止めるしか手はないのです。

MMTでは通貨の信認とか国の借金とか全く関係ありませんから、政府が無利子国債を発行して日銀が買い上げて財源にして、経済安全保障・国防安全保障などに必要な財政出動して景気を刺激します。当然、景気が良くなるまで消費税もゼロにします。ガソリン減税は流通コストを抑えます。原発も再稼働して電力を確保します。これでスタグフレーションを乗り切ることが出来るでしょう。

従来の考え方では詰んでいます。従来の財政破綻デマによる緊縮財政を止めて、MMTの正しい考え方を勉強してください。MMTに基づく正しい政策だけが日本を救うことが出来るのですから。


次に、わたしがフォローしている有名な保守の言論人のブログで中野剛志さんのMMTの内容を批判されていました。MMTがハイパーインフレを起こさないのかということを心配して投稿されており、反論をコメントさせていただきました。

MMTの弱点?、「財政民主主義」、財政赤字容認の「現代貨幣理論」
2021-10-20 04:39:29 | 狼魔人日記


Unknown (刮目天 一(はじめ))
2021-10-20 09:06:53
お邪魔します!先生のご意見はいつも参考にさせていただいています。

わたしは三橋貴明さんのYouTubeでしか勉強していませんが、今回のMMTに対するご心配は全く無用だと思います。

財政民主主義が信用できないからハイパーインフレが起きるかもしれないとのご意見のようですが、先に国家が破綻する以外にハイパーインフレはほとんど起こらないと思います。

インフレ率が目標を超えてもなお、財政法4条・5条を無視して、国民が選んだ政府と国会議員の過半数が積極的に国債発行し続け、同時に政府が選んだ日銀が日銀法を無視して物価の安定義務を放棄すれば御懸念通り起こります。

しかし、生活できない国民が増え、それを無視し続ける政府・国会・日銀があるのでしょうか?

もしも政府と国会議員の過半数と日銀が反日勢力に乗っ取られて、日本を破壊する目的以外に、絶対に起こり得ません。

これが財政民主主義の内容です。

ですから、
>だが赤字国債発行の最中何かの理由で一旦政府が信頼を失うとハイパーインフレが起こる。

とありますが、これは逆でハイパーインフレを起こそうとする政府、国会議員、日銀に対して国民からの信頼がなくなるということです。暴動が起こるということなのでしょう。国民が国家権力を失い、国家が破たんするということを意味します。

財政破綻論は間違いであると罪ムショも知っていますから、悪質なデマです!

【参考】
財務省 外国格付け会社宛意見書要旨(2002年5月2日)
(1)日・米など先進国の自国通貨建て国債のデフォルトは考えられない。デフォルトとして如何なる事態を想定しているのか。

財務省設置法
第三条 財務省は、健全な財政の確保、適正かつ公平な課税の実現、税関業務の適正な運営、国庫の適正な管理、通貨に対する信頼の維持及び外国為替の安定の確保を図ることを任務とする。

財政法4条
第四条 国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。 但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。
(注)国民生活に役立つように政府・地方政府などが行う事業のことを、公共事業という(竹中平蔵 『竹中教授のみんなの経済学』 幻冬舎、2000年、38頁)。国防は国民の安全安心のために必須ですから、国防予算の財源を国債にできるでしょう!(2022.11.3 追加)

財政法5条
第5条 すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならない。 但し、特別の事由がある場合において、国会の議決を経た金額の範囲内では、この限りでない。

日銀法2条
第二条
日本銀行は、通貨及び金融の調節を行うに当たっては、物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資することをもって、その理念とする。