katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

キウイ教室

2018-06-30 01:40:04 | モザイク教室
今日は午後からキウイ教室。それまではアクアリウムバス用の下絵描き。何しろ合間合間にやらないと、6.70個の下地なんてそう簡単には終わらないし、いつもなら下絵を全部終えてから、次は彫る・・・みたいな工程順に仕上げて行きたいんだけれど、そんな都合の良い事は言ってられないので、

下絵の出来たもん順に、随時・・・なんて事になりそうで、いずれにせよ何個か描けたんで、明日から彫る事が出来るって感じになって・・・そんなこんなのキウイ教室。いよいよ女の人に入ったんだけれど、今日は腕をやるに当たって、娘さんにポーズを取って貰った画像を持ってて・・・・。

資料がしっかりあって、キウイのような実力者がこうした準備をしている事をお伝えして・・・ぜひ参考にして頂きたいって話。何と無くなんて作れない・・・って事なのね。やはり上手い人にはきちんと理由があるのね。そんな中、俺は下絵をやっていると、時折呼ばれて見て見ると、ほぼ毎回、気に

なった場所を言うと、やっぱりかぁ・・・と、その場所がほとんど一緒で、けれど、ほぼほんのわずかな角度だったりして、でも一緒。それは別に一緒が良いって言っている訳じゃなくて、美しくしよう・・・とした是正場所が一緒って言うのは、例えば髪の毛を切る長さだったり、スカートの長さだったり

体の部位のわずかな太さや細さみたいな事で、色の事なら、味みたいな話で、コショウやラー油の量とか、塩や醤油の量みたいな話で、本体は同じであっても、わずかな味付けの違いみたいな話をしている感じなのね。って言うと、人それぞれに違うじゃん・・・って声が聞こえそうだけれど、当然なのね。

でも、人それぞれって言葉もあるけれど、人はそう変わらないなんて言葉もあるように、傾向と対策なのね。つまりこれだけキウイと付き合っていれば、こんな事を好むって言うのを教える側として知っているのね。だから、当然提案はいつものキウイならこんな事をして来るよね?・・・って具合に、

俺の意見では無く、キウイだったら?って提案なのね。つまり俺の役目は常に安定感のあるいつものその人である事なのね。なるべく安定したね。だから、いつもと違う事をしようとしているのは本人である・・・そう言う関係が望ましいのね。だから上手い人は、そのいつもの自分の役の俺と向き合い、

突拍子の無い事をしようとはしていないか?・・・とか、いつもはそうするだろうけれど今日は・・・と斬新さの分量だったり、その違いを確認したりするのに使うのね。その時に、新しい事をしようとしたりする時に、時より俺だったら・・・・なんて、あくまで俺だったらを伝えたりする。

そんな事が個人レッスンなのね。それを相席の場合、2人きりの向き合い方とは違って、みんなの意見を聞けたりする。つまり普通は・・・って言う事を探せる訳で。所が勘違いすると、俺はいつものその人の役をやっているだけなのに、正解はそれと一緒になる事みたいに勘違いして見たり、それを先生に

押し付けられた・・・みたいに勘違いされたりする事も多々あるのね。そもそも人それぞれなのだから、みんなに同じ事を言うはずが無いのね。ただ例外もあって、その人とまだ浅い日数の場合、その人の普通のデータが無さ過ぎる。そんな場合は、ここでの一般的な感じはこんなの・・・なんてお知らせ。

つまり普通なんて提案になる。それを何回か繰り返すと、その人の人となりみたいなものが少しずつ入って来て、探り探りではあるけれど、どんな事を好むか?を常に敏感に探して行くのね。まっほぼ、モンタージュを描くやり取りと何ら変わらないと思うのだけれどね。

つまりオリジナルを作るって場合、例えば今日のキウイの場合なら、腕をやっているのだから、いかにこの年齢に見合った腕になるか?を目指すから、昨日の棟梁やみどりのような情緒の部分を作るんでは無くて、精密にこの女の子の年齢を考えた2の腕・・・みたいな事を意識する所なのね。

だから、きちんと資料を見る事が大事で、2人の場合なら、スカートみたいな部分だと思ってくれれば良いのね。ただ棟梁もみどりもスカート部分の違いはキャリアの違いがある分、みどりはしっかり資料を見ながらになるし、棟梁は見なくて良いから流れを気にしつつ・・・みたいな違いなのね。

こう言う違いが実力の差であり、人それぞれの部分であったりもする。そもそも自由な場所って言うのは、情緒みたいな感じる事みたいな場所であり、そっくり作る・・・って部分は資料を見比べっこになるのね。それがフィギュアの自由演技と規定演技の違いみたいなもんなのね。

そんな棟梁も今度は花なんて事になると、資料とにらめっこになるだろうし、彫刻部分の花になると、情緒が必要になるから、更に難易度は増し、いかに季節感を出すか?とか、どんな情緒が出せるか?腕の見せ所であったりする訳で・・・。

いずれにせよ、ここいらの話は、相当な技術論であって、きちんと切れる・・・って事の出来ない人には難しい話なのね。まぁこの辺になると、教える側にプレッシャーも掛かって来て、結果が全てであって、上手く切り抜けるとホッとするのが事実。後は顔かぁ・・・。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

棟梁とお姉ちゃんとみどりの相席教室

2018-06-28 23:55:47 | モザイク教室
今日はタイトル通りじゃなくてkameyaさんのメンバーが相席だったんだけれど、朝、棟梁から連絡があって、まだ来ないんだけれど・・・って。そこで棟梁が連絡すると、どうやら勘違いしたらしいのね・・・。それが来月の予約の日に自動更新されてしまった関係でダブルブッキングしてしまい・・・

その連絡をlineで報告して、午後からにして貰えますか?・・・とって打診するも、行けません・・・なんてやり取りをしたんだけれど、間が悪くその日にちが今日だったのね・・・つまり今月の話と来月の話を勘違いしたらしいのね・・・。そんなバタバタ感ありいの・・・そんなこんなスタート。

それでまずは棟梁ともう一人のリピーターさんが例の温度計をやるって事で、タイルだったり下地の準備から。


ただまだペンキを塗っていなかった事もあって、2人共に茶色って話だったけれど、急きょ棟梁はピンクに変更って事で・・・まぁアトリエでの変更なら、ペンキさえあれば別に何の問題も無いんだけれどね。そんな訳でこうなって・・・次回以降に。それと額縁の話。


ここは彫刻をやっている棟梁ならでは・・・で、額縁を彫るスタイルにするんだけれど、モチーフは向日葵とカスミソウだったかな?いずれにせよ、その花は2人の娘さんって事なのね・・・ほら、始まったでしょ?この時点で、モチーフのこだわりが感じられるでしょ?つまり情緒を出そうとしているのね。

けれどね、ただ2人の好きな花だから・・・ってだけだと、労作展の子供以下になるのね。だって、モチーフの決め方がただ好きな花とかって、だからどうした?・・・って見る人が感情移入出来ないのね。そこに何で?どうして?みたいな理由付けみたいなものが無いと、花が綺麗に彫れたね・・・って話。

つまりその花がどうだった言うのよ・・・って事なのね。そこで額縁って言うのなら四角く角張ったきちんとしたモノ・・・って事になる。それを単なる額にしないって事になるんだけれど、単に普通と違うって考え方では無くて、何が何処がなのね。例えば素材が木って言うのはどちらも一緒。

ただ普通の額は普通の額だけれど、花が入るから花を彫った額になるんでしょ?これなら花が入っているだけで良いのね。けれど更にここに文字を入れると一味も二味も変わって来るのね。例えば彫刻って木を彫るじゃない?じゃ特徴って何?単純に色が無い・・・木の色なのね。

