晴れのち平安

源氏物語を中心に平安な日々♪
※写真の無断転載禁止!!

【平安あれこれ】逢坂の関記念公園 ~平安京の出入り口~

2024年05月31日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガーの なぎ です。

 

2024年 5月のこと。

 

滋賀県大津市の石山寺を参詣する前に

逢坂山関址碑逢坂の関記念公園を久しぶりに訪ねました。

京阪 京津線「大谷」駅から徒歩約3分の場所にあります。

 

【逢坂山関址 記念碑】

逢坂関(おうさかのせき)は、山城国と近江国の境にあった関所。

平安時代には貴族女性も逢坂関を通って、石山寺へ参詣していました。

逢坂山関址を示す記念碑はあるものの、逢坂山は江戸時代に大きく掘り下げられているため、かつての関所の位置はわからないのだとか。(この記念碑よりは大津市の市街地側にあったもよう)

 

【逢坂の関記念公園】

2009年の公園完成当時よりは古びた印象。

 


逢坂の関記念公園に設置されている案内板より一部を引用します

 

逢坂の関と文学

 

●源氏物語

「関屋」の巻

 常陸介と共に東国に下っていた空蝉と石山詣の途中の光源氏が再会する非常に印象的な場面が描かれています。

 

「賢木」の巻

 斎宮下向の日、思いを募らせた光源氏が、娘と共に伊勢へ下る六条御息所に歌を贈ります。それに対する御息所の返歌 「またの日 関のあなたよりぞ御返しある」(「関」とは逢坂の関)

 

●その他

『枕草子』の中にも逢坂の関についての記述があります。


 

 

【逢坂の関記念公園には、逢坂関を詠った歌の碑が三基並んでいます】

それぞれ『百人一首』でもおなじみの歌ですね!

 

【蝉丸の歌碑】

 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関

 

【三条右大臣の歌碑】

 名にしおはば逢坂山のさねかずら 人にしられてくるよしもがな

 

※三条右大臣=藤原定方のこと

ちなみに、紫式部は藤原定方の血をひいています。

 

清少納言の歌碑】

 夜をこめて鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ

 

清少納言は『枕草子』108段に「関は 逢坂 須磨の関 鈴鹿の関 くき田の関 白河の関 衣の関。」とまず最初に逢坂関を挙げています。

 

【国道1号線 東側・・・滋賀県大津市市街地へ】

 

【国道1号線 西側・・・京都府京都市方面へ】

 

今も昔も人々の往来を見守ってきた山です。

 

逢坂山 かねよ レストランで「きんし丼」をいただいたのち、いよいよ石山寺へ向かいます

 

 

【JR石山駅構内、セブンイレブン前にて】

 

 

 

 

 


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【大津】逢坂山 かねよ レストラン「きんし丼」

2024年05月29日 | 日記

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

今回の記事は平安時代の話題をひとやすみ。

 

2024年5月の旅行でのこと。

逢坂山の関跡や逢坂の関記念公園を訪ねた後、

逢坂山 かねよ レストランで昼食をとりました。

 

【上きんし丼】

「きんし丼」のワンランク上、「上きんし丼」をいただきました。

お吸い物は「うなぎの肝すい」または「湯葉」を選ぶことができ、私は湯葉でお願いしました。

 

すごいボリューム!!

鰻まむしの上にでっぷりとしただし巻きたまごが乗っています。
金糸たまごでもなくう巻きでもないので、ひらがなで「きんし丼」。

鰻+だし巻きたまごは最高の組み合わせでとてもおいしかったです

また食べたい…!

 

長らくの間、かねよさんで鰻を食べたいと思っていたのでようやく叶いました。

だし巻たまごだけでも食べたい…!

 

【逢坂山かねよ 顔出しパネル】

 

【鯉のぼり?と思いきや、うなぎのぼり】

 


逢坂山 かねよ レストラン

 https://www.kaneyo.in/index.html

 滋賀県大津市大谷町大谷町22−13


 

※逢坂山 かねよ本店(滋賀県大津市大谷町23−15)はレストランの向かい側にあります。

 

 


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【平安あれこれ】浄妙寺~藤原道長が一族を弔うために建立~

2024年05月28日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガーの なぎ です。

 

2024年 5月のこと。

茶づなで開催中の「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」を見た後、

宇治市の北部、木幡に藤原道長が建立した浄妙寺(じょうみょうじ)の跡を訪ねました。

 

【「この附近 藤原道長建立浄妙寺跡」木碑と説明板・・・宇治市立木幡小学校の西門横にあります】

 


以下、説明板の文章

 

  浄妙寺跡

 木幡は、初の関白となった藤原基経が藤原氏の墓所と定めたとされます。浄妙寺は、寛弘2年(1005)藤原道長によって藤原氏の一族を弔うために建てられた寺です。道長は若いころ父 兼家に連れられ木幡を訪れた際、その荒廃に心を痛め、もし高位に上がったら一堂を建て三昧を修めようと思ったといわれます。

 創建当初の浄妙寺の本堂は法華三昧堂で、2年後の寛弘4年(1007)に多宝塔が建てられます。そのほかに鐘楼、僧房、南門、西門などがありました。発掘調査では法華三昧堂、南限の築地塀跡、西門跡が発見されています。

 浄妙寺は、平等院と並び藤原氏にとって重要な寺でしたが、鎌倉時代に入ると浄妙寺の別当(大きなお寺等を管理する役所の長官)が藤原氏から聖護院宮に移り、徐々に衰退していきます。寛正3年(1462)一揆の放火により焼失し、廃絶したものと考えられています。

 

 令和3年9月

  一般財団法人 宇治市文化財愛護協会

 

※なぎ注:漢数字を算用数字に書き換えました


 

 

浄妙寺は、藤原道長が藤原氏の菩提を弔うために宇治の木幡に建立した寺院。木幡寺とも。

寺地の選定は安倍晴明など、造仏は康尚、扁額と鐘銘の書は藤原行成、願文は大江匡房が担っています。

 

寛弘2年(1005)、浄妙寺の本堂である法華三昧堂が完成。

三昧堂供養当日は国家規模で行われました。参列した上達部は18人、参会した僧は100人以上。

 

寛弘4年(1007)には多宝塔供養が催されました。

 

浄妙寺を建立以降、道長は宇治別業(現在の平等院)へ行く途中必ず参詣したそうです。

 

万寿4年(1027)12月4日、道長は法成寺阿弥陀堂で亡くなります。62歳でした。

5日に入棺、7日夜に鳥戸野で荼毘に付されます。収骨された骨は壺に入れられ家司や僧によって木幡へ運ばれ埋葬されました。

当時の墓は、直径数メートルの塚に骨壺を収めたもので、周囲を柵で囲っていたとのこと。

 

現在、藤原道長の墓は特定されていませんが木幡小学校東側の丘陵部にあたるだろうといいます。

 

 

私が木幡を歩いた日は日差しが強く暑かったものの、木々の新緑が綺麗で空は晴れて心地よい日でした。

この近くで藤原道長は眠っていると思うと感慨深かったです。

 

【木幡小学校正門横にある「この附近 藤原道長建立浄妙寺跡」の木碑】

 

ちなみに、

宇治市木幡の茶畑から出土したと伝わる青磁水注 越州窯(せいじすいちゅう えっしゅうよう)[京都国立博物館蔵]は道長の骨壺であると指摘する考えもあるもよう…。(リンク先は京都国立博物館公式ホームページ内のページです)

高21.8cm 口径9.5cm 底径8.0cm、落ち着いた朽葉色?オリーブ色?です。

 

 

【参考】

宇治市公式ホームページ

 >浄妙寺発掘調査説明会を開催しました

 >浄妙寺跡発掘調査説明会を開催しました(平成25年7月13日)

倉本一宏『紫式部と藤原道長』講談社現代新書 2023年

倉本一宏『藤原道長の権力と欲望「御堂関白記」を読む』文春新書 2013年

大津透・池田尚隆 編『藤原道長事典 御堂関白記がからみる貴族社会』思文閣出版 2017年

角田文衞 監修/(財)古代学協会・古代学研究所 編『平安時代史事典CD-ROM版』角川学芸出版 2006年

「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」説明板 2024年

 

 

 

 


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「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」行ってきました!其の参(2024年5月)

2024年05月27日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」を見てきました!

大河ドラマ展のレポは 其の壱其の弐 と続き、其の参(この記事)でラストです。

 

最後は「平安時代の暮らしを体感する」

【十二単を体験しよう】

十二単(女房装束)の紹介パネルや実際にどんな重さだったかを体験。

 

【十二単の重さは…?体験コーナー】※試着はできません。

どこをどう持ったらいいのか(触ったらいいのか)わからず…

たぶんきっと重いはず。

 

【フォトスポット「私は十二単が似合う?」】

顔はめパネルで記念撮影ができます

パネルに使われた十二単はとても上質なものだと思います。

 

【平安時代の香りを体感しよう】

様々な香木の展示、薫物(練香)や火取の展示も。

 

【薫物(練香)の香りを体験!】

ふたを開けると、薫物(練香)の香りがふわっと…いいかおり

 

会場の出口付近では、『光る君へ』キャストの直筆サインとひと言メッセージが展示されていたのでした。

 

 

そんなこんなで宇治の「大河ドラマ展」、楽しかったです!!

 

 


光る君へ 宇治 大河ドラマ展 ~都のたつみ 道長が築いたまち~

 公式ホームページ  https://uji-dramaten.jp/

 会期:令和6年 3月11日(月)~令和7年 1月13日(月・祝)

 会場:お茶と宇治のまち交流館「茶づな」2階

 (京都府宇治市菟道丸山203ー1)


 

 


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「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」行ってきました!其の弐(2024年5月)

2024年05月27日 | 平安あれこれ

平安時代好きブロガー なぎ です。

 

「光る君へ 宇治 大河ドラマ展~都のたつみ藤原道長が築いたまち~」

見に行ってきました!

 

宇治の会場では前半が「大河ドラマ展示」後半が「宇治歴史展示」となっています。

「大河ドラマ展示」の様子は其の壱の記事で書きました

 

後半は「道長が築いた宇治は、どんな町だったのか?」に迫る展示の数々、とても興味深くおもしろかったです。

 

【平安時代の宇治の俯瞰図】

 

藤原道長、宇治を見る

  • 奈良と京都を結ぶ宇治
  • 藤原道長の頃の宇治(想像図)

 

藤原道長、宇治に遊ぶ:宇治での日々

  • 道長の暮らした屋敷(土御門殿・宇治殿・東三条殿)
  • 宇治での日々

 

藤原道長、宇治に遊ぶ:祈りの世界

  • 道長の祈り
  • 道長が眠る場所(浄妙寺跡)
  • 道長が建立したふたつの寺院

 

藤原道長、宇治に遊ぶ:平安時代から受け継がれるもの

  • 藤原氏に縁をもつ文化財
  • 今の風景に平安時代の宇治を見る

 

藤原道長、宇治に遊ぶ:文学に描かれる宇治の姿

  • 源氏物語「宇治十帖」
  • 宇治の橋姫

 

 

パネルでの解説がどれもわかりやすいので藤原道長と宇治の関わりが知りたい方にオススメします!

(できることなら冊子にして販売して欲しい)

 

 

上記のパネルのうち、「道長が眠る場所(浄妙寺跡)」より「道長の墓」の部分を…。

道長が眠る場所について気になっています

 

 

 「光る君へ 宇治 大河ドラマ展」レポの続きは、其の参にて!

 


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