北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

北大路機関陸海空自衛隊行事同時制覇!

2006-10-30 17:30:02 | 北大路機関 広報

■自衛隊強化月間ラスト

先週末は小生が展開した自衛隊関連行事がもっとも集中した週であり、実に陸海空自衛隊の行事全てを一週間のうちに展開することとなった。加えてこの一ヶ月間は過去であれば一年分の行事展開数を凌駕する規模であった。

Img_1486  陸上自衛隊関連行事として展開したのが土曜日に実施された豊川駐屯地祭である。ここには一個特科連隊、一個高射特科大隊と、即応予備自衛官基幹の一個普通科連隊に加え、方面隊隷下の一個施設群という大部隊が駐屯しており、第十師団管区はもとより中部方面隊管区においても有数の面積を誇る駐屯地である。写真は観閲行進に備えて待機する車輌群で、全てが車輌行進、しかも特科連隊を中心とした迫力の訓練展示を観ることが出来、砲焔だけで五枚も撮影できた他、守山で一緒に撮影した方と偶然にも再会できるという幸運に恵まれた。

Img_0957  海上自衛隊関連行事といえば、観艦式である!富士総合火力演習展開の三名で、懐かしい護衛艦「あぶくま」に乗艦、一国で実施される観艦式としては世界最大規模の観艦式であり、その迫力は圧巻の一言に尽きる。この観艦式(予行)付属艦の一隻から観閲艦艇と訓練展示の一連の流れを観ることが出来た。小生一行が観覧したのは金曜日で、式典の予行にあたる日であり、こうした綿密な予行の後、安倍首相観閲の下、日曜日に本番が挙行された様子は、報道でも大きく扱われている。

Img_1966_1  金曜日観艦式、土曜日豊川駐屯地祭、そして日曜日、いつもお世話になっている方々から同じく特科の姫路駐屯地祭や、明野駐屯地祭に誘われたものの、ここまで来たらば陸海空制覇しかない!という決意の下、雨天の予報が出ていた(そんなのばっかだなぁ)浜松基地航空祭へ、少し遅めに展開し、MU-2救難機とV-107救難ヘリによる展示や編隊飛行、ブルーインパルス飛行展示の撮影を実施した。写真はT-4列機の前をタキシングするブルーインパルス。

 詳報は三つ同時に掲載するのは困難であり、後日お送りしたい。

 HARUNA

(本ブログの本文および写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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陸海空自衛隊関連行事 十一月期実施詳報

2006-10-24 10:07:42 | 北大路機関 広報

■自衛隊関連行事

 十一月期はいよいよ冬季に入る事もあり、自衛隊関連行事は十月期の35に対して、12と大きく減少する。一方で、陸上自衛隊では方面隊や旅団関連行事が実施され、航空自衛隊の航空祭も入間、築城において実施される。

Img_0481  第8普通科連隊が駐屯する米子駐屯地祭(映画“八岐之大蛇の逆襲”の舞台)や、第41普通科連隊が駐屯する別府駐屯地祭の他、後方支援部隊が駐屯する新町駐屯地祭や高射特科部隊が駐屯する竹松駐屯地祭、また、第一混成団が駐屯する那覇駐屯地祭などが実施される。特に第41普通科連隊は陸上自衛隊において対ゲリラコマンド対処訓練を最も初期より実施した部隊の一つとして知られている。一方で、第八普通科連隊は師団の旅団改編に伴う縮小編成の普通科部隊であり、本ブログにおいても過去に掲載した師団隷下の普通科部隊駐屯地祭との違いを観に行ってみるのもいいのではないか。

Img_7890_1  基幹部隊として、十二日に実施される第13旅団記念行事海田市駐屯地祭と二十八日に実施される西部方面隊創設記念行事健軍駐屯地祭が大きなものとしてあげたい。第十三旅団は、第十三師団より改編され八周年を迎え、その記念行事が実施される。しかし、甲師団半分弱とはいえ、グラウンドに整列する部隊は師団駐屯地祭に匹敵する規模である。西部方面隊創設記念行事は、沖縄島嶼部と対馬を含む九州地方全域の防衛を担当する方面隊であり、特に方面特科火力装備品と戦車や装甲車を同時に見る事が出来る貴重な機会である。

Img_0596  戦車部隊の駐屯する駐屯地祭として唯一実施されるのが、今津駐屯地祭である。第三戦車大隊・第十戦車大隊が駐屯しており、多数の戦車による観閲行進と訓練展示は迫力の一言に尽きる。なお、当初12日実施とされていたが19日実施に変更されている為注意が必要である。他方、陸上自衛隊行事における航空機参加は九月九日に発生した接触事故の関係上全面的に停止されており、十月末の立川防災航空祭は中止、同じく明野駐屯地祭も地上展示に重点を置いたものとなっている、この他の行事についても注意が必要である。他方、既に初雪を見る頃になった北部方面隊や東北方面隊の関連行事は全て終了したようであり、群馬以北の駐屯地祭・分屯地祭は実施されないようである。

Img_4407_1  航空自衛隊が開催する航空祭としては、三日の入間基地航空祭、二十六日の築城基地航空祭があり、入間基地はC-1輸送機の飛行隊や総隊直轄の部隊に加え4000名が勤務する航空自衛隊最大に基地であると同時に、首都圏にあり、西部電鉄稲荷山公園駅より近いこともあり、20万人前後の入場者で会場がごった返す事で知られる。昨年首都圏に卒論作成における資料や取材を含め行く用事があり、いい機会と小生も展開したが、脚立使用とレジャーシート使用が岐阜基地や小牧基地、小松基地とは比較にならず、小生は個人的に以降航空祭における脚立使用全面を自粛するに至っている(まあ、それでも小松・小牧・岐阜と、あれだけの写真が撮れるのだから充分でしょ、エアワールド誌のカメラマンも使ってなかったし)。

Img_7294  入間基地航空祭が輸送機と練習機の祭典ならば、築城基地は戦闘機・支援戦闘機の祭典であり、各一個飛行隊が派手な飛行展示を予定している。特に実戦仕様のF-2による編隊飛行を見る事が出来るのはここと三沢だけである。なお、入間・築城では双方ともブルーインパルス飛行展示が実施され、加えて双方とも駐車場はないとのことである。テレビニュースなどで松島基地航空祭の駐車場廃止に伴う混乱が報道されていたが、展開される方は情報収集を密に実施する必要があろう。JR九州の築城駅には特急が臨時停車するとの事で、鉄道関係に興味のある方もローカル駅の特急停車という珍しいものが見られるのではないか、なお、北大路機関としては今津駐屯地のみの展開予定で、過去に山積した写真の掲載を年末にかけて実施したい。

■駐屯地祭・基地祭・航空祭

■十一月三日:航空自衛隊入間基地(埼玉県狭山市):入間基地航空祭(04-2953-6131)

■十一月三日:陸上自衛隊米子駐屯地(鳥取県米子市):駐屯地創設56周年記念行事(0859-29-2161)

■十一月四日:航空自衛隊春日基地(福岡県春日市):春日基地開庁記念行事(092-581-4031)

■十一月五日:陸上自衛隊別府駐屯地(大分県別府市):駐屯地創設49周年記念行事(0977-22-4311)

■十一月十二日:陸上自衛隊新町駐屯地(群馬県高崎市):駐屯地創設55周年記念行事(0274-42-1121)

■十一月十二日:陸上自衛隊海田市駐屯地(広島県海田町):第13旅団創設8周年記念行事(082-822-3101)

■十一月十九日:陸上自衛隊松戸駐屯地(千葉県松戸市):駐屯地創設54周年記念行事(047-387-2171)

■十一月十九日:陸上自衛隊今津駐屯地(滋賀県高島市):駐屯地創設54周年記念行事(0740-22-2581)

■十一月二十三日:陸上自衛隊那覇駐屯地(沖縄県那覇市):駐屯地創設34周年記念行事(098-857-1155)

