刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

古代史の真相が日本を救う(^_-)-☆

2021-02-27 14:21:34 | 古代史
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今まで記紀に書かれた日本神話は日本民族のアイデンティティという受け止め方をされてきましたが、神話の正体はすでに述べたとおり、藤原不比等による歴史隠ぺいと改ざんの結果だったということが分かってきました。今まで日本の歴史だと教わって信じていた方にとっては衝撃的で、とても受け入れがたいものだとは思いますが、これが事実なのです。


前回述べましたが、「古事記」が「日本書紀」よりも先に完成したというのも間違いです。元になる神話の伝承は存在したと思われますが、すでに考古学や民俗学などの成果から、日本は古(いにしえ)の倭の奴国だったことが判明しましたので、記紀は古代の人々の考え方を伝える第一級の資料である古典文学と捉えるのが正しい解釈だと思います。その中に真相のヒントが隠されているのも事実です。どういう意図で隠されたかを推理すると真相が見えてきます。

日本建国前夜の二世紀から三世紀末の初代天皇の即位を経て、その後の激動の東アジア情勢の影響から日本も長い政治混乱・政争が続き、天武天皇が、672年の壬申の乱を勝利して、ようやく安定期に入ります。天皇は唐の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家造りを目指します。681年、皇子・諸臣に対して、律令制定を命ずる詔を発令しました。官僚体制と律令体制を整備し、外交面でも対等の政策を目指すために修史事業の取り組みが行われました。大王(おおきみ)という称号を天皇とするのもこの頃に、中国・半島との外交を意識して作られたようです(注1)。

しかし、それらが完成する前に崩御されましたので(686年)、藤原不比等が皇后鵜野讃良(うののさらら、持統天皇、天智天皇の皇女)と組んで宮廷の実権を握り、701年に「大宝律令(たいほうりつりょう)が制定され、702年遣唐使を派遣して国号を「倭」から「日本」に改めました(注2)。

天武天皇崩御後に不比等が主導して「日本書紀」編纂事業を引き継ぎ、ようやく720年に完成させます。不比等はそれを見て安心し、その年に62歳で亡くなりました。

不比等の「日本書紀」編纂は、現代日本人はほとんど騙されていますが、藤原氏の権力を続けるためのものでした。日本建国の真相を隠ぺいして、中臣氏から分かれた藤原氏の遠祖の功績を捏造するためです。冷静に日本書紀を読めば、天皇家さえ貶める内容を含むような正史が天皇家の真の歴史であるはずないと気付くはずですね。

最も重要な日本建国が、出雲のオオクニヌシの国譲り神話で隠されてしまいました。高天原の神の命令により、国譲りを成功させた二神をタケミカズチとフツヌシとしていますが、史実は一度滅んだ奴国を復興させて、ヤマト王権の基礎を築いたニギハヤヒ大王の子孫たち尾張氏と物部氏だと分かりました。ですから、それを隠し、自らの祖先の功績にしてしまいました。俗にいうパクりです。また、父鎌足が中大兄と組んで行った大王家に対する悪行の正当化も含まれます(注4)。

そして、歴史改ざんの痕跡を消すために、建国時代に活躍した氏族が祀る神社や祭神名や神社伝承まで強権で変えさせたことも判明しています(注5)。

現在まで日本の古代史が謎なのは藤原不比等の呪いなのです。

これによる弊害も見えてきました。女神アマテラスを皇祖神とすると女系天皇を容認することになります。すべての日本国民が古代史の真相を受け入れないと、日本は易姓革命で完全崩壊に向かいます。ちなみに、日本を対米戦争に追い込んで敗戦させたのも藤原不比等の血を引く近衛文麿の「藤原の夢」を追い求めた結果であったことが林千勝さんの近現代史研究で判明しています(注6)。日本国民は不比等の呪いを封じるために古代史の真相を理解することがとても重要だと思います。

(注1)日本神話の正体は?(その1)(その2)(その3)をご参照ください。

(注2)なぜ、ヤマトの大王を天皇としたのか?( ^)o(^ )

