北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】上賀茂神社-賀茂競馬,桜から楓へ鉦鼓が響けば右の騎手と太鼓が轟けば左の騎手が

2024-06-05 20:24:56 | 写真
■五穀豊穣を問う神事
 迫力があるなあと写真を観返しましても。

 賀茂別雷神社の賀茂競馬、ゴールデンウィークの真っ最中に執り行われる神事なのですが、この五月五日の馬が駆ける勇壮な祭事こそ人の心ひく神事ではあるのですが、しかし祭事そのものは実は五月一日から始められているもので、長い神事であるのです。

 足汰式、これも古式にの鳥取執り行われているものでして、あしぞろえしきと読むのですが、神事に参加します馬は20騎、そのうち一斉に走るのではなく2騎を組み合わせてはりしますので馬を各々走らせ、同じ走りの早さ同士の馬たちで組み合わせを定める。

 騎手の組み合わせというのは重要で、それは騎手は左右に二人が並び、左の騎手には緋闕腋袍に緋色裲襠、右の騎手は黒の闕腋に青の裲襠を身につけたうえで上衣としまして獅子の繍が描かれた袍を身につけます、故に騎手は組み合わせで装束が決まるという。

 饗食という神事は、3日に騎馬の騎手が親族を持て成す神事として祭事に組み入れられていまして、その饗食を終えて明けて4日に騎手たちは上賀茂神社ではなく下鴨神社を参拝するという祭事の取り決めがあります、そして5日の神事に臨むのですね。

 午刻に一番太鼓が響き神事が始まります、競馬をケイバと読むならば騎手は機能的な装いで臨むのでしょうがこれは神事であり、競馬太刀という、真剣ではなく模造刀なのですけれども、身に付けまして、神事に臨みます装束も歴史的な伝統衣装となっています。

 桜から楓に。賀茂競馬では桜の一から馬を駆りまして遥か御阿礼所があります方角に向け走るのですが、数百mさきの楓の木までの競いにより鉦鼓と太鼓のどちらかが勝敗を告げるという。鉦鼓が響けば右の騎手、太鼓が轟けば左の騎手が勝ったことを示す。

 鉦鼓が響けば右の騎手、太鼓が轟けば左の騎手、という競いなのですが、その進発は横並びではなくたて並びであり、走り始めるとともにその離隔距離が開いたか縮んだかにより勝敗が決まるというところでして、足汰式で先ず先か後かがきまるということ。

 勝敗というのは、左右の馬は並ぶのではなく一頭分の距離を離隔して走りまして、そのきょりが開いたかどうか、そしてこれは先を行く馬が有利に思われますが六組の騎馬は前に並ぶのが前の競馬での勝敗により決まるため、左右の勝敗は全体に繋がる。

 幄舎からも勝敗を示す扇が掲げられまして、幄舎は東西に設けられていて左の騎手が勝てば朱の日の丸、右の騎手が勝った際には白い日の丸の扇が掲げられるという、この勝敗は合議制であり、勝敗が双方から見え方が違った場合には両方掲げ引き分け、と。

 白絹が勝者の騎馬には与えられまして、騎手はその白絹を乗馬鞭に結び付け高らかに記すとともに、帰路鳥居の前に馬上から鳥居と上賀茂神社本殿より祭事に併せて神霊がうつされています屯宮という祭礼の壇に向けまして神前の報告と共に最敬礼する。

 勝敗、左の騎手が勝てば五穀豊穣という神事なのですが、六組の騎馬が走り抜ける中、一番組は一頭駆けという習わしであり、基本的に五穀豊穣を念頭としているように、六度の競馬を経て古都委は五穀豊穣かそうでは無いかを競うとのことでして。

 貴船神社に、この神事の翌日6日には騎手全員が貴船神社、もともと上賀茂神社の末社という歴史があります、ここに詣でまして、神前の報告と共に勝敗をそのまま貴船川に流して翌年に向けての五穀豊穣と国家安寧を祈る、ここまでが賀茂競馬です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】上賀茂神社-賀茂競馬,宮中行事伝統の古式競馬はわが国でも屈指の歴史の長さを誇る神事

2024-06-05 20:00:58 | 写真
■賀茂競馬
 2011年や2016年以来の身動きが出来なかった五月のしかしそのはじまりの頃の神事を拝観しました話題です。

 賀茂競馬、競馬と書いてケイバと読まず、かもくらべうま、こう読む神事があります。ただ、馬の競いというかたちはどうあれ神事というものではわが国でも屈指の歴史の長さを誇る神事ということもありまして、一つ賑わいを見てみよう、と歩み進めまして。

 祭事の撮影、所謂ゴールデンウィークは様々な神事行事が並ぶというのが京都でして、この日ばかりは心静かに過ごすかいっそ岩国フレンドシップデイでF-35戦闘機でも眺めるか、ともうまようところなのですが今年は色々時間の過ごし方を考えてみました。

