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日本の歴史の始まりはこうだ(その4)

2020-09-26 00:13:19 | 古代史
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前回の続きですが、スサノヲ(素戔嗚尊)の弟ニギハヤヒ(饒速日尊)と王子イタケル(五十猛)はムナカタ族に助けられ、師升らのクーデターを逃れました。

「日本書紀(神代上一書第四)」によると、スサノヲが追放されて「その子である五十猛神を率いて、新羅の国に降りられ、曽尸茂梨(ソウル)にお出でになった。そこで素戔嗚尊は、「この地には私は居たくないのだ」と不服の言葉を言われて、土で舟を造り、それに乗って東の方に渡って、出雲の国の簸(ひ)の川の上流にある、鳥上の山に着いた。」とあり(日本書紀・日本語訳「巻第一:神代・上」より)、そこでヤマタノオロチの話につながります。

「古事記」にも、「出雲国の肥の河(簸の川=現在の島根県東部を流れる斐伊川)の川上、名を鳥髪(島根県仁多郡の鳥上村、現在は奥出雲町の一部)という地に降りました」とありますが(【古事記】(原文・読み下し文・現代語訳)上巻・本文 その弐より)、スサノヲらがソウルに行く話が消えていますので、「日本書紀」のそれは作り話でしょう。そしてスサノヲのオロチ退治は、出雲神楽(島根県出雲市)だけでなく石見神楽(島根県浜田市)や庄内神楽(大分県由布市)の人気の演題として現在までの残っていますし、「出雲の国風土記」にはありませんので、天皇家の三種の神器のひとつ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の長い由緒を述べるために作られたフィクションではないかと思います。スサノヲはすでに師升に殺されたはずですから(;´Д`)

イタケル王子はムナカタ族に育てられて山陰から丹後半島までを支配する出雲・丹波王となったようです。イタケル直系の子孫が代々久々遅彦(狗古智卑狗)を襲名し、半島南部の鉄素材を入手して、丹後半島などで鍛冶工房を整備して鉄器を製造したと考えています。「日本書紀」では、「はじめ五十猛神が天降られるときに、たくさんの樹の種をもって下られた。しかし、韓地には植えないで、すべて持ち帰って筑紫からはじめて、大八洲の国の中に播きふやして、全部青山にしてしまわれた。このため五十猛命を名づけて、有功(いさおし)の神と称する。紀伊国にお出でになる大神はこの神である。」と言うことで、「木の神」とされています(日本書紀・日本語訳「巻第一:神代・上」より)。鍛冶炉の燃料となる大量の木材を確保するために植林も行ったということでしょう。

久々遅彦は兵庫県豊岡市の久々比神社で祀られており、イタケルと同様に木霊とされ上棟式の祭神とされています(注1)。その地に日撫(ひなど)という変わった名前の地区があります。また、米原市にも日撫(ひなで)神社があり、ご祭神は少彦名命、息長宿禰王、応神天皇という変わった取り合わせです。少彦名命は大国主と国造りした神で、息長宿禰王は神功皇后の父です。神功皇后は大国主久々遅彦が女王にした台与をモデルとして創作された人物です。応神天皇の母ですが、父親は仲哀天皇ではなく武内宿禰=住吉大神であり大国主です(ヤマトタケルの正体は誰?)。仲哀天皇はヤマト勢の有力者の尾張王をモデルとする架空の天皇です。先述のとおり、スサノヲの子イタケルの子孫が代々久々遅彦を襲名して、最後の久々遅彦(スサノヲの五・六世孫)がヤマトに国譲りした大国主です。大国主は卑弥呼の死後、尾張王との内戦に勝利し、十三歳の台与を女王に立てて魏を後ろ盾にすることにより倭国を支配した人物です。また後で述べますが、三世紀末に大国主久々遅彦と台与の倭国は狗奴国ヤマトに滅ぼされます。ヤマト政権は大国主と台与の祟りを最も畏れることが分かります。大国主・台与と最初の女王卑弥呼は「日本書紀」を完成させた藤原不比等が権力を維持するために一番隠したい日本建国の史実の主役なのです。

一方、ニギハヤヒが出雲から吉備に入る途中に日本ピラミッドのひとつ葦嶽山(広島県庄原市本村町)で祭祀を行った形跡があります。山頂にストーンサークル(複葉内宮式磐境)を築き、さらにその横の鬼叫山に多数の巨石を運び、祭壇を造ってスサノヲの追悼を行い、師升ら裏切り者への復讐を誓ったのだと推理しました(日本ピラミッドの謎?)。実は庄原市本村町に「蘇羅比古神社」がありました。祭神は天津日高日子穗穗手見命と神倭伊波禮毘古命の二柱で、ホオリノミコト(山幸彦)と孫の神武天皇ですから、「日本書紀」の日向三代の神話に合わせていますが、庄原市との関係は皆目わかりません。また配神は余り聞きなれない神も含め十三柱も祀っていますが、ほとんど「日本書紀」の神々のオールスター揃い踏みという感じで、如何にも怪しげです(注2)。