(注3)「日本国」へ、八百年も掛かったのか?(;´Д`)

(注4)藤原不比等は中臣(藤原)鎌足の子ですが、鎌足は中大兄(欽明・敏達天皇の嫡孫)と組んで大王家(大国主武内宿禰を祖とする蘇我系)を暗殺した事件が乙巳(いっし)の変と言われるもので、日本書紀に書れています。しかし、最近の研究では大王家(後の天皇家)を蔑ろにする蘇我入鹿を大極殿で暗殺したという話はでっち上げと分かってきました。入鹿は架空の人物であり、入鹿暗殺後に死んだ入鹿の父蝦夷が本当は大王だったという説が有力だと思います(用明天皇の分身が蘇我馬子、蝦夷が聖徳太子)。つまり、中大兄(天智天皇)と鎌足は大王家を殺した悪人ということになります。しかし、中大兄の祖父と思われる敏達天皇は用明天皇(蘇我馬子)に殺されたと思われます。この時代は大王位争奪が繰り返された時代です。恐らく蘇我系と思われる大海人皇子(天武天皇)が中大兄の子大友皇子を殺して、争乱の時代が決着しました。このような大きな対立は、通説では仏教導入に関するものという見方でしたが、緊迫した東アジアの情勢の影響で、新羅寄りの蘇我系豪族と百済寄りの物部系豪族の権力争いと見る方が正しいようです。どちらも当初から仏教を容認していたと思われるからです。これらの内容は今のところ単なる異説ですが、これから真相が判明すると思います。

(注5)日食が原因で殺された卑弥呼の事件を示唆する神社名を不比等の命令で変えさせたことを示す歌が残されていました。
【大発見か?】卑弥呼が日觸神社で祀られていた(^_-)-☆

卑弥呼は何故隠された?(´・ω・`)

(注6)林千勝「近衛文麿」ワック 2017


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【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?(;´Д`)

2021-02-22 00:37:47 | 古代史
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前回の記事 「ヤマタノオロチの正体もか?」を書いた後に、ひょっとしてと調べてみたらやっぱりそうでした。
草薙剣はヤマタノオロチの尻尾から出てきた霊剣ですが、その名前は日本武尊(ヤマトタケル)が東国遠征にあたり,敵がヤマトタケルを火攻めにしたときに草を薙ぎ払って危地を脱したという故事から付けられた名前です。

『日本書紀』神代紀上第八段本文の注には「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気(くも)が掛かっていたため、かく名づけたか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙劒と曰ふといふ」とある[66][67][68]Wiki「天叢雲剣」より)日本武皇子はヤマトタケルのことですから、すでに述べたとおり、日本建国の真の主役を隠すために登場させた作り物の英雄です。ですからそのような故事も作り話ですね。

そして記紀神話では、スサノヲから天照大御神(女神アマテラス)に献上されたこの剣とともに八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を女神アマテラスはその孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に手渡されて葦原中国へと降ろさせました。天孫降臨です。この時点でもこの剣の銘は天叢雲剣です。この剣と鏡と勾玉は歴代天皇が子々孫々に伝える三種の神器となったという説明です。草薙剣という名前はフェイクですから天叢雲剣と呼ぶのが正しいですね。

しかし、すでに女神アマテラスも日本書紀による創作だと分かっていますので、天孫降臨や天叢雲剣は何を意味するのか考える必要がありますよ(*´Д`)

そこで思い出したのが、天叢雲という名前とほぼ一致する「宋史 王年代紀」の第二代王天村雲尊(アメノムラクノモミコト)です。

天村雲尊は半島南部から福岡市西部の吉武高木遺跡に降臨された奴国の初代王天御中主(アメノミナカヌシ)の次の王です。初代から第三代王天八重雲尊(アメノヤエクモノミコト)までがその他の王族と共にこの墓域に葬られています。

副葬品のリストを見てみると(鳥越憲三郎「弥生の王国」中公新書 1994、p.3)、年代は甕棺墓K115・K116とすべての 木棺墓M1~M4が「弥生中期初頭」で、それ以外は「弥生前期末~」となっています。三人の王の墓はこれらの墓の中で副葬品に剣を含み、他よりも豪華です。