じゃ木の色って?どんな感じ?って話を掘り下げるのね。そうね、子供の頃の、こ、こ、金平糖、金平糖は白いぃぃ、白いぃぃはウサギ、ウサギは跳ねる・・みたいに連想して広げるのね。じゃ木の色は?・・・セピア・・・みたいにね。そうすると、セピアなんて言うと写真なんかを思い出したりする。

そうなると、白黒なんてもんもあったりする。では比較して見ると、白黒の写真ってどんな感じ?何か古臭い感じしないかな?どちらかと言うと、セピア色の写真って言うと、お洒落な思い出な感じしない?・・・・思い出したりして・・・・つまり木の色がセピアな感じだったりするのなら、思い出なんて

キーワードが出て来たりして・・・つまり2人の花がセピア色で彫れる事になる。そしてそれは思い出の・・・って比喩が成立するのなら、向日葵って季節は何?・・・・って考えると、初夏なんて言うのなら、花びらをピーンと張って彫ると良いし、枯れて秋なんて言うのも彫れそうなのね。

もし秋ならトンボなんて言うアイテムを増やすのも良いよね?・・・もしそこが昔の思い出みたいに見えたとしたら?色褪せて行くのね・・・思い出なんだから。つまりモザイク部分の華やかな色の部分が現在であって、額縁が昔の思い出に見えたのなら?ほら、そんな額縁になれば情緒が必要でしょ?

つまり単なる花がちゃんと彫れました・・・では全くそう言う風には見えないのね。いかにそう見えるには?・・・なのね。そうすると、昨日のみどりと同じで、もはやデジャブ・・・・こんな事をやろうとすると、あぁだの、こうだの、それで・・・って一体その説明に何文字使うつもりなの?

って事になる。作文みたいな長い説明をして、そんな額縁・・・って言って、じゃそれを作って・・・・って果たして作れるんだろうか?あははは、まず無理だわっ。ここで大事なのはくじらなのね。くじらは俳句の人。俳句は17文字で全てを語らないとならない。つまりその程度の文字で考える。

そうなると、例えば単純に思い出の額。とすれば、たった7文字。じゃその花のモチーフを使って、どうやって思い出を描くか?になるのね。それをただ彫れました・・・・なら、2つの花が入った額って事になるけれど、情緒の部分が、思い出の・・・・って部分だから、思い出を描かないとね。

こんな事が、モチーフとして使っただけの花と、情緒を踏まえて使う花では、ただそっくり、ただ似ているってだけの話とは違うのね。勿論、彫る行為だけでも難しいだろうけれど、情緒とは更に上の話。例えば音楽だって、楽譜の音通りと、強弱を付けて切なさや喜びなどを表現する・・・。

みたいにね。そんな違いがあるって説明ね。それをモザイクの経験が浅いお姉ちゃんなら、似ているね、硬いタイルが切れたね、良くここまで頑張ったね・・・となり、最後までたどり着けば、良いのが出来るのね。・・・って話で十分なのね。これが初めての大作なのだから。


逆に弟子のみどりとなれば、当然情緒の話は普通だし、きちんと似せるって事でも、当たり前だと思うのね。それが出来るかどうか?では無く、理屈は判って、やっている・・・じゃないと、偶然では結果は出ないのね。上手い人は必然なのだから。それを感だったり、作文のように長々言っても、

そんなの作れる?って一言で撃沈するのは見えているのね。だから、まずは俳句のような方式。短く簡単に判りやすい言葉を使って、誰にでも判るようにして、まずはそこをクリアーして、あぁそう見えるぅぅって言われてから、足し算みたいに増やして行くように作るのね。

これが俳句だと難しくて読めない言葉が沢山出て来たりするし、その言葉は季節を語っています・・・って季語なんてルールがあったりして、補う形もあるけれど、モザイクでの表現って絵画とは違って、不器用な絵になる訳で・・・もどかしさって言う点では、言葉足らずみたいな感覚では、

何か似ている感じもするのね。話は戻して、つまり上手くなりたい・・・の向上心はいつか切る張るを超越すると、結局オリジナルの部分になると、情緒なんて言葉は欠かせない気がするのね。昨日に引き続き、目に見える指導じゃなくて、目に見えない指導って話なのね。

きっとお姉ちゃんには、何の事かいなっ?・・・・って感じだったと思うが、こんな話がいつか判る日が来るのね・・・そう、いつかね。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わんちゃんとみどりの相席教室

2018-06-27 22:18:49 | モザイク教室
今日は久し振りの台湾のワンちゃんがやって来る・・・けれど、体調不十分なlineが入って、行く事は行くけれど、いつもの作品は出来ないし、もっと言えば、作品作りそのものが難しいかも・・・って事だったのね。正直、それはそれで良いから来るだけ来い・・・って連絡をしたのね。

そもそも来るだけ来れば、出来る事はする・・・けれど、来なければ何も出来ない。では一体何が出来る?モザイクが出来ないかも知れないのに・・・。
じゃ逆にどうしてそれでも来ようとする?そこに意味があると感じているから。そこまで信じられるのは?なのね。何故なら弟子になりたい人だから。

別に何も不思議じゃないし、普通と言えば普通なのね。何故なら俺の中に2つのkatsuがいてね、1つは先生katsu。こいつを必要な人は技術のみが必要なのね。つまり、切る張るって行為だったり、似ているようにするには・・・とか、自分の目的のサポートが必要なんだろうね。

それが作家katsuの場合、それも大事だけれど、感性だったり、感受性だったり、情緒だったり、さっきと違って目に見えない事が必要な人だったりするのね。それが規定演技と自由演技の違いにも似たものだったり、いずれにせよ、その違いが大きな差になって来るのね。

その時にみどりは弟子なのだから、当然作家katsu寄りであって普通だけれど、ワンちゃんもいずれ続けていればそうなる。その時に必要になる事は、目に見える事よりも、目に見えない事の会得の方が難しい。しかも、それを磨かなければ、結局オリジナルから遠のく事になる。

そもそもがオリジナルって言うのは、己自身であって、先人の真似では無いのだから、人の真似が出来ない。ではどうやって磨くか?となると、常に自分と向き合う事になる。今、もし体調不十分なら、気が病で病気。当然お医者さんに行けば、病名を言われそれにあった治療や薬が出される。

まぁ普通なのね。所がどうしてそうなった?・・・結局そこを是正しなければ、また同じ事を繰り返す事になる。しかしね、残念ながらお医者さんには治せないのね。もしそこを治したいのなら、お医者さんはお医者さんでも、心療内科にでも行く事を勧めるのね。

ただ自覚が無い限りほぼ無理な事なのね。その難しさはボケを認知される行為とほぼ同じなのだから。それは聞く耳が無かったり、信じられる誰か?がいるかいないか?それで変わって来るが、それを傾向と対策でいち早く気が付き、対処をしていれば、軽症で済む事が、傷を大きくするもしないも自覚。

けれど、いくら身内がボケているよ・・・と言ったとしても、聞く耳が無ければ、そんな事は無いと言うはずなのね。本来はボケているよ・・・と言われた時に、ボケてなんかいない・・・とタンカを切るような人が可能性が大であり、逆にそうかなぁ?気を付けないと・・・なんて言う人は大丈夫。

他には何かを言われて、判ってるぅぅぅなんて言う場合、ほぼ判っていないのね。それを言われちゃったぁぁって苦笑い出来るようなら、自覚がある分、救いようがある。なんてのも、全く一緒の話で、自覚があるか無いか?受け入れられる柔軟性があるかどうか?そして王様裸だよっ・・・って言ってくれる