■十一月二十六日:航空自衛隊築城基地(福岡県築上町):築城基地航空祭(0930-56-1150)

■十一月二十六日:陸上自衛隊健軍駐屯地(熊本県熊本市):西部方面隊創設51周年記念行事(096-368-5111)

注意:本情報は私的に情報収集したものであり、北大路機関が実施を保証するものではなく、同時に全行事を網羅したものではない、更に実施や雨天中止情報などについては付記した各基地・駐屯地広報の方に自己責任において確認願いたい。情報には正確を期するが、以上に掲載された情報は天候、及び災害等各種情勢変化により変更される可能性がある。 

■観艦式関連情報 

 観艦式に関して、22日より予行が実施され、29日の本番に至る。乗艦には整理券が必要であるが、それとは別に満艦飾や夜間電飾が行われ、通常よりも多くの艦艇が基地に入港している。 

Img_0867  満艦飾は24日・26日・28日の0800~1700時まで横須賀・横浜・木更津において実施されており、夜間電飾は24日・26日・28日の1800~2130時に実施されている。併せて艦艇の一般公開も行われており、四月に舞鶴基地に置いて実施された集合訓練と同等の写真(入出港を含めればそれよりも撮影機会が多い)のものを撮影できるのではないだろうか。整理券を入手できなかった人も展開の価値はある(C.ジョニー様情報ありがとうございました)。

Img_1379_1  なお、横須賀基地は吉倉桟橋、船越地区、新港地区。横浜港は新港埠頭(“あぶない刑事”でいつも銃撃戦やってた所ね)、瑞穂埠頭、大桟橋(輸送艦「しもきた」が作業中の際には非公開)。木更津港は公共埠頭が用いられる。特に朝焼けの中の艦艇は美しく、また早朝に展開した場合ならではの光景もあるだろう、乗艦整理券を入手できなかった人も是非、見学をお勧めしたい。

 HARUNA

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京都 伏見稲荷大社 稲荷神社総本山散策

2006-10-23 10:20:00 | 写真

■お稲荷さん探訪

 京都市伏見区、京都駅より南にやや向かったところに日本に四万ある稲荷神社の総本山である伏見稲荷大社がある。

Img_0286  いよいよ十月も下旬となり、例えば初詣と共に京都観光を考えられている方も居られるかも知れないし、また私事ながら年賀状用の写真撮影も兼ねて伏見稲荷に展開した。京都を観光した事がない方も、正月の時期は京都市内のホテルは多くが満室となるが、新快速で京都市まで一駅という滋賀県大津市や、同じく一駅で京都駅まで到達する高槻市であれば予約には比較的余裕があり、またリーズナブルなものから高級御節料理を含んだ豪華なものまで、取り揃えられており、思い出に残る正月を過ごす事が出来よう。

Img_0138  一方で、小生が撮影に展開した十月二十一日は、JRの新快速が直流交流工事完了に伴い、今までの長浜までから、日本海の敦賀まで延長された記念すべき日であり、敦賀と姫路が新快速にて結ばれた日でもある。これを機会に、日帰り小旅行として京都を訪れる方も増えるであろうし、そういった点も踏まえ、今回の特集となった。他方、出来れば名古屋から京都までの直通列車を、夕刻だけではなく早朝、昼間にも増発してもらいたいが、これは難しいであろうか。

Img_0226  伏見稲荷大社は、五穀豊穣、商売繁盛の神様として有名であるが、また千本もの奉納された鳥居が回廊をなす、千本鳥居が余りにも有名であり、時代劇や日本文化紹介、そして最近ではARIAというアニメーションで、この伏見稲荷を模した架空の神社がでている(“魔法先生ネギま”にもそれっぽいのが出たようだが、小生は詳しくないのでShin氏に聞いてみよう)。正月には250万以上もの参拝客が訪れ、西日本最大の初詣が為される神社としても知られている。

Img_0136  伏見稲荷大社へは、JR京都駅より奈良線を稲荷駅にて下車、また関西からは私鉄にて京阪電鉄伏見稲荷駅より夫々二分から五分で行く事が出来、特に上質な特急料金不要特急を運行している京阪電鉄の利用をお勧めしたい。一方、数は限られているものの駐車場があり、小生が展開したような人の訪れる数が少ない時期であれば自動車にて参拝する事も出来る。写真は本殿から参道を望遠にて望んだ写真であるが自動車の往来が見える。望遠レンズの圧縮効果が端的に出ている写真である。

Img_0229  本殿の前には御狐様が参拝者を迎える。口に銜えているのは鍵で、もう一方の御狐様は珠を銜えている。この境内のみならず、千本鳥居のある稲荷山全てが神域ということだが、駐車場には“神域でのイヌの散歩にはマナーを守ってください”という旨、通常であれば立入禁止と書かれるものであろうが、さすが総本山、寛大である。しかしさすがに愛犬同伴でお稲荷さんに向かう人もいるわけがなく、これは盲導犬同伴であっても参拝できるという意味であろう。

Img_0238  伏見稲荷大社は、先に述べた事例以外にもホームページを開くなど先進的であり、京都観光とともに訪れる海外からの観光客も多い。写真は神楽が行われるところで、ここは神楽を行っている際には撮影禁止となる為、ひと段落した後に撮影した。神楽において奏でられる音楽は、日本人や日本文化に理解がある人が京都と聞いて思い浮かべる音楽そのものである。この社殿は、他の社殿が明るい朱色となっているのに対し落ち着いた色であるがどういった謂れがあるのだろうか、浅学な小生の知るところではなく、誰か御教授いただければ幸いである。

Img_0233  本殿を撮影する。小生が到着したのは1500時を廻る頃であった為、そろそろ翳り始めた太陽が空の色をほんのりと染めている。早朝であれば後光が差す写真が撮影可能であり、特に山の頂からの景色は絶景であろう。

 伏見稲荷大社は、宇迦之御魂大神(うかのみたまおおきみ)を祭神として祀り、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神を四大神として祀っている。

Img_0243  本殿より230㍍ほど、階段があるので普通の方で五分ほど進むと奥宮があり、ここよりいよいよ千本鳥居である。鳥居は個人や企業からの寄進であり、鳥居の後ろ側には個人名や企業名が書かれている。デジタル一眼レフを二つ(広角と望遠)ももっていると、写真に詳しい人に見えるのだろうか、シャッターを押してくださいと頼まれる事もあり、ここでは久しぶりにフィルム式一眼レフを操作する事が出来た。ちなみに、二つある通路、上下線が決まっているのではないが、みなが行く方に行くというのがなんとも日本人的である。小生は空いている方に進んだ。

Img_0252  数分で鳥居の向こうが見えてきたがこれはまだまだ入り口付近。稲荷山の御山巡りは4kmで、普通の人ならば二時間(小生のような若者ならば一時間強)という。辻ごとに昔ながらのお茶屋さんがあり、自販機もおいてあるが、缶ジュース一本が150円である。それよりは珈琲一杯400円ではあるが、座敷にてゆっくりと楽しむ方が情緒に溢れている。

 伏見稲荷大社の起源は平安京に先立つ711年、伊侶具奉公(はたのきみのいろく)が伊奈利山三ヶ峰(現在の稲荷山)に稲荷神を祀ったことが起源という。

Img_0254  千本鳥居はまだまだ続くが、実に一万もの鳥居があるという。寄進された鳥居は、10年から20年で朽ちてしまい、新しいものと取り替えられる。また、補修でペンキぬりたてのものがあり、少々注意が必要である。

 大社の本殿は、応仁の乱により焼失したものが1499年に再建されたもので、重要文化財指定を受けている。この後1871年に官幣大社の指定を受け、今日の伏見稲荷大社となった。

Img_0271 開けたところに出ると急な階段が続く。隣には社というか祠というか、そういったものが並んでいる。この中に一つだけ狛犬が置かれていたが、深い謂れのあるものか、はたまた不信者の不心得にて置かれたものか、小生の浅学を自戒しなければならない、この狛犬についてもご存知のかたがいらしたら、御教授いただければ幸いである。何となれ専門は軍備管理と安全保障、如何に裾野分野を広げようとも、京都文化に博学といえる知識を持ち合わせることは如何ともし難く、読者諸兄の博識に頼りたいところである。他方、京都を観光される方には、狛犬を探すのも一興であろう。

Img_0273  根上り松という松を越え、階段を登ったところで、こだま池という池に出た。時間の関係もあり、ここにて参拝を終えることとした。

 さて、伏見稲荷大社となった経緯は前述したが、官幣大社としての時代は、第二次世界大戦の日本敗戦により転換の時期を迎えることとなり、戦後はいわゆる神社本庁とは独立した宗教法人として今日の「伏見稲荷大社」となっており、1300年近い歴史と共に京都を見守っている。

Img_0279  こだま池のところには茶屋があり、また自販機も、お手洗いもある。

 また、社の中では蝋燭が煌々と光を湛え、お稲荷さんを照らしている。この伏見稲荷大社は、全国四万ものお稲荷さんの総本山といわれるだけあり、そこここにお稲荷さんが祀られ、個々に御利益があるという。更に足を進めれば、市街を一望できる場所があるということだが、時間となれば致し方ない。

Img_0281  お稲荷さんとはいえ、中々参道や鳥居のなかで狐と出会うことは少ないが、小生が展開した際には、鳥居の間からネコさんが現れた。夫婦か、親子か、お友達か、こればかりは何となれ判らないが、山も奥へ進んだところでネコと会うとは、もしかしたらば他にもキツネや、若しかしたらタヌキも出てくるのではないかと思わせるところである。このネコさん達、人に慣れているのか小生の足元を通り過ぎ、そのまま鳥居の奥に消えていった。

Img_0287  実に一万本もの鳥居が並ぶ千本鳥居であるが、この鳥居の寄進という文化は江戸時代より始まったとの事で、天下の台所大阪と朝廷の都である京都からの寄進が多かったのだろうが、今日では北海道から沖縄までの名前が書かれていた。次回は、眺望良好なところまでの登頂を目指そうと心に決め、帰路に着いた。

 HARUNA

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陸上自衛隊中部方面隊創設46周年記念行事

2006-10-22 23:10:03 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

■伊丹駐屯地祭

 十月二十二日、兵庫県伊丹市に所在する陸上自衛隊伊丹駐屯地において中部方面隊創設46周年記念行事が開催された。

Img_0339_1_1   陸上自衛隊は、各国において“軍団”にあたる五個“方面隊”により、日本国内の管区師団制を構築している。中部方面隊は、愛知県・静岡県県境から、北陸、中京、近畿、紀伊、四国、山陰、中国地方を含む関門海峡までの地域をその任務担当範囲としており、域内における防衛出動、災害派遣に対する責任を負っている。中部方面隊は、この程、創設46周年を迎えた。今回はその様子を写真などにより紹介したい。

Img_0263_1  中部方面総監折木良一陸将へ、着剣し、捧げ銃の姿勢を採る隊員。41㌢という64式銃剣が小銃に取り付けられている。

 「即応して行動する時代」、先日の北朝鮮による核実験や一向に進展の展望を見せない拉致事案、工作員侵入の事案を挙げつつ、インドネシアジャワ島津波災害緊急人道支援任務、イラク復興人道支援任務の完遂を祝し、訓示とした。

Img_0358_1  訓示、祝辞が終了した後、観閲行進に移った。観閲行進の先頭を務めたのは、中部方面隊隷下の第三師団、第十師団、第十三旅団、第十四旅団より選抜され臨時に編成されたレンジャー部隊による徒歩行進により開始された。特に本年は、四国善通寺の第二混成団が改編により第十四旅団へと改められた事が中部方面隊の過去四半世紀における最大の改編であり、観閲行進においても第十四旅団隷下部隊の行進が多く含まれていた。

Img_0384  第八普通科連隊の高機動車部隊。装甲を施していない、いわゆるソフトスキン車である高機動車であるが、中部方面隊がその任務担当管区に有する長大な海岸線を、特にゲリラコマンドによる浸透に対処する為には、何よりも急速展開によって火力に代える必要があり、普通科部隊に迅速且つ急速な展開能力を付与した高機動車は、陸上自衛隊普通科部隊を大きく近代化するのに貢献したのは今更言うまでもない。

Img_0376  第十四普通科連隊の軽装甲機動車部隊。軽装甲機動車は、小型装甲車が従来有していた斥候任務という性格を突破し、複数の装甲車により小銃班を機動させることにより、戦闘行動における火力拠点の細分化と、対火力性能を普通科部隊に付与したことで、これまで地形を防禦手段としつつ遅滞行動や防禦戦闘に重点を置いていた普通科部隊を攻勢の主要手段と損耗局限に大きな展望を与えるに至ったと評価できる。

Img_0401  方面通信群所属の車輌部隊。現代地上戦闘における通信の重要性は改めて述べるまでもないが、加えて東海・東南海・南海地震の想定震源区域をその警備担当区に収める中部方面隊にとり、通信の確保は更に別次元の重要性を有している。車列の最後尾を走る車輌は、未だ爪痕を残す1995年、阪神大震災における通信網確保の必要性より導入されたものであり、今この瞬間にも生じるかもしれない災害に備えている。

Img_0391  第14特科隊のFH-70榴弾砲、第二混成団より改編された第十四旅団所属の部隊であり、長躯松山より展開している。後方支援機能強化型連隊戦闘団というべき混成団編成から、二個普通科連隊を基幹とする旅団に改編され、廃止されていた戦車部隊も一個中隊を配属させた旅団編成へと強化している。これで陸上自衛隊に残る混成団は、那覇の第一混成団のみとなったが、遠からず改編が為されると思われる。

Img_0413  観閲行進の最後を、第十戦車大隊の74式戦車4輌が中隊旗を靡かせつつ全速で観閲台前を疾走する。砲塔に描かれた鯱を模る大隊マークが眩しい。滋賀県の今津駐屯地に第三戦車大隊とともに駐屯しており、この他、中部方面隊隷下の戦車部隊駐屯地として日本原駐屯地に第十三戦車中隊、第十四戦車中隊が駐屯し、機動打撃力維持への厳しい訓練に励んでいる。なお、中間の二両には夜戦用赤外線サーチライトが搭載されているのが分かる。

Img_0425  今年度は、訓練展示がプログラムに組まれておらず、また諸事情により祝賀飛行も実施されず、例年飛来する海上自衛隊哨戒ヘリによる航過も中止となっていた。その分、従来装備品展示に用いられるグラウンドを利用し、第三音楽隊、中部方面音楽隊による野外音楽演奏が1300時と1400時より実施され、クラシックやマーチ、アニメ主題歌や時代劇のテーマ曲などを演奏し、生演奏ならではの迫力で会場を沸かせた。

Img_0503  保安中隊によるM-1ガランド小銃を用いたファンシードリルもこれに引き続き実施された。磨き上げられた小銃を軽々と取り回し、太鼓の軽やかな音と共に規則正しい隊形変更を次々とこなし、最後に空へ空包を発射する円舞を行う彼らも、平時にあっては駐屯地の刑事事件対応、有事の際には交通整理や司令部警備、そして捕虜取り扱いという任務に当たる。

Img_0534  関西外国語大学のチアリーディング部“パイレーツ”による展示。中部方面音楽隊の音楽演奏と共に軽々と中を舞う様子は、中部方面音楽祭では過去二年に渡り実施されているが、方面隊記念行事では初めてである。空挺が空から舞い降りたり、ヘリが舞い上がる様子には見慣れているが、チアリーディングが舞い上がるものを実際に駐屯地にて見たのは小生も初めての経験であった。

Img_0502_1  試乗を行う74式戦車。この戦車試乗には長蛇の列が出来ており、時間割整理券を交付したにも拘らず、一時間待ちの状況であり、戦車の人気の高さを端的に示していた。この伊丹駐屯地祭は、一万人以上が訪れる中部方面隊管区最大規模の駐屯地祭であり、この他多数の模擬店などが軒を連ねていた。

HARUNA

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御所の西 京都 護王神社散策紀行

2006-10-21 21:03:37 | 写真

■京都写真特集

 京都御所に程近い、京都パレスホテルにて昼食の予定があり、同じくその隣にある護王神社を参拝し、写真を撮影した。

Img_0220  北大路機関では、定期的に京都の夜景や観光名所などを特集しており、昨今は自衛隊関係の特集がその大半を占めるようになっているが、久しぶりの観光名所として、あえて世界遺産ではなく、この御所に面した神社を特集した。

 写真は御所の蛤御門より見た京都パレスホテル。KBS京都の隣にあり、1000円の日替わりランチや1500円のステーキランチなどを楽しめる。なお、歴史に詳しい方はピンと来たかも知れないが、蛤御門とは幕末の禁門の変において当時賊軍であった長州軍と、京都守護に当たっていた薩摩軍が銃撃戦を展開した場所であり、当時の弾痕が薄っすらと残っている。この門も一部が焼け、“焼いて開く蛤御門”とうたわれている。なお、京都パレスホテルはかつての水戸藩邸であり、現在の同志社大学今出川キャンパスが薩摩藩邸であった。

Img_0199  烏丸通りに面した護王神社は、まさに通り一つを隔てて御所に面している。写真の左手に鳥居が見えるが、その右手の通りが烏丸通りである。御所には宮内庁施設に加え、ブッシュ米大統領も利用した迎賓館があり、御所は年に数回の特別公開の他前日までの予約により中を見学する事が出来、平安時代の面影を大きく残した美しい庭園や荘厳な皇宮建築の美を堪能する事が出来る。さて、護王神社であるが、鳥居の脇に、通常の神社であれば狛犬、お稲荷さんであればお狐さまが参拝者を迎えるのに対して、やや異なる風体のものが神社を囲んでいるが、これは猪である。これこそが、この護王神社の特色であるといえよう。

Img_0192  この神社は、かつて京都が平安京となる以前、桓武天皇に京都への遷都を進言し、また平安京造営に尽力した和気清麻呂(わけのきよまろ)と、その姉である広虫(ひろむし)を祭神としているものである。広虫は当時、都の飢饉や争乱により孤児となった多くの子供達を養育したことにより、その人徳は広く知られていたが、当時、政治は宗教者による道教が圧政を敷いており、貴族達は道教の政治的恫喝を恐れ、なおかつ道教はその権力を基盤として帝の地位をも得ようと画策しており、それを咎めた和気清麻呂を九州へ流した。しかし、桓武天皇の命により和気清麻呂と、広虫は都に呼び戻される事となったのだが、九州へ送られた道教の刺客が一行を待ち伏せしていた。しかし、突如台風が襲い、突風に恐れをなした刺客たちは我先にと逃げおおせてしまったという。

Img_0196  その後、都までを何処からともなく現れた多くの猪たちが和気清麻呂一行を警護するように同行し、都までの道中を守護したことにちなみ、多くの猪像が境内をかこんでいる。こうして都に戻った和気清麻呂は、794年の平安遷都へと尽力し、今日の京都を造営した訳である。対して、一度は帝の地位をも手中に収めようと画策した道教は失脚し、下総へと流され、尽きたという。この護王神社は、もとは神護寺境内にあったが、1886年に現在の場所へと移されている。地下鉄今出川駅より、南へ徒歩十分、京都御所を訪れた際には是非、足を運んでみては如何だろうか。

Img_0217_2  御所では、明日22日の“京都時代祭”に向け、準備が着々と進んでおり、神馬を繋ぐ杭が列を成していた。小生は明日、所用があって祭りを見ることは出来ないが、時代装束に身を包んだ行列が御所から八坂へと進むという。お時間がある方は、是非、観覧をお勧めしたい。

 HARUNA

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詳報!航空自衛隊 小牧基地航空祭2006

2006-10-20 19:38:18 | 航空自衛隊 装備名鑑

■国際貢献任務の拠点

 愛知県小牧市に所在する航空自衛隊小牧基地は、中部国際空港まで中部都市圏の玄関口として栄えた名古屋空港と隣接している。県営名古屋空港としてチャーター機と小型機拠点となった今日、航空祭当日はかつての賑わいを取り戻す一日である。

Img_8054  小牧基地航空祭は、周辺自治体との関係上、ブルーインパルスの飛行展示は実施されず、また他基地からの飛来、いわゆるリモートとしての戦闘機による飛行展示も実施されないため、基地に所在する輸送航空団の輸送機と、救難教育隊の救難ヘリコプター、救難機による飛行展示が中心として展開される。この為、他の航空祭と比べ入場者も比較的少なく、例年であれば三万人程度と、基地の広さや再入場者(食事を基地外でとる人や、近所の人が行き来する場合)を考えると、のんびりとした航空祭である。

Img_8418  航空部隊が厳しい邀撃戦闘や支援戦闘の訓練を行う場合、僅かながら必然的な事故のリスクがある事は当然であり、各国空軍は救難ヘリコプターによる航空救難体制を採り、士気の維持に重要な働きを担っている。自衛隊も、多数の固定翼航空機を運用する海上・航空自衛隊に救難部隊を有している。かつては、高速艇と救難ヘリコプターによる複合型の航空救難体制が採られていたが、今日ではヘリコプターと固定翼機による航空救難体制に移行しており、小牧基地では航空自衛隊の救難航空体制を教育する任務を受けている。

Img_8598_1  一方で、国際貢献任務、特に近年頻度が増す国連平和維持活動や国際平和維持活動、緊急人道支援任務において必要な戦域輸送機の運用を一手に担うのが、輸送航空団第一輸送航空隊のC-130H輸送機部隊である。何となれ、主力輸送機であるC-1が、政治的配慮から航続距離や貨物搭載量に限界がある範囲内で設計され、空中給油装置を有していない以上、この部隊が有する16機の輸送機によって展開されており、NHKの報道によれば今日も一週間に六便の割合でバクダッドまでの輸送任務に就いているという。Img_8725_1 

 岐阜基地へ帰投する飛行開発実験団のF-15J、今日では輸送機とヘリの基地として定着した小牧基地ではあるが、1978年3月31日までは第三航空団司令部がここ、小牧基地に置かれており、小牧基地所属のF-86戦闘機が、この滑走路を離陸していた時代があった。蛇足ながら、今後、近隣諸国の洋上航空機動戦力が増加した場合、太平洋側からの経空脅威に対応するべく、一個飛行隊を基幹とする航空隊を幾つかの基地へ置く必要が出てくるのではないか。

Img_8524  小牧基地の滑走路は2740㍍×45㍍あり、ボーイング747の離着陸も可能である。基地の起源は1944年2月に開庁された陸軍小牧飛行場で、1947年より米軍使用となったが、1952年より民間機の乗り入れが開始され、1959年に航空自衛隊小牧基地として開庁した。これに伴い松島基地より第三航空団が移駐、要撃戦闘の一翼を担っている。1962年、それまでの管制教育団に代わり第五術科学校が開設され、救難教育隊も併せて移駐している。

■救難教育隊飛行展示

 小牧基地航空祭は、救難教育隊による飛行展示と、輸送機による機動飛行の二つに分けられ、ここでは、まず救難教育隊の飛行展示を特集したい。

Img_8317  救難教育隊所属のUH-60Jがランウェイから滑走路に移動する。朝一番のフライトと、午後のフライトに分け、救難ヘリコプター五機による飛行展示が実施された。

