刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

誤解と幻想の卑弥呼(*^▽^*)

2020-04-30 12:57:14 | 古代史
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「魏志倭人伝」に卑弥呼は以下のように書かれている。
「其の国、本亦(ま)た男子を以って王と為す。住(とどま)ること七、八十年、倭国乱れて、相攻伐すること年を歴たり。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為す。名付けて卑弥呼と日(い)う。鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。年、巳(すで)に長大なれど夫婿無し。男弟有りて国を佐け治む。王と為りて自り以来、見(まみ)ゆること有る者少なし。婢千人を以って自ら侍らしむ。唯男子一人のみ有りて飲食を給し、辞を伝えて出入りす。居処・宮室・楼観・城柵、厳(おごそ)かに設け、常に人有りて兵を持ちて守衛す。」(藤堂明保ら「倭国伝」講談社学術文庫2010、p.101)

これだけの文章からだけではないだろうが、卑弥呼のイメージは倭国の乱を収める調整能力のある人物とか、鬼道とは当時の大陸で広がりつつあった道教の一派「五斗米道(ごとべいどう)」の影響を受けたものであるとか、色々と推測されているが、卑弥呼とは本当はどういう人物なのだろうか。刮目天が今まで検証する中で固まっているイメージは、よく言われる権力を持った女王のイメージとは少しかけ離れた人物だ。

勿論、卑弥呼は本名ではないのは直ぐに分かるが、卑弥呼は「ひめこ」と読む?(*^。^*)で述べたように、(1)日御子(ひみこ)説 (2)姫児(ひめご)説 (3)姫の命説 と色々あり、刮目天は以下のように結論付けた。

だから卑弥呼の当初は宗像族の海事関係のお告げを聞く巫女の役割だったことから考えて「姫巫女(ひめみこ)」だったが、女王になったので「姫御子(ひめみこ)」となったのだろう。ただし、卑弥呼の発音は(2)の説のとおり「ひめこ」だろうね(^_-)-☆。

これはこれでいいかなと思うが、悲劇の女王台与のはなし(その3)で、女王台与も卑弥呼も祝女(はふりめ)の格好をして太陽神のお告げを聞く役割だろうと推理した。台与はたった十三歳で女王に立てられたが、卑弥呼はすでに年長大とあるので、恐らく三十歳近くだろうと考えている。どちらも鳥の羽を纏った恰好で踊りながら憑依して神のお告げを伝え、それによって台与の場合は大国主が、卑弥呼の場合は宮室に出入りするたった一人の男子を介して神託が伝えられた男弟(伊都国男王難升米)が政治を行う祭政一致の体制だ。だから吉野ヶ里遺跡や纏向遺跡のような大集落の一角に宮城を設けて、ほとんど人前には姿を見せず、沢山の兵士に守られた城柵の中で千人の侍女を侍らせて生活していたはずだと考えられていた。つまり邪馬台国はこのような大集落だというのが従来のイメージだった。

だが刮目天が突き止めた卑弥呼の居城は宇佐平野を流れる駅館川の東側の台地に拡がる大集落の中ではなく、川を遡って山間部に少し入った宇佐市安心院町の台地に造られた山城だった。当時から野麻(ヤマ)国と呼ばれていたらしい(宇佐市史上巻P.324によれば、和妙類聚抄の宇佐郡野麻郷が安心院町に比定されていた)。第一次倭国大乱の戦乱期に、敵に攻撃されやすい危険な不弥(うみ)国(糟屋郡新宮町から宗像大社あたりまでの海岸沿いの地区)から疎開し、女王になってからも伊都国や奴国の大都市に転居はしていないのだ。ヤマ国に台(女王)が居たとしたので邪馬台国という国名を難升米王が帯方郡太守劉夏と談合して決めたのだろう。邪馬台国はこの居城を中心として宇佐平野、日田・玖珠地区や大野川流域などの山間部から大分平野まで含むかなり広い領域だったと考えている。下は卑弥呼の居城の推定図だ。(2020.5.1 赤字修正)


A・C・D地区は居城の守備隊の兵士やらの住居と曲輪(くるわ)のある地区で、警護の兵士は、非番の時は湿田で稲作をしたり、川でスッポンや魚を獲って、卑弥呼に献上し、自らの食料を自給自足していたのだろう。水田の広さから考えて兵士とらの合計はおよそ二百名くらいではないだろうか。魏志倭人伝では侍女千人というが、卑弥呼が死んで殉死したが百余人なので千人というのは沢山という表現だったようだね(^_-)-☆

B地区は高台なので恐らく物見やぐらの楼観があった場所だろう。日食を卑弥呼もここで見たのかも知れない。日食が起こるのは不謹慎だったので卑弥呼自身も殺されるかもしれないと思ったのかな(;´Д`)まだ発掘されていないので想像でしかないが、多分太い柱の跡が見つかるだろう。

E地区には卑弥呼の宮室(祭祀場)跡に建てられた三女(さんみょう)神社がある。その西側に幅約2.5m、深さ1mのV字溝が見つかっており、城柵があったところだ。溝の中で銅鏃が見つかっているからヤマト勢のものだろう。恐らくそのすぐ東側に卑弥呼の居処があり、神社の東側は卑弥呼の世話をする侍女たちの住居だ。その地区は宮ノ原遺跡として発掘調査されているが、他の地区はほとんど未発掘だ(本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^))。

F地区は河原の露天風呂「卑弥呼の湯」だ。東西二か所にあり、男湯・女湯が分かれて日替わりではないだろう(*^▽^*)間は群生している葦で仕切られている。宮室に近い方が毎晩卑弥呼が入浴する女湯だ。西側は隊長や兵士たちの入る男湯だろうね。