「弥生前期末~」とされる最も古い王墓の甕棺墓K117が天御中主のものと推定できます。鏡はありません。

そして「弥生中期初頭」の二つの王墓で、最も豪華な木棺墓M3が鏡を含みます。三種の神器となりますので天村雲尊の墓と推定できます。

残りの王墓M2には鏡はないので天八重雲尊の墓でしょう。
(注1)


吉武高木遺跡の3号木棺墓の副葬品(やよいの風公園より)


左側の二本が剣で、その右が戈、さらに右が矛ですから天叢雲剣は元はこのような銅剣だったのではないでしょうか。鏡は首からぶら下げられるようなひも通しが付いているもので、首飾りの右の勾玉は鋸歯のような切込みが入っているのが特徴ですね。

さて、初代王から第二十三代王まで筑紫日向宮に居たことが「宋史 王年代紀」に記されていますから、四代目の王から春日市の須玖岡本遺跡に移ったと考えられます。つまり吉武高木遺跡もどちらも奴国です(注2)。その王の名前が何と、天彌聞尊(アメノニニギノミコト)なのですからビックリです。ということは神話の天孫降臨したニニギノミコトは実は第二代王天村雲尊の孫の天禰聞尊なのです。ですからこの時代は父から子へ王位が継がれていたということですね。この史実の伝承を「日本書紀」の編纂者は知っていてそれを隠す神話を作ったと考えられますね(@_@)

いずれにしても、初代王の天御中主から三代王までが吉武高木遺跡に王宮を構えており、第四代王ニニギノミコトが三種の神器を祖父から与えられて須玖岡本遺跡に天孫降臨した史実がヤマト王権そして現在の天皇家に受け継がれているわけです。天皇家の三種の神器(鏡・勾玉・剣)と同じものが揃ってっていますから、神話の高天原と言われた場所は福岡市・春日市付近にあった奴国で間違いないのです(^_-)-☆

ちなみに、神道の祭祀に用いられる祝詞の一つである大祓詞(おおはらえのことば)のなかに以下の一節がありました。

皇孫(すめみまのみこと)は天磐座(あまのいはくら)を出発し、また天八重雲(あめのやえくも)を押し分け、稜威(いつ)の道(ち)別き道別きて、日向(ひむか)の襲(そ)の高千穗峯(たかちほのみね)に天降き・・・

ニニギノミコトにその父アメノオシホミミを飛び越えて天降りの指示が天照大御神からあったとされている神話は、実は天村雲尊が皇孫(すめみまのみこと)である天彌聞尊(ニニギノミコト)にその父天八重雲尊を飛び越えて奴国(須玖岡本遺跡)に王宮を築き、比恵・那珂遺跡群に列島内の交易センターを作るように指示したという史実を物語っているのです。これにより奴国は後漢光武帝から金印を賜わるまでに隆盛となりますので、その礎を築いたニニギノミコトの伝承が受け継がれていたということではないでしょうかね(^_-)-☆



【王年代紀】宋史
藤堂明保ら「倭国伝」(講談社学術文庫2010,pp.278-279)

 其の年代紀に記す所に云う。
 初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。
 次は天村雲尊(あめのむらくものみこと)と曰い、其の後は皆な尊を以って号と爲す。
 次は天八重雲尊(あめのやえくものみこと)。
 次は天彌聞尊(あめのににぎのみこと)。
 次は天忍勝尊(あめのおしかつのみこと)。
 次は贍波尊(みなみのみこと)。
 次は萬魂尊(よろずむすひのみこと)。
 次は利利魂尊(ととむすひのみこと)。
 次は國狭槌尊(くにさづちのみこと)。
 次は角龔魂尊(つのそむすひのみこと)。
 次は汲津丹尊(くみつにのみこと)。
 次は面垂見尊(おもだるみのみこと)。
 次は國常立尊(くにとこたちのみこと)。
 次は天鑑尊(あめのかがみのみこと)。
 次は天萬尊(あめのよろずのみこと)。
 次は沫名杵尊(あわなぎのみこと)。
 次は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)。
 次は素戔烏尊(すさのおのみこと)。
 次は天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)。
 次は正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)。
 次は天彦尊(あまつひこのみこと)。
 次は炎尊(ほむらのみこと)。
 次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)。 凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。
 彦瀲の第四子を神武天皇と号す。 筑紫の宮より入りて大和州橿原宮に居す。 即位の元年甲寅は周の僖王の時に當る也。 次は綏靖天皇。・・・・・
(王の読みは『日本書紀が伝える「筑豊百余国の王たち」【連載 新説・日本書紀②】2018年02月07日』に従う)


(注1)三つ王墓の次に豪華な墓で剣を含まないのは王妃の墓ではないかと思います。K109が天御中主妃、K111が天村雲尊の妃、そしてK110が天八重雲尊の妃でしょう。そうなるとK110・K111は中期初頭となりますね。また、王墓ではない剣と首飾りを持つものは若くして亡くなった皇子たちの墓ではないでしょうか。これらも弥生中期初頭なのかも知れません。

(注2)第十八代王素戔嗚尊(スサノヲノミコト)が宮廷楽師らのクーデターで殺されたと推定しています。したがって、第十九代王天照大神尊(アマテラスオオミカミノミコト)がクーデターを逃れて吉備でヤマト王権の基礎を築いたスサノヲの弟ニギハヤヒだと推理しています。その後は記紀神話のアメノオシホミミから神武天皇の父ウガヤフキアエズまでに対応する王名が記されていますが、架空のものと見ています。

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ヤマタノオロチの正体もか?(@_@)

2021-02-20 23:43:32 | 古代史
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よく知られているヤマタノオロチの話は、日本書紀では例によって伝承をいくつか紹介していますが、高天原を追放されたスサノヲが最初に降り立った場所が異なったり、多少内容に違いが見られます。古事記にも勿論この話はありますが、それらのだいたい共通する部分は、頭が八つ、尾が八つの大きな蛇の怪物が、毎年村に降りてきては娘を喰うという話です。スサノヲがそれを剣で退治すると、尻尾から霊剣が出てきたので姉アマテラスに献上します。この剣は、後に瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に手渡されて葦原中国へと降り立ち、天皇の三種の神器(八咫鏡、八尺瓊勾玉)のひとつの草薙剣(くさなぎのつるぎ)になります。日本書紀では本文の注で天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が後に草薙剣となったという説も紹介されています。

この神話は出雲国風土記にないことから実際にあった史実ではないという説がありますが、日本神話研究の第一人者松前健氏(1922 - 2002年)は風土記は地名の由来を記すものなので、日本書紀の内容を意識的に省いたものであり、やはり出雲地方の風土伝承だったとされています。そして出雲国風土記の斐伊川沿いの飯石郡熊谷郷の条でクシイナダヒメと類似の名前のクシイナダトヨマヌラヒメという女神が登場するとあります。「熊谷地方には、古く稲田の女神と水の神の大蛇の神婚伝承が語られ、祭りが祝われていたのを、スサノヲの崇拝が入りこんで、これを包摂し、その意味を変え、民間に流布する人身御供譚をその由来譚として採用したのであろう。」と結論付けておられます(松前健「日本神話の謎がよくわかる本」大和書房 2007, p.101)。

あれだけ高天原で暴れて追放された乱暴者の神スサノヲが、一転して英雄のキャラクターとして登場するので、余りにも不自然です。刮目天は、スサノヲ(「宋史 王年代紀」第十八代王素戔嗚尊)は二世紀初頭に奴国宮廷楽師の師升らのクーデターで殺されたと推理していますから、ヤマタノオロチの神話は日本書紀による創作だと考えています。古事記は通説では日本書紀の前に完成したことになっています。しかし、実は古事記序文にそうあるだけで、続日本紀などの文献にも古事記は一切登場しませんので、日本書紀の後に作られたものだと考えています。序文は後世に書かれたと分かります。本文の内容は基本的には日本書紀の話を踏襲していますが、大国主の神話などの日本書紀にない話が多々あり、原古事記が存在して、そこから引用したものだと考えています。

