枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

介護に疲れる・・・

2015年02月28日 | Weblog

 高齢者の伴侶への虐待や、疲れ果てての結末に哀しくなる。何時からか、看取ることが介護に変わり、職業として成り立った。金さえ払えば、親の面倒を看なくてもよくなり、施設に入れて面会にも行かない。自分の親でありながら、他人の扱い。

 子ども達に迷惑はかけられない、と親は充てにしない。その結果、悲惨な事態に陥る。介護に疲れた、という気持ちは痛い程わかる。認知症の症状も多々あるので、気温や天気に左右される。体調の変動が激しいと、その対応に疲れ果てるのだ。

 核家族になったからだろうか?高度成長で、富裕者への待遇が高まり、低所得者への風当たりが強い現状に、加えて若者離れが拍車をかける。結婚しても子どもは産まない。個人への生活スタイルだから、とやかくは云えず、寂しい老後となる。

 生き難い世の中になりつつあって、自分を保つのは更に困難である。贅沢はしていないが、食べることは大切だ。家庭での遣り繰りに徹し、外食は控える。還暦を迎えると、素材の新鮮さと素朴な味に感謝する。自然の恩恵を戴くこと自体が歓び。

 どんな小さなことでも感謝。それ以外はあり得ない。人との繋がりや、出会いや別れにも、祈りと感謝が共にある。些細な幸せを想い、小さな喜びを祈る。思いも掛けないやさしさに触れるのも、千歳一隅の幸せだ。宇宙の摂理、森羅万象の神秘さ。

 劉邦、最終回に感無量。作者の人物描写の見事さに、物語を読めたことはあり難い。仕事を辞めたら、読み直しができるのも愉しみ。庭弄りをしつつ、友人の訪れに珈琲を淹れ語らう。季節の山菜をおかずに、食事を摂る。自然の恩恵があれば。

 はり灸さんから、お灸が届く。ポストに入る重さを考えていたら、心尽しが同封されていた。素敵なお菓子をありがとう。ちょっと飾っておいて、仕事が終わったら帰宅して、珈琲と戴きますね。歯痛と肩凝りにがっくりしていたので、元気が出てきました。

 枇杷苗も、鉢仕立てだと根が回ってしまう。地植にしたら勢いがよくなる。フェンスの外に植えるかな。

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不穏な動き・・・

2015年02月27日 | Weblog

 沖縄の辺野古周辺の珊瑚礁を、守るのが地球人の役目なのに、自然破壊してどうするのか。人間には、権利もない。殺人に値する行為だ。何を以って、問題ないと言えるのか。甚だ疑問が生じる。強引な、自然破壊を政府がするとは呆れ返る。

 人間の心に落とす影響は、計り知れない。殺人を犯していても、平気で嘯く。人間の恰好はしていても、最早違っているのに気づかないでいる。戦争へと捩じ曲げられてしまう危険。良心の呵責には囚われないのか。背筋が悪寒と戦慄を起こす。

 福島第一原発の、汚染水が漏れているのは、事故が起きた時点で、わかっていたことだ。今になってのことではない。原発の恐ろしさは隠されること。ひたすら安全、安心を持ち出しての庶民を欺く手法。詐欺、ペテンの類を、政治家は平気だ。

 目先のことにだけ、注意を促しておく。そうして気づいた時には遅い。真綿で首を絞めて、いつの間にか、息ができないように仕向けていく。人類の滅亡には、戦争が手っ取り早い。殺戮の愚かしさに誰も振り向けない。伝えるには無力な者ばかり。

 民主党が、自由民主党から分かれても、資質が変わらないのだがから、結局は同じである。政治家の人間性を疑うが、そういった者を、国会に送り出したのは、有権者なのだ。いたちごっこを繰り返しているだけ。改革は目晦ましで進歩なしだ。

 誰が悪いだの、何がどうしただの、いくら声を大にしても、根本は変わらない。平気で殺し、嘘をつき、言い逃ればかりをする。ばれれば撤回し、開き直る有様。真意は黙して語らず、死ぬ時まで持って行くとの想いは皆無。自分に優しい人ばかり。

 雨の上がった庭に、白梅が綻んでいる。梅の花が咲くと、小さな灯が、心についたように温かくなる。紅梅もいいのだが、白梅の佇まいが好ましい。早春の季節には、花の開花を心待ちにする直向きさがある。金星の輝、木星、月の光が眩しい。

 長崎茂木の枇杷葉に、絡みついたメロン。意外と美味しく、たくさん生った。枇杷葉に登らせたのがよかった?