 自由、というと様々な受け止め方があるのは知っていますが、わたしの場合は特に休日の散策は、あてどもなくというと放浪とか徘徊になってしまいますので徘徊よりも俳諧に留めまして、しかし日程を自分でがんじがらめにして縛ることだけは避けたい。

 撮影位置とか撮影機材とか、それも自衛隊行事ならば、航空祭には超望遠を想定して駐屯地祭では機動力を考えた身軽さ、と自分で器材を考えるのですけれど、京都散歩、という際にはもうその日の気分で今日は軽く、とか望遠を携行するか、を考えます。

 オーバーツーリズム、しかしこの今では日常的な、日常への浸食というならばCOVID-19よりも影響度が大きくなっているのかなあ、という言葉が、なんといいますか、この京都散歩という京都の街並みを歩く中に、無視できないような影響を及ぼしている。

 むかしはもっと自由に撮れましたよ、ねえ。こう声をかけられましたのは一つ撮影しまして、さてピントの度合いはいかがなものか、とカメラのデータを確認している際に老紳士の、しかしCANONの一眼レフを使っていました、方に声掛けされまして。

 一眼レフ、そうミラーレスがどんどん増える中において、電子画像ではなく光学画像に光学機器の精緻というべき望遠レンズを構えて撮るという方にはそれなりのこだわりと、そして銀塩時代から撮っているならではの慎重さと新技術を知っている世代だ。

 茂みの中から撮影に適した位置を探す、というのは恰も舞鶴基地の撮影が難しい位置に接岸している護衛艦を撮影しているようで、確かに前はもう少しわきのあたりや、そもそもこうした線引きなどは無かったものですから、隔靴掻痒といえばそうですね。

 自由に撮れた、といいますと、そう、天幕で神事を覆い隠すのは分かるのですが、覆い隠すとともに有料拝観席が準備されていまして、その有料拝観席の場所が悪いとともに、しかしそれでも仕方ないかと拝観席受付へ誘導されて歩み進めたのですけれど。

 有料拝観席は、満席の設定は早くて、誘導された先にはもう拝観受付は終了しているという一言でした。こんなものは無線で事前連絡することですぐに情報共有できるでしょうに、受け付けられない受付へどんどんと誘導されているため、混乱が生じていた。と。

 撮影位置から考えますと、有料拝観席はもう少し収容力を考えて欲しい、神事ですから美しく撮影する事は想定していないのかもしれませんが、神馬さんが走り出す基点ちかくのみに拝観席が設定されていまして、加速する前に拝観席の視界から去ってしまうのです。

 神社のご神体は北方の山なのですから、その北側にもう少し拝観席を設定してくれましたならば、勇壮な、走っているという神馬の神事という様子を撮影できるのですけれども、出発して加速する前しか見られない位置ではなあ、と少し嘆息してしまうのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】西来院,経文と歴史は庭園美超える哲学との融合求められる寺院の庭園

2024-05-29 20:23:16 | 写真
■天井は近すぎた白龍
 物事には融合といいますかそれそのものとの調和こそが大事であり調和が無ければ均衡を欠いて物事は崩れてしまうのです。

 西来院には新しく白竜も描かれているのですが、天井が低すぎてちょっと見えない、押しかかってくるというよりも描く場所を間違えたという感じさえして、法堂で小泉画伯の双龍図を見上げた後だけに、拝観する順番を間違えたかなあ、と少し考えてみた。

 天井画については、ちょっと、考えているのかなあ、とも思いまして。いや考えた末ではあると思うのですが、絵画としては美しいといいますか素晴らしいものがあるのですけれども、ちょっと天井の高さを考えずに書いたのかなあ、という印象が否めない。

 龍の、雲龍でも蒼龍でも、今を生きる芸術家としてもっとも尊敬するとともに、京都の寺院にもたびたび壮大な龍の絵図を、多くは襖絵というかたちなのですけれども寄進してくれていますのは、元総理大臣で細川家当主の細川護熙氏、このひとにはかなわない。

 細川護熙さん、建仁寺にも襖絵を、こちらは龍ではないのですけれども本坊のほうに描かれていまして、ちょっと進歩的過ぎやしないか細川内閣のように、とおもえるのですがじっと腰を据えて新緑の季節に景色の一つとしてみていますと、不思議と調和していて。

 龍については龍安寺がもっとも印象深いところではあるのですが建仁寺も、新緑の季節はもちろんなのですが、紅葉の季節を超えて真冬の寒さの中に見ますと、同じ色彩だろうか季節により変えているのだろうかと思うほどに春夏秋冬、溶け込んでいます。

 小泉淳作画伯が法堂に描いた天井画などは息をのむような迫力とともに語り掛けるような、なにか人を超越したものを、こういうのを畏敬というのだろうなあ、知らせるような構図に感動しましたこともありまして、ゆえにわたしは新しいものがダメではない。