そんな人が身の回りにいるかどうか?・・・これに尽きるのね。そんな事を踏まえて、何も出来なくても来る・・・この行為自体、俺は信用されているのだから、必要なのは俺の眼で見た、今のワンちゃんの状況説明であり、俺にはこう見える・・・これが必要な訳で。信じられる人の意見になる。

ただ問診なんてお医者さんでも必要なように、俺にだって相手の情報は必要なんだけれど、俺の知っているワンちゃん情報は少ない。けれど、知っている情報の中で、お父さんが亡くなった・・・ってものを超えるようなものは無いと見た。つまり、それを100と考えた時、それがお母さんに不幸・・

って事があったにせよ、一度の経験値を持ってしまった以上、いくら両親に甲乙は無いと言い張ったとしても、同じ100にはならないものでね・・・・
人間とは残酷なもので、慣れてしまった分、数値として98みたいにそれよりも低い設定だったりするものなのね・・・。

となると、恐らく1つの事で気が滅入っているのでは無く、あれがマイナス50、これがマイナス20、そしてそれがマイナス30みたいな、混合であって、マイナス面が合体したような、悪い事が重なってしまった・・・そんな所かな?と思っていたのね。1つだけでは超えられないから。

じゃ一体それは何だろうか?・・・になる。徹底的にそれについて話す。答えが見つかるかどうか?なんてどうでも良い。もっと言えば、答えありき自体がナンセンスで、そもそも確実に自分の思い通りにオリジナルが作れるのならまだしも、自分と向き合うことをしない人はそう簡単にたどり着ける

とは思えないのね。つまりこれも今後の自分の傾向と対策であって、どんな状況下でそうなっているのか?環境はどうか?と考えられる事全てを通して、向き合って最終的にこれなのかな?って所まで気さえすれば、もしかするとそれが原因かも・・・って所まで来る。

そしたら、今度はこんな場合にまた同じ事が起きる可能性が考えられるので、それをいち早く気が付けば、今よりもマシな結果になる。それをそんなもん・・・と馬鹿にするような場合なら、地震の連絡なんていらないよね?だって数秒前なんてね。けれどね、覚悟って言うのなら、その数秒が必要

なんて事があるかも知れない。つまり必要な人には、俺の話もそんな程度の数秒と同じ話。そうかと思えば、五感な話で、美味しくて満足だったり、見て潤ったり、良い香りにほっとしたり、触って感じたり・・・いずれにせよ、人は五感で感じ取る。そんな事がある。

だとするのなら、話せる人がいる。一緒に考えてくれる人がいる。一人じゃない・・・そんな事を持っている人は孤独にはならない。孤独じゃないのなら人の意見が聞ける分、独りよがりな意見で生きなくても済む。三人寄れば文殊の知恵とは?そう言う事でもあったりする。

そして更に言えば、その五感に触れれば、実は心ある人と話す事は心の潤いにもなる。満足感にも繋がったりもする。それがもしその人の五感に触れられる行為であれば、目に見えない事がその人の力にもなれば、それこそが気が病・・・つまり気だけでも前向きになる。

俺は必要な場合には、いずれ弟子になる・・・そんな人ならば一生付き合う人なのだから、出し惜しみの無い向き合い方をするだろうし、それが何かの足しになるのなら・・・勿論、必要なら・・・って言い方もあるが、準備と言うのなら、必要とされるような人になれるように・・・・。

そんな考え方もあるだろう。さて、それでは、この考え方を作品に応用すると、どうなるか?


そんな中、みどりが更なる提案をして来た。それはこの老婆心の扉に自分が大事だと思う事を増やしたいと言うのね。それは花言葉が無償の愛みたいなそんな花。では仮にそれを付けたらどう見えるのか?って話になると、老婆心ってもの自体、自分よりも下の者へ、上目線で心配する・・・。

そんな行為。しかも頼まれてもいないのに・・・。そこに無償の愛が必要なんだ・・・と老婆心の上乗せをする。あぁしつこいって感じ。そもそもが上乗せ、上乗せ、って、そもそも幸せな奴らは、別に老婆心なんて欲しく無いし、必要とは思っていないのね。あはははは。

言い過ぎなら、しばらく居なくたって忘れるくらい楽しいわっ。それなのに、やってやっている・・・って位、親の愛情ってのは押し付けっぽいもので、もしそうなら、みどりのはもっと上乗せって感じになる。つまり全力の全力・・・じゃ数字にしたら?100じゃなくて、110とか120とかだね。

じゃ聞こう。じゃお姉ちゃんに120の数値にしたのなら、平等にしてくれるよね?きっと・・・かるびにもね。あはははは。無理だわっ。さっき言ったよね?人って残酷なのね。経験値だったり、慣れなんてもんがあるとね新鮮味に欠けちゃうのね・・・だから同点にはならない。

つまり同点にするには、98くらいが丁度良いのね。するとマイナス2になるのね・・・満点じゃ無くてね。それをやり過ぎな奴は満点の100よりも上乗せしちゃうのね・・・全力の全力でね。もはや100設定すら嘘っぽい。しかも、その言い訳が、親だから後悔しないように・・・。とね。

しかしやり過ぎるならまだしも、やらな過ぎて後悔の無いように・・・的発想。でもね、もはや全力の全力ではやり過ぎなのにね。あはははは。そこで腹八分目なんて言葉があるが、流石に八分目では後悔が残り勝ち。そこでマイナス2、位にして置くと、やらな過ぎでは無いし、たった2なのね。

そこをきちんと納得すると、本来は全力の全力でやろうとしていた事を考えると、最低2は余力を残した事になる。しかも納得ずくでね。
じゃその2は余っているよね?それをお姉ちゃんにつぎ込むんじゃなくて、かるびにつぎ込むのよっ・・・たった2をね。

そもそもお姉ちゃんは出て行くし、かるびはまだ残るから・・・そしてかるびも出て行く時には全力で・・・って。もはや専念みたいな感覚。わずかの2、位は気に掛ける余裕は無いもんかねぇ?・・・。でしょ?

じゃその2で何を作るか?ってなると、そもそもディズニーなんかが好きなら、人魚姫なんてのがあるよね?好きな男に会う為に、尻尾があっても綺麗なのに、話せない、戻れないなんてリスクを背負って引き換えに足を貰うのね・・・そんな話に感動したりするのね。ならそうすりゃ良いじゃん。

つまり2の分で、人間になれない何か?を描くのね。例えば老婆心の扉を開けるのは、単に大人になったからなの?・・・浅いなぁ。違うのね。おっぱいが出たから大人になったから・・・じゃなくて、扉の向こうの一筋の光を信じて、向こうの世界を見に行くんじゃないのかな?・・・・

それはもはや進撃の巨人的な世界観。そもそも、親の愛が最高ならそのまま居りゃ良いじゃん。なのに出て行くのは何?どうして?誰かを取りゃ、誰かを置いて行くのは普通じゃん。しかも俺もそうだが、失敗する可能性だって秘めている訳で・・・。

成功ありきじゃなくて・・・リスクを負ってでもね。誰もが幸せになれる訳じゃないのだから・・・。少なくともそのままいれば、みどりの愛情は受けられるのにね。つまり余り2で例えば、リスを作ったとする。その意味はね、扉を開けようとする女の人になるには?何かが必要なのね・・・何か?