卑弥呼は毎晩入浴後に、スッポン料理や山海の珍味を肴にして濁り酒を飲んで快適な生活を送っていたと思う。土製のおちょこが見つかっている。九十歳近くまで生きたはずだ。後の時代に同名の神社が男湯のあった場所に造られるが、その北側450mの位置に造られた径百余歩(直径150m)の卑弥呼の墓を遥拝する位置だ(卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^))。ここの地名がなんと日食に因む「ヒカケ」の名前で残っていた。事件を知る後の人が付けた地名だ。これによって卑弥呼が伊都国の倭王の命令で、卑弥呼の世話役の男に殺された場所だと推理できた。


卑弥呼と男弟のような祭政一致政治体制は、それまで倭国には無かった体制だと考えているが、これが発展した形で琉球王国で行われていたのではないかと考えている。Wikiによれば、15世紀の第二尚氏時代の琉球神道における最高神女(ノロ)が聞得大君(きこえおおぎみ、きこえのおおきみ、チフィジン)と呼ばれる。聞得大君は琉球王国最高位の権力者である国王のおなり神に位置づけられ、国王と王国全土を霊的に守護するものとされた。そのため、主に王族の女性が任命されている。おなり神の「ヲナリ」とは沖縄方言で姉妹(ウナイ)を意味し、同胞の姉妹は、その兄弟(ヰキガ)の守護神であると信じられている。卑弥呼は男弟の守護神のような関係だとすれば卑弥呼は聞得大君の原初的な形とも考えられる。

ノロ(祝女)は沖縄県と鹿児島県奄美群島の琉球の信仰における女性の祭司。神官。巫(かんなぎ)であり、地域の祭祀を取りしきり、御嶽(ウタキ)を管理する。ヌール・ヌルとも発音される。

Wiki「御嶽 (沖縄)」によると、琉球の信仰における聖域に造られた「御嶽(うたき)」、「腰当森(くさてぃむい)」、「拝み山」などと呼ばれる祭祀用の施設だ。琉球の神話の神が存在、あるいは来訪する場所であり、また祖先神を祀る場でもある。日本本土に見られる神社の原初的形態である神籬(ひもろぎ、臨時に神を迎えるための依り代)の形式を伝えるものとWiki「琉球神道#信仰の由来」にある。

琉球の神は主に「来訪神」と「守護神」に分類でき、守護神や来訪神のいる異界・他界に豊穣を祈り、特に太陽神を最高神として崇める多神信仰である。とある。

ノロは琉球王国による宗教支配の手段として、沖縄本島の信仰を元に整備されて王国各地に配置されたとあり、卑弥呼は人前には出ないことから、このように組織化された司祭とは言えないだろう。

だからこの琉球神道と呼ばれるものの原形を見ていくと、卑弥呼の時代の祭祀が分かると考えられる。

【検証3】『神宿る島』宗像・沖ノ島の謎で見たように卑弥呼は後に宗像三女神とされたが、半島東海岸で見られる豊漁や安全を祈願する海娘神が原形であろうと考えた。半島東部の三捗市の海娘堂公園では男根を象った巨大な石棒が多数置かれている。ここに残る伝承は後でコリアンによって作られたものであると思われるが、石棒は三女神社に置かれた三柱石と同じもので、日本の各地で見られる縄文時代の祭祀・呪具とも同じものであることからもムナカタ海人族は縄文系だと考えている(【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`))。半島の内陸部にも見られることから、縄文人がかなり古くから半島に入っていたようだ。

琉球神道に戻るが、ユタは、沖縄県と鹿児島県奄美群島の民間霊媒師(シャーマン)であり、霊的問題のアドバイス、解決を生業とする。や村落の個々の家や家族に関する運勢(ウンチ)、吉凶の判断(ハンジ)、禍厄の除災(ハレー)、病気の平癒祈願(ウグヮン)など私的な呪術信仰的領域に関与している。とWikiにあり、外部の精霊がその肉体に憑依する民間の巫女・シャーマンだ。東北地方のイタコのように死霊の憑依を受けてトランスに入り、第一人称でその託宣を述べるので一般に口寄せ巫女と言われる。卑弥呼に憑依するのが死霊ではなく太陽神ではあるが神託を口頭で告げるので「ユタ」の方が卑弥呼の宗教行為に近いと思われる。

ユタは入巫や成巫の過程で創出した特殊な神を奉じ、それが生涯にわたる守護神として信仰の対象となるとある。太陽神を祀る卑弥呼は、魏から青銅鏡を百枚入手したが、鏡によって太陽光を浴びてトランス状態になるのではないだろうか。鏡の背面には道教の思想の図柄が描かれているので、従来、道教の影響を強く受けていると思われてきたようだが、縄文時代から行われた太陽神信仰なので、太陽光を反射させ顔に当てさせ、背面の図柄を浮かび上がらせる神秘的な魔鏡効果の方が重要だったのではないだろうか?

勿論、鏡の用途としては奴国の時代から対外交易で入手したものを倭王が各地の首長たちに、倭王の支配下であることを確認するために配布し、更に首長たちは割った鏡に穴を開けて首飾りのペンダントを作り、部下たちに配布したと考えている。卑弥呼の鏡は女王台与が受け継ぎ、平原王墓に副葬された40面(直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡5面、方格規矩鏡32面など)かも知れない。これらの種類は後漢代に盛行し、中国各地で出土するものだ。三角縁神獣鏡は卑弥呼の後の時代の国産の鏡だと考えている。

沖縄の男性のY染色体DNAは55.6%が縄文系(D-M55)だと知られている(Wiki「日本人」Hammer et al. 2006)。琉球神道の原型は卑弥呼が属するムナカタ族のような縄文海人がもたらしたものではないだろうか。弥生時代にも奄美以南の暖かい海に生息するゴホウラやイモガイと呼ばれる貝で作った貝輪が北部九州などで交易されていた模様で、縄文海人族が運んでいたのだろう。

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆



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誤解と幻想の邪馬台国(´・ω・`)

2020-04-26 13:11:54 | 古代史
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多くの研究者が二百年以上かかっても、この二十一世紀の現在まで決着しないのは何故なのか?
数学者の藤井滋さんは「『魏志』倭人伝の科学」の最初に以下のような指摘をした。
「邪馬台国論者が共通の基盤をもって論争すべきであると提案したのは古田武彦氏であるといってもよいかもしれない。古田氏は『魏志』倭人伝の恣意的な語句の修正を禁じて、正当な理由がない限り、『魏志』倭人伝の記載内容がすべて正しいと考えることにしようと提案した。いまだにこの古田提案の真の意味が正しく理解されていないように思えるのは残念なことである。」
として、藤井さんはこの論争を打開する解決法を提案している。
「それは考古学や文献学以外の新しい科学を導入することである。・・・・本小文は数学の立場、数学者の目で『魏志』倭人伝を眺めてみた結果である。」
として、まず魏志倭人伝に現れる数字の解釈に関する指摘だ。概数の概念として余里の表現や「ゼロ」の概念がない三世紀の倭人や陳寿の千里の考え方を述べた後に帯方郡から邪馬台国までの万二千余里の解明を行ったのが図1だ。つまり、万二千余里は千里の単位を12個並べた距離であり、郡から末盧国まで一万余里だから、残り二千余里(千里以下の距離は誤差の範囲だから赤字で示した千五百里から二千五百里)の末盧国を中心とする同心円群の中に邪馬台国があるというのは、一里が何キロだとか、水行・陸行がどういうものかに無関係に得られる結論だとしている。



さらに、「このように簡単な邪馬台国の比定がなぜ迷路に入ってしまったのかは明白である。それは意中の邪馬台国を先ず決めたのちに魏志倭人伝を解釈しようとするためである。たとえば畿内論者は大和が邪馬台国であるという結論に到達するように、魏志倭人伝の記事を改ざんすることのみに腐心する。そのために、図1の結論を無視してしまうことになる。そしてなんの理由もなしに、「南」を「東」に修正する。」と鋭い指摘をされている。

刮目天が宇佐説だということに関わらず、ここまでの議論はほとんどの方が納得できる話だと思う。

ただ、最初に述べた「魏志倭人伝」の記載内容がすべて正しいと考えることにしようという提案にもかかわらず、正当な理由があれば修正できる余地があるという柔軟な助け船が出るのは、記載内容を正しいとするなら誰もがたどり着けるはずの邪馬台国にはたどり着けないからなのだろう。

つまり、記載内容を正しく解釈すれば邪馬台国の位置が決まるというのは重大な誤解であって、幻想でしかないのだ。だから正当な理由というのが、なかなか万人に認めてもらえない(;´Д`)

それ故、卑弥呼の名の付いた神社が一社もないのは邪馬台(壱)国なんて最初から無かったからだという説まで登場しているが、史料や考古学を無視したものだ。当時のシナと倭国との外交関係の記録が残されており、邪馬台国と狗奴国の抗争の末にヤマト王権が纏向遺跡で成立したことを示す数々の考古学的な物証もあるからだ。卑弥呼の名がそのまま神社名に残されなければならない理由もなく、別の祭神名で祀られているだろうことは容易に考えつくはずだ。

では、いったいなぜ、今まで邪馬台国の位置が「魏志倭人伝」を正しく読んでも決まらなかったのか?

答えはこれしかないでしょう。

邪馬台国は、下の図のとおり、ここに在るべきだというのが「魏志倭人伝」の真の目的であって、実際の位置は図1のどこかでしかないのを、つじつま合わせで方角や里数や日数を書き入れたからでした。これ本当!(*^^)v



だから、「魏志倭人伝」の行程記事をいくら正しく解釈してもだめで、別の文献史料(注)や考古学・民俗学・分子人類学などなどの研究成果から推理して見つけるしかない。

勿論、邪馬台国は卑弥呼が賜った「親魏倭王」の金印が眠る場所だというのも短絡的な発想でしかなく、簡単に持ち運べる遺物がなぜそこで発見されたのかしっかりとした推論がないと決められるものではなく、いつ見つかるかもわからない決定的証拠などほとんど期待できない。

だから、邪馬台国問題はヤマト王権成立過程を様々な物証から総合的に推理することでしか解決できないということですよ(^_-)-☆。

詳しくはこちらへどうぞ(*^▽^*)

古代史の謎を推理する(^_-)-☆

【参考記事】

「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)




(注)范曄だけが「魏志の筆法」を見抜いた(^_-)-☆
「魏志倭人伝」を聖典のように考えている研究者が多いが、

シナの正史も権力者の正統性を主張するための政治文書なので、

どこに歴史の改ざんがあるのかを見抜く必要がある。

編纂者の陳寿は史官として当然、権力者にとって不都合な真実を隠したが、

歴史家のプライドから「魏志の筆法」として真相解明のヒントを後世に残した。

だが、すでに恐らく隋・唐代あたりから現代まで関係史料の原本が

戦乱などで散逸し、ほとんど残っていないので、

その知識で「魏志倭人伝」をいくら正しく読んでも正解は得られないことは、

二十一世紀になっても邪馬台国の場所が確定しないことから証明されている。

史書に書かれたものが事実かどうかも考古学などでしか検証できないので、

上の科学的な手法によって歴史の真実を推理し、検証して

解明するしかないということに気付く必要がある。


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【検証16】3世紀後半の伊都国だよ(*^^)v

2020-04-20 10:16:12 | 古代史
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弥生後期から古墳初頭にかけてのヤマト王権成立過程における北部九州の変化の模様を詳細に調査された福岡の考古学者 久住猛雄さんの論文「3世紀のチクシと三韓と倭国」に基づき、刮目天の仮説を検証している。今回は【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ(^^)/のつづき、卑弥呼の後の大国主と台与の時代の話だ(古墳時代初頭、ⅠB期後半)。

3.3世紀前半〜後半(弥生終末期新相/古墳早期〜古墳時代初頭)の北部九州と「狗奴国」の再検討

(2)伊都国の動向
 平原 1 号墓の後、ⅡB期の御道具山古墳(全長 62 m)までは顕著な首長墓が無い時期があるが、三雲・井原遺跡群の繁栄は続いている。三雲の楽浪土器はⅠB期までは多いが、ⅡA期にごくわずかとなる。三韓・三国土器は若干あるが、楽浪土器と移動ルートが重なる馬韓土器がそれに変わって増えることはない(福岡平野では増加する)。ただし最近の資料調査で判明したが、金官加耶の金海鳳凰臺遺跡や、その衛星国の「瀆廬国」(魏志韓伝)の一角で釜山市東莱貝塚では、ⅠB期〜ⅡB期前後の北部九州在来系土器が出土し、その特徴は糸島地域のものが多い。「博多湾貿易」開始後に北部九州の主要対外窓口が博多湾岸に遷った後も、伊都国は弁辰韓との間に独自の交易ルートを維持した可能性がある(久住 2014b)。




ⅡA期にヤマト勢が北部九州を占領したので帯方郡と倭国との交流が断たれたために、楽浪土器が急激に減少したことを示す重要な証拠だ。

卑弥呼が死んだ後のⅠB期の中頃に倭国側についていたムナカタ海人族はヤマト勢が押し寄せてきたので、抵抗せずに従った模様だ。伊都国の難升米王は不利とみて、旧友の帯方郡太守劉夏はすでに転勤になって居ないが、取り敢えず帯方郡目指して逃亡したのだろう。だが、帯方郡にたどり着いたとしても、倭国では新任の太守王頎に派遣された張政の進言によって、大国主が親魏倭王卑弥呼の後釜に十三歳の台与を女王に立てたので、難升米は帯方郡で余生を過ごすことはできなかっただろう。司馬懿の部下の王頎は難升米を邪魔者として消したはずだ。どこにも証拠を残さずにね|д゚)

この時期にも「三雲・井原遺跡群の繁栄は続いている」ということは、倭国王になろうとした尾張王(仲哀天皇のモデル、殺されて鳥栖市にある九州最古級の前方後方墳赤坂古墳に葬られたと推理した)を殺した大国主と台与は、真っ先に宇佐市安心院町で卑弥呼を弔った後、ここに王宮を置いていたのではないだろうか。台与をモデルとした神功皇后の伝承もこの周辺に多い(悲劇の女王台与のはなし(その1)から(その4))。

大国主が対外交易のために倭人伝ルートを確保したので、伊都国から壱岐・対馬のルートで半島南部に倭人が渡った。逆のルートで伊都国や奴国に倭人が戻ってきて、冶金技術者の秦(辰)漢人も一部連れてきたということだ。半島南部の鉄を確保するために、大国主は伊都国を拠点としたのだろう。

半島に残った倭人は、応神天皇の時代には父の大国主との繋がりから、かなりの人数が倭国に戻ってきたのだろう。「日本書紀」では百済から多くの民を率いて帰化した弓月の君を秦(はた)氏の祖としているが、デタラメだ!秦氏は大国主ゆかりの伽耶の倭人だと考えている。彼らが半島の文化や様々な技術を列島に持ってきた。渡来人と呼ばれるが、百済人も含めて、ほとんどが韓人ではなく倭人なのだ(^_-)-☆渡来人は異民族とは限らない?( ^)o(^ )悲劇の女王台与のはなし(その2))。そして、渡海が比較的困難な沖ノ島経由の海北道中ルートはほとんど使われなかったはずだ。四世紀以降にヤマト政権は宗像大神(卑弥呼・台与)の鎮魂のために沖ノ島祭祀を始めたのだろう。

 伊都国西側では楽浪土器が多い深江井牟田はⅡA期に衰退し、御床松原は港津集落として存続するが、三韓・三国土器の出土は散発的となる。東側の今宿五郎江も楽浪土器(「帯方郡」の土器を含む可能性が指摘される。森本幹彦 2015)が多いが、環濠最上層の時期(ⅠB〜ⅡA期)をもって交易拠点としては終焉する。今宿五郎江の盛期最終期(ⅠB期)に、古今津湾の対岸の今山遺跡の一部に筑前型庄内甕が多く出土する一角があり、同地点や一連の砂丘上の今宿遺跡でも搬入山陰系土器や馬韓土器が出土する地点がある。今山・今宿の一部は「奴国」中枢の「飛び地」的な拠点の可能性があるが(「一大率」を想起させる。久住 2005)、今山・今宿への搬入土器が多いのはⅡA期までで、西新町に韓半島系土器や搬入山陰系土器が集中するⅡB期には土器製塩の専業的集落に変貌する。



【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?|д゚)で推理したように、ヤマト政権は伊都国で女王台与を殺してしまったので、崇りを畏れて伊都国の今宿五郎江遺跡から博多寄りの西新町遺跡に対外交易センターを遷したのだ。これが博多湾岸貿易ということになる。

大国主の倭国は滅ぼされたが、半島南部の倭人も山陰の人々も元々ヤマト勢と同じ旧奴国の民だったので、狗(旧)奴国のヤマト政権に逆らわず支配下に収まり、許されて半島南部や山陰から西新町にやってきたのだろう。だが、ヤマト政権は西晋に朝貢していた大国主・台与の倭国を滅ぼしてしまったので、西晋・帯方郡には顔向けできないので、対外交易ができないので困ったはずだ。

280年に西晋の最後のライバルの呉が滅ぼされてしまった。後ろ盾にしていた呉が滅亡したので、西晋から討伐されることを怖れ、急きょ大国主と台与の子ホムダワケを祭祀王として纏向に呼び寄せ、卑弥呼・台与の王宮を置いた邪馬台(ヤマト)国と同じ発音で纏向の王都をヤマトと呼ぶことにしたのだと推理した(何故、大和をヤマトと呼ぶのか?)。【検証15】台与からヤマト時代の北部九州だよ(^^)/で述べたとおり、紀年銘の三角縁神獣鏡もその頃作られたのだろう(^_-)-☆

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆





ということで、ここまでお付き合いありがとうございます(*^▽^*)
疑問点などあればコメントくださいね。次はもう一度狗奴国の話の予定です。
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【検証14】奴国~邪馬台国時代のつづきだよ(*^^)v

2020-04-16 09:32:04 | 古代史
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弥生後期から古墳初頭にかけてのヤマト王権成立過程における北部九州の変化の模様を詳細に調査された福岡の考古学者 久住猛雄さんの論文「3世紀のチクシと三韓と倭国」に基づき、刮目天の仮説を検証している。今回は3世紀後半に入るはずだったが、その前に前回の【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?でスキップしてしまった3世紀前半までの大事な部分について補足しておきたい。

この時代に平原 1 号墓が造営された。しかし不思議なのは、平原王墓(ⅠA期)以降、ⅡB期の泊地区(糸島陸橋のある地区)の御道具山古墳まで最有力墳墓が一時断絶する点である。一方で三雲・井原の大集落は衰退せずに継続している。

前回述べたとおり、平原王墓は女王台与のものだと考えているからⅡA期(270年頃)だ。だからその後ⅡB期(280年頃)の御道具山古墳が箸墓古墳と相似形の前方後円墳なので、恐らく台与を殺したヤマト勢の将軍のものだろう。台与を平原1号墳に埋葬して、そのまま伊都国に進駐していたということではないだろうか。

 伊都国では、元岡遺跡群で「超精製」木製品群(図 20)が製作された可能性がある(樋上昇2016、常松幹雄 2012)。伊都国西側の古深江湾沿いの深江井牟田遺跡や御床松原遺跡に楽浪土器の多器種が出土し、こちらが楽浪郡や漢王朝との正式外交・公的交易ルートであった(岡部裕俊1998)。ただし三韓土器は少ない。

これも前回述べた通りで、深江井牟田遺跡や御床松原遺跡が華僑を住まわせたチャイナタウンということだろう。なお、前回図20を他の図と一緒に示してあるが不鮮明なので、福岡市埋蔵文化財センターにいくつかあるので参照されたい。【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆で見たとおり、弥生後期ですでに漢字が使われていた証拠があった。

一方、東側の今宿五郎江には後期以来列島各地の土器と終末期に三韓土器、また楽浪土器は椀坏類が集中して出土する(森本幹彦2010・2015)。

これもすでに指摘したとおり今宿五郎江がこの時代の対外交易センターということなのだ。久住さんらは、以下のような交易ルートの存在を主として出土した遺物などから考えておられる。なお図の「前期博多湾貿易」は3世紀末の話だから次回以降の話題だ(【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?|д゚))。



いずれも「海村ネットワーク」論(武末純一 2009・2016)だと、対外交流を行う「海村」の一言で済まされてしまうが、「伊都国」が東西に機能分担して配置した外港という観点が必要である(岡部裕俊 1998・2012、久住2004・2016b)。

また「海村」とは言い難い比恵・那珂が西日本の列島内と対外交流・交易の一大結節点(久住 2009・2012b・2016b c)であることも重要で、筆者がかって想定した「交易機構」としての「原の辻=三雲貿易」といった交易体制の存在を認めるべきだろう(図 22)。なお、対外交易が原の辻(壱岐)と三雲で「全て」行われたとしているとして、拙論に対して批判する一部論者があるが、勝手な誤解であり、様々な交易拠点や交易ルートを認めていないわけではない。


実際、三韓土器は福岡平野でも若干の出土があり、鉄素材交易が背景にあろう。筆者の論はあくまで「主要な」交易ルートの二大拠点の重視であり(壱岐=三韓との交易/三雲=漢王朝との交渉)、その「交易機」を諸国が ‘ 株主 ’ として支えたという趣旨である(白井克也 2001、久住 2007・2012・2016b)。弥生後期から終末期において、楽浪土器と三韓土器双方は壱岐(原の辻・カラカミ)に集中するが(古澤義久 2016)、一方で伊都国の沿岸部と中枢では楽浪土器は多いが相対的に三韓土器は少ないという傾向が厳然とある。この事実を無視して、「海村ネットワーク」間の半ば自由な交易を想定(武末純一 2009・2016)するのは難しい。また三韓土器が壱岐を越えて列島本土に<多量に>搬入されるのはⅡA期以降であり、その場合でも博多湾岸に集中するのが実態である(久住 2007)。

伊都国の時代の前の奴国の時代から、特定の中心地や勢力によらない「海村のネットワーク」があったという説に対して久住さんの主張する「原の辻=三雲貿易」がメインだったというのが事実であり、楽浪郡との交易が伊都国によって管理されていたのだ。何故そうなっているかは刮目天の仮説が解明している。卑弥呼が女王に共立される前の第一次倭国大乱期は以下の図のような状況だったと推理している。



伊都国に王都を遷した師升一族の倭国の時代の楽浪郡や半島南部との対外交易ルートは、「魏志倭人伝」で述べられた帯方郡と倭国の経路なので倭人伝ルートと呼ばれる。ただし、卑弥呼が女王になる前の伊都国時代は壱岐から対馬を経由せず、直接楽浪郡に行くのがメインだったのかも知れない。対馬を経由したとしてもその後は狗邪韓国に立ち寄らず半島の南岸から西岸を経て楽浪郡に向かったと考えている。別に、対馬経由で半島に渡り、洛東江を北上して楽浪郡に向かうコースとその逆コースが奴国時代からあった交易ルートだと岡田英弘さんが指摘していた。しかし、伊都国の時代は半島南部が旧奴国勢力に抑えられていたということなのだ。(2020.4.20 赤字修正)

その旧奴国勢は倭人伝ルートを使えないので不弥国(うみこく、宗像)から約60㎞も離れた沖ノ島経由で半島南部に渡り、鉄素材を入手していたと推理した。半島からは海流に乗って日本海沿岸部に漂着もできるようだが、列島側から半島へは6・7月の比較的波の穏やかな季節だけだ。それでも玄界灘を海流に逆らって丸木舟で半島南部まで漕ぐのは、それに慣れていた海人族しか無理だろう。

縄文時代から海峡を渡って活動していたムナカタ海人族が旧奴国勢に協力してくれたということだ(【検証8】青谷大量殺人事件の真相は?(;´Д`))。出雲や丹後に半島南部の鉄が流入していたので勢力を蓄え、倭国への復讐のために抗争が発生するようになったのが第一次倭国大乱だ。日本海沿岸部の首長の権力は高まり、首長墓として大型の四隅突出型墳丘墓が盛んに作られた。同時に、旧奴国勢力にも鉄製品が伝わり、スサノヲの弟ニギハヤヒは吉備を平定して旧奴国の正統な後継者として天照大神尊となり、後のヤマト政権の基礎を築いたと推理した。

奴国のイザナギ大王の時代に結婚したイザナミが縄文系のムナカタ海人族の姫だったことから旧奴国勢力に協力したのだ。関祐二さんによれば宗像大社には「ムナカタの子はスミヨシ、その子はウサ」という「日本書紀」と矛盾する伝承があった。スミヨシは住吉大神で海を支配するようにイザナギに命じられたスサノヲのことだ。女王台与をモデルとする神功皇后を傍らに居て助ける神だから三百歳の武内宿禰のことでもあるのだ。そして、その正体は「魏志倭人伝」に登場する十三歳の台与を女王に立てた大国主狗古智卑狗だということは以前述べた(狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆)。またウサは宇佐神宮の八幡大神応神天皇のことだが、実は、真の八幡大神が大国主のことだということも突き止めている(本当は怖い七福神の謎(;一_一))。つまり、台与をモデルとする神功皇后の子ホムダワケ応神天皇の本当の父親が、仲哀天皇ではなくスサノヲ大王直系の大国主狗古智卑狗だという「記紀」に反する真実を暴露した伝承だったのだ。

だから、奴国が滅んだ後の半島南部も倭人が支配し、山陰・丹波王の狗古智卑狗(大国主の先代から)がスサノヲ大王時代からコネがあったので鉄素材を入手できたということだろう。「三国史記」の新羅第四代脱解王はスサノヲ大王がモデルだったのかも知れない。新羅脱解王から五代の王は倭人系の昔(ソク)氏なのだ。

一方、伊都国の倭国王は上述のとおり半島西部沿岸に沿った倭人伝ルートで楽浪郡と交易しており、その一区間が「原の辻=三雲貿易」ということだったが、二世紀末に相当半島が乱れたので、倭国は楽浪郡との交易ができなくなって衰退気味になった。だが、遼東太守公孫氏が半島を支配下に入れ帯方郡を作ったので、倭国は楽浪郡との交易が復活して勢力を取り戻した。沖ノ島ルートを担うムナカタ族を懐柔して、卑弥呼を女王に共立し邪馬台国時代が訪れたということだということは、何度も述べているので耳にタコができているかもしれないね。ゴメンナサイ(;´Д`)。

「弥生後期から終末期において、壱岐の拠点集落である原の辻・カラカミ遺跡に楽浪郡や三韓土器が集中しているが、伊都国の沿岸部と中枢では楽浪土器は多いが相対的に三韓土器は少ない」ということは、半島南部の人々は上述のとおり旧奴国勢力なので、壱岐までは来ているが、伊都国にはほとんど来ていないということなのだ。

結構誤解があるのだが、当時の半島南部は韓人の世界ではなく、旧奴国勢力の倭人が支配する領域だったのだ。勿論、秦(辰)韓人も倭人が支配する弁辰に入り込んで倭人と一緒に鉄を取っていたのだから居たのだが、列島に鉄素材を運ぶのはムナカタ海人族、つまり大国主の先代狗古智卑狗に従う人たちだったということなのだ(悲劇の女王台与のはなし(その2))。



壱岐は伊都国から海を隔てているので倭国王の支配が少し緩かったようで、旧奴国勢力が楽浪郡の物品を入手するために秦(辰)韓人を使って半島に持ち帰って旧奴国勢力に供給していたということも考えられる。でも弥生終末期の邪馬台国時代になると日本海沿岸部から直接半島南部に渡れなくなったので、困った列島の旧奴国勢が纏向に集合して対策を練り、祈祷を行い、倭国追討軍を送ったということなのだ。これが「記紀」の仲哀天皇の熊襲征伐の話に対応する史実なのだ。



ということで、補足が長くなりすぎたので次の時代に入るのは次回にしよう。

ここまで読んでいただき感謝!かなり細かい専門的な話が多くて難解で疲れるかも知れませんが、刮目天の仮説の重要なポイントなので我慢してお付き合いくださいね。疑問や分かり難いところがあればコメントちょうだい!次回もどうぞよろしくお願いします。

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆





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【検証13】奴国~邪馬台国時代の北部九州は?

2020-04-11 11:27:36 | 古代史
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今回は弥生後期から古墳初頭にかけてのヤマト王権成立過程における北部九州の変化の模様を詳細に調査された福岡の考古学者 久住猛雄さんの論文「3世紀のチクシと三韓と倭国」に基づき、刮目天の仮説を検証しよう。少し長いので数回に分けて掲載する予定だ。ご参考までに今回の記事に関連する弥生前期後葉から古墳前期までの年表を以下に示す。



2.2世紀〜3世紀初頭(弥生時代後期後半〜終末期古相)の北部九州
(1)平原「王墓」の時期とその意義〜「倭の女王」墓説〜

最初の話題は糸島市の平原王墓の築造期だが、ここでは副葬品の鏡や周溝の遺物などから久住さんは3世紀初頭であろうとしている。だが、副葬された漢鏡は伝世する場合があるので鏡の編年で議論すると間違える可能性があるし、溝などから出土する土器や鉄鏃などの年代も確実な証拠とは言えない。すでに刮目天は古墳時代初頭から盛行する竹割形木棺が決め手ではないかということで、平原王墓は270年頃伊都国で戦死した女王台与の墓だと推理した(【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?(^_-)-☆)。

(2)「都市」的拠点集落の展開と「伊都国」・「奴国」の対外交易
墳墓の様相からは一見「衰退」したかのように言われてきた弥生時代後期の北部九州だが、集落の様相は全く異なる。福岡市博多区比恵・那珂遺跡群(久住 2008・2009、図 17)や春日市須玖岡本遺跡群(井上義也 2009)は、いずれも 100ha におよぶ「都市」である。

比恵・那珂は弥生後期には方形区画環溝を中心に据え、広い倉庫群エリアがあり、運河(船溜)が想定され、直線的な条溝が段丘を縦横に区画し、集落外縁の一部には道路遺構があり、「都市」的な景観が成立している。終末期造営の長大な道路は、先行する道路群を再整備して繋げたものであることが判明しつつある(森本幹彦ほか 2015)。



すでに【検証9】奴国の大王は凄かった(*^^)vで見たとおり、福岡市の比恵・那珂遺跡は弥生前期から人は住み始めているが、中期初頭に半島南部から早良平野吉武高木遺跡に移住した旧呉王族天御中主の一族が、中期中葉に王宮を須玖岡本遺跡に遷した。その頃から比恵・那珂遺跡は急速に人が集まり、その後列島内の産品を集める交易センターとして整備された大都市となった。最盛期は吉野ヶ里遺跡の広さの4倍はあったと言われている。(2022.6.14 赤字訂正)

さらに段丘北部を東西に裁ち切った幅 30 mもの大型水路(運河)の屈曲部に、長大で堅牢な井堰(図 18)を造営していたことが判明した。この大型井堰(後期前葉〜中葉)には、九州に自生しないスギ材の長大な横木を多く使用しており、建築材だけでなく井堰材にまで遠隔地から大木を運搬させる強大な権力と交易力が「奴国」にあったことが分かる(久住 2016c)。重大な発見だが、比恵・那珂を中心に奴国中枢で発見された長距離交易に関する中国系(水銀朱原料の辰砂もある)、韓半島系、列島各地の様々な遺物(図 19)から考えると驚くには値しない。


後期前葉は奴国が最盛期を迎えた時期だろう。西暦57年に後漢光武帝から蛇(ナーガ)紐(つまみ)の「漢委奴国王」の金印を賜った。初代王天御中主(あめのみなかぬし)の「中」は「那珂」などと同じで龍蛇神ナーガの意味だ。金印はこれを信奉する民族を表し、御中主はその王という意味なのだ。金印は多分、「宋史 王年代紀」の第16代王沫名杵尊(あわなぎのみこと)かその先代の天萬尊(あめのよろずのみこと)の時代のものだ。
福岡市博物館 金印

岡田英弘さんが指摘するように、光武帝は華僑の権益を護り、倭人たちとの交易が円滑に行くように奴国王に依頼したというのが実態のようだ。シナの皇帝は総合商社のオーナー社長なのだ(「日本史の誕生」(弓立舎)1994、pp.28-29)。シルクロード貿易の目的で日本列島の珍しい産品を得るためにわざわざやって来た華僑を伊都国に居住させて(ウイルスなどの疫病の水際対策かな?)、今宿五郎江遺跡に対外交易センターを置いていたことはすでに述べた(【検証10】ヤマトはなぜ伊都国を捨てた?|д゚))。

「国生み神話」の伊弉諾尊(イザナギ)は第17代倭国王だ。縄文海人ムナカタ族の姫伊弉冉尊(イザナミ)を娶り、列島各地の産品を入手できるようにするのが目的だったと思う。江南出身の倭人と日本列島固有の縄文人が王族レベルで婚姻を結んだ事件は、下で述べるが、その後の列島に住む人々に物凄いインパクトを与えたようだ。イザナギ大王は江南出身の海人アズミ族と一緒に丸木舟に乗って瀬戸内海を東に吉備・讃岐や淡路島まで渡ったのだろう。倭国の特産品のアワビなどの海産物を塩漬けにして保存するために大量の塩が欲しいので、主に塩田開発のためではなかったかな。伊弉諾神宮のある淡路の多賀の地に「幽宮(かくりのみや)」を構えてそこで亡くなったのだろう(^_-)-☆

イザナギ大王の次の世代以降に人種的な混血が進み、奴国の伝統的な祭祀に縄文の思想がミックスして日本(ヤマト)民族が形成される最初の段階だと考えている。イザナギ大王とイザナミ姫の間に生まれたスサノヲが王位を継ぐのだが、多分神話の挿絵でよく見るように縄文系の容貌をしていて、しかも奴国の伝統的な祭祀儀礼を山陰や近畿などの縄文系の祭祀(多分、大型の見る銅鐸や羽振りなど)に変えようとしたのが原因で宮廷司祭師升らがクーデターを起こしたのではないかと推理した(倭王帥升(すいしょう)は何者だ?(´・ω・`))。つまり、国生みは長江文明と縄文文明の衝突を引き起こし、列島を巻き込む戦争の原因を作った日本の最初の大事件だったのだと思う。
渋谷区立松涛美術館「スサノヲの到来―いのち、いかり、いのり」展(2015年08月30日)より

