刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

日本神話の正体は?(その3)

2020-01-10 17:18:05 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

実は、万葉集も藤原氏に都合の良い歴史改ざんの事実を後世に密かに伝えるために大伴家持、山上憶良らによって作られたようなのだ。万葉集研究家の渡辺康則さんが中大兄皇子は「日本書紀」では中大兄とだけで、どこにも皇子とは書かれていないというヒントから皇太子でもない人物が即位したことにされたという衝撃的な事実を万葉集に隠された暗号を解読して突き止めたのだ(「捏造された天皇・天智」上・下 大空出版2013)。その続編「聖徳太子は天皇だった」(大空出版2014)ではもっと衝撃的なことが書かれていた。「隋書 倭国伝」にある倭国の大王アメノタリシヒコは推古天皇の時代と重なる。推古天皇だけではなく、「日本書紀」で言う用明天皇から斉明天皇までの時代は中大兄を万世一系の天皇に仕立て上げるための歴史ねつ造だったという結論なのだ。



しかし、もしもそういう大がかりな歴史改ざんが「日本書紀」によって本当に行われたのであれば、「宋書 倭の五王」の最後の武王とされる雄略天皇までは物証もあり実在と見ることができるが、その後の清寧天皇から、顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明・敏達までの代の天皇もすべてではないと思うが一部改ざんされている可能性が十分にあると思う(注1)。(202.1.23 赤字修正)



歴史ねつ造のやり方としては不自然なウソを隠すために先例を創作することが手っ取り早い。

例えば、天智天皇は都を近江として即位したので大和では即位していない。いきなり異例なことを書くと、天皇ではないかも知れないと怪しまれる(注2)。だから、同じく大和で即位していない継体天皇を登場させたのかも知れない。ヤマト政権が越前からオトド王を呼んだのであれば大和で即位しなければおかしい。継体天皇が応神天皇の五世孫だというのも何となく怪しく、新王朝ではないかとの説もある。清寧から継体即位までの話はかなり不自然だ(注3)。

また、歴史改ざんのもう一つの大きな目的は藤原氏が中大兄と共に追い落とした蘇我氏や物部氏の祖による日本建国の真相を隠すことだ。それはヤマト王権の基になる、由緒ある金印の倭の奴(ナーガ)国も当然隠蔽することになっている。

「日本書紀」では天武天皇は天智天皇の弟ということだが、違うのではないかという説が前からあった。万葉史観で舒明天皇も架空の存在ならば、天武天皇は武内宿禰を祖とする蘇我大王家の家系だとすれば壬申の乱の意味がスッキリするのだ。また天武天皇の皇后であった持統が女性天皇となることの異常さを隠すために、先代に推古だけでなく皇極(斉明)を登場させ、女帝はたまにあるんだよ、ということにしたのだ。持統は天智天皇の皇女鵜野讃良(ウノノサララ)でもあり、持統の孫の軽皇子を文武天皇として即位させたことの正統性のために、物部氏の祖である王年代紀第19代王天照大神尊ニギハヤヒから女神アマテラスに皇祖神をすり替えて天照大御神としたのだ。そのためにニギハヤヒも記紀神話で女神アマテラスの孫ニニギノミコトの兄弟神とすることによって真相を隠した。ニニギのネーミングの元ネタは第4代奴国王の天彌聞尊(アメノニニギノミコト)だろう(^_-)-☆

こうなると万世一系の皇統の男系男子によって継いできた今の天皇家も怪しい、どこかですり替わっているに違いないと考える人が出てくるかも知れない。実際、明治天皇のすり替え説もある。だがこれもデタラメだと直ぐに分かる。