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睦月・上弦、春雨

2015年02月26日 | Weblog

 連載中の劉邦が、この末に終わる。これまでだと、項羽の方に気持ちがあったが、歴史を知ると供に、着眼点の違いに引き込まれてしまった。内容は、項羽と劉邦の戦いで、その方法や、人の生かし方に驚嘆してしまう。天空の舟で填まった。

 友人が、我が家の本棚から読んでいる書籍は、その殆んどがもらった本。或いは、直接お逢いして、サインを入れてもらった。それだけに想いも深く、情景が鮮明になる。児童書は、某きり番を踏んだりの記念品や、出版社からの直送本も。

 送られた書籍を手にした瞬間の、小躍りしたくなる気持ちは例えようもない。えっ!と言う驚きと、ときめき。封を切って取り出す時の満足感。誰に限らず、手紙を添えてくれており、1冊の本にも愛しさを想う。傷まないよう読み、本棚に飾る。

 様々な、色々な幸せがあるのだが、本と草花に囲まれた暮らしは、一番贅沢で心が豊かになる。送ってくださる気持ちは、殊更ありがたくもったいない。それにしても、貸している書籍の返却が、既に何年も経過しているのもあり、残念である。

 兄妹でも、勝手に持って帰って、そのままという持ち去りをされ、催促すれば廃品回収に出したと言う。罰当たりである。こちらがどのような思いで買っていたかなど、到底考えたこともないだろう。当時の価格と現在では違うが、返してほしい。

 最近の子ども等は不幸だと思う。金のかかる物でしか、連携が取れないのだから。仲間に入れてもらえない悲劇。親友の押し売り。本の世界には、非現実的なものではあったが、誰も傷つけなかった。物語の素晴しさは、人格形成に繋がる。

 買う時には、名前が付いているのを、植えてしまうとうっかりしてしまう。以前は、毎年咲かせたが、この頃はさっぱり・・・

 

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旧七草

2015年02月25日 | Weblog

 七草に、陽気が加わり、近辺までの散策に行く。紅梅、白梅が綻び、香っている。白梅の清楚さに、心が洗われる。八重や枝垂れもあるが、一重の白が佳い。早春のやわらかな陽射しに、凛として咲く。我が家のは、未だ硬い蕾だ。

 ここ2・3日は、穏やかな天気で、風も緩やかである。寒さが和らいでのことに、空気の旨さを満喫。徒歩であったり、車椅子だったりするが、気分転換になるかと出かける。おおいぬのふぐりが咲き、仏の座が見える。七草も然りだ。

 季節を先取りしなくても、その時期が来れば、自然と花は咲く。いつ頃からか、早く、速くと急かしてしまう。何をするのも早ければいい、という時節には、疑問が湧く。旧暦はそれからして、時が止まったような感覚だ。季節は違わず廻。

 来月は、有給を使って、仕事を加減した。働き詰めに疲れが溜まり、精神的な負担も多い。歯痛はましになったが、ズキンとした痛みがあったり、耳鳴りがする。肩凝りが依然として残っている。灸を据えるのには、孫の手を借りたい。

 来月は、年度末でもあるので、更新にも行かなければならない。体調不良の原因はわかっているが、家でじっとはして居られない。収入の当てがなければ、暮らしは成り立たない。他国の援助より、自国の民を救えないものなのか。

 暖かくなったら、牧野富太郎博士の記念館に行ってみたい。友人との珍道中が愉しみでもある。長島愛生園にも出かけたい。砂の器の舞台となった、蒲田は東京だが、今以って尚、差別の根は消えていない。知っておくのも大切。

 春の飛鳥にも行ってみたいが、友人とは趣が異なるので、単独での行動になる。徒歩か自転車になるだろうが、じっくりとであれば、1ヶ月はかかりそう。足の向くまま、気の向くままがいい。古代の面影は見当たらないそうだが・・・。

 初秋の枇杷葉。葉の中心に硬い苞が現われる。これが徐々に大きくなって、花芽になり、開花して結実する。

 

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黄砂飛ぶ・・・

2015年02月24日 | Weblog

 霞がかかっているような空に、午前中に友人が訪れ、珈琲1杯で退散。何でも、孫連れであるためだそう。その後、図書館に寄り、返却と貸し出しをする。佐渡伝説と日蓮伝説を借りる。カレーの用意をし煮込み、蛤に塩を入れてストーブにかけておく。焼塩。

