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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

范曄だけが「魏志の筆法」を見抜いた(^_-)-☆

2021-05-23 15:37:07 | 古代史
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2019-12-19 20:23:32 に公開した記事を一部修正して再掲します。最後までお付き合いください。

新・私の本棚 「魏略西戎伝」にみる魏の西域経営と范曄後漢書誤謬 1/4~4/4

2019/12/13 「古代史の散歩道 など」

興味深く拝見させていただきました。有難うございます。
しかし、頓首死罪は陳寿の言だったのですね。先生のものだと早とちりしたようで、失礼しました( ^)o(^ )
漢籍については無教養の素人ですので、とても独自で原典の解釈などおぼつきません。色々な先生の解釈を基に日々研鑽という気持ちです。しかし、全くの門外漢故、こうやって先達に教えて頂くとそれなりに、分かった気になるのでかえって怖ろしい感じがしますね(´・ω・`)

ひとつ気になるのですが、「三國志 卷三 魏書三 明帝紀第三」(太和三年229年)「癸卯の日(十二月二十四日)大月氏王の波調(クシャン朝ヴァースデーヴァ王)は使いを遣わし献上品を奉げる。以って波調を親魏大月氏王と為す。」とありますが、これは大将軍曹真の功績ですので翌年、大司馬という今でいう国防大臣でしょうか、軍事の最高責任者に出世しています。陳寿はこのような魏朝の一大事件での曹真の手柄をあたかも隠ぺいするかのようにサラッと述べています。

「魏略 西戎伝」を引用する裴松之が「魏志倭人伝」の注で大月氏国の朝貢記事を取り上げなかったことを以って「曹魏が、涼州の壁を打破して、蜀漢北伐を牽制するなど痴人の夢想だった。密使交換がせいぜいである。」(*存在しない曹魏西域記事)と断定される先生のご説は全く理解できません。魏朝にとって大月氏国に朝貢させて親魏大月氏王の金印を与える意味を考えると、そのような解釈はできません。

陳寿が西域伝を省いたのは明らかに司馬氏政権に阿った偏向だと断言できますよ。

「魏略 西戎伝」において大月氏国の朝貢を魏朝の史官の魚豢が記載しなかったとは到底考えられません。しかし原本は残ってませんので正確には分かりませんが、「魏略」が曹真の功績と分かる内容を明確に書いたので西晋の司馬氏政権では相手にしてもらえなかったのかもしれませんね。裴松之は「三国志」の注でしきりに「魏略」を引用していますし、陳寿が省いた西域伝を「魏略 西戎伝」で補うことにより陳寿の偏向を正したのだと考えられます。。

ともあれ、魚豢はそのような情報の資料を宮廷の書庫などで入手したのは事実でしょう。ですから、当方は魏の史官魚豢の「魏略」のすべてがデタラメで信頼できないと言っている訳ではなく(注1)、魚豢と同様に、陳寿も、行程記事は政治的な理由によるつじつま合わせの行程記録を基に編纂したというのは事実なのですから、正しくない部分はあっても、全文がデタラメなどとは絶対に言えないということです。それによって史官失格と弾劾した覚えもありません。むしろ史官の立場では書けない政権に不都合な真実に対して、歴史家のプライドからそのヒントを残したと主張しています。

范曄「後漢書」は、Wikiに依れば、「東観漢記」、東晋の袁宏の『後漢紀』をベースとして、さらに以下の多くの後漢史書
『後漢書』(呉の謝承)
『後漢書』(呉の薛瑩)
『後漢書』(西晋の華嶠、『漢後書』とも)
『続漢書』(西晋の司馬彪)
『後漢書』(東晋の謝沈)
『後漢書』(東晋の袁山松)
『後漢書』(著者不明)
『後漢南記』(晋の張瑩、『漢南紀』とも)
『漢紀』(東晋の張璠)
を参考にしています。


また、多数のスタッフを使って調査し、精密な考証を行い「後漢書」を編纂したと言われています。「その文体は、対句を用いて韻を合せた四六駢儷体という華麗なものであり、古来名文として名高い。」とあり、「後漢書」編纂後、中央官界に復帰して高官になったが、クーデターを計画して失敗し、445年に48歳で刑死しています。(孫栄健「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎、2018,p.89 より) 


ご指摘の范曄の西域伝の信ぴょう性についても、范曄がおとぎ話を勝手に創作するなど全く考えられません。そうおっしゃる先生も何故范曄がおとぎ話を創作しなければならなかったのかに言及されていないので、范曄の責任として弾劾するには説得力の点で欠けています。

范曄「後漢書」に唐の太子李賢が注を付け、高い評価を与えて正史としたと伝えられています。華嶠「後漢書」の構成や文章もそのまま流用したというような注もあるようですから、今の常識では剽窃ということですが、「『後漢書』は歴史評論家にある一定の高い評価を得ている。八家後漢書がいずれも散逸して、范曄の『後漢書』のみが残ったという事実が、范曄『後漢書』に対する評価を表しているともいえる。」とあります。(Wiki「後漢書」2019.12.19 より)

范曄に虚言癖かのようなレッテルを貼って「後漢書」全文を信頼できないと貶めることは、誰もできません。范曄を今の常識で弾劾するなど非常識なのです(;一_一)

陳寿の「女王国の海を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。」を受けて、范曄は女王国の南に在るはずの狗奴国を「女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る」と記述しています。(2020.1.8 紫字修正)

このことについて、孫栄健さんの評価を前よりも少し長めに引用させていただきます。
「范曄は、一体何を根拠に狗奴国は東方の海を渡った位置と解読したかのか。『魏志』だけではこの見解は得られないと思われるが。
 しかし、范曄が『後漢書』を撰した頃(四四○年頃)は、王沈『魏書』魚豢『魏略』あるいは華嶠『後漢書』「官符」「露布」「秘書」「起居注」などの多数の魏・晋朝関係資料(七世紀の『隋書』「経籍志」に残る以上のもの)がまだ存在した時代だった。
 先に、陳寿の「以北」と范曄の「極南」の驚くべき符合を認めたのであり、両者の表面的な矛盾が、実は「筆法」に対するに「筆法」を以ってする、という事実を知った。今や、范曄の解読に従うのが最善の道だ、とわたしは思う。」
「二十一世紀の私たちが、史書解読について五世紀の范擁より優れていると錯覚するのは、現代人の愚かな傲りだ。当時には当時の文化的世界があり、その体系があったからだ。」
(孫栄健、同掲書、pp.194-195)。

孫栄健さんはその中で「晋書 倭人伝」の「至魏時、有三十国通好、戸有七万」という「魏志倭人伝」と異なる記述から邪馬台国は北部九州三十国の総称と理解し、女王国は奴国だと推理しました。『翰苑』所引『魏略』にも「水行陸行」の記述もないので帯方郡からの日数を記述したものと理解して、放射説も『漢書 大宛伝』貴山城の行程記事に見られるとのことなので倭人伝の魏使の真の目的地は伊都国とのことだとしました。更に、貞観二十年(646年)に完成した「晋書」は貞観の治と称される文化的・政治的に最も発展した唐の時代で、太宗が房玄齢らに命じて多数の史館スタッフの調査・考証によって編纂されており、その時代の史家の正しい読み方で上記の記述が得られた結果だとしました。つまりこれが先生のおっしゃる漢籍の定則ということなのでしょう。

しかし、孫栄健説は「魏志倭人伝」の「女王國東渡海千余里復有國皆倭種」を無視しており、范曄の記述にも反します(奴国からは東に渡海できない)。金印を賜った奴国が博多ではない極南の方の奴国だと范曄が明確に書いたのは「魏志の筆法」を受けた筆法であることは間違いないですが。

実は、范曄は金印の紐が奴(ナーガ)と呼ばれる蛇神であることに気付き、

極南の奴国の南に倭種の狗奴国が在るというのなら、

女王に従わない狗奴国は蛇神を奉じる極南奴国と同族であり(或いは同一か?)、

范曄の時代の倭王讃は邪馬台と同じ発音の邪靡堆(=ヤマトゥ、纏向遺跡)を都とすることから、

それは宇佐の女王国から東に瀬戸内海を千余里(約450キロ)渡ったところに在った狗奴国のことなのだと、

陳寿のヒントから正しく読み取ったということなのです。

何故そう断言できるかは、現代の私たちは、纏向の狗奴国ヤマトが考古学・民俗学等々の証拠から「古の倭の奴国」を引き継いだ日本建国の地だったと言えるからなのです(注2)。


陳寿も北部九州の倭国が金印を賜った旧奴国の末裔が建てた狗奴国と抗争していたことを史料などから理解していたから国名重出の微言、つまり文の違えを書くことによって歴史家として義を示したのです。「旧」と「狗」はどちらも呉音で同じ発音「ク」だったことも関係あったのでしょうかね?(^_-)-☆

『彼(范曄)は自分の書について、文には深い含蓄をもたせてあり「恐らく世の人は理解できまい「恐世人不能尽之(これをつくすあたわず)と』と、奇妙な言葉を残している。」(孫栄健、同掲書、p.89)

漢籍の定則では陳寿の筆法の理解は無理だという意味でした!