日本における天皇の持つ意味、天皇の職務を考えると、すり替えは絶対にあり得ない。

天皇の本質は権力を持たない祭祀王としての権威だけの存在だったからだ。天皇は天変地異が起らないように皇祖神の魂と一体になるための厳しい修行をしなければならないのだ。長時間拘束される儀礼・式典にも先代から関わり、天皇教育されていないと絶対に務まるはずないからだ。もしもすり替えなどしたら国家の鎮護・安泰と国民の安寧を神々に祈り続ける、体力的・精神的負担が大きい宮中祭祀は、すり替わった本人にとってアホらしくなって耐えられず、とっくに簡素化され形骸化し、結局は天皇そのものが消えていたはずだからだ。

千年以上続く宮中祭祀の伝統が現代まで残っていることが、本物である証なのだ。


さて、建国神話に話を戻すと、初代天皇は第18代奴国王スサノヲ大王の直系である大国主ククチヒコ(多分スサノヲの六世孫)と縄文海人ムナカタ族の姫イザナミを母系とする台与(神功皇后)との間の子であるホムダワケ応神天皇であり、仲哀天皇は本当の父ではないことは既に何度も述べた。応神天皇はヤマトに殺された父の大国主の怨霊を鎮めるために即位した最初の祭祀王であり、呼称は後世だが本来の天皇の役割なのだ。大国主と台与が戦死したので、関祐二さんが推理したように南九州に逃亡し逼塞していたところ、ヤマトに呼び寄せられたのだろう(注4)。280年に西晋によってヤマトの後ろ盾の呉が滅んだので、追討を怖れたヤマトの大王(卑弥弓呼の次の世代か?)がホムダワケを呼び寄せて、王都の国名もヤマトゥ(邪馬台)とし、「母親の台与女王の代から西晋さんとはお付き合いしているヤマトゥ国なのですよ」としたというのが建国の真相なのだと推理した(【関連記事】参照)。

「日本書紀」では三輪山の大物主大神(大国主大神の和魂)が祟って、伝染病が発生し、民が半分以上死に、百姓は離流し、反逆するものも出たとある(崇神紀)。天皇は夢の中で、大物主が子のオオタタネコを呼び寄せて祀らせれば収まるぞと告げられたので、河内に探し出して大物主を祭らせたら国が収まったとある。

また、神武天皇の東征は武力ではナガスネヒコに撃退されたので、日の御子が太陽に向かって進んだのがよくないとして、熊野を回り、天香具山の赤土で平瓦などを作って天神地祇を祀り、呪いによって敵を撃退し即位できたというものだ。応神天皇の即位も神功皇后が、仲哀天皇の二人の皇子の謀略を見抜き、呪術で二人を滅ぼし即位させたとなっている。つまり神武天皇と応神天皇の話は時代設定も人物も変えてはいるが、内容的に似た話だった。

「神」の文字を諡り名に持つ4人の人物が日本建国に関わったことを、天智天皇の玄孫淡海三船が漢風諡号によって暗に示していた。神の命で武を以って葦原中つ国を統治した神武天皇。神に祟られたヤマトの大王崇神天皇。神の要請に応えて祭祀王に即位した応神天皇。神のような立派な功績を遺した神功皇后なのだ。

このヒントにより、謎がすべて解けるのだ。ヤマトにすでに降り立っていた天孫ニギハヤヒがトビのナガスネヒコを斬って神武天皇を即位させた話は、トビ(蛇)が化身である三輪山の大物主大神(大国主狗古智卑狗)がニギハヤヒの直系の崇神天皇(狗奴国王卑弥弓呼の次の王か?)によって殺された史実を示しているのだ。(2020.1.21 赤字追加)

「日本書紀」は初代大王の話をこのように時代も人物も異なる話を創作して歴史を改ざんし、スサノヲとニギハヤヒの子孫たち(由緒正しい蘇我氏と物部氏の祖)が行った日本建国の真相を隠したのだ。

通説・常識とまったく異なる話で、多くの方は混乱されたかも知れません。しかし、そのために「日本書紀」が建国の真相を神話に閉じ込めたのです。「日本書紀」成立から今年でちょうど千三百年、気の遠くなるほど長い年月でした。日本建国の真相を隠し通した藤原不比等の実力は大したものでした。最初に聖徳太子の謎が解明されて、それによって「日本書紀」のトリックがほぼ完全に解き明かされましたが、ほとんどが関裕二さんの功績ですよ(^_-)-☆