 小泉博氏の実兄というのも好感度を底上げしているのかもしれませんが、モスラとモスラ対ゴジラの印象が強いのですがサザエさんのマスオさんというイメージも何か懐かしく、日本のいちばん長い日では和田信賢アナウンサー役が印象深かったのですが。

 寺院の美術というのは難しいのですが、まず調和しているのか、ということが重要になるように思う。しかし、謂れと歴史と哲学に調和さえしているならば、意外と突飛なものであっても風景の一部に、つまりそれは歴史の一部なのだ、溶け込んでしまう。

 法堂に守るように描かれた双龍は、龍という存在が欧米でいうところのドラゴンではなく龍という人知の先にある畏敬の対象としての存在なのだ、という事を、信仰の守り手という印象で見せてくれるのですが西来院の白竜は何処まで行っても竜なのです。

 幡龍図、実はどの程度、迫真に行っているかよりも調和というものが重要だと学ばされたものがありまして、いっけん、こんなものかあ、と思いつつしかし華美を排して法堂の情感と寺院の立地に見事に調和している事例が、場所は妙興寺、名前で行った。

 妙興寺という、いきなり愛知県一宮市の話題なのですが、有名な画家の友人が天井に描画したという法堂の幡龍図があります、こちらは優美化といえば少し滑稽のような、しかし存在感のある天井画となっていて、調和とはこういう事なのだと前に感心して。

 みょうこう、という山号は妙高ではなく妙興寺なのですけれどもイージス艦のような名前だなあと遠く拝観に行きました際に、調和というものの大切さを学んだように思う。西来院の龍も、しかし時が場面と調和させてくれるのか、と願い拝観を了としました。

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【京都幕間旅情】西来院,躑躅が美しい季節に拝観へ歩み進めた再興なった寺院庭園

2024-05-29 20:01:21 | 写真
■蘭渓道隆の世界
 百年以上にわたり拝観できなかった荒廃から再興成った寺院があるということで半分好奇心を押えつつ拝観へ歩み進めました。

 建仁寺の塔頭、ということで、しかも山内塔頭というのだから本坊とは文字通り指呼の距離にあるのですが、ちょうど躑躅が美しい季節でしたので、そういえば下志津駐屯地のツツジ祭も長いこと行っていないなあ、と少ししんみりしてしまいました次第でして。

 西来院、開基は蘭渓道隆という13世紀の建仁寺のかたによるもので、当初は清本院という小さな庵であったということですけれども、のちに短期間で荒廃することとなりまして、しかし応永年間の、西暦では1394年から1428年のころ、再興することとなります。

 道隆四世の法孫大宗が清本院を再興するさいに山号を西来院と改めたことで今の位置に。今の位置と書きましたのはやはりといいますか応仁の乱で全焼してしまい、そして再建成るも天文法華の乱でまたしても全焼、江戸時代の慶長年間以降に再建され今に至る。

 再興ではなく再建としましたのは、いまの令和時代がまさに再興の時代と言えるからでして、具体的に言えば庭園が整備されて一般公開となりましたのがまさに今年の2024年という。落慶法要が3月といいますので、第10偵察戦闘大隊と同じくらいあたらしい。

 寺院の作庭というのは、難しい。重森三鈴さんの策定などは新しいのだけれどもなにか仏教哲学との不思議な融和があって説得力があるもので、それは画家を志したあとでの挫折を出家という一段落置くとともに環俗の際に改名した出自とかかわりがあるのか。

 重森三鈴の作庭は仏教庭園に関する造詣というものが付け焼刃ではなく、それこそ枯山水庭園はもともとの意匠をいしきしつつ、自分の作品を寺院に策定するという自己満足ではなく、あくまで寺院の歴史を説得させる納得の出来というのがかんしんします。

 中根金作、20世紀に活躍した作庭の大家といえば、維持するのは大変だろうなあ特に百年二百年後、と危惧するものの世界からは日の本いちの庭園、と名高い島根県の足立美術館庭園を作庭した作庭家のかたの、お孫さんが西来院の作庭を手掛けたという。

 中根行宏と中根直紀、中根兄弟として中根庭園研究所という中根庭園の維持とともに新しい時代の造園を手掛けているとともに研究しているという。新しい時代に策定する、となりますと、寺院の意匠がそのまま策定に反映される岡垣になります。

 寺院といえば、なにしろ作家の自己満足のようなプロジェクションマッピングを夜間拝観の際にやられてしまいますのを目の当たりにしていることも多く、この点、これが寺の解釈なのか、どうしてもこういうはやり物は京都駅とか東京都庁とかでやってほしい。

 建仁寺の末寺のひとつ、あえて名前は伏せるのですが、夜間特別拝観に合わせて枯山水の白洲にスプレーで染色した事例がありまして、それもおおざっぱといいますか、素早くやらなければ構想が飛ぶということなのか、速さだけの粗い仕事の展示をみたことが。

 二度とやらないところをみますとやはり拝観者、というよりも檀家さんかなあ、評判が悪かったのでしょうか、寺院の庭園ではなく自己表現の場に選んだのがたまたま寺院であったので仏教的な言い訳を適当に考えたような展示にちょっと怒り覚えたことも。

 しかし、ここ、西来院の作庭は開山の蘭渓道隆がかつて大陸に渡り修行したという中国の峨眉山を再現するべく、なんと峨眉山から庭石を取り寄せての作庭といいますので、いまは現場の岩を持って来れるのか、と現代物流の規模の大きさに妙に感心しました。

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【京都幕間旅情】建仁寺,小泉淳作の双龍図や俵屋宗達風神雷神図複製など写真として記録できる文化財の大きな意義

2024-05-22 20:20:50 | 写真
■歴史と哲学史の分岐点
 建仁寺というのは歴史と哲学史における一つの分岐点なのだなあということがざっと調べただけでもこれほどわかるものでして。

 地球は滅亡しない、という事を日本に広めた、という説明ですとなにか大げさすぎるところではあるのですけれども末法思想とともに末法元年から何か落ち着かない日本の世情とともに、確かに平安朝末期の混乱など、武家政権の台頭などが起ってゆくのですが。

 歴史地震を俯瞰しますと末法元年ののちには、小康状態もありまして、やはり考え過ぎだ、という機運は広まっていたのかもしれません、ただ、末法の世というものは実際には恐れられていたもので、その心の虚無の空白は宗教が救いを見い出せないことで増幅されて。

 栄西さんは、ここで臨済宗の、しかしやや粗暴と云える悟りへの中国式の近道を省いて哲学的な部分を、それまで日本で習得した密教と天台宗との心の寄る辺への研究と併せた、日本式の臨済宗、そして禅宗というものを確立したことで大きな問題を解決している。

 末法思想の先に、仏教哲学が中国ではどのように広まっているかという事で、単純終末論の先に心の在り方を見つけると共に、著書を通じて、要するに言いなり外来のものを説明も無しにこれはいいものだ、とつきつけ自己満足に終わる様な事をしなかった点も功績で。

 歴史と哲学史という視座からこの建仁寺を見ますと、もちろんその伽藍は実にお菊堂々としているところなのですけれども、また一つ見え方が変わってくるところではないでしょうか。そしてもう一つ、ここは拝観者を広く歓迎している寺院と云えるのかもしれない。

 職業カメラマンはお断りという但し書きと共に動画撮影など、昨今の動画配信により利益というものに対しては然るべき手続きを求められるのですけれども、拝観者が、普通に、撮影する事については本当に間口を広く開けて迎えてくれる寺院という印象がつよいのだ。

 建仁寺は京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町、ご本尊の釈迦如来像は法堂において拝観者を迎えると共に、別に撮影禁止の注意書きもありませんと云いますか法堂の双龍図の撮影が許されていますので自動的に竜神を見守る御本尊も撮影できるということ。

 小泉淳作の双龍図は創建800年を記念して2002年に落成したものであり、それは確かに新しいのかもしれませんが堂宇に凛としてしかし確たる存在感と共に、御本尊とよく調和を考えられた見事な絵図となっていて、見上げる拝観者の姿さえも情景にとけこむほど。

 御本尊を拝むだけではなく撮影する事で、こうした価値観の共有への寄る辺となることはありがたいこの寺院、建仁寺というのは創建年である建仁2年の元号を執ったもので、そしてその年は西暦であれば1202年と八百余年の歴史を当地に湛える堂宇でもあるという。

 開山は栄西さんで開基は源頼家、その源頼朝の時代に鎌倉での布教という臨済宗と鎌倉幕府との関係もある寺院ですが、創建時には真言院と止観院という同情を並列しまして天台と真言そして禅宗の三宗並立道場という、日本に禅宗を定着させる一大拠点となる。

 俵屋宗達の風神雷神図がほうじられていた寺院としても有名であり、実物は博物館において保管保存展示されていますが、精巧なレプリカを当時その場所にあった一角に展示されていまして、こちらも撮影する事が出来ますのは写真にて風神雷神図を示しましたとおり。

 京都には数多寺院が有るのですけれども、祇園の一角は花見小路の先に在る寺院、というついでのような拝観というよりは、やはりここは日本御文化と哲学の分岐点を悪い方向に逸れさせず軟着陸させた、一つの史跡であり今を活きる寺院として拝観をおすすめします。

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【京都幕間旅情】建仁寺,臨済宗哲学観と世界観のみ記した興禅護国論の歴史的意義