(注1)「バカバカしい二倍年暦説」を魏略でも言っているのではないかとの間違った認識でした。しかし、それは思い違いだと分かりました。神武天皇はいつ即位した?(;´Д`)で詳しく説明しましたが、「魏志倭人伝」裴松之注に「魏略ニ曰ク、其ノ俗正歳(太陰暦)四節ヲ知ラズ、但、春耕秋収ヲ計ツテ年紀ト為ス」とあります。正歳四節つまり、中国最初の夏王朝の正月から始まる四季のまつりのことを倭人は知らず、四季のある日本では人々の活動は春耕秋収がひとつのサイクルですから、それによって一年を定めているという話なのです。

それに対して、倭人は春と秋でそれぞれ一年と数える二倍年歴を使用しているというのは珍解釈 なのです。弥生時代の水田稲作は春に田植え、秋に収穫するわけで四季のある日本ですから一年を春と秋で二年と数えるなどあり得ません。もし二倍年歴が採られていたなら正史「日本書紀」でも、ある年は例えば正月から六月まで、その翌年は七月から十二月の記事しか見られないという現象が見られるはずですが、そうはなっていません。

ですから倭人が二倍年歴を採用しているなどと言う妄説は、初期の古代天皇の崩年を半分にして実在天皇と考えたい現代日本人が言い出した珍解釈なのですから、逆に、記紀で異常に長命な天皇は実在しない天皇だということが分かりますよ。
(2021.5.23 青字追加)

(注2)古代史の謎を推理する(^_-)-☆

2020.1.21 210年頃築造の纏向石塚古墳を図に追加(石野博信「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」新泉社2019,p.47 より)

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邪馬台国はここ!(^_-)-☆

2021-05-22 14:25:43 | 古代史
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いい内容だったので、いかのようなコメントしました。最後までお付き合いください。

畿内説の重要な根拠のひとつの外来土器が九州から関東のものまであるということで図にも書かれていますが、実はその時期の九州のものは外来土器の1%以下です。女王への貢物を送り届ける役目のある伊都国の一大率らが纏向に来た痕跡がほとんどないのです。纏向の最初の大王の石塚古墳(210年頃築造)にも倭国の一部である北部九州の人々がその葬儀に参加した証拠が見つかっていません。ということは纏向が倭国と敵対していたと考えるほかないでしょう。つまり纏向は女王が支配する倭国と対立する狗奴国と考えることが出来ます。魏志倭人伝の記述では狗奴国を女王国の南としていますから菊池市付近から鉄鏃が大量に見つかっているし、地名が狗奴国の官狗古智卑狗に因むようなので、そこが狗奴国と考えられています。しかし菊池付近は倭国大乱まで狗奴国の一部でありましたが、狗奴国の王卑弥弓呼は纏向を都としていたと考えられます(卑弥呼が女王になった時に菊池付近は卑弥呼の倭国に併合されたと考えられます)。

一方九州説の有力候補吉野ヶ里遺跡は、魏志倭人伝の行程記事を素直に読むと、東側に海があって、千余里海を渡ると倭種の国が在るという記述が、纏向遺跡と同様ですが、合致しませんから、女王の支配する倭国の一部ではあるが、邪馬台国ではないと言えます。卑弥呼の墓も見つかっていません。

