人類のための文明・思想・哲学・宗教・歴史・憲法

何が起きているのか

どうして起きたのか

それをどのように理解し

どのように対処するべきか

東アジアから放たれた強い光と輝き

2021-07-23 12:29:33 | 日記

香港のアグネス・チョウ 周庭 氏(24歳)は、2019年に来日し、6月10日、日本記者クラブで

会見し、6月12日、明治大学で講演した。翌13日、山本太郎氏と対談した。2020年11月、

BBCが選ぶ「今年の女性100人」に選出された。アグネス・チョウ氏は、2020年11月19日、

日本語のツイートで、「大学を卒業しました。つらい5年間でしたが、多くの人々に支えられて、香港

バプテスト大学の政治と国際関係学部を卒業することが出来ました。これからもよろしくお願いします。」

と報告した。アグネス氏は、2019年6月に香港政府の「逃亡犯条例」改正案に反対し、デモを扇動

したとして、2020年12月に禁錮10か月の実刑判決を受けた。同じ民主活動家の黄之鋒(ジョシュア

ウオン)氏は、禁錮13か月半、林朗彦(アイバン・ラム)氏は同7か月を言い渡された。アグネス氏は

着衣を7枚重ね着して、香港の冬に耐えているという消息が外部に伝えられた。しかし、このことは、

当局を激怒させ、薬物犯罪や殺人などの重大犯罪人を収容する大欖女子懲教所に身柄を12月31日まで

に移された。12人部屋に収容されていて、囚人らの衣類の洗濯係を務めている消息が外部に伝えられた。

アグネスとジョシュアの他、法難に遭われた香港人のために、本日から妙法蓮華経観世音菩薩普門品

第二十五を読誦してくださるようにとの依頼があった。それは、2021年1月27日のことであった。

そして、おそらく、一月末か二月上旬には、刑の執行停止とアグネスの保釈が決定されたのであろう。

或囚禁枷鎖 手足被杻械 念彼観音力 釋然得解脱 呪詛諸毒薬 所欲害身者 念彼観音力 還著於本人

或いは枷鎖に囚禁せられて、手足に杻械を被らんに、彼の観音の力を念ぜば、釋然として解脱することを

得ん。妙法蓮華経は嘘ではない。「何の兵法を用いるよりも法華経の兵法を用い給うべし」日蓮大聖人

香港とマカオは、西欧文明に由来する自由は過ぎたとしても妙法蓮華経が栄えれば、妙法蓮華経に由来

する1600年来の伝統の自由が戻ってくることになる。キリスト教バプテスト派はアグネスさんを見守る

だけであって、他には何も出来ない。法華経はアグネスさんをレスキューすることが出来た。未来はある。

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日本で生まれ、日本で育ち、日本を愛した Memory_Izu-Shuzenji

