晴れのち平安

源氏物語を中心に平安な日々♪
※写真の無断転載禁止!!

【平安あれこれ】Cafe Restaurant Inti(インティ)で「紫式部スペシャルランチ」

2024年06月08日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2024年5月のこと。

大津市歴史博物館に併設するCafe Restaurant Inti(カフェ・レストラン インティ)にて「紫式部スペシャルランチ」をいただきました。

大河ドラマ「光る君へ」を意識してつくられたプレートです。

 

真上から見るとこんな感じ。

近江牛を使ったコロッケ、ジャンボ海老フライ、ソースやサラダは紫式部のイメージカラーの赤紫や紫色をが彩りに添えられています。

小鉢にスープも嬉しいですね。好きなもの満載!

 

そして、近江牛をつかったコロッケには紫式部イメージ(後ろ姿)の旗がさしてあるのでした。

 

食後にはコーヒーとデザートをいただきました。

(プラス200円で「紫式部スペシャルランチ」にプチデザートを付けることができました)

とってもおいしかったです!!

 

※「紫式部スペシャルランチ」は1日7食限定だそうですよ。

 

店内にIntiの紫式部プレミアムコーヒーのドリップバッグ(2種類5パック入り)があったので購入。

 

IntiのInstagram(@inti_0401)によると

『ほほえむ君』はエルサルバドルを主としたブレンドで上品な酸味の中に僅かな香ばしさが感じられるブレンド、

『ひらめく君』はコロンビアを主としたブレンドでフルーティな甘い香りの中に程良い苦みが感じられるブレンド

とのこと。

 


『ほほえむ君』に書かれているのは『源氏物語』胡蝶巻において舟楽の場面で秋好中宮の女房が詠んだ歌。

 

 春の日のうららにさして行く舟は

   棹のしづくも花ぞ散りける

 

[訳:春の日のうららかな中を漕いで行く舟は 棹のしずくも花となって散ります

 

 

『ひらめく君』に書かれているのは『源氏物語』明石巻において光源氏が明石の君を初めて訪ねる前に紫の上を想って詠んだ歌。

 

 秋の夜の月毛の駒よわが恋ふる

  雲居を掛けれ時の間も見む

 

[訳:秋の夜の月毛の駒よ、わが恋する都へ天翔っておくれ 束の間でもあの人に会いたいので

 

【訳は、渋谷栄一 氏のwebサイト 『源氏物語の世界』より引用】


 

パッケージのイラストも可愛く、和歌のチョイスも素敵ですよね。

どちらのコーヒーもおいしくいただきました!

また買えないかしら…。

 

 


Cafe Restaurant Inti(カフェ レストラン インティ)

 滋賀県大津市御陵町2番3号 市民文化会館内


 


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「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」行ってきました!

2024年06月05日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2024年5月のこと。

石山寺をお詣りした後、境内にある明王院にて開催中の

「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」を見てきました!

 

大河ドラマ「光る君へ」のテーマを掘り下げる映像やパネル、サイン色紙のほか、ドラマに登場する衣装や小道具などが展示されています。

ドラマ初期の頃のものが展示されており、懐かしく思いました。

※展示替えあり。

 

【紫式部(まひろ)[吉高由里子さん]の衣裳/第4回「五節の舞姫」】

まひろが「五節の舞姫」のひとりとして選ばれて、舞を披露した時の装いです。

 

衵扇(あこめおうぎ)・裳(も)・唐衣(からぎぬ)が展示されていました。

 

【裳】

白地菱形地(しろじひしがたじ)に下り藤染め裳(さがりふじそめ も)

長くひいている姿が美しいです

裳についている短いひらひらした部分は、『光る君へ』公式ホームページの「をしえて!佐多芳彦さん ~美しくかさねて!「女性の衣装」女房装束 編によると頒幅(あがちの)なのだそう。頒幅といえば左右についている印象ですがこちらでは上についているのですね。

あちこちから見て裳を観察したのでした。

 

【唐衣】

葡萄色地(えびいろじ)に向蝶柄織(むかいちょうがらおり)唐衣(からぎぬ)

美しいです

 

【フォトスポット 等身大パネル】

ききょう(清少納言)とまひろ(紫式部)のパネルが並んでいます。

それぞれファーストサマーウイカさんと吉高由里子さんのサイン入り!

ここで記念撮影ができます。

 

【まひろの部屋と、愛用の書道具たち/第2回「めぐりあい」ほか】

 

【文机の上に置かれているのは曽祖父・藤原兼輔の歌の写し】

「人の親の 心や闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」

「子を持つ親の心は闇というわけではないが、子どものことになると道に迷ったようにうろたえるものである」という意味)説明パネルより

 

この兼輔の有名な歌は『源氏物語』の執筆にも影響を与えました。

 

【まひろが書き写した後撰和歌集/第2回「めぐりあい」】

紫式部の曾祖父・藤原兼輔の歌もあります。

 

【まひろとさわが石山詣で身につけた懸帯と竹水筒/第15回「おごれるものたち」】

まひろとさわの石山詣を微笑ましく思っていたので展示されていて嬉しかったです。

着用していた赤い帯は「懸帯(かけおび)」といい、お参りに行く女性たちが心身を清める物忌の印として身につけたもの、とのこと。

 

 

「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」は規模は小さいながらも楽しく見ることができました!

 

(ドラマでの石山寺のセットは、「石山寺縁起絵巻」で見られた堂内や珪灰石(けいかいせき)のゴツゴツとした感じが表わされていて素敵でした。あのセットを実際に見ることができたら嬉しいのですが…やはり難しいでしょうか…)

 

同時開催されていた「源氏物語 恋するもののあはれ展」は体調不良によりあいにく見ておりません。ごめんなさい

 

 


光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館

[同時開催]源氏物語 恋するもののあはれ展

 https://otsu-murasakishikibu.jp/exhibition/taiga.html

 会期:2024年 1月29日(月)〜2025年 1月31日(金)

 会場:石山寺境内 明王院・明王院

 (滋賀県大津市石山寺1−1−1)


 

 

*追記*

ちなみに石山寺の境内にある自動販売機は紫式部さんでした。

 

 


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【平安あれこれ】石山寺~貴族たちに慕われた観音さま~

2024年06月04日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガーの なぎ です。

 

2024年 5月のこと。

滋賀県大津市にある石山寺をお詣りしました。

【東大門】

平安時代、貴族たちによる石山詣が盛んでした。

京から逢坂の関を越え、琵琶湖の打出浜から船に乗り瀬田川を下って石山寺門前まで来たといいます。

そしてお堂に籠って祈願し夢のなかのお告げを待ったのだとか。

(大河ドラマ『光る君へ』でも石山詣や参籠の様子が描かれていましたよね!)

 

『枕草子』第196段「寺は」において「石山」と挙げられています。

また『蜻蛉日記』『源氏物語』『更級日記』など石山詣を描いた作品があります。

 

【珪灰石(けいかいせき)】

階段を登って、この珪灰石を見上げると圧倒されます。まさに石の山の上に建つお寺。

石灰岩が地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用によって変質したものだとか。

「石山寺」という名はこの「珪灰」に由来します。

 

【本堂横の階段から本堂を見上げた様子】

新緑がとても綺麗

本堂の内陣もお参りしました。

(内陣は滋賀県最古の木造建築であり国宝に指定されています。)

本尊は如意輪観音菩薩。

観音さまをはじめ様々な仏像に手を合わせ厳かな気持ちに…。

 

【石山寺源氏間紫式部影讃】

紫式部と紫式部が使用としたと伝わる硯、天台四門と和歌が刷られたもの。

「石山寺源氏間紫式部影讃」は、江戸時代以前より石山寺で頒布されていたと推測されているのだそう。

大河ドラマ「光る君へ」放映を記念して「石山寺源氏間紫式部影讃」復刻版が作成されました。

本堂でいただくことができます。

 

 

【紫式部開運おみくじ 招福お守入】

ひいてみたところ「中吉」でした!招福お守りは、紫色の糸が結ばれた五円玉でした。

おみくじには『源氏物語』に登場する和歌も書かれていたのでした。(『源氏物語』のほか、『紫式部集』や『紫式部日記』の和歌もあったりするのでしょうか)

 

【本堂「紫式部 源氏の間」】

この連子窓の奥に紫式部人形がおわします。

紫式部は石山寺参篭中、琵琶湖に映る月を見た時に『源氏物語』の着想を得て「須磨」巻を書き始めたと伝わります。

 

【「源氏の間」の紫式部人形】

2023年12月に修繕のため本堂を離れていた紫式部の人形は2024年3月に戻ってこられました。

新調された十二単のかさねの色目は「捩り紅葉」。

70年ぶりの修繕だったとのこと。美しいお姿になりましたねー!!

 

【紫式部供養塔・松尾芭蕉 句碑】

 

【多宝塔】

源頼朝の寄進により建立されたと伝わります。

本尊は大日如来像。とても素敵なのでぜひ覗いて拝んで欲しいです!

 

【月見亭】

後白河上皇の行幸に際して建てられたといいます。この付近からは瀬田川を望めます。

 

 

豊浄殿では、2024年 春季 石山寺と紫式部展「紫式部をめぐる人々」が開催されており鑑賞。

紫式部の肖像画や源氏絵などを展示を楽しみました。

(豊浄殿では毎年 春・夏・秋に石山寺の歴史や文化、紫式部や『源氏物語』にちなむ展示が行われています)

 

 

【紫式部像】

境内の奥に広がる源氏苑に紫式部像はあります。

 

私は体力がないのでこのあたりを歩いていた頃はすでに疲れていたのですが、やはり紫式部像を見ることができて嬉しかったです!

 

この後、石山寺境内で開催中の『光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館』を見にいったのでした。

 


石山寺

 https://www.ishiyamadera.or.jp/

 滋賀県大津市石山寺1-1-1


 

 

 

 

 

 

 


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【平安あれこれ】逢坂の関記念公園 ~平安京の出入り口~

2024年05月31日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガーの なぎ です。

 

2024年 5月のこと。

 

滋賀県大津市の石山寺を参詣する前に

逢坂山関址碑逢坂の関記念公園を久しぶりに訪ねました。

京阪 京津線「大谷」駅から徒歩約3分の場所にあります。

 

【逢坂山関址 記念碑】

逢坂関(おうさかのせき)は、山城国と近江国の境にあった関所。

平安時代には貴族女性も逢坂関を通って、石山寺へ参詣していました。

逢坂山関址を示す記念碑はあるものの、逢坂山は江戸時代に大きく掘り下げられているため、かつての関所の位置はわからないのだとか。(この記念碑よりは大津市の市街地側にあったもよう)

 

【逢坂の関記念公園】

2009年の公園完成当時よりは古びた印象。

 


逢坂の関記念公園に設置されている案内板より一部を引用します

 

逢坂の関と文学

 

●源氏物語

「関屋」の巻

 常陸介と共に東国に下っていた空蝉と石山詣の途中の光源氏が再会する非常に印象的な場面が描かれています。

 

「賢木」の巻

 斎宮下向の日、思いを募らせた光源氏が、娘と共に伊勢へ下る六条御息所に歌を贈ります。それに対する御息所の返歌 「またの日 関のあなたよりぞ御返しある」(「関」とは逢坂の関)

 

●その他

『枕草子』の中にも逢坂の関についての記述があります。


 

 

【逢坂の関記念公園には、逢坂関を詠った歌の碑が三基並んでいます】

それぞれ『百人一首』でもおなじみの歌ですね!

 

【蝉丸の歌碑】

 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関

 

【三条右大臣の歌碑】

 名にしおはば逢坂山のさねかずら 人にしられてくるよしもがな

 

※三条右大臣=藤原定方のこと

ちなみに、紫式部は藤原定方の血をひいています。

 

清少納言の歌碑】

 夜をこめて鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ

 

清少納言は『枕草子』108段に「関は 逢坂 須磨の関 鈴鹿の関 くき田の関 白河の関 衣の関。」とまず最初に逢坂関を挙げています。

 

【国道1号線 東側・・・滋賀県大津市市街地へ】

 

【国道1号線 西側・・・京都府京都市方面へ】

 

今も昔も人々の往来を見守ってきた山です。

 

逢坂山 かねよ レストランで「きんし丼」をいただいたのち、いよいよ石山寺へ向かいます

 

 

【JR石山駅構内、セブンイレブン前にて】

 

 

 

 

 


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【平安あれこれ】浄妙寺~藤原道長が一族を弔うために建立~

2024年05月28日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガーの なぎ です。

 

2024年 5月のこと。

茶づなで開催中の「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」を見た後、

宇治市の北部、木幡に藤原道長が建立した浄妙寺(じょうみょうじ)の跡を訪ねました。

 

【「この附近 藤原道長建立浄妙寺跡」木碑と説明板・・・宇治市立木幡小学校の西門横にあります】

 


以下、説明板の文章

 

  浄妙寺跡

 木幡は、初の関白となった藤原基経が藤原氏の墓所と定めたとされます。浄妙寺は、寛弘2年(1005)藤原道長によって藤原氏の一族を弔うために建てられた寺です。道長は若いころ父 兼家に連れられ木幡を訪れた際、その荒廃に心を痛め、もし高位に上がったら一堂を建て三昧を修めようと思ったといわれます。

 創建当初の浄妙寺の本堂は法華三昧堂で、2年後の寛弘4年(1007)に多宝塔が建てられます。そのほかに鐘楼、僧房、南門、西門などがありました。発掘調査では法華三昧堂、南限の築地塀跡、西門跡が発見されています。

 浄妙寺は、平等院と並び藤原氏にとって重要な寺でしたが、鎌倉時代に入ると浄妙寺の別当(大きなお寺等を管理する役所の長官)が藤原氏から聖護院宮に移り、徐々に衰退していきます。寛正3年(1462)一揆の放火により焼失し、廃絶したものと考えられています。

 

 令和3年9月

  一般財団法人 宇治市文化財愛護協会

 

※なぎ注:漢数字を算用数字に書き換えました


 

 

浄妙寺は、藤原道長が藤原氏の菩提を弔うために宇治の木幡に建立した寺院。木幡寺とも。

寺地の選定は安倍晴明など、造仏は康尚、扁額と鐘銘の書は藤原行成、願文は大江匡房が担っています。

 

寛弘2年(1005)、浄妙寺の本堂である法華三昧堂が完成。

三昧堂供養当日は国家規模で行われました。参列した上達部は18人、参会した僧は100人以上。

 

寛弘4年(1007)には多宝塔供養が催されました。

 

浄妙寺を建立以降、道長は宇治別業(現在の平等院)へ行く途中必ず参詣したそうです。

 

万寿4年(1027)12月4日、道長は法成寺阿弥陀堂で亡くなります。62歳でした。

5日に入棺、7日夜に鳥戸野で荼毘に付されます。収骨された骨は壺に入れられ家司や僧によって木幡へ運ばれ埋葬されました。

当時の墓は、直径数メートルの塚に骨壺を収めたもので、周囲を柵で囲っていたとのこと。

 

現在、藤原道長の墓は特定されていませんが木幡小学校東側の丘陵部にあたるだろうといいます。

 

 

私が木幡を歩いた日は日差しが強く暑かったものの、木々の新緑が綺麗で空は晴れて心地よい日でした。

この近くで藤原道長は眠っていると思うと感慨深かったです。

 

【木幡小学校正門横にある「この附近 藤原道長建立浄妙寺跡」の木碑】

 

ちなみに、

宇治市木幡の茶畑から出土したと伝わる青磁水注 越州窯(せいじすいちゅう えっしゅうよう)[京都国立博物館蔵]は道長の骨壺であると指摘する考えもあるもよう…。(リンク先は京都国立博物館公式ホームページ内のページです)

高21.8cm 口径9.5cm 底径8.0cm、落ち着いた朽葉色?オリーブ色?です。

 

 

【参考】

宇治市公式ホームページ

 >浄妙寺発掘調査説明会を開催しました

 >浄妙寺跡発掘調査説明会を開催しました(平成25年7月13日)

倉本一宏『紫式部と藤原道長』講談社現代新書 2023年

倉本一宏『藤原道長の権力と欲望「御堂関白記」を読む』文春新書 2013年

大津透・池田尚隆 編『藤原道長事典 御堂関白記がからみる貴族社会』思文閣出版 2017年

角田文衞 監修/(財)古代学協会・古代学研究所 編『平安時代史事典CD-ROM版』角川学芸出版 2006年

「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」説明板 2024年

 

 

 

 


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「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」行ってきました!其の参(2024年5月)

2024年05月27日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」を見てきました!

大河ドラマ展のレポは 其の壱其の弐 と続き、其の参(この記事)でラストです。

 

最後は「平安時代の暮らしを体感する」

【十二単を体験しよう】

十二単(女房装束)の紹介パネルや実際にどんな重さだったかを体験。

 

【十二単の重さは…?体験コーナー】※試着はできません。

どこをどう持ったらいいのか(触ったらいいのか)わからず…

たぶんきっと重いはず。

 

【フォトスポット「私は十二単が似合う?」】

顔はめパネルで記念撮影ができます

パネルに使われた十二単はとても上質なものだと思います。

 

【平安時代の香りを体感しよう】

様々な香木の展示、薫物(練香)や火取の展示も。

 

【薫物(練香)の香りを体験!】

ふたを開けると、薫物(練香)の香りがふわっと…いいかおり

 

会場の出口付近では、『光る君へ』キャストの直筆サインとひと言メッセージが展示されていたのでした。

 

 

そんなこんなで宇治の「大河ドラマ展」、楽しかったです!!

 

 


光る君へ 宇治 大河ドラマ展 ~都のたつみ 道長が築いたまち~

 公式ホームページ  https://uji-dramaten.jp/

 会期:令和6年 3月11日(月)~令和7年 1月13日(月・祝)

 会場:お茶と宇治のまち交流館「茶づな」2階

 (京都府宇治市菟道丸山203ー1)


 

 


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「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」行ってきました!其の弐(2024年5月)

2024年05月27日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」

見に行ってきました!

 

宇治の会場では前半が「大河ドラマ展示」後半が「宇治歴史展示」となっています。

「大河ドラマ展示」の様子は其の壱の記事で書きました

 

後半は「道長が築いた宇治は、どんな町だったのか?」に迫る展示の数々、とても興味深くおもしろかったです。

 

【平安時代の宇治の俯瞰図】

 

藤原道長、宇治を見る

  • 奈良と京都を結ぶ宇治
  • 藤原道長の頃の宇治(想像図)

 

藤原道長、宇治に遊ぶ:宇治での日々

  • 道長の暮らした屋敷(土御門殿・宇治殿・東三条殿)
  • 宇治での日々

 

藤原道長、宇治に遊ぶ:祈りの世界

  • 道長の祈り
  • 道長が眠る場所(浄妙寺跡)
  • 道長が建立したふたつの寺院

 

藤原道長、宇治に遊ぶ:平安時代から受け継がれるもの

  • 藤原氏に縁をもつ文化財
  • 今の風景に平安時代の宇治を見る

 

藤原道長、宇治に遊ぶ:文学に描かれる宇治の姿

  • 源氏物語「宇治十帖」
  • 宇治の橋姫

 

 

パネルでの解説がどれもわかりやすいので藤原道長と宇治の関わりが知りたい方にオススメします!

(できることなら冊子にして販売して欲しい)

 

 

上記のパネルのうち、「道長が眠る場所(浄妙寺跡)」より「道長の墓」の部分を…。

道長が眠る場所について気になっています

 

 

 「光る君へ 宇治 大河ドラマ展」レポの続きは、其の参にて!

 


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「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」行ってきました!その壱(2024年5月)

2024年05月27日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

2024年 5月のこと。

お茶と宇治のまち歴史公園交流館「茶づな」2階で開催中の

「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」

見に行ってきました!

 

毎週楽しみに見ている大河ドラマ『光る君へ』のドラマ展とあって(ドラマではなくドラマ)、楽しみにしていました。

宇治の会場では、「大河ドラマ展示」と「宇治歴史展示」のふたつに大きく分かれています。

 

【衣裳展示】

実際に撮影に使用された衣裳だそうです。

 

【紫式部(まひろ)吉高由里子さんの衣裳 撮影使用品】

金糸雀(カナリア)色地染め

金茶色(きんちゃいろ)木の葉絞り風(きのはしぼりふう)柄染め麻小袿

 

【藤原道長 柄本佑さんの衣裳 撮影使用品 】

従五位闕腋袍(けってきほう)束帯(そくたい)

 

【等身大パネル(フォトスポット)】

 

特集パネルや登場人物紹介のほか、小道具の展示も。

 

【散楽で直秀粉する狐が持っている蝙蝠扇(かわほりおうぎ) 撮影使用品】

直秀、好きでした…!

亡くなってしまって直秀ロスになりましたよー

 

【倫子のサロンでまひろた初めて体験した偏つぎの札 複製品】

偏つぎは、漢字の偏と旁(つくり)を使った遊びです。

 

4Kシアターでの展示も椅子に座って興味深く拝見。

キャストやスタッフのインタビューを視聴できます。

 

 「光る君へ 宇治 大河ドラマ展レポ」は其の弐へ続きます

(大河ドラマ展の記事は全部で3つあります)

 


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【平安あれこれ】浮舟宮(うきふねのみや)跡 ~宇治十帖のヒロイン、浮舟は神に~

2024年05月25日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガーの なぎ です。

 

2024年 5月のこと。

菟道稚郎子尊 宇治墓に隣接する

「浮舟宮跡」碑を訪ねました。

 

【浮舟宮跡と刻まれた石碑】

以下、石碑に埋め込まれた宇治市による説明を引用します。

 


浮舟宮跡

 此処より東の旧道沿いに、菟道稚郎子皇子(うじのわきのいらつこのみこ)墓の陪塚(ばいちょう)に治定される小さな高まりがある。

 この辺り一帯にかつて浮舟宮(うきふねのみや)と呼ばれた古社があった。

 榎(えのき)の大木が茂り、浮舟の森とも呼ばれた。

 社の由来はつまびらかではないが『源氏物語』宇治十帖の悲劇のヒロイン浮舟の君を祀った社として、里人に親しまれていたという。

 江戸時代の中ごろに社が廃絶し、三室戸寺によって「浮舟之古蹟」碑が建てられた。

 明治に至り社跡は宮内庁により陪塚として整備され、石碑は近年の開発に伴い三室戸寺境内に移設されている。

 

       宇治市


 

『源氏物語』に登場する浮舟がこのあたりに祀られていたのですね。

 

旧道…奈良街道沿いの羽戸[波戸](はと)村にあったことから「波戸浮舟社」という神社であったのだとか。

元々は宇治川の水上交通の守護神が祀られていたのが、いつ頃からか浮舟を祀る社となり、あたりは「浮舟の杜」とも呼ばれていたといいます。

やがて度重なる宇治川の氾濫によって浮舟社の社殿を維持できず、江戸時代に社は取り払われます。

そして社の跡の目印として「浮舟之古蹟」と刻まれた石が置かれたとのこと。石は移転を重ね、現在は三室戸寺境内の最奥部、鐘楼の横に「浮舟之古蹟」碑があるのでした。

 

フィクションである『源氏物語』の登場人物のひとりですが、かつて浮舟は神として親しまれ、その社の跡は「浮舟宮跡」碑として現在に伝えられているのですね。

 

 

【参考】

源氏物語をよむ会 編『(改定版)源氏物語 宇治十帖の風土』宇治文化財愛護協会 1997年(1998年修正)

宇治市文化財愛護協会 編・発行『新 宇治の碑 路傍の語り部たち』 2014年

 

 


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【平安あれこれ】菟道稚郎子(うじのわきいらつこ) ~『源氏物語』八の宮のモデル?~

2024年05月22日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガーの なぎ です。

 

2024年 5月のこと。

京阪「三室戸」駅から徒歩約4分。

 

京都府宇治市にある

応神天皇皇太子 菟道稚郎子尊 宇治墓 を訪ねました。

 

【宇治墓・・・地図で上空から見ると前方後円墳のようです】

 


宇治墓の向かい側にある「お茶と宇治のまち歴史公園 茶づな」ミュージアムの「歴史の間」に『菟道稚郎子伝説』の解説がありました。その文章を以下に引用します。

 

 菟道稚郎子伝説

 応神天皇の末子の菟道稚郎子は、父の寵愛を受け、当時最新の学問を学び、皇太子となりました。

 応神天皇の没後、

 即位を企てた異母兄の大山守命は稚郎子を討とうとし、宇治川での戦いで亡くなります。

 三年後、稚郎子は異母兄で後の仁徳天皇の大鷦鷯尊に皇位を譲るため、自ら命を絶ったと伝えられています。


 

この菟道稚郎子は『源氏物語』宇治十帖に登場する八の宮のモデルであるという説があるのだとか。

確かに部分的にイメージがかぶっているようにも思えます。

共通点(?)

  •  兄弟間での皇位継承争い
  •  宇治に隠棲

 

ここを掘り下げると複雑になりそうなので、言及は避けます

 

菟道稚郎子は宇治上神社の祭神のひとりであり、宇治神社の祭神でもあります。

宇治の長い歴史を知る上で重要な人物なのですね。

 

 

『源氏物語』に登場する八の宮は、光源氏の異母弟。桐壺院の第八皇子。

宇治十帖のヒロインとなる大君・中の君・浮舟の父親。

朱雀帝の御代に弘徽殿大后たちの廃太子未遂事件に巻き込まれるものの、結局は八の宮が東宮になることはありませんでした。

(この時の東宮は即位してのちの冷泉帝になります。)

八の宮の北の方は中の君を産んで間もなく亡くなり、やがて京にある邸宅が焼亡。

宇治の山荘に移り住み、大君・中の君と暮らすのでした。

(そこに薫がやってきて…!?物語が動き始めます)

 

 

【参考】

秋山虔・室伏信助・編『源氏物語必携事典』角川書店 1998年

 

 


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