そして渡邉義浩さんが指摘する通り、魏志倭人伝が西晋の基礎を築いた司馬懿の功績を称えるため書かれたものですから、邪馬台国への行程記事は実際の倭国の位置を示すものではないということです。洛陽から万六千三百余里離れた西域の大国大月氏ヴァースデーヴァ王を朝貢させて蜀を挟み撃ちにした曹操の甥の曹真の功績を超えるものにしたいという政治的な目的から、倭国への魏使の報告書の中で邪馬台国へのデタラメな行程記事が書かれ、陳寿がそれに基づいて司馬懿を称えるために書いた文書が魏志倭人伝です。陳寿はわざわざ東夷の王を誉めちぎる詔勅をほぼ全文載せていますし、本来載せるべき西域伝を省略しました。帯方郡から邪馬台国まで万二千里、洛陽から楽浪郡まで五千余里ですから、洛陽から万七千里という大月氏国よりもさらに遠い、女王が統治するエキゾチックな東夷の大国という設定にしたのは、司馬懿が倭国を手なづけるために任命した帯方郡太守劉夏と倭国の大夫難升米だと推理しました。倭国のことを知らない魏の朝廷の人々を納得させるために誇張して書かれたものですから、現代人が行程記事をいくら真面目に読んでも万人が納得する場所にたどり着けなかったということなのです。(2021.5.23 青字追加修正)


それでは、邪馬台国はどこにあったのか?ですが、倭国大乱の痕跡である鉄鏃が大量に見つかる九州にあったことは確かですが、一大率が置かれた政治の中心伊都国にそれ程遠くではなく、東側が海に接している場所のどこかということになります。

そして、邪馬台国のことが書かれているのは魏志倭人伝だけではなく五世紀に書かれた范曄「後漢書 東夷列伝倭条」にもあり、その答えがここにありました。女王国から東に千余里渡海すると、倭種の国と書く代わりに、ズバリ狗奴国があると書かれています。纏向にあった狗奴国から西に瀬戸内海を約450㎞(千余里)行くと宇佐津にたどり着きます。そこから駅館川を南に遡ると、卑弥呼の宮室と思われる三女(さんみょう)神社という古い社があり、その西側に径百余歩の円墳が見つかりました。詳しい話は刮目天のブログ「卑弥呼の墓は見つかっているよ」をご参照ください。さらにヤマト王権の成立過程も全て判明しました。よろしければ「古代史を推理する」をご参照ください。突然、長いコメントで申し訳ありませんでした。どうぞよろしくお願いします。

【参考記事】
正史は正しい歴史なのか?|д゚)

范曄だけが「魏志の筆法」を見抜いた(^_-)-☆

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卑弥呼の正体?(@_@)

2021-05-21 10:28:38 | 古代史
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非常に良い動画がありましたので以下のとおりコメントしました。



ご存知のとおり最近、硯が伊都国など北部九州で発見されています。また福岡市の雀居遺跡では木製の組み机が丸ごと出ています。更に、竹簡・木簡を入れる漆塗りの円筒の一部も伊都国で見つかっています。つまり、弥生時代中期中葉あたりからシナ人の華僑が伊都国に来ていたのです。その前は多分徐福も北部九州(多分、吉野ヶ里付近)に来ていました。日本書紀の漢字が五世紀に百済から伝わったというのは真っ赤なウソですから、この事実は従来の邪馬台国研究を引っ繰り返すはなしですよ(@_@)。

三世紀後半まで伊都国が対外交易センターとして機能していました。国内の交易センターは比恵・那珂遺跡です。吉野ヶ里遺跡の約4倍の広さですから日本一の大都市でした。ですから、弥生時代中期から後期前半の伊都国男王や大夫などは漢字が使えたと思われます。シナ語ができる通訳も居たことは魏志倭人伝の冒頭に書かれています。(
2021.7.3 赤字訂正)


伊都国だけが良い字が使われ、その他はほとんど卑字が使われています。つまり、伊都国男王は教養人ですから、漢字の読めない倭人を見下していたようです。敵対していた無教養な勢力と和解して、相手の姫巫女を女王に共立したと考えるといいでしょう。

でも、卑弥呼は権力を持った女王ではなく、太陽神のお告げを伝える姫巫女=高貴な血筋の祝女「はふりめ」シャーマンでした。唐古・鍵遺跡の土器に線画で鳥装の祝・祝女が描かれています。縄文系倭人です。姫巫女は早口で言えばヒミコ、あるいはヒメゴ(姫子)ですので卑弥呼と書いて魏側に教えたのだと思います。

こういう推理を数多く行い、考古学などで検証することにより、邪馬台国への行程記事の水行・陸行のなぞも卑弥呼の墓も見つかっていますし、ヤマト王権の成立過程も判明しました。ご興味があれば拙ブログ「古代史を推理する」にお越しください!突然失礼しました( ^)o(^ )


【関連記事】
悲劇の女王台与のはなし(その3)

ほとんど人前に出ないという卑弥呼も同じ格好をして神憑りしたのだろう。そして右の図も同じく鳥の格好をした男性で、巫女を神憑りさせ神託を請う役割の巫(かんなぎ)または祝(はふり)だ。「古事記」に、仲哀天皇が熊襲を征伐するにあたり、筑紫の香椎宮で天皇が琴を弾き、建(武)内宿禰大臣が沙庭(さにわ、神降ろしの場所)で神託を請い、神功皇后が神憑りして神託を伝える話がある。前漢時代(紀元前二~一世紀)、琴のことを空侯(クウコ)と呼んでいたようで、イラン語の竪琴ハープ(quiqao)のことなのだ富来隆「虚空津姫(くくつひめ)」と「狗古智卑狗」と」大分縣地方史.32-33(1964.1),p.1-9。つまり、大国主狗古智卑狗(久々遅彦)はクコツヒコ(空侯の男)、琴を弾きながら巫女である台与に神がかりさせる祝(羽振り)という意味だったのだ。

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女王台与は伊都国で亡くなった!(^_-)-☆

2021-05-16 23:40:49 | 古代史
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NHK番組「諸説あり!」で考古学者高島忠平さんは邪馬台国は北部九州にあったとし、平原王墓を卑弥呼の墓だと考えておられるようですので、以下のコメントしました。

魏志倭人伝には径百余歩(直径約150m)の塚に葬られたとあるので、

あの規模の方墳(平原王墓)が卑弥呼の墓でないことは明らかです。

また平原王墓は、副葬品などから3世紀後半の女王の墓だと分かっていますので、

卑弥呼の次の台与の墓としか考えられません。

被葬者の股に日向峠から朝日が射すように埋葬されているので、

日(太陽神)の御子を生んだことを示唆していますから、

台与は、15代応神天皇を産んだ記紀神話の神功皇后のモデルとなった人物と考えられます。

応神天皇が纏向で即位した後に、母を箸墓で改葬したと推理できます。

箸墓の被葬者は大国主の妻とありますので、

応神天皇の本当の父は仲哀天皇ではなく、

大国主(真天照大神)だと分かります(伊勢神宮の外宮には豊受大神台与が祀られています)。

詳しくは刮目天のブログ「古代史を推理する」に在りますので、

よろしければどうぞ!卑弥呼の墓についても解明していますよ。


ついでですが、諸説あり!邪馬台国SP 古代ミステリー 邪馬台国は“ここにあった!”2021/04/30 YouTube の内容がかなりお粗末でした。以下のメモのとおり、明らかなウソが見られますので、よく知らない視聴者に誤解を与えてしまうはずです。多くの専門家はおかしいと気付く内容です。NHKも折角いい番組を作っておきながら、こういうデタラメな印象操作をして古代史の解明を妨害しているとしか考えられません。このような番組にしてしまって、登場した専門家の方たちも恥ずかしい思いをしていると思いますよ。

1:35 番組では日本最古の前方後円墳は箸墓だとしていますが、纏向遺跡では石塚古墳が3世紀初頭に作られたものです。纏向考古学の大家石野博信さんは別の著書で210年頃築造とされています。箸墓は3世紀末から4世紀初頭に作られたとされ、台与の墓だろうとしています。上で述べたとおり、女王台与を初代ヤマトの祭祀王(応神天皇)が纏向で改葬したものと推理しています。

4:09 夢枕獏さんが「日本に国家の一番最初の形が出来たのが何時か?と言われたら邪馬台国からであるとしか言いようがない」とちょっとヘンな発言をされていましたが、前回述べた通り最初の国家は後漢光武帝から金印を賜った奴国が日本最初の王国です。

6:02 魏志倭人伝で、邪馬台国の存在を記した唯一の文献だ!というのもデタラメです。確かに最も古い文献ですが、5世紀には范曄が後漢書 東夷列伝倭条の中で記載しています。しかも、魏志倭人伝は邪馬壹国と書かれています。12世紀ごろの誤写がかなりある写本を元にして作った版本ですから、原本ではないので、それが正しいのか、一見不明です。しかし、范曄後漢書に邪馬台国と書かれていますので、通説でも邪馬台国が正しいとしています。動画の中で中国の研究者が九州一帯はヤマと呼ばれていたのだろうとしていますが、それが正解です。臺(=女王)がいるヤマコクが邪馬台国の意味なのです。(注1)

20:06 纏向遺跡には全国から土器が集まっていた。石野さんが「東は関東とか、あるいは西は九州とかで作られた土器があり、それぞれの地域の人たちが来ている。」との内容を発言し、説明図でも北部九州系の土器があるように見られます。確かにあるのですが、九州のものと思われる土器の欠片は外来土器全体の1%にも満たないのです。

纏向最初の大王墓石塚古墳にも北部九州からほとんど誰も参列していなかったというのが事実です。

つまり、纏向遺跡は北部九州にあった倭国と対立していた国ですから、

魏志倭人伝に紹介された狗奴国と推理できます。

旧奴国の王族が集まって、

敵対する倭国とヤマトを裏切った宗像族から女王に立てられた卑弥呼を追討することになります。

詳しくは「【検証6】倭国大乱の実相は?」を参照してください。



24:56 卑弥呼の時代に朱を産出していたのは畿内だけ!とありますが、徳島県の若杉山遺跡でも弥生時代から古墳時代にかけて朱砂の製造を行っています(蒲池明弘「邪馬台国は「種の王国」だった」文芸新書、2018,p19).。番組でも列島の水銀鉱床の分布が記載されていますし、豊後風土記にも大分市の朱砂(辰砂)の産地名「丹生」が書かれています(野田 雅之「豊後国丹生の郷に古代水銀朱を追う(略報)」熊本地学会誌144 2007,pp.2-4,)。

大分県から鹿児島県にかけては九州南部鉱床群と呼ばれています。また九州西部鉱床群(長崎県・佐賀県)でも卑弥呼の時代以前から採掘がされて、シナの皇帝への主要な朝貢品になっていたことが魏志倭人伝からも分かります。また、弥生時代の甕棺の内部は朱で真っ赤に塗られていますので、畿内にだけしか産出されなかったなどと言う話ではないのです。現代ではすでに鉱山が使われていないので痕跡が残っていない場所でも、丹生や赤迫などという地名から古くから採掘されていたことが分かります。また、金やマンガンの鉱山からも採れた模様です。卑弥呼が居た安心院町三柱山の西側院内町に宇佐金山が知られています。

そして、番組に登場された和歌山県伊都郡の丹生都比売神社の宮司さんの話から考えると、丹生氏は倭国で辰砂の採鉱技術を持った集団でしょう。伊都国は弥生時代中期からシナとの対外交易センターとして機能していました。伊都郡の丹生都比売こそ、卑弥呼の後の女王台与のことだと分かります。

上で述べた台与の墓と推理した伊都国の平原王墓の割竹形木棺の内部は朱で真っ赤に塗られて、手厚く葬られていました。女王台与は大国主と共に纏向のヤマト勢に攻められて戦死したと推理しています(注2)。

上で述べたとおり、女王台与は自ら大刀を持って伊都国で奮戦し、亡くなったようです。棺桶の蓋の上に素環頭大刀一振りが置かれていました。神功皇后は斧・鉞(まさかり)で奮戦した男勝りの女傑として記紀神話で描かれていますから、その史実に基づくものと考えられます。

大国主は高良山に立て籠もって討ち死にし、祇園山古墳に葬られたと推理しています。古墳名は大国主の先祖であるスサノヲを連想する名前です。後にその子の応神天皇が初代ヤマトの祭祀王に即位し、母台与を箸墓で葬った後に、桜井市外山(トビ)の茶臼山古墳で改葬したと推理しています。ここの地名のトビは蛇の別称です。大国主の末裔が冨(とみ)氏です。


(注1)後の文献で魏志倭人伝の原本に邪馬壹国とあったかも知れないということを示唆する記述がみられま。少しややこしいのですが、確かに原本において、皇帝を意味する「臺(台)」の字の使用を憚って、編纂者の陳寿が「壹」としていたのだろうと范曄が判断し、そのように修正したのかも知れませんが、范曄は当時はまだ戦乱で散逸していない多くの史料を見ることが出来たし、丁度倭の五王賛が朝貢してきた時期なので、邪馬台国と書いたのかも知れません。陳寿は「臺」と書いていたのを「壹」と誰かが誤写したものがあったので、それを後の一部の文献が参照した可能性も考えられます。しかし、当時の倭人語ではヤマイイ、ヤマイチなどと母音を重ねる言葉は避けられていました。また意味的にも邪馬台国で間違いありません。

ほとんどの研究者は、范曄後漢書に魏志倭人伝と異なる内容が書かれているとして後漢書を信用していなかったのですが、魏志倭人伝こそ邪馬台国の場所を置きたい位置に置くために書かれた政治文書だったのです。邪馬台国への行程は後世の日本人のために書かれたわけではないのです。このことが分かれば、女王国に対する政治的な思惑のないと思われる後漢書の「女王国の東に渡海千余里で狗奴国に至る」を信じれば邪馬台国の位置が確定します。つまり纏向は倭国と敵対する狗奴国ですから、そこから西に約450km海を渡った宇佐に邪馬台国があったと分かるのです。

(注2)この戦いは記紀では景行天皇の九州遠征の話になっていますが、仲哀天皇の祖父である景行天皇というのはデタラメです。仲哀天皇は纏向に集まった旧奴国王族の最有力者である尾張王であると、外来土器の量から推理しました。倭国を追討するために主将としてヤマトの大王(狗奴国王卑弥弓呼)より派遣された模様です。倭国追討軍が到着する直前247年3月24日日没前に北部九州で日食があり(北九州は皆既、伊都国辺りの沿岸部で珍しい日没帯食)、不吉な現象と考えた伊都国の男王(倭国王)が卑弥呼を暗殺したと推理しました。それに気づいた卑弥呼の配下の宗像氏は押し寄せて来たヤマト勢に直ぐに恭順したので、伊都国男王はヤマト勢に蹴散らされ、半島方面に逃亡したと考えています。

そこで、尾張王が倭国王に立とうとしたので、副将として参戦していた出雲・丹波・北陸王久々遅彦(狗奴国の官狗古智卑狗、豊岡市久々比神社祭神久々遅命)と内戦になり、結局千人ほどが死んで尾張王も殺されたと推理しています。記紀では住吉大神の神託を疑って突然亡くなった仲哀天皇のモデルです。住吉大神は武内宿禰であり、久々遅彦がモデルです。

久々遅彦は倭国に来ていた魏使張政の進言でムナカタ族の姫巫女台与を女王に立て、魏を後ろ盾にしてヤマトと対立しました。卑弥呼が支配していた九州・四国・中国西部に日本海沿岸などを加えて列島の大半を支配したので、後世大国主と呼ばれます。多くの方は卑弥呼のことを権力のあった調整能力を持つ女王様と誤解していますが、13歳だった台与が女王に立てられた話から考えれば、卑弥呼も同様に、倭国王(伊都国男王)と宗像氏に共立されたシャーマンだと分かります。

その後、大国主の裏切りに対してヤマト勢は体勢を立て直して、大国主と台与の倭国を追討し、二人を殺して列島各地の勢力を纏めます。これが、記紀の国譲り神話の元になった史実だと推理しました。そして、複雑な経緯で殺してしまった大国主と台与、そしてヤマトに恨みを抱いて殺された卑弥呼の崇りを畏れたヤマト政権は、その後三柱を丁重に祀っています。名前はそれぞれわからないように色々な別名を使っていますが、日本誕生の史実を推理すればすべて分かります。

今回もまた、丹生都比売の正体が女王台与と判明しました。

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国宝「金印」の謎?(@_@)

2021-05-14 00:02:30 | 古代史
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NHK番組「諸説あり!」で江戸時代に志賀島で発見された金印「漢委奴国王印」が本物かどうかが疑われています。下の図は金印が発見された時期を挟んで改鋳された小判です。1601年に作られた慶長小判は純度86%で重さ18gでしたが、時代が下るとどんどん小判の質が落とされていきます(「小判の重量と金の成分比率」より)。



金印は発見された当時の江戸時代の小判の純度と比べると、ほとんど純金製です。わざわざこのような高品位の偽物の金印を亀井南冥という学者が中国に特注で作らせたとしたら、一体いくらになるのでしょうか?偽物ならばもっと安く上げるために純度を落すはずだというのが最初の疑問です。ですから、福岡市埋蔵文化財課大塚紀宣先生の「金印は駱駝紐から蛇紐に改造されたものであって、そのような偽物が作られることはない」というご見解も説得力があり、国宝金印は紛れもなく本物であって、廣陵王璽とは別の工房で、異なる技法の工人が1世紀に作ったものと考えるのがよいと思います。

しかし万が一、国宝金印が江戸時代に作られた偽物であったとしても、

後漢書に記された金印が西暦57年に後漢光武帝から奴国王に贈られた事実を否定することは誰もできないと思います。

つまり、印面の漢字の読み方に対する疑問についてはすでに解消しているのです。以下のコメントをしましたので最後までよろしくお願いします(^_-)-☆

刮目天 一
委奴国をイトコクとは読むのは間違いです。
3世紀末に書かれた魏志倭人伝には奴(ナ)国が存在することが明確に書かれ、5世紀に書かれた後漢書には倭奴国と書かれ、倭の奴(ナ)国なのです。

金印の紐(つまみ)がヘビで、ナーガと呼んだ蛇神(龍蛇神)を信仰していた江南系の倭人の国が奴国です。地名も那珂、那賀とあります。女王に従うこの出身者が造った国も魏志倭人伝には○奴国と書かれており、中や長のつく現在の地名もその名残りです。日本の最初の神が天御中主(アメニミナカヌシ)とありますから、倭人の最初の王です。福岡県の吉武高木遺跡の日本で最初の王墓が天御中主のものです。

そして、永観元年(九八三)入宋した東大寺の僧奝然(ちょうねん)が、太宗に日本の「王年代紀」を献上し、天御中主から二十三代の王が筑紫の日向の宮に居たことが書かれています。神話の高天原が奴国であることを中国が理解したことにより、「新唐書」から日本は古の倭の奴国と認知され、倭国が日本という国号に正式に改められています。

ですから、委(ワ)の奴(ナ)国という読み方が正しいのです。

その他にも、魏志倭人伝の伊都国の男王は後漢書から回土(ウィト)国王師升の子孫と分かります。これについても面白い事実が判明しています。勿論卑弥呼のことも墓も、ヤマト王権の成立過程から全部判明しています。ご興味ある方は、刮目天のブログ「古代史を推理する」へどうぞ。お邪魔しました(*^-^*)


もうひとつ、オマケです(*^-^*)
飯島俊幸さん 1 週間前
金印の意義・価値を考慮すると、発見された場所・状況にとても違和感を覚えます。金印が古墳や建物跡から発見されたとか、神社に伝えらていた、というなら腑に落ちるのですが。


刮目天一
墓でもないので不自然ですから、何かの原因でとっさに隠したのだと推理できます。
時代は江戸時代ではないと思います。実は、弥生時代中期から後期前葉まで奴国が福岡平野から筑紫平野、もちろん糸島平野の伊都国も奴国王族が支配していました。伊都国王の三雲南小路遺跡王墓からガラス璧の破片が出土しています。これは銅鏡よりも格上です。春秋の呉王・周の子爵の印章なのです。須玖岡本遺跡のD地点王墓と朝倉の王墓から見つかっていますので、呉王族であったことが分かります。宮崎県の串の山古墳からも完形の璧が発見されていますが、奴国王のものを後世の混乱時に手に入れたものと考えられます。

その奴国が2世紀初頭に宮廷楽師師升らのクーデターで滅びます。そのときに奴国王の配下の安曇族(江南系倭人)が逃走途中で志賀島に埋めたと推理しています。

師升の墓が井原鑓溝遺跡の王墓だと考えています。伊都国の東側の室見川河口で青銅製の文鎮のような漢字などの文字の書かれた室見川銘板が発見されています。「延光四年」(一二五年)と書かれていますので、師升王かその次の王が伊都国を永遠の都と定めて祭祀を整えたと記されていますから、この事実を示しています。

詳しくは刮目天のブログに在りますので、よろしければどうぞ( ^)o(^ )


古代史が難しいのは、

ある一つの事象だけを取り上げると、

このように色々な説が出て来て、

疑問がなかなか解消されないというところです。

ですから刮目天はアブダクションを用いた仮説推論を

様々な考古学の成果で検証することによって、

各事象に関する諸説のどれが最も正解らしいということが判断できるようになることを示したわけです。

つまり、従来のように諸説が氾濫して収拾がつかなかった古代史の解明は、

このような科学的手法によって解決できるということなのです。


【参考記事】<倭王帥升の謎>
倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`)<人気記事>
【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆<お勧め記事>やっぱり師升は奴国の司祭だった。
伊都国が鬼払いの発祥地か?(^_-)-☆<お勧め記事>


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