2019-07-17 09:15:26 | 日記

ハーバート・ノルマンがエジプトのカイロで自殺した(1957年4月4日)とする報道が

新聞に掲載され、日本の政治思想史学者である丸山真男(1914~1996)は、非常に

驚き、追悼文「ハーバート・ノルマンを悼む」を二日間に渡り、毎日新聞に掲載した。

Herbert Norman(1909~1957)ハーバート・ノルマンは、日本から届けられた映画

修禅寺物語(1955年7月12日公開)を、シネマ・オデオンで観た後、カイロの街を歩き

ナイル川通りを抜けて、建物の上から飛び降りて自殺。47歳だった。ハーバート・ノルマン

は、1909年9月1日、在日カナダ人宣教師ダニエル・ノルマン(1864~1941)を

父として、長野県軽井沢町で生まれた。ダニエル・ノルマンは、メソジスト派の宣教師として

1897年に来日し、1902年から1940年まで長野市に定住し、廃娼運動や禁酒運動に

尽力した。その後、長野県軽井沢に別荘を持ち、外国人避暑客らと共に、別荘地開発に協力

した。来日した1897年に、軽井沢合同協会(ユニオン・チャーチ)を設立し、多くの信徒

を集めた。1929年に、長野福音学校を設立し、賀川豊彦(1888~1960)を招いた

ダニエルは、農家出身だったので、農業にも詳しく、稲作以外の換金作物として、地域に

トマト栽培を紹介した。ダニエル・ノルマン邸は、現在、長野市の指定文化財として、保存

されている。母は、キャサリン・ノルマン、姉は、グレース・ノルマン。兄であるハワード

ノルマン(1905~1987)は、軽井沢で生まれ、トロント大学を卒業し、アメリカの

ユニオン神学校で神学を修め、1932年に、父の跡を継ぐために来日し、1939年に、

神戸市のカナディアンアカデミーの施設長に就任したが、太平洋戦争が勃発し、カナダ人に

帰国した。戦争後の1947年に再来日し、関西学院大学文学部英文科の教授に就任した。

1952年に神学部の教授に就任。1961年に再び、来日し、長野県塩尻市に塩尻アイ

オナ教会を設立し、妻グエンと共に、日本におけるカナダ・メソジスト派の宣教の歴史を

まとめた著作を出版した。その他、芥川龍之介の作品の英語訳を著した。弟のハーバート

ノルマンは、15歳まで日本で暮らした。その後、父が卒業したトロント大学に入学し、

1933年にケンブリッジ大学で歴史学(中国史・日本史)を研究し、1935年に同大学

を卒業した。それから、ハーバード大学に入学し、1939年に同大学を卒業した。軽井沢

の教会で両親同士が知り合いだったエドウィン・ライシャワー(1910~1990)の元

で日本史を研究し、「社会主義者」を自称したハーバード大学講師の都留重人(1912~

2006)と親交を結んだ。大学を卒業した後、カナダ外務省に入省し、1940年に東京

の公使館に語学官として赴任した。公務を勤める傍ら、東京帝国大学を頻繁に訪ねて、近代

日本史の研究に没頭し、羽生五郎(1901~1983)に師事し、明治維新について学んだ

丸山真男と親交を結んだのもこの頃である。1941年12月、日本は太平洋戦争に突入し、

ハーバート・ノルマンは、日本政府により、軽井沢で軟禁状態に置かれたが、翌年、日米間

で行われた交換船でカナダに帰国した。第二次世界大戦後の1945年9月、アメリカ合衆国

政府の要請を受けて、カナダ外務省から、GHQ の対敵諜報部調査分析課長として出向し、同

年の1945年9月27日付けで、GHQ 側の日本語通訳として、昭和天皇との交渉に当たっ

た。政財界・言論界から20万人以上を公職追放した民生局次長チャールズ・L・ケーディス

の右腕として活躍した他、戦争犯罪人容疑者調査を担当し、当初は戦争犯罪人に指名されない

と見られていた近衛文麿(1891~1945)と木戸幸一(1889~1977)をA 級

戦犯と認定し、起訴する為に「戦争責任に関する覚書」を作成した。近衛に対して逮捕令状

が出されたのは1945年12月6日、近衛は出頭日の同年12月16日に自ら命を絶った。

国際連合軍占領下の日本の民主化計画を推進し、日本研究の学者として、安藤昌益(しょうえ

き)(1703~1762)を再評価する論文を発表した。その後、第二次大戦後の冷戦下

にあって、Red Purge 赤狩り旋風が吹き荒れる中、ハーバート・ノルマンは、共産主義者

であり、ソビエトのスパイではないかとの疑惑が浮上し、合衆国政府の圧力を受けたカナダ

政府が数回に渡って審問をおこなった。1951年9月、サンフランシスコ対日講和会議の

カナダ代表主席随員に就任。アメリカ合衆国政府の圧力から逃れさせるべく、1953年に

駐ニュージーランド高等弁務官に任命され、1956年には、駐エジプト兼レバノン大使に

任命され、同年に起きたスエズ動乱では、現地の平和維持と監視の為の国連緊急軍導入に寄与

し、高い評価を得たが、都留重人を取り調べた FBI 捜査官による合衆国上院における証言に

よって、再度、ハーバート・ノルマンは、共産主義者であり、ソビエトのスパイであるとの

疑いを持たれ、追い詰められて、カイロで自殺した。カナダ外務省は一貫して、ノルマンの

スパイ説を否定し、功績を称えて、2001年5月29日に、在日カナダ大使館の図書館を

E.H.ノルマン図書館と命名した。ハーバート・ノルマンが新憲法起草を指示されたのは、

1945年10月だった。ノルマンがハーバード大学の博士論文として執筆した著書「日本

における近代国家の成立」は、GHQ が日本理解のバイブルとして活用した。それは、戦前

の日本人を、人民の生活と諸権利を犠牲にし、封建的要素を色濃く残す歪んだ近代社会と指弾

する内容だった。ノルマンは、マルクス主義の憲法学者である鈴木安蔵(1904~1983

を訪ね、「今こそ、日本の民主化のために、憲法改正を実行に移す好機だ」と述べて、憲法

草案作成を働きかけた。治安維持法適用第1号の京都学連事件で検挙された鈴木安蔵は、この

ノルマンの助言を受け、天皇制廃止を主張していた元東大教授の高野岩三郎(1871~

1949)と憲法研究会を結成し、1945年12月26日に、政府の改正案より一か月早く

憲法草案要綱を発表した。GHQ は、この草案をベースにして、最終草案を策定した。その過程

でノルマンは、鈴木に質問した。

「君たちの憲法草案も天皇制を廃止とする共和制ではないが、どういうわけか」

鈴木はノルマンに答えて言った。

「今の状態では、天皇制廃止の国民的合意を得るのは難しい」

ノルマンは、鈴木に反発して言った。

「今こそ、チャンスであるのに、またしても、天皇が存在する改革案であるのか」

また、1945年10月5日、東京府中刑務所を訪問し、志賀義男(1901~1989)

と徳田球一(1894~1953)ら共産党の政治犯に GHQ 指令における釈放を告げた。

ハーバート・ノルマンは当時、アジア太平洋戦争の原因を知る唯一の人だったので狙われた

のではないか。日本では1949年から1950年にかけて、共産党員を公職から追放する

Red Purge 赤狩りが GHQ 主導のもとで、大規模に行われたが、ハーバート・ノルマンは、

共産主義者であり、ソビエトのスパイであるとの疑惑を持たれて、GHQ を背後で操る CIA

に追跡された。昭和天皇とダグラス・マッカーサーの交渉の仲立ち役を勤める通訳であり、

重要な機密を知る立場にあり、昭和天皇の戦争責任を免除とした GHQ の決定に対して自死

を以って抗議したのではないかとも推察される。追記として、安藤昌益とは、

(1703~1762)出羽の国の人。江戸時代中期の社会思想家、医者であり、封建社会

と儒学・仏教を批判し、万人が生産に従事し生活する「自然の世」を唱えたことで知られる。

結果論であるが、戦勝国は自分たちの祖国と世界人類の存続を放棄してまでも、日本の皇室の

存続を希望したのである。自分たちの祖国と世界人類の没落は甚だしくて目も当てられない。

 

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解決が可能ではない日韓歴史問題

2019-02-09 18:55:37 | 日記

2019年2月7日、大韓民国の国会議長である文喜相氏(73歳)にブルームバーグ通信が

インタビューした内容がニュースとして日本に伝えられ、日本列島の住民を震撼させた。歴史

問題を含め、最近、悪化している日韓関係を改善するために何が必要かという質問に対して、

「一言でいいのだ。日本を代表する首相か或いは、私としては、間もなく退位される天皇が

望ましいと思う。その方は、戦争犯罪の主犯の息子ではないか。そのような方が、一度おばあ

さんの手を握り、本当に申し訳なかったと一言いえば、従軍慰安婦問題は解消されるだろう」

日本では、文氏の談話を支持する人は少数であり、国が違うと、これほど違うものかと驚く。

むしろ、天皇を支持することによって、勤め先や人生の閉塞状況を打開しようとする人々の

息吹が感じられる。慰安婦問題の他、元徴用工訴訟で日本企業への賠償命令、韓国海軍艦艇

による自衛隊哨戒機に対するレーダー照射問題など、連続して起きて来ており、日本政府は、

日韓関係が極めて厳しい状況にあるとの認識を示している。国家間の歴史の修復などは極めて

簡単にやれることなのだと喝破した文喜相議長の言葉を重い言葉として心に留め置きます。

慰安婦問題については、日本政府は最終的な解決のために、2015年に韓国政府と合意し、

「当時の軍の関与の下に多数の韓国女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、係る観点

から、日本政府は責任を痛感している」と公式表明している。この表明について、文喜相議長

は、「それは、法的な謝罪だ。国家間で謝罪したりされたりすることはあるが、問題は被害者

がいることだ」と語った。慰安婦問題について、2012年に、当時の李明博大統領が天皇が

もしも韓国訪問を望むなら、日本の植民地支配に抵抗して亡くなった人々に心から謝罪する必

要があると述べ、日本の国民感情を悪化させたことがあった。日本政府としては、国家間の合

意事項を反古にして、問題を蒸し返す態度として、静観する構えだ。韓国側としては、慰安婦

問題は、実は氷山の一角でしかないのであって本心は総合的に騙されたくない思いなのである。

 

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There is a Shinto Shrine in Tokyo.

2018-10-17 10:37:35 | 日記

「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ」

「はっきり言えば、今上陛下は靖国神社をつぶそうとしているんだよ」2018年6月、

社務所の会議室で、小堀邦夫宮司(68歳)が、職員らを対象にした勉強会の席で、

このような発言を致した。2018年10月、日本の週刊誌である週刊ポスト紙が宮司の

発言をスクープし報道した。靖国神社の広報担当は、宮司の発言を事実と認め、「極めて

不穏当な言葉遣いの録音内容が外部にリークしたと説明した。テレビ局の取材に対して

小堀宮司は、「天皇陛下に参拝して頂きたいという思いがあり、内々の会議の席とはいえ、

失礼な言い方をしてしまった」と釈明した。そして、小堀宮司は、皇室の祭祀を担当する

宮内庁の掌典長に、2018年10月5日の午後、面会し、陳謝して退任の意向を伝えた。

天皇と靖国神社については、1978年に、A 級戦犯が合祀(ごうし)されて以降、昭和

天皇の参拝が途絶え、今上陛下も即位後、一度も参拝されていない。2018年2月、前任

の第15代将軍徳川慶喜のひ孫の徳川康久宮司(69歳)の発言が、「靖国神社創建の趣旨

に反し、賊軍合祀の動きを誘発した」と問題視され、徳川氏が辞任し、元伊勢神宮禰宜の

小堀氏が2018年3月1日付けで、第12代の宮司に就任したばかりだった。徳川康久氏

は、明治維新について、「文明開化という言葉があるが、明治維新前は、文明のない遅れた

国だったという認識は間違いだった。江戸時代はハイテクで、エコでもあった」「私は賊軍

や官軍ではなく、東軍・西軍と言っている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。

ただ、価値観が違って、戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗を揚げた

ことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった」と語った。徳川氏は石油会社に勤務した後、

徳川家康を祭神として祭る神社である芝東照宮に勤務していた。そして、2013年1月

19日付けで、第11代の靖国神社の宮司に就任した。徳川氏の胸の内は「明治維新という

過ち---日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト」であるのだろう。

 

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The Historical Moment - Part Ⅲ

2017-12-17 07:21:02 | 日記

2017年度のノーベル平和賞授賞式が、12月10日、ノルウェーの首都オスロで開催された。

受賞したのは、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」ICAN。授賞理由は、被爆者らと連携

し、2017年7月7日に、国連で「核兵器禁止条約」を採決させた行動が高い評価に値するとい

う理由である。ICAN の事務局長でスウェーデン人のベアトリス・フィン氏(35)の演説は力

強く、理性的で、この世の邪悪な勢力を一掃した。今日は三つの事柄、恐怖・自由・未来について

語りたいと述べ、1950年度のノーベル文学賞を受賞したウィリアム・フォークナーの受賞時の

発言を紹介した。それは、「ただ一つ残る疑問は、自分がいつ吹き飛ばされてしまうか」である。

それが核兵器であり、ウィリアム・フォークナーが感じていた恐怖はさらに危険なものとして残さ

れたと語った。核兵器による支配は、デモクラシーに対する侮辱であり、すべての国が核兵器禁止

条約に参加することを要求した。核兵器保有国に対しては、国名を挙げて、変革と全廃を促した。

William Faulkner (1897~1962) は 米国南部で暮らす人々の悲劇と克服を実験的な手法で小説化した。

アメリカよ、恐怖よりも自由を。ロシアよ、破壊よりも軍縮を。イギリスよ、圧制よりも法の支配を

フランスよ、テロの恐怖よりも人権を。中国よ、道理の通らぬことよりも道理を。インドよ、無明よ

りも分別を。パキスタンよ、ハルマゲドンよりも論理性を。イスラエルよ、抹殺よりも良識を。北朝

鮮よ、荒廃よりも英知を。それぞれ選びなさいと語った。そして、「世界のすべての人々に呼びかけ

ます。私たちとともに、政府に対して、条約に署名するように求めてください。私たちは、すべての

国の政府が理性の側に立ち、この条約に参加するまで活動し続けます。私たちの運動は、理性を求め

デモクラシーを求め、恐怖からの自由を求める活動です。ご清聴ありがとうございました」と結びの

言葉を述べて、演説を終えた。会場に拍手が起こり、それから、スタンディングオベーションととも

に、広島市出身の被爆者 Thurlow Setsuko 氏(85)が登壇した。節子さんは常々、私の体験をお

話するのは、同情を受けるためにではなく、核兵器の危険性についての警告であると発言してきた。

このスタイルは、今回の受賞演説にも色濃く反映されていた。そして、具体的に被爆時の体験を語り

始めた「合衆国が最初の原爆を広島に投下した時、私は13歳でした。私は今も鮮明にあの朝を覚え

ています。午前8時15分、私は窓の外に青みを帯びた白い閃光が見えました。それから、体が空中

に浮かぶ感覚を覚えています。私は静かな暗闇の中で、意識を取り戻しました。それから、倒壊した

建物の中に閉じ込められて身動きができませんでした。「お母さん、助けて。神様、助けて。」

クラスメイトの弱々しい泣き声が聞こえました。そして突然、私の左肩に手が触れるのを感じました

「あきらめるな!動き続けるのだ!助けてやるぞ!あの隙間のあかりが見えるか、あそこまで、でき

るだけ早く、這っていくのだ!」男の人の声が聞こえました。私が這い出た時には倒壊した建物から

は火が出ていました。建物の中にいたクラスメイトのほとんどは生きたまま焼かれ死にました。見渡

すかぎり、私のまわりは完全に破壊されていました。」そして、70年以上の長期に渡って、被爆者

は核廃絶に取り組んで来たこと、一人ひとりに名前があった。誰からか愛されていた。彼らの死は無

駄ではなかったことを確かなものにしましょうと述べ、「私が13歳の女の子の時、煙を出してくす

ぶる瓦礫の中に閉じ込められても、耐え続けました。明るい方向に向かって動き続けました。そして

生き残りました。今、私たちにとって核兵器禁止条約がともし火です。この会場にいる皆様に、世界

中でこの演説をお聞きくださっている皆様に、広島の倒壊した建物の中で聞こえた励ましの言葉を繰

り返します。『あきらめるな!動き続けるのだ!あかりが見えるか!あかりに向かって這って来なさ

い。』今夜は、松明を持ってオスロの街を行進します。核の恐怖の暗い夜から抜け出ましょう。私た

ちは、どのような障害に直面しても、動き続け、前進し続け、他の人々とこのともし火を共有し続け

ます。これは、私たちが生存するための貴重な世界についての、私たちの情熱と誓願なのです」と述

べて、演説を終えた。拍手とともに再びスタンディングオベーションが起きて、会場は、惜しみない

祝意に満ちた。会場には、広島・長崎の両市長と両市の被爆者も招待されていた。現在の世界の情勢

にあっては、核戦争を防ぐためには、核戦争に備える努力が必要であり、「アメリカが核戦力で他国

に先行されることはない」トランプ大統領の見解。「世界の安定は核兵器によるバランスによっての

み、保たれる」ロシアのぺスコフ大統領報道官の見解。などあり、これら核保有国の指導者の認識は

充分、時代遅れであると世界中の人々から認定された時、核兵器は地球上に一つもないことになる。

 

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