最後までお付き合いいただき感謝します。沢山応援いただき有難うございました。また、よろしくお願いしますね(*^^)v。


【関連記事】

古代史の謎を推理する(^_-)-☆

2020.1.21 210年頃築造の纏向石塚古墳を図に追加(石野博信「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」新泉社2019,p.47 より)

古代史を科学するには?(^_-)-☆


(注1)埼玉県の稲荷山古墳より出土した鉄剣と熊本県の江田船山古墳から出土した鉄刀に、ワカタケル大王雄略天皇の銘が刻まれているとされている。「日本書紀」では五王の事績を神功皇后の三韓征伐の話にして隠した。伊都国に逃げた女王台与がヤマト勢に追い詰められ、武器を取って戦った伝承を神功皇后の活躍の中に反映させ、戦死した台与の鎮魂のために女傑として持ち上げたと考えられる。

また、すでに述べたとおり初代天皇は神武と同一人物である応神として、280年の直後に即位したであろうと推定している。だから15代応神天皇までは10代崇神天皇を除きダミーなのだ。247年ごろ13歳で女王に立てられた台与の長子が応神天皇だとすると、子を産むには3、4年後だろうと考えると、即位は30歳代前半ということになる。そうすると、図に示したように応神天皇と五王の最初の倭王賛(履中天皇)まで間が空きすぎている。応神天皇と仁徳天皇の間、あるいは仁徳天皇と履中天皇の間に何代か存在するはずだなのだ。その解明も今後の課題だ。( ^)o(^ )


(注2)中大兄という名は奴(ナーガ)国の太子という意味だ。この場合ニギハヤヒの直系の人物を示すものと考えられる。ニギハヤヒの両親はイザナギ・イザナミだから、その直系の中大兄は皇統に繋がる人物なのだ。しかし、中大兄は天皇には即位しておらず、その孫が光仁天皇として即位して、以後光仁天皇の子の桓武天皇から今上天皇へとつながっているのだ。桓武天皇が大和の地から山背に都を遷した真意はこのことと関係しているはずだ。つまり大国主直系の天武天皇の曽孫氷上川継を反乱の容疑で捕らえ伊豆に流刑し、その他天武系皇族を抹殺して即位した桓武天皇は大和に居たら大物主に祟られる恐れがあるので、御霊が鎮座する三輪山から離れる必要があると考えたからではないだろうか。

平安遷都までの古代史は、とどのつまり、ヤマトの初代大王崇神天皇系と大国主の子応神天皇系の二つの大王家の権力争い・主導権争いが大きな流れだった。桓武天皇の登場によってこれが完全に終結したということなのだ。しかしこれによって兄スサノヲ系と弟ニギハヤヒ系の違いがあっても兄弟の両親はイザナギ・イザナミであるので皇祖神が変わったわけではないのだ。だから言わば大王家のお家騒動だった。これを策謀して権力を握り、外戚政治を行った藤原氏が栄華を極めるのだが、平城京から平安京に遷っても、民はそのまま怨霊に祟られて苦しんだようだ。最近活躍されている林千勝さんによれば、日本が戦争に引きずり込まれた原因の一つが藤原氏の謀略だったようだ。不比等の呪いが今の日本にも漂っている感じがするね。早く戦後政治を終わらせないと日本が終わりそうだ(;´Д`)



(注3)雄略天皇の崩御後の星川皇子の反乱の後に皇太子白髪皇子(清寧天皇)が即位し、5年後に崩御された。そのため皇嗣問題が生じ、ようやく履中天皇の孫の億計王・弘計王兄弟が播磨で見つかった。弟の弘計王(顕宗天皇)が兄より先に即位されるまで、短期間だが兄弟の同母姉の飯豊青皇女が天皇の役割を行った。最初の女帝飯豊天皇なのだが正式な代数には数えられていない。顕宗天皇が即位後三年で崩御され、兄の仁賢天皇の跡の武烈天皇のあり得ない御乱行は天皇家を貶める内容で、如何にも作り話のようだ。
継体天皇の即位は河内国樟葉宮、即位十九年後に大和の磐余玉穂宮に入っている。(2020.1.27 追加)
(注4)鹿児島神宮はかつて大隅正八幡宮と呼ばれ、「八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。」wiki「鹿児島神宮」より)