 佐渡伝説・・・を紐解き読み出し、冒頭の内容に戦慄を覚える。そうだ。この話を知っている。でも、誰に聴いたのかは、判然と思い出せない。賽の河原に居たことはなかったか・・・あの不思議な光景の向うに居るのは祖母?来てはいけない、手の平で示す。 

 そこで眼が覚める。時計を見ると、真夜中。草木も眠る丑三つ時のことが多い。金縛りで体が動けなく、形容し難い物が、其処にいるのがわかる。余りの恐怖に声も出ない。変わりに冷や汗がびっしょり出ている。そういう体験をすること自体が不可解である。

 孫が、音読をすると言うので聴く。初雪の降る日・安房直子に、えっと声が出る。全集にあっただろうか?彼女の作品は、単品と全集で持っているが、はて?孫は気を利かせて全部読んでくれた。あっちとこっちの世界を描かせれば、右に出る者のいない作家。

 井上靖のしろばんばを思わせるような、幻想的な話にしている。彼女の得意とするところだ。亡くなって随分と経つが、惜しい作家だった。下手に言葉を飾り過ぎず、不思議な世界を創り出せる、数少ない児童作家。ねこじゃらしの野原、天の鹿、きつねの窓。

 最近の読み物には、過剰な書き方が多く、読んでいてげんなりする。花におをつけ、やたらと子どもに、あげるを連発する。お花にお水を上げるなど、絶句以外の何物でもない。然し、それを新聞を初めとして、良識のある大人、文学作家がしていて呆れる。

 花に水を遣る。或いは、子どもには物を与えるが正しい。酷いのは、猫や犬にあげる表現に、二の句が告げれない。これで、挨拶がきちんとでき、秩序や法を守っているなら納得。何様なの?の馬鹿莫迦しいタレントも多い。従って、どのチャンネルも観ない。

 四季咲きの銀木犀。買った当時は、確かに季節の初めには咲いていたが、そこはやはり秋口しか咲かない。

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月と金星・火星

2015年02月23日 | Weblog

 曇りだが、雨ではないのでほっとする。Aさん家にお邪魔をし、丁度よい刻限に帰路に着く。天空には、細い月がかかり、金星と火星が・・・。誰も車を停めてまで、宇宙を見上げる者はいないいし、況してや撮影など一人もいない。ああもったいない。

 勤務先も、建物の中は汗ばむ。暖房は要らず、窓も開けていたい気分だ。一気に春めいて、少し戸惑ってしまう。梅の開花に心が弾む。全国各地での、梅祭りが開催され、馥郁とした香りに満たされる。奈良の月ヶ瀬梅峡に、再度行ってみたい。

 京都の北の天満宮、大宰府、菅公を祭っている有名な場所。菅原道真公は、右大臣でもあったが、左遷されてしまった。勉学の神さまでもあり、男児の誕生には、女児の市松人形と並べて飾られた。それだけでは頭脳明晰にはなれないことだが。

 個人喫茶は大流行。殆んど、ボランテェアの喫茶なのであるが、淹れてと言われれば、拒めない。人数分や、好みもあるので、結構気を使う。美味しくなくてもそうとは言わないだろうが、心を込めて湯を注いで淹れる。相手に期待はしないでおこう。

 明日は、正午に歯医者の予約が入っている。友人に連絡して、午前中に来てくれるよう頼む。友人も、豆を挽いての珈琲に、ご満悦の様子だ。然し、遠出には運転しない主義。神戸に車での往復には、疲労感が伴う。食事に行くなら付き合う知人。

 尤も、休みが同じでなければ行けない。横浜に行きたいところだが、近場は神戸。リエさんと食べた小籠包が忘れられなく・・・。道中には、有馬温泉があり寄ってこよう。基本的には、目的をはっきりさせ、無事に行ってきたいもの。で・何時行くのよ。

 リエさんに次回逢ッた時には、第五福竜丸の展示館を予定している。蒟蒻閻魔や回向院にも足を延ばしたい。隅田川の川下りもしてみたい。雨具の用意をして出かけよう。その時には、はり灸さんにも寄りたい。治療に専念できるのがいいなぁ・・・。

 駐車場の南に向っての、出入り口に植えてある。何年経ったかな?長崎茂木の下には、kazu君の枇杷葉も。

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水温む雨の一日に

2015年02月22日 | Weblog

 音もなく降る雨に、夕方の宇宙への期待が薄れる。月と金星と火星の接近を、楽しみにしていたのが、生憎の雨模様でがっかり。明日の天気を見れば、黄砂が飛来するとかで、出鼻を挫く予報である。金星の光度は上がって、-4.0等星になり、眼を惹く。

 未知との遭遇に値する、宇宙の事情には、堪えず眼を向けているが、何分にも天気に左右されるのが辛い。然し、だからこそそのチャンスを捉えたい。二十四節気も雨水となり、雨が多く見られる。自然現象を愉しむことこそ、さまざまな摂理に通じる?

 球根の類や、クリスマスローズの蕾が、一斉に開いて、狭い庭が賑やかになった。計画性もなく、植えているので花が咲くまで不安。庭に彩を見せ始めると、そこでよかった気になる。花は、何が咲いても愛らしく綺麗だ。秘密の花園のメアリーの心境です。

 首都圏では、新暦でお雛様を飾るらしい。田舎は、丁度春休みになり、その頃には桜も桃も咲く。隣市になる栽培所では、桃色の絨毯が広がり見事だ。少し高い場所からだと、眺めが佳い。最近は、農薬をかけない栽培に移りつつある。あっ・・・よだれが。

 ロイズの生チョコが、デパートに行けば買えることが分かる。まあ、ついでの用事が無い限りは出かけないが、送料のこともあり、たくさんでなくても好いのだ。依然は、万単位で買っていたが、この頃は胸焼けがする。六花亭にも厭きた。慣れは佳くないね。

 人間の驕りだろう。不便だったり、そこでしか買えない、となると欲しくなるが、ネットや通販での購入に、何時でも何処でもになると飽きる。珍しさも無い。そういった心理状態を起こさなければ、購入意欲は消える。少なくとも個人的には、マンネリ化は・・・。

 職場に、野菜を持って来てくれた方に、美味しい珈琲を淹れた。猫舌と言うので、温度を温くした。インスタントには、砂糖やミルクを入れるので、何杯も飲めない。と話す。職場で、自前の珈琲を淹れられるのも、美味しいと言ってもらえば満足。うふふ・・・

 サンタさん。無農薬の珈琲の豆は、未だ封を切っていません。外が暖かくなったら、庭で飲む予定にしています。花も咲き競う庭に出て、美味しい珈琲を戴きたいものです。蓬も新芽を出していますから、摘んで茹で、白玉団子にします。枇杷葉の下で・・・

 出窓に置いてある、観葉植物。夏の間にも動かさず、網戸にして風を通す。あちこち移動しないのがいい。

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癒しの力・・・

2015年02月21日 | Weblog

 人は誰も、自分は可愛いが、相手のことを真実大切には思えないもの。金銭的なこともあろうが、心理的には困難を生じてしまう。嘘をつくのも或いはまた、我が身可愛さの表れかもしれないとも。ついて好い嘘はある筈もないが、方便とも云う。

 図書館での新刊予約待ちに、明日香の皇子から読み始めた、内田康夫。歴史の登場人物に絡んだ、人間の哀しさに、浅見光彦の推理が鮮やかだ。最も天河伝説殺人には、お能のことが出て来て、奈良県の興福寺に通う。十数年前になるが。

 御薪能発祥の地、興福寺に措いて、観世流・金春流・宝生流・金剛流の四座に、狂言が加わる豪華さだ。初夏の夕闇に浮かぶ松明の炎に、能装束が怪しく揺れる。幽玄の世界とは、このような美しさを云うのだろう。興味は何処からでも広がる。

 物語では、獅子座も醍醐味があった。崇徳伝説殺人事件、佐保姫伝説殺人事件にも、歴史の深さを感じる。箸墓伝説にも、その意味するところを知っていなければ、事件の真相には行き着かない。歴史は趣があり、愉しいし面白い。作品も同じ。

 大人の分野も、子どもであろうと、内容的に異なるだけで、史実は忠実に書いてもらいたい。最近の子ども本の雑さが目立つ。歴史上の人物を、ゆるキャラに仕立てて親しんでいるのにどうもついていけない。莫迦なタレントが多過ぎる。自嘲気味。

 タレントと人気のなくなったアスリート。テレビに出てる暇があったら、することがあるだろう?一発芸しかできない、人真似の類。実力があり、自分の芸を磨いている者は、生き方が違うもの。努力を重ね、自分を貫くことの難しさだ。見習いたいもの。

 久々に勤務する。休んでいた期間の残骸が見えるが、黙して何も云わないでおく。自分の体のことを想い、気にしないことにする。然し、玄関の掃除はしておきたい。何方がおいでになるかわからない場所です。掃除の行き届くことを、切に願う者です。