そして松前先生のご意見の中の神婚譚は、水神つまり龍神が大国主久々遅彦のことで、稲田の女神はその名前から大国主の妃の台与(トヨ)であることが分かります。スサノヲはオロチを退治した後に、命を助けた奇稲田姫(クシイナダヒメ)と結婚し、須賀宮を建て、その際に日本で最初の歌を詠んでいます。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」

この歌から、すでに述べたとおり大国主と台与が卑弥呼を改葬した宇佐市安心院町の一柱騰宮(いっちゅうとううぐう)を宮として祀るために後世に創建された妻垣神社の社名を連想できます。おそらく、日本書紀で作られたスサノヲの歌から社名が作られたのでしょう(^_-)-☆(2021.3.8 赤字修正)



また、スサノヲがヤマタノオロチを殺して欠けた十拳剣(とつかのつるぎ)は、大蛇之麁正(をろちのあらまさ)、もしくは天羽々斬之剣/天蠅斫剣(あめのはばきりのつるぎ)として天理市の石上神宮(石上坐布都御魂神社いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)に祭られています。日本書紀では、一書に吉備の神部とあります。岡山県赤磐市石上布都魂神社のことで、そこにあったこの剣が大和に遷されたという説があります。これらは物部氏の神社で、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)がご祭神です。

前回述べたとおり国譲り神話が史実に基づく話であり、この話は物部氏らのヤマト勢が大国主久々遅彦を殺したことを示唆しています。実際に手をかけたのは、スサノヲの弟ニギハヤヒ大王を祖とする物部氏と同族の尾張王だと推理しています。布都御魂大神は例のあのフツヌシ神のことで、タケミカズチ神が尾張王であり、大国主サルタヒコを殺した景行天皇のことでしょう。草薙の剣が熱田神宮に祀られたのも、大国主の所有していた霊剣を尾張王が手に入れたからだったのではないかと考えられます。日本武尊(ヤマトタケル)の話も大国主を圧倒するほどの英雄に仕立て上げ、真の建国の主役大国主久々遅彦を隠したいための日本書紀の創作なのです(^◇^)

そうなんですよ。

ヤマタノオロチの正体も、龍蛇神、つまり奴(ナーガ神)国最後の大王スサノヲ直系の倭国王だった大国主久々遅彦なのですよ(^_-)-☆


【関連記事】
国譲り神話の史実は?(^_-)-☆
卑弥呼はどのように隠された?(;´Д`)


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【衝撃】卑弥呼の霊が不比等のウソを暴く?(@_@)

2021-02-17 12:01:30 | 古代史
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タイトルですが、前から怪しいなと思っていた藤原氏の氏神を祀る春日大社の祭神について、卑弥呼の霊ラインを描いてみて衝撃的な事実?が判明しました!

やはり睨んだとおりでした(*^。^*)

このところ例のレイラインにハマって夜更かしが祟って、頭がもうろうとしています。

夕べ、今度は卑弥呼の霊ラインを調べるために宗像大社の沖ノ島沖津宮から大島中津宮、辺津の宮とラインを引いたのですが、その先が繋がりません。また宮島厳島神社から安心院町の三女神社(さんみょうじんじゃ、宗像三女神降臨伝承地葦原中国の宇佐嶋、卑弥呼の宮室)までラインを引いたらそこまででした。

う~~~~ん!そこで、ひらめきました(^_-)-☆

宗像大社三宮のラインと宮島厳島神社ー三女神社ラインを延長すると一点で交わります。なんとその地点(大分県玖珠町山浦)に、春日神社があるじゃないですか(^_-)-☆

そこで、春日大社とその元宮の枚岡神社をラインで結ぶとほぼピッタリ沖ノ島にたどり着くじゃありませんか(^_-)-☆

それじゃあ、不比等が神社名を強引に変えさせた卑弥呼の日蝕(食)に因む近江八幡市の日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)から先程の玖珠春日神社にラインを引くと、春日神を京都で祀る吉田神社や京都御所の上を通過し、四国に入ると香川県で厳島神社の上も通過し、愛媛県松山市の三津 嚴島神社(みついつくしまじんじゃ)のうえもキッチリ通過しています(@_@)

それじゃあ、春日大社に勧請した千葉県の香取神宮の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)と茨城県の鹿島神宮の武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)が気になって、宗像大社辺津宮から吉田神社に線を引くと、その延長線上で鹿島神宮ではなく香取神宮にぶち当たりました(*^。^*)
ははあ~、国譲り神話で活躍した二柱ですが、どうも謎解きのヒントを貰ったようです。これについてはまた改めてお話ししますね(*^^)v



春日神の残りの二柱、天児屋根命 (アメノコヤネ)が中臣氏・藤原氏の祖神で、比売神が天児屋根命の妻ということになっていますが、この比売神こそ宇佐八幡の比売大神卑弥呼だということなんですよ!

安心院町妻垣神社の一柱騰宮(いっちゅうとうぐう)は神武東征の最初に立ち寄った場所です。神武天皇の母玉依姫(タマヨリヒメ)の墓ということですが、そこでウサツヒコとウサツヒメの歓待を受け、藤原氏の遠祖天種子命(アメノタネコ)がチャッカりとウサツヒメを娶った話にしています。

しかし、一柱騰宮が卑弥呼の墓だということはすでに矢野武夫氏が「卑弥呼の墓発見―安心院一柱騰宮」 (1981年) (安心院文化叢書)で述べています。刮目天は大国主久々遅彦が卑弥呼の死後の内戦に勝利して、妃の台与を伴って、卑弥呼を魏志倭人伝にある安心院町三柱山の径百余歩(約150m)の円墳からここに改葬したと推理しています。ですからウサツヒコとウサツヒメは大国主と台与なのです。アメノタネコとウサツヒメの結婚の話は真相を誤魔化すための「日本書紀」の作り話と考えています。古事記でもその話はカットしているので分かります。

枚岡神社の創建の話ですが、アメノコヤネと比売神をアメノタネコが神武東征の祈願のために勅令によって祀ったとありました。神武東征も建国の真相かくしの創作ですから、前からこれも怪しいと思っていました。

卑弥呼の霊がしっかり教えてくれましたよ。

ちょっとオカルトっぽい話になってしまいましたが、

信じるかどうかはあなた次第です!



どっかで聞いたようなセリフですが( ^)o(^ )
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不比等の呪いが日本を破壊する(*´Д`)

2021-02-12 15:49:39 | 古代史
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昨日は紀元節でしたので、日本国民として日本の誕生をお祝いするのが当たり前です。しかし、最も熱心にお祝いしているのが保守の言論人の方々でしょう。刮目天がいつも勉強させていただいている方に以下のような記事がありました。

実在した神武天皇。世界に誇れる皇室や日本が大嫌いな朝日新聞以下の左翼は、潰さなあかんな。 New!
2021年02月11日 更新 2021年02月11日 公開 ナニワの激オコおばちゃん


紀元二千六百二十一年という記紀神話にあった神武天皇即位年基準を日本のオリジナルカレンダーという方もいます。このように長く続いている国は世界中で日本しかないと思いますが、お隣の韓国・朝鮮では檀君朝鮮は神話上の檀君王倹が紀元前2333年に開いた国としており、それで日本の上を行っていると考える日本人はまずいないと思います。でも、最近、古代史研究家が言い出した神武東征が史実だという説はとても好評です。それでも紀元前六百六十年ではなく、紀元前百八十年頃だとか紀元前七十年という説が出ています。大阪平野の発達史を考えると史実に間違いないとしているようです。初期の天皇の寿命が百歳を超えるのは春と秋を二年分に数える春秋二倍年歴を使っていたからという根拠のようです。しかも、それをわたしが愛読している宮崎正弘先生のメルマガで紹介された先生のご意見を引用していました。

それにしても多くの挑戦的な著作執筆で歴史学界に波紋を拡げている田中氏に対して既存の歴史学界が反論一つ、声を挙げないのは何故なのだろう。
これもまた古代史の現代的謎である。
(田中英道さんのことです)

 あはは、思いっきり皮肉ってはりますね(笑)。もうサヨクはどうしようもないですね。『古事記』『日本書紀』は「神話」、「作り話」やと、ずっと言い続け、日本と日本人をひたすら貶め続けているわけですね。

 そろそろ私ら日本人はこういう、日本が大嫌いな連中を、どうにかせんとあかんのとちゃうか、と最近、思い始めています。

最後の部分は全く同感なのですが、歴史学会が反論しないのは当たり前です。それは大和王権が成立したのは奈良県桜井市の纏向遺跡の初期前方後円墳によって三世紀だと証明されているからです。しかも二倍年歴の問題も荒唐無稽なこじつけだとしてとっくに解決済ですから(注1)、バカバカしい妄説を相手にする専門家は居ないということなのです。それでも、保守の言論人の多くは歴史学者がみんなサヨク思想にかぶれているためだと信じ込んでいますから、だれもまともな専門家は相手にしたくないのでしょう(;一_一)

刮目天も日本建国の過程を推理し、三世紀末に第十五代応神天皇が纏向で初代天皇として即位したと分かりました。

神武東征神話は日本建国の史実を誤魔化すために作られた神話だと突き止めています。上に揚げたこと以外にも神武天皇が架空の天皇であることの証拠としてはいくつもあります。最も分かりやすい事実として、初代天皇であるにもかかわらず神武天皇を祭神とする神社が応神天皇に比べて極端に少ないことが挙げられます。同様に神武東征を命じた天照大御神を祀る神社は伊勢神宮ですが、行幸されてご親拝された方は持統天皇から明治天皇までどなたもおられないとのことです。

江戸時代の学者では、天照大神男神説を唱える学者もかなりいたそうです。明治以後も刮目天が言い出したわけではなく、神話研究の大御所津田左右吉など多くの専門家が男神だと言っているとWiki「天照大神」にあります。同じくWikiに、太陽神は男神だという説や、次のような記事もあります。

平安時代、『寛治四年十一月四日伊勢奉幣使記』で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式がほとんど男性用の衣装であって、江戸時代の伊勢外宮の神官度会延経はこれを典拠にして、『左経記』の宇佐への女子用装束と比較して、「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。また、『山槐記』永暦二年(1161)四月廿二日条、『兵範記』仁安四年(1169)正月廿六日条にも内宮に男子装束が奉納された記事がある。

京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性の姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。」と岩戸山町で伝えられるとおりの姿である。江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものがある。京丹後市久美浜町布袋野(ほたいの)の三番叟(さんばそう)に登場する翁は天照大神を表すとされ、振袖を着てカツラを装着し、かんざしを挿して金色の烏帽子を被る姿である。また、藤原不比等が女性が天皇に即位できるように記紀を作り替えたとも言われる[23]。


刮目天は、天照大神はスサノヲの後に奴国大王となった饒速日尊(ニギハヤヒ)だと突き止めました。

天武天皇崩御後に皇后鵜野讃良(うのさらら、持統天皇)と藤原不比等が権力を握ったので女性天皇を正当化するために、天照大神を女神とし、孫の天孫降臨神話を創作し、さらに二人の女帝を前例としてねつ造したと突き止めています。

藤原氏が将来に渡り権力を握り続けるために、

建国の真相を隠ぺいして藤原氏の遠祖が建国に貢献したことにしたのが事実です。

ですから神武天皇は存在していませんし、東征してヤマトで即位したというのは事実ではありません。

日本が建国された三世紀の纏向遺跡の外来土器を調べると九州からの外来土器はほとんど皆無なのです。

それで、何で刮目天がここまでしつこくこだわるのかですが、これは何度も述べていますが、千三百年前の日本神話に埋め込まれた藤原不比等の呪いが日本を破壊すると考えているからです。


女性・女系天皇 「支持」が高く 天皇に「親しみ」58%
2020年4月26日 02時00分 

 共同通信社は二十五日、郵送方式で実施した皇室に関する世論調査の結果をまとめた。五月一日で即位から一年となられる天皇陛下に対し「親しみを感じる」と回答した人は58%だった。男系男子に限るとした皇位継承を巡り、女性天皇を認めることに関し「賛成」「どちらかといえば賛成」のいずれかを選んだのは計85%に上った。母方に血筋がある女系天皇も計79%が賛成の意向を示した。

リベラルを装うサヨク陣営が狙っている日本破壊の仕上げが女系天皇による易姓革命なのです。

彼らが日本を支配する上で、日本国民の結束のよりどころであるご皇室の存在がとても邪魔なのです!