ところが、ご存知のとおり「そら見つ」が「やまと」にかかる枕詞ですのでソラヒコという神社名から直ぐにニギハヤヒが思い浮かびます。つまり、神武よりも先に天磐船に乗って天孫降臨したニギハヤヒが山上からヤマトの景色を見て、「虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)」と感嘆した故事が日本の国号の起源と知られています(Wiki「ニギハヤヒ」より)。日本建国の史実を誤魔化すのが「日本書紀」の真の編纂目的と分かっていますので、藤原氏の命令で祭神や配神を変えられた蘇羅比古神社の本当の祭神はニギハヤヒだと直ぐに分かります。配神の中でも目を引くのが大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)で第七代孝霊天皇のことです。温羅を退治して吉備津彦と云う名前を貰ったイサセリヒコの父ですので、祭神名を強権で変更した藤原氏に反発したニギハヤヒゆかりの人がヒントを残したのかも知れません(卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろうで述べましたが、建国の史実を示唆する神社名を不比等によって変更させられたとみています)。

ニギハヤヒは、イタケルらの援助で鉄製武器を手に入れて、吉備を平定し、奴国大王に即位し(第十九代天照大神尊)、ヤマト政権の基礎を築いたと推理しています。「先代旧事本紀」に登場する物部氏の祖天照国照彦天火明櫛玉饒速日命のことです。倉敷市の足守川や岡山市の旭川下流域の弥生後期の集落から鉄鏃などが大量に出土しています(川越哲志「弥生時代鉄器総攬」電子印刷2000,pp.91-97)。吉備の児島辺りは早くから製塩が行われており、瀬戸内海航路で九州と近畿を結ぶ中間に位置し、潮待ちのために人々が集まる場所ですので、奴国を再興するために在地の豪族から支配権を手に入れました。その話が桃太郎の鬼退治の元ネタと言われる吉備津彦の話になりました(【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?)。

後期後葉(二世紀初頭)に起こった奴国のクーデター以後、従来の対外交易に使われていた伊都国・壱岐・対馬から楽浪郡への対外交易ルートを師升王が抑えてしまったので、久々遅彦は不弥国(うみこく、宗像市から新宮町の沿岸部)から沖ノ島経由で半島南部の鉄素材を入手し、鉄製品の農耕具・漁具や鉄製武器を製造しました。九州以東の列島各地の首長は、鉄製品を入手するために出雲・丹波王久々遅彦との血縁などのコネが必要となりました。これによって各地の部族内での首長の権力も拡大し、首長の資質の父子相伝が行われ、血統による支配構造が確立されたものと考えられます。

それにより部族内の祭祀も首長の祖霊が特別な地位を持つようになり、首長霊祭祀が部族の中心的な儀礼となります。首長の権力の大きさを誇示するために大型の墳墓が全国的に出現するようになり、古墳時代を迎えたのだと考えられます。最初に日本海沿岸に発生した大型四隅突出型墳墓丹後地方などの方形貼石墓がその後の古墳の原形となりました。三世紀初頭に大型方墳に祭祀用と思われる張り出し部を取り付けた前方後方墳が近江から東海、そして河内平野に造成されるようになり、近畿地方、関東地方へも普及するようになりました。祭祀儀礼を同じくすることにより、首長の系列化が進んだと思われます。

時代を元に戻して、弥生後期後葉の出雲地方に見られる大型四隅突出墓「西谷3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混入していた」wiki「四隅突出墓」にあり、吉備などとの繋がりを示しています。山陰東部と北陸や内陸部の福島辺りまでがムナカタ海人族を率いるスサノヲ大王を祖とする久々遅彦の支配域と考えられます。



後期後葉の同じ時期の吉備では直径約43メートル、高さ4、5メートルの円墳に方形通路のような突出部を双方に取り付けた全長72メートルの楯築王墓が造られています。木棺の底に厚く朱が敷かれ、鉄剣と大量のガラス小玉、土製の勾玉などの副葬品や円筒型特殊器台などで飾られ、墳丘頂部には5個の巨石が立っており、墳丘斜面には円礫帯がめぐらせてあります。吉備で勢力を蓄えてヤマト王権の基礎を作ったニギハヤヒ大王の墳墓だと考えられます。

墳丘に建てられた楯築神社の御神体の弧帯文様が彫られた亀石が中国神話の天皇伏羲と同じ人面蛇体なのです。纏向遺跡で出土する弧文円板や円筒型特殊器台と葬送儀礼が共通しますから、ヤマト王権のシンボルである前方後円墳の起源が楯築王墓と考えられます(【検証2】前方後円墳のルーツ?)。

(注1)Wiki「上棟式」によれば、「祭神は屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)、屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)、手置帆負命(たおきほおいのみこと)、彦狭知命(ひこさしりのみこと)および当地の産土神である。」とあります。屋船豊宇気姫命は豊受大神であり、女王台与のことです。手置帆負命は「古代の建築技術者、また笠・矛の製作専門技術者。」、彦狭知命も「古代の建築技術者、また盾の製作専門技術者。」ですから、専門技術者集団を率いる大国主久久遅彦を指すとも考えられます。「屋船」は宮殿を意味する古語です。上棟式は、大国主と台与が宇佐市安心院町佐田で国造りに先立ち宮殿を造る時に神へ成功を祈願した故事に由来するものでしょう(大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?)。

