HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

旧吉野ビル / 旧ナナオラ無線電気商会

2023-05-16 | 大連を歩く
大連の天津街の近く、永慶街の細い道にこんな3階建ての老建築があります。



交差点に面した角を面取りしていて、気品があります。

駐在していた当時から、この建物はなんの用途に使われた、なんという名前のビルだったのだろうと思っていましたが、調べが及んでいませんでした。
この大きさからすると、雑居ビルとして複数の店舗や居住者が入居していたと思われます。

日本租借時代の古地図を参照すると、この建物は吉野ビルとよばれていたようです。

住居表示は吉野町103番地です。
この番地には、ナナオラ出張所、松川洋行、中村金細工といった会社が入っていたという記録があります。

ナナオラとはなんのことでしょうか。

1940年発行の大連商工案内(昭和15年版)によると、吉野町103番地に株式会社七欧無線電機商会大連出張所というラジオや蓄音機を販売する会社が入っていたことが記されています。

つまり、ナナオラとは社名の七欧のことでしょう。

ナナオラは1923年頃に七尾菊良(ななお・きくら?)という人が立ち上げたラジオメーカーで、本社は東京麻布区にあったようです。



「一家に一台 ラジオはナナオラ」とあります。当時は知名度の高い会社だったようです。

ナナオラは戦後も日本国内でラジオの製造を続け、1961年に東芝の傘下に入り、100%子会社になったそうです。
ちょうどテレビ・冷蔵庫・洗濯機が「3種の神器」とよばれるようになった時代のことです。



2階と3階部分の外壁がクラッチタイルですので、流行していた1920年代の建築なのだろうと思います。

路地裏っぽいロケーションですが、天津街と信濃町、伊勢町という繁華街に囲まれていた場所ですので、人通りはそれなりに多かったと思います。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大連 永慶街4号建築

2023-04-28 | 大連を歩く
大連の天津街に近い路地裏の永慶街にこんな2階建てのレトロなアールデコ調の老建築がひっそりと建っています。



1階部分の丸窓であったり2階の縦長の小さい窓枠であったり、いかにも日本租借時代の特徴を備えています。1930年前後の建築でしょうか。





日本時代の住居表示では吉野町4丁目です。いったいなんの建物だったのでしょうか。

当時の住宅地図によると、この場所は「千代木」と記されています。

千代木とは会社名なのか、店舗名なのか、あるいは商品名なのか個人名なのか、わかりません。

当時の商工名簿を調べても出てきません。



建物の壁面は比較的最近修復が施された痕跡がありますが、今は使われていないようです。

この後どんな運命をたどることになるでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再開発中の連鎖街を歩く

2023-04-13 | 大連を歩く
2020年のことです。大連の旧連鎖街が行政主導で開発業者の手によってリノベーションされるというニュースがありました。

連鎖街は日本租借時代の大連の面影を残す随一のショッピングモールの旧跡です。

この日記でも何度もご紹介してきました。

駅前の一等地にありながら、戦後は秩序のない利用が繰り返されたとみられ、荒廃が進んでもはや取り壊し間近かと心配していたのですが、ここにきて建物を保存してレトロ感を生かした街づくりをほどこして再スタートをするというわけです。

これは願ってもない朗報でした。
再開発後は連鎖街歴史文化風貌区とよばれるエリアになるそうです。

さて、一帯のリノベーションはどんな感じで進んでいるでしょうか。再訪してみました。









いかがでしょうか。

入居していた建材や工具、部品の販売店がほとんど退去して、邪魔だった大型の看板が撤去され、元々の建物の姿が見え始めていました。

壁面も修復が施されたようです。

元々の姿を再現しようとうする配慮がみられ、再開発にありがちな「やりすぎ」は感じられません。

これはかなり期待できそうです。



これは旧常盤座です。リノベーション後は円形のエントランスが再び姿を現すでしょうか。









連鎖街で暮らしていた三船敏郎は、1987年に再訪した際、かつての面影が残っていなかったことで不機嫌になったと伝えられていますが、今なら違う感想を持つのではないでしょうか。



工事は続いています。完成はいつ頃でしょうか。

大連市の決断に拍手を送りたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大連駅東側の給水塔

2023-04-10 | 大連を歩く
先日大連の旧東郷橋を見にいった際に、大連駅の引き込み線の脇に古そうな給水塔の跡が残っていることに気が付きました。



新生街です。あれ、こんなのあったかな、と。





線路脇の場所から考えて、これは鉄道用の給水塔だったと考えられます。

今は引き込み線ですが、古地図を見てみると、ここは大連駅と大連港第一埠頭と第二埠頭を繋ぐ線路でした。

日本租借時代に満鉄がつくった鉄道遺構かもしれません。

文献が残っていないか、古写真に写り込んでいないか探してみましたが、見当たりませんでした。行政の文物指定も受けていないようです。

今は機関車は走っていないので使われていないはずですが、なぜ今まで残ってきたのでしょうか。

なかなかミステリアスな遺構です。今後研究してみようと思います。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満鉄中央試験所旧址の改修

2023-04-04 | 大連を歩く
大連中山路沿いの満鉄中央試験所旧址(2013年12月5日の日記)は、現存する満鉄関連施設の代表的な建造物ですが、日本租借時代初期の竣工ということもあって老朽化が進んでいました。

昨年、この建築物に大規模な修復工事が施されたというニュースがありました。
建築当時の姿をそのまま再現するために、建材も選び抜いて丁寧な改修が行われたそうです。

どうなっているでしょうか。
再訪してみました。





いかがでしょうか。
たしかに無駄なことはいっさいせずに、忠実にかつての姿に戻すことを優先したことが伝わってきました。



これは見事というほかありません。





この玄関の花崗岩でできた照明用の土台は当時からあったようです。このデザインは何を模したものだったのでしょうか。





連鎖街や関東街もそうですが、大連市が日本租借時代の老建築を大切に保存しようとしてくれている姿勢には本当に頭が下がります。





ただ、改修が行われたのは中山路に面している正面部分のみでして、脇の細道に入って側面を見てみると、こんな感じで昔のままです。
ここはご愛嬌、というところでしょう。笑
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大連 旧東郷橋

2023-03-29 | 大連を歩く
大連の民主広場北側に、かつて東郷橋とよばれていた跨線橋がその姿をとどめています。

勝利橋(旧日本橋)の600メートルぐらい東側、新生街の一番奥まった場所です。

当時の東郷町の延長線上にあった橋なので、東郷橋と名付けられたのだろうと思います。

この橋は一般人は通行できず、大連船舶重工の南東側の通用門として使われています。

僕が駐在していた頃は橋の入口に警備員が立っていて物々しい雰囲気があり、なおかつ西側からも東側からも接近できる場所がありませんでした。



橋の南詰です。

両側に警備詰所があり、いかつい門柱があり、今も物々しい雰囲気は変わっていません。

しかし、今回訪問した時には当時建設中だった東側の高層ビルが完成していて敷地に立ち入りができるようになっていました。

東側から橋の全体像を見ることができるようになっていました。

初めて撮影に成功しました。



この南詰の両側にある半円形の詰所は日本租借時代からあったものでしょうか。そう思わせるようなデザインで、だいぶ古そうです。

当時からこの詰所があったということは、当時から通行に何らかの制限や監視をしていたということになります。
橋の向こうにあったのは満鉄の造船所です。







特に個性的なデザインでもなく、装飾もなく、ごく普通の鉄筋の橋です。





凝った装飾で気品のある旧日本橋と違って、こちらは橋として最小限の機能を持たせたような感じがします。



鉄骨がだいぶサビで浸食されています。築100年越えと推定しましたが、耐久性は大丈夫でしょうか。

西隣の旧日本橋が大連のシンボル的な扱いを受けて多くの古写真が残っているのに対して、こっちは驚くほど地味で、何も残っていません。

橋がつくられた当時は跨線橋でしたが、今は橋の下に線路はありません。高低差を埋めるだけの役割しか果たしていません。



文献が見当たらず、いつ作られたものなのかもわかりません。1928年発行の古地図には載っていますので、少なくともこの頃にはあったようです。

日本租借時代に線路を越えて造船所や露西亜町に方面に向かう用事があった人たちにとっては便利な近道として重宝されたのではないでしょうか。

東郷橋という立派な名前を与えられたにもかかわらず、当時の在留邦人からはそれほど注目されず、近代になっても現地の中国人の歴史研究者の研究対象にもならずと、なかなか寂しい晩年を過ごしている老橋です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大連老街 海源街を再訪する

