北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

ミサイル巡洋艦シャイロー (CG-67 Shiloh) 名古屋港寄港

2008-08-31 15:18:05 | 在日米軍

■弾道弾迎撃可能

 本日は、東京において強襲揚陸艦エセックスも参加する大規模な防災訓練が行われているとの事だが、今回掲載するのは名古屋に寄港していたアメリカ海軍のイージス艦についてである。

Img_4912  8月25日から28日まで、名古屋港にアメリカ海軍のミサイル巡洋艦シャイローが入港した。シャイローは27隻が建造されたタイコンデロガ級の21番艦として1992年に就役、満載排水量9957㌧、全長172.8㍍で86000馬力のガスタービンエンジンにより30ノットの速力を発揮する。本艦最大の特色は垂直発射器に収められた122発の各種ミサイルを縦横無尽に駆使するイージスシステムを搭載した、いわゆるイージス艦である点だ。

Img_9413  弥富埠頭、という場所がよく判らなかったので、C.ジョニー氏に近鉄弥富駅から徒歩でどのくらいですか?と聞いて見ると、だいたい三時間くらいです、と。片道で徒歩三時間ということは、往復で・・、って無理、徒歩は無理のようなので、C.ジョニー氏の車に便乗させていただくことに。

Img_9431  最良の撮影ポイントを探すが、危険な場所や立入が制限されている場所以外で見学できる場所というのは限られている。地図上は立ち入れそうな場所でもダメだったり、関係者以外は入れない場所などがあったりする。そこで確実に見ることが出来る対岸の鍋田埠頭から撮影することに(それが冒頭に掲載した写真)。

Img_4968  シャイローは、27隻建造されたタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の中でも最終型にあたるグループにあたり、イージスシステムはベースライ4を搭載、レーダーなども耐ジャミング性に優れた電波ビームのサイドロープ低下や低空小型対艦ミサイル対処などの面で性能を向上させたSPY-1Bが搭載されており、管制コンピュータをUYE-43/44としている。その後、弾道弾迎撃能力付与のために、シャイローは内部の機器を一新した。

Img_4951  写真の中央に写っている球形のアンテナは弾道弾迎撃専用ミサイルであるスタンダードSM-3管制に用いるテレメトリー受信用アンテナ。この受信用アンテナにより、発射したSM-3からミサイルダウンリンクシステムによりデータを受信する。シャイローは、イージスシステムをベースライン5フェーズⅢにアップデート、イージスBMD3.6システムを搭載している。

Img_4979 この弾道弾対応型イージス艦最初の一隻で、6月に弾道弾迎撃試験に成功し、その直後に横須賀に配備されたということで、アメリカと日本の密接な安全保障体系の一つの象徴ともいえるのが本艦だ。その後、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」型を含め、弾道弾迎撃能力を有する艦船の在日米軍、海上自衛隊における装備化は順調に進んでいる。

Img_4945  シャイローは、2006年8月29日に横須賀基地に前方配備された。シャイローの入港歓迎式典には、海上自衛隊から斉藤統幕長、吉川海幕長が。アメリカ海軍からはウィンター海軍長官が出席した。SM-3の搭載数は非公表であるが、VLSのSM-3対応セルの総数は、第七艦隊の会見でも「かなりの範囲に及ぶ」というコメントが出されている。

Img_4946  巡洋艦の近接防護装備。5インチ砲の向こうにみえるのが25㍉単装機関砲。砲上には球形状の光学照準装置がみえている。また5インチ砲の手前には12.7㍉機銃の銃架が設置されているのがわかる。これは自爆ボートなどによる近接攻撃への対処の為に装備されている装備で、他にも艦の各所に搭載されている。

Img_4992  そろそろ撮影を終了して撤収しようかというときに、格納庫の扉が開かれSH-60哨戒ヘリコプターが出されてきた。本艦は、対潜駆逐艦であるスプルーアンス級を拡大し設計された経緯があり、その関係から2機のヘリコプターを搭載することが可能である。ヘリは整備の為に出されたようで、飛行する気配もないので、そのまま撮影し、一行は撤収した。

Img_4956  愛知県警の警備船「にっこう」。シャイローの周辺では、愛知県警の機動隊と警備船が警戒にあたっていた。

 最後になりましたが、自動車を出していただきましたC.ジョニー様、文明様、現地でご一緒させていただきました氷砂様、ありがとうございました。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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XP-1次期固定翼哨戒機 川重岐阜工場にて防衛省へ納入式 9月上旬にも厚木航空基地へ

2008-08-30 21:11:01 | 海上自衛隊 催事

■XP-1 厚木基地へは9月上旬配備

 8月29日、海上自衛隊の次期固定翼哨戒機として川崎重工を中心に開発が進められていた次期固定翼哨戒機XP-1、その試作1号機が防衛省への納入式を迎えた。

Img_7935  川崎重工岐阜工場において行われた引渡式へは、防衛省より武田良太防衛政務官らが出席した。報道によれば、純白の機体に紅いストライプを帯びたXP-1初号機を前に武田政務官は、これまでのP-3C哨戒機と比べ、より早く、より高く、より遠くまで飛行できる、世界的にみても最高性能を有する新型機が防衛省に納入されることに期待を示すスピーチを行った。

Img_7922  XP-1は、エンジンや機体など、川崎重工を主契約企業として、三菱重工や富士重工など日本国内の航空産業が一致協力したオールジャパン体制で開発されており、初飛行を待つ次期輸送機C-Xとともに大型機二機種を同時開発することで開発費を3500億円程度に収めることを目指した一大計画として知られている。

Img_0017  XP-1は、これまで川崎重工により岐阜基地を拠点として、繰り返し飛行試験を実施してきたが、納入式により海上自衛隊に引き渡された事で、今後は厚木航空基地の第51航空隊において評価試験を受け、運用試験などを重ね、P-3C哨戒機を置き換えるかたちで実戦配備へと進んで行く事になる。特に、飛行性能はもとより新型対水上・対潜センサーを有し、新型戦闘指揮システムと連動する本機への期待は大きく、諸外国からも注目されている。