(注2)蘇羅比古神社(そらひこじんじゃ)の御祭神は、天津日高日子穗穗手見命と神倭伊波禮毘古命。品陀和気尊・倭健命・大倭根子日子賦斗邇命・志那都比古神・志那都比賣神・宇迦之御魂神・大山祇神・手力男神・須佐之男神・奧津比古神・奧津比女神・大国主神・陣具大神を配祀する。神社と古事記 より)

奧津比古神は山神社の祭神ですから、大山祇神のこと。大山祇も大山咋も正体は大国主でしたでみたとおり、奧津比古神は大国主の分身です。ですからペアの奧津比女神は、稲荷神社の祭神宇迦之御魂神の正体の台与ということです。

志那都比古神・志那都比賣神もペアですから大国主と台与のことだと思います。『古事記』において、イザナギとイザナミによる国産み、島産みが終わった後、神産みの十番目に生まれた風の神。神名の「シナ」は「息が長い」という意味。風は神の息から起きると考えれら、風は稲作に欠かせないものであるが、台風などの暴風は人に大きな被害をもたらす。そのため、各地で暴風を鎮めるために風の神が祀られるようになった。「神社と古事記 シナツヒコ」にありました。息長氏は台与の実家です。縄文海人ムナカタ族の一族ですよ。


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日本の歴史の始まりはこうだ(その3)

2020-09-23 02:23:51 | 古代史
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日本列島の水田稲作はすでに述べたように紀元前十世紀後半に北部九州で始まり、前九世紀ごろには環濠集落が見られます。集落に有力者が出現するようになるのが、一般の人と区別して墓に葬られるようになることから分かります。理由はよくわかりませんが、武器で殺傷された人の墓が見られることから抗争もすでにこの頃から始まった模様です(藤尾慎一郎「弥生時代の歴史」講談社現代新書2015,pp.66ー71)。

前八世紀後半になってようやく西部瀬戸内、山陰西部や鳥取平野、河内平野、徳島平野、伊勢湾岸地域などにも水田が見られるようになり弥生前期後葉(前六世紀頃)までに各地で水田・畑作農耕が広がっていきます(藤尾、pp.72-80)。江南にルーツを持つ水田稲作民で海洋民族でもある安曇族が遠賀川式土器を持って各地に広がり、徐々に在地の縄文系の人々も彼らと交流し水田稲作を始め、遠賀川系の土器を作るようになったと考えています。下の図は安曇族ゆかりの地をプロットしたものですが、この他に四国や中国西部などにも安曇族が進出していることはナーガ(龍蛇)神に因む地名(那珂、那賀など)によって分かります(日本は古の倭の奴国だ古代日本は海人国家だった)。



すでに縄文時代から玄界灘・日本海沿岸部を拠点とするムナカタ海人族が列島太平洋沿岸や沖縄・南西諸島や半島南部などとの物流を担っていた模様で、紀元前十一世紀頃から江南出身の呉(倭)人や越人とも半島南部で交流はあったようです。

後漢から金印を貰った奴国は列島内の産品の対外交易を管理する必要からムナカタ海人族の部族長一族と婚姻関係を結ぶことにしました。第十七代奴国大王の伊弉諾尊と縄文系ムナカタ海人の姫伊弉冉尊との婚姻によって両者の文化の融合が急速に進み、日本民族が本格的に形成され始めたのだと思います。日本の始まりとなるこの事件は国生み神話として記憶されたのだと思います。

恐らく、それまでの奴国の大王は北部九州に留まって、主に部下のアズミ族が列島各地の資源(木材、朱や塩など)を求めて図のように日本各地に集落を作って、その土地の産物を奴国の交易センターに運んでいたのでしょう。伊弉諾尊はムナカタ族やアズミ族の案内で、自ら積極的に壱岐や瀬戸内海や日本海沿岸を視察し、各地の開発を命じたのではないでしょうか。

そして伊弉諾尊と伊弉冉尊から生まれたスサノヲ大王は母方のムナカタ族と共にしきりに半島南部に渡り、製鉄冶金工房で板状鉄製品を素材として入手して、列島内の適所に鍛冶工房を整備したと考えられます(新羅の脱解王が奴国大王?)。

弥生後期前葉に(一世紀末ころ)急に大型化した銅鐸(IV式:突線紐式)が近畿地方で広がりました。それまでの銅鐸の利用法は、木の枝に吊るし、銅鐸内部に木などで作った舌を紐で引っ張って音を出して「聞く」目的でした。鳥栖市の安永田遺跡からも銅矛の鋳型と共に銅鐸の鋳型が見つかっていますので、奴国の祭祀で使用していたものと考えられます。恐らく徐福に同行した冶金工人によるものでしょう。

ところが、スサノヲ大王の時代になって、この小型の「聞く銅鐸」から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的の「見る銅鐸」へと変化したということです。農耕・稲作祭祀における穀霊信仰にどういう変化が生じたのかは定かではないですが、この頃に近畿で祭祀様式に急激な変化が起こっているということです。


