刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

庚申塚もそうだったの?(@_@)

2021-01-28 16:46:38 | 古代史
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現代日本に残る古い民間信仰の原初的なもののひとつは前回見た道祖神信仰ですが、ご存知のように道教と習合した庚申信仰というのがあり、とても面白いです。道端に「庚申」と彫られた石塔などいろいろなものが全国で見られますね。今日はこの話です。最後までお付き合い下さい( ^)o(^ )



庚申(かのえさる、こうしん)は、 陰陽五行説では、十干の庚は陽の金、十二支の申は陽の金で、比和(同気が重なる)とされている。干支であるので、年(西暦年を60で割り切れる年)を始め、月(西暦年の下1桁が3・8(十干が癸・戊)の年の7月)、さらに日(60日ごと)がそれぞれに相当する。庚申の年・日は金気が天地に充満して、人の心が冷酷になりやすいとされた。

この庚申の日に禁忌(きんき)行事を中心とする信仰があり、日本には古く上代に体系的ではないが移入されたとされている。
とあります。さらに、

青面金剛と呼ばれる独特の神体を本尊とするが、これは南方熊楠によればインドのヴィシュヌ神が転化したものではないかという[4][5]。 石田英一郎によれば青面金剛にはまた馬頭観音(インドのハヤグリーヴァ)との関連性も見られるという[6]。

庚申信仰はまた神道の猿田彦神とも結びついているが、これは「猿」の字が「庚申」の「申」に通じたことと、猿田彦が塞の神とも同一視され、これを「幸神」と書いて「こうしん」とも読み得たことが原因になっているという[7]。

また庚申信仰では猿が庚申の使いとされ、青面金剛像や庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が添え描かれることが多かった。
とあります。



道祖神もサルタヒコを表に出して、本当の神の正体である大国主狗古智卑狗(久々遅彦)を隠していますが、庚申信仰ではさらに道教だけでなく密教や修験道などの考え方を取り入れて神霊を鎮魂することにより、ご利益が得られると信じたのだと思われます。

また、Wikiに依れば庚申信仰の起源となるものとしては、平安時代の貴族が行った庚申の日の行事が記録に見られます。この夜を過ごす際に、碁・詩歌・管弦の遊びを催す「庚申御遊(こうしんぎょゆう)」と称する宴をはるのが貴族の習いであった。最も早い記録では清和天皇の代に貞観5年(863年)11月1日の庚申に宮中で宴がもたれ、音楽が奏せられている[2]。9世紀末から10世紀の頃には、庚申の御遊は恒例化していた。やがて「庚申御遊」と呼ばれた平安時代末期には、酒なども振る舞われるようになり、庚申本来の趣旨からは外れた遊興的な要素が強くなった[3]。
<中略>
やがて守庚申は、庚申待(こうしんまち)と名を変え、一般の夜待と同じように会食談義を行って徹宵する風習として伝わった。庚申待とは、“庚申祭”あるいは“庚申を守る”の訛ったものとか、当時流行していた“日待・月待”といった行事と同じく、夜明かしで神仏を祀ることから「待」といったのではないかと推測される(いにしえのカミ祀りは夜に行うものであった)。

庚申待が一般に広まったのがいつ頃かは不明だが、15世紀の後半になると、守庚申の際の勤行や功徳を説いた『庚申縁起』が僧侶の手で作られ、庚申信仰は仏教と結びついた。仏教と結びついた信仰では、諸仏が本尊視され始めることになり、行いを共にする「庚申講」が組織され、講の成果として「庚申塔」の前身にあたる「庚申板碑」が造立され出した。また「日吉(ひえ)山王信仰」とも習合することにより、室町時代の後期から建立が始まる「庚申(供養)塔」や「碑」には、「申待(さるまち)」と記したり、山王の神使である猿を描くものが著しくなる。


飛鳥・奈良時代に秦河勝によって始められたと言われる申楽(さるがく)が同じ室町時代に観阿弥・世阿弥によって集大成されました。ということは、仏教と結びついたのはその時期と一致しますので、この時代にその形が完成したということでしょうか。比叡山の麓の日吉大社が全国の日枝神社の総本社で、その御祭神は、西本宮:大己貴神(大物主に同じ)東本宮:大山咋神となっています。大山咋神は京都嵐山にある秦氏の松尾大社の御祭神で、『秦氏本系帳』によると、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の賀茂別雷大神です。伊勢神宮と賀茂神社だけに斎宮制度があり、両社は同格なのだと分かります。つまり、伊勢神宮の御祭神の正体が大山咋神であり大己貴神であり、すべて大国主狗古智卑狗だったと分かります。

ヤマトに国譲りをした神ですから。神々の中で最も崇りの怖ろしい神として、貴族から庶民までが色々な神名やお姿で丁重に祀っているのですね。地震や火山噴火や津波や疫病まで、ありとあらゆる災難を起こすと考えられていたからです!現代人は科学が発達しているので、そんなのは迷信だと思っている方が多いのかも知れませんが、ご存知のとおり科学は万能ではないです。日本列島では大国主を代表とする数多くの神々がいます。大国主は奴国の最後の大王スサノヲの子孫です。スサノヲの父はイザナギでその祖先はアメノミナカヌシです。また、スサノヲの母はイザナミですが、卑弥呼や台与とも血が繋がっています。これらの神々はわたしたち日本人とすべて霊的に繋がっていますので、わたしたちの運命のカギを握っていると考えた方が無難ですよ( ^)o(^ )

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卑弥呼の最初の遣使は景初二年六月なのか?(;一_一)

2021-01-26 12:21:00 | 古代史
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卑弥呼・台与と真珠
2021-01-24 13:05:08 | 古代四方山話

Unknown (読者)
2021-01-25 20:02:00
昨日のコメントでは不十分だったので、追加させて頂きます。


読者さん、貴重なご意見をありがとうございます。あなたの指摘でわたしのミスもブログで訂正しました。

しかし、以下のご意見で看過できない重要な誤りを指摘させてください。長くなるので、またわたしのブログに記述しますので、よろしければご覧になって、ご意見があればお願いします。

魏志倭人伝には色々な事が書かれているので、それぞれ慎重な解釈が必要になります。
<景初二年六月,倭女王大夫難升米等を遣し、郡に詣で,天子に詣でて朝獻するを求めた。太守の劉夏は吏を遣し、京都(魏の都)に詣でるを將い送った。其年十二月,書を詔して倭女王に報いた。>と記されている。


その背景には魏志/明帝紀に、<景初二年(238年)秋八月、司馬懿が公孫淵を襄平(遼陽)に囲み、之を大破し、淵の首を京都(洛陽)に伝え(送り)、海東(渤海の東)の諸郡を平定した。冬十一月、淵を討った功を記録した。>と記されている事情があります。つまり倭の使者が訪れた劉夏は、まだ楽浪や遼東の太守ではありませんでしたが、何処の太守だったのかは記されていません。

更にもっと深い背景事情として、この数年前に呉が大規模北伐を実施して魏を攻めたので、魏は一時的に存亡の危機に立った事情があります。
だから魏としては単なる儀礼で財貨を支給する余裕はなく、遼東半島と楽浪を領有し、呉と結託して魏を挟撃していた公孫氏を滅ぼしたい、切迫した理由がありました。


倭の使者は、公孫氏を滅ぼす前に皇帝に謁見している事、倭に親書を送る直前に、魏が論功行賞を行っている事、<女王に報いる>と記している事から、魏が公孫氏を滅ぼす際に何らかの貢献をした倭に対し、感謝の意味を込めたものが、皇帝の親書だったと解釈されます。



倭の使者難升米らが公孫氏が滅ぶ前に皇帝に謁見したというのは誤りですよ!

倭女王が帯方郡に大夫難升米を遣わせた記事の景初二年は、魏志倭人伝の十三世紀に作られた版本か、版本がもとにした写本の記載ミスで、正しくは景初三年です。

原本は残っていませんが分かります。


これは太平御覧や日本書紀にも景初三年と記載されています。

さらに、景初二年の六月では公孫氏と4万の司馬懿軍は戦闘中ですし、難升米が面談した帯方郡太守は劉夏(りゅうか)と倭人伝に明記されてますから、この時点で卑弥呼が帯方郡に使者を送ることはできないし、送っていはないということです。

つまり、三国志 韓伝に景初年間に明帝が太守劉昕(りゅうきん)と楽浪郡太守を共に送った記事があり、劉夏は劉昕の後に赴任したことになりますから、劉昕は明帝が崩御する景初三年春正月丁亥の日(一日)以前に赴任したと考えられます。三国志 魏書 明帝紀では司馬懿はその日に洛陽に帰還して明帝に面会しています。崩御後に跡継ぎの幼い少帝曹芳の補佐役大傳として、実権の一部を握っています。

劉昕は明帝が帯方郡太守にした人物ですから、

司馬懿が劉昕のあとに倭国懐柔のために派遣した帯方郡の新太守が劉夏で間違いありません。

ですから、卑弥呼への詔勅は司馬懿が書かせたものなのです。


魏志倭人伝にはその詔勅のほぼ全文が掲載され、司馬懿の功績が高々と宣揚されています。三国志は曹魏だけを正当な皇帝として本紀を記していますが、同じ皇帝を名乗った蜀と呉については列伝扱いとなっています。曹魏に帝位禅譲された西晋は司馬懿の孫の司馬炎(武帝)が建てたので、西晋の史官陳寿は司馬懿の功績を称える魏志倭人伝を書きたいために三国志を編纂したと言っても過言ではないのです。

当時の曹魏の一番の実力者で司馬懿の最大のライバルは、大司馬となった曹爽です。今でいう国防長官で、すでに病死していた曹真の子です。曹操の甥の曹真は、洛陽から万六千三百七十里も離れた大月氏からバースデーバ王を朝貢させ、蜀漢を挟み撃ちにしました。その戦略上の功績がそれまでの曹魏最大の功績とされていました。だから、司馬懿が公孫氏を撃破して半島を支配し、孫呉を圧迫する倭国を懐柔したということで、曹真を超える功績だとしたかったということです。

魏志倭人伝では、倭国が帯方郡から南東に万二千余里の会稽郡東冶県の東方海上にある国であって、西域の十万戸の大月氏よりももっと遠くにある人口の多い東夷の大国と大法螺を書いています。遠い大国程評価が高いということなのです。ですから洛陽から楽浪郡まで五千余里を加えて、倭国まで万七千余里にしたいために、邪馬台国への行程記事はつじつま合わせで書かれたということなのです。倭のことをほとんど知らない魏の人々を納得させるために途中の国々にも触れたということなのです。



ほとんどの邪馬台国研究者は行程記事に騙されていますが、

後世の日本人のために書いたものではないのですよ
(すいません、いいそこまちがいでした)( ^)o(^ )

しかし魏志倭人伝は陳寿が勝手に書いたものではなく、

魏使の報告書に記載された内容で間違いありません。


史官はあくまでも記録に基づき編纂するのが業務ですから、

後世の評価に耐えるために勝手に事実を改ざんしませんので、

明かな政治的な偏向は有るのですが、一定の信頼性があります。

それ故、すべて信頼するとか、ウソが書かれているからといってすべて排除するのは間違いなのです。

中国の外交の記録は日本書紀とは異なり、かなり正しく書かれています。

ですから、邪馬台国は無かったという説は成り立たないのです。

魏志倭人伝に書かれた文章のどこにウソがあるかは

このような視点による分析で分かるということなのです。


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台与は青ヒスイの国の姫巫女だよ(^_-)-☆

2021-01-25 08:31:45 | 古代史
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卑弥呼・台与と真珠
2021-01-24 13:05:08 | 歴史 古代四方山話


いつもいい話題を提供していただき、感謝します。コメントが長くなったので記事にしました。

真珠が遺跡から余り出土していないのは謎ですね。
やはり、日本の特産品で輸出用の高価な交易品だったのでしょうね。アコヤガイは、太平洋側では千葉県、日本海側では能登半島から沖縄にかけて、おもに波の静かな内湾に広く分布しているとあります。王族は愛用していなかったのでしょうかね。王族の装飾品はヒスイの勾玉やガラス玉でしょう。真珠にあまり魅力を感じなかったのかも知れませんね。だとすると古墳に眠っているということもないような気がしますね。

卑弥呼が魏から貰ったと魏志倭人伝に書かれた真珠は、魏では採れない日本の特産品ですからヘンですよね。「真珠鉛丹各五十斤」と書かれており、鉛丹(四酸化三鉛)が後に来ますから、どうも真朱(赤色硫化水銀)の誤記というのがいいようですね。

台与が266年西晋に贈った白珠五千個が真珠のことでしょう。

白珠よりも先に書かれた二個の「青大句珠」はやはりヒスイと考えています。(2021.1.25 20:57 訂正)

青いヒスイは列島内では糸魚川産だけのようで珍しいものです。


糸魚川天然青翡翠(ヒスイ)勾玉


台与の朝貢は魏から西晋に帝位が禅譲されたお祝いですから、親晋倭王として引き続きよろしくお願いしますという意味で、豪華な貢物を持参したのでしょう。ガラス製の青い大きな珠ならば魏でも、火山は朝鮮半島の北に長白山(白頭山)がありますし、蜀の領土(四川省)には峨眉山がありましたから、勾玉に加工はされていないですが、ガラス玉は比較的楽に入手できたのではないでしょうか。(注1)

だから倭国からの貢物としては、珍しい青ヒスイの大きな勾玉二個が目玉だったのでしょう。

それによってその後の中国では日本を珍しい宝石が採れる国と考えられたとあります(王勇「中国史のなかの日本像」農山漁村文化協会 2000)。そうすると、やはり台与は糸魚川を支配圏とする縄文海人族の姫巫女という推理がいいと思っています。そして、応神天皇を即位させた神功皇后も越・近江を支配する氏族ですから、神功皇后は台与がモデルの姫巫女でしょう。記紀では神功皇后は斧・鉞(まさかり)を武器にして敵を蹴散らした女傑となっています。



247年頃、内戦に勝利して倭国を支配した大国主狗古智卑狗(久々遅彦・豊岡市久々比神社の祭神)によって、台与は表向き卑弥呼と同様に女王に立てられましたが、これは丁度倭国に来ていた帯方郡の使者張政の進言によるものでしょう。これによって大国主の倭国は魏を後ろ盾にすることが出来ました。265年に魏の帝位を奪った司馬懿の孫司馬炎(武帝)が建てた西晋に、その翌年に台与が朝貢しました。しかし、その数年後に纏向ヤマトの狗(旧)奴国によって倭国が滅ぼされたと推理しました。倭国王の大国主は高良山で戦死し、祇園山古墳に葬られたと推理しました。台与は伊都国まで逃げて脱出を図ったようですが、ヤマト勢に囲まれて、自ら武器を持って奮戦して殺されたと考えています。その時の台与の男勝りの女傑の姿を神功皇后に映したのでしょう。台与が葬られたと考える平原王墓の木棺の上に置かれた素環頭大刀がそれを物語っていますよ。魔よけの意味もあるのかも知れません。

大国主と台与はヤマト勢に殺されたので、大和朝廷や民衆は二人の祟りを最も怖れたようです。

280年に西晋によって呉が滅ぼされて三国志の時代が終わります。呉を後ろ楯としていたヤマト政権は西晋に朝貢していた親晋倭王台与を殺したので、次はヤマトが滅ぼされると怖れました。そこで、狗奴国ヤマトの大王卑弥弓呼(記紀では崇神天皇)は大国主と台与の間の子供(ホムダワケ=オオタタネコ)をヤマトの大王(祭祀王)に迎え、動揺していた人心を抑えることにしました。ヤマトは卑弥呼の時代からお世話になっている国だということを示すために、倭国の都「邪馬台国」の名前を貰って纏向の都をヤマトと呼ぶことにしたというのが日本建国の真相だと突き止めました(注2)。

また、卑弥呼も、ヤマト勢が押し寄せる情報が倭国王(注3)にもたらされた時期に北部九州で日食が起こったので、卑弥呼の霊力が衰えたとして倭国王に殺されたと推理しました。ヤマト勢が直接手にかけたわけではないのですが後の人々は卑弥呼がヤマトに恨みを思っているはずと考えているので、親魏倭王だったムナカタ海人族の卑弥呼を宇佐八幡比売大神(宗像三女神)として各地で丁重に祀ったのでしょう。

しかし大和朝廷はこの三人の活躍した日本建国の史実をあからさまにしたくないために、列島各地で様々な名前の神として祀っていることも分かりました。平安時代まで人々は建国の真相をある程度知っていて、地震などの天災や疫病が発生するたびに、朝廷はゆかりの神社に勅使を派遣し、神階を上げて、田などを寄進して三柱を丁重に祀っていました。これらのことから日本建国の真相が分かりますね。



(注1)隋書に「魚眼精」という鶏の卵大の青い勾玉の記述がありますが、その文の前に阿蘇山の話があるので、これはガラス製でしょう。後に大和朝廷が贈った魚の目のような形の勾玉が珍しいということなのでしょう。でも、阿蘇で採れるならば卑弥呼が贈ってもよさそうですが、そうしてません。(2021.1.25 21:17 赤字追加訂正)

その理由は魏から朝貢を要請されたのでお土産もしょぼいもので良かったのだと思います。それで、魏の皇帝からあのような異例の卑弥呼を誉めちぎった詔勅を頂き、魏からお土産もたくさんもらっていますから分かります。

57年に後漢の光武帝から金印を賜った奴国も貢物はしょぼいのですが、光武帝の依頼で列島の珍しい品物を入手するためにやって来た華僑の交易を保護させるためだと分かります。

107年に後漢安帝に朝貢した倭王師升は160人もの生口(奴隷)を献上するために大船団を組んで朝貢したので、師升はクーデターを起こして奴国から権力を引き継いで倭国王と認めてもらうのが目的だったと分かります。つまり、倭国が朝貢に持参する貢物によって中国側が希望したのか、どうなのかが分かるということです。

(注2)ついでに言うと、記紀神話では、神武東征を阻もうとしたトミのナガスネヒコを、先にヤマトに降臨していた天孫族のニギハヤヒが殺したとなっていますが、トミはトビ(蛇)のことですからナガスネヒコは大国主のことで、ニギハヤヒ大王の直系の子孫卑弥弓呼王が大国主に国譲りさせたということを意味しています。

(注3)魏の正規軍の旗黄幢を直接授けられた大夫難升米が倭国の軍事を掌握する王であり、伊都国の男王、卑弥呼を補佐する男弟と推理しています。

【関連記事】

悲劇の女王台与のはなし(その1)(その2)(その3)(その4)


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憧れの邪馬台国にたどり着くには(^_-)-☆

2021-01-23 12:11:19 | 古代史
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刮目天一 1 秒前
興味のある話題を提供していただき、ありがとうございます。大変参考になりました。
そこで、素朴な疑問ですが、邪馬台国問題が何で300年近く解決できなかったのかの理由を考えたことがありますでしょうか?