でもリスのままでは、その何か?が足らないからなのね。その何か?を手に入れたり、それを知ってしまったり、その老婆心の扉の向こうに見出すものを求める覚悟みたいなものが伝わる何か?を描ければ、そのリスもその時が来た時、いつかリスだった子もこの女の人のように旅立ったりして、

それは好きな男とは限らず、仕事でも良いし、夢や希望、いずれにせよ、老婆心の扉を開けてまでも・・・の覚悟や情熱みたいなものが描けると、このモザイクは更に深い作品にはなると思うのね。しかしね、今でも十分な作品だと思うのね。何故ならワンちゃんは生で見るのが初めてなんだけれど

世界観が十分伝わっていたから。なのに更にまだ付け加えようとする。しかも本人も自白してしまったが、余白で何か出来る事は?って。おいおい、余白って、余った部分で・・・って言ってしまっている。つまり自分が大事にしている部分にリスクを負わずに、安全な場所だけで何かをするって・・

随分と都合の良い事を考えているんだね・・・さてここから更に突っ込んで膿でも出そうかね・・・。つまりその考え方。その教え、伝承はしていないだろうね・・・2人も子供がいるのに。ドラマでも言って無いかな?何かを得る人は何かを捨てないと・・・。

何をぼぉぉぉぉっとしてんだかっ。人魚姫だってリスクを負うのにね。あんまり浅い事は言わない方が良いのね。捨てるからこそ必死で何かを掴むんであって、手放さない、欲しいでは単なる私利私欲。その何処に無償の愛があるのかな?あはははは。

まっ、これでもか・・・ってのも全力で結構。しかしね、押し付けは鬱陶しい。そしてこの程度言われて諦める程度の構想は大した事では無いし、もっと説得、納得する何かを持って来い・・・って話。しかし、必死で考えたと言う姿勢だけは、良く頑張った・・・って2点位は差し上げるけれどね。

そもそも別に一生を掛けて作ったってもんじゃ無いのに、必死にやっている。そこは買う。ただ、この程度でヘトヘトでは、娘の結婚なんてもんと向き合うなんて、もっともっと大事な事なのだから、失敗は許されない。この程度の向き合い方なら大した労力では無かろうがっ。

そもそも作品は自分自身。別に良いじゃん・・・ならそれでも良い。けれど、今何を作っている?娘の結婚を作っているんじゃないの?あはははは。ただの必死な向き合いなんじゃん・・・ほれ、やれやれってな話。ほら時間も無いし、余白も無い。これで良いのか?なんて事例も無い。

誰も責任なんて取ってくれないし・・・どうするぅ?諦めるぅ?向き合うぅ?・・・別に頼んでないし・・・ほらね。実はこう言う作品に向き合うって言うのは、だから自分自身なのね。そしてそこに向き合う事は、本当に向き合う姿勢こそが、本人と向き合う練習であったりもするかもね・・・。

まっ人それぞれって事で曖昧にしとくけれど、言葉で伝えるのも良かろうが、それならくじらも俺も片手落ち。17文字の俳句では何も伝わらないし、もはや文字では無くて絵でも無いから、不器用なパーツでの組み合わせ・・・こんなもんで何が伝えられる?そう思うだろうね。きっと。

そんな側の人にはね。しかしね、きちんと伝えられる人ならそれも良かろうが、足らない事が美に繋がる事があるかもね・・・ってな話。その先にある、貴方はどうですか?・・・・は、見た、聞いた、受け手の自由であり、五感で感じ取る・・・眼に見えないやり取りなのね。

当然、受け手の五感を揺さぶらないとならないが、受け手の五感を敏感にするって事も大事なのね。少なくともこうして毎日更新しているのも、感受性とは何ですか?って言う事を更新しているようなもので・・・・これが宗教みたいなものなら洗脳なんて言う言葉にくくられてしまうけれど・・・

感性、感受性なんてもんも、体力や知力みたいなもので、感じ無いのならそれも力。無神経って言うのも良いと思うのね。小さな事は気にしない・・・って世間の波を渡りやすい。けれど、もしモノを作る側に来てしまうと、繊細さなんて言うのは、誰にでも出来る事では無いのね。

感じる・・・だから感性、感受性。敏感、鈍感・・・どれもこれも感。必要ならそれも鍛えないと、得られないと思うのね。ただね、それを本を読む・・・って昔は単純な表現で言われたが、読めば良いか?って言うと、読んだだけでは感じない。だから?何が?どうして?って感じないと。

ただそれが度が過ぎると、俺のように生き様が知覚過敏。ただこれだけ多様化している世の中に1つだけの生き方・・・オリジナルってそんな事なんじゃないのかな?そんな道甘く無いんじゃないのかな?・・・・俺はそう思うのね。これが俺はそう思っただけで共感されなければ、独りよがり。

そしてそれは自己満足。けれど、それもこうして弟子がいて、こうして台湾からやって来る人がいるのだから、どうやら必要とされているのだから、そうでは無い事になる。しかも、安い感じのSNSのような良いね・・・はタダだから、押しやすいがお金を出してでも・・・となると、そんな簡単な

話では無くて、そこに責任も発生したりする。いずれにせよ、単なるテクニックの指導とは責任の重みが違うのね・・・こっち側の指導はね。考え方の指導なんて、信頼感が大きくないと、受け入れがたいだろうし、これが成功者なら聞きたくもなるが、俺程度の話・・・どう感じるかな?

いずれにせよ、その今のこの程度の俺の考え方を必要な2人。当然俺もこのまま留まる気も無いし、共に成長するって考え方なら、次に会うワンちゃんは、今日のワンちゃんよりも前進しているはずだし、俺も同じ分前進していれば、前を歩けれるが、教えた分、追い付かれてばかりでは、その内に、

いらなくなるものでね・・・・先生とは先人で前を歩かないと行けないし・・・いずれにせよ、これだけの話をしてもまたお金を払っても来ると言うのだから、それが自信にもなるのも事実だし、責任も重い。ただその分、生きる価値とか糧みたいなものは見出せる。

家族を持てず50を過ぎ、まともな生活では無く、それでこの先どうする?となれば、考えただけでも恐ろしいが、それを持っているだけでも前を向ける。あれ?一筋の光だけで何かを捨てて前を向く・・・あはははは。一緒じゃん。お後がよろしいようで・・・。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リピーターさん2人と班長教室

2018-06-26 23:56:47 | モザイク教室
今日はエピソードとしては、ズバッと切る斬鉄剣の五右衛門みたいな切れ味の会話が売りで旦那さんがタイル屋さんの方と、クジャクの方と、班長教室。
まずはそのズバッと切る方から。その前にハンドルネームをスバギリと五右衛門とどっちが良いかな?って悩んでいるのね・・・あはははは。

それでは・・・ってこの方は、全然今のこの作品作りにこだわりが無く、何しろまずは基本とか、練習とかって意味であって、結果では無くプロセス重視なんで、徹底的に取り締まる感じの、ニッパーの持ち方だったり、握り方、刃の角度、脇、肘みたいな所、更に言えば、大胆かつ繊細が持つ意味など、

上手い人の何が上手いか?の説明だったり、正直そんなにいっぱい初めから・・・って言う位、詰め込んだ話をしているのね。勿論、手は動かして貰って・・・ね。例えば、ニッパーを短く持てば、テコの応用的に考えれば、ぺきぺきなら柔らかいから平気であっても、硬いタイルでは疲れて来る。

ただそれも数少ない場合はそれも知れているが、単調に同じ事をするような半分に切るような場合だったりすると、場合に寄っては物凄い数を切る可能性がある。そんな場合に、はっきりとした事が結果に表れるのね。もっと言えば、そんな数を切らなかったとしても、必ず疲れてくれば力で切る。

本来はもっと楽に切れるし、力もそんなに関係無いものだが、短く持ち、疲れが出れば、当然最初の1枚目とは違うから、蓄積疲労から最初よりも力を入れる。ただそれだけでは無理なのね。要するに何でも一緒なんだけれど、足りないものは何かで補う事になる。じゃ何か?となると脇を開け肘を張る。

そうすると、さっきまでやっていなかった事を付け加える事で、力を入れる・・・って事だけを補うのなら、それで解決はするのね。肘を張って脇を開けるとバイクを運転するような形になる。それで例えば膝か腿に手を当てて切れば、ニッパーを手で握る力よりも挟む感じになるから力は倍増する。

ただ、これは解決したのは力の倍増であって、正確さは欠けてしまったのね。簡単な話で目的は何か?なのね。目的がもし正確さだとしたら?脇も開けないし、肘を外には張らない。しかもこの姿勢を取れば、ニッパーの持つ手首は90度に曲がるから、握ると言うよりも親指で押す形になる。

完全に親指の付け根と手首をニッパーの重さで腱鞘炎になるべくしてなる状況になる。って言う仕組みね。これは何でも一緒で、足を怪我をしたりすると、通常通りでは歩けないから、そこをかばう。かばうと、かばった場所はかばわれたから楽になっても、かばう場所は鍛えられていないから、負担に

なる。当然気が張っているからそれには気が付かず進めるが、痛みを感じなくなる頃、治った場所は楽になってもかばおうとしていた部分の負担の痛みを感じる事になる。それを家族単位で考えれば、子供をかばって気を張って、最後にお母さんが具合いが悪くなる・・・・みたいな話。

おっと話を戻して、つまり力を補うから正確さを捨てては、仮に切れたとしても上手く切れないのね。だって正確さを捨てたんだから。それを正確さを残しつつ、補えないか?と考えると、テコの応用として柄の遠くを持つ事になるが、そこを持つと当然重みを感じる。だから短く持ちたくなる。

それをまた補う為に、そのニッパーを持つ手を体に固定させる事で、重みは感じなくなるし、固定される事で、安定感が増すのね。ただ後は、どの部分に固定するか?になるけれど、そこかよっ・・・って部分が、座った足の膝あたり・・・こんな場合は、肘もわきも開いてしまうのね。

しかも姿勢が前のめりになるから、頭が完全に下を向く。これで手元が暗くなったりもするし、今度は首が痛くなるのね。要するに始まったばかりなら、どんな姿勢でもどんな握り方でも良いが、長い時間の場合、必然的になるべくしてなるものなのね。だから基本なんてもんが必要なのね。

でもこんな話詰まんないじゃない?だから、普通はそんなには言わないのね。まずは楽しむ。まずは満足。だから結果って感じでね。


だから、この方の場合には、こんな事はたまにしか言わないのね。自宅ではやらないから、困る事は無いし、ここでの時間内だけなら疲れたとしても、たかが知れているし、ただたまに声掛けくらいはしても、いちいち何度も・・・になると、しつこい感じもするし、これだけ作れれば後は時間。

恐らくこのまま続けて行けば中々の結果は出る。だから楽しむって点では、十分なのね。どちらも必要な事なのね。只今それがもしそれを超える事になるのなら、スバさんは結果を求めようとする事だったりするし、くじゃくさんの方はプロセスだったりするのかもね・・・。

ただ当分このままで。そうね、スバさんには次回から宿題を出すのも良いかもねぇ・・・って感じ。では班長。


自分でも言ってたけれど、1か月開いちゃった事もあって、それでは流石にここまで作れる人でも忘れてしまう事がある。勿論、技術の話もあるが、ただ座っていたとしても3時間・・・結構な時間なのね。要するに習慣になっていた事が途絶えると、それが元に戻るまで時間が掛かるものでね・・・・

勿論、更に結果としても、常にこの位は終わっていたのに・・・・と思う気持ちがあればある程、結果が付いて来ない苛立ちのようなものもあるし、サッカーでは無いが、90分の中であっても攻撃の時間帯と凌がないとならない時間帯があるように、モノ作りの敵は自分自身なのね。

しかも上手くなればなる程、自信になる。けれど、その自信が良い事と悪い事は背中合わせで、ちょっとの事で結果が思わしくないと、気持ちが削られるのね。別にサッカーのように足なんか削られないけれど、心がね・・・。ただ、まだ気が付いていれば、チェッ・・・って位で済むけれど、

意識が無いと、今日は調子悪いわっ・・・って感じで、削られている気持ちを感じないまま、結果のみで判断したりするのね。けれど、それはこれだけ作れる人の調子を崩す原因があるのね・・・その中の1つとして、1か月開いた・・・って言うのがある・・・ってだけ。

本当はもっと違う部分にも問題はあると思うが、逆に言えば調子が悪いなりに進められる・・・本当なら本人もそっちを褒めるべきなんだと思うんだけれどね。そんなこんなで今日はおしまいになったが、そうね・・・俺に取っては後3日・・・そんな気分なのね・・・・。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

労作展用の下地とノアさんからの依頼作品の下地作り

2018-06-25 20:54:59 | モザイク教室
今日はお教室が無く、そんなこんなの振り返るとやる事が満載で、何しろ5人となった労作展の子達の下地を早急に・・・って感じで、まずはハビとイカ2の下地。イカ2は切ってあったのでペンキ塗り、ハビのは輪郭を切って接着させてその輪郭をトリマーで彫って、ペンキ塗り。


イカ2のお兄ちゃんの下地は、柿渋は塗ってあったんで下塗り。これで後はペーパーを掛けて仕上げのニスを塗って完成。次回で終了。


もう一人のは、額縁なんだけれど、ひとひねりあって、明日以降に文字を彫って合体すると完成って感じで、この4つは次回1回で全て完成となる。
後はゆづの額縁だけ・・・。って所までになり、他には、温度計の追加分、kameyaさんのリピーターさんに頼まれたもの、高洲のご新規さん用と、そして

アクアリウムバスに、デイ・サービスと、かなり押してる感じなのね。更に言えば昨日のみどりのお姉ちゃんの・・・となると、結構な量な気もするし、かぐやにお教室を止めますか?・・・って言う位、有難い話なんだけれど、本当にそんなにかな?・・・なんて思ったりもして・・・。

いずれにせよ、日程に沿って順番にこなして行くしか無いのね。そんな中、ノアさんからの依頼作品も下地は終わったのね。


中央を一段下げてくり抜こうかとも思ったんだけれど・・・今の所、躊躇って感じで・・・このままで良いんじゃないのかな?・・・って。そうね、今週は何しろ余り考えないで何と無く過ごしたいのね・・・何と無くね。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

かるびとみどりの親子教室

2018-06-25 02:06:04 | モザイク教室
今日はかるびとみどりの親子教室。それがいつもよりも若干遅くなるって事で、それならアトリエに行こうかな・・・って。小雨混じりだったんだけれど、午後から晴れるとも言ってたし、いずれにせよ、昨日のハビの下地を少しでも進めたいのもあって・・・。そんな理由から出発。

すると、何だか通勤時に何か撮影してるなぁ・・・地域のテレビかな?と思うと、A・B・C-Zの塚田君だったのね・・・他の人じゃ判らなかったと思うんだけれど、特徴あったから判ったんだけれどね。カッパ着て歩いていたのね。その前に男の人と女の人がストック持って歩いていたんだけれど判らなかった

そんなこんなでアトリエに着いて、様子を見て誰も居なそうだったんで、切るだけ切れるかな・・・?と、小雨の中、切るだけは切って・・・。そんなこんなで少し前進なんて頃に、かるびとみどりの送迎となり、その前に出来る事はまずまず予定通り。

そんな中、みどりがお姉ちゃんの結婚式に・・・って作る小物の相談となり、答えは出なかったんだけれど、何十個も作るような事だったんで、お金も掛かるし、手間も1つあたりが大した事は無かったとしても、何十個も・・・となると、正直、簡単な事では無いし、折角やるのなら、結果は出したいし。

いずれにせよ、今日のみどりはそっちでいっぱいで・・・俺もそれに付き合った感じ・・・。そんな中、かるびはいつも通り地味ぃぃに前進。いずれにせよ、何十個となると、結構大変なのね・・・・。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

kameyaさん教室とハピがやって来た

2018-06-24 02:29:15 | モザイク教室
今日はkameyaさん教室で3人。まずは以前終わってはいたんだけれど、外側のペンキを塗っていなかったんで、何色か持って行ったんで、これで完成って事で、おかみさんから。そもそも、この下地は体験用だったんだけれど、こうして上手い人が時間を掛けると・・・って作品。

もはや何処にも体験の匂いはせず・・・ただただお見事なのね。そんなおかみさんがべきべきで遊びな作品を作ると・・・


これは根付風味の下地なんだけれど、以前飼っている犬って事で彫った下地なんだけれど、さっきの作品を作った人が遊びで尚且つ、べきべきで、3時間位かなぁ・・・それでこれだけの進み具合・・・・判るかなぁ・・・この複雑な話・・・。ちなみに大きさは握ると卵くらいの大きさ・・・。

簡単に言えば、切る事や張る事が上手いから出来る事で、誰にでも出来る事じゃない・・・って前提な事なのね。つまりこの根付風味の下地は体験のような初心者には無理なのね。だってあれだけの作品が出来る人が、これしか進まないのだから・・・。

それをこの可愛さで勘違いさせられるのね。わぁ、可愛いぃぃ、やって見たい・・・って思っても、いざやると、ちっとも進まないし、思うような形にならないし、そもそもその形にならないと、彫った所に入らない。ある意味地獄の特訓みたいになるのね。それをこんなに木にピッタリ入れている。

ここで問われるのは、切る技術ね。きちんと切る。けれど、切ったとしても、それをピンセットでつまんで、ボンドを付けて張る・・・今度は張る技術ね。ここまでは判りやすくても、もう1つ目に見えない技術のようなものがある・・・それが根気なのね。えっ、そんなもん・・・って思われるだろうが

それは、さっきの作品のような、小さくても何十時間掛かったの?・・・・って果てしなさを経験した人には、たかが知れている数時間みたいな話。例えば、この犬が今3分の1位終わっていたとしたら?じゃ10時間程度で終わるんでしょ?後2回じゃん・・・って話。つまり何て事は無いのね。

そうね、おかみさんにはね。それが、初心者には、そんな根気の問われる作品は見た目の可愛さとは違って、恐ろしく果てしない根気が必要になるし、もっと言えば時間を掛ければ出来るって作品では無いのね・・・恐らく仮にこのデザインで初心者が作れる大きさにするには、15cm以上じゃないと無理・・

つまり根付のように持ち歩く大きさでは無くて、飾り物として置くような大きさになるだろうね・・・きっと。それが逆に棟梁のように大作となると、


オリジナルとしては同じであっても、大きく、硬いタイルで、いつ終わるか判らない果てしなさ・・・もはやこの大きさになると、弟子やキウイクラス・・・つまりこんな果てしなさ・・・つまり根気を身に付ければ、それからすれば根付風味の下地は遊び・・・って話になるのね。

こんな事が出来る人達には特に教える事って余り無いし、こっちとこっちどっちが良さげ?みたいな軽い相談みたいな事であって、1人でも出来る話。だから、おかみさんなら遊びの作品・・・って扱いになるのね。そんな事をこれは大作、これは小物みたいに作り方を変えられるような事は実力者なのね。

これをこの方のように・・・


この作品を全力でを取り組んでいる・・・こんな場合、この人に取っては大作な訳ね。そんな場合、仮に根付風味の下地をやったとしても、出来ない事は無いんだけれど、それでもこれでも全力でやらないと作れないのね。つまり作り方は一緒なのね。そこが大きな違いなのね。

つまり果てしなさに慣れれば慣れる程、終わりの見える作品での果てしなさなんて言うのは、ほぼ遊び・・・って事になるのね。上手くなるって言うのはそんな意味もあるし、上手くなった人の遊びって言うのは、こんな事になる・・・そんな説明なのね。

仮にね、ここに入会した人がいたとするじゃない・・・・?何も知らなきゃ、おかみさんが一番小さな作品をこれだけしか進んでいないから、一番下手なのかなぁ・・・って思ったりするだろうね・・・きっと。しかも可愛いって上乗せ・・・フェイクするには好都合。

けれど、実際はカサブランカの方が一番実績は浅いのね。そんな勘違いのまま、ぺきぺきで作品を始めた瞬間、おかみさんの凄さが初めて判るんだろうね・・・あはははは。まっ、真の技術って言うのは、やればやるほど差が判るもんなんだけれどね。

いずれにせよ、高洲もそうだけれど、ここもかなり底上げした感じがあるのね・・・ここの所、メキメキね。そんなこんなでアトリエに戻らずに、送迎・・・・急きょ予約が入ったのは、ハビ君。ここはオープンにしても大丈夫なんで、去年の慶應の子ね。労作展でゆづと賞を貰った・・・。

また来てくれたのね・・・1年振りに会うと一回り大きくなってて、たった1年だけれど懐かしいし・・・ゆづでは無いが、久し振りぃぃって感じになるのね。ただ労作展なのね・・・そんなに楽しんでばかりはいられないし・・・しかも今年はこれで5人目。中々手強いのね。

しかも、ハビは2年目だし、受賞者だし、色んな事を考えちゃうのね・・・しかも、もう始動している4人がいるし、でも遅れている訳じゃないんだけれど・・・そう簡単とは思えないし・・・所で今年は何を作るつもりなの?って聞くと・・・えっ?・・・。

そうね、例えばゾウを作りたいって言われたとするでしょ?じゃゾウを何㎝で作るつもり?となった時、40cmって言われても、労作展に持って行っても、みんな大作なんで鍋敷き程度にしか見えないのね。しかも、ゾウは大きいってイメージなのに、40cmじゃねぇ・・・。

例えばこれが、同じ40cmなら、アリとか、ミジンコ、微生物だとしたら?そんな大きさ見た事無いぃぃってならないかな?つまり、小さなマグロなら、大きなイワシの方が面白さが増すのね。ってな話をすると、理解出来たようで・・・それで自分のやりたい方向性が決まったらしく、下絵を描く事に

なり、8時頃には描き終わり、下地の木を買いにunidyに・・・。そこには俺の作品が飾られているんだけれど、その作品がハビには参考になるはずなんで・・・ただ店長が変わって物が立て掛けてあって、ネームは見えなくなっているんだけれどね・・・。昔と違って粗雑な感じになっているのね。

しかも、加工室の前なんで、見たく無くても行けば目に入っちゃうのね・・・まっ、その程度の扱いなのは、その程度の人の作品だって事なんで、そのまま終わらない為にも、それを見ていつか・・・いつか挽回しよっ・・・って、振られた女の人じゃ無いが、いつか見返してやるぅうぅって話ね。

あはははは。っな訳で、駅に送る頃には9時を廻るかな・・・って事になったが、今年の夏も長くなりそうなのね。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キウイとお母さんの相席教室

2018-06-22 21:43:19 | モザイク教室
今日はキウイとお母さんの相席教室。って、お母さんは休憩・・・って感じの、お遊び教室。それがこれ。デイ・サービスやら高洲での体験用の下地。
それをやって見たい・・・って事で、お母さんバージョンになると、これが本人曰く、高級タイルで縁取り・・・って。

確かにガラスタイルのこんなのは値段も高いし、何と無く雰囲気も高級なクラブとかに使いそうな感じでもあったりするのね。その高級タイルの縁取りは自宅でやったらしく、今日は中身。それで何が良いだろうか?って相談されたんで、高級なんでしょ?・・・って確認。

要するに自分の言葉通りに進めば良いのね。後はどれだけ高級になれば良いのか?のさじ加減なのね。つまり有り得ないのがぺきぺきの提案だったりする・・・それは明らかに可愛いとか、幼い・・・って方向にあるからなのね。となると、どんなのがお母さんに取っての高級なのか?探りになる。

例えば安全を重視すると、中身は白のガラスタイルのクラッシュでどうだろうか?それなら邪魔はしないし、縁取りがメインな感じに協調される。それを縁取りなんかにゃ負けねぇぜっ・・・ってやるのなら、もっと目立つのを・・・になるでしょ?ただ目立てば良いだけなら、赤でも良いよね?・・・

違うのね。つまり高級なのね・・・高級で目立つ・・・こうやって探して行くものなのね。まっ、犯人捜しの為のモンタージュなんてのとほぼ一緒。
ヒントをきちんと整理する。これを怠ると単に色合わせ。安い作品へ走って行くのね。そんな感じで探すとこんな色のガラスタイルになったのね。

つまりお母さんの探していた高級で目立つとは?シックな感じであって、更に言えばトッピングとは言えない位、大き目な梅干し的なものが主張する・・
ある意味、縁取りは序曲みたいで、更なる迫力ある・・・そんなタイルを入れたのね。こうなると、良いとか悪いとかじゃなくて、お母さんが良いか?

どうか?であって、いつもの大作では冒険出来ない事をガンガンやるべきなのね。それが仮に失敗に繋がったとしてもね。要するに大作は失敗したくない・・・ってスタイルになりがちだけれども、遊びの作品はあくまで遊び・・・いかにチャレンジ出来るかなのね。

そしてそれが上手くなった人の楽しさなのね。ちょっとふざけて見たりしてね・・・人のやる事は大抵は一緒であって、大作が突っ込み的なフォーマルな仕上がりを目指すなら、小物はカジュアルでボケをかまさないと・・・ってこんなのがバランスだったり・・・するのね。

きっと好き放題やった感じあったと思うのね。これがキウイとなると、生徒のエース・・・こんな人が作る遊び・・・カジュアルだの、ボケって事になると、


って感じで見ると、ほぼきちんとフォーマルで、、ボケてる感じがしないでしょ?・・・でも、本人曰く、そんなに時間を掛けずに、そんなにこだわらず・・・って言ってこれ・・・しかも、それが結果として2人の娘に素敵ぃぃと言われても、それじゃ以前の作品とどっちが良い?って聞けば、昔の

テーブルの方を欲しがるのね。何もかも大作と変わらない感じがするのにね・・・勿論好みは人それぞれあったとしても、子供でも目の肥えた場合、きちんと素晴らしい方を選べる訳で・・・いずれにせよ、キウイにとって気分的にはお母さんの温度計作りと何ら変わらない・・・そんな話。

それを踏まえて、先日のかぐやとのやり取りの中で出て来た、最高の提案と最低限のクリアー的な表現の本当の意味の違いが明らかになるのね。そもそもお母さんとキウイの作品、どっちが時間が掛かっていると思うかな?まっ、聞くまでも無いのね。そうキウイなのね。

では制限時間を2時間って決めてやったらどうなるかな?・・・まず2人共作れないだろうね。つまり上手い人って言うのは、切る張るって技術がある前提で、その上時間を掛けるから上手く見えるんであって、初心者に2時間の提案・・・何が出来ると思う?

しかも、ここが間違いやすい所で2時間じゃないのね。そこまで使われたら、目地をする時間は無いのね。つまり1時間程度で張り終わるような提案をするって意味なのね。それを最高の提案って・・・何年やってんだかっ・・・こいつは馬鹿かっ・・・って話。

そしてそうなる理由も今の話の前のキウイとお母さんの話も関係していて、出来る人、上手い人はついつい出来る事、上手い事を忘れて、加減をしないのね・・・この位出来るだろう・・・みたいにね。その自覚が無ければ無い程、やらかしてしまうのね。

そもそも料理番組を例にすれば、下ごしらえやら煮込んだり、チンする時間をはしょるのは何故?それは動きも無いし、もっと言えばそこに時間が掛かるからなのね。だとすると、目地って仕上げ行為だったり、もしボンドだらけだったりしたら?・・・その時間は何時間掛かるのかな?

勿論、目地だけして、後はカッターでこうして家で落として下さい・・・って言えば良いのかな?俺は無理だわっ・・・そんなの。仕上げを観ずに後は任せておしまい・・・って。何か責任無いなぁ・・・って気がするんだけれどね。だからきちんと仕上げをして渡したいのね。

そう言う事を知っているかぐやが最高の提案って・・・じゃ聞くが、1万、10万、100万・・って積まれた教室があって、2時間しかないって状況だったとしたら?・・・馬鹿だよなぁ・・・お金じゃないんだよっ、時間を増やすんだろうがっ。それなのに時間が指定されていたら、お金が増えても、

結局仕上げを良く見せる為にやるのは、作る事じゃなくて、あらかじめ仕込んで置く手間のお金になるだけなのね。もはや作る教室じゃなくて、結果の見栄えを良くするだけの事なのね。つまり何とか自分で作った・・・って雰囲気を残す為に目指すのは、最低限の見栄えをキープするには?になる。

まぁ趣旨が何たるか?だね。・・・俺はそこまで出来たらね、追加の仕方だったり、余白に何かを飾るのはどうかな?とか、最低限の事は出来ているから、何もしなくても飾れるけれど、もっと・・・って人は、どうぞ・・・ってそんな提案なんだけれどね。

つまり1時間程度で張り終わる初心者への提案・・・しかもタイルを選ぶ時間も含んでね・・・何分張れるのかな?・・・いずれにせよ、こうして上手くなった人達の気楽な作品は余裕もあって、時間もそこそこ掛けるから、良く見えるのね・・・でも、上手い事が前提なんだけれどね。

そんな中、色々と電話だったりメールがあったんだけれど、kameyaさんの支度しなくちゃ…。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さくら教室とノアの依頼作品

2018-06-22 00:43:35 | モザイク教室
今日は午後からさくら教室。さてそれまでどうしようかな?・・・って中、資金も出来た事だし、そろそろノアの依頼作品を進めようかな・・・と、大型コピー屋さんに行くと、1時から・・・って。それじゃ、さくらの送迎の時に出直しだなっ・・・って事で、またアトリエに逆戻り。

そんなこんなで・・・こうなったのね。


ここまで来ると、後は木を切ればスタートとなる。そうね、そしてさくらはって言うと、後少しじゃん。いよいよ完成近しって感じなのね。まぁ、とてもシュールな事やってんのね・・・。判る人には判るんだけれどね・・・・。そうね、言い方を変えると、判る人って誰なんだろう?・・・・。

例えば、アイドル、アーチスト、運動選手・・・何でも良いんだけれど、何か人よりも秀でている場合、この人達に罵声を浴びせる人は一体誰なんだろうか?それは何も目指していない人か、目指した事のあるコーチや監督・・・こんな所かな。ではこの違いは何か?となったら、目指していない人は、結局

技術もテレビの中で見ただけで、単なる誰かの受け売り。誰もが考えない是正だったり、それだけの視点を持っているのなら、きっとスカウトに来るだろうね。きっと。それが目指した事があって、評価に値すれば、お金を積まれてその技術を買って頂ける。全く違う目線の評価になる。

これで判る人ってどんな人?って質問には答えたと思うのね。では、当然ここで習った人なら、何が、何処が・・・みたいな説明は受けるだろうし、やった事があったりすれば、その労力の凄さが簡単に理解は出来るだろう。ってここまでは、大して難しい話では無いのね。問題はここから。

でぱ、さくらは一体何の何処に当てはまるのだろうか?って話ね。ここで習っているし、弟子だし、この作品だし・・・ある程度、人に評価を受けると思うのね。しかし、しかしなのね・・・これを良く勘違いする人がいて、自分が評価をする人がいるのね・・・。

勿論、初期の頃はそれが最高なのね。自画自賛万歳なのね。だって技術なんてほぼどうでも良いのね。だって謙虚な姿勢なら、出来なくても普通なのに、出来たのなら良かったじゃん・・・だし、もっと言えば、結構良い出来かも・・・と思えたのなら、それこそ楽しいでしょ?ねっ。

これが年数が経つとね当然進歩や進化が欲しくなる。当然だよね、それが人の欲。所が美の欲って何点?ほら、スポーツとは違うのよ。判りづらいものなのね。ただね、評価は人が決めるんだ・・・って思えると、一体どの人の・・・って思うじゃない?そりゃ単純に自分より上手い人かな?・・・って。ね。

じゃ、上手くなればなるほどいなくなるって事になるよね・・・・あははははは。笑うわっ。じゃ誰が評価するんだろうか?って事になるでしょ?そこで自分を見失っちゃったりするのね・・・面倒な話だわっ。でもね、自分が決めるって人が何も変わらずに行ったら、本当に自分の評価出来る?あはははは。

結局どっちも壁にぶつかったりすると思うのね。じゃ良く聞く、自分の事は判らないけれど、人の事は判る・・・なんてさ。じゃ人を評価すると良いのね・・・もしその目利きが正しかったら、その人の技術や上手さを見抜く事が出来る。そしたら、その人に自分の評価を聞くと良い・・・。

そもそも自分が決めた、信じた人の評価を信じられないような心持ちで、何の何処を評価するのかな?・・・それが例え自分でもね。まぁ、面倒な話なのね・・・ただ、そこまで来るって事はね、そこそこ評価を持っている人なのね。ただ、自分に厳しいとか?プレッシャーに弱いとか、そんな理由。

例えば、自分に厳しい・・・なんて表現なら、いくら評価されても自分が良いと思わなければ、何の意味も無い・・・あはははは。こんな人は、結果として点は入ったけれど、そこじゃない所に決めようと思ったのに、結果オーライなんて・・・って思うようなストイックな感じでしょ?

それか、その目利きが無い人の場合、やってもやっても、人の方が上手くて、自分が上手いとは思えない・・・って自己評価の低い人だったり、これがプレッシャーに弱いなんて場合は、凄いね、上手いね・・・と人生褒められた事の少ない人は、そんなはずは無い・・・とか、お世辞だきっととか

・・・はたまた、たまたま今回は・・・なんて評価だったって言う事にして、評価を余り上げないようにしたり、謙虚さが度を越して、私なんかまだまだ・・・なんて言ったりして。おいおい、謙虚が美徳って・・・。笑うわっ。それが謙虚って・・・。

上手いとか凄いって言われるようになったら、本当の謙虚って、有難うございます、またそう思われるように努めます・・・なんてのが正しいんじゃないのかな?じゃないと、私なんてまだまだ・・・なんて言うと、もし5番だとしたら、5番がまだまだなら、6番以下は努力が足んない事になるよね?

もっと下を守れないかな?・・・これが4位以上を目指します・・・なら前向きだし、けれどね、これは順位って数字があるから判りやすいだけで、日常ってそんな事は無いのね。しかも、本当にお世辞とか体裁でモノを言う人も多いのも事実。だからそんな事になっちゃったりするのね。

で、これがもっともっと凄い事になっちゃうと病な感じになるのね・・・つまり信じた人が一転評価が変わったりして、勿論信じた人が悪いと言ってしまえば、その通りだけれど、大きく影響されるような人だった場合、裏切りにも近い状況になったりもして・・・。

こうなると、信じる者は救われるのか?触らぬモノにタタリなしなのか?って話で、どっちだ?・・・って事になる。けれど、信じちゃった側に強く行けば、当然親亀こけたらみなこけた・・・になる。こんな不器用な奴はこっちがダメならこっち・・・みたいに移行が難しいのね。

しかも、じゃ信じない・・・って反対側に行けば、自分をしっかり持たないと、誰かが前にいるスタイルじゃないから、開拓者。おやまぁ、開拓するのに、手持ちの道具は何持ってんのかな?・・・ってな話。いずれにせよ、さくらの迷いはこんな事の繰り返しなのね。

何でもそうだけれど、全てに置いて繋がるのは、継続した実績はそれこそが真実。上手いとか凄いとかは、人の評価かも知れないが、続いている時間は何も嘘が無い。それすらも受け入れられないのなら、もはや死しか残っていないだろうが・・・ただなぁ、神なら生きろなんだよなぁ・・・。

良く、霞食って生きろ・・・なんてセリフを聞いた事があるが、大した人では無い人が使う場合、大抵は吐き捨てるように言うので、死ねって言う表現なんだろうなぁ・・・って思うのね。つまり、霞は食べ物じゃないから、お腹はいっぱいにはならない・・・つまり生きられないから死ね。

けれど、これが神様が言うと、食べ物じゃないものを食べてでも生きろ・・・になり、同じセリフでも言う人1つで全然意味の違う事になる。って事は、神様にはなれないにしても、人に信じられる側の方に行くのなら、生きる側の指導をしたいものだな・・・と考えたりする。

それを昔は、仙人にはなれないが、999人にはなれるかもなっ・・・なんて言ってたっけ・・・。お後がよろしいようで。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高洲のサークル・・・新人さん加入

2018-06-21 07:48:14 | モザイク教室
今日は高洲のサークルだったんだけれども、公民館が取れずにタピオカのマンションの集会所って事になってて・・・まぁ、ほぼ場所も大して変わらないんで特に何も変化は無いんだけれど、そんな中、以前いらした事がある方が、今日から正式に入会って事になって・・・6人になったのね。

ただ、撮ったはずなんだけれど、のりちゃんの画像が無かったのね・・・すいません。


そんな訳で始まるんだけれど、駐車場の手続きなんかをしたんで、俺とキウイはみんなよりも遅れて到着すると・・・


アルルの母さんが持って来てくれたんだけれど、小さな肉まんを頂いたのね・・・他にもスープをキウイ、パンをタピオカとのりちゃんって色々とあったんだけれど、流石にせいろって・・・中華街かっ・・・って突っ込んだんだけれど、美味しかったのね。

ただ、キウイの友達なんだけれど、こんな感じ・・・って聞いていただろうけれど、俺でもビックリなんだから、聞いたのと見たのでは違って、こんな感じなの・・・ってビックリしたかもね。あはははは。ただね、これがただの和気藹々じゃないから、更にビックリだと思うのね。

何しろ、こんなスタートなら、楽しく、楽々、こんな感じで・・・って作品が並べば良いと思うんだけれど、まさかのこの作品の面々。本当に伝わっていないと、この雰囲気で始まって、楽しいわぁ・・・って過ごした後に、みんなが作品を出したら・・・こんな感じでは、腰が抜けるわっって感じなのね。

ただ、黙々とやってて、丁寧だったし、何しろサンプルをじぃぃぃと見て、真似をしようって姿勢は、間違っていないし、根詰めないようにして、初めは欲しいものを作って、出来たぁぁって感じを楽しんで貰いたいのね。それでもし、みんなみたいなのを作りたい・・・なんて思ったら・・・。

半年くらいは、続ける・・・楽しむ・・・って後にでも、良いのかなぁ・・・。いずれにせよ、同じメンバーは安心だけれど、こうして新しい人が新鮮さを生んだりするから、みんなもきっと、あの頃を思い出す事にもなるのね・・・始めた頃のね。そう言うのも大事なのね。






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする