枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

文月・二百十日

2020年08月31日 | Weblog
 厭な気配である。何もかもごちゃ混ぜにして、最悪の事態を招きながら、肝心要には何も至らず、議員だけは続けて全うするとは次の言葉もない。せめてもの庶民への謝罪に、森加計問題と桜ははっきりさせよう。まるで長期在権が欲しかっただけの、我儘な子どものように思えてしまう。実際に政治手腕があるなら、ここまでの迷走もなく無事に任期を終える。

 心底疲れてしまった。やべぇあきれ政権との揶揄も浮かぶ。美しい日本を創るって、元から美しい日本であるのを、沖縄辺野古移設で海を埋め立て、福島の原発事故で汚染を取り除けず、災害を予測できなかったと破壊していく為体。地球は物を云わぬと思っているなら、それこそが違っている。自然に身を任せていれば、風の囁きに雲の様に或いはわかること。

 枇杷葉茶を飲んでいると体質改善する。胎内での変化は血管を太くさせ、管内の汚れを排出させていくので、肌のクスミが消えて表情が明るくなる。個人的には、その前にドクダミ茶を飲み解毒した。枇杷も出回り時には大量に買い込み、せっせと種を焼酎に漬けたり、土に植えて苗を育てた。一息いれた時には体内から老廃物が出てしまい、自分でも驚いた。

 市販の化粧品が合わず、半分は諦めていたのが変化した。ノエビア化粧品だけは別であったが、何分高価でふんだんには使えない。資生堂もカネボウも物凄いことになる。夏だけでなく平屋でも語れる有り様で、肌は鮫肌に吹き出物はたっぷり。化粧をしなければ元に戻るが、子どもの参観日等出掛けるのに…。最初は枇杷葉茶で化粧水にしてつけ、その後焼酎で。

 肌荒れは一切起きず、嘘のように腫れが引きすべすべに還った。使用している間に紙魚も雀斑も消え、艶やかな張りに驚くばかりであった。加えて、現代農業での知恵に塩を使うことを思い付き試した。うそ~っという代わりよう。そこまでにも角質は剥がれてしまい、日々の精進での努力も怠らずであり、続けることの大事さに頷くことが多大にありにんまりした。

 自然に任せるという大胆さであったが、間違いではなかったと想い、体質改善をすることや、食材の吟味と言うか、可能な限りは無農薬の物を頂くようにしている。詰りは旬の野菜や果物で充分ということで、季節感のない場所では買わない。見た目も大切ではあるが、夏にはそれなりの工夫で、冬になればそこそこの遣り方をしている。暑さにも寒さにも慣れる。

 今年は仕事を辞めてからの夏であったが、洗髪を痒みがないのを好い事に朔日にしただけだ。汚れが全く違うのは無論だが、汗をかいても臭みがないのだ。却ってそこら中に置いていたり、振り撒く臭いに気分が悪。香害だ。コロナのお陰か、あちこち出歩くことが少ないので、偶さか臭いを嗅ぐと卒倒しそうになる。洗濯物にもあって風向きでよろける案配。

 化粧品も最近は安いので間に合う。先日ハトムギの水化粧品を買ったが、分量と比べれば少し高い。千円未満の物で充分になってきた。薔薇も花弁を集めて化粧水にする。何にしてもだが体質改善してからでないと、トラブルは起きるだろう。わたくしには合ったが、そうでない方もおいでだろう。基本は、自然への祈りと感謝であれば、身体も変わっていくものと。

 昨夜は、台風が接近してくるとのことで、午後9時過ぎに外に出た。満ちゆく月と木星が燦然と輝いて観えていた。雲の多い夜間ではあったが一時宙を愛でる。真夜中は流石に雲に覆われて、どんよりとした闇になっていた。明けて今朝は、どぴか~んとした青空になっている。台風は依然として沖縄周辺らしいが、毎晩の宇宙観測に愉しみが増えてきたのもうれしい。

 この花のようになりたい想いと、祖母が殊の外愛でた華である。この花、バッタが好きなんですね。花弁を美味そうに齧る。
 
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台風の近づきに

2020年08月30日 | Weblog
 真夜中の宇宙の見事さに、このところずっと観ている。昨日よりは、台風の接近に伴うのか雲の澱みがある。流れ星も無理かな?と観あげていたら、ペルセウス座から中くらいのが流れた。あっと思う間で大きくもないが眼に留まる。AM1:10頃の事だ。火星を眺めたり、夏の大三角も西に大きく傾いたのを捉えながら中に入る。すばるは玄関先で待つ。

 で。その後は、宮部みゆきさんのあんじゅうを読み乍ら、明け方まで。新聞配達のバイクの音を聞いて眠る。従って起床したのはAM8時であった。朝食を頂きつつ、昨日から何回もかけて繋がらない電気屋に、もう一回掛けるが応答なし。DVDのリモコン操作が出来なくなったのと、湯沸かし器の水漏れが止まらない。やっと掛かってきて昼に寄るとか。

 正常な感覚の持ち主なら、自分のしでかしたことへの責任は元より、汚名を挽回するべくの手立てを考えるものではない?演説をすれば、こんな人たちには負けたくない。疑惑の説明をと問われれば、全て国民がどう受け取るかで逃げ躱す。他人事のような台詞ではないか。庶民の感情を焚きつけ真っ二つに裂いての迷走にさせる。これは言語道断・絶句。

 新聞記事にも因るのだろうが、我が家で購読しているのはまともな紙で、それ相応の分野の視点で載っている。読んでいて納得するのは無論の事だが、ここまで良くも悪くも回りが忖度してきたと呆れてしまう。頭に乗っているとしか思えない議案に、人数多数での通過は開いた口も塞がらない。即刻、議員を辞めてくれ。責任の追及を逃れる手立てはない。

 テレビを観ない理由にやらせがあるのだが、若い娘さんの亡くなった報道と、その番組の内容に不思議でならない。だって、偽証結婚みたいなことが、幾ら番組であるからと言って、直ぐにできますの?ギャラの問題やら必要性は分るが、突飛な事に思えて仕方がない。人間の欲望への、安易な方法にも考えがいってしまうのは、わたくしだけなのだろうか。

 死を選ぶにはその原因があり、誰にも相談できないことであったり、言うに云われぬ想いであるからこそ、悩み抜いての決断になるのではないか。調子の好い時には貰うことを断らず、反対に困っていても援けることには躊躇する。悪く言えば自分の命と引き換えで、相手のことを想いやれますか?生きるのもしんどいし、死ぬにも彷徨うことが多くある。

 人間の心の中には、愛がある。でもその愛には、綺麗なことばかりではない。却って残虐な想いが絡んで来ての愛もある。宮部みゆき作品を読み返しながら深い想いに馳せる。言葉で記してくれれば判ることも、感情だけでは理解し難いもので、だからこそ誤解が生じるのだ。今も昔も人間の遣っていることには大差はない。あるのは機械の介入くらいか。

 地球には、人間だけが棲むのではないと、誰しもが知っていても分かり合うには困難でもある。同じ哺乳類でも家畜となれば、昆虫や鳥類に魚類ともなれば尚更で言葉が通じない。アダムとイブがエデンの園を追われて、ノアに繋がりソロモンを経て今に至るが、人類の行いは複雑に判じていくばかりだ。素直で清らかな者は最早存在さえしていない。

 枇杷葉への袋掛けは、最初の内こそ100枚にも至らなかったが、昨今、多い時には700近く掛けることもあり。
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長期あきれ政権

2020年08月29日 | Weblog
 前回の丸投げよりは同情してくれる、という算段だろうが、自分のしたことへのきちんとした説明も無く、夫婦議員の逮捕されたことでの追求が、何時我が身に及ぶかが心配でもある。逃げるなら今だ、病気を理由にもできるという幕引きではないか。それにしても往生際の悪い事で、議員はそのままにして辞めないとかでは、庶民の心情も良くない気がする。

 新聞の評価も同じような内容で、何故今なのかという疑問が残るばかりだ。お坊ちゃまの考えと言うか、厭きて来たら辞めればいいと?そこに病気を理由にしないでほしい。庶民には病気であろうと、収入がなければ立ち行かないのよ。だから無理をしてでも精一杯やっているのを逆なでする。働けないなら何処からの収入があるんだ?行政にも頼れないです。

 弁当を作り届け、Aさんちに寄って水を分けて貰う。すばるのトイレ用の砂も、以前飼っていた猫達が居なくなったのでと沢山下さった。こちらは手ぶらでは申し訳ないのが分かっており、箱に採ったばかりの枇杷葉を持ち込む。上手く時間があったので採れたが、何時もと言うのでもないのは承知してくれる。着ている物に気を使うので変な格好が出来ない。

 先日バーゲンで買ったのを、胸元にビーズを刺して着たのが眼に止まり、似合いだと言われる。未だ暑さも残り衣類の選択にも迷う。家ではどんな格好でも平気だが、いざ外に行くとなるとそうはいかない。自宅勤務なので時間はたっぷりあるから、マスクもまた縫おう。冷房もそろそろ止めるかな?思いつつ30℃にしている。電気代も気になるのですよ。

 ここに訪れてくださる大勢の方々、記録が残っている限りは覗いていますが、専門的な用語が分からないこともあって、見たり読んだりだけしています。猫と星の話には飛びつき、つい書き込み等もしたくなります。鳥に関しては、我が家は雀の御宿で、野鳩も野鳥の類は何時も虫を啄みに来ています。枇杷葉には餌が十分にありますからね。無農薬なので。

 一昨日は曇ってしまっていましたが、昨夜というか真夜中には、降る程の星が瞬いていました。流れ星も幾つか観え、自宅での観望が可能なことを感謝しつつ。エチオピア王家、大熊・小熊、夏の大三角に天馬、獅子の巨釜と観え、火星や蠍も這っていて素晴らしい光景に見惚れます。飽くなき時間を満喫できるこれ以上の幸せはありません。祈りと感謝に。
 
 虫の集く声に水遣りも落ち着き、暑さの方も加減をしているようで、四季の変化に頷いてしまう。朝顔がフェンスに絡んで咲き競っているのも清々しい。月の姿にもやさしさが溜まっていくようで、その眼差しにときめきさえ覚える。太陽の激しさにアポロンを感じてもいた季節は過ぎていく。昨年にはそれなりの、今年は目まぐるしい時の中で想い漂う。

 夏休みは既に終わり、子ども等の学校に通う姿があるが、昨年の今頃は長かった休みにほっとしたり、宿題の残りに追われたりであっただろう。人生の中には実に様々なことが重なって行くが、何よりも嘘を吐いたり騙したりはしないでほしい。困っていれば手を差し伸べ、援け合える関係を築きたいもの。自分だけが大変なのでもないことにも気づいて。

 すばる。何度か呼んでやっと顔を向けた。こういう時には、すこぶる機嫌が悪い。猫にも自分のしたいことあり。

 
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処暑も過ぎると・・・

2020年08月28日 | Weblog
 旧暦での暮らしを続けていると、身体の方も自然への適応に添うのかも知れない。日本の四季への感謝を持てば尚よく、その年での計画にも微妙な変化を来たす。毎年、年末ぎりぎりになっての注文ではあるが、旧暦のカレンダーは必ず手元に置く。暦も年間行事等のずれもあって必要で、千円台の物を求める。天文年鑑も藤井旭さんのを買っているが重宝。

 棋士の世界も、若年層への転換期かも知れないが、以前にはここまでの大騒ぎは見られなかった。だが、史上最年少だの、記録の踏破だのも、先人のやってきた事があってこそで、努力は無論のこと、体力にも気力にも相当の苦難の路であっただろう。対戦成績にも運気の高低があったり、メディアの報道の仕方にも因る気が少なくない。何事にも限度がね。

 宮部みゆきさんの作品には、ジャンルを問わずで興味深い物が多い。個人的には時代物が好みだが、クロスファイアも、龍は眠る・魔術はささやくにも、ソロモンの偽証然りで、登場人物の想いに惹きつけられてしまう。三島屋の百物語も、人生の中に執り込まれてしまった記述に、茫然自失となってしまうことも多々ある。視えないものへの哀れに囚われて。

 弁当を配達して帰れば、すばるは爪砥ぎの容れ物に丸くなっている。お母さん、僕を放っておいて、何時も何処行くんだよと可なりのお冠である。あらっ、出掛ける時には寝てたじゃない。ふぅ~んだ、と拗ねている姿も、何故か小さかった子どもと重なって可愛い。たかだか猫だが、それでも同居人でもあるので、その喜怒哀楽に心が動いてしまうのです。

 朝夕には多少の気温低めがあるものの、日中には日陰に入りたい衝動になる。そこにマスクでの仕事となると、脱水状態は元より体調への配慮に気の毒になる。道路工事の皆さま、或いは外交関係の方々には頭が下がります。この時期には胃腸系が壊されて食欲不振になったりするので、どうぞお気をつけられますよう。夏風邪にも注意の程怠りなくです。

 駐車場の出入り口の枇杷葉が、随分と繁ってきており、一気に木丈が伸びたと枯れた葉を除く。中の枝も伐ってやらねばならないが、寒中の作業にしたい、生葉は常時採れるので、Aさんに持って行っている。冷蔵庫に入れて使うのも、鮮度と寒さが苦手なので速いのが好い。腰痛予防にもなるし、肩凝りの解消にも効くので。枇杷葉はやさしいのが好ましい。

 マスクの制作や衣類の修繕もしようと、汚れた部分にビーズを付けたり、破れて着られなくなったのを切っておく。綿の素材が付け心地はよく、曝し・手拭いの類が洗うにも良いのに気づく。絹は縫う時に滑るので難儀で、粗忽者故針をしょっちゅう当てる。それでも誰かの為になったり、贈って喜んでもらえるのはうれしいことでも。皆さん、ありがとう。

 薔薇の苗木を移植しておきたいが、時期早しで用意だけしている。枇杷葉もだが秋口から冬での移植がよいようで、挿し木にしても何時でもと言う訳にはいかない。木香バラは半日陰がいいようだ。これが幾らでも新芽を伸ばすので、繁り過ぎないようにするのも中々だ。枇杷屋敷なので、他の草木には遠慮してと呟きつつ伐っている。蜂の巣も掛けられる。

 安倍内閣破綻。これだけ好き勝手を遣り、然したる仕事もしないで、検察からの追求を逃れられない土壇場で雲隠れ。森加計への説明もせず夫婦での潔白も行わず、辞めると言いつつ在位が惜しく最長記録をしたかっただけのような気が。余りにも阿保らしく馬鹿莫迦しい結論に唖然とするが。子どもが平気で嘘をつき、大人がなりふり構わず犯罪を犯す。

 ミニキウィ。猿梨とも言います。小さな実が生って、秋口には食べれるのですが、咲いた分だけは生りません。虫に齧られる。

 
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自然を満喫できるよろこび

2020年08月27日 | Weblog
 介護の仕事を辞めて3ヶ月が来るが、精神的な緊張感や心への痛手が少なくなっている。視えることは時には援けてくれることもあるが、理解されないことの方が多く、それを説明するのももどかしく難儀でも。家に籠っての暮しが合うので、金銭的なことさえなかったら、出て行くことをしないでの収入にしたい。だが、そう簡単には立ち行かない事情でもある。

 弁当を作って届けるのも、多少は社会との繋がりを残している訳で、煩わしいことには拘りたくない。香害に息苦しく、気配に感知し、自分のことは最後にしての業務であった。これが精神的に好い筈がない。然しながら、見た目には判らないのであるから、それを訴えたり、意思表示や行動でとなると、更なる混乱を来たす。日頃の不満が一気に噴き出す結果に。

 コロナを潮時にして辞めたが、これには年齢のことや体調不良の要因も含まれていて、何かと言うと医者に罹れとの助言に閉口した。薬が注射が合わないのは、自分が悪いのであろうか?枇杷葉茶のお陰で、どうにか生きている現状の理解に乏しいのも、説明する気にもならない。精神的に追い詰められて、躁鬱状態に陥るが、肝心な時には誰も手は差し出さない。

 我が身を守るのは自分しかない。でもそれは大人の場合だったり、権力や財力での差にも因る。テレビを観ない理由に、メディアの煽りややらせを考えてしまうので、信用はしたことがない。皆が観るから面白半分に遣っている気が消えない。総理の体調どころか、税金を無駄に使ってのマスク配布も、全くの役立たずじゃない。あの金があれば生活出来る人も居る。

 言葉の暴力も武器に因る制圧も良くない。何を於いても諍いは止めましょう。政府の遣っていることは、無茶苦茶、支離滅裂です。福島の除染問題も依然として出来ないまま、解除するとはどういうことから?オリンピックは庶民が挙って楽しめないと、無駄使いに終わります。今困窮している、生活の厳しい人に援助するのが先でしょう?長期在位がどうなの。

 差別は、どういった種類のことでも状況でも、一人歩きし始めると収まりがつきません。噂に踊らされることなく、自分がそうであったならと考えて行動したい。優越感や自分の方がという思い上がりから、相手を見下したりするのです。自由で平等等何処にもありませんよ。優しさにも多々あって、自分に対してだけなら直ぐにばれます。天の岩戸に隠れよう。

 天の川も、午前になると綺麗さが増してきて、北の宇宙には見事な星座が輝く。その頃には夏の大三角は西に傾いており、エチオピア王家の面々に、獅子座の巨釜が口を開ける。火星の煌きに眼を奪われ、天空に射す無窮の針に、女人の嫉妬や、親の子に対する想いの深さに心がとぶ。星を眺められる究極の幸せを感謝し、明日への命を祈るばかり。皆が平和で…。

 毎晩、外に出て観ていると、天の移り変わりにも気づくことがある。農事では、必ず星の動きや月の様子に注意しており、明日の天気の予測は大切な事だった。星が降るように瞬くのも然り、月に笠が懸かるのも、長期予報に繋がっていった。自然を敬い畏れ、作物を採らせてと願う者に、その糧を与えてくださった。権力者は何もせず、権力をちらつかせた。

 グリーン・アイスという名前だったか?ミニばらですが、白い色が緑になってくるので買った。今は、あまり咲かない。
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こと座・おうし座・白鳥座、上弦・小潮

2020年08月26日 | Weblog
 危ぶまれた天気ではあるものの、夕食後の展望では3つ程が流れてくれ、花火に高じたり足湯や手当てにお喋りと過し、夜半の宇宙を観上げること暫し。あらあらと言う間に流れたではないか。訪問者は寝転がっての観望。先ずは、カシオペア座を教え、ペガサス座と大熊座・小熊座を指し観ていた。天の川を白鳥が飛び、牽牛星と淑女星も出遭えてよかった。

 銀河鉄道が音も無く走り、乗客も大勢が視える。コロナでの思いもかけない展開になり、今年の列車は満員でもある。星を眺められる幸せを想い、この一時を神に感謝する。流れ星も意外にたくさん観えた。来客もご満悦の様子であった。痕の残るのや火球は飛ばなかったが、生かされていることへの祈りを忘れまい。滅多とない宇宙との遭遇でもあるのです。

 今朝は、明け方まで手当てをしていたが、AM7時前には起きており、外のバケツに入れていた花火を片付けたり、来客が起きぬ前にと新聞を読む。珈琲も淹れて枇杷葉茶を沸かしておく。眠っているのを起せずだったが、9時頃にあはようと挨拶が。その後パンを焼き食べている間に蒲団を上げ、外に干したりシーツを片付ける。洗濯機もフル回転に回る。

 送って行って後は、シーツを洗ったりで多忙になる。枇杷葉も見周っておこうと葉を見れば、孵化した幼虫が蠢いているので捕獲した。卵も産み付けていたのを見つける。気づけば既に昼が近い。すばるは出窓の処で寛いでおり、餌で満腹しての居眠りである。二度目の珈琲は豆を挽いて淹れて、ブログ更新をしている。次回は月と火星に加え狩人座流星群。

 文庫を読み始めたら眠気が襲う。睡魔には勝てる筈もなく、お手上げ状態でなすがまま。気づけば夕刻の陽射しになっており、洗濯物を取り込む。風もありふかふかの乾きに満足する。すばるが来訪者に慣れて来ていたとはいえ、泊まる事態に大慌てをしていた。今は、背中向かいに寝そべっている。そう言えば、夜半になっても居るのに不安を募らせて。

 個人的には、星座観測を目的とする方々に賛同しているが、趣味の域を脱してのことになると、変わっているのかと疑うこともある。然し、自然への畏怖を忘れる者であれば、流れ星を眼にすることも少ないだろう。昨今は下を見ても一円玉さえ落ちていないから、天を観た方が未知数は増すことも有る。まあ、事故との遭遇には充分な注意を要するが。

 わたくしの場合には、宇宙はアンテナの張り方で不思議な経験をし、それらが枇杷葉との拘わりに繋がるからで、天文学の数値如何ではなく、エネルギー源となるからだ。視えないものが分かるのも、或いはそうした力をもらえる根本かも知れないのかも。科学的な根拠もなく、数値での表記には至らないものの、わかるというか感知・感応してしまう。

 そういったことで、枇杷葉を媒体として手当てを行えるのだが、身体中から発するオーラに包まれて、病が治って来るのかも知れない。わたくしの持つ力を信じることの、相手のオーラにも由るが病も癒える。以前には無償でやっていたが、それを否定されることも多々あり、ここ暫くは行う気にもなれない。生まれて来た約束事にも使命を果たす迄は。

 漆黒の闇の中には、邪悪で邪なものや、清らかな清々しいものもいて、魑魅魍魎がうごめいている。力を宿すものの集。

 
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旧暦、七夕・小潮

2020年08月25日 | Weblog
 昨日も期待してはみたが、雨の無い割には曇っていて湿気の多い日であった。それでも青空は広がるし洗濯物も乾く。水遣りをどうするか考えながらも遣る。図書館で借りた本もあるのを、宮部みゆきさんのあやかし草子・文庫に眼がいく。この誘惑には勝てない。ハードカバーで借りて読んではいるが惹きこまれる。どうにも不思議な感覚である。魔術はささやく。

 読書には魔力があるのを呪文で振り切り、弁当の用意にかかる。肉じゃがとサラダを添え、ネタは茗荷に胡瓜と卵焼き、青紫蘇と蒲鉾とを用意した。胡瓜は昨日から切って塩を振り冷蔵庫、蒲鉾は何時もよりは高めの鯛入りで、卵は厚めに焼く。山葵がチューブしかないが仕方がない。ご飯は硬めに炊いており、酢で手を湿らせて握る。小さくなので20程にした。

 夜間の天気が気になるが、何とか天の川が観えはしないかと望む。一年に一度の逢瀬も、意外と台風で渡れない年がある。志村けんさんと沢田研二さんとのコントのようには、天界では時間の経つのが地球とは違うが、何時までも歳は変わらないのだろうか?時々、宇宙を観あげては異なる展開を想うのもまた、愉しいものでもあり残酷なことかもしれないのです。

 弁当・握り鮨を作って届けると、お局さまがおいでになって、何時もお裾分けを頂いていますとのこと。そう思って多めに持参しているが、口に合うかは微妙な処ですね。本音を申せば作ることは苦手で、片付けや掃除洗濯の家事は、工夫したりで得意なのだが、食事はこれまでに散々嫌味や不味いと言われ、気力が失せてきていた。でも誰かの為と思えばやる気も。

 テイカカズラが崖に垂れ下がっていたり、木に絡まって白い雲のように咲いているが、デジカメで撮るのが至難の業である。望遠があればアングルも良く撮れそう。何しろ近づくと高いし、遠くからだと小さくなる。尤も、この時期に何が何処に咲いているか、無関心な者が多く、車なら尚更スピードを上げ追い越す。時速50kmでのんびりでは嫌がらせのようだ。

 それも沢田研二さんのCDを、ボリュームを上げて聴きながらの運転である。運転と景色を見ているのも結構気を使う。自宅では読書もしなければならず、本日は昼寝をしておいて、夕方からの来客を待つ予定だ。流れ星は観えるか未定だが、旧暦の七夕なので声をかけたもの。来客者は夜勤明けなので、帰宅後昼寝をしてのことだろう。蒲団も枕も風に当てているよ。

 枇杷葉茶の飲用には、実に様々な効果があるが、脳への血管障害を除けてくれるのは明らか。血管が次第に細くなるのを防ぎ、汚れた官を綺麗に掃除してくれる。それが分かるのは、肌のクスミが消えていくからで、艶は無論の事、紙魚や雀斑等の気になる状態が改善される。肌が白くなるのではなく、陰りがなくなり表情が冴える。身体の中から改善したいもの。

 枇杷苗がすくすくと育っているのがうれしい。年金暮らしになったので、苗を無料で分けれるが、遠くの方には取りにおいでもらうか、送料負担をお願いしたい。隔月支給であり、これが2ヶ月間の金額なのが腹立たしいのだ。働いた年間にも依るらしいが、切り詰めて遣り繰りしないと足が出る。食事の管理をきちんとしないと、腐らせるのも棄てたりもできない。

 フェンスに絡ませてのアーチを作りたかったが、何故か一年後に枯れてしまった。挿し木にしたのは小振りになって咲く。
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衝撃・今昔

2020年08月24日 | Weblog
 今時のファン心理も、有名人に対しては然したる変化はないのだ。変わって来たのは支持する人等で、アランドロンやショーンコネリー、ザ・タイガースの面々やら、橋幸夫に至り、山口百恵まで多々なる芸能人。一番ショックだったのが沢田研二さんで、清水の舞台から投げられた衝撃。誰しも一般人であるから、どんなに想いをかけても適う筈もない。

 住む世界が違うと言えばそうだし、どんな人にも好みがあるし、チャンスや運命もある気がする。唯、そういった出遭いをどんな風に構築して、生活を築くかはそれぞれに異なるだろう。芸能界に居る人も元は一般人であったろうし、見出されたかチャレンジしたかで成った結果だ。そういった事にも向き不向きがあろうし、才能の開花にも左右されよう。

 だが所詮は他人の事である。隣の芝生は青いというが、詮索しても自分のことにはならないから、それはそれでいいんじゃないの?エデプスの恋人にはなれない。自分のことを好きでいて、他人の幸せをよろこべる人にはなれるので。自由と平等の中での、様々な想いの決断に拍手したい。朝顔の澄んだ赤い色が咲き誇っている。百日紅も満開になってる。

 昼が来る前に、コンビニ・銀行と本屋・役場と出かけるが、マスクを付けると暑さが増す。明日は手巻き寿しをするので胡瓜を求め、久々にスーパーに寄った。消費税分も含む金額にため息が…、消費は底冷えと言うがレタスが350円では誰も買わないよ。胡瓜も萎びているし鮮度も悪いのだが、何も真っ直ぐでなくていいからと思う。曲がってても胡瓜。

 Aさんちに寄って水を分けて貰い帰宅する。すばるの姿が見えないと思ったら箪笥の上だった。昨夜は夜中にドンガラガッシャンと、俄かに天が荒れ狂いだして雨も湿りくらいあった。雷さまも出番が少なかったので、残りを暴れていたいのは分るが、雨が待たれているのも切実。すばるは雷に怯えて膝に丸まる。大音響の演奏にびびりつつ抱っこしていた。

 明日は、旧暦での七夕さま。この時期になると天は晴れて来るし、大気も澄み始めるが台風はどうかな?昨夜は、多少観られたものの雲が広がっていた。誰に咎められることでも無しと出ているが、宇宙を眺められる幸せに感謝する。沖縄への辺野古工事は、そこにある生態系を壊して、元に戻らない海にしてしまうの。モーリシャスも沖縄も同じです。

 地球は誰の物でもないのです。資源が見つかって儲けを得ようとするが、資金に物を言わせて買収して売りつけても、地球の怒りには想いを馳せない。環境破壊をしているのは人類であり、生活できないという状況を作っているのも人類です。命があって暮らしの営みをするのは、人間だけではありません。させて貰っていることへの感謝も忘れないで。

 すばるがまだ小さかった時、膝に飛び移るのも、下りるのも出来ないと啼いてしまう。やんちゃくちゃ坊主だがビビリ。
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憐れみ・同情でなく

2020年08月23日 | Weblog
 二十四節気 処暑 旺盛な太陽も、次第に衰え、暑熱も退く。という意で、処暑と言い、天地清く爽やかとなる。毎年、八月二十三日頃である。初秋とは言えども、梅雨時の長雨に寒さを覚え、明ければ短い夏を取り返せんとばかりの暑さ。身体がもたないうえに、コロナでのマスク着用では、何処にも行かぬのが一番と引篭もる有り様。外出も短時間にして。

 24時間テレビは嫌いだ。テレビがなく勤務も辞めたので観ることもないが、やらせは無論の事、取材して放送することに違和感を抱くのだ。平常者とは何だろう?障害を持っていることの何が問題?普通であることの何がどうなのか?そういった者は、昔から産まれていたし生きても来た。健常者がそういう人達に対して、生き難いように生活形態をしている。

 苛め・虐め。どちらも自分とは違うことを嫌っての排斥でもある。人間は等しく同じと言うが、何を以ってのことだろう。実るほど頭が下がる稲穂かな、と謂うのにも、謙虚さや慎みがあっての事、自分程素晴らしいとか偉いのだと上から目線では出来ない。やさしさはなんだろう?自分に対しての厳しさでもあり、同じ人間として、困っていれば援けの行動に。

 介護施設でのコロナ対応には、個々の症状に大きな差があって、マスクは渡しても部屋に持って行って隠したりする、挙句には水道で洗い始める方も居て、どんなに言葉を尽くしても、繰り返して装着しても無駄だった。風邪を引いとらん、病気じゃないと拒絶する。昔人間であれば尚更で、職員の気づかぬ内に、大量のマスクが消える事態になり混乱を極めた。

 職員の感染対処を幾ら厳しくしても、密着状態は避けられないし、介助が仕事内容の大幅を含むのだ。無理としか言いようがない。ああいったことが言えるのは、現場を知らないで綺麗ごとばかりでの視察だ。自分の親であれば面倒見れば良いじゃない。と憤りさえ感じてしまう。体力気力は無論の事で、精神的な自分を保つのも、並み大抵な事ではない実情がある。

 政府主体の施策での介護保険導入にも、個人の意思の尊重をしてであって欲しかった。住所がなかったり、路上での生活であれば適用されない。自由で平等とは名ばかりの民主主義、椅子に座ってだけの在位を幾ら延長しても、施策の中身は何もなくでは辞めてもらいたい。働いても辛抱してもドン底からは抜け出せない。かと言って死ぬこともできないのでは。

 台風が接近している模様。湿った空気が広がっているが、雨はさっぱりなのも…。昨日、一昨昨日と雷鳴はあるものの、夕立は馬の背を分けるというのか降ってはくれない。水遣りをするものの、天水の威力には及ばず天を見上げるばかりだ。すばるのトイレを換える。飼い主が何時頃換えてくれるか、時には催促もして待っている。箱の汚れや中味を入れ換えて。

 飼い主の行動を熟知するのも、慣れてきてのことにもなるが、初対面というか知らない人や苦手な者には近づかない。一体何処に隠れるのか素早い。最近は、寝室にある衣装の向こうや箪笥の上、出窓のカーテンの端に身を伏せて動かない。今は、腹も充分になり傍で昼寝をしている。冷房の温度は29℃なので心地好いのか。夜間には30℃にして眠るが寒いよ。

 サンタ枇杷葉の近くに植えている。毎年、剪定をしているが忘れずに繁って来る。ドクダミが根元に広がっていて押され気味。
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暑さにめげず・・・

2020年08月22日 | Weblog
 暑いのは分っており、冷房も点けてはいるが低温にしての換気だ。観葉植物やすばるにとっては、温度調整が重要になってくる。日々の庭の見守りもちょっと手を抜くと、蛾の幼虫が繁殖している。枇杷葉の苗に葉が無くなっていて気付いたのだが、葉裏に茶色の卵が無数にある。何時の間に…と思うが、きっと雨に祟られた時と、うだる暑さに産み付けたのだろう。

 この数日、お酢の散布をしなければ、と思ってはいたのをだらけてしまっていた。草への除草剤さえ撒かぬのを安堵と勘違いしてもいた。雨にも注意していたのを忘れ、天気にうっかりとなってしまった。ウンカも通草に吸い付いていて、散布したら逃げて行く。バッタは動けなくなるので捕獲した。梔子が哀れに葉が消えている。無農薬の盲点を突かれてしまう。

 弁当を作り届ける。出汁巻き卵が思いの外上手くいった。熱が十分に伝わっていないと失敗するのは知っているが、何時もは手順が悪くて慌ててしまうのだ。蒟蒻も牛肉を使いすき焼き風に炒めた。アスパラガスやトマト、茄子の煮浸しも入れる。あまり文句も無くやり易い方なので、こちらの好みで作れるのも有難い。珈琲ゼリーは濃い目がいいようで再挑戦を。

 枇杷葉の苗を移植しているのが、葉を落としてしまって枯れたと思っていたのが、何と脇から小さな双葉を覗けている。これは白枇杷なので、貴重にしてやっと3年経ったものなのでほっとした。ところが今度は、動かしていない苗の方が葉枯した。比較的陽射しの当たらない場所にあるのだが、気温や諸事情で変化することに気づく。自然界はこうして交代をする。

 昨夜は、午前零時を回った時点で眺めたが、数個に留まる。期待した分があったので、そういうものだと納得する。夏の大三角が見事だったし、こと座もわし座も白鳥座も煌きを増していて、流れ星だけではない宇宙を満喫させてくれた。特に、白鳥座の十字が殊更に美しく、ギリシャ神話でのゼウスの想いに馳せていった。后のヘラも相当に美人だが嫉妬深い。

 文月になって多少の気温の変化はあるが、秋分の日までは暑さも引かぬだろう。それにしても、あちこちでのコンサート中止に、若者でなくたって失望感は大きい。無観客でやればとも言われるが、違うんだなぁ…。あの高揚感や生でこその醍醐味には遠く、かけ離れた感触の違和感に馴染めない。沢田研二さんには、ステージで遇えるからいいのよね、と呟く。

 然し、コロナの現状況を押してまでの開催をとは思えず、DVDやCDでの我慢を続けている。コロナが終息する見通しは低く、クラスターの発生に繋がって行くので、危険を冒してまでには思わない。舞台も観劇が難しいいらしく、席を開けての上演だったりしているが何とも味気ない。観てくれる人等が居てこそのお芝居だと思える。いっそシールドを付けてに。

 図書館で借りた本も読まねばとも思うのだが、樹木希林とオダギリジョーさんとの映画を観る。リリーフランキーさんの原作も読んだし、出演者の演技力にも二重丸の作品。庶民の日常って、意外とこんなものなのかも知れない。そんな素晴らしく出来の良い人間ばかりだと、社会は成り立たない気がする。どうでもいいようなことだから生きていけれるのかも。

 駐車場から南を向いた場所。ライラックの白があったが、枇杷葉が育ってきて伐った。東側に登ってきた月の姿が。
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