Img_9612 XP-1厚木基地移動について、新聞記事が出ていたという情報をC.ジョニー氏からお教えいただいた。8月27日付の東京新聞が報じたところによると、厚木航空基地に隣接する大和市の大木哲市長が行った26日の定例記者会見でXP-1の厚木基地到着の次期として防衛省側から九月上旬になると情報を受けた旨、語ったという。

Img_7813  九月上旬に到着する見通し、という発表であるが、厚木航空基地に到着したXP-1は、基地の東側においてエンジン試運転を行うとのことで、来年三月完成を目指して厚木航空基地ではXP-1用格納庫の建設を進めているという。現在、川崎重工ではXP-1の2号機が飛行試験を進めているが、この2号機も年度内には防衛省に納入を行う計画である。

Img_7842  XP-1はP-Xとして航空自衛隊の次期輸送機C-Xとともに2001年度から開発が行われ、当初は輸入したビスなどの問題で初飛行が遅れたが、その後昨年9月に初飛行を果たしてからは開発は順調。既に量産機の予算も計上されており、厚木航空基地での評価試験が順調に進めば、XP-1は2011年度末にも部隊配備が始まるとされる。

HARUNA

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愛知県内と東京都内に記録的豪雨 同一地域に連続して積乱雲

2008-08-29 19:12:54 | 防衛・安全保障

■第二東海豪雨

 2000年の東海豪雨に並ぶ規模での豪雨被害が昨夜から今朝にかけて愛知県を中心とした東海地方を襲った。本日は武田良太防衛政務官が出席したXP-1防衛省引渡し式の記事を掲載予定であったが。第二北大路機関記事“XP-1次期固定翼哨戒機 川崎重工が防衛省に納入”をご覧戴きたい。なお、写真は過去記録より編集している。

Img_6544_1  活発な前線の影響で局地的な豪雨が散発的に続き、愛知県の岡崎市などで一人が死亡、一人が行方不明、愛知県一宮市でも一人が意識不明などの被害が出ている。岡崎市では今朝0200時から0300時までの一時間に147㍉の豪雨を記録しており、気象台によれば、今夜にも再び豪雨の恐れがあるとしている。岡崎市では、全世帯に避難勧告が出され、床上浸水が620棟、床下浸水が705棟という被害が出た。愛知県の発表では、床上浸水は1430時の時点で名古屋市で43棟、豊橋市で17棟、一宮市で25棟、春日井市で6世帯、安城市で10棟、碧南市で1棟、知立市で1棟、岩倉市で4棟、北名古屋市で4棟、扶桑町で1棟となっている。

Img_6520_1  愛知県災害対策本部による発表では、愛知県内では328箇所の国道や県道が浸水し、214箇所で通行が不可能となっている。岐阜県では107棟が床下浸水、三重県では桑名市などで13棟が床下浸水の被害があり、尾鷲では土砂崩れによる自主的避難などが行われた。

Img_7566  今回の第二東海豪雨というべき災害は、2000年の東海豪雨と似た気象配置であったということで、太平洋高気圧の位置が例年よりも東側に位置しているため、大陸高気圧に抑えられた西日本上空の低気圧との間で北陸地方に前線が停滞、結果、断続的に愛知県の岡崎市を中心に積乱雲が発生、局地豪雨が連続して同一地域を通過したことで、今回のような大きな被害をもたらしたようだ。

Img_8809  また、上空の風が弱く、気象配置があまり変わらないことから、愛知県を中心とした東海地方では、明日にかけて非常に強い雨が続くということで警戒が必要である。また、豪雨の区域は、今後、東日本や北海道へも広がる予報が出されており、今後の動向に注意が必要だ。

Img_6363_1  岡崎市の全域は、災害救助法が適用された。岡崎市では、九つの地域で河川の堤防が決壊したという。ちなみに現在では九つの河川の内、カノリ川を除き水は引き始めているとの事。なお、記録的な大雨の被害を考慮し、岡崎市では市内の全世帯に避難勧告を出す異例の措置をとるとともに0315時頃、陸上自衛隊に災害派遣要請を出し、現在、第10師団の災害派遣部隊が出動した。岡崎市への災害派遣には主に豊川駐屯地の部隊が災害派遣任務にあたった。

Img_6296_1  第10師団の災害派遣部隊は、主として岡崎市内の市民避難を支援するとともに行方不明者が出た地域の捜索活動を実施した、更に堤防などの決壊の危険性がある地域で土嚢などによる水防作業を展開し、被害の拡大阻止に努めた。行方不明者の捜索は、消防、警察、自治体とともに協同して実施した。岡崎市からは1351時に災害派遣撤収要請が出された。1600時には岡崎市へ林幹雄内閣府防災担当大臣を中心とした12名の政府調査団が岡崎市や幸田町の被災地を現地調査している。

Img_1480  豪雨により、名古屋本線では東岡崎駅周辺で軌道下の土砂が流れ出し、不通となっていたが、昼前には復旧したとのこと。また、一時豪雨により、名古屋本線の神宮前~豊橋間、豊川線全線、三河線全線、中部国際空港に向かう空港線や知多半島内の全線という旧愛知電鉄域内のほぼ全域が運転を見合わせていたが、現在では平常運行に戻っている。JRは、飯田線が一時信号機故障などの運転中止があったが復旧している。

Img_9385  東海道新幹線は、規定雨量を超えたことで、お昼過ぎ頃に名古屋駅と岐阜羽島駅の間が運転を見合わせたが、45分後に運転を再開している。ただ、この運転見合わせにより一部の新幹線に運休などが出た。さらに、東京や上野を始発とする一部の寝台特急が運休するようだ。この豪雨被害により、東海道本線、関西本線、中央本線は大きな遅れが生じた。

Img_9183  首都圏でも被害が出ており、中央線は高尾駅周辺で軌道が増水した川に浸かったことから高尾駅周辺が一時運行を見合わせ、中央線特別快速や新宿と長野を結ぶ特急電車などが運転を見合わせたとのことだ。また、京王帝都電鉄は高尾駅と高尾山口の間で発生した土砂崩れにともなう脱線事故で、復旧作業を行っているが現在も運転を休止しているとのことだ。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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氷川丸(HIKAWA MARU) 客船から保存船として横浜に余生をおくる

