刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

どうして日本の古代王墓に墓誌がない?(^_-)-☆

2019-09-16 19:20:28 | 古代史
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大和岩雄さんは「箸墓は卑弥呼の墓か」(大和書房、2004)で「魏志倭人伝」にある卑弥呼の墓は、247年の魏使張政の体験と行動から考えて比較的短期間に築造したものと判断し、10年から30年かけて作られた箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないと意見を述べている(pp.49-51)。

また「日本書紀」に被葬者とあるヤマトトトビモモソヒメは、トトビ(鳥のように飛んで)モモソ(沢山の魂)を運ぶ高貴な血筋の巫女という普通名詞であるとしている。また巫女(シャーマン)を「祝(はふり)」というが、図に示すように鳥の羽を付けた三本指の巫女が描かれた土器などが唐古・鍵遺跡などで出土していることから、「羽振る」から来たと説明して、卑弥呼か台与であるとしている(pp.51-57)。(2019.9.18 赤字修正)



そして、築造年代が通説の250年代は卑弥呼の墓にしたいため無理やり持って行っているが、出土した布留0式期の土器から280年代と見るのが有力だと述べている。しかも大物主の妻であるので、夫のいない卑弥呼の墓ではなく、台与のものだいう結論なのだ。


刮目天は【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?で神功皇后台与が伊都国で戦死して埋葬されたとしたが、大和さんの説から考えると280年ごろに応神天皇が即位して、ヤマトで母台与を箸墓古墳に改葬したものと考えられるのだ。従って、戦死した大国主ククチヒコが祇園山古墳(久留米市)に丁重に埋葬されたが、父のククチヒコも後で述べるが、桜井茶臼山古墳に改葬したのだと考えられる。従って、以前に示したヤマト王権の成立過程の図を以下のように若干訂正したい。



前回のブログ「狗古智卑狗という人物?(^_-)-☆」で(注4)を追加したが、ムナカタ族は列島出身の、縄文時代からの海人族で列島や半島だけでなく、長江河口やもっと南部の越人の地域まで活動して、蛇や鳥を神とする越の文化を取り入れたと思われる。紀元前4世紀に楚によって越が滅ぼされると越人の集団の一部が出雲方面に避難して伝えた可能性もある。米子市の角田遺跡に鳥の羽根飾りを付けて舟を漕ぐ羽人を描いた土器片が見つかっている。若狭湾東部の敦賀から北陸・新潟までの地名を越と呼ぶのも越人が入植したことを示すものと思われる。(2019.9.18 赤字追加)



「魏志倭人伝」に倭の風俗が海南島のものと同じと書かれている。しかし、「魏略」では「倭人は太伯の後」つまり倭国の使者が大夫を自称し、倭国の王族が江南の呉王の末裔だということが書かれていたのだが、陳寿はその伝承を採用しなかった。卑弥呼の後に倭国を支配した大国主ククチヒコが越人の文化を取り入れていたことを魏使張政が報告したためということもあるかも知れない。(2019.9.19 赤字修正)

ちなみに、富来隆さんが蛇神はナーガやトビなどと呼ばれると指摘していた(「卑弥呼」学生社、1970,pp.68-113)。江南の呉人に由来する奴国王族や安曇族が開発した地名にナカ・ナガ・ナガラなどが見られる。一方トビヘビの鳥のように飛ぶ姿から越人あるいはムナカタ海人族が蛇をトビと呼んでいたので蛇神に纏わる地名などをトビ・トミなどと呼んでいたのだと考えられる。神武東征でニギハヤヒに殺された登美のナガスネヒコの話はニギハヤヒを祖とする崇神天皇卑弥弓呼王に大国主ククチヒコが殺されたことを暗示する話であり、出雲の富氏などは大国主ククチヒコを祖とする氏族であることを示している。そしてククチヒコが改葬されたと考えたのは桜井茶臼山古墳の場所が外山(トビ)という地名だったからなのだ。その北側の三輪山大神(おおみわ)神社の御祭神大物主大神(大国主大神の和魂)の化身が「へび」であり「巳(み)さん」と呼ばれている。(^_-)-☆(2019.9.20 赤字修正)(2019.10.30 青字追加修正)

さて、表題の「どうして日本の古代王墓に墓誌がない?」だが、やはり建国の真相は物部氏主導の初期ヤマト政権にとっても西晋に対して不都合な事情があったし、8世紀に入って「日本書紀」を編纂する段階で藤原氏にとって建国の真相は極めて不都合であったので、ヤマトの王墓に正しい墓誌を入れることができなかったからではないだろうか。

日本の神道の特徴は、普通の宗教と異なり、教義を書いた経典もないし、勧誘もしないということもある。そして、一般に「言挙げせず」というのが相手の心を大事にする日本人の特性のひとつではあるのだが、その裏には建国の秘密を保持するための暗黙の了解だったということなのではないだろうか。つまり、朝廷に従うからには朝廷の指示を忠実に守らねばならない。その通達文が現在残っているわけではないのだが、各地の王墓にも墓誌は書き入れないというのが初期ヤマト王権からの習わしになったのではないだろうか?

それでも建国当時に活躍した秦氏や大伴氏など、特に没落させられた氏族はとても真相が隠されるのは不満なので、「古事記」や「万葉集」に真相を暴く暗号を埋め込んだということなのだろう。

しかしいくら朝廷が隠しても、伝統的な日本人は神々の祟りが怖ろしいと考えているので、現代人から見ると祟られる方に問題があるということで、つい真相が垣間見られることになる。これも日本ならではの話でしょう。

しかしそういう天罰や神の祟りを畏れる気持ちがなくなると、日本人から確実に倫理観が失われることになり、日本人が日本人ではなくなる。これこそ本物の神の祟りなのかもしれない。

伝統的な日本人の道理・倫理観である教育勅語は復活すべきでしょう(;´Д`)

<参考記事>
越と出雲&羽人はシャーマンか?・前編
越と出雲&羽人はシャーマンか?・後編

刮目天は、当時の丸木舟の絵に全て羽人が描かれているのではないので、比較的少数の越人の風俗だと考えている。何故なら現代男性のY染色体DNAの中で、(江南)倭人系(O-47z)が25.1%に対して越人系(O-M95)は1%未満だからだ。また、羽人がすべてシャーマンとは限らないが、卑弥呼や台与などのムナカタ海人族のシャーマンは羽人の格好をしていたことは確からしい。つまり縄文系海人族のムナカタ族が越人の文化を一部取り入れたということだと考えている。

半島人はシナに任せろ!(^_-)-☆



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