2024-05-22 20:00:38 | 写真
■臨済宗とは禅宗とは
 理念や概念は紹介する事だけならば簡単なのかもしれませんが定着させるとなりますと大きな課題が突如たちはだかるものです。

 栄西さん、数多ある功績の一つの茶の文化を再度普及させたというものがありまして、いや、奈良時代に一度伝来しているものの貴人の嗜好品という以上に普及しなかったという歴史がある、だから再度普及させたというのは功績で山内にも茶葉は数多い。

 禅宗、しかし最大の功績はやはり宗教が個人や社会と政治の価値判断に影響を及ぼす時代にあって禅宗を持ち込み定着させたことにあるとおもう、その栄西さんは幼少より優秀で、久安4年こと1148年、8歳にして倶舎論、婆沙論という哲学書をを読んだとされている。

 倶舎論、婆沙論、いや小学校の頃にカントを読んだぞとかヴェーバーを読んだとか、ハーマンカーン読んで中学受験したとか反論が出そうですが、栄西さんは続いて久寿元年こと西暦では1154年に14歳をむかえたさいに比叡山は延暦寺へと出家得度しています。

 天才は最初から天才か、と思われるかもしれませんがそうではなくこの栄西さんはブレなかったということで、延暦寺につづいて、今の岡山県にある吉備安養寺、そして今は鳥取県の伯耆大山寺などで天台宗の教学と密教を学んでいまして、真言宗についてもふかく。

 最澄と空海のそくせきを辿った訳でして、仁安2年こと西暦1167年には伯耆大山寺の基好より両部灌頂を受けています。栄西の研究は龍谷大学あたりでかなりの研究が有ると聞いたのですが、末法元年から百余年を経て、やはり栄西さんが考える程のことがあったよう。

 新しい仏教をもとめ、仁安3年こと1168年4月、日本天台宗を立て直すべく、新しく台頭した武家の平氏から支援を得て南宋に留学することとなりました。ただ、この頃には南宋では禅宗が一種の流行となっていて、留学僧も玉石混交であったとつたわっています。

 南宋留学、なにしろ南宋だ、モンゴル帝国の影響により分断した宋帝国という状況があり、いっぽうで栄西さんが留学したのは天台宗の建て直しが目的なのですが、この頃はとりあえず南宋に留学すると箔がつく的な感覚で、中国語の出来ない留学僧さえすくなくない。

 日本からの留学僧は多いもののなにをしているのかわからない留学僧が只寺に入り浸って惰眠を云々、と当時の南宋の僧侶が日記に記したり、日本国内でも問題視されていた時代なのですが、栄西さんはこのなかで禅宗と天台宗の補完関係について考える訳です。

 禅宗を普及させた、ここが重要なところでして建仁寺が日本最初禅寺と大書して扁額を掲げているのは。禅宗そのものを日本に持ち込む事は簡単なのですが、天台宗と真言宗、そしてもともとの南都六宗の仏教界に両立させる事が実のところ保守的な日本では難しい。

 興禅護国論、栄西さんはこの著書を著す事で、そもそも禅宗と天台宗は同質のものである、と先ず融合を独自理論として構築しています、これが臨済宗の日本における始まりなのですが、臨済宗の中国での展開と異なり、日本における禅宗独立宣言の書ともよばれるもの。

 臨済宗とは、臨済さんが開いたから臨済宗というのですが、悟るまで師匠と弟子が殴打連発の試行錯誤を経て、いわば生みの苦しみが大きい宗派だなあ、とおもったものですが、それは中国における臨済宗であり、哲学観と世界観のみを栄西さんは日本へ持ち込んだ。

 経・律・論、既に日本にある天台宗をもとに、こころの融和性と寛容というようなものを解くことにより、鎮護国家という天台宗の目指すところが叶うとし、一つの哲学体系のようなものとして日本に紹介した事で、波を建てる事無く定着させられた、ということです。

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【京都幕間旅情】建仁寺,世界の終わりか?十二世紀は末法思想の時代に敢えて新時代の仏教を問うた明菴栄西

2024-05-15 20:20:19 | 写真
■禅宗は末法思想を超えて
 建仁寺の石庭と本坊庭園の新緑が如何にも見事であり春の到来は続く夏の到来へと進む事を確信しつつ拝観の巡行を前へ。ここは栄西さんが開いた寺院だ。

 明菴栄西、まだFateGrandOrderやドリフターズには出ていないな、と安心するのですが、実のところ日本の宗教的退廃に終止符を打ち、その宗教上の混乱が民心の混乱へと拡大する事も防いだことで日本の分断を抑止したという、一人の英雄といえる高僧なのだ。

 日本における臨済宗の開祖であり建仁寺の開山、栄西さんいついては高校日本史では、ああこのくらいを押えておけばよいのか、興禅護国論を著したということくらいまでは聞かれるか、という栄西さんですが、高校教科書でも横の歴史と繋ぐと驚くべき乱世の人です。

 末法元年、世界の終焉の始まり。末法思想はもともとひもとけばこれも仏教の変容の一つだと思う、元々仏陀が悟りを開いた際には宗教という体裁ではなく哲学のような、そういうにも悟りを開くまでの道程が司法試験や国一試験ほど明確ではないのが仏教の特性で。

 釈迦の教えが釈迦の入滅より時を経て忘れ去られ世の中が乱れる事によりこの現世を維持する事が出来なくなり世界の終焉が始まる、これが末法思想です。終末思想というのはキリスト教にもありましたが、これがいつかわからず、とりあえずミレニアムを思い浮かべ。

 欧州では999年には、それこそ終末が来るとか、神の国が近づいたという昔の森総理のような発言が公然と為され、終末トレインに乗ろうにも西武鉄道開業前ということもありますので右往左往していた時代があった、聖書には999年について何も書いていないのだが。

 仏教も変容していまして、こういうのも哲学的なものを独自解釈で広めていたものですので仏教の生まれたインド亜大陸では信仰は判りやすいヒンズー教へと転換してゆく、しかしその最中に仏僧がなんとか信仰を維持しようとヒンズーの神々を仏教に取り入れたり。

 ヒンズー教の信仰の広まりと共にインドの仏教界が示した一つの方向性が末法思想であり、これを示す事により信徒の維持を考えたのだと思う、けれども仏陀の哲学をこのように曲解する事こそも末法なのかなあと2000年を経て思ったりもするのですが、さてさて。

 仏典には末法の到来が西暦何年かは書いていない、そもそも西暦で仏典は書かれていないのですがのそもそも論はさておき、こうしますと独自の解釈を行う、信じる者は救われるのだアーメン、という感じなのかもしれませんが終末が不明というのは隔靴掻痒といえる。

 末法元年、日本では仏教と仏陀について記した“周書異記”を根拠としまして釈迦入滅を紀元前949年と解釈、これは今の歴史研究から大分ずれているのですが、神武天皇よりも前にしないと今の紀元五世紀釈迦生誕説では都合がわるいのか、そこから末法を計算する。

 釈迦の入滅から計算して西暦では1052年、当時の元号からしますと永承7年あたりがそろそろ地球が終わる末法元年ではないかと計算した。末法の到来は人々に恐れられ、貴族は寄進を続け仏僧は修行に諦観が生まれ諸人挙って盛んに経塚造営が行われたという時代だ。

 末法元年、難しいのはここで地球が終わる、と明記したのではなくそろそろここから終わりが始まるというのが1052年、終わりだよこの国、とか、終わりだよこの星、とか、終わりだよこの世界、という社会通念が、明確ではないけれども心の片隅に黒い滴を一滴、と。

 栄西さん、その大きな功績はそもそも世界が終るのではなく、仏教を最澄と空海以来の変革の無い古いままの思想哲学のままだからこそ、終わる様な末法思想が広がっていることを一種の堕落として、新しい禅宗を、持ち込むだけではない、定着させたことにあるのだ。

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【京都幕間旅情】建仁寺,最初禅寺は神の実在性が真剣に議論された中世に世界の終焉へ立ち向かった栄西の寺院

2024-05-15 20:00:05 | 写真
■建仁寺拝観日記
 新緑の季節に建仁寺を拝観に向かいますと境内には茶葉の摘み取りお断りという張り紙とともに新茶の茶葉が迎えてくれた。もうそんな季節なのだ。

 建仁寺、京都の祇園から指呼の距離にこれほどの伽藍が、と思わせる寺院です。花見小路の先にその山門が佇んでいる、とこう説明しますと完全な歓楽街ということですからさぞや混雑するだろうとは思われるところなのですけれども不思議とそれ程混雑はない。

 東山の清水寺なんかは四月の行楽日和にゆきました方の凄かったという話がありましたので、そう八坂の塔や高台寺の界隈までは散策に歩み伸ばしますが、ふとかばん屋さんとか甘味処を除いたのちに混雑と知っているところまではいかない、と引き返すところで。

 禅寺、しかしここ建仁寺は意外な程に人の入りは少なく、いやそれでも閑散という寂しさはなくただ知られていないかという程度のある程度の賑わいはあるものの、この静寂さは不思議だなあとおもう。だからといって建仁寺、素通りできないほどの歴史は湛えていて。

 八坂の塔として親しまれ、京都を描くドラマならば嗚呼ここか、もしくは、此処を抑えておけば間違いないだろうと情景の一つとして撮影される五重塔が、調べてみると建仁寺の塔頭寺院、というと驚かれるのではないだろうか、塔頭寺院をみて本山を観ていない訳で。

 最初禅寺、こうも称されるのが建仁寺で、正確には禅寺は大陸から日本に持ち込まれた際に最初に博多にて小さな庵を構えていますから最初の禅寺というのは一考の余地ある表現なのですが、それでも京都最古の禅寺であり、日本で最も初期の禅寺であるのは確かです。

 禅寺、禅宗、新しい仏教なのですが、この歴史を紐解きますと、これも一つの日本の転換点に持ち込まれた概念、哲学、といえるものでして、特に平安朝末期から鎌倉時代初期にかけての日本国内の混乱と不幸か偶然か、哲学上の分岐点が重なった時代に伝わっている。

 欧州などでは神の実在性などが真剣に議論され、きょうかいの分断が民心の分断に繋がり、此処に生まれた権力や哲学と信仰に裏打ちされた民意の空白に乗じた変動から利益を享受、いや毟り取ろうとする勢力の介在が意図して制御不能の騒擾、大戦争さえ生んだ歴史が。

 仏の実在性、日本の場合は信仰の多様性と土着宗教や信仰とともに国家神道というべき原型と伝来した仏教とは折り合っていっけん混沌のような、しかしそれでいて偶然の調和を生んでいる事が、大きな分断を避け、もしくは調和を、無理ならば離隔で共存してきた。

 信仰は科学が未発達な、いや、時間や生命という分野では素粒子学や原子物理学との角度から切り込めばよいかさえ分からぬほどの現状ですから実は科学は判らない事のほうがまだ多い事を率直に認めなければ、今でも安易な新興宗教に簒奪されかねないのですが、ね。

 科学でさえもわからない事があるという事に踏み込めない程にまだ科学と民俗学の境界線が曖昧模糊とした時代ほど信仰の有する重要性は高かった、それが中世といえるようにも。もっとも、中世以前は人が冬を超えるだけで精一杯という時代ではそれさえなかったか。

 禅宗が日本に持ち込まれた時代は、実は真剣に“世界の終焉”というものが考えられていたものでした。もちろんいまの30歳代40歳代の方には1999年のノストラダムス、的な話題はありましたけれども、科学と神秘学の境界が曖昧な時代、終焉は現実の論点でした。

 世界の終焉、といいますと大袈裟に思えるかもしれませんが末法思想という、仏教が世界から忘れ去られる事により生じる現世の遮断というものが、ちょうど平安朝末期に重なる事から、天台宗や真言宗という仏教も世界の終わりを認識していた時代であったのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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【京都幕間旅情】東寺観桜,真言宗根本道場に立体曼荼羅と一体感を持つ情景としての桜並木と観桜の情景

2024-05-09 07:00:14 | 写真
■寺院とさくら
 さくらの季節は四月中旬にはほぼほぼ閉幕しているのですがその情景は今思い返してもいとおしい。

 観桜の東寺、わたしは浅学にして当時にいつごろからここまでの桜並木が整備されたのかを知りません、いや実際拝観の際にゆっくりと春の木々を見ていますと椛もそう若葉の頃には先ず朱色を示す木々ですので桜並木だけではないと分かるのですけれども。

 禅寺を拝観してみますとあまり桜並木というものは植えられていません、金戒光明寺などは数本だけしかし三門の目の前の脇侍のように聳える桜の木々が印象的な三門ととられる情景や、そういえば三重塔もこの季節には墓地を隠すように桜は花咲くのですが。

 南禅寺も桜という印象が確かに植えられているのですけれども、数は多くなく東福寺などは幕府に要請して先ら並木を伐採して椛と変えてしまっていますし、大徳寺も、好きだったんだけどなあと思う最後の一本の桜が伐採されてしまったのはもう二十年まえ。

 東寺は密教なので桜をと説明するには密教が言うほど桜咲くところなのだろうかと思ってしまうのですが、昨今漸く色々読み物で学ぶようになりまして、考えれば当時に桜並木があるのは空海さんの影響なのだなあと、気づくようにはなりました。

 弘法大師空海、桓武天皇からここ東寺を託された。桓武天皇が空海と最澄を信頼していたというのは、これ歴史を見れば南都六宗の影響が強くなりすぎた故に平城京を廃都としたうえで長岡京に遷都した歴史があるのですが、官寺以外を平安京は認めない。

 東寺と西寺は、南都六宗の影響を隔てているものの国家宗教に当たる寄る辺を省くほど科学が振興していない時代故に必要な施策であったのでしょうけれども、此処に密教を入れたことは南都六宗への牽制と共に天台宗の影響をある程度分けたい背景があったか。

 空海さんはここに真言宗根本道場を開いたわけですが、ここで重視したのは高層建築物でも堂宇の広さでもなく、立体曼荼羅、密教の世界観の具現化です。空海さんは唐の蒼龍寺で灌頂を受けているのですが相当な努力と才能が有った故といえるもの。

