一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

角館の美女(第3回)

2010-01-31 03:33:31 | 小説
(第1回は2009年7月31日、第2回は2009年9月5日掲載)

その家の中央には奥まで廊下が通り、左右に部屋が分かれている構造だった。その右奥から、品のいい婦人が出てきた。十中八九、郁子さんの母親であろう。
「突然すみません、私、東京から来たのですが、けっして怪しい者ではありません」
私は慌て気味に言うと、6年前に郁子さんに会った経緯や、名所を案内してもらったことなどを話した。写真を撮らせていただいたことも話した。
私の風体は旅行仕様のくたびれた服で、怪しい雰囲気である。この婦人が、どこまで私の話を信用してくれるだろう。
しかしその女性は嫌悪感を見せることもなく、わりと温かい声で、そうですか、と言った。
「あの…郁子さんの、お母さまですか?」
「はい」
やはり母親だった。郁子さんの実母に、会えた。私はそれだけでも胸が息苦しくなるほどだった。私は旅行カバンからあるものを取り出す。
「あの、これ…」
私は6年前に郁子さんを撮った写真をプレート皿にしたものを、母親に見せた。本当は郁子さん本人に渡したかったが、それは母親への贈り物に変わると同時に、私と郁子さんが確かに角館で会ったことの証明にもなった。
「郁子です。この子、いい笑顔してますね…」
母親はちょっと懐かしむような声で応える。
私は郁子さんから返事のハガキをもらったこと、それからも彼女が忘れられなかったことなどを、つとめて冷静に話した。
それを静かに聞いていた母親が、奥へ引っ込む。しばらくして、麦茶と洋菓子をお盆に載せて再び現われた。これは私を不審者ではなく、正常な人間と判断してくれたことの証であった。
私は玄関のあがり框に腰かける。ああ、郁子さんはどこに出かけているのだろう。また町内を散歩しているのだろうか。いや、あれから6年も経っているのだ。もう結婚しているに違いない。
「あの…郁子さんは、そのう、もう結婚されているのでしょうか」
私は核心を突く。
「いえ、まだしておりません」
良かった…! 幸か不幸か、郁子さんは未婚だった。とりあえず第一関門をクリアし、私は安堵した。しかしこの後、何を話していいか分からなかった。
私は旅行好きであることを強調したくなり、ユースホステルの会員証を見せた。
「あら、ちょっとコワい顔をして映ってますね」
会員証には写真を貼る欄があったのだが、そこに映る私は、ブスッとした顔をしていた。私は動揺しつつ、話題を変える。
「あの、郁子さんは何年生まれなんでしょうか。6年前にお会いしたときは、25歳前後だということを話されてましたが」
「昭和39年です。39年の7月31日生まれです」
平福百穂記念館のロビーで郁子さんと話をしたとき、お肌の曲がり角の歳だから、と彼女は言った。実際は幾つなのだろうと思ったが、計算すると、当時24歳になったばかり、ということになる。あのときはその物腰や話し方から随分年上に見えたが、実際は私と1学年しか違わなかったのだ。
「い、郁子さんの名付け親はどなたなんでしょうか」
「私たちです。東京オリンピックで依田郁子という選手がおりましたでしょう。あのかたの名前を頂戴しまして」
母親は当時を懐かしむように言う。自分たちが付けたというから、てっきり名前の1文字を取ったのかと思ったが、スポーツ選手の名前を拝借したとは、意外だった。もっとも、スポーツ選手や有名人の名前を拝借する例は少なくない。
現在メジャーリーグに在籍している松坂大輔は、元ヤクルトスワローズの荒木大輔から取ったものだし、中日ドラゴンズに在籍していた藤王康晴は、父が将棋ファンで、将棋の大山康晴から取ったと聞いた。また同じ将棋界では、中倉彰子女流初段が、女流棋士の蛸島彰子女流五段から名前を戴いている。それはともかく、この命名方法は、当時斬新だったのではなかろうか。
また後日分かったことだが、「依田郁子」なる人物は確かに実在しており、ハードルの選手として、東京オリンピックに出場していた。だが依田郁子は、昭和58年に謎の自殺をしている。
母親とは、それから当たり障りのない話をしたが、私は聞かねばならないことがあった。これが第2の関門であった。
「あの…郁子さんに会わせていただけませんか?」
「郁子は…いま東京にいます」
東京!? また郁子さんは、東京に戻っていたのか!!
「と、東京ですか! あ、あの、郁子さんの、その、住所を、教えていただくわけにはいかないでしょうか」
「それはちょっと…」
私は仰天しつつも母親に迫る。しかし帰ってきた答えは、私が予期した範疇のそれだった。しかし私もここで引くわけにはいかない。
「あの、い、いつ東京に行かれたんです?」
「だいたい、3ヶ月前です」
「3ヶ月前!? そ、そんなに最近東京に出られたんですか!? あ、あの、私そのころ郁子さん宛てに、大判の封筒を送ったんですが、それを見られていた形跡はありませんでしょうか」
「さあちょっと、分かりません…」
なんてことだ…。つい最近まで郁子さんはここ角館に居たのに、肝心の手紙が行き違いになったかもしれないのだ。私は必死にすがる。
「本当にちょうどそのころだったんです、そこに、その、郁子さんに対する思いを書いたんです! あの、このくらいの大きさだから、目立っていたと思います。読んでいたか、分かりませんでしたか!?」
「本当に分からないのです」
「ああ…あの、郁子さんの東京の住所を教えていただくわけには行きませんか?」
「それは…男と女のことですから…」
「あの、何もしません! 一目、一目だけ郁子さんに会いたいんです!! 教えていただけませんか!?」
「そんなに郁子のことを思ってくれてたなら、なぜもっと早く郁子に会いに来てくれなかったんです!」
母親は口調を荒げ、そう言った。
たしかに母親の言うとおりだった。郁子さんに会ってから6年近く。いつでもこの家に訪れる機会がありながら、ここまでズルズル先延ばしにしていた。同僚だったYさんに片想いをし、振られたから再び郁子さんに関心が向いた。男として優柔不断の烙印を捺されても、しかたがないのだ。
母親が言うには、郁子さんはふたり姉妹の妹で、姉はテレビ局の職員と結婚し、いまは千葉県に住んでいるとのことだった。もちろん郁子さんにも好きな男性ができた。ただしこれが東京か角館だったかは、母親の話からは判然としなかった。ともあれ姉が一足先に嫁いでいては、婿養子を取るほかない。しかし男性がそれを拒み、結果郁子さんの両親が交際を反対する形で、ふたりの仲を引き裂いたらしい。それに郁子さんが反発し、親子の縁を切るような形で、郁子さんは東京に戻ったようなのだ。
ただ、いまでは両親も猛省し、郁子さんに負い目を感じているのだと言う。だからこれ以上、男女のことに関わりたくない、とのことだった。
「もう、どうしてもダメですか…」
「悪いけどね」
「……」
私は無言でうなだれる。
「でもね」母親は続ける。「あなたが書いた手紙を、私が送ることならできますよ」
「ホントですか!?」
「はい」
「じゃ、じゃあ私がもう1回手紙を書いて、私が書いた小説も同封させていただきます」
「あなたは作家さんなのですか?」
「い、いえ、小説はたまたま書いたものでして…」
「ああ、そうですか。私どもでそれを転送して、郁子からあなたに連絡がいくのなら、それは郁子とあなた様の話ですから」
「分かりました。ではそれを改めてこちらに送らせていただきます。あの、あと、表にある看板の電話番号はこちらでよろしいんでしょうか」
広い庭の一隅に、「――商店」と書かれた看板が打ち捨てられていた。そこに電話番号が書かれていたのだ。数年前まで、この家はなにかの商店を営んでいたらしい。
「はい」
「あの、もしなにかのときに、こちらに電話を掛けさせていただいてもよろしいでしょうか」
「構いません」
私はまだ落胆を隠せないでいたが、最後にもうひとつ、力を振り絞って訊く。
「あの…郁子さんが大学を卒業後に勤めていた会社名だけでも教えてくださいませんか」
母親が私の手紙と小説を転送してくれるとは思う。しかしそれは確実ではない。もし黙殺された場合、郁子さんの居所は自力で捜すことになる。そのためには、少しでも郁子さんに関する情報が欲しかった。
「それも困ります…」
「お願いします!」
私はあがり框から腰を下ろし、本気で土下座をしようと思った。しかしさすがにそこまではできず、その場で頭を深々と垂れた。すると母親はボソッと、3文字の会社名を漏らした。人の名字みたいだったが、それが会社名なのだろうか。しかしそれを聞き返すことはできなかった。
「ありがとう…ございます」
私は再び深々と頭を下げると、その家を後にした。家に入って、1時間が経っていた。どこの馬の骨とも分からない男を相手に、郁子さんのご母堂は、よく付き合ってくださったと思う。郁子さんには会えなかったけれど、収穫はあった。私はすこし晴れやかな気持ちで、上りの田沢湖線に乗ったのだった。

月曜からの仕事は楽しかった。いままで霞の向こうに消えていたと郁子さんの姿が、ボンヤリと現われたような気がしたからである。ワゴン車を運転する手も軽やかだった。
次にやることは決まっていた。次の土曜日、私は再び角館を訪れるのだ。たんに手紙と小説を送るだけでは、郵送代だけの思いになってしまう。高い交通費を遣い、直接手渡すことで、郁子さんへの思いの深さを感じてもらうつもりだった。
私は郁子さんへの思いをしたためた手紙を再び書き、A4判20数枚の小説をコピーすると、1冊1,000円もした特製バインダーの透明な袋に1頁ずつ入れ、それらを大判の封筒に入れた。読まれて困るようなことは書いたつもりはなかったから、あえて糊づけはしなかった。
転送代金相当の切手を用意し、さらに一回り大きい封筒に、それらをすべて入れた。これで母親に金銭的な負担はかからない。
すべての準備が完了し、土曜日がくると、私は久々にスーツを着、再び角館へ向かった。
ところでこの日の夜は、以前旅先で知り合った女性と、上野で会うことになっていた。彼女はグラビアアイドルの篠崎愛にそっくりなかわいい子で、ひょんなことから再会していたのだ。胸も大きく、もしYさんや郁子さんと出会わなかったら、彼女にアタックしていたかもしれない。
私が角館の美女との再会騒動を話したら関心を持ってくれ、この日はその成果を披露することになっていたのだ。
盛岡駅の構内で洋菓子を買い、田沢湖線に乗り換える。角館駅を降り、駅前の通りを折れ、再び田沢湖線の線路を越える。その先に理髪店があったことを憶えていたのでそこに入り、髪型もバッチリ決めた。
時間も曜日も、1週間前と同じである。これならまた、母親がいるに違いない。
私は再び郁子さんが住んでいた家の前に立つと、引き戸をノックし、開ける。前の週よりもやや張りのある声で、
「ごめんください」
と言う。すると、
「なんだあ?」
と、しわがれた男の声が聞こえたので、私は動揺した。これが誤算の始まりだった。
(つづく。次回の掲載日は未定)
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金曜サロン・神田真由美女流二段⑤

2010-01-30 00:28:47 | LPSA金曜サロン
昨年12月4日のLPSA金曜サロン、昼は神田真由美女流二段、夜は中井広恵天河の担当だった。
神田女流二段は永遠のアイドル女流棋士のひとりだが、「永遠」だけあって、年齢不詳のところがある。いつも笑顔の女流棋士である。
神田女流二段には昨年の6月だったか、私の四間飛車に右四間飛車で来られ、飛車角を抑え込まれて完敗した。前局は私が居飛車で勝利したので、本局は振り飛車での勝利を期した。
私の三間飛車に、神田女流二段は左美濃に囲う。6月の右四間飛車のときも、神田女流二段の玉の囲いは左美濃だった。大多数の女流棋士と同じく、神田女流二段も玉を固める将棋がお好きなようだ。
☖8六歩☗同歩☖同角☗8八飛☖8五歩☗6六角☖4二角☗8四歩と、例の定跡に進む。ここで上手は当然☖8六歩と指し、お互いに手を出しにくい将棋になると思っていた。
ところが神田女流二段は☖7四歩。ここが多面指しの落とし穴である。私は喜んで☗8五飛と走る。次の☗8三歩成りが受からず、さすがに優勢を確信した。
またもところが…となるが、以下☖7三桂☗8八飛☖6五桂と、ピョンピョン5七の銀取りに跳ばれてみると、そんなに浮かれる形勢でもないことに驚いた。
☗6七銀型ならこの手がなく、私の必勝だったと思う。銀の位置がひとつ違うだけで、形勢が微妙に変わる。将棋の面白くも恐ろしいところである。
☗8三歩成には☖5二飛が幸便。上手には☖5七桂成☗同角☖5五歩の狙いがあり、これは立派な勝負将棋である。その後は私も慎重に指し手を進め、一進一退の攻防が続いたが、やはり飛車先突破の実利は大きかったか、最後はなんとか幸いすることができた。
話が戻るが、神田女流二段の☖7四歩はやはりウッカリだったようだ。しかし一手の疑問手だけで勝負がつくほど、将棋は簡単ではないのだ。まして指導対局ならなおさらである。
勝たせていただいたうえに勉強になり、こんなに有難いことはなかった。扇子にサインも頂戴し、とてもいい気分だった。少なくともこの時点では。
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ヘンな夢を見た

2010-01-29 00:12:03 | 
昨年6月3日に、「石橋幸緒女流王位が夢に出てきた」というタイトルの記事を書いたが、きのう朝方に妙な夢を見たので、それを記しておきたい。

私が何かの将棋大会に参加したらしく、どうも団体戦のようだった。メンバーは私を含めて4人。その中には山口恵梨子女流1級がいた気もするのだが、はっきりしない。夢に彼女が登場しなかったからである。ただ、夢の中なのに、すこぶるいい気分だった。
このとき一度目を覚ましたのだが、そのままホンワカした気持ちが持続し、私は寝返りを打って再び眠りに落ちた。この後もいい夢が見られそうな気がしていた。
次に出てきたのが、ある体育館である。私が卒業した小学校の体育館によく似ていた。体育館の中央には一段高いステージが設けられ、屏風の前には六寸の将棋盤が置かれている。どうもここで女流タイトル戦が行われるようだ。
一応公開対局になっているらしいが、あまり観戦者はいない。と、将棋盤からすこし離れたところに年配の女性がふたりやってきて、座布団を敷いてすわった。ひとりはドラマなどの端役でよく出演している、鷲尾真知子だった。
私も座布団を持ってきて、彼女らから少し離れたところに座布団を敷き、すわった。屏風と将棋盤がほぼ正面に見える。しかし観客はこの程度であった。タイトル戦にしては少ないが、どうも私たちはこの将棋の懸賞金スポンサーになっていたようで、その特典として、対局を観戦することになったらしい。
対局者が現われる。それが袴姿の米倉涼子だったのでビックリした。さらに驚いたのは、彼女が屏風を背にしてすわったことだ。しかも彼女のすぐ前には将棋盤がある。どうもそこで将棋を指すらしい。これはありがたい配慮で、米倉涼子を横からではなく、正面から拝める。
しかしもうひとりの対局者がきたらどうするのだろう。私たちに背を向けてすわることになり、これでは米倉涼子の顔が隠れてしまい、おもしろくない。しかし米倉涼子は我関せずと、ピシッと指した。
もうひとりの対局者が気になる。どうも屏風の反対側にもう一面将棋盤が置いてあって、そちらにいたらしい。
そちらはそちらで、その対局者を応援するスポンサーがいる。つまり、応援したい女流棋士側に座る仕組みになっていたようだ。
ちなみに指し手はスピーカーか何かで相手に伝わり、対局者は相手のぶんの駒も進める、という寸法のようだった。
ここで場面が変わって、私はあるホテルのエレベーターホールにいた。所在地は東京・上野にあるヨドバシカメラ1階のDPEコーナーだが、夢だからホテルに建て直されているのだ。
一基しかないエレベーターの左には、米倉涼子、小向美奈子、男性従業員が並んでいる。米倉涼子はバスガイドさん風のチェックの夏服、小向美奈子は布地の少ないビキニで、ハイヒールを履いていた。男性従業員はなぜか薄着だった。
私は階上にある自分の部屋へ向かおうと、エレベーターの前へ歩み寄る。と、小向美奈子と男性従業員が、エレベーター右にある簡易非常階段を、猛ダッシュで駆け上がって言った。
エレベーターの箱が上から降りてくる。1階に着いて扉が開く。すると、小向美奈子と男性従業員が全裸で抱き合ってキスをしているので、私はあんぐりした。
私は訳が分からず身動きできずにいると、そのまま扉が閉まる。こんなエレベーターに乗る気はしないので、私は先ほどの非常階段を使って、部屋へ行くことにした。階段は鉄骨に黒のペンキが塗られてあり、途中に踊り場のような箇所もあって、ちょっとオシャレである。
私が登り始めると、2階のドアが開き、また米倉涼子が出てきた。いつの間にか服が変わっていて、黒のノースリーブのドレスだった気がする。彼女はカッ、カッ、カッ、と降りるや私を一瞥して、そのまま階段を降りて行った。
私はそのまま非常階段を登りつづけ、その途中で誰かには会ったと思うのだが、思い出せない。

そのときオヤジに叩き起こされて、目が覚めた。始業の時間まで16分しかない。私は目覚まし時計のベルが鳴っても気づかず寝ていたらしい。この歳になってオヤジに起こされるとは、情けない。しかし放っておかれたら、私はまだまだ眠りに落ちていただろう。
危うく郷田真隆九段の悲劇になるところだった。
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強くならなくてよかった

2010-01-28 00:40:27 | 将棋雑記
将棋を趣味にする者ならば、誰だって上達を目指すものだろう。今年こそ昇級したい。ライバルに勝ちたい。大会で優勝したい…。しかし私の場合は…。

私は小学3年生のときに、よそから転校してきた男子から将棋を教わった。おもしろいゲームだなとは思ったが、熱中し始めたのは、中学生になってからである。
そのころオヤジから、将棋には「囲い」や「戦法(定跡)」というのがある、ということを教えられた。そこでオヤジと本屋へ行き、選んだのが、中原誠・現十六世名人著「中原の将棋教室」(池田書店)であった。帰宅してから中をパラパラとめくってみて、将棋とはこんなに覚えなければならないことがあったのか、こんなに難しいものだったのかと、気が遠くなったのを憶えている。
「鉄は熱いうちに打て」という。いまさら「たら、れば」を言っても詮ないが、もし私が将棋のルールを覚えたと同時に定跡書を与えられていたら、いまより大駒1枚…はオーバーだが、香1本は強くなっていたと思う。
それでアマ棋戦のタイトルを獲得するくらい強くなっていたかといえば、私だってそこまで自惚れはしない。とてもとても無理である。しかし…とは思う。
私は現在、LPSA金曜サロンにほぼ毎週通い、魅力的な女流棋士に教えを請うている。女流棋士側の指導意識と多面指しという環境、私の紳士的な対局態度も功を奏して、成績はほぼ指し分けである。しかし私がいまより香1本強かったらどうだろう。私の勝率が飛躍的に上がってしまい、お互いおもしろくなくなっていたのではないか、と思うのだ。結果私は金曜サロンへの足が遠のき、将棋ソフト相手に無聊を慰めていた気がする。
もちろん金曜サロンでも、女流棋士相手に大幅に勝ち越している強豪もいるし、それはそれでよい。しかし私が同じ立場だったら、消化不良が先に立ったような気がするのだ。
つまり私には、女流棋士に勝ったり負けたりという現状が、いちばん楽しいということになる。強くなりすぎなくてよかった、というわけだ。
してみると、子供のころのブランクが、いまでは吉に出ている、といえる。

ところが年に1回、もっと将棋が強かったなら…と痛感する日がある。
LPSA女流棋士とアマ強豪がペアを組んで覇を競う、「ペア将棋選手権」である。女流棋士とトップアマが一心同体になって並んで指す、素晴らしくもおもしろくない企画だ。そしてこればかりは、参戦するトップアマは、プロを負かすくらいの棋力でなければ出場できない。
私は昨年の同大会で、迷ったすえ観戦に赴いたが、妙齢の女流棋士と並んで指している男性トップアマが羨ましいやら憎たらしいやらで、平常心で観ることができなかった。
その「ペア将棋選手権」が、なんと今年も31日(日)に、南青山で行われる。私はというと、なんだか知らないが観戦の申し込みをしてしまった。
第3回となる今回は、「ペア将棋体験コーナー」として、女流棋士や女子アマとペアを組んで将棋を指せる企画がある。しかし私にも妙な意地がある。そこまでして女流棋士とペアを組んで将棋を指したくないので、その体験は遠慮する。しかし申し込んだ以上、観戦には行く。
ただし、である。中井広恵女流六段・M氏ペア、藤田麻衣子女流1級・S氏ペアは、1回戦だけは絶対に絶対に絶対に勝ってもらいたい。ほかにも絶対勝ってもらいたいペアはあるのだが、キリがないので、この2ペアには切に切に切にお願いするものである。
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巻き添えにするバカⅡ

2010-01-27 00:32:02 | プライベート
昨年12月9日に、「巻き添えにするバカ」というタイトルで、自殺する者が廻りの者に迷惑を掛けて死ぬ、もしくは死にきれず自首する、という愚行を批判したが、それがまた起こってしまった。
25日午後、大阪市在住の男が、妻と娘ふたりを殺害し、自分は死にきれず、自首したのである。男には数百万の借金があったというが、それと家族を殺害することの因果関係はない。
こいつは自分ひとりで死ぬのがさびしかっただけなのだ。だから家族を巻き添えにした。ところがコトを起こしてから、こいつは自分の犯した行為におののいて、死ぬのが恐くなったのだ。まったく身勝手な犯行だと言わざるを得ない。こいつは生きている価値がない、人間のクズだ。極刑にすべきである。
犠牲になったご家族のご冥福を、心よりお祈りいたします。

さて、もし私の周りで似たようなケースが起こり、仮にその犠牲者と私が交際していたとしたら、私はこの男を死ぬまで許さない。しかし私には幸か不幸か、彼女と呼べる者がいない。とはいえ、彼女のように慕う団体はある。
もしその団体が、第三者から執拗ないやがらせを受けていたとしたら、それは私が被害を受けているに等しい。
第三者が自爆するのは一向に構わない。しかし私の慕う団体を巻き添えにするのは、迷惑千万である。
そしてその団体が第三者からの横暴に耐えきれずSOSを出したとしたら、私は自分のできる範囲のことで、その第三者に、かなわぬまでも反撃する。
小市民には小市民の意地がある。
よく覚えておけ。
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