「漢書 地理誌」に「楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」という有名なくだりがある。范曄「後漢書 東夷伝」では後漢に朝貢するのはそのうち三十国で、それぞれ王を名乗り世襲制で、大倭王が邪馬台国に居たと書かれているので、邪馬台国の前の時代から列島には王が割拠して勝手に朝貢していたと考えられがちだが、王というよりも地域を治める部族長という感じだろう。奴国に王宮を置いていた人物が列島の国々を束ねる大王で、上述のとおり那珂・比恵遺跡では各地の人々が交易のために集まって大都市を形成していたのだ。倭国大王の権威は、列島の産品を運ぶ倭人や縄文人の海人が丸木舟で立ち寄る潟港を持つ津々浦々に行き届き、地元の住人に水や食料などを補給させて、比恵・那珂の交易センターで円滑に交易させるのが奴国大王の役割だったのだろう。

弥生中期末の伊都国王は奴国の大王と肩を並べるような王墓に葬られているので、通説では奴国王と対等な倭国の盟主のように考えられているが、誤りだ。鏡よりも貴重な、奴国王族の印である周王朝の呉王族(子爵)を表す玉璧の破片が伊都国や朝倉の拠点集落で出土しているので、奴国大王が重要な拠点集落に親族を王と封じたと推理している。

比恵・那珂の「道路」は、ⅠA期に延長2km におよぶ直線的な道路として再整備され始め、新たな大型方形環溝(2号環溝)も造営され、両者が集落の軸線となり集落全体が「区画整理」された(図 17)。

ⅠB期にこの「都市計画」が進行し、その過程で「奴国」は須玖岡本から比恵・那珂に遷都したと推定できる(久住 2012b)。

比恵ではⅠA期に大型墳墓が造営されたが、北部九州の後期後葉からⅠA期の有力墳墓(唐津・中原遺跡、宮の前C地点墳丘墓、福岡市東区名子道墳丘墓、三雲寺口石棺墓群方形区画)と同様に、瀬戸内系高坏が後期中葉に「在地化」した高坏群を供献し、比恵に遷った「王」は外来者ではない。

三雲・井原遺跡群も 60ha 前後の集落域(図 21)を維持しながらこの時期に「環濠」の再掘削が認められ(角浩行 2006)、ⅠA期に楽浪土器の搬入がピークに達する(番上地区土器溜)。楽浪土器が多種多量出土した番上地区土器溜からは、楽浪系の「石硯」が2点出土した(武末純一2016)。楽浪土器が多く含まれる上層出土で、ⅠA期前後の可能性が高く、暦年代は「公孫氏の時代」(仁藤敦史 2009)の時期幅(190 年代〜 239 年)を含む。当時の「倭国」外交は、240 年代の「卑弥呼」外交まで、「邪馬台国」がどこにあろうと、伊都国王都である三雲を経由した。

上述のとおりクーデターにより第18代奴国王スサノヲを殺害した師升が倭王に立ち、107年後漢に朝貢した。その頃から7‣80年間は師升一族が倭国を統治していたと思われるが、後漢王朝の衰退で韓人や濊人が暴れて半島は混乱した。その頃から旧奴国王族が倭国王と抗争を繰り広げた。(2021.7.14 赤字訂正)

クーデターを逃れたスサノヲの子イタケルの子孫で、大国主の先代狗古智卑狗(久々遅彦、久々比神社(豊岡市)の祭神で木霊久々遅命ククノチ)が半島南部の鉄素材を入手して、鍛冶製鉄により武器や農工具などの鉄製品を作り、吉備大王ニギハヤヒ(スサノヲの弟・天照大神尊)や旧奴国王族にも供給し、旧奴国は勢力を取り戻しつつあった。阿蘇山西北部や菊池市に軍事基地として鍛冶製鉄の集落を造り、鉄鏃など鉄製武器を製造して筑紫平野をしばしば攻撃したと推理している。

しかし、後漢の遼東太守公孫氏が204年に帯方郡を置いて、半島は落ち着きを取り戻した。倭国王難升米も帯方郡との交易で力を取り戻し、菊池周辺の旧奴国の軍事基地を攻略した。狗古智卑狗(大国主の先代)が戦死したので、沖ノ島ルートで半島南部の鉄素材を旧奴国王族に供給していた宗像の人々は動揺し、難升米王に懐柔されて、ムナカタの姫巫女による太陽神の神託を請けて政治を行うことに双方合意して倭国大乱(第一次)は終息した(注1)。

ⅠA期とIB期中ごろまでは3世紀前半の邪馬台国連合倭国の時代のことだが、上のとおり政治の実権は伊都国男王の難升米が握っており、必要に応じて太陽神の神託を卑弥呼に請い、意思決定を行っていたと考えている。これによって倭国は伝統的な祭祀を捨て、奴国の祭祀に道教の要素を取り入れて、縄文系祭祀と融合した形に変わり、あれだけ盛行した甕棺埋葬の時代は終わった。

上のとおり、帯方郡との対外交渉と身の安全のために奴国から王宮を伊都国の三雲・井原に遷し、列島内の交易のために奴国に長官を置いて都市開発を命じたのだろう。だから須玖岡本の奴国大王の王宮は廃されていたのだということだから、邪馬台国時代の比恵の墳墓は「比恵に遷った王」ではなく「魏志倭人伝」に記された奴国の長官兕馬觚(じまこ)などの倭国高官の墓だろう。(2020.4.12 一部修正)

以上からこの時代までの北部九州の様子が分かり、その変化が刮目天の仮説によって矛盾なく説明できることが分かったと思う。疑問点や分かり難いところがあればコメントください。次は北部九州を主な戦場とした2度の大乱の末にヤマト政権が成立するまでの3世紀後半の話なので、またよろしくお願いします(^_-)-☆

【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆



(注1)「魏志倭人伝」では女王卑弥呼を共立したとしているが、公孫氏を滅ぼした魏の将軍司馬懿が帯方郡太守劉夏に倭国の懐柔を指令し、劉夏と難升米が談合して、魏の朝廷の人々の注目を集め、司馬懿の功績をアピールするために倭国を女王国ということにしたと推理した。
「魏志倭人伝」行程記事の真相だよ(^◇^)

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