2008-08-28 17:52:07 | 旅行記

■ヨコハマ湊街シンボルのひとつ

 国際港湾都市として知られる横浜市、海に面した湊街としてのシンボルは多くあるが、その筆頭に1930年から1960年までの期間、活躍した氷川丸を推す声も多いのではないかと思う。

Img_8729  氷川丸は、横浜と北米のシアトルを結ぶ北太平洋航路をゆく客船として日本郵船が建造した旅客船で、ここ横浜にて1930年に建造された。氷川丸は、いわゆるシアトル航路三姉妹として続く日枝丸、平安丸に先駆けて誕生した経緯がある。氷川丸は、太平洋戦争に病院船として参加し、樹陰の努力、そして幸運とに恵まれ生き残る。引揚船として人々を日本への帰路を運んだのち、戦後も再び太平洋航路に返り咲き、1960年に引退した。そして1961年には、ここ横浜にて、保存されることとなったわけだ。

Img_8695 氷川丸のブリッジ。手前には舵が設けられているものの、現代的な船舶とはまったく異なるブリッジという印象だ。氷川丸は、総トン数11622㌧、10289重量㌧。全長は163㍍、幅は20.1㍍である。客室定員は、一等客室76名、二等客室69名、三等客室186名となっており、客船引退後は、海上ホテルや海上レストランとして、そして夏にはビアガーデンとしても親しまれた。

Img_8696  レーダー装置。建造当時はもちろん、レーダーを搭載していなかったのだが、第二次大戦の戦後、再び太平洋航路に返り咲いた際に、氷川丸にはレーダーが搭載された。氷川丸は最大速力18.2ノット、巡行速力15ノットであり、過密する太平洋航路を再び行くにはレーダーが必要であったとのこと。

Img_8656  氷川丸はチャーリーチャップリンや秩父宮夫妻が乗船したことでも知られる。また、本船は、ロンドン海軍軍縮条約の批准書を日本に運んだことでも知られる。ロンドン海軍軍縮条約の批准に尽力した加藤友三郎は、先日掲載した三笠の艦橋上において、日本海海戦を戦った一人であり、なるほど、横浜と横須賀、氷川丸と三笠には、わずかながら繋がりがあるのだなあ、と考えさせられた。

Img_8644  船内をゆく。真っ白な船内の壁に電燈の光が反射して、あたかも間接照明のようなほの暖かい印象を伝えている。通路とともに連なる客室の扉が続き、壁の掲示には船室の配置などが記載されており、目的の場所に行くには何処を通れば良いのかということが判るようになっている。

Img_8654  食堂。船内では、日本料理などを楽しむことが出来たが、特に、かの喜劇王は、天麩羅を堪能できるということで、氷川丸を選んだとのこと。天窓からは自然光が降り注ぎ、さぞ料理に彩りを添えたことだろう。喫煙室やラウンジなどが一等客室の乗客向けに用意されており、おおよそ三週間という期間、乗客は思い思いの時間を過ごしたのだろう。

Img_8665  氷川丸や日本郵船の歴史を掲載したパネル。ちなみに近年の客船は、カーフェリーやクルーズ船が中心となっており、プールや娯楽設備に溢れているが、北太平洋航路を行く旅客船としての本船は、むしろ今日の国際航空路線にあたるもので、更に厳しい北太平洋をゆく関係上、あまり甲板上に娯楽設備を配置できないという事情もあったりする

Img_8678  一等客室。氷川丸では、客室の様子を見学することが出来る。二つのベッドが並び、洗面台やテーブルも用意された洒落た内装。ここだけに閉じこもると確かに厳しいが、そのために前述のようなラウンジなど様々な設備が用意されている。特に喫煙室は、今日では愛煙家にとってアラモの砦であるが、当時は社交の場として必須の場所であったため、広々としている。

Img_8681  こちらは一等特別室。一等客室の更に上のグレードといなっている。一見、一等客室との相違は間接照明になっているので、一等客室と大きな違いを印象付けられるのだが、よくみてみるとさらに洗面台などが見当たらない。また、椅子などもふかぶかとしたクッションが取り付けられている。

Img_8684  一等特別室には、こういった応接間もあり、加えて洗面台や浴室なども用意されている。航空機の国際路線という選択肢が無かった時代、今日的にいうとファーストクラスにあたる設備であるが、旅行情緒というものを持ち込んで比べてみると、昔の方が、と思うのは小生が懐古趣味だからなのだろうか。

Img_8713  氷川丸の機関室。本船は、ディーゼル推進方式を採用している。B&W型ディーゼルエンジン二基により推進し、出力は18272馬力で、二軸推進となっている。この機関室には、機関部分の仕組みについても展示されており、この点、機関が撤去された三笠と比べると、本船の方が当時の姿を忠実に伝えているといえる。

Img_8718  三等客室。なんというか、B寝台である。ちなみに、デッキなど一等客室区画に行くには事前に申し込みを行う必要があったというので、ここで船窓を眺めるか、花札やトランプでも持ち込むか、なるほど、かなり上とは異なる印象だったのだろう。ちなみに、本当に時間が余っていたようで、三等客室の乗客は、船窓に飽きたらキッチンで芋の皮を剥いたり、掃除を手伝ったりしていたのだそうだ。

Img_8723  氷川丸の歴史を紹介している。実は、この氷川丸、2006年12月に保存していた会社が経営難になる一端閉館、一般公開を終了したのだが、日本郵船が氷川丸を引き継ぐということになり、いわば再び日本郵船の船として氷川丸は今年4月25日に公開を再開している。氷川丸へは、東急線が乗り入れるみなとみらい線元町中華街駅から山下公園に足を進めると、すぐ見つけることが出来るので、横浜に足を運ばれた際には是非、見学をお薦めしたい。

HARUNA

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横浜中華街 航海を見守る馬祖廟と繁栄の心支え関帝廟

2008-08-27 22:16:07 | 旅行記

■横浜中華街散策

 京浜急行電鉄の充実した高速鉄道網は、横須賀と横浜を多くの列車と格安な運賃で結んでいる。同じ湊街でありながら、軍都横須賀と商都横浜の違いには、毎回驚かされる。そんな横浜中華街に、親友のM氏とともに足を運んだ。

Img_8627  さてさて、安政の五カ国条約にて開港都市に指定された横浜。江戸時代末期、日本では英語を解する人口も極端に少なく、国際港湾都市への変革を独力で成し遂げられない時代にあって、外国人居留者が必要としたのは、中国人の召使であった。多くの中国人は、その必要から華僑として日本を訪れ、同じアジアの視点から日本の近代化にも欠かせられない尽力を加えたのは周知の通り。その華僑が、生活の場として自国文化を定着させたのが中華街である。

Img_8623  さてさて、護衛艦はるな舞鶴への出港を見送った小生、時間が許せば在来線にて護衛艦とともに舞鶴に出迎え、という計画も為しえなかった訳では無いが、やはり神奈川県にいるならでは、ということをしようと思い立った(つまり観光)。それよりも航海の安全を祈念しようと足を運んだのは、馬祖廟である。そもそも鄭和の南海遠征として、中国から遠く中東、アフリカ東岸までの航路を見守ったのも馬祖廟というので、御利益は確実なもの。

Img_8622  横浜中華街には、中国から持ち込まれた文化の数々が、中共や台湾の文化と調和し、中華街を形成している。なるほど、世界に多くの華僑人口を有するかれらにとり、航海の安全はなによりも重要なものであり、その集める信仰の大きさが、この横浜の地に馬祖廟を建てたほどだ。ここは無心に、参拝を行う。

Img_8629  横浜の中華街は、日本において主要な中華街として知られる神戸や長崎の中華街よりも大きい。これは、彼らが、開国間もない日本において、輸出入の仲買人などの仕事を掌り、その役割が重視されたことに起因しており、いわば必要に応じて大きくなった中華街である。近年は、その役割をほぼ終えて、観光拠点として異国情緒を楽しむことが出来る横浜の名所に記されている。

Img_8595  馬祖廟を参拝し、更に脚を進めて小生一行は、関帝廟に足を運ぶ。実は、ここは商売の守り神としても知られており、馬祖廟よりも前からここにある。日本が排他的な文化体系を有していた時代にはここには無く、いわゆる華人会館などの奥にて華人たちからの信仰を集めていたのであるが、近年では、このように荘厳な装いにて、多くの人々からの崇敬をあつめている。

Img_8599  横須賀にて見送った艦船の航路の安全と責務の完遂を、ここ横浜の地より祈った次第。いわゆる神社にあたる場所なのだが、日本の神社には数え切れないほど参拝を重ねた小生にも、こうしt寺院への参拝の回数は少なく、ここ関帝廟の空気は、新鮮に感じられるものである。ちなみに、神戸にもやや中華街より離れたところに関帝廟はあるので興味のある方は足を運ばれて見てはどうだろうか。

Img_8584  さてさて、縁日ではないが、一通り参拝を終えた小生一行は、横浜中華街を散策である。神戸の中華街は、いわゆる屋台があり、食べ歩きという文化が根付いているのだが、横浜中華街には、屋台風の店が多少あっても、基本的に店内で飲食という方式である。同じ中華街でも、異なる点はあるのだなあ、と、やや空腹の一行は、美味しい中華料理に向けて大きく舵を切った次第。

HARUNA

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『三笠』記念艦 日露戦争・第一次世界大戦に参加した栄光の殊勲艦

2008-08-26 19:31:05 | 旅行記

■横須賀の記念艦三笠

 横須賀に所在する三笠記念艦に、久々に足を運ぶことが出来た。世界が、今日ほど国際公序や国際規範が普遍化しておらず、国際法の届かない、いわゆる“例外状態”が点在していた時代、日本の貴重な戦略的装備として君臨していた旧海軍の戦艦である。

Img_8194  見上げる30.5㌢40口径連装砲の威容。戦艦とは、主砲による比類なき攻撃力、独力にて機動でき、もっとも堅固な防御力を有する主力装備として保有され、19世紀から20世紀中ごろに差し掛かるまで、今日の核兵器に匹敵するポテンシャルを有していた。日露戦争や戦艦三笠については、先行研究が数え切れないほどあり、100年の歴史を経て研鑽された学術研究の成果といえる。しかしながら、戦史は専門ではないので、一般的な資料をもとに概略を掲載したい。

Img_8095  噴水とともに見上げる記念艦三笠。あたかも、黄海海戦や日本海海戦といった、三笠、激動の生涯において出遭った着弾の水柱を彷彿とさせるものだ。戦艦三笠は、第二期海軍拡張計画により、イギリスで建造された戦艦で、建造所はヴィッカーズ社のバローインファーネス工場である。

Img_8098  常備排水量は15140㌧。世界最強の戦艦として建造された。世界最強というのは、数的充実を図れない厳しい財政事情の当時にあって、求められたもので、国家予算7000万円当時、二億円の海軍予算を必要とした。今日ほど日本経済は充実しておらず、日清戦争の賠償金により辛うじて産業革命に着手した日本には、戦艦の数的充実などは容易ではなく、皇室費の節約や、一般市民からの献金を募り建造されたという経緯がある。

Img_8115  艦内は、現在博物館として公開されている。実は、1925年のワシントン海軍軍縮条約により廃棄艦とされた本艦は、記念艦とすることで、廃棄の計画から免れ、今日に至る。ちなみに、戦艦の技術に画期的な変革をもたらしたドレットノート級戦艦以前の、いわゆる前ド級戦艦としては、今日、世界で唯一現存するものと知られる。

Img_8116  東郷平八郎大将、ネルソン提督、そしてオリヴァーハザードペリー。ペリーというと、浦賀に1853年来航したマシューCペリーを連想される方がいるやもしれないが、O.H.ペリーは、米英戦争の米海軍の英雄。1812年にナポレオン戦争に伴う欧州の混乱を背景に、交易の自由と中立を維持しようとするアメリカが、イギリスと武力衝突し米英戦争が勃発した。この際、北方地域への交通路を争奪するべく生じたのがエリー湖の戦い、O.H.ペリーは弱冠27歳で指揮官となり、艦隊の編成を建造から訓練まで指揮、戦闘では英軍の攻撃で旗艦ローレンスが大破する中で果敢に燃える旗艦から将旗を僚艦のナイアガラに移し戦闘を継続、不屈の精神と巧みな指揮で英軍に勝利、北方への航路を維持した。1815年まで続く米英戦争において、もう一つの決戦であるシャンプレイン湖の戦いでも陣頭指揮を執り、戦後は、西インド諸島や地中海におけるシーレーン防衛にあたった闘将。ただ、トリニダートにて黄熱病に罹患し、34年の生涯を終えている。

Img_8125  15㌢副砲、操砲状況の展示。三笠の装備は、30㌢40口径連装砲×2、15.2㌢40口径単装砲14門、7.6㌢40口径単装砲20門、4.7㌢速射砲16門、そして45㌢水中魚雷発射管4基を搭載しており、加えて水雷艇対策として適宜、機関銃が搭載されていた。シベリア出兵時の船団護衛に一等海防艦として三笠が参加した際には、試験的に航空機の搭載設備を増設して、水上機を艦載機として搭載したこともある。

Img_8120  驚いたのは、副砲の照準器だ。照準は、微調整などができない完全固定式で、M3短機銃のものを拡大したような印象、つまりサイトの微調整が可能な陸自の89式小銃やM2重機関銃よりも簡素なもので、文字通り直接照準。もちろん、交戦距離は現用携帯火器よりも長い一方で標的も大きいのだが、これで命中したというので驚きだ。

Img_8121  副砲の撃発装置。トリガーを引くと発射される。実は、ハープーンやターターを発射するための海上自衛隊のミサイル発射装置も、競技用雷管銃のような形状をしているので、これは昔から今まで続く、といっていいのかもしれない。砲身内部に訓練用縮約銃を搭載し、猛訓練に励んだといわれるが、なるほど、これならば訓練すればその分、命中精度は上るのも納得できる。

Img_8200  驚かされたのは、砲員は全員、このこの砲室で寝起きし、訓練し、砲整備を行っていたということだ。護衛艦のように居住区が設定されているわけではなく、ここにハンモックを吊るし、指揮官の中尉以下10名が寝起きしていたという。三笠の乗員は859名、ハンモックは中尉以下830名が利用していたというから、ベット、つまり寝台を利用できたのは30名に満たないこととなる。

Img_8127  戦艦三笠を連合艦隊旗艦として、ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った1905年5月27日から二日間の日本海海戦は、主力艦が劣勢の中、バルチック艦隊のほぼ全てを撃沈か撃破し、連合艦隊の損害は、浅間大破、水雷艇3隻沈没という一方的な勝利を飾った為、各国の海軍史教範にも記載され、今日に至る。そのため、横須賀を親善訪問する各国の艦艇からは、記念品を三笠に寄贈することも多いようだ。

Img_8128  シンガポール海軍の寄贈したプレート。横須賀に寄港していたステッドファーストの姿も掘り込まれている。淡路島と同等の面積ながら、世界海運の大動脈、マラッカ海峡に面するという地政学上の必要性から空中給油機やF-16などを運用する空軍に加え、近年は大型揚陸艦の整備や、ステルスフリゲイトの導入など、海上防衛力の充実に力を入れている。

Img_8135  当日は艦船模型展が特別展示として行われていた。海上自衛隊の護衛艦くらま、なども模型が展示されていた。横須賀なのだから、佐世保を母港とする護衛艦くらま、よりも、横須賀を母港とする護衛艦しらね、の方が良いのでは?と思ったりもした。様々な時代の艦艇を多数模型として展示しており、時代と戦術の変化を見て知ることができる。7月20日から8月30日まで、この特別展示は行われている。

Img_8155  艦内は、レシプロ蒸気機関2基で2軸のスクリュープロペラを用いて18ノットで航行させる15000馬力の機関が搭載されていた。過去形なのは、既に内部は取り外せるものが撤去されているから。第二次大戦後は、キャバレーができたり、ダンスホールが造られたり、水族館になったりで荒廃した。これをニミッツ提督やマッカーサー元帥の助力もあって、再興への模索が行われ、今日に至る。このため、かつて機関が置かれていた内部は展示室となっているのだ。

Img_8142  日本海海戦の様子を動く模型で展示している。三笠の燃料は1521㌧の石炭。石炭専燃缶を採用しているので、蒸気機関車のように石炭を機関に供給するのは人力だ。10ノットで7000海里を航行するにも、戦闘時に最大戦速を出すにも、機関科の乗員の、文字通り血のにじむような努力が必要であったのは想像に難くない。

Img_8136  日本海海戦や日露戦争に関する展示。日本海海戦では、三笠は旗艦として先頭を航行していたこともあり集中攻撃を受け、ロシア艦より、10発の30.5㌢砲弾、21発の15.2㌢砲弾の命中を受けたが、水線下など浸水を招く場所への命中は無く、火災も発生しなかったことが幸いした。

Img_8158  有名な東郷平八郎連合艦隊司令長官の号令、その直筆の掛け軸。戦後から太平洋戦争敗戦まで誤解されていたような印象もあるが、日露戦争における連合艦隊は、最新技術の大胆な導入と、有能な参謀の思い切った起用、そして司令官による士気鼓舞を総合させた結果の勝利である。

Img_8170  日本海海戦のバルチック艦隊航路を巡り、参謀との間で激論が交わされたのがこの場所。バルチック艦隊が太平洋第二艦隊としてウラジオストックに配備されれば、戦域まで日本本土からのシーレーンが寸断される。しかし、バルチック艦隊は対馬海峡を通過するのか、津軽海峡を通過するのかにより、艦隊配置は変わってくる。文字通り、日本の存亡を賭けた海戦となるので、この議論は激論を終夜続けたことで知られる。

Img_8168  艦長公室。司令長官も同乗する本艦にあっては、艦長公室は、おもったよりも簡素にまとめられているように思えた。ちなみに公室は艦長が、応接など、公務を行った場所である。全長131㍍、全幅23.2㍍、常備排水量15140㌧の本艦は、建造当時世界最強最大の艦船であり、加えて戦艦などの主力艦の数が限られた日本にとっては、文字通り至宝の存在といえた。

Img_8179  30㌢連装砲。実はレプリカである。戦後の鋼材不足の際に持ち去られたといわれる。相当な重量なのだが、国土の敗戦による荒廃は、人心の荒廃にもつながっていたということなのだろうか。なお、さすがに船体そのものを持ち去る者はいなかったことで、今日の姿に復元することが出来たわけだ。

Img_8187  防御用の装甲板に囲まれた操舵室。ただし、これも再現のレプリカで叩いて見ると薄いことがわかってしまう。ちなみに現役当時の三笠の装甲厚は、水線部229㍉、甲板部76㍉、砲塔前盾部254㍉、砲塔天蓋部203㍉となっている。頑丈なクルップ鋼材を採用しており、防御力に関しても同時期の艦船のなかでも、かなり強靭なものであった。

Img_8189  前述のように、戦後荒廃した時期もあったので、この上部構造物は、再現されたレプリカである。上部構造物の撤去は、占領軍命令によるものでもあるが、これも戦後の混乱期特有のものであり、結果、米軍高官の手により再興への道が模索されたという経緯は、考えてみれば非常に不思議である。

Img_8458  記念艦三笠の復元工事は、1960年4月20日から開始され、1961ねbン5月27日までに完了した。この再現工事ではまず、外観の修理が行われたが、その後、細部の再現工事は逐次行われている。艦内には、未公開区間もあり、中には錨室などの区間をそのまま映像ホールとしてしまった区間もあるが、今後、もしかしたら未公開区間においても再現工事が行われるのかもしれない。

Img_8464  三笠の後方からの一枚。その後、日本海軍は戦艦として香取、鹿島、安芸、河内、摂津、筑波、生駒、鞍馬、伊吹、金剛、比叡、榛名、霧島、扶桑、山城、伊勢、日向、長門、陸奥、大和、武蔵と建造したが、戦没や退役などにより、今日その威容を目にすることが出来るのは、この三笠だけである。しかし、名前を護衛艦として受け継ぐものもあることを、この列記された艦名から気付く方もいるのではないか、なるほど、伝統は生きているのだ、と実感し、三笠を後にした。

HARUNA

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アメリカ空軍横田基地日米友好祭 フレンドシップデイ2008

2008-08-25 13:24:35 | 在日米軍

■雨天の横田基地

 横田基地日米友好祭、Shin氏とともに見学する予定だったのだが、宿泊場所が横浜の予定を変更してしまい、先行したShin氏と比べ、やや出遅れた印象もあるなか、特急あさぎり4号にて、横田に向かう。雨天なのだが。

Img_9221  雨に煙る中ではあるが、横田基地に並ぶ米軍の大型航空機。奥からC-17輸送機、E-3早期警戒管制機、KC-135空中給油機、そして戦闘機などが並んでいる。これだけ大型機が並ぶと壮観だ。日本も次期輸送機C-Xと空中給油輸送機KC-767、それに早期警戒管制機のE-767と次期固定翼哨戒機XP-1を並べれば、対抗できるかな!?

Img_9207  で、まあ、普通ならそのまま機体に近付いて、特に去年居なかったE-3とかの詳細な写真をパチパチ撮って、雨の中でも、横田基地日米友好祭は頑張ってます!って記事になるのだが、なんだろう、雨天だからか、エプロン地区地上展示機区域が昨年よりも早く閉鎖になっているようで、早い話間に合わなかったぁ・・。

Img_9228  奥の方にはC-5輸送機とかもみえる。C-17輸送機は戦域間輸送機として用いられているが、C-5は戦略輸送機。C-5は原型のC-5Aが1968年に初飛行を果たした輸送機で、米本土から直接、欧州やアジア地域に戦力を輸送する目的で開発された。C-5Bは最大118.4㌧を搭載可能で、これはM-1A2戦車2輌、CH-47ヘリコプター1機を搭載可能、1989年までに50機が製造された。

Img_9227  よくみえないので、思い切り画像補正をかけてみたが、あまり変らなかった。そもそも、横田基地のような長大な滑走路を有する基地に戦略輸送機を着陸させ物資を集積し、そこからC-130輸送機のような戦術輸送機で第一線に輸送する。C-5は118.4㌧搭載可能なので、C-17貨物搭載量78.11㌧のよりも大型なのだが、C-17は直接第一線に届けることが出来る短距離離着陸性能などを有している。

Img_9240  エプロンに入れなかったので、撮影させてもらったのは警備兵が携行していたM-4カービン。30発弾倉が取り付けられている。光学照準器が標準装備で、暗視装置などを追加装備できるレイルシステムを採用。陸上自衛隊の89式小銃よりもかなり軽量で、採用されてからも改良に改良が続けられているカービンだ。

Img_9243  手前に米空軍のC-130輸送機。その奥に航空自衛隊のC-1輸送機が並んでいる。C-5輸送機やC-17輸送機と比べれば小型ではあるが、その分小回りが利き、ある程度無理な運用も可能である。C-1は入間基地航空祭などでの機動飛行で知られるように機動性に優れ、C-130は不整地に胴体着陸して貨物を降ろし、軽量になった機体から脚を出してそのまま離陸、という一見無謀な運用も可能だ。

Img_9262  米軍基地といえばステーキ。雨であっても次々と焼き続ける。それは雨が降ってもステーキには大きな需要があるからだ。鉄板に次から次へと肉を載せて、立て続けに焼き続ける。もちろん、このステーキの香ばしい香りに寄せられて次々と列が出来るのだが、行列が並ぶのが早いか、ステーキが焼けるが早いか、という印象の早業。

Img_9263  屋根があるのは一部だけであり、露天で文字通り雨が降り注ぐ中でもステーキは焼くのだ。飛行展示は全て中止され、空挺降下も実施されず、エプロンの地上展示機区も早めに閉鎖されるなかでも、ステーキだけは焼き続ける。雨に濡れ疲労困憊する中、見学者もスタミナを補充して、ということか。

Img_9268  米軍基地名物といえば、ピザ。この日、アイスクリームの販売は閑古鳥が鳴いていたようだが、ピザなど温食の人気は衰えない。やはり、焼くのが間に合ってないようだが、次々と補充される。それなりに行列は出来ていたのだけど、ものの五分でピザのもとに到着。ビールも欲しいところだが、ここはガマン。ピザの箱を幾つも抱えて家路につくひとも多くみられた。やっぱり米軍名物なんだなあ、という印象。

Img_9272  横田基地内で食したかったのだが、雨に濡れるのはちょっと困るので、Shin氏の車のなかでいただいた。厚めの生地にサラミとピザソースにチーズが載った文字通りシンプルなピザなのだが、これが美味しい。岩国航空基地のピザともやや違っていた。大味なんだけど、他には無い味、という説明をしてみる。

Img_9271  雨も強くなってきたので、そのまま滞在45分ほどで横田基地をあとにする。実は、到着が少し遅れたこともあったのだが、入場の行列はほとんどなく、警備の手荷物検査もスムーズに通ることが出来た。青春18切符利用なのだが、混雑する牛浜駅ではなく、Shin氏が八王子駅まで車で送ってくれたのが助かった、感謝!。

Img_9273  八王子駅に到着した。さて、それでは青春18切符、東海道本線のんびり普通列車の旅だ!、ダブルデッカーのグリーン車があれば利用しようか、なにか美味しそうな駅弁を買って、それから・・・、・・・?、(滝汗)。小田原~熱海運転見合わせ!?、小田急線で小田原に出て、ってそれじゃ一緒だ。中央線から甲府経由で帰・・、いやそれでは時間が掛かりすぎる、中央本線を松本経由で、違うな。新幹線で小田原から熱海までって、新幹線も運転見合わせ!?!?どうなる??。

HARUNA

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アメリカ空軍横田基地日米友好祭2008 地上展示航空機情報

2008-08-24 09:40:45 | 北大路機関 広報

■本日も雨天です・・・

 本日は、横田基地日米友好祭の最終日、富士総合火力演習本番、松島基地航空祭などなど実施されますが、残念なお知らせ、本日、雨天のようです。

Img_9593_1  昨日横田基地日米友好祭フレンドシップデイに参加されたC.ジョニー氏からの情報では、横田基地は土曜日、雨天だったとのことで、飛行展示や降下は全て中止。気象としてはUH-1は飛べそうなくらいだったのだけれども中止でした、とのこと。本日も雨天の模様。というのも、松島基地航空祭が実施されているのだが、同じく情報によれば、松島基地も雨天で、オープニングフライトがF-2による規模縮小で実施されたとの事。そして御殿場も雨天というので、その中間の横田は、ということになる。ううむ。

Img_9715  横田基地の主な地上展示機は、横田基地のC-130輸送機、UH-1ヘリを筆頭にF-15戦闘機,F-16戦闘機,A-10攻撃機といったお馴染みの機体に加えてC-17輸送機、KC-135空中給油機、E-3早期警戒管制機。そして海兵隊よりF/A-18が参加。海上自衛隊からP-3C哨戒機、陸上自衛隊からOH-1、UH-1、UH-60、AH-1、CH-47のヘリ一家、航空自衛隊からC-1とF-2が地上展示に加わっているとの事。C.ジョニー様、情報どうもでした。

Img_9373  本日は富士総合火力演習本番ですが、情報では御殿場、現在物凄い雨です。・・・、富士山を視認できなおのはもちろん、おそらく畑岡の観覧席からは特科火砲が威力を発揮する三段山は、ほぼ見えないのでは、と。ここ30分で視程は更に悪化しているようで、ううむ。

HARUNA

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富士総合火力演習 雨天のときはどうすればいいのか?演習はどうなるのか?

2008-08-23 02:03:16 | 北大路機関 広報

■総火演役に立たないお役立ち情報

 アクセス解析で、富士総合火力演習と、雨、若しくは雨天、悪天候というキーワードを用いてWeblog北大路機関を訪れた方がかなりあったので、緊急企画。役に立たないお役立ち情報です。

Img_5749  情報確認を行ったところ、御殿場は、今夜零時過ぎ頃から小雨から小康状態、そして小雨を繰り返しており、現在(確認したのは十分前の0120時)は御殿場駅周辺で小康状態とのことです。予報では、明日までこの天候は続くということで、小雨程度でも、気温はかなり低くなるので、予備の着替え、そして総合火力演習に行く方は撮影器材の防水準備をお忘れなく。専用のカメラレインカバーが無くとも、コンビニの袋にカメラ本体を入れて、レンズの部分にはレジ袋に穴をあけて対処、というだけでも大分違います。

Img_0124  富士総合火力演習は、広大なシート席と、一部を除き関係者用のスタンド席で構成されているのですが、シート席は、後ろの人の視界を確保する必要から傘を差すことができませんので、ポンチョ、カッパなどの装備は必須です。また、地面が濡れている事がありますので、プラスチック製の書類ケース(100円均一ショップで売られているような透明のもの)、ポリ袋など、水を通さないもので、下に敷く事が出来るものの準備があると便利です。

Img_9617  演習は、雨天や曇天ですとまず近接航空支援展示に影響がでまして、次に一部の誘導弾の発射展示に影響が出ます。昨年は、本番が快晴に恵まれましたが、予行や教育展示演習のなかで物凄い豪雨に見舞われ、後段演習の一瞬雨が止んだ瞬間に、戦車が総力射撃を行い、終了した、という状況もあったようです。こればかりは運としかいえないのですが、静岡全般が雨天の予報でも、演習場周辺は晴れることもあるので、雨具の準備をしつつ、希望を持つことは無意味ではありません。

Img_58_43  御殿場周辺の宿ですが、情報に寄れば日曜日の演習を見学する日程では、かなり前の時点から満杯のようです。演習の駐車券付観覧券をもっていない方でも、自家用車がある方は、御殿場周辺の駐車場に停車させて車中泊、という方もいるのだとか。エンジンの掛けっぱなしによる一酸化炭素中毒には注意が必要です。一応、ネットカフェもあるのですが、定員については充分収容できるかは未知数です(ご存知の方一報いただければ幸いです)。無難なのは、三島や沼津宿泊ですが、鉄道利用の場合、御殿場線は始発でも射撃予行に間に合わないのが難点です。ただ、券確保を見込んで、予約し、その後確保できずキャンセル、という事や急遽行けなくなった、などの宿泊キャンセルも、実際、あったようです。

HARUNA

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横田基地日米フレンドシップデイを見学するには? 傾向と対策

2008-08-22 20:52:41 | 在日米軍

■横田基地日米友好祭役に立たないお役立ち情報

 土曜日、日曜日は天気予報を注視している人が多いのではないか。そういったなかで、横田基地日米友好祭、首都圏の米軍基地の一般公開、これはどんな行事なの?という疑問に極力答えたい記事を掲載。

Img_9472  在日米軍の一大拠点として北東アジア地域の不安定要素に睨みを利かせるアメリカ空軍横田基地。米軍再編に伴う航空自衛隊府中基地の航空総隊司令部移転に伴い航空自衛隊横田基地が創設される予定でもあり、そのポテンシャルの大きさは考えられる将来にわたって不変であるといっても過言ではない。その横田基地の一般公開行事が、日米フレンドシップデイである。

Img_9596  日米関係を安全保障の面から再考するこの上ない機会に、という堅苦しいものではなく、アメリカ軍の基地って、どんなふうになってるんかなあ、というような素朴な疑問や、どんな御飯を食べてるのか、とか。もちろん、どんな装備品を運用しているのかというような疑問にも答えを探すことが出来る絶好の機会だ。

Img_9762  横田基地へは、東京駅から中央線快速青梅行きを利用した場合所要時間は乗り換えなしで1時間8分(東京駅0802時発の快速利用時)。新宿からはホリデー快速を利用すれば福生駅乗換えで53分(新宿駅0847時発のホリデー快速利用時)。時間を見てみると思いのほか近いという印象もある。

Img_9392  横田基地へは、JR青梅線牛浜駅より徒歩。シャトルバスの設定は無い。牛浜駅からゲートまで、昨年の経験では徒歩12分である。ゲートでは簡単な手荷物検査を行っている。大きめのカバンなどの携行は避けたほうが無難やもしれない。昨年は、このゲートがみえた写真を撮影して、基地に入るまで所要時間は8分であった。これくらい並んでいても8分で通過できたということだ。

Img_9313  横田基地は、航空機をみると基本的に輸送機部隊の基地である。しかし、輸送機部隊ということで、有事の際には後方の一大兵站拠点としての機能も有している。したがって、基地の面積は非常に広大であり、加えて米軍の組織力は、基地に所在する輸送機に加えて多くの航空機を地上展示ということで魅せてくれる。

Img_9466_1  航空機が多く展開してくるということで、気になるのは人口密度だが、近傍の人間基地航空祭、失礼、入間基地航空祭の物凄い人口密度と比較すれば、最も混雑している場所でも、この程度である。小牧基地航空祭と同程度の人口密度、という印象だろうか。その理由は、前述のように基地が広大であり、多くの観覧者を収容してなお、これだけの余裕があるわけである。

Img_9521_1  他方、日米友好祭は、文字通り友好祭であるので、飛行展示は少なめである。基地のVIP輸送機による飛行展示や、C-130H輸送機からの空挺降下、更にUH-1N多用途ヘリコプターによる降下展示などが行われている。機数や開催間隔をみると、規模としては決して多くない。

Img_9566_1  ただし、土曜日は別として日曜日には帰投フライトを見ることが出来る。昨年は、帰投のために離陸したRF-4偵察機が大胆な低空飛行を実施して海上を沸かせた。さらに撮影していないが(横須賀サマーフェスタと連日で、疲労困憊していた)、夜には花火も打ち上げられ、航空機と花火、という非常に稀有な情景をみせてくれる。こちらも注目である。

Img_9551  米軍と自衛隊は、細かい面をみても多々異なっているところがある。これは新鮮だ。日米友好祭では、米軍の装備する様々な装備品をみることができる。同じ軽トラックでも、農家で活躍している車両と、基地において軽輸送に用いられている車両とでは、かくも印象が異なるのか、という印象だ。

Img_9571  軽トラックだけではない(あたりまえだ)。写真は展示されていたM-4カービン。特殊部隊用装備品展示に出されていたもので、このほか、散弾銃や軽機関銃、狙撃銃、拳銃から爆弾処理部隊のロボットや携帯無反動砲、ロケット弾発射器などの装備が展示されていた。不発弾は面倒ならば爆破してしまえ!という発想は日本では珍しいし、カービン用の装具も日本よりも充実している。

Img_9409  さてさて、横田基地は、晴天だと暑い。実際、少なからず体重が減るくらい汗をかく。ダイエット♪、と喜ぶなかれ、脱水症状は生命にも危険を及ぼす。それを防ぐにはひたすら水分補給に限る。基地では、航空自衛隊の航空祭では考えられないが、ワゴンに載せて飲料水を販売していたりする。

Img_9614  米軍基地で毎回驚かされる多くの事例の一つが、糧食関係だ。正直、底が無いほどの物量だ。大きな鉄板で次々とステーキを焼き上げる様子は、多分、日本ではステーキハウスでもなかなかみることができないようにも思う。なんというか、枚数が違う、という印象。かなり並んでいても、焼きあがれば列が解けるのは早い。

Img_9615  戦浪人。・・・、飲料水に関しては戦浪人の屋根の上に並べられていることから分かるように、特に重視されており、加えて熱中症防止のためには消防車も出動する。ロジスティクス重視というものの反映ということもないのだろうが、地上展示区域とは別に、模擬店の区間がかなり大きく設定されており、往復すると、なかなか飽きない。

Img_9550  米軍名物ピザ。名物か何か根拠はないが、どの米軍基地でもピザは名物だ。まあ、色水、もとい某スポーツ飲料も名物というか、お土産に持って帰る型も多いが、乾いた滑走路の端で食べると、脂っこいピザや、化学調味料が用いられた清涼飲料水も、ここでは気のせいか、味が美味しく感じられる。まあ、健康には凄く悪そうな気がするけれどもね。

Img_9556  C-130Hのしたには多くの人が集まっている。井戸端会議ならぬ輸送機端会議・・・、なのでは絶対無く、日傘のかわりに輸送機の翼が活躍している。機内見学は、KC-135やC-17は物凄い人気であったが、C-130なんかは比較的簡単に機内に入ることができたように記憶する。

Img_9635_1  このほか、フレンドシップデイということなので、軍事系以外のイベントなどもおこなわれる。考えてみれば、糧食関係の模擬店や花火も軍事とは関係ない部分があるのだけれども。このように、軍事以外にも、中々愉しめる行事、近くて遠い隣人の所に、足を運んでみてはいかがだろうか。

HARUNA

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