滋賀県野洲市小篠原字大岩山出土_突線紐V式銅鐸


スサノヲについては記紀神話でかなり多く語られています。縄文系の風貌をして、乱暴者で、母イザナミの死を嘆き、イザナギから見放される泣き虫のキャラクターが定着しているようです。しかし女神アマテラスは創作ですので、高天原を追放される話は奴国の人々に乱暴を働らいたのでスサノヲの身に何らかの異変があったことを示唆しています。

スサノヲが伝統的な奴国王家の祭祀に縄文系の「見る銅鐸」を持ち込み宗教改革をしようとしたのではないでしょうか。宮中の祭祀を取り仕切る司祭師升らの、見た目もとても奴国大王とは思えないスサノヲへの反発から、クーデター事件が起こったと考えられます(倭王帥升(すいしょう)は何者だ?)。師升らはスサノヲが留守の間に仲間たちと打ち合わせて、いつもの旅行から宮殿に帰還した警戒心の全くないスサノヲ大王を捕らえたのでしょう。

師升は奴国王の金印が手に入ればそのまま倭国王として振る舞えると考えたのでしょう。金印の在りかをスサノヲに白状させようと、髪をむしり、手や足の指の爪を剥がす拷問をした模様です。拷問して財産を没収した様子が記紀に描かれています。スサノヲも金印の在りかが分からないので、師升はスサノヲを殺してしまったようです。

恐らくスサノヲの側近のアヅミ族のひとりが、スサノヲが捕まったことを知り、素早く金印を王宮の保管場所から持ち出して、奴国を逃亡する途中で志賀島に埋めたものが江戸時代になって発見されたのでしょう。イタケル王子やスサノヲの弟ニギハヤヒもムナカタ族の手引きで素早く丸木舟で脱出したようです。二人はこの後の物語に登場する重要人物です。

結局、師升は金印を手に入れることが出来なかったのでしょう。後漢から倭国王として認めてもらうために、捕らえた奴国王族や部下を160人、素潜りなどの特技のある奴隷ということにして、大船団を組んで後漢安帝に献上するために洛陽まで朝貢しましたから大変な苦労でした。107年のことです。これによって、約五百年間続いた由緒ある奴国王の支配する倭国から、新たに師升王が支配する倭国の時代に変わりました。

このクーデターは日本の歴史上かなり重要な事件ととらえることが出来ます。約一万四千年前に揚子江下流域で発生した長江文明の流れを汲む奴国王イザナギと、約一万六千年前に日本列島で起こったと言われる縄文文明の流れを汲むイザナミ姫が結婚して、前述のとおり二人の間に生まれたスサノヲが奴国王となったのですが、宗教改革を行おうとしたために事件が起こったのだと考えられます。それによって二つの文明が衝突して新しい日本文明が生まれたということです。その結果、列島内部に相当大きな軋轢が生じ、二つの異なる民族がひとつになるためにおよそ百年間の日本で最初の戦乱の時代が訪れることになります。この時代の記憶が日本民族の心の大きな傷として残され、はるか先の二十一世紀の現代にも少なからず影響しているようです。争いのない世界だった縄文時代のままでいた方が日本人は幸せだったでしょう。日本は近代化し物質的には豊かになったかも知れませんが、日本が進化したとか、進歩したなどと胸を張ることはとてもできないような気がしますね(;一_一)。


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日本の歴史の始まりはこうだ(その2)

2020-09-20 10:34:32 | 古代史
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ここで、弥生時代を特徴づける古代の鉄については、幅広く相当深い情報がありますのでとても十分にまとめきれませんが、重要だと思う点についてまとめてみましょう。専門用語が出てくるので難しく感じるかもしれませんが、古代史の解明で特に大事なポイントですので、どうぞ最後までお付き合いください(^◇^)


弥生中期初頭「前4世紀前葉に可鍛鋳鉄系の鉄器が現れても200年ほどはノミ、刀子(とうす)などの小鉄器がほとんどで、その用途も木製品の細部加工に用いられるのが主で、開墾や大量の木材の加工に鉄器が用いられたわけではない。石器が主で鉄器が保管する関係が200年ほど続いたものと考えられる。
 なお、前3世紀(中期前半)になると北部九州に軟鉄系の鍛造鉄器が現れ始める。鉄器が本格的に使われるようになるのは九州北部でも前2世紀以降(中期後半)からである。まず武器では剣が鉄器化したことが、殺傷人骨の残された傷の痕からわかる。鉄の先端が骨にあたっても石剣や青銅剣のように切先が折れずに骨をえぐることができるため、殺傷能力が増したと思われる。」
とあります(藤尾慎一郎「弥生時代って、どんな時代だったのか?」朝倉書店2017、pp.84-85)。

更に、弥生中期に現れた奴国の大都市比恵・那珂遺跡では鉄製品が大量に見つかっており、「特に開墾用の鉄製鍬先の装着率が100%をほこり、これぞまさしく生産力を可能とした直接の証拠とされる鉄器(打鍬、鉄刃農具と呼ばれている)である。」とあり、前述のとおり北部九州では中期末に穂摘鎌を除いてすべて鉄器化するとあります(【検証9】奴国時代の話(その2))。