 これは第五術科学校所属のT-1Bが退役したことから、例年より多くの機体が飛行展示を実施している。従来までは救難飛行展示は二機のみであった。しかし本年のように五機ものUH-60Jによる飛行展示は、陸上自衛隊でも非常に稀有な部類に入るのではないだろうか。

Img_8361  誘導路において離陸を開始したUH-60J,先頭の機体がロービジ塗装である。UH-60Jは、V-107救難ヘリコプターの後継として1991年2月28日より防衛庁に納入が開始された機体で、生産は小牧基地に隣接する三菱重工名古屋航空機製作所により生産されている。ちなみに、名古屋ではF-15J要撃機やF-4EJ改の定期整備を実施しており、F-2支援戦闘機の製造も行われている為、こうした機体も見る事が出来、平日にもこうした機体を目当てにしたカメラマンも多いという。

Img_8380  編隊飛行を展示するべく、救難機U-125が離陸する。二機編隊で離陸した後、一機が脚を出したまま飛行、もう一機が格納した状態で飛行している。U-125は脚部分に救難物量の投下装置が設置されており、投下の際にはこのように脚を開いた状態にて投下する。

 固定翼ならではの高速を活かして救難現場に迅速に展開し、救難現場を確定、救難ヘリコプターを誘導する。

Img_8425  救難機U-125(正式には、救難捜索機U-125A)は、1995年2月28日に初号機が小牧基地において防衛庁に納入されたもので、従来のMU-2(陸上自衛隊のLR-1とほぼ同型機)の後継機として導入が開始されたもので、性能に関しては大幅に充実している。なお、MU-2がオレンジ・ホワイト・ブラックという救難機塗装が為されていたのに対して、薄いブルーを基調としたロービジ塗装が為されており、これも冷戦終結が、低列度紛争という周辺事態の可能性を高めた反映のようにも思える。

Img_8244  透き通るような青空を背景としたUH-60Jによる編隊飛行の様子。

 地上には、入間基地より飛来したC-1輸送機と、先ごろ、民間航空路線より退役した国産旅客機YS-11が地上展示の為に並べられている。海上自衛隊・航空自衛隊が、計器点検機や輸送機として、また派生型が電子戦訓練支援機として運用されており、1962年初飛行というYS-11は、いましばらく自衛隊の運用により日本の空を飛び続ける様だ。

Img_8408  C-130H上空を飛行するUH-60J五機編隊。

 基地の主役競演というべき飛行展示であるが、この見事な飛行展示は午後にも行われた。この航空祭を示すベストショットといえるが、事実、それを示すように航空専門誌“エアワールド”の取材カメラマンとおもわれる方(カメラレンズにデカデカとステッカーを貼っていました)も撮影した場所であり、アングルとしては良好であろう。

Img_8788  編隊飛行を終え、基地後方の東方空域を飛行する編隊。

 速度が異なるUH-60JとU-125が偶然重なり、このような写真を撮影する事が出来た。ところで、先頭を行くロービジ塗装のUH-60Jは、昨年度の小松基地航空祭において初めて目にしたものであるが、UH-60JやV-107について今後このような迷彩を施したヘリが増加するかについて、興味がもたれるところである。

Img_8399  滑走路上のU-125救難機。

 望見できる高層ビル群は、名古屋駅周辺の高層ビルで、小牧市でありながら名古屋空港と呼称された背景を垣間見る事が出来る。一番左のビルが、豊田ビル、そして名古屋駅ツインタワー。豊田ビルは当初、ツインタワーと同じ高さとする計画であったが、計画変更により3㍍高くした関係で東海地方で最も高いビルとなった。この他、テレビ塔なども小牧より望見できる。

Img_8455  この直後、UH-60J1機と、U-1251機により、救難展示が実施された。写真はU-125の支援の下、発煙筒を焚き救助を求めた要救助者をウインチにより吊り上げている。なお、重傷者に関しては、ストレッチャーにより吊り上げる事が出来る。

 U-125にピントを合わせているため、UH-60Jがピンボケとなっているが、双方の速力の違いが端的に見て取れる(ホバリング中なので当然ではあるが)。

Img_8468  ファストロープにより降下する救助要員。従来のウインチ方式よりも素早く降下する事が出来、特にレンジャーや特殊部隊により行われる方式であるが、ハーネスではなく手の握力でロープを支えている為、機が揺れて(例えば、突風とか、RPG!とか)手を離せば落下する危険がある。

 なお、救助要員は航空自衛官であるが、陸上自衛隊の迷彩2型の迷彩服を着用している。

■輸送航空隊飛行展示

 救難教育隊飛行展示に続いて、輸送航空隊による飛行展示が実施された。

Img_8565  唯一の戦域輸送機を有する関係上、特に海外派遣任務には専任といいうるほどの頻度で運用されているが、元は野戦において前線航空基地へ装備や物資を輸送するという任務を有する為、C-130Hは、輸送機とはいえ極めて高い機動性と頑丈な構造の機体を有している。特にヴェトナム戦争における米空軍の輸送記録を見れば、砲弾が命中した、23㍉機銃を蜂の巣にされた、という損傷を受けつつも任務を完遂したという凄まじい記録を戦史に刻んでいる。

Img_8637  航空自衛隊におけるC-130Hの歴史を簡単に示すと、輸送能力の向上を主眼として、航空自衛隊創設30周年にあたる1984年3月14日にアメリカ本土より1・2号機が小牧基地に到着した事より始まる。

 同年9月26日には、第一輸送航空隊としてC-130Hを正式に部隊装備し、同日、名古屋のシンボルでもある鯱を模った部隊マークを尾翼に描き、部隊としての運用を開始している。

Img_8556  編隊飛行を展示するC-130H、三機編隊ではあるが、機体がUH-60Jとは異なる為、それは他を圧倒する規模の迫力である。

 C-130Hは、全幅40.41㍍、全長29.79㍍、全高11.66㍍あり、機体と燃料や搭載貨物を含んだ最大離陸重量は79.38㌧に達する。また、最大ペイロードは19.356㌧あり、完全武装の空挺隊員を64名、輸送する事が可能である。

Img_8570  C-130は西側の傑作輸送機というべき機体で、60カ国以上で民間用を併せ2000機以上が運用されており、将来的には3000機に達すると見られる。

 試作機は1954年に初飛行、量産は1955年より実施されているが、順次近代化され、今日ではエンジンや機体全長に抜本的な改良を加えたC-130J-30が生産されているが、蛇足ながら機体価格が高騰してしまい、その生産数は伸び悩んでいると聞く。

Img_8572  ロービジ塗迷のイラク派遣仕様C-130H、これに関して、少し説明したい。従来、戦域輸送機とは、局地的航空優勢喪失に備え、低空飛行による輸送に主眼が置かれていたが、今日では“頭上の敵機”よりも、携帯地対空ミサイルという“眼下の敵”の脅威度が高くなっており、従って迷彩も地表よりも空に溶け込むものとされている。こうして、被発見性を低下させることで、攻撃を防ごうということである。特に、テロリストなどは対空レーダーを有している可能性が皆無に近い為、有効な策といえる。

Img_8642  イラク復興人道支援への派遣に際して、コックピット後方上部に半球状の目視監視席が設置され、機首コックピット直下に赤外線探知によりミサイルの接近を知らせるセンサーAAR-47が設置されており、コックピット側面と増槽部分後部には、接近するミサイルに対して、その追尾装置を欺瞞する赤外線フレア・チャフ散布装置ALE-47が装備されている。このセンサー、某首相補佐官がイラクを米軍ヘリにて飛行した際に煙突の隣を飛んだ瞬間、発動したほどで、感度は高いようだ。

Img_8659  飛行展示を終了し、着陸したC-130H。あたかも部隊マークの鯱が名古屋城の上に並んだようである。また、二種類の迷彩の相違点を端的に見る事が出来る。

 航空自衛隊では、報道では模擬ミサイル(大型のロケット花火の9連装発射器のようなもの)による回避訓練を重ねている。幸いにして攻撃に曝された事は無いが、絶え間ない訓練は万一の際の有効な対処につながっている。

Img_8623  着陸後、災害派遣訓練展示に向けて移動するC-130H、多くの観客との対比で、その大きさを知る事が出来る。災害派遣展示とは、エンジンを回転させたまま車輌を卸下する展示である。パキスタン大地震に際しての国際人道支援任務ではUH-1H多用途ヘリコプターを空輸している(ところで、ややノーズの長いJ型は搭載できるのだろうか)。望遠レンズでの圧縮効果により観客が多く見えるが、実際には、脚立を使用せずともこれまでに挙げた写真を撮る事が出来る。

■地上展示機

 航空祭は飛行展示とともに、地上展示機も見所が多い。ここからは、地上展示機を解説したい。

Img_8195  写真は、整備格納庫内のUH-60J、ロービジであるが飛行展示を行った機体とは別の機体であり、少なくとも救難教育隊には2機のロービジUH-60Jが配備されている事になる。

 やや暗い格納庫内ではあるが、小生愛用のEOS Kiss Digital Nは、ISO感度を800まで上げたとしても粒子荒れが大きくなく、暗いところにおいても良好な写真を撮影する事が出来る。

Img_8208  飛行開発実験団より飛来したF-15J戦闘機、F-2支援戦闘機の地上展示。岐阜基地より飛来した機体で、直線距離にして30kmの岐阜基地から小牧基地まで、戦闘機であれば何分であろうか、C.ジョニー氏曰く、多分滑走路の誘導路を移動する時間の方が、飛行時間よりも長いのではないかということであったが、小生もそう感じる。その向うには三沢基地より飛来したE-2C早期警戒機が並んでいる。なお、今年はE-767早期警戒管制機の飛来はなかった。

Img_8211  静岡県の浜松基地より飛来したT-4中等練習機と同じく静浜基地より飛来したT-3初等練習機。

 岐阜基地航空祭の記事でも記載したが、いよいよ退役が迫ったT-3練習機は、パイロットスーツを着た隊員が、『懐かしいなあ、これで初めて飛んだんだ』「まだ残ってたのか、とっくの昔に用廃担ったかと思った」という思い出話に華を咲かせていた。またT-4は尾翼に第一航空団創設50周年記念塗装を施している。

Img_8226  百里基地より飛来した第501飛行隊のRF-4E偵察機、そして戦闘機より改修したRF-4EJ偵察機。低空飛行を行う為、対地迷彩を施している。戦闘機から改造されたものは、機関砲も搭載しておりやむを得ぬ場合は航空戦闘も可能であるが、偵察能力は偵察ポットにより高い能力を有している。

 何というか、岐阜基地、静岡県内の基地、百里基地というように、航空機の出身基地ごとに並べてあるように思うのは小生の思い過ごしであろうか。

Img_8065  格納庫内に展示されるC-130H,格納庫には二機が展示され、この他一機が屋外にて機内を公開していた。

 輸送機用格納庫だけあって、小松基地の格納庫よりも天井が高く見える。

 この展示機は、エンジンカバーを外し、エンジンの構造や整備の様子などを展示していた。エンジン整備用の巨大な足場が興味深い。

Img_8283_1  航空祭の全飛行展示が終了し、帰投するべくエンジンを回すE-2C早期警戒機。航空祭もいよいよ終わりである。本機は1976年のMiG-25函館空港亡命事件を契機に警戒管制能力向上の目的で1983年2月より13機が導入されている。半径480kmの索敵能力を有し、米海軍の艦載機として開発された背景から大出力のアリソンT-56-A-427エンジンを搭載している。

 なお、C-130Hが搭載するエンジンもアリソンTT-56系統のエンジンである。

HARUNA

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岐阜基地航空祭 飛実団の多彩な航空機

2006-10-17 17:12:29 | 航空自衛隊 装備名鑑

岐阜基地航空祭における機動飛行の様子と誘導路付近にて撮影した情景を中心に今回は記事を構成したい。

Img_9741  白地に鮮やかな赤が印象的なF-2初号機。FSX計画として米国製F-16より日米共同により開発したF-2支援戦闘機は、ここ岐阜基地では試作機塗装により各種試験に従事しており、航空祭でもF-15J戦闘機と共に機動飛行を展示した。写真はF-15Jのすぐ後方を通過する瞬間を撮影しており、民間機では中々考えられない高度な機動性能は、T-2練習機より改造されたCCV実験機による空中機動性能追求から生まれたものである。

Img_9480  四機種四機の編隊を崩した瞬間の写真で、F-15J戦闘機の翼端からは航過と同時に白いウェーキが後方に伸びている。F-15Jの後方にウェーキとともに見えるのがT-4中等練習機で、並んで飛行しているのがF-4EJ改、下方に飛行しているのがF-2である。飛行特性の異なる四機種により編隊飛行を行う事は高い技術が必要であり、これは即ち、航空技術とは航空機そのものに留まらず、搭乗員にも相応の高い技術が求められることを端的に示した写真である。

Img_9386_1  機動飛行を展示するF-4EJ改、1968年に導入が決定し1971年より140機が航空自衛隊に納入され、航空自衛隊の第三世代要撃機の地位を担った。その後、1976年のMiG-25函館亡命事件などを契機に、ルックダウン機能(低空飛行する航空機に対処する性能)を向上させる近代化改修が為され、APG-66Jレーダーへの換装、セントラルコンピュータと慣性航法装置の近代化を実施、二個要撃飛行隊と一個支援戦闘飛行隊分に相当する96機が改修を受け、第一線に配備されている。

Img_9526  着陸後、減速のために展開したドラックシュートを切り離した瞬間。岐阜基地誘導路付近ではこうした瞬間を間近に見る事が出来る。近代化改修されたF-4EJ改はF-4シリーズとしては世界で唯一ASM-1/2空対艦ミサイルによる対艦戦闘に対応している。この為、F-2支援戦闘機が配備完了するまでの間、全機が退役したF-1支援戦闘機との繋ぎとしても運用されている。なお近代化改修に際して、増加した重量分に対応するエンジン出力の強化は実施されず、支援戦闘機としての能力付与に重点が置かれている。

Img_9432_1_1  T-3初等練習機を先頭に異機種編隊飛行を実施するF-2とF-15J。T-3はT-34初等練習機の後継で、富士重工が開発、KM-2Bとして1973年9月26日に初飛行した機体の航空自衛隊仕様。T-34を基本としてエンジンをライカミング社製IGSO480に換装したもので、1979年に静浜基地の第11飛行教育団へ、1980年より防府基地第12飛行教育団に合計50機が配備されたが、1999年より順次新型の富士重工製T-7練習機に更新がすすみ、今年度中に全機退役となる。

Img_9725  多機種編隊飛行(正式には異機種編隊飛行)を展開する飛行開発実験団の機体、C-1輸送機を先頭としてT-4練習機、F-4EJ改要撃機、F-15J要撃機、F-2支援戦闘機が見事な編隊飛行を展示している。編隊を構成する10機全てが飛行開発実験団所属の機体であり、この様子は、一度見れば忘れられない物凄い印象を受ける飛行展示である。輸送機と戦闘機、支援戦闘機を配備した基地は日本では岐阜基地以外に無く、この名物を見るために首都圏から撮影に訪れる人も少なくない。

Img_9814  着陸し、減速のためのドラックシュートを展開したF-2、本機は小牧基地と県営名古屋空港(当時は名古屋空港)に隣接する三菱重工名古屋工場にて開発され、岐阜基地にて評価試験を実施した航空機である。

 切り離したドラックシュートはすぐに回収され、誘導路脇には回収の為の要員が展開しており、後方噴射に注意しつつ次の機体が通る前に人力にて回収し、折畳んで軽四車輌に収納する。

Img_9502  エアブレーキを展開するF-15J要撃機。減速にはエアブレーキを用いる方式とドラッグシュートを用いる方式がある。米空軍のF-105などの航空機はヴェトナム戦争では、このエアブレーキの内側にレーダー撹乱物質を搭載し、ミサイルへの自衛手段としていたが、現代の航空戦では、例えば敵機に後方を取られた際の最後の手段として飛行中にエアブレーキを作動させる方式で空気抵抗を増大させ、急減速に用いられることもあるという。

Img_9356_1  その上空を練習機ならではの旋回飛行をみせるT-4,画像修正をしてみるとエンジン排気がくっきりと写っている。1985年4月17日に川崎重工岐阜工場にてロールアウトしたT-4は練習機以外に、連絡機や訓練支援機などとしても運用され200機以上が2020年代まで運用されるとみられている。

HARUNA

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ブルーインパルスとともにみる岐阜基地のあゆみ

2006-10-16 11:25:19 | 航空自衛隊 装備名鑑

■航空開発の拠点として

 今回は航空自衛隊岐阜基地のあゆみを、ブルーインパルスの写真とともにお送りしたい。実は、ブルーインパルスのホームベースは松島基地であるが、T-4練習機の故郷は岐阜なのである。なお、今回の特集は、ブルーインパルスネタを小松で使い果たしたからではないかと勘ぐられる方がおられるかもしれないが、はっきり言ってその通りである!(飛行隊形から演技種目見分ける事、小生には出来ない・・・、誰か面倒で無い妙案あったら教えて)。

Img_9846  航空自衛隊岐阜基地は、1876年の旧陸軍砲兵部隊演習場設置にまで遡る。明治建軍の後、時代は大正時代に入り、我が国においても現代戦闘を展開する上での航空機の重要性が認識され、飛行場としては日本で初めて解説されたものである。なお、航空機による初飛行は帝都東京は代々木練兵場による徳川大尉による飛行が初めてであるが、飛行場としての基地建設は岐阜が日本初のものであり、日本の翼の歴史は岐阜より始まったといっても過言ではない。

Img_9857  この各務ヶ原飛行場は、陸軍航空隊飛行場として用いられた後、太平洋戦争敗戦後、米軍管理下に移されたものの、1957年2月より自衛隊との共同使用へ移行し、1958年には全面返還が為されるに至っている。この返還に伴い、当初、浜松基地にあった航空実験隊が岐阜へ移駐し、加えて木更津基地より補給部隊である臨時岐阜補給隊が移駐し、今日の飛行開発実験団の前身、今日の第二補給処の前身となる部隊が岐阜に集ったわけである。

Img_9871  新型装備や各種装備品の評価試験を実施する航空実験隊は、1974年4月に航空実験団へ組織改編され、また1989年3月には今日の名称である飛行開発実験団へと組織改編されている。

 また、名古屋市を中心とした中京地区への地域防空能力の充実を目的として1972年にはナイキ地対空ミサイルを運用する第四高射群が新編され、岐阜基地にはその司令部がおかれた。

Img_9887  評価試験部隊である岐阜基地の任務は、技術研究本部が実施する研究試験への航空機や資材を用いた協力と評価試験、そして航空技術開発には不可欠なテストパイロットの養成に加え、技術幹部の教育訓練がその任務として挙げられる。

 より端的な事例として、基地内に保存展示されたT-2練習機初号機の説明に大きく“空の勝利は技術にあり”という言葉が刻まれており、これが岐阜基地の任務といえる。

Img_9874  T-4練習機の故郷と冒頭に挙げたが、それはT-4を始めとした航空機製造を行う川崎重工岐阜工場が隣接し、且つ滑走路を共用している為である。かつて第二次大戦末期までは、同じく航空機生産の主柱である三菱重工名古屋工場にも近傍に滑走路が無いため、実に三日間をかけ製造した零戦や中攻などの機体を分解し、牛車(自動車輸送では振動が著しく機体が損壊する為)により輸送し、この飛行場より熾烈きわまる南方戦線や太平洋上の機動部隊、そして本土防空に供していた。

Img_9963  こうした関係もあり、航空自衛隊が運用する各種航空機に加え、川崎重工にて生産、整備された航空機も見る事が出来る。蛇足ながら、本年二月、海上自衛隊納入直前のMCH-101が試験飛行中の写真を撮影に成功し、再度鮮明な写真撮影を試み後日展開したところ、偶然飛行開発実験団のT-1/T-2ラストフライトという歴史的瞬間に立ち会う事が出来、更に現地に集まってみえた方々より翌日の小牧基地T-1Bラストフライトのお話をお教えいただき、撮影し掲載できたのは望外の機会であった。

Img_9978  そう、岐阜基地は航空機の宝庫である。評価試験を実施する飛行開発実験団とあって、T-1やT-2を最後まで運用したのは無論のこと、F-2の試作機も全て岐阜基地に配備されており、加えて現在では川重岐阜工場と技術研究本部において次期輸送機・次期哨戒機が初飛行に向け開発中である、いわば日本航空史の生き字引というべき基地ということさえできるのではないだろうか。特に、F-2試作機には独特のカラーリングが施され、例えばブルーインパルスとの対比も面白い。

Img_9981  岐阜基地より、本年三月、前述のようにT-1、T-2が退役し、また今年度はT-3練習機が退役予定である。一方で、彼らはCCV実験機やF-104Jと同じく保存機として翼を休め、これから来るであろうC-Xや間もなく選定が為されるであろうF-Xを見守り続けるだろう。なお、この岐阜の空の歴史は隣接する“かがみがはら航空宇宙博物館”にも詳しく展示されており、一見の価値がある。

HARUNA

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航空自衛隊 岐阜基地航空祭2006

2006-10-15 23:13:34 | 航空自衛隊 装備名鑑

■燃える青空
 燃える大空♪気流だ♪雲だ♪、晴れわたった秋空の下、岐阜基地航空祭へ展開した。基地には航空自衛隊の評価試験部隊である飛行開発実験団、第二補給処、第四高射群司令部が置かれている。今回はその速報をお伝えしたい。

Img_9674  試験評価部隊である飛行開発実験団は、航空自衛隊が運用する各種航空機を保有しており、特にその保有機種の多くが参加して展開される多機種大編隊飛行には定評がある。本年は、T-2練習機の退役に伴い、ややその多彩な陣営性が失われたかに思われたが、その分参加航空機を増強し、F-15J、F-4EJ改、T-4、F-2、C-1による見栄えの大きな飛行展示を実施する事が出来た。ちなみに異機種編隊飛行としては百里基地のものが有名であるが、こちらは更にF-2、C-1が加わっている。

Img_9600  岐阜基地は、広大な面積を誇り、C-1輸送機による空挺降下も実施され、入間基地より展開したC-1から、風力観測と降下地域確認の目的で一名が降下した後、三度にわけ、30名の空挺隊員が降下した。第一空挺団には基地周辺の出身者もおり、隊員の出身地と名前がアナウンスされる航空祭は故郷の青空に大輪の華を咲かせる瞬間でもある。一回当たりの降下人員は10名づつで、一個小銃班の規模ではあるものの、落下傘が浮かぶ空はそれ以上の部隊規模に錯覚させるものである。

Img_9497  飛行展示を終え、誘導路を移動するF-4EJ改とF-15J。先日の国会代表答弁において、民主党の前原代議士が安倍首相に対して行った質疑の中で、F-4EJ改戦闘機の後継機に関する質問が含まれていたが、偵察機用途として百里基地に、また支援戦闘機として三沢基地など、そして那覇基地に要撃機として配備されているものの、年々、機数は減少しており、本年、遅くとも来年度には次期戦闘機の機種選定が為されると見られる。

Img_9820  岐阜基地ならではの航空機としてはFSXとして開発された試作機(現F-2)が挙げられ、盛んな飛行展示を実施した。

 本日は、C.ジョニー氏一行とShin氏、Y氏、S氏、T氏という実に9名の一大視察団とともに展開する事となった、現地でお付き合いいただいた皆さん、本当にありがとうございました。

HARUNA

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第十師団創設44周年 守山駐屯地祭

2006-10-13 08:59:50 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

■名古屋は燃えているか?

 十月八日、名古屋市守山区において実施された陸上自衛隊第十師団創設44周年記念行事が開催された。

Img_8935 今回は、毎回お世話になっており、前日も小牧基地航空祭でご一緒させてもらったC.ジョニー氏一行と今回もご一緒させていただいた。こののち、名古屋鉄道瀬戸線(名鉄の他線とは独立しており、独特の車輌体系を有する事から名鉄のガラパゴスと呼ばれる)も案内していただいた。ここでお礼申し上げたい。

 写真はグラウンドに整列した連隊旗。前日の小牧と同じく強風が吹き、旗が盛んに振られていた。

Img_9011  第十師団は第十混成団として編成され、1962年の師団改編において普通科連隊三個を基幹とする乙師団に改編され、また2002年の師団改編において即応予備自衛官基幹の第49普通科連隊を新編、甲師団編成での即応近代化師団(戦略機動師団)へと近代化されている。また、空挺部隊出身の火箱師団長のもと、イラク復興人道任務への部隊派遣により更に練度を高め、今日に至っている。

Img_9010_1  車輌行進における高機動車、完全武装の普通科隊員が乗車している。1992年より本格配備が開始された高機動車は、従来、徒歩とトラックによる輸送に依存していた普通科部隊の機械化を大きく前進させた。なお、抜けるような青空であるが、昨年撮影できた写真右側の建物脇煙缶所が本年は立ち入り禁止であった為、本年の撮影位置に落ち着いたが、観閲行進途中降雨に悩まされた昨年とは異なり、順光に恵まれ、抜けるような青空が高機動車を浮き上がらせている。

Img_9014_1  中隊旗を先頭に行進する軽装甲機動車。本車は地形の防御力に依存した従来の地上戦闘が火力の近代化と彼我索敵能力の向上により効率性が低下し、且つ、対歩兵能力に優れた敵機械化部隊の路上機動という特性に対応するべく、突発的戦闘に柔軟な対応を可能とする小型装輪装甲車として開発され、2001年より本格配備に入ったのが軽装甲機動車で、第十師団には第33普通科連隊が2002年に配備したのを皮切りに全普通科連隊一部中隊に配備されている。

Img_9026_1  普通科連隊の対戦車中隊に所属する79式対舟艇対戦車誘導弾。射程4kmの対戦車ミサイルで、各中隊に12基、一個師団で48基が配備されている。なお、車載した状態では発射できないとされる。昨年は旧型の73式小型トラックにより行進していたが、今年度は新型の73式に換装していた(49連隊のものは旧型)。師団長最後の手札とされた対戦車隊が各普通科連隊に配備された事で、普通科部隊の対戦車能力は大幅に向上している。

Img_9052_1  特科連隊のFH-70榴弾砲、155㍉榴弾を最大30kmまで投射可能で、豊川駐屯地よりの参加となった。73式特大トラックにより牽引されているが、補助動力装置により自走も可能である。牽引時の全長は実に19メートルにも達するので、公道を走行している際には注意が必要である。第十師団管区には中演習場が無い為(大演習場は中部方面隊管区全体でも無いが)、射撃訓練には東富士などの演習場に展開する必要がある為、もしかしたら他の師団管区よりは公道で見る機会が多いかもしれない。

Img_9080  観閲行進の最後に雄姿を見せた第十戦車大隊の74式戦車。戦車の無限軌道とエンジンの独特の音へ撮影をしていなかった招待者も思わず携帯電話のカメラを取り出して懸命に撮影を試みていた。滋賀県今津駐屯地(第三師団管区)に駐屯しており、師団改編に伴う普通科連隊増強に伴い、一個中隊を増強している。なお、戦車を撮影する際には一両目が通過した際に排気煙で視界が塞がれるため、その前に撮影する必要がある。

Img_9096  観閲行進に引き続き、訓練展示の模様。普通科一個中隊による執銃訓練の様子。89式小銃を用いて近接戦闘のガンハンドリングや部隊行動の様子を展示していた。戦闘防弾チョッキを着込んだまま小銃を水平に構えている。アメリカ軍によるイラク治安作戦の戦訓として、やはり戦闘の最後を決するのは小銃手であり、特に一般住民と敵対勢力がとり混ざった市街地での戦闘では民生被害局限化や友軍相撃防止の観点から冷静な部隊行動が必要となる。

Img_9134_1  訓練展示に向け移動する高機動車。

 偽装網を施し、誘導の隊員の指示に従い前進している。訓練展示は守山駐屯地に駐屯する第35普通科連隊により実施された。装甲防御力を有しない高機動車は自己位置の秘匿と地形による防御力に依存する必要があるが、逆に完全な地形偽装は最大の防禦となることが戦史により証明されている(なお、イラク派遣仕様の高機動車には耐破片材が装備されているとされる)。

Img_9160_1  訓練展示において仮設敵陣地を粉砕するべく前進する74式戦車。105㍉砲による直接火力支援は、精密な射撃による支援を友軍部隊に供することができる。これは特にゲリラコマンド対処に大きな威力を発揮する事が、朝鮮戦争からコソボ国連防護軍派遣などの戦訓から証明されている。また、旧式化が叫ばれる74式戦車であるが、伏撃戦闘では今なお侮りがたい威力を有しており、加えて普通科部隊と協力しての戦闘では大きな威力を発揮する。

Img_9199_1  我がほうの榴弾砲や戦車砲の射撃により炎上する仮設敵陣地、小銃にて抵抗する仮設敵背後で擬爆筒が焔を上げている。今回は昨年装甲車で返り討ちにあった戦訓から敵も戦車を動員しての攻撃をかけ、且つ本年は諸般の事情(霞ヶ浦のアレね)により航空支援が望めないにも拘らず、我が74式戦車は敵戦車を見事に撃破した。なお、この擬爆筒、不発弾が結構出たようで、状況終了後、不意に爆発し轟音が周囲を驚かせていた。

Img_9210_1  想定全滅した仮設敵を押しのけて突撃する我が普通科隊員。ちなみに第三師団千僧駐屯地祭では着剣した状態で突撃を実施していたが、グラウンドの広さの関係もあり、友軍相撃防止の観点からこの状態での突撃となったのだろう。この後、三階建ての“守山ビル”(駐屯地広報談)に突撃し、凄絶な市街戦闘の展示を行っていた。突撃は軽装甲機動車の火力支援の下、前進した高機動車より降車普通科隊員が実施した。

Img_9224  状況終了後、装備品展示を実施している中、金沢駐屯地(第14普通科連隊)、豊川駐屯地(第49普通科連隊)、久居駐屯地(第33普通科連隊)所属部隊が駐屯地へ撤収を開始していた。駐屯地正門を続々と出る車輌部隊は、あたかも映画の中の防衛出動のシーンを見るようである。写真は73式中型トラックで、高機動車導入までは、一個小銃班を輸送できる本車は普通科部隊機動の主力となっていた。各種装備運搬には丁度いい車体規模で、近年では高機動車の車体を用いた新型が登場している。

Img_9237  軽装甲機動車が続々と出てくるので、当然ここは大都市名古屋市内、此処から少し先では軽装甲機動車が渋滞していた。渋滞など名古屋市内では日常茶飯事であるが、装甲車の渋滞というのは少し珍しいのではないだろうか。ちなみに、交通事情への影響から、FH-70榴弾砲は夕刻、戦車は夜間に運搬されるという。

 HARUNA

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