最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

日本神話の正体は?(その2)

2020-01-08 11:03:32 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

日本神話の正体ってか? 神話というのは、その民族が太古より語り継いできた、民族のアイデンティティを示すものだから、神話の正体などという怪しげな話などはないはずだと拒否反応を示した方は多いのではないだろうか? 神話として長い間語り継がれたものだから、すべてが史実ではないかも知れないが、ある程度は史実を反映した話なのだろう。中国の史書の内容と合致しないのは中国の冊封体制に組み込まれた事実を隠すためなのだろう。日本は独立国家として最初から歩いてきたと言いたかったからなのだろう。このように好意的に捉える方が多いと思う。確かにそういう面はあるが、成立の経緯を考えると完成当時の権力者にとって都合の良い話に変えられることは当然あり得る話だ。

正史は古今東西、どこの国家も権力者とその子孫が権力を維持するための正統性を主張する政治文書なのだ。

当時の権力者藤原氏は平安時代後期の武士の台頭によって衰退したとはいえ、その後も武家が朝廷から官位を貰うことでその権威づけをする必要があったので、天皇の権威と朝廷を仕切る藤原氏の権力は生きながらえることができたのだ。江戸幕末には西洋列強の圧迫を受けて尊王攘夷の思想が盛んになり、明治政府は「記紀神話」に基づく国家神道を創設し、広く国民教育を行った。そのために天皇の権威を傷つける不敬罪にあたる恐れのある正史「日本書紀」批判の歴史研究はほとんど行えなかった。千三百年後の現代にようやくこの封印が解かれるようになって古代史の真相が明らかになってきたのだ。

それでは藤原不比等は正史「日本書紀」で一体何を隠したのだろうか?

藤原姓は不比等の父中臣鎌足が天智天皇から賜わったものとされる。中臣氏は忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった氏族で、天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする。『古事記』には岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際邇邇芸命(ニニギノミコト)に随伴し、中臣連(ムラジ)の祖となったとあるWiki「天児屋命」より)。さらに大中臣氏の系図を見るとアメノコヤネの父は経津主神(フツヌシノカミ)と共に大国主に国譲りを迫った建御雷神(タケミカズチノカミ)となっている(注1)。アメノコヤネから11代目の嫡孫が、「日本書紀 仲哀天皇紀」に登場する中臣烏賊津(ナカトミノイカツ)となっている。鎌足はイカツから9代目の中臣氏第一門御食子(ミケコ)の嫡子ということになっているが、イカツは「古事記」には登場しない。『新撰姓氏録』に記載されるアメノコヤネからの世代数も異同があるとのことだ。

関裕二さんは鎌足の出自がどうも怪しいと感づいた。唐・新羅連合軍と663年に白村江で戦い、大敗北した百済王子豊璋(ホウショウ)かも知れないと指摘している(注2)。でも、藤原氏が半島の渡来人だからと心配には及ばない。水田稲作を列島に伝えた倭人も天皇家の始祖王アメノミナカヌシも江南から半島経由で渡ってきた春秋の呉からの渡来人だ。縄文人であっても元はと云えばアフリカから渡来してきた旧石器人の末裔なのだから(注3)。

日本人に同化した渡来人はみな日本人といえるのだ。

アイヌだって日本国民として制度上平等に権利が与えられてきた日本人だったのに、今頃になって差別されてきた可哀想な先住民族だなどと国家の制度として優遇するのは逆差別なのだ。沖縄だって全く同様で、国家の補助金で人々を堕落させる反日リベラル・メディアや官僚や政治家が利権の温床にしているので、反日国家からも侵略のターゲットにされている。武田邦彦教授も国税に集るリベラルの連中が世界のトップレベルの日本の家電産業を衰退させたと言っている。すべて、占領政策基本法を憲法だなどと嘘で国民を騙しているからなのだ(;一_一)

話が脱線したが元に戻すと、上のような神話によって藤原氏の出自を隠す改ざんが行われたのだと思う。中臣氏は呉王族の下で奴(ナーガ、竜蛇神)を祀る司祭の家系の倭人(江南の呉人)だと思われる。百済王子豊璋が由緒ある中臣氏に背乗りしたのだろうか?あるいは、元々倭国は江南から半島南部に渡った呉王族が北部九州に建てた国なのだから、王族一行が早良平野に南下した時も半島に留まっていたか、または出戻った倭人の一部(伯済国は中臣氏族の国か?)が馬韓を統一して百済を建国したのかも知れない(注4)。

いずれにしても、もしも藤原氏の出自が渡来系の百済であれば、朝廷では皇室に繋がる氏族(『新撰姓氏録』の「皇別」)に比べて2ランク下がる「諸蕃」なので出自を隠して、せめてその上の「神別」を出自とする必要があったということなのだろう。

また、謀略好きの不比等は、ライバルたちが悪人だから没落して当然だとして、正統な出自であることも隠して貶める必要があった。乙巳の変で大王家(武内宿禰=大国主の系譜)に繋がる蘇我本宗家を滅ぼした鎌足の悪行と不比等の悪事を正当化するのが一番の目的なのだ。「日本書紀」がそのために作られたことがようやく明らかになってきた。「かぐや姫」の話は不比等を姑息でケチな車持皇子として描いており、姫の「穢き世」という最後のセリフには藤原氏が仕切る世の中への不満が表れていると関祐二さんが指摘していた。



長くなるので、次回に回します。つづきもよろしくお願いします。


(注1)神話の「岩戸隠れ」も「天孫降臨」も持統天皇の孫を文武天皇にする女系天皇の正統性を主張するために持統天皇を女神アマテラスとしたということだ。

「岩戸隠れ」は卑弥呼が日食が原因で伊都国男王に暗殺された伝承を利用したと突き止めた。卑弥呼の墓は見つかってるよ(^◇^)

「天孫降臨」はアマテラスの孫がニニギノミコトということで、神武即位までの日向三代の話はその間を埋めるための創作だ。コノハナサクヤヒメという名前には吹き出す(*^▽^*)

「国譲り」は大国主狗古智卑狗と女王台与の倭国をヤマトが滅ぼした史実を反映した神話だった。建国の立役者物部氏の祖神であるとする経津主神と同行した建御雷神が大国主の力自慢の息子タケミナカタを投げ飛ばしたので任務が成功したのだと、ちゃっかり藤原氏の祖神の成果にしたのだ。

(注2)乙巳の変(645年)で蘇我入鹿が暗殺されたとき、古人大兄が叫んだ言葉が「韓人(からひと)が鞍作臣(入鹿)を殺した。われも心痛む」。蘇我本宗家を滅ぼして実権を握っていた中大兄皇子(後の天智天皇)が660年に滅ぼされた百済の復興を決め、人質として日本に来ていた豊璋に織冠を授け、兵五千と軍船を与え、王位を継がせている。そのような大事な時期に「日本書紀」に鎌足の記載がなく、行方が分からなくなっている。敗戦後に豊璋は「新唐書」では逃亡して行方知れずとされるが、「日本書紀」では数人と船に乗り高麗へ逃げたとある。一方、鎌足は翌年に突然登場する(「日本書紀 天智天皇紀 三年冬十月一日」)。五年後、鎌足の臨終に際して大織冠とともに藤原姓を天智天皇より賜ったとある。詳しくは関さんの新刊「豊璋 藤原鎌足の正体」(河出書房新社2019年11月)をどうぞ。私もこの本はまだでした( ^)o(^ )

(注3)渡来人は異民族とは限らない?( ^)o(^ )
百済人はほとんど日本列島に亡命しているので、今の半島人とはほとんど血が繋がらない。またY染色体DNAを見ると、平安時代にかなりの荘園を所有した藤原氏がツングース系扶余族だとすると、現代日本人男性の多くは北方アジア系(C2)のはずだ。だが、実際はわずかに3%だった(ちなみに現代コリアンでもわずか9.3%)。つまり、百済人というのは渡来してきた場所を指すだけで、人種は倭人(O-47z)ということなのだ。日本に渡来してきた新羅人も、全く同様で現代の半島人ではなく、当時倭人の支配地だった半島南部(伽耶)が新羅に併合されたので、そこに住んでいた倭人が列島に来たので新羅人と呼ばれただけなのだ。新羅神社も白髭明神サルタヒコ、つまり大国主を祭神としているのだ。

本当は怖い七福神の謎(;一_一)

半島人はシナに任せろ!(^_-)-☆

(注4)百済は『三国史記』「百済本紀」に記載される神話では初代王である温祚王が夫余の地から遷って建国したとあるので、満州のツングース系ということだが、建国神話は史実とは認められていない。紀元前2世紀初頭、箕子朝鮮最後の準王が衛満に追われて千人ほどで船で逃げて馬韓の地で王になったと「後漢書」にある。だが、Wiki「百済」によれば、4世紀前半に馬韓諸国のなかの伯済国を母体としており、箕準王の後との記録がないので、上で述べたように春秋時代に半島西部の馬韓の地に移住した江南出身の倭人(呉人)の可能性がある。北部九州と同時期に水田稲作を始めた人たちなのだ。現代コリアン男性の80%以上は満州大陸ではなくシナ大陸からやってきたシナ人(O2)などの戦争難民なのだ。それを言うのなら原始夏人系のY-DNA(O1a)を持つアメノミナカヌシだってそうだったね(#^.^#)

4世紀後半の近肖古王(『三国史記』によれば第13代)の治世下で強盛になり、371年に高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる大戦果をあげている。上で述べた経緯から倭国との繋がりは強いようで、百済の権力層に倭国系の姓氏を帯びる集団(倭系百済官僚)が登場したとある。また広開土王碑文に391年以来、倭は渡海して百済・新羅を「臣民」としたと記されている。このことから考えても、百済は倭人(江南の呉人)の国であった可能性がある。紀元前3世紀末の戦国時代に秦の統一の過程あるいは秦の圧政によって、燕・斉・趙から朝鮮へ逃亡する民が増加した。馬韓の王が彼らを半島東部に住まわせ、秦(辰)韓と呼び、王は馬韓から出したと伝えられている。『魏略』には箕準の一族が韓姓を名乗ったとあるが、戦国七雄のひとつで最初に秦に滅ぼされた韓の民が半島に大量に流れてきたので、韓半島と呼んだのではないだろうか。

最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

日本神話の正体は?(その1)

2020-01-02 00:33:28 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければまたポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


謹賀新年

今年初めての話題は神話と史実にします。余り聞いたことないような話で恐縮ですが、今年もお付き合いください。( ^)o(^ )

日本神話は712年に成立した「古事記」や720年の「日本書紀」などに基づくものだと知られている。現存する日本最古の正史「日本書紀」は天武天皇の命により編纂されたが、完成前に崩御され、優秀な皇子たちを謀略で排除して持統天皇を即位させた、朝廷の実力者の藤原不比等が完成させたものなのだ。その正統性を主張するために神話をねつ造し、藤原氏に都合の良い、天皇家さえ貶める歴史に改ざんされている。その後の神社伝承も多くは藤原氏の意に沿うように、「日本書紀」に合致するように作られたものなのだ。1300年後の現代になってようやく真相が明らかになってきた。

「日本書紀」と同じく天武天皇の命により作られた「古事記」だが、「帝紀」「旧辞」を誦習した稗田阿礼の言葉を太安万侶が聞き取り、筆記し、元明天皇に撰上したということが序にある。天地開闢(かいびゃく)から神代の話、そして日本建国の話などは、基本的に「日本書紀」に倣いながら、少し手を入れて歴史の真相に近づけて物語にしたものなのだが、「日本書紀」にない大国主命を持ち上げた「出雲神話」など独自の内容が書かれている。また、「日本書紀」では本伝の中に多数の異伝を混ぜているので、何が本当の話なのかストーリーがよく分からないのだが、「古事記」では一つの筋の通った話になっているので、比較的理解しやすい。江戸時代の国学者本居宣長が聖典として称賛するので、現代でも人気があり、これが太古の歴史なのかと勘違いする方も多いようだ(注1)。

ところが、「古事記」が偽書だという説は前から言われている。岡田英弘さんの「倭国の時代」(ちくま文庫2009,pp.194-214)に偽書とする根拠が詳しく述べられているが、一番の根拠は以下のことだと思う。「誦習」つまり漢字の用法を一定にすることを目的とする作業を命じられた稗田阿礼は舎人(とねり)ということなので、天皇側近の学者としても秀でた人物であるということなのだが、稗田という氏(うじ)のみで太安万侶のような朝臣などの姓(かばね)を持たないため、当時の朝廷に仕える人物ではあり得ない。また太安万侶も同じだが、学者として知られた業績がどこにも伝えられていない人物たちが国史編纂に関わることなどあり得ない話なのだ。太安万侶は墓誌が見つかっているので実在人物ということなのだが、稗田阿礼なる人物は存在した形跡も他にないのだ。


そして、「古事記」の成立時期を記録した正史「続日本紀」にも「古事記」のことが何ひとつ書かれていないことから序文がねつ造であることは明らかなのだ。岡田さんは内容的にも先に成立した「古事記」の内容を「日本書紀」では異伝のひとつとしても取り上げていないということもあり、突然登場した世紀の平安時代に創作された全くの偽書としている。誰によって何故作られたかも岡田さんが述べている。(2022.12.18 赤字訂正)

しかし、上述のとおり「古事記」の内容が当時の朝廷にも受け入れられて現在まで伝えられ、一定の評価を得ている。また、983年(永観元年)、当時の朝廷の許可を得て宋に渡った東大寺の僧奝然(ちょうねん)が太宗に献上した『王年代紀』が『宋史』日本伝にある。そこには神代に相当する倭の奴国時代の23代の王名などが収録されている(『新唐書』日本伝も、不正確であるがその存在が記載されている)。しかも初代王アメノミナカヌシは「古事記」で登場する最初の神と一致する。「日本書紀」でさえも一書(その四)で高天原にアメノミナカヌシが最初に居たことが書かれており無視できない存在なのだ。アメノミナカヌシつまり最初の奴(ナーガ)国の王が日本の皇室の始祖王だからなのだ。(2020.1.4 青字追加)

当時の日本が倭国から国号を変更したことを遣唐使時代に通達したが、中国の史書と符合しないので国号変更が受け入れられず、中国の史書「旧唐書」では倭国と日本国は別物扱いされた(注2)。そこで、日本の朝廷(第64代円融天皇)も「王年代紀」を示すことにより日本は古の倭の奴国だと中国側に理解させ、ようやく国号変更が認められたという経緯があったのだ。つまり3世紀末にヤマト王権が成立する前の日本神話の高天原の話は、図に示す奴国の時代の史実を反映した内容だということを日本の正史「日本書紀」はしきりに隠そうとしたが、対外的に隠しきれずにとうとう告白したということなのだ。平安時代までの朝廷の貴族たちの間では、日本建国の真相が語り継がれていたようなのだ。天変地異が起こる度に建国時代に不慮の死を遂げた貴人たちが祟っていると信じていたので、ゆかりの神社に手厚く田などを寄進し、神階を上げて災いを喰い止める努力をしていたから分かるのだ(注3)。



図の【天地の始まり】について「日本書紀」本伝は神代七代からだが、「古事記」は別天神として五柱の神々をあげている。神代七代で「古事記」があげた神々が「王年代記」と一致していないのは、藤原氏に少し遠慮したのかな?でも平安中期のこの時期には藤原兼通と弟兼家の激しい確執があったようで、そのドサクサに紛れて了解を得て正しく「王年代紀」を書いたのだと思われる。残念ながら王の即位年などは全く不明だが、第18代奴国王スサノヲが2世紀初頭に殺されていると推理できるので、紀元前4世紀初頭の初代アメノミナカヌシから約500年間で17代は、1世代約30年だから、大きな戦争のない時代だとすると王位の父子相伝として妥当ではないかな?

【イザナギとイザナミの国生み】だが、江南の呉人と縄文海人が王族レベルで婚姻関係を結ぶようになったのだから、それまでも混血はかなり進んでいたのかも知れない。しかし、二人から生まれた奴国王スサノヲが縄文人の風貌をしていて、出雲発祥のバカでかい見る銅鐸を奴国の祭祀に導入しようとしたら、奴国の伝統的な祭祀を行ってきた人々は相当反発したのだろう。神話のスサノヲが高天原を追放された真の原因は多分宗教対立だろう。スサノヲは宮廷楽師の師升らに殺されたのだが。この国生みと神々が登場する神話は史実を反映したものと考えても良いのではないだろうか?(2020.1.3 青字訂正)

しかし、皇祖神天照大御神は、スサノヲの弟ニギハヤヒのことであることが「王年代紀」第19代王天照大神尊であることからも分かるので、記紀神話の女神アマテラスと弟スサノヲの話は全くの創作だったということなのだが、出雲神話の国譲りの話と天孫降臨から日向三代、そして神武東征へと続く一連の話は、次回以降にまとめたい。(2020.1.3 青字訂正)

かなり大胆な考えなので、色々と疑問が起こるはずです。是非、ご意見ください。更なる謎の解明につながる建設的な議論をしましょう。どうぞよろしくお願いします。(*^▽^*)


【関連記事】

【検証9】奴国の大王は凄かった(*^^)v

古代史の謎を推理する(^_-)-☆




(注1)特に、明治政府は西欧列強の侵略に抵抗するために富国強兵の国づくりを行い、国民意識を統合するために「日本書紀」などの神話に基づく国家神道を創設して、国民教育を行った。その影響を受けた戦後の国民も神話と歴史の区別がつきにくくなってしまった。「日本書紀」の批判は戦前まで全く許されず、歴史研究は戦後になって行われるようになったこともあり、戦後の史学者にかなり極端な反動現象も見られ国民の分断が起こっている。しかし、ようやく「日本書紀」「古事記」などの登場の経緯が明らかにされ日本建国の真相が明らかになったのだ。

(注2)大和一元論に反発する戦後の歴史家の流れの中で、中国の史家と同じ大和朝廷とは別の王朝が倭国だという誤解が九州王朝説の根底にあるようだ。しかし、日本の朝廷は日本が古の倭の奴国であったと、「日本書紀」の歴史ねつ造を告白したために倭国から日本への国号変更が理解された事実は、大和一元論を否定する九州王朝説の間違いを証明したことになるのではないだろうか?河内王朝や越前王朝などもろもろの王朝説も同様である。日本は古の倭の奴国に始まるもので、更には春秋の呉、その前は周王朝、夏王朝の流れだった万世一系の天皇を戴く世界最古の国家なのだ。(2020.1.4 赤字修正)

(注3)最も畏れられ、丁重に扱われた人物が宇佐神宮ゆかりの大国主狗古智卑狗(真八幡大神)・台与(神功皇后)と卑弥呼(比売大神=宗像女神イチキシマヒメ)の三人だということを「本当は怖い七福神の謎(;一_一)」で述べた。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング