HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

旅順の「こんぴらさん」 - 旅順金刀比羅神社の跡

2022-03-18 | 旅順を歩く
今日ご紹介する旅順のスポットは、今から7年前、2015年5月と10月の訪問記です。

白玉山の南側の中腹に、旅順金刀比羅神社がありました。

かつて旅順に存在した神社といえば、関東神宮(2014年4月8日の日記)、白玉山納骨神社、東本願寺、西本願寺(2015年12月4日の日記)が知られていますが、金刀比羅神社は残っている文献がとても少なく、謎の多い神社です。

神社は戦後に破壊されましたが、壊し方が甘かったのか、比較的良好な状態で痕跡が残っています。



ここに行くためには、地図に記載されていない道を歩く必要があります。
このような状態で残ってきたのは、人目につかない場所にあったことが幸いしていると思います。

神社の鎮座は1934年です。

金刀比羅宮と言えば海上安全の神ですので、重要な港町だった旅順に勧請されたのは自然なことだったと思います。

文献はありませんが、おそらく旅順市民から「こんぴらさん」とよばれて親しまれていたと推測します。

破壊された石灯籠が無造作に転がっています。



これは1枚目の写真の灯籠の破壊された上の部分だと思われます。

「奉」の下に彫られていた文字は、「献」か「納」でしょうか。

奉献、奉納のいずれにしても、氏子崇敬者の寄進で設えたものであることは確かです。

社殿の正面から全体を見てみます。



参道の長い階段を登り切った参拝者は、ここで一度後ろを振り返り、自分が登ってきた階段を確認してから、向き直して社殿に参拝したのではないでしょうか。



登ってきた階段の最後の部分です。





これは手水所の跡でしょうか。参拝口から社殿に向かって10時の方向にあります。



これは社殿の一番奥側から正門方面をとらえたものです。向こう側は旅順湾です。

祭神は大物主神と崇徳天皇でした。これは総本山である讃岐の金刀比羅宮と同じです。



麓から社殿に至る坂道の参道には、石の階段が残っています。



石段はほぼ直線に作られているので、なかなかの急坂です。
さながら総本山の讃岐の金刀比羅宮のようです。高齢者には厳しいかもしれません。



雑草の茂み方で、今はここを歩く人がいないことが分かります。

参拝専用の階段だったのだと思います。
階段の麓側の登り口付近は建物のフェンスで封鎖されています。獣道さえなく、ここに辿り着くのは相当難しそうです。





これは麓側の石灯籠の跡です。左右で対になっています。
ここが参道の始まりだったようです。

もう一度社殿の位置まで登ってきました。眼下には旅順港が広がります。
海上安全の神様を勧請するには、ここが最適の場所だったことが分かります。





基壇の柱を差し込む穴の列は、古写真でも確認できます。



北側の山頂方面を見上げると白玉山塔が視界に入ります。





旧社殿の周辺には、こんな破壊後のがれきがゴロゴロと転がっています。
きっと日本から持ち込まれた資材もあるはずです。

ところで、僕が今までこの神社跡をご紹介しなかったのは、理由があります。

公開することによってこの遺構が知られることになり、関心や警戒の対象になり、これ以上破壊されたり妙に手を加えられることを心配したためです。
なにしろ、彼らにとってみれば憎むべき侵略国が作った宗教施設です。

ここは神社跡としては珍しく保存状態が良好で、様々な施設の位置関係まではっきりとわかります。大連では随一です。かなり貴重な遺構といえます。

かつ、地元の研究者たちにもあまり知られていないのか、ここを紹介した中国の文献やSNSの投稿も見当たりません。

この日記を始めてから数年間、このブログは中国でも閲覧できていました。
中国人の誰もが目にする可能性がありました。

そうなると、好ましくない情報と判断されてブログごと遮断される可能性もありました。

しかし、今はgooブログそのものが規制対象になり、閲覧できなくなりました。
このため、以前ほど投稿内容を気にする必要がなくなりました。

今やこの日記の読者のほとんどは日本人です。それはそれでやや寂しい気持ちもありますが、仕方ありません。時代です。

こうした経緯があって、今回ご紹介することにしたものです。
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旧関東都督府蚕業試験場 潜入記

2022-02-28 | 旅順を歩く
旅順新市街の旧関東都督府蚕業試験場は、東東京うさぎのモヒーさんの取材記を借りて一度この日記でご紹介しました(2020年6月5日の日記)。

昨年、僕も現場に行ってみました。

ここは僕も初めてです。



なかなかカッコいい形の建物です。この辺りは平屋か2階建てのが多いので、3階建てのこの建物は目を引きます。

今は空き家です。



玄関を見たところ、一見施錠されているように見えて、実はかかっておらず、足元にコンクリートブロックが置かれているだけでした。

これはチャンスです。潜入してみることにします。
不法侵入で怒られそうですが、記録を収めておくことも重要です。

ブロックを横に移動して玄関を開けてみます。

築120年ほどの老建築です。
玄関を開けるといきなり階段が出てきます。



少し上って玄関を振り返ります。



恐る恐る、慎重に上ります。







ぴんと空気の張り詰めた音のない空間をそろそろと歩くと、ところどころ、ミシミシという不気味な音が響きます。



これは2階部分です。
直近は住宅として使われていたようです。





この収納用具は当時からあったのでしょうか。



3階に上がってみました。



風化が進んでいますので、床が抜けないか、心配になります。



ここで日本から派遣された専門家たちが蚕業の試験研究に従事したわけです。





天井が抜けています。危険です。



玄関ポーチのタイルです。この図柄、よく見かけるやつです。



この老建築はこの先どういう運命をたどるでしょうか。
この辺りは保護指定されている太陽溝景区の外ですから、この建物は保護対象でない可能性があります。

北隣に並んでいる2階建ての老建築群は日本租借時代の建築のようですが、そのうちの一軒は取り壊しが進んでいました。





桜と錨のデザインの蓋がありますので、日本海軍の兵隊の宿舎だったのでしょうか。
旅順湾までは200メートルほど、歩いて数分です。

通りの向かい側にはこんなロシア建築の一軒家が残っていました。



ともあれ、一度足を踏み入れる機会に恵まれたことは幸運でした。
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旅順商品廉売所 / 松村町通り - 思いがけないチラ見せ看板に遭遇

2021-11-18 | 旅順を歩く
旅順太陽溝の旧松村町は、個人商店が軒を連ねていた商店街がありました。

商店街は旅順商品廉売所と呼ばれていました。

往時には20軒以上の店があったようですので、相当にぎわったのではないでしょうか。

商店街の一部は今も残っています。
今の列寧街と解放街が交わるラウンドアバウトの西北角です。

2階建ての長屋が連なっています。
正確な建築年次は不明ですが、日本租借時代です。
太陽溝はロシア建築がたくさん残っていますが、これは日本時代です。



古地図で照合すると、この建物は服部薬店という店が使っていたようです。



これは文化亭という店が入っていた場所です。文化亭とは飲食店でしょうか。
僕はこの店でラーメンを食べたことがあります。2016年だったでしょうか。



ここは坂本靴店でした。1階が店舗で、2階が住居だったのでしょうか。



ここは三浦酒店があった場所と思われます。売っていたのは日本酒やビールなど、日本人向けの酒だったのでしょうか。



ここは文英堂という店が使っていた場所です。文英堂は何を扱った店だったのでしょうか。



ここは藤井洋品店だった場所です。今は空き家になっています。



ここは満電バス松村町営業所です。

ここは今年1月18日の日記で2015年の訪問時の写真を使ってご紹介しましたが、まだそのまま残っていました。







この角は近江屋という店が使っていたようです。ここも空き家です。

おや...、クリーム色の壁面から何か文字が顔を出しています。

拡大してみましょう。



品廉賣所という文字が確認できます。

どうやらここには、「旅順商品廉売所」という文字が入っていたようです。

古写真に写っていないでしょうか。探してみます。

ありました。



1934年頃の写真です。右側が旅順商品廉売所です。左側は旧満蒙物産館(2015年7月1日の日記)です。

廉売所の看板を拡大してみます。



いかがでしょうか。

今年訪問したときには気が付きませんでしたが、たまたま撮影した写真にこの4文字が入っていました。幸運に感謝です。

以前はこの文字は見えていなかったはずです。
僕が大連に駐在した頃は、ここには店が入っていて、営業していました。

ここが空き家になり、壁面が露出するようになってから、誰かが意図的に壁を剝がしたのではないでしょうか。

いつまでもこの4文字が見えているわけではないと思います。
思いがけないお宝との遭遇に感謝します。
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旅順工科大学 応用力学実験室 / 水力学実験室旧趾

2021-10-09 | 旅順を歩く
旅順工科大学の応用力学実験室と水力学実験室だったと思しき建物です。







1937年の古地図ではそのように掲載されています。



見たところ最近塗装が行われたらしく、比較的真新しく見えますが、おそらく当時の建物だと思われます。

今は何に使われているのか分かりません。事務所か宿舎でしょうか。
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旅順工科大学 電気第二実験室旧趾

2021-10-06 | 旅順を歩く
旅順工科大学の電気第二実験室として利用されていた平屋建ての建築物です。





歴史を感じさせる古い建物ですが、ロシア時代に建てられたのか、日本時代なのか、判然としません。

1937年の古地図によると、ここと南側の応用化学実験室との間には小さな川が流れていたようですが、今はありません。暗渠化したのでしょうか。





建物が使われている様子はありません。ガラス窓から中の様子を覗いてみると、比較的整然と機械類が並んでいました。最近まで使っていたのかもしれません。

ちなみに、電気第一実験室は本館の中にあったようです。
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旅順工科大学 採鉱冶金実験室旧趾

2021-10-03 | 旅順を歩く
旧旅順工科大学の本館の北側に建つT字型をした別館です。





1937年に発行された「旅順工科大学一覧(昭和12年度)」の巻末の地図によると、この建物は採鉱冶金実験室と呼ばれた校舎だったそうです。



つまり、採掘した鉱石などから金属を抽出する技術を研究した実験室、ということでしょうか。

やはり金属は近代化を進める上で欠かせない重要物資でしたので、こうした研究には必然的に力を入れたということかもしれません。

工科大学といっても様々な分野があるものです。

僕が訪問したときには使われている気配がありませんでした。

倉庫か何かになっているのでしょうか。
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旅順工科大学 応用化学実験室旧趾

2021-09-30 | 旅順を歩く
旧旅順工科大学の本館の北東側に建つ別館です。



1937年に発行された「旅順工科大学一覧(昭和12年度)」の巻末の地図によると、この建物は応用化学実験室と呼ばれた校舎だったそうです。



大学の南側の玄関から見ると正面に見える建物なので、古写真にもよく写っています。



当時は白かったようです。



応用化学という学問はよく分かりませんが、産業分野としてはエネルギーとか環境、医療、農業方面に活用するような学問でしょうか。時代が時代だっただけに、軍事方面もあったかもしれません。

今は何に利用されているのか分かりませんが、ここも海軍病院の一部ですので、病院の施設の一部だと思われます。



こちらは建物の裏側です。塗装が剥がれてこっちの方が雰囲気があります。

次回から、3回に分けて旅順工科大学の別館をご紹介します。
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旅順工科大学「吾妻寮」旧趾

2021-09-18 | 旅順を歩く
旅順工科大学の吾妻寮だった建物です。
ロシア時代に建築された洒落た洋館です。







これはパノラマで撮影したものです。

太陽溝のいちばん北側、靠山街の斜面に建っています。

現在は空き家になっています。
僕が訪れたときは建物の周囲をフェンスで覆われていましたが、大きな隙間があったので、入ってみました。

「ごめんくださーい。入りますよー」と呟きながら足を踏み入れます。



建物に入ってみると、床面は腐食が進んで抜け落ちていて、危険な状態です。屋内は散乱していて、ガラスも割れている個所が目立ち、これぞ廃墟といった様子です。







空き家になってから相当時間が経過しているようです。
ここまで劣化が進んでしまうと、リノベーションやリフォームして再利用するのは難しいかもしれません。

外階段から2階にも行くことができます。





ロシア時代は何に使われていたのでしょうか。個人宅としては大きすぎます。

ここから工科大学の北側の入口まで直線で200メートルぐらいです。
寮生にとっては便利だったのではないでしょうか。

旅順工科大学は満洲における最高学府と呼ばれた名門です。東京工業大学、大阪工業大学と並ぶ旧三工大です。

専門教育を受けたエンジニアの卵がここで切磋琢磨して、満洲の各地に巣立っていったのですね。
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旅順工科大学「常盤寮」/ 旅順師範学校「藤樹塾」旧趾

2021-09-09 | 旅順を歩く
旅順太陽溝の文明街と文明街南巷のT字路に建つこの老建築は、旅順工科大学の常盤寮と、旅順師範学校の学生寮「藤樹塾」だった建物です。





国立国会図書館で閲覧した両校卒業生による記念誌の掲載情報を元に特定したのですが、おそらくロシア時代の竣工で、利用された順番は設立年次の早い(1922年設立)工科大学・常盤寮が先で、後発(1936年設立)の師範学校・藤樹塾の方が後だと思われます。

あるいは、同時期に両校の学生が一緒に暮らしていた、という可能性もあるでしょうか。



坂道に建つ2階建てです。旅順師範学校の寮の中では大きい方に入ります。
玄関は西側を向いています。



現在は空き家になっているようです。

師範学校の寮の名前になった藤樹とは、中江藤樹(1608-1648年)のことでしょうか。

中江藤樹は、今の滋賀県出身の江戸時代初期の陽明学者です。
27歳時に脱藩して地元の近江国小川村(現在の高島市)で私塾・藤樹書院を開きました。身分の上下に囚われない平等思想の持ち主で、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し、「近江聖人」とも呼ばれたそうです。

ここで最後の寮生が暮らしたのは今から76年前です。
この日記でご紹介するのがあと10年早かったら、卒業生のどなたかの目に留まったかもしれません。

すでに旅立たれた卒業生の思い出とともに、この先も残ってくれることを祈ります。
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旅順師範学校 素行塾と塾頭宿舎

2021-09-03 | 旅順を歩く
旅順師範学校の学生寮「素行塾」として使われていたと思われる建物です。



黄色い建物がそれです。
旅順太陽溝の文明街から小径を南側に20メートルほど入った斜面にあります。

2階建てですが、どこが玄関で、どこに階段があるのかよく分かりません。
築年次も分かりません。

同校の卒業生による記念誌に掲載されていた地図によると、この建物で間違いないと思います。

寮名になった「素行」とは、江戸時代前期の儒学者で古学派の祖だった山鹿素行(1622-1685年)から取ったのでしょうか。

これに隣接しているこの黒レンガづくりの小さい平屋建て2軒は、記念誌によると「塾頭」と紹介されています。



すなわち寮長用の宿舎だったのだと思いますが、寮長なのに寮ではないところに住むとは、何か不思議な気もします。当時はそういうものだったのでしょうか。

塾頭用の宿舎は、ロシア時代の建築であることがわかります。
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旅順 関東州庁専売局アヘン加工場旧趾

2021-08-28 | 旅順を歩く
旅順には関東州庁専売局が作った官製アヘン加工場があったそうです。

何やら穏やかではありませんが、そういう時代だったのですね。
文献によると、跡地は今の白山街2号とされています。

ここがその場所です。







白山街といえば旧関東神宮の表参道です。関東神宮は後からできたとはいえ、そんな場所に?

関東州アヘン総局は1906年に設立されました。アヘンは特許専売制度が採られました。
関東州はアヘンの製造や販売、貿易、課税に関する制度を定め、合法的に製造販売が行われるようになりました。

専売制だったので、当時の租借地行政において重要な収入源になったものと思います。



この場所で外国から輸入した生アヘンや煙膏を使ってヘロインや大麻、モルヒネなどを加工して製品にしたそうです。

また、ここには様々な試薬が置かれた薬物実験室もあったそうです。工場には日本人9人、中国人50人が働いていたとされています。

1906年の旅順に15軒のアヘン販売店と130の煙館があり、1945年8月になっても旅順には営業許可を持つ煙館が10軒以上あったそうです。

「関東局施政三十年史」によると、1912年の関東州には販売免許の所持者が97人、麻薬中毒者が2,980人いたそうです。
麻薬中毒者は1923年になると27,156人となり、1934年には43,981人に増えていたそうです。







満洲国の皇后だった婉容は晩年、アヘン中毒になっていたことは有名な話ですが、ここで作られたアヘンを使っていたのでしょうか。
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旧旅順高等学校 / 旧関東州庁土地調査部

2021-08-25 | 旅順を歩く
旅順高等高校というと、関東州の名門高校でした。
学校が存在したのは1940年から終戦までのわずか5年間でしたが、1961年に寮歌「北帰行」が流行歌になったことで知られます。

校舎と関連施設は新市街の友誼路とスターリン路の西側の交差点に残っていますが、軍の施設になっているので、近くから撮影することができません。



少し離れた位置から撮ったこの2階建ての建物は旧旅順高校の施設の一部ですが、元々は関東庁臨時土地調査部の庁舎でした。
本校舎はこの建物の背後にあります。

土地調査部は左右対称のシンメトリーで優美な建物です。

築年次は不明です。
中国語の文献によると1934年と紹介されていますが、違うと思います。

1924年に関東庁臨時土地調査部が発行した報告書にはすでにこの建物の写真が掲載されています。



これが1924年の写真です。
このデザインからするとロシア時代の建築かもしれません。

建物は、1940年から旅順高等学校に転用されました。



この写真の奥まったところにある建物が本校舎です。
この建築物は転用されたものではなく、旅順高校の校舎として建てられたものです。
訪問した時は改修中だったのか、ブルーシートのようなもので覆われていていました。



旅順高校は関東州・満洲に設置された唯一の官立旧制高等学校でした。卒業生名簿を見ると、関東州・満洲だけでなく本土からも生徒が集まっていたことが分かります。
芥川賞作家の清岡卓行は同年入学の第一期生でした。

敷地は旅順湾に面していて、少し標高がありますので、ベランダからは抜群の眺望が望めるのではないかと思います。

文献によると、遼寧省文物保護単位に指定されているようですので、近くに行けば石碑かプレートが掲げられていると思います。

しかし、それを間近で見ることはできません。
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旅順師範学校 東湖塾

2021-07-11 | 旅順を歩く
旅順太陽溝の旅順師範学校の学生寮「東湖塾」だった建物です。



ここも師範村の一角でした。五四街から少し入ったところ、平洲塾の裏側に隠れるような場所です。



これは1942年の写真です。上側の奥の建物が東湖塾です。



東湖塾のネーミングの由来になった東湖とは、藤田東湖(1806-1865)です。水戸藩主・徳川斉昭の側近で、水戸学藤田派の学者です。

現在放映中の大河ドラマ「青天を衝け」にも出てきます。渡辺いっけいが好演しています。



この建物は装飾のないシンプルな佇まいです。日本租借時代の建築でしょうか。
今も住宅として使われているようで、生活の雰囲気が伝わってきました。

保存状態はよさそうです。
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旅順師範学校 師範村の大浴場と大食堂

2021-07-05 | 旅順を歩く
旅順の太陽溝には、日本租借時代に旅順師範学校の学生寮や教員宿舎が集中していた一角がありました。
文明街と五四街に挟まれたエリアの東側です。

このエリアは「師範村」と呼ばれていました。

国立国会図書館で閲覧した旅順師範学校卒業生による記念誌に記載されていた情報によると、師範村には寮生のための大浴場と大食堂があったそうです。



記念誌によると、これは大浴場だった建物です。ひし型の装飾があるところをみると、これは日本租借時代の建築物だと思われます。



旅順の冬は風が強くて寒いですから、師範学校の学生たちにとって入浴は楽しみだったのではないでしょうか。
湯舟は今もあるのでしょうか。



これは大食堂です。
奥は大浴場です。大食堂と大浴場は繋がっていました。

寮はこの周囲に点在していましたので、学生たちは食事時や夜になるとここに集まって団欒したのでしょうか。





記念誌によると、大食堂の東隣のこの建物は「尊徳堂」と記されています。
これはロシア時代の建築物です。

尊徳堂とはどんな施設だったのでしょうか。寮は「〇〇塾」ですから、寮ではありません。集会施設とか自習室だったのでしょうか。

この連なる旅順師範学校の3施設は、学生たちが楽しく語らう声が聞こえる師範村の中心だったのだと思います。
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旅順師範学校 益軒塾

2021-06-29 | 旅順を歩く
旅順太陽溝の旅順師範学校の学生寮「益軒塾」だった建物です。

「塾」ですが寮です。



これも帝政ロシア時代の建築物です。

寮にしてはとても小型です。2階のロフト風の部分を使ったとしても、収容できたのは10人程度でしょうか。

場所はいわゆる「師範村」の中央付近です。寮生の大浴場や大食堂の裏側なので、何かと便利だったかもしれません。

寮の名前になった益軒とは、貝原益軒(かいばら えきけん、1630-1714)です。
江戸時代初期の本草学者、儒学者です。

貝原益軒は筑前の生まれです。
京都で本草学や朱子学等を学び、35歳時に地元に戻って藩内で朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応、「黒田家譜」や「筑前国続風土記」の編纂を務めました。

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