答えを先に云うと魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への行程記事を正しく読めば邪馬台国にたどり着くはずということが思い込みに過ぎなかったからですよ。

こちらで主張されたうp主さんの熊本説にも当てはまりますよ。素直に読むといっても先入観がありますから、不都合な記述は理由も説明せずに無視しています。例えば女王国の東に海を千里ほど渡ると別の倭人が住んでいるという記述は東側が山しかない熊本説では説明できません。
また、帯方郡から末盧国まで1万里だから残りは2千里だといっても、記事を素直に読めば不弥国から南へ水行20日で投馬国、さらに南に水行10日のあと陸行1月というのが邪馬台国までの行程ですから、これが2千里でないことは誰でもわかりますが、それに対する誰でも納得できる説明がありません。
そして、郡から水行10日陸行1月が邪馬台国までの行程だなどと素直ではない珍解釈します。
だったら何で途中の国を書く必要があるの?って素直な疑問は湧きませんか?

このように行程記事を素直に読んでも誰でもが納得できる場所には到達できないというのが邪馬台国問題が解決していない理由なのですよ。

皆さんはまず置きたい場所があって、そこに行くように恣意的に解釈し、不都合な記述は無視していたから、結局万人が納得できないのですよ。

じゃあ、なぜそういう行程記事になっているのでしょうか?

これは編纂者が政治的な意図でウソの行程記事を書いたからだというのが合理的な結論なのですよ。文献に書かれたことは考古学などで検証して初めて真偽が分かります。伊都国の場所を糸島市の三雲遺跡にしないのは考古学の成果を無視していますよ。だから、行程記事のウソについては編纂者である西晋の史官陳寿の事情と、陳寿が参照したはずの二人の魏使の報告書がこのように書かれた理由を検討すれば分かりますよ。

詳しくはわたしのブログに有りますので、よろしければこちらにどうぞ( ^)o(^ )

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イデオロギーが歴史解明の邪魔をする(;´Д`)

2021-01-17 21:40:41 | 古代史
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天皇は朝鮮人説の大嘘(三橋貴明)
2021/01/14「新」経世済民新聞 三橋貴明 公式チャンネル 


三橋貴明先生の経済学の話は何度も聞いて、分かりやすいのでだいたい理解し、非常に役立つものでした。しかし古代史に関する講座については、どうも違和感を感じます。確かにこのような天皇の起源が朝鮮人だ!などという荒唐無稽な話を押し付けられたら反発したくなるのは当然です。しかし最近、保守の方たちの間で日本の歴史において、考古学的には完全に否定されている神武東征神話を正しい歴史としたい、間違った風潮が見受けられ、イデオロギ論争?が歴史の学問的・科学的解明と理解を妨げているように感じましたので、僭越ながら以下のようなコメントを入れさせて頂きました。(*ノωノ)

お邪魔します。日本の起源・天皇家の歴史に関して嘘が多いのは事実ですが、それは戦前からですよ。戦前が正しい歴史を教えていたと言いうのは間違いです。日本の正史「日本書紀」は編纂を命じた天武天皇が崩御されてから完成しています。完成時の権力者藤原不比等が皇后鵜野讃良(持統天皇)と組んで本当の歴史を改ざんしました。藤原政権を持続させるのが目的だったのだということが最近の研究で実証されてきています。

歴史学は右とか左とかイデオロギーの話ではない学問なのですから、科学的に考える必要があります。

ほとんどの日本人は正史は正しい歴史と考えているようですが、それは思い込みです。正史をよく読めば天皇家さえも貶めてあざ笑う内容になっているのを無視しています。魏志倭人伝についても聖典のように考えて、邪馬台国への行程記事を正しく解釈すればたどり着けるとほとんどの研究者らが思っていたから300年たってもたどり着けなかったのです。正史は政治文書なのですから、編纂者の意図を推理して、どこに欺瞞があるかを見つければ、日本誕生の歴史は、すでに得られた考古学や民俗学、そして最近のDNA分析などの成果によって十分解明できます。卑弥呼の墓も、この事実を理解すれば、多くの方が納得できる場所で見つかっています。よろしければ詳しい話は拙ブログにてどうぞ。

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