枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

タイムトラベラー

2011年10月31日 | Weblog

 SF界に於いて、時間旅行の物語は、光瀬龍氏の作品が面白い。『暁はただ銀色』 登場人物も、女性は美人で、聡明で、且つ勇気があり、出過ぎない。勝気な性格もいい。『百億の昼と千億の夜と』 阿修羅王は女性なのか男性なのか、はたまた中性なのか。

 今年、宮部みゆき氏の『蒲生邸事件』を読んで、その切ない程に、時間旅行者の心情に触れて、胸が締め付けられた。歴史を変えてはならぬこと。実在する人物は、殺してはいけないこと。過去の人物も、未来の人物も、現在には存在してはならないことに哀しみがあった。

 小説の中であるから、まやかしでもあるのだから、そこには事実はないのだから。と、言い聞かせてみたが、時間を翔ける。という孤独な仕事には、命と引き換えの真実もあった。これほどに重圧の任務があるのだろうか?涙が止まらなかった。

 本屋に勤めていた頃は、新刊であれば店頭に出さないで買っていた。言わず長も、不埒な店員である。パート代は本代であった。モエ、ダンスマガジン、ニュートン、天文ガイド、芸術新潮、クロワッサン、今日の料理。雑誌類も興味のある記事に依っては買い込んでいた。

 然し、増え続ける雑誌の類には、その保管場所がないことから止めた。書籍も、文庫本で我慢した。最近は、それでも置き場所がない。図書館に切り替えた。活字が読めればいいので、手垢に塗れているのは致し方ない。

 唯一、平岩弓枝氏の『御宿かわせみ』は、ハードカバーと文庫で買う。持ち運びにも、何処でも読める利点から、殆どが文庫である。児童書は頂き物が多い。ありがたいことです。地震が起きようと、津波に押し寄せられようと、本と一体です。いや、本は分身です。

 枇杷葉の緑の葉と、ちらっと覗く赤いセージ。微妙なコントラストです。

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家族であること・・・

2011年10月30日 | Weblog

 産まれてくるのは一人であるが、産んでくれる親がおり、守ってくれる人も居る。決して、自分だけで生まれてきたのではない。何れは死んで往くのには違いないが、それまでに為すべきことがある。親という立場の者に、育まれて大きくなり、自分もまた、親になる。

 縦の繋がりも、横の連結も、同じくらいに絡まって、一つの家族ができている。自分だけでの判断でなく、知恵を借りたり、悩みを打ち明けあったり、其々が尚、強い絆で結ばれていくのが家族のように思う。現代の家族は、他人のように兄妹がなり、隙あらばと狙っている。

 世の中の仕組みは、複雑に入り組み、絡んだ糸のように解けない。家族の中も、疑心暗鬼になる。相手の立場や、暮らしを思い遣ることはない。心の狭さは否めない。父母が亡くなった今、何も欲しいものはない。叱られることもなければ、優しい言葉もかけられない。

 今を大切に生きる。その何と容易く、難しいことであるか。素直になれば、心が通じ合うというに。今日という日を、精一杯に生きる。生かされていることを、感謝して暮す。粗食であっても神に祈ることを忘れない。それらを常に心がけよう。

 朝、鼻水が止まらない。背中がぞくっとした。体温は35.7℃である。体調が悪いといって休めない。日曜日なのだ。ハッと思いついて、梅ジュースをペットボトルに入れた。勤務先に持って行き、極力飲む。頭がシャキッとし、鼻水が止まった。

 夏の終りの様子。撫子、下野に挟まれて、枇杷葉苗が育っている。

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小春日和に・・・

2011年10月29日 | Weblog

 朝は肌寒かった。日中は、ちと汗が出るため、1枚脱ぐ。夕方には、カーデガンを羽織る。風もなく、穏やかな小春日和の天気に、瞼が重くなり、つい居眠りがつく。いや、寝てはおられん。休憩時に、炬燵に入ると出られなくなる。危険極まりない。

 明日の昼に、金平牛蒡をするので、手先の器用な人に手伝ってもらう。慣れたものである。瞬く間にできる。ボールに入れて灰汁を出す。献立は、親子丼。出汁を昆布と鰹ぶしで摂ろう。どうか口に合うようにできますように。

 枇杷葉温圧療法で、肩凝りや腰痛に使う時の蒟蒻は、弱火でじっくり温めます。晒し木綿に包んだ蒟蒻を、枇杷葉の上におくのですが、低温火傷の恐れがある。ハンドタオルか、手拭タオルを先に乗せておき、そこに置くようにします。

 治療患部に、生の枇杷葉、ハンドタオル、蒟蒻を温めたものを乗せていきます。蒟蒻を温める時間は20~30分で、水から沸かします。鍋は、厚みのある方がいい。大きさも深さも、蒟蒻が入ればいいのです。蒟蒻は、2個を交互に温める。

 一人でする場合には、火の元にご注意ください。水はたっぷりと、鍋に張りましょう。キッチンの近くで行なうこと。蒟蒻は温めるので、続けてしてください。そのまま放置すると黴がきます。また、体内の毒素が蒟蒻に吸い込まれるため、食用にはできません。

 腰、肩、膝、足の裏。蒟蒻を温める温度に注意して、患部に当てます。蒟蒻が冷めてしまうまで眼を閉じてリラックスします。家庭で手軽にできるのが利点です。お灸のように、痕が残らないし、痛みも痒みもありません。

 クリスマスローズ。夏から秋にかけ、葉が繁った状態。蕾は、葉茎の下から出てくる。春先から初夏まで楽しめる。

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季節の移ろい・・・

2011年10月28日 | Weblog

 晩秋の庭に、夏の名残の胡瓜が花をつけ、暖かさに実が生った。小指ほどの大きさで、陽射しを浴びている。枇杷葉も、西側のが2苞膨らんでいる。今年、初めてである。東側のは、選定したので5苞あり、毎年生る茂木枇杷は、幾つなのか数え切れない。

 桃栗3年柿8年、枇杷は9年で生り亘る。柚子の大莫迦17年。古の人は、よく見ているものだ。最近の花木には、早生りが多いが、木が傷むのも事実。本来の年数で生った方が、木は長持ちするし、実付きもいい。

 尤も、商品化をするのであれば、そうも言ってはいられないだろう。友人、知人の関係であるからそれで済む。本人の自己満足である。リエさんにも、サンタさんや、りささんにも、きっと迷惑でしかないのかもしれない。

 唯一、無農薬を盾に、おいしいでしょう?と、言われたのではたまらないもの。まあ、我が家の以外に枇杷を買って食べてくれれば、もっとうれしい。いろんな品種と種類があるから、食べ比べてほしいのもある。

 茂木、田中、房洲が一般的で赤枇杷、静岡の白枇杷は絶品。これらの品種を交配したのも出回っている。形も様々で、植えて比べるのも楽しい。我が家の周りは、枇杷葉だらけですが・・・。小さな苗まで入れると、30本ちかくあります。

 夏の名残の月。夕方の宇宙にかかる様は、なんとも言い難く、その美しさに心を魅せられる。

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紅葉狩り

2011年10月27日 | Weblog

 今年の、朝夕の気温の差で、ひょっとしたら紅葉が美しく見られるかも。と、期待する。だらけるような気温では、その彩りがぼやけてしまう。自然現象である。その恩恵を感謝して、ありのままである幸せを感謝する。

 福島第一原発の廃炉に、30年以上かかると、やっと発表した。遅いのだ。専門家でなくたって、およその見当はつくというもの。無理に誤魔化そうとするから、隠し切れなくて出る。しかもこの数字は、かなり東電に都合のいいものだろう。

 原発の本を、図書館で借りて読み、仰天した。嘘ばっかりじゃないか。よくもまあ、事実や知識がないからと、ここまで隠せたものだ。メルトダウンは、地震と津波のあった翌日に起きていたし、放射能の汚染水が、海に流れ出ているのも事実。

 また、これ以上は被害が大きくならないように、必死で食い止めていてくれる人々がいるのも事実なのだ。年間の放射被爆量が、膨大な数値になっても、下げるどころか、上げてみたりする輩がいるとは。この中に、国会議員は一人もいない。

 原発を造ってはいけない。と、停めていた科学者もいたというに、当時2基ほどの原発が、中曽根内閣時に、64基となったそうだ。甘い汁を吸っていたものだ。アメリカは、自国に造れないから、モンゴルや発達途上国に建設らしい。ロシアもそうだ。

 原爆を落とされたにも拘らず、日本も追従している。なんという愚かしさであるか。造ってはならない。売り込んではいけないのだ。人間であるのに、ある筈なのに。核兵器を輸入している。人殺しの材料を、押し付けないで!

 真夏の庭の様子。駐車場から、茂木枇杷を望む。手前には梅の木。枇杷苗が左手に5本あり、薔薇や、鉈豆が絡んでいる。南西の方角が陽射しに栄える。

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神送り・・・

2011年10月26日 | Weblog

 明日から、神さまが居なくなる。ちょっとばかしの休息らしい。依って、前の日を神送りと言うのです。神さまの居ない月を、神無月と呼びます。神様が居ないと、不便なこともあり、或いは都合のいいこともあるらしい。然し、心して暮したいものです。

 干し柿を作るのは、霜降が過ぎてからにしないと、黴が生えます。農耕時には欠かせない旧暦ですが、種を蒔くのも、収穫するのも同じで、これが基本になっています。自然のことに興味を持てば、自ずと分かってくるのです。

 カラーの球根を移植する。葉ばかり伸びて、花が咲かない。土なのか、日当たりなのかな?疑問のところだ。湿り気の多い場所に植えているのだが、花付きが悪い。そこで掘り返して、植え替えた。来夏には花が咲くかな。

 朝夕の気温の変化が大きくなってきた。室外に出るには上着がいる。洗濯物が、風にはためいている。嗽、手洗いをして、風を引かないように しよう。勤務先でやっているのは私くらい。夏も冬もありません。習慣になっているので、忘れることがない。

 建物の上にかかる月。人類が、足をつけたとは思えない。神秘的な輝きの月。

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忙しいと云わないように

2011年10月25日 | Weblog

 暗雲たる雲行き。昨夜から雨になり、今朝は曇りである。リエさんからのお手配で、サンタさんから珈琲が届きました。ありがとう明日からまた、美味しい珈琲が飲める。無農薬ですので、苦味がやさしい。風味もたまりません。お二人に感謝です。

 暑いのか、寒いのか、良く判らない天気です。こんな天気だと、心境も複雑になっていく。でもそれでは仕事ができません。林檎を食べて爽やかに!林檎は、口臭予防にもなるのですね。四分の一でいいそうですが、丸ごと食べてしまいます。これからは林檎です。

 介護の仕事は、資格は勿論必要ですが、それらを上まる心がなければ成り立ちません。技術で人は動かないとも言われました。介護される者にとっては、信頼が一番です。そこには人間としての扱いがあります。

 一人ひとりが皆、違っていて、同じ人間なのです。けれども、そういったことは自分では納得しません。自分優先です。ていねいに言葉をかけて、心を添わせてわかってくれる人も居れば、どんなに話しても通じない人も居ます。

 日々の暮らしの中で、その人がどんな生活であったのか、或いは環境や付き合いはどんなだったか。それらの全てが出る人と、出さないで我慢している人もいるでしょう。症状の度合いにもよりますが、家族の代わりはできません。

 毎日、繰り返される日常に、嫌気が差してくることあり、心が萎えてしまうようです。少しでも誰かの喜ぶ顔が見れるならいい。と、めげそうな気持ちを抱えている。笑顔ばかりはできない。でも真剣に、心が通じるように願ってもいる。

 忙しい。という言葉を言わず、使わず、どうやったらできるかを、自分の心に問いかける。相手の心に添うということは、思うのは簡単だが、中々できることではない。しようと考えたりやろうとできることでもないのだ。心技共に、自然態になれなければ。そこが難しい。

 白い百日紅。満開のときです。

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星は昴・・・夕月

2011年10月23日 | Weblog

 今夜の宇宙は、また一段と見事である。雨が降って、塵がなくなり、大気も澄んできた。観あげれば、なんという美しき星の群れであることか。けれども、趣味の範囲での観望者でしか、わざわざには星を観ることもなきか。淋しい限りである。

 山茶花の蕾が膨らんでいる。枇杷葉の花芽も、今にも綻びそうだ。朝顔が、すっかり色を失くしていながら、懸命に咲いている。季節の訪れにあわせて、薄が満開になっている。月で兎が乱舞している。慌しいことよ。

 そろそろ今月も終う。年内の月日も、二ヶ月になった。来月は神無月。ようよう気をつけねばなりません。野外の鉢を室内に取り込んだところ、一晩明けた朝、なめたくじらが畳みでのたうっておった。唐辛子が入用だ。

 クリスマスローズの苗が育っている。種から芽が出た小さな苗が、ようやっと葉を数枚つけた。数本は、移植したが失せた。店頭で買うのも安い苗で、それを育てていくのが愉しい。枇杷葉にも同じような想いがあって、大きくなるのが尚更に待たれる。

 勤務先で、書物をよく読む。と云った人が居たが、何のことはない。タイトルや、内容に聞き及んでは答えられずであった。無論作者など、知りはしない。本が好きであったりすれば、そのようなことはあり得ない。私など、作者に入れあげ、熱に浮かされたよう。

 心に残っている本は、孤宿の人。西遊記。藁1本の革命。旧暦と暮す。誘拐。ここ数年の愛読書である。最近はそれらに、原発関係が加わった。読んでも既に遅いのかも知れず、だがしかし、知らなければ尚、暗雲たる想いに駆られる。

 初秋の夕方の宇宙に、月が浮かぶ。ただただ美しい。月には兎が居る。月の女神も居る。数多なる女人の物語がある。なんと不思議な月であることか。

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遠鳴り・・・

2011年10月22日 | Weblog

 突然、ゴロゴロと鳴る。雷は既に終った筈であるのに。豪く賑やかだ。自然現象が変化している。この先、原発の再稼動をすれば、その鳴りが、やがては海の藻屑と消えさせる。福島だけではないし、日本列島に及ばず、地球全体の滅亡へと行き着くだろう。

 未来少年コナン、風の谷のナウシカ。あのアニメで、背筋が凍りついた。核の塵が、放射能が、人類に明るい未来など訪れはしないのだ。それなのに、何故、ウソをつくのだろう。とても不思議な気がする。我々は、考えたり、努力をしなくなった結果なのか。

 ともすれば、楽であり、お金さえあればできる暮らしを望み過ぎた。苦労したり、我慢したりで、他人のことを思い遣る、一手間を惜しむような心に成り下がったのか。人類は稀有な生き物なのか、それとも不可解な生物なのか。

 宮部みゆき氏の『おまえさん』、そこに登場する人物像に、自分をおっ被せてみる。おとくさんのような意気地もない。おきえのような生き様も見当たらない。その日暮らしをしている、長屋の住人には違いないが。

 そうだなぁ。江戸時代に暮らしていなければ、到底生活は見えないし、貧乏を絵に描いたようなお定まりだろう。お天道様の下で、ごちゃごちゃと言うのが落だ。寒がりだから、皸と霜焼けに文句を並べているだろう。

 仮に、枇杷葉を知ったとしても、今の情報量があるでなし、せいぜいがお茶で飲むくらいだろう。心が狭い。人付き合いも苦手だから、誰かに教えるということもない。聴いたことを鵜呑みにするくらいが関の山だ。

 枇杷の実を収穫し、撓っていた枝がようやく元の位置になった。たわわに生っていた。

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雨の降る予兆・・・

2011年10月21日 | Weblog

 昨日は、蒸せた。加えて、鳶が地上すれすれを飛んでいた。車に撥ねられはしないか。と思えるほどに、低空飛行をしていた。祖母が、湿気が多いと餌の虫が下にいくんだよ。だから明日には雨が降る。と云った。まさか、こんなにいい天気だよ。

 夕方から、ポツリポツリと落始めた。あら!まさかだわ。月が笠を被ると、雨が降った。これもちゃんと当たった。祖母が偉いのではない。自然を観察して、良く見ているから。蟻が巣穴を塞いでも雨だ。なんでもない小さなことに目を向ける。

 雨が上がると、鳶は大空をくるりと周り、高くたかく舞っている。野生の物は、自分たちの餌が何処にあるかを知っている。そうして必要な餌だけを捕る。人間は、要らなくても買い、余らせたり、腐らせたりして棄てる。ああ・もったいない。

 介護の仕事も、資格を別にすれば、そういったことに尽きるのではないか。忙しいや、見ていなかった、知らなかったなど、口を動かせるなら、体を使ってはどうだろう?背中を向けていても、心の眼が、気配があるというもの。

 病気をすると、健康であることの有難みがわかるという。いやいや、病気というのは、気を病むことだから何れの者も、何がしかの病を持ってはいると思う。だが、その殆どは自然治癒能力が働いて、知らぬ間に癒えていたりする。

 皆、大なり小なり、いろいろとある。だが、それを声高に云うてどうなる。同情か、はたまた憐れみがほしいのか、言い触らすこともあるまいて。そのことに自分で気づいているのなら何故治そうとしない。他人のせいにして、丸投げを決め込むから治らない。 

 そうだよな。自分がしてきた不摂生でも、悪いところができれば、誰かのせいにする。治るどころか更に悪くなる。あそこが痛い。ここが調子が悪い。そんな御託を並べるくらいなら、どうしたらよくなるかを考えられないか?

 人を当てにしてはいけない。医者に行くのが厭さに、枇杷葉を頼みにしているが、ここぞという頃合いもあるし、してはいけない、できないときもある。第六感がつと働く。心に語りかけてくる。その声を聴かなければ。

 夏の陽射しのベゴニア。挿し芽で、どんどん増える。蝶がやってき、蜂も飛んでくる。蜻蛉にバッタに、蟻んこもうごめく。花には、嫌いだから来ないで。とは云えないのだ。

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