この時期から北部九州で板状鉄製品が見られますが、すでに述べたように半島南部からのものです。「朝鮮半島南部では前4世紀中頃から九州北部の弥生土器が出土するようになり、中には鍛冶遺構で見つかる場合もある。」とあり(藤尾p.68)、西日本で鉄器が現れる時期と一致しており、倭人が半島南部に渡って入手していたことを示しています。また前3~前2世紀(弥生中期中葉~末葉)には半島南部慶尚南道の勒島遺跡で高温鍛冶作業が行われ、鉄器の素材となる板状鉄製品を作られていたとあり、高温炉での精錬工程が存在した可能性もあると指摘されています。

北部九州では弥生中期末葉に竪穴遺構を工房とした鉄器生産が開始されており、さらにこの頃「誕生する鍛冶工人は、三韓人による直接技術指導を受けたとしても、その内容をそのまま厳密に維持することはできず、みずからの趣向を反映させた、いわば弥生的な鍛冶技術を生み出したこととなる。」と指摘されています(村上恭通「古代国家成立過程と鉄器生産」青木書店2007,p.291)。しかし鉄戈に関しては、半島南部から招いた鍛冶工人によって長さ50cmほどの長いものまで後期初頭まで生産していたとあり、「鉄戈消滅の時期を境に、大陸からの生産技術の影響がなくなり、その後の北部九州は自力での維持ないしは変容を見せるしかなかった」と指摘されています(村上p.292)。

中期末葉ではまた、日本海沿岸部や瀬戸内海沿岸部などへ技術伝搬が起こり始めます(村上、p.293)。「ただし、日本海沿岸の人々が直接大陸におもむいたというのではなく、その交渉の舞台は北部九州にあったのだろう」と他の研究者の論文を引用しています(村上p.293)。しかし、日本海沿岸の縄文海人は日本列島周囲を活動範囲としており、勒島でも活動した形跡が見られるます(【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?)。縄文海人ムナカタ族が丹後半島の拠点集落(奈具岡遺跡)などへ鉄素材を運び、奴国の人々が鍛冶工房を営んだと考えられます(新羅の脱解王が奴国大王?)。松山平野や徳島平野などでも拠点集落では鉄器の保有量は豊富とあります(村上、p.294)。江南をルーツとする北部九州の海人アズミ族が朱を求めて立ち寄り、集落を営んだと考えられます。瀬戸内航路だけでなく四国の太平洋側の高知への航路も集落も、鉄器と共に中期後葉に見られる青銅祭器(中広形銅矛・中細形細剣)が出土していることからアズミ族が作ったと考えられます。

また中期末葉以降、日本海沿岸部を除く近畿以東の地方などでも出土するようになりますが、「鏨切り製鉄鏃、板状鉄斧、鉇(やりがんな)、鑿など扁平な製品が卓越し、それに鋳造鉄斧や重厚な板状鉄斧のような舶載鉄器が稀に加わる。また、農具の鉄器化は見られない」とあります(村上、p.97)。

弥生後期になると全国に普及していきますが、北部九州・中九州・東九州で出土する量が最も多く、次いで中国地方や北陸です。その他の地域と比べると圧倒的に多く、ヤマト王権の起こった奈良県ではほとんど見られませんので、土中で腐食してなくなったという「見えざる鉄」という説もあります。しかし、後でまた述べますが、ヤマト勢が鉄の流通を制限していた「北部九州から鉄の覇権を奪い取り、日本国家形成へと進んでいったとのシナリオが最近では 広く語られるようになってきた。」とあり(和鉄の道2011 1.「幻の鉄器の時代 鉄器は出土しないが、急速な鉄器化」との考えに疑問符)、本格的な鉄の普及は古墳時代に入ってからだというのが正しいと思います。

後漢末期(弥生後期後葉、二世紀後半)において「三国志 魏書東夷伝弁辰条」に「国は鉄を出(い)だし、韓・濊・倭皆従いて之を取る。諸(もろもろ)の市買(しばい)には皆鉄を用い、中国の銭を用いるが如(ごと)くして、又以って二郡(楽浪・帯方郡)に供給す」とあります(藤堂明保等「倭国伝」講談社学術文庫2010,p.85)。

「半島南部へ渡った倭人の積極的な鉄製品の入手活動があって、開放的であった弁辰側のマーケットの存在を示唆しているが、弁辰側が惜しみなく鉄を与えたわけでない。そして技術に対しては製鉄、精錬、鋳造、鍛造のいずれをとっても厳しく管理されていた。」とあります(村上p.293)。北部九州での弥生時代の鉄戈を除く鉄製品は、始まりのタイミングを考えると主として前210年頃来日した徐福に同行した青銅器の冶金技術者が、その後は主としてその弟子たちが鍛冶技術を継承して生産したと考えられます。

弥生後期の段階では専門技術者から教えられた一般の人々が鍛冶工房で働きだすと思われていますが、後で述べる倭国大乱期における熊本県北部の方保田東遺跡、西弥護免遺跡などの鉄鏃(鉄製の矢尻)を生産する遺跡は軍事拠点と考えられます(【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚))。下図に示す淡路島の五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)でも矢尻が多数出土していますので、生産者は兵士ではないでしょうか?



【参考記事】
鉄と鋼
弥生時代鍛冶工房に関する基礎論


次は日本民族が誕生するきっかけとなった国生み神話になります。
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2020-09-18 18:06:22 | 古代史
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2019-02-05 12:23:00 に掲載した記事「日本建国の真相はこれだ!」を充実させて改訂します。歴史とは文字で残された史料に基づき書かれるものです。「宋史 王年代紀」に奴国歴代王名が記されていましたが、従来、それが全く無視されて神代の話として日本の歴史のはじまりがハッキリしませんでした。残念ながら即位の順のみが書かれているだけですので、ほぼ均等に年代を割り当てましたから年代は目安でしかありませんが、漠然とした神代の話ではない実在人物の話であることが重要だと思います。疑問点がございましたらコメントを頂けると幸いです。ヤマト王権が成立する日本建国まで数回に分けて掲載する予定です。最後までどうぞよろしくお願いします。(*^^)v


紀元前十一世紀頃、朝鮮半島南部において江南の呉の人々が水田稲作を始めました(半島の古代史だ!(漢四郡まで)。日本列島は少し遅れて紀元前十世紀後半ころ、唐津市菜畑遺跡や福岡市板付遺跡などで水田稲作が行われるようになり弥生時代が始まりました。大陸系の石包丁や灌漑施設が見られるようになります。水田稲作をもたらしたこの時代の人々をシナ人(Y染色体DNAハプロタイプO2旧O3)は倭人(殷(商)人系O1b2旧O2bから派生したO-47z)と呼びましたが、すでに日本列島でおよそ一万五千年前から始まった日本固有の文明を作った縄文系の人々(D1a2旧D1b:D-M55等) と徐々に混血して日本(大和)民族が形成されるようになります(半島人はシナに任せろ!)。

この頃日本で最古の鉄が福岡県二丈町曲り田遺跡で見つかっています。 日本列島でこれまで確認されている製鉄遺跡は六世紀後半ですので、それ以前の鉄はすべて外来のものだとあります(藤尾慎一郎「AMS-炭 素14年代測定法が明らかにした日本の鉄の歴史」鉄と鋼Tetsu-to-HaganeVol. 91 (2005) No. 1、しかし、すでに「大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?」で見たとおり、少量ですが褐鉄鉱(リモナイト)から鉄器を作った可能性もあります)。「弥生早期から前期までの間に属すると報 告されている鉄器はわずか30数点に過ぎない 。九州北部の遺跡から実際に大量の鉄器が見つかるようになるのは前期末~中期初頭になってからである。」とあり、したがって本格的な鉄器の普及は前期末~中期初頭つまり紀元前400~350年ごろだと同論文に述べられています。

紀元前473年に滅んだ春秋の呉の王族の一部が半島南部に逃亡し、倭人に助けられて生活していた模様です。おそらく、紀元前四世紀初頭(弥生中期初頭)に東アジアの寒冷化が厳しくなったことで、呉王族は一部の倭人を伴い南下し、福岡市早良平野の吉武高木遺跡に移住したようです。

「日本書紀」・「古事記」に登場する高天原の最初の神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)です。「新唐書」・「宋史」の王年代紀によれば、倭国の初代王は天御中主です。天(あめ)は倭王の姓です。江南の呉の人々は稲作と漁労の海洋民族ですので、「海(あま)」を意味します。これは後のヤマトの大王(おおきみ)の姓と同じです(注1)。御中主はナーガ(龍蛇神)を信奉する海洋民の主人(あるじ)の意味ですから奴国(ナーガ)国王と言う意味です。那珂、那賀などという地名も同じものです。

これらの歴史書には日本は古(いにしえ)の倭の奴国だと書かれています。第二十三代目の奴国王彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)まで代々「尊(みこと)」の号を持ち筑紫日向宮を都として筑紫城に住んだとあります。彦瀲尊の第四子が神武天皇と号し、大和州橿原宮に居すとありますから、ヤマトの大王(天皇)はもとは奴国王だということでした(注2)。吉武高木遺跡の日本最古の王墓から三種の神器も出土しています。満州から朝鮮半島、遼寧地方にかけて出土している遼寧式銅剣やその他の武器型青銅器(矛・剣・戈)が半島南部を経由して北部九州に運ばれるようになります。天御中主が殷や周で行われた祭祀を行うようになったためです。


吉武高木遺跡「最古の王墓」3号木棺墓の副葬品(やよいの風公園より)


紀元前三世紀(弥生中期中頃)に福岡平野に勢力を伸ばして須玖岡本遺跡に王宮を遷し、比恵・那珂遺跡群に都市を建設しました。第四代天彌聞尊(あめのににぎのみこと)の時代のことでしょう。倭の海人(安曇族)や縄文海人(ムナカタ族)らが列島各地の産品を持ち寄り交易をおこないました。糸島市に奴国王の一族の有力者を伊都国王として配置し、今宿五郎江・大塚遺跡に華僑との 対外交易センターを置いて、交易を管理することによって倭国は隆盛になりました(【検証9】奴国時代の話(その2)

前210年頃には(弥生中期後葉)、徐福を招き、徐福に同行した冶金技術者を須玖遺跡群に集めて青銅器の官営工場を造り、青銅器文化を発展させ、列島に拡大させていきました。同行した楽師を王宮に呼び寄せて「聞く銅鐸」を用いて祭祀を整えた模様です。第七代萬魂尊(よろずむすひのみこと)から第九代國狭槌尊(くにさづちのみこと)の時代でしょう。柳田康雄「沖ノ島出土銅矛と青銅器祭祀」によると、祭祀に使う銅矛は最も神聖なものとして管理された模様で、奴国王から北部九州の奴国王族などに配布されています。細剣や銅戈は山陰や近畿地方などの縄文系部族の首長層に威信財として配られた模様です。この頃が奴国の全盛期だったことが須玖岡本遺跡D地点の巨石下甕棺墓に葬られた奴国大王の豪華な副葬品からも分かります。「日本書紀」「古事記」に神代七代の最初の神として現れる第十三代国常立尊(くにのとこたちのみこと)の時代でしょう。

紀元後(中期末)になると、北部九州では穂摘具を除いて石器から鉄器に変わります。しかし、近畿地方に鉄器が普及するのはまだ先で、二世紀頃(後期後半)のようです(藤尾慎一郎「弥生時代って、どんな時代だったのか?」朝倉書店2017、p.59)。

西暦57年(後期前葉)には華僑の権益保護を奴国王に依頼するために後漢光武帝が「漢委奴国王」の金印を奴国王に与えました。第十六代沫名杵尊(あわなぎのみこと)の時代でしょう。恐らく、伊都国の対外交易センターで華僑が入手したい物品を倭人に依頼し、倭人は列島内の産品を比恵・那珂遺跡の交易センターまで行って目的の物品を入手していたのだと考えられます。華僑を直接交易センターまで行かせなかったのは防疫が目的だったようです。現代の日本よりも古代の方が国民を護る気持ちが強かったようですよ(´・ω・`)。華僑が倭人に渡した前金を持ち逃げされないように、奴国王が対外交易に責任を持つシステムだったようです(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社1994、pp.106-108)比恵・那珂遺跡群には列島各地から多くの人々が集まり、当時日本で一番進んだ大都市が形成された模様です。

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆神話は藤原不比等が創作したのですよ( ^)o(^ )

(注1)Wiki「大王 (ヤマト王権)」によれば、倭の五王「武」に比定されるワカタケル王(雄略天皇)については、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣銘に「獲加多支鹵大王」とあり、また熊本県の 江田船山古墳から出土した鉄刀の銘文には「治天下獲□□□鹵大王」とあることから、国内において治天下大王の称号を名乗っていたと推測され、この頃(5世紀後期)には治天下大王の称号が生まれたことを示唆している。とあります。さらに、「その他、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に記述されている開皇20年(600年)第1回遣隋使の上奏文に「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、俀王多利思北孤の号 「阿輩雞彌」(アハケミ)が「おおきみ」を表すと考えられている。大業3年(607年)第2回遣隋使の上表文(国書)には、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とあり、対外的には「天子」の称号が使われている。しかし、国内においては「大王」(おおきみ)、「治天下大王」(あめのしたしろしめすおおきみ)号が使用されていたと考えられる。」とあります。七世紀後半の天武朝ごろから中央集権国家の君主として「天皇」が用いられるようになった[9]Wiki「天皇」にあり、天(あめ)という姓が使われなくなったようです。

(注2)「日本書紀」に合せて、第十九代天照大神尊(あまてらすおおみかみのみこと)から第二十三代彦瀲尊までの王名と神武天皇以降の天皇名が書かれていますが、実際は第十五代応神天皇が初代天皇(祭祀王)で、天照大神尊以降応神天皇までは架空の王または天皇だということが分かりました。詳しくは、順に述べていきます。

王年代記に記された二十三世の王(神)
1.天御中主(あめのみなかぬし)
2.天村雲尊(あめのむらくものみこと)
3.天八重雲尊(あめのやえくものみこと)
4.天弥聞尊(あめのににぎのみこと)
5.天忍勝尊(あめのおしかつのみこと)
6.瞻波尊(みなみのみこと)
7.萬魂尊(よろずむすひのみこと)
8.利利魂尊(ととむすひのみこと)
9.國狭槌尊(くにさづちのみこと)
10.角龔魂尊(つのそむすひのみこと)
11.汲津丹尊(くみつにのみこと)
12.面垂見尊(おもだるみのみこと)
13.國常立尊(くにとこたちのみこと)
14.天鑑尊(あめのかがみのみこと)
15.天萬尊(あめのよろずのみこと)
16.沫名杵尊(あわなぎのみこと)
17.伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
18.素戔烏尊(すさのおのみこと)
19.天照大神尊 (あまてらすおおみかみのみこと)
20.正哉吾勝速日天押穂耳尊(まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)
21.天彦尊(あまつひこのみこと)
22.炎尊(ほむらのみこと)
23.彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)

(日本書紀が伝える「筑豊百余国の王たち」【連載 新説・日本書紀②】より)


次回に続きます。
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大山祇も大山咋も正体は大国主でした(*^▽^*)

2020-09-16 00:00:04 | 古代史
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大山祇命(オオヤマツミ)は、「日本書紀」ではイザナミがカグツチを生んで死んだので怒ったイザナギに斬られたときに生まれた神ということです。ニニギの天孫降臨の後、オオヤマツミの娘であるコノハナノサクヤヒメと出逢い嫁にしようとしたら、父オオヤマツミはコノハナノサクヤヒメの姉で容姿が醜いイワナガヒメとセットで片付けようとしたのですが、イワナガヒメだけを送り返されて、オオヤマツミは怒り、「イワナガヒメを添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と告げたという話があります(wiki「オオヤマツミ」より)。

大山祇命(オオヤマツミ)は、静岡県三島大社の御祭神です。

積羽八重事代主神[つみはやえことしろぬしのかみ]、
御二柱の神を総じて三嶋大明神[みしまだいみょうじん]と称しています。

大山祇命は山森農産の守護神、また事代主神は俗に恵比須様とも称され、
福徳の神として商・工・漁業者の厚い崇敬をうけます。


ということは、大山祇は大国主の長男事代主と同一神ということですが、
本当は怖い七福神の謎でも見たように、
事代主は大国主の分身と考えられますから大山祇も同様に大国主の分身ということなのですよ(#^.^#)

Wiki「オオヤマツミ」によれば、山神社も関係します。
全国に3075社ほど。大山祇神社(愛媛県今治市大三島)の分社や、その地方の山神を大山祇神として崇めた神社が含まれる。比較的小規模な神社が多く、ごく小規模な神社や境内社といった形で祀られる例が多い。地域的には、愛知県311社、静岡県257社、長野県204社、大分県191社、徳島県168社、福島県165社、山形県150社、兵庫県145社、岐阜県132社、山梨県131社などとなっている。

その他、全国で438社ほど(別の神を祀る神社を含む。2007年國學院大學発行『現代・神社の信仰分布』に拠る)が十二様としての大山祇神を祀る。新潟県や群馬県の中山間部を中心に存在する。小規模社が多い。とあり、さらに、大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)や梅宮大社(京都市右京区)、湯殿山神社(山形県鶴岡市)などでもオオヤマツミが主祭神ととされるそうですから、あからさまにしないようにして、本当はすべて大国主を祀っているということには驚かされます。

オオヤマツミと似た名前のオオヤマクイという神様は比叡山(日枝山)の日吉大社(滋賀県大津市)の祭神ですが、秦氏の松尾大社のご祭神としても有名です。日吉大社には後に大物主神が勧請されており、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼ぶ。山王は二神の総称である。大物主神は西本宮に、大山咋神は東本宮に祀られている。とあります。

能楽「翁」は大国主のサンバだった?で見たように
秦氏は武内宿禰=大国主を祖とする一族ですから、
オオヤマクイも大国主の分身だと分かります。


そして、『秦氏本系帳』に記載がある丹塗矢の神話によると、上賀茂神社(賀茂別雷神社)の賀茂別雷大神は松尾大社の祭神、すなわち、大山咋神とされるという[2]。wiki「大山咋神」にあります。

これで前回女性天皇は「記紀神話」の呪いだったで見た斎王制度伊勢神宮と賀茂神社だけにあることが納得できます。

伊勢斎宮・賀茂斎院の二つの斎王制度が両立していた間、都に近い斎院の方が遠い伊勢の斎宮よりも重んじられていたようで、歴代斎院は斎宮に比べて女王が少なく、また生母の出自も高い例が多い。とあり、

伊勢斎宮も賀茂斎院も未婚の皇女が大国主を祀る制度だったのです。

能楽が建国の真相を伝える?で謡曲「三輪」が暴露したように

伊勢神宮も賀茂神社もご祭神は大国主だったのですよ。

実在人物の大国主が真の太陽神として伊勢神宮内宮で祀られており、

外宮に豊受大神として台与が祀られているのです。

女神アマテラスは「日本書紀」で創作された架空の神だということなのですよ!(^◇^)



賀茂斎院跡 葵祭のルーツ 葵祭の斎王行列発祥の地


こうなるとほとんどの男性神が大国主の分身だと分かりますよ。

例えば事代主とも、アジスキタカヒコネとも言われる葛城山の一言主神すべて大国主をカモフラージュするための神だったのですよ(*^▽^*)

ヤマトに国譲りした大国主ほど祟りが怖ろしい神はいないのです。大国主と一緒に殺された台与も、ヤマト勢が押し寄せてくるタイミングで起こった日食のために殺された卑弥呼もヤマトを怨んで祟る神ですから、大国主と同様に様々な名前で鎮魂の祈祷を行っているのですよ(^_-)-☆



いくら八百万の神様がいると言っても、宮司さんには申し訳ないですが(;´Д`)

事績のよくわからない実在人物だったとも思えない神様たちを

日本全国各地で、何でそんなに丁寧に祀らなければならないのか

皆さん、不思議だったのではないでしょうか?

でも日本書紀のトリックが分かると謎が簡単に解けてしまうから面白い!( ^)o(^ )


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