 立体曼荼羅、空海さんは全国行脚とともに厳しい修行を経て、なにしろ富士山噴火の溶岩流さえ出会っているほど、修行の先に瞑想といいますか幻想といいますが経典に示された立体曼荼羅をある程度認識として共有できるほどに見えていたのだとおもう。

 大日如来を中心とする世界観、しかしこれを自分のような修行を経ていては日常生活と両立できないし、両立できないものだけでは国家運営は成り立たないという認識があったからこそ、立体曼荼羅、映画もCGもiPhoneもない時代に見られるようにした。

 桜並木というのは、講堂の堂宇に立体曼荼羅が二十一の仏像群とともに具現化されていて極楽浄土を醸すわかりやすい仏教観を示しているゆえに、仏教の極楽浄土の様な景観を、桜並木により、こちらも具現化したのだろうなあ、と考えるところでして。

 立体曼荼羅と一体感を持つ情景としての桜並木と観桜の情景、まさに仏教徒は、というものをわかりやすく見せられるものが日本のこの春の景色なのだろう、こう理解してみたわけです。つまりこの東寺というのは修行とともに、見てもらうための寺院、と。

 禅寺は修行のための寺院という事もあり、いや独立採算制を求められる政教分離で、とびぬけた資産家の少ない平等主義の日本においては拝観料収入というものが必要なのですけれども、なかなか観桜の名所足り得ないのでしょうが、東寺は、こうなのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】東寺観桜,無理な左右対称省いた平安京造営は多様性と日本の自我その基点と包むさくら

2024-05-08 20:21:44 | 写真
■その個性長所悪癖すべて
 歴史と共に散策するというのはたのしいものです。

 京都には今の日本の成り立ちの背景となるものが幾つも存在している、それは価値観であったり文化観であったり制度の下となった習慣であったり。そして自分の依拠した文化や価値観というものは第三者の視点で客観的に見ることはじつのところ難しい。

 会議会議で日本の場合はトヨタなど幾つかの先進的な試みの企業を除けば会議が業務時間を圧迫するけれども会議を経なければ業務の具体性が確定できないために上限知らずの会議を続けている、しかしこれは責任を分散させる室町幕府の制度の延長といえて。

 前例踏襲主義というものは日本の国是のようなものですけれども、御霊信仰のような例外的なことを行った場合を実は直接の原因ではないもののほかに責任転嫁できない故に特定の対象に原因を当てつける結果と原因を曖昧化させた歴史の名残ともいえます。

 減点主義であり成果を伸ばすことを第一とする加点主義を採用できない事は過去の天平天然痘を経て島国でもあるにもかかわらず農耕民族で極端な地域主義となった為に一度の失敗を取り戻せないという価値観が数十世代積み重ねて醸成したものといえる。

 しかしこれも積み重ねがあっての物であり、東寺が造営された時代というのはまだ日本自身が、自分たちが何者なのか、ニッポンジンという概念を定着させることができなかった時代でもありまして、ここに大陸を模倣した平安京建設というものも含まれた。

 東寺と西寺の造営、しかし地形がそもそも広い平野部が限られ今の大阪平野さえ適地には見えるものの当時は湿地帯で建物を建てられる場所が限られ、火山性地形故に峻険な山間部からは活断層に割れ目に沿って不規則に大河が構成され水害も数多い。

 密教が間に合った背景には洪水多発地帯に近い西寺の方に資材を集中していたという背景がありますが、しかし結果、水害というのは毎年同じように降ることで起きるものではないし、秦氏による治水事業の成功という背景も含めるべきだろう、西寺が進む。

 空海に任された。当時の造営には武士の英雄と言われる坂上田村麻呂も造営官を命じられていますが、遅れているところに細心の部教師層が入りまして、その指示の高さから一気に進められました。そして密教寺院として長らく役割を担う事となります。

 結局のところ、先ず無理な左右対称というものを省いたことが当時の歴史的な意義の一つなのかなあ、と当時はまさか千年もこの寺院が親しまれるとは考えていなかったであろうことともに思い浮かべる次第です。そしてもちろん多種多様な信仰の寄る辺にも。

 寺院が歴史を超えるには役割というものが重要でして、東寺がこう永らえた背景には真言宗が普及していった背景があります。もっとも、真言宗は先行する最澄の天台宗と、集中を防いだ政治的意図を考えてしまうのですが、併せて南都六宗への牽制も担う。

 多様性が叫ばれる現代世界ですが、一方で一つに集中させないという密教と南都六宗との概念は、結局排他的ではある日本に在って、外の文化はしかし積極的に取り入れる努力と、吟味する慎重さにより排他的すぎない文化観を醸成した事にも、なるのかなあ。

 永らえたことにより、こうして今日も当時の観桜を春の愉しみとできる訳です。散ってしまうまでは早い桜なのですけれども、京都満開宣言からはほぼほぼ一週間を隔てたのちの東寺拝観のこの順路というものは、かくも美しく彩られていましたね。

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