神武東征を信じると、日本の皇祖神がアマテラス女神であったとなります。

皇統が消えるくらいなら内親王殿下を女系天皇にして新たな血統で

皇室を存続させてもいいじゃないかというサヨク論理に逆らえなくなります。

その布石が、皇位継承者を意図的に減らし、女性宮家の創設であり、女性天皇なのです。

日本の長い歴史の中で、天皇の仕事を完ぺきにこなせる女性天皇は居ませんでした。

つまり、女性は天皇(大和の祭祀王)には成れないのです。

これは差別の問題ではなく役割の問題なのです。

天皇は首長霊信仰によって皇祖神と霊的に一体となる日本国の元首(首長)なのです。

皇祖神は天照大神尊(ニギハヤヒ)であり、その父の伊弉諾尊(イザナギノミコト)あるいはそのご先祖たちなのです。

皇統の男系男子のみが天皇に即位できるのです。


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(注1)日本書紀に春と秋の内容の記事が一年ごとに記述されてはいないので、そのような年の数え方はしていなかったとすでに証明されています。このような珍説は神武東征説を史実にしたいためのこじつけだと言えます。

この説は元々魏志倭人伝の裴松之の注に魏略曰「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀」とあったことから古田武彦氏が言い出したようです。これに対して塚田敬章さんのブログで以下のように批判されています。
●「春耕、秋収を計って年紀としている。」という裴松之の注を元に、「二倍年暦」という不思議なものを案出されています。どうも春と秋で一年を二倍に数えていると考えるらしい。「その人寿考。あるいは百年、或いは八、九十年」とあるのは、半減して、当時の平均寿命と思われる四十五くらいになりますから、現実と合うのだそうです。しかし、それなら長生き(寿考)という表現は使えない。平均にあわせれば普通でしょう。
 帯方郡使は現実にいろいろな人と出会っているわけです。派遣された張政は何歳くらいだったのだろう。軍事顧問として派遣されたわけですから、若造は出せないはず。そういう経験の深い指導力のあるベテラン。誰も知らない南方の蛮地へ旅し、活発に動かなければならない。体力も必要です。そういうものが考慮されたとすれば、自身が四十歳前後だったのではないか。若く考えても三十歳は越えていただろう。人種的にはたいして変わりがないわけですから、四、五十の人間と、八、九十に見える人間の区別がつかないだろうか。
 太古から、人間の営みは自然とともにありました。日本や中国では四季があり、季節にあわせてさまざまな作業、行事があります。鳥が渡り、動物が動き、木々が芽をふき、実り、葉を落とす。部族や自らの生存にかかわることです。いやがおうでも意識せざるを得ない。正月や春夏秋冬の四分法は知らなくても、それは中国人が勝手に決めたことですから、生きるのに不都合はない。農耕にしても、耕したあと何もせずに過ごすわけではありません。水の管理、草取り、動物や昆虫の防除など日常的な業務が続けられ、収穫でやっと区切りがつけられる。耕地から収穫までの作物の成長過程、一農業年が一年と考えるのが普通です。山の雪の形やカッコウなど鳥の鳴き声で農耕の始め時を知るという習俗も太陽と地球の位置関係から派生します。
 倭人は「春耕、秋収」という太陽の運航がもたらす自然のサイクルにしたがって暮らしていたわけです。そのサイクルの一つが、一つのブロック、つまり、年期として意識されるだろう。これは世界中どの民族でも同じことです。古田氏は机の前で文字だけをこねくり回している。


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