 昨夏の、我が家の枇杷の実。小粒で、とても少なかったが、味はよく、甘酸っぱいのが特徴です。

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梅開花・・・

2015年02月20日 | Weblog

 昨日とは打って変わっての、穏やかな天気に布団を干す。どうにか2時までに、空も曇ることは無く仕舞う。庭の配置換えも済ます。クリスマスローズが開花し、華やぎが増えた。プランターをひっくり返して、土を移す。球根も芽を出してきている。

 我が家の梅は、依然として硬い蕾だが、水戸の梅祭りが始まった。奈良の二月堂の御水取りも近い。氷溶け去り、葦は角ぐむ、という歌詞に、春の足音を感じるが、未だ遠く感じる。季節が徐々に廻って、その時々の様子を見せるのが愉しみだ。

 霊魂が憑依することを、実際に体験したり、目の当たりにした者には、信じ難い思いもあろう。あの不思議な感触は、言葉では到底表せない。これまでの経験からすれば、自分の体の状態が、事実患っている人に遭うまでは、捗々しくは治らない。

 触るか、遭うかのどちらかだが、病気の部位がわかる。以前にも、そういったことがあり、枇杷葉の力を借りて治そうとしたことがある。然し、絶対に開腹しないことを約束していたのだが、如何せん、唯の民間人の云うことには、根拠も証拠もない。

 信じることの難しさを、今更のように想うが、こちらは資格もなければ、免許もない。見たり感じたりするだけでは、治せないものと判断される。リエさんには、自分の命と引き換えにする想いがなければ、援けられないとも。ナイチンゲールの心境。

 個人的には、無欲でもなければ、金が目当てでもない。また、命を自由にできるとも想ってはいない。然しながら、痛みのない時間を少しでも与え、笑顔の宿る顔にしてあげたい。枇杷葉でそれが可能なら、とも考えてしまう。神への冒瀆になるか。

 産まれたら、必ず死に向っている。その覚悟が、何時心に生じ、悟れるかは疑問だ。覚云う自分にも、そういった想いは未だないからだ。だが、何度もあそこまで往ってくると、魂の在り方を問いたくなる。何故、そういった経験をするのかは、答がない。

 友人の持って来てくれた、あけび。山女とも通草とも書く。子ども頃には、路の至る所にあって、お八つになっていた。花粉症にも効果が。

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睦月、雨水・朔・大潮

2015年02月19日 | Weblog

 雨水 冬の氷水が、陽気に溶け天に昇り、雨水となって降る、の意で、雨水と言う。毎年、二月十九日頃である。晴れているかと思えば雨が、雨かと用心すれば晴れて、空を見上げる天気になった。雪の舞うこともあるので、油断できない日々だ。

 強風である。北風なのが問題だが、これが東風なら、メリー・ポピンズに遭える。中国では春節、とも言われる旧暦の元旦。恒例の福力荒神さまに出向く。昨年と大きく変わっていたのが、出店が極端に少ない。人混みもなく、間違えたかと思う。

 友人と、境内にお参りをし、昨年の札を返し、今年の砂とお札を求める。砥石を探すが、思ったのがない。金柑の砂糖付けを買い、寿しは昼食用に、饅頭を土産にして、大判焼きを1個づつ袋に、駐車場に落ち着き、やれやれと車中で頬張った。

 往復2時間弱で、友人との凸凹コンビだが、無事に行って帰る。特に話すことも無いが、何かあった時には心強い。いえ、迷子にはなりません。往路には、綻び始めた梅が見え、風はきついものの、車中は暖かい陽射しが入る。新年、明けまして・・・

 体調も回復に向かっている。疲労困憊の原因も、これほどの休日がないと、元には還らないことに愕然とする。これが年齢を重ねる、ということなのだ。友人曰く、膝の痛みに枇杷葉の生葉を、足の裏に当てていると話す。歩き易くとても喜んでいる。

 枇杷葉の力を侮るべからずだが、やはり個人差の効果はあり、或いは、やり方や施行の時期によっても違う。初めは、体内の毒素を排出してからが好い。がん細胞に効果があるということも、強ち間違いではないが、根気と持続力を必要とします。

 何でも可んでも、医者に行けばいいというのも、どうかなとも思えるが、枇杷葉を使っての治療には、急がないこと、焦らないこと、気長に付き合うことが含まれるので、性急に治そうとされるには不向きでしょう。また、自分の体ですから長い目で。

 青空市に続く道端の木々。抜けるような空にそびえる様には、暫しの憩いが見て取れる。紅葉には未だ少し・・・

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