2023-03-26 | 大連を歩く
大連の海源街を再訪してみました。

星海公園(旧星ヶ浦公園)の北側斜面を東西に連なるレトロ感あふれる老街です。

訪問は7年ぶりぐらいになるでしょうか。大連医科大学第二医院の東側の小道から入ってきます。

海源街には今も日本租借時代の個性的なリゾート住宅がたくさん残っていました。









坂のある街並みそれだけで絵になるものです。

坂道のない北京で暮らしているからか、大連で暮らした当時とは違った景色に写ります。



満鉄総裁公邸だった家屋です。



近年修復が行われたらく、きれいになっていました。







スクラッチタイルは当時のままでしょう。



旧田中節邸です。ここも修復されていました。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

星海公園 後藤新平の銅像の台座

2023-03-23 | 大連を歩く
日本租借時代、星ヶ浦公園(現星海公園)には満鉄の初代総裁だった後藤新平の銅像が建っていました。

1930年に建立されました。

現在、銅像は撤去されていますが、円形の台座が残っています。



古写真と比較するとよく分かります。











]





円形の台座に数メートルおきに配置されている半球状の花崗岩の突起物は当時のままのようです。





ここが円の中心です。





鼻眼鏡とフロックコート姿の後藤新平の銅像はここの高さ5メートルの位置から星海湾を見下ろしていました。

銅像は彫刻家の朝倉文夫による作品でした。同型のものが奥州市の水沢公園に建っているそうです。

後藤は星海湾の方向を向かって立っていました。



銅像が建てられた1930年は後藤が大連を離れた22年後で、この世を去った翌年です。

つまり、建立は同人の生前の満洲開発の功績を讃えてという意味があったのだと思いますが、当時の大連のコミュニティでは大きな尊敬を集めていたということでもあったのだろうと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧星ヶ浦公園の石灯籠 - 兼六園の徽軫灯籠がモデルか?

2023-03-17 | 大連を歩く
大連の星海公園は日本租借時代の1909年に満鉄が用地を買収して開発した公園です。当時は星ヶ浦公園とよばれていました。



海水浴場を併設しており、貸別荘やヤマトホテル別館、ゴルフ場もあったりして、当時は満洲・関東州随一のリゾートとして人気を集めました。当時発売されていた絵葉書には「東洋一の海浜遊園地」と紹介されています。



さて、この公園を歩くと、ところどころにこんな花崗岩の石灯籠があります。





いかにも日本の灯籠っぽいデザインですが、これは星ヶ浦公園時代に満鉄が庭園を整備したときに設置されたものではないでしょうか。

もともと日本人向けにつくられた公園ですし、満鉄はこの公園の整備に巨額の予算を投じたとされていますので、石灯籠を配置したとしても不思議はありません。

文献を探してみたところ、特定に至る情報にはたどり着きませんでしたが、1928年に発表された木戸忠太郎の文献では、この公園を「和洋折衷の庭作り」が施されていると紹介しています。
すなわち、これが木戸に和洋折衷の「和」を感じさせた一つだったとは考えられないでしょうか。





ところで、この灯籠をよく観察してみると、かの有名な金沢の兼六園にある徽軫灯籠に似ていることに気が付きます。

二本足で、六角形の火袋があって、足の長さこそ違いますが基本的なつくりは同じです。

設計を担った満鉄の技術者が徽軫灯籠をモデルにしたと見立てましたが、どうでしょうか。

もう一つの仮説として僕の頭に浮かんだのは、大連市と友好都市の関係にある金沢市が寄贈したという説です。

仮にそうであれば、比較的最近この公園に設置されたということになります。
また、仮にそうであれば、どこかに金沢市からの寄贈であることが記されているのではないかと思いますが、それらしい文字は見当たりません。





花崗岩は耐久性があるので、見た目だけではどれだけ時間が経っているのかはよく分かりません。

金沢市関係者の方、何か情報があったらぜひご一報ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東関街の再開発計画地をあるく

2022-01-29 | 大連を歩く
大連の東関街は日本租借時代の中国人街として栄えたエリアです。

1920年代に建てられたレンガ造りの住宅や商業施設が密集しているノスタルジーあふれる場所ですが、僕の駐在時は出稼ぎ労働者の住まいとして半スラム化していて衛生状態が悪く、足を踏み入れるのもなかなか憚られる雰囲気でした(2015年10月15日の日記)。

しかしながら、ここは他の都市には見られない歴史・人文・芸術面の価値が高く、大連の近代の暮らしと産業の歴史を語る重要な場所です。
上手く保存してほしいと願っていました。

当時から様々な再開発計画が上がっては消え、ということを繰り返していましたが、2019年に一部を保存して古い街並みを生かした再開発が行われることが正式に決まりました。
総額19億元の予算を投じる大プロジェクトで、開発を担当するデベロッパーは万科集団が担うことになったそうです。

開発計画によると、歴史・文化的地区を区画化し、13箇所の建築物を不可移動文物に指定し、158箇所の歴史建築物が保護対象として特定されたようです。
市民の意見や提案も募集したといいます。

これは喜ばしいことです。よい決断をしてくれた関係者に拍手です。

現在、一帯は住民の立ち退きが終わり、フェンスで囲まれて開発工事が着工していますが、昨年大連を訪問した際、たまたま内部の工事中の様子を見学する機会を得ました。
万科のスタッフの誘導で見て回ります。

幸運に感謝します。







廃墟感がたっぷりです。

いずれも100年の大連の歴史を誇る歴史建築です。











これは中原書局跡地で、不可移動文物のひとつです。



この28号院(物華写真館)は、東関街を代表する建築物です。



幸福大院も不可移動文物です。





経年劣化で崩れ落ちてきそうですが、修復工事はうまくいくでしょうか。





つい最近まで人が暮らしていました。





こうした姿は今しか見ることができません。
開発後はどのような姿を見せてくれるでしょうか。楽しみにしたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

満鉄窯業試験工場 / 大連窯業株式会社の跡地

2022-01-02 | 大連を歩く
大連の西崗区榮華街は、1910年代から窯業関連の施設が集まっていた場所ですが、前回の訪問時にこのような石組の工場跡らしき施設を見かけました。





これは満鉄窯業試験工場と、後に設立される大連窯業株式会社の一部だったようです。

古い建物を骨格だけ利用してリノベーションしたようです。
僕が駐在していた時には、この場所は衝立で封鎖されていたので、建築物を直に見ることができませんでした。



中国語の文献によると、この建物は1912年に満鉄中央試験所が建設した窯業実験工場だったそうです。

満鉄中央試験所は1908年に発足しています(2013年12月5日の日記)。
満鉄は旺盛な建築需要に応えるため窯業の発展をめざして試験所内に窯業課を設置し、各種の窯業製品を試作しました。
それがここであったと。

1920年には満鉄窯業試験工場と改称します。
1925年7月には大連窯業株式会社が設立され、満鉄がその全株式を所有しました。

1930年代の古地図によると、この一帯は「大連窯業会社」と記されているので、この会社のことでしょう。

大連窯業株式会社のあった一帯は高層住宅が経っていますが、この建物だけが残されてきたようです。

別の中国語のサイト(リンク1)(リンク2)によると、この建物は2011年時点でレンガの骨組みだけが残された廃墟になっていました。

その後、取り壊しを免れて再建が行われたようです。
今の姿になったのは最近だと思います。



満鉄が1928年に昭和天皇に献上したガラス花瓶(2019年12月2日の日記)も、この工場群で製作されたものと思います。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大連 「満鉄憲兵隊第一任隊長住宅」跡?

2021-12-09 | 大連を歩く
大連の魯迅路沿い、旧満鉄協和会館の斜め向かいにこんな一戸建ての老建築が残っています。





ポツンと一軒家風でとても目立っているので、大連で暮らしたことのある人ならおなじみだと思います。



この建物が何だったのか分からなかったので、駐在中にはこの日記でご紹介していなかったのですが、今年大連を訪問したときに立ち寄ってみたところ、壁にこんなプレートが掛けられていました。



当時はなかったものです。

行政から大連市歴史建築という建築物の指定を受けたようです。
「満鉄憲兵隊第一任隊長住宅」と紹介されています。

1920年代の建築であると。その下には、元々は日本軍憲兵分隊軍官だったとも記されています。

本当でしょうか。
たしかに関東軍の憲兵隊はこの北側にありましたが、満鉄憲兵隊とは首をかしげます。

満鉄の中に軍事警察があったのでしょうか。あるいは、当時この一帯は満鉄関連の施設が集中していたので、地名として「満鉄」という文字を使ったのでしょうか。

ネットを探すと、関東軍陸軍倉庫官舎だったと説明している文献もあります。



真偽のほどはわかりませんが、いずれにしても行政が建物を保護する意思を示しているのは望ましいことです。



魯迅路を挟んで斜め向かいは旧満鉄協和会館です。
建物は今も残っています。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大連 三十里堡駅周辺の近代歴史建築群

2021-06-20 | 大連を歩く
前回に続いて大連の三十里堡です。

三十里堡駅前には、駅前商店街や鉄道関係者の住宅の遺構が残っていました。













いずれも築100年を超えていると思しきレンガ造りの老建築です。
経年の風化が絶妙な雰囲気を残しています。

往時は鉄道の利用者で賑わったのでしょう。





これらは駅に隣接する住宅です。
おそらく満鉄職員の社宅だったのではないでしょうか。









60代の地元在住の知人から話を聞いたところ、鉄道が主要な交通手段だった数十年前までこの辺りが三十里堡最大の繁華街だったそうです。

三十里堡といえばリンゴやサクランボの産地として有名なので、そっちのイメージしかありませんでしたが、このような近代産業遺産が残っていることを知りませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大連 三十里堡駅と給水塔

2021-06-17 | 大連を歩く
今年3月、大連の三十里堡駅に残る古い給水塔が大連市文物保護単位に指定されたというニュースがありました。

先日大連を訪問した際、三十里堡の知人を訪ねたついでに立ち寄ってみました。

三十里堡には、満鉄本線(連京線。大連から新京に至る総延長701kmの社線)の駅がありました。
大連から数えて8つ目、金州から2つ目の駅です。



これは1936年の満鉄路線図です。

ちなみに、地名である三十里堡とは、金州城から三十里の場所だったここに台を構え堡を設けたことが由来です。
鉄道の運行が始まったのは1903年で、鉄道施設は東清鉄道が敷設しました。日本が関東州の租借権を得た後は満鉄の経営に移管しました。



ありました。これがその給水塔です。

この給水塔は1900年にロシア人入植者によって建設され、鉄道の開業時から蒸気機関車に水を供給する役目を果たしました。
線路は写真の左側の平屋建てのすぐ左側を通っています。

僕は知らなかった、というか考えたこともなかったのですが、蒸気機関車を動かすためには石炭だけなく、大量の水が必要だったのですね。
動力源は蒸気ですから、水が必要であることは自明です。したがって、沿線にはこのように給水施設が必要であり、この三十里堡駅がその役割を担ったというわけです。

この円形の給水塔は100立方メートルの水を貯蔵することができて、地下から汲み上げた水をため、パイプを通じて機関車に注入したそうです。
この一帯の地下水はマグネシウムやカルシウムなどのミネラルを含まない優れた水質だったため、機関車のボイラーの加熱効率を上げ、鉄道設備の寿命を大幅に延ばしたそうです。





これは三十里堡駅です。

三十里堡駅は去年1月、貨客駅としての役目を終え、客車が停車することはなくなったそうです。
三十里堡には高速道路があってバス網が整備されていますし、地下鉄13号線の開通も間近ですので、鉄道のニーズは減ったのでしょう。



この場所を見学した後、三十里堡在住の知人から話を聞きました。
知人は現在60代で、ずっとここで暮らしてきた人です。
自分が若い頃は大連市内や金州に行く手段はもっぱら鉄道で、頻繁にこの駅を利用したものだと懐かしそうに話してくれました。





給水塔は役目を終えてから相当長い年月を経過しているはずですが、よく今まで残ってきたものです。
貴重な産業遺産を見学することができました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大連/旅順の再訪

2021-05-09 | 大連を歩く
休みを取って大連/旅順を訪問してみました。

駐在が終わった後も東京からマラソン出場や出張などで何度か来ることがありましたが、ゆっくりと滞在するのはこれが初めてです。







かつて自分が暮らし、親しんだ街を歩き、古い友人たちと再会して杯を酌み交わしました。





シャコは今が旬です。北京ではお目にかかったことがありません。



立派なアワビ。これも大連ならではです。



ウニもごぶさたしています。



蜆子面(しじみの麺)は大連名物です。



なじみの居酒屋ではやっぱり生ビールを。

ああ、故郷に帰ってきたな、と実感しました。やはり愛おしい街です。
コロナ禍でなかなか一時帰国がかないませんが、こうして国内に帰る場所があるというのはありがたいことです。

東京で暮らした間に国立国会図書館などに通って調べた未開拓のスポットにも訪問してみました。

今後この日記でご紹介していこうと思います。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする