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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

奴国の誤解が邪魔していた❔(^_-)-☆

2021-06-26 11:15:49 | 古代史
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多くの研究者は奴国について、いくつかあった当時の国々のひとつ程度と勘違いされています。恐らく漢書地理誌に「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」という文や魏志倭人伝に紹介されているので、以下の動画にあるように、それが先入観となって考古学の大きな成果を見落としていたのでしょう。だから、「新唐書」や「宋史」に有る「日本は古の倭の奴国」であるとは考えられずに、ヤマト王権の成立まで正しくたどり着けなかったのだと思います。



弥生中期初頭ころの早良平野の吉武高木遺跡に日本最古の王墓が見つかっています。この遺跡が天皇家の祖先の天御中主(アメノミナカヌシ)が住んだ場所です。紀元前473年に滅んだ呉王夫差の一族です。二代目の天村雲尊(アメノムラクモ)から天八重雲尊(アメノヤエグモ)まで三代が王宮を構えていました。威信財として遼寧式銅剣や鏡や勾玉を手に入れており、江南系の海人アズミ族を部下として半島南部や列島各地などと盛んに交易して発展しました。(2021.6.30 赤字訂正)

4代目の天彌聞尊(アメノニニギ)から王宮を須玖岡本遺跡に遷し、那珂川下流域に列島最大の交易センターの建設を始めました。那珂・比恵遺跡群(面積約164ha)です。周辺には水田が作られています。中期後半がその最盛期で、日本最大の弥生遺跡と言われる吉野ヶ里遺跡(面積約117ha)の約1.5倍の広さになり大型井堰や長い直線道路などが作られています。この福岡平野一帯が魏志倭人伝で紹介された二万戸の奴国の領域です。同じころ楽浪郡との対外交易センターを伊都国に造り、奴国王族を王にしていました。筑紫平野へも進出し、平塚川添遺跡付近に王族を王として配置しています。(2021.7.3 赤字修正)

須玖遺跡群には青銅器(銅矛・銅戈・銅剣など)や勾玉などを製造する一大コンビナートが作られ、列島内交易センターに集まる各地の縄文系の人々の首長などに配布し、権威を保っていました。列島各地の縄文人などが奴国に無事に交易品を持って到着できるように津々浦々で支援するためです。ですから伊弉諾尊(イザナギ)の父第16代王沫名杵尊(アワナギ)あたりが後漢光武帝から金印を賜りました。西暦57年は後期初頭になります。後漢は列島の珍しい産物を入手するために華僑を伊都国に派遣し、倭人との交易を保護させるために倭国を冊封体制に組み込んだわけです。

奴国の王宮に住む倭国王を倭の奴国王と呼んだのです。奴(ナ)はナーガ=龍蛇神の意味です。金印のつまみの形から分かります。地名も那珂、那賀などとあり、現在の地名にある中山や長柄なども龍蛇神を祀る江南系の倭人が作った国名です。だから日本の最初の神は天御中主神なのです。「新唐書」・「宋史」に記載された日本の「王年代紀」に当てはまりますから、記紀神話の高天原のことだったのです。

よろしければ「古代史を推理する」をご覧ください!ヤマト王権成立過程を推理し、邪馬台国の所在や卑弥呼の墓も全て見つかっていますよ。突然長文で失礼しました。

【関連記事】
【検証9】奴国時代の話(その1) (その2)
天孫降臨と草薙剣の謎?(;´Д`)




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能「弓八幡」は何を伝えたかったのか?

2021-06-11 14:30:12 | 古代史
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能楽「弓八幡(ゆみやわた)」
2021/06/02 日本人の心 ねずさんの学ぼう日本 


お能は、侘び寂び幽玄の世界であると説明されることが多いです。
しかし、お能の演目は、決して、わびしさや、静寂さや、霧がかかったようなよく見えない世界を描いたものではありません。
人が社会を営むにあたり、その基礎基盤となる根幹を、芸術を通じて見事に描き出すことで、武士道の根幹をなした、それが日本のお能です。

日本文化って、奥が深い!!


能を単なる芸能ではなく、その中に見られる日本人の心の表現として、ポジティブに捉えるねずさんの話はとても引き付けられるものがあります。ですからこれを否定するつもりは毛頭ありませんが、能の本質はすでに何度か述べたとおり、「日本書紀」がねつ造した日本建国について、当時の知識層も忘れそうになっている真相をそれとなく暴露することがメインテーマだと考えています。

日本建国で活躍した人物、つまり世の中を支配すると考える神が、混乱した南北朝の合一を成し遂げた足利義満(1358~1408)の功績を称えるものでもあり、平和になった世の中を寿ぐ物語です。つまり平和をもたらした神様を称える話になっているようです。作者の世阿弥は足利義満の寵愛を受けて能を大成させました。そして、世阿弥の祖先が秦河勝と言われることも関係あるのだと思います(注1)。

秦河勝は、七世紀の聖徳太子に仕えた人物として多くの事績や逸話が残されているが、 「芸能の神として信仰されている。『風姿花伝』第四によれば、上宮太子(聖徳太子)が秦河勝に「六十六番の物まね」を作らせ、紫宸殿で舞わせたものが「申楽」のはじまりと伝えている。そのため、秦河勝は申楽(猿楽)・能楽の始祖とされ、芸能の神とされた。」とあります(Wiki「秦河勝」)。太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建した人物で、その時の広隆寺の御本尊は、聖徳太子から賜った弥勒菩薩半跏像と言われています(ご本尊は平安遷都ころ菩薩よりも上位の仏の薬師如来に代わっています)。

(Wiki「広隆寺」より)


秦河勝と深いつながりのある弥勒菩薩については、すでに、宇佐八幡神宮寺弥勒寺の御本尊であり、大国主久々遅彦(狗古智卑狗)の本地仏であることを突き止めています(注2及び【関連記事】参照)。

現在の能楽は江戸時代まで申楽(さるがく)とよばれていましたが、その起源について、以下のように説明されています。

世阿弥は猿楽の起源を綴った『風姿花伝』「神儀云」[2]で、「上宮太子、末代のため、神楽なりしを、<神>といふ文字の片を除けて、旁を残し給ふ。是日暦の<申>なるがゆえに<申楽>と名づく。」とあり(Wiki「猿楽」)、神道の神事において神に奉納するため奏される歌舞である御神楽の一種なのです。

申(サル)はサルタヒコのことです。サルタヒコが、大和朝廷が最も畏れる神である大国主久々遅彦の分身であることを暴露しているのです。どう見ても猿には見えないあの天狗のような容貌のサルタヒコ神を「日本書紀」は猿田彦と書いたのは神の中の神だということを示唆しているのです。

このサルタヒコは佐太大社や日本各地の佐田神社、猿田彦神社などで祀られていますが、白髭神社でも祀られています。新羅神社とも呼ばれていますが、その祭神の正体は神功皇后に寄り添う三百歳の老人武内宿禰です。住吉大社の伝承によれば仲哀天皇の殯(もがり)に皇后と(住吉)大神とが夫婦のことをしたとあり、応神天皇の本当の父親が白髪の武内宿禰であるかも知れないと伝えています。「日本書紀」では仲哀天皇は父の日本武尊(ヤマトタケル)が薨去して34年後に生まれた計算になりますから、どちらも作り話と分かります(詳細は、「武内宿禰の正体は大国主狗古智卑狗だよ!」です)。

「日本書紀」で登場するサルタヒコはニニギノミコトの天孫降臨を導いた神です。天の岩屋神話で裸踊りをして神々をドット笑わせ、岩屋に隠れたアマテラスをおびき出したことで有名なアメノウズメがサルタヒコとペアの女神です。ヤマトの最初の祭祀王(初代天皇)が大国主と台与の間に生まれた応神天皇なのです。教導の神サルタヒコを神話に登場させることにより、三輪山の大物主(大国主)の神託で初代天皇に即位した史実を示唆しているのです。

神在り月には最初は出雲大社ではなく、猿田彦を祀る佐太大社に各地から神々が集まっていたという伝承があります。また、佐太大社に夫婦の龍がやって来る伝承もあり、龍は奴国の大王(龍王)です。二匹の龍は奴国スサノヲ大王の末裔の大国主久々遅彦(狗古智卑狗、サルタヒコ)と台与(アメノウズメ)のことです。

奈良県の唐古・鍵遺跡で見つかった土器の絵がこの二人のイメージです。どちらも鳥の格好をしていますが、巫(かんなぎ、右)が琴を弾きながら下半身を露わにして踊る巫女(左)に神を憑依させるのです。久々遅彦(狗古智卑狗)は琴(クーコ)の男という意味で、奴国スサノヲ大王の血を引く王の襲名です。縄文海人族を束ねるこの王は、巫女を通じて神託を聞き出すことが出来る巫(かんなぎ)なのです(「悲劇の女王台与のはなし(その3)」参照)。台与は卑弥呼の宗女ですから、縄文海人ムナカタ族の姫巫女で、スサノヲの父イザナギの妃イザナミの女系なのです。宗像大社の伝承「ムナカタの子はスミヨシ、その子はウサ」が暴露していました。


ちなみに広隆寺の弥勒菩薩像と並び有名な半跏像が中宮寺の如意輪観音像です。その由緒はハッキリしてはいませんが、中宮寺は聖徳太子の母ゆかりの尼寺です。この仏像、最初は弥勒菩薩だと考えていましたが、よく見ると女性の観音様なのです。つまり大国主久々遅彦の妃の女王台与を表していると思います。

(Wiki「中宮寺」より)


能楽から思いっきり外れてしまいましたが、世阿弥が「弓八幡」で伝えたかったのはこれだと思います。

つまり、弓を袋に入れて持ってきた高良(こうら)の神(サルタヒコ)の正体は武内宿禰のことですよということでした。

高良大社の御祭神、高良玉垂命 (こうらたまたれのみこと)、八幡大神(はちまんおおかみ)、住吉大神(すみよしおおかみ)はすべて大国主久々遅彦(狗古智卑狗)なのですよ(注3)。

【関連記事】
「卑弥呼を不比等から護った人物?」最初の八幡神は宗像女神卑弥呼でした。藤原不比等は隠してしまいたかったのですが、それをさせないアイデアを出した人物がいました。国東半島で六郷満山を開基した方です。

本当は怖い七福神の謎(;一_一)弁天様は卑弥呼ですが、残り六柱は全て大国主の分身ですよ!

【大発見だろう】天皇家のルーツの証拠!龍王山が日本各地に有りますが、全て奴国大王の血を引く大国主久々遅彦のことですよ!

箸墓が「鶴は千年、亀は万年」の由来だった?(*^^)v舌をかみそうな箸墓の被葬者ヤマトトトビモモソヒメの名前がヒントになっていましたよ!

庚申塚もそうだったの?(@_@)サルタヒコの正体に関する記事についてはまだまだあります。この記事でリンクされていますよ(*^-^*)

(注1)秦(はた)氏の祖は「日本書紀」によれば応神天皇の御宇(ぎょう)に百済の120県の人民を率いて帰化した弓月君とあります。弓月君は日本書紀の約百年後に作られた古代氏族名鑑『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝の後裔の融通王の別名ということのようです。しかし、弓月国は百済(馬韓の地)の中の一国で、弓月君が百済120県もの民を束ねる人物というのは余り信ぴょう性がないと思います。「日本書紀」に何故、日本に帰化するのか理由も書かれておらず、分かりません。

県の呼び名は、元は春秋時代末期から戦国時代に、晋や秦・楚で施行された地方統治のための郡県制度に由来し、漢代以降、皇帝の直轄都市を県としています。城壁や城柵で囲われた中で人々が交易する常設市場であって、人々が集まるので都市を形成することになります。交易に参加する人を民と呼び、皇帝に租を納めること、市場の設備の維持に参加し、県の外の蛮人から市場を護るための兵役に服することになります(岡田英弘「日本史の誕生」弓立舎 1994、pp.30-31)。

三世紀末の「三国志 魏志 韓伝」に馬韓の地は55国に分かれていたとあり、百済は四世紀前半に馬韓の中の伯済国がこれらの国々をまとめ漢城(現在のソウル)に都を置いたという説が信ぴょう性があります。ですから十二世紀に書かれた三国史記には高句麗と同じツングース系の扶余族から分かれた国と建国の話がありますが、紀元前十八年とあるので、これもとても信じられません。

ですから弓月君の帰化の話も、秦氏の祖が弓月君であるという話も信用できません。すでに「半島の古代史だ!(漢四郡まで)」で述べたとおり、紀元前三世紀末に秦始皇帝の圧政からその地に逃亡してきたシナ人が馬韓の東の辰韓に居住した人々の一部でしょう。以下のWiki「秦氏」にあるように、辰韓(秦韓とも書かれる)の出身者が列島各地に渡来して、種々な技術を伝えた集団だと考えられます。

日本へ渡ると豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していった。大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡、針間国(現在の兵庫県)、阿波国、伊予国など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。
<中略>
秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦とされており、山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる[4]。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国では創建が最古の神社となっており、秦氏の末裔はこれらの社家となったとの説もある。推古天皇30年には当時の中心的人物であった秦河勝が広隆寺を建立している。


(注2)弥勒は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。それまでは兜率天で修行(あるいは説法)しているといわれ、中国・朝鮮半島・日本では、弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰(上生信仰)が流行した。とあります(Wiki「弥勒菩薩」)。

(注3)八幡大神は一般には応神天皇とされていますが、首長霊信仰では父祖の魂が首長に宿ると考えていますので、応神天皇に、その父の大国主久々遅彦の霊が宿っているのです。すべての皇祖神の霊が天皇陛下に宿って守護しているという日本独特の考え方だと考えています。女性は神が憑依する巫女として男性の巫に神託を伝える役割ですので、巫女は首長にはなれません。歴代の女性天皇は日本書紀の創作なのです。その証拠に、「江戸時代の女帝、明正天皇と後桜町天皇。明治維新後に想像で描かれたもの。皇室の菩提寺・泉涌寺は、江戸期の天皇14人のうち12人の肖像を所蔵しており、仏事の際に掲げていたが、女帝の肖像だけが存在しない[8]。」とあり(wiki「女性天皇」)、天皇として認知していません。全ての皇祖神の霊が消滅するような女系天皇などはあり得ない話なのです。


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