100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「忘れられない」編 現地ガイド12 ミャンマー

2023年06月30日 07時54分01秒 | 忘れられない

「ミャンマー」(2013年12月4日~16日)旅行の現地ガイドは日本語ペラペラのオウマさんでした。(正確な名前はオンマータイOhn Mar Htaikさんです)彼女は日本の大学(京都)にも留学していて日本大好きのミャンマー人です。日本人と結婚したかったそうですが縁がなく当時ミャンマー人と婚約中でした。留学後もたびたび来日されております。彼女の将来の夢はアウンサンスチーさんのような政治家だそうです。(当時アウサンスーチは政界復帰直前でした。その後政界復帰、現在失脚)私が少し意外だったのは当時の大統領ティン・セインも尊敬していることでした。
写真は「水かけ祭り」のオウマさんの踊りです。 彼女の特技の一つです。パガンでの夕食時少女たちの踊りのショウがあり、そこでオウマさんが飛び入りの水かけ祭りの踊りを披露してくれました。「水かけ祭り」はミャンマー暦の元旦を祝う国民的お祭りです。タイのも有名ですね。

 
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「忘れられない」編 現地ガイド11 リヒテンシュタイン

2023年06月27日 07時53分13秒 | 忘れられない

 リヒテンシュタイン(2018年10月)での現地ガイドは日本人の谷川さんでした。リヒテンシュタイン人と結婚して20年の2児の母親でした。国籍は日本のままで母子の会話は日本語だそうです。子供さんは成年に達したとき日本か、リヒテンシュタインかのどちらかを選ばなければなりません。大坂なおみさんもまもなく決断しなければなりません。なお、今回旅行で現地人と結婚しているその他の現地ガイドに聞いてみると全て日本国籍のままという人たちでした。日本は2重国籍を認めていませんが、多重国籍を認めている国はかなりのようです。
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「忘れられない」編 現地ガイド10 中国シルクロード

2023年06月24日 07時54分38秒 | 忘れられない

中国シルクロードの旅は1998年のウルムチから北京までの敦煌を含む河西回廊など(以下「前」と略記)と、2006年のウルムチからカシュガルまでのタクラマカン砂漠縦断、天山北路、南路など(以下「後」)の2回です。なお、個々の人たちの名前、写真は差しさわりがあるといけないのでそれは省略します。
 「前」「後」通じて巧拙はありますがかなりの僻地でもすべて日本語でのガイドでした。
 面白いことに、「前」では私が確認した限りでは一人を除いてすべて共産党員であったのに対して「後」では逆に一人を除いてはすべて共産党員ではありませんでした。そのことについて「後」の人に尋ねたところ「今は党員で無くても仕事が自由にできる」という印象深い話が聞けました。
 もっと面白いことに共産党員の「前」の人たちの多くが非共産党員の人を含めて共産党批判、政治批判が激烈だったということです。
 その一人は父親が共産党員で党の指令である重要都市に移住して現在は年金生活者ですが、彼はいまの党は堕落していると言っているそうです。当人(党員)の発言「日本は国の責任者を下から選ぶが中国では上の人が選び民主的でない」も興味深かったです。この人を含めて「前」の人たちは「周恩来」を尊敬しているといった人たちが多かったです。
 これも「前」の人でしたが、あまりにも共産党批判、政治批判が強いのでそんなことを言って大丈夫かと心配して言うと「日本語の分かるやつはいないから大丈夫さ」と言っていました。
 敦煌へ向かっている時(「前」)写真のようなトラックの大群に出会いました。積荷は綿花です。これを見て現地ガイドは「この綿花はすべて軍用で民間にはいかない」と噛んで吐き捨てるように言っていたのも印象的でした。
 これに対して「後」の人たちの共産党、政治批判は控えめのようでした。しかし貧富の格差について嘆く人は多かったようです。幹部の給与はボーナス部分が多くそれには税金がかからないのが不公平だと言っている人がいました。「後」はウイグル族の多く住むところでしたが、遠慮がちにイスラーム教に対する共産党の政策について不満を述べていました。共産党員でイスラーム教徒の人がいましたが、周囲に分からないようにラマダン(イスラーム教徒の断食)をしていると話してくれました。
「後」は日本の首相が小泉→安部の時でしたが、小泉はカッコ良く好きだが、安部は嫌いだといっていたことも思い出しました。
 もう一つ。名門大学を卒業して、日本の一流大学に留学予定の若者がいました(「前」)。彼は日本でいえば昔の恩賜の時計(成績優秀者に与えられる)にあたる毛沢東のロゴのある腕時計をしていました。当時日本では毛沢東のスキャンダル本が出て評判になっていたのでその本を日本から送ってやろうかと冷やかしていました。間もなくその時計は姿を消して違った時計になっていました。
 このように当時共産党批判をしていた人たちは、今現在は?
 

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「忘れられない」編 カタコンベ 6 三田一郎氏への質問

2023年06月21日 07時52分01秒 | 忘れられない

 先月26日に「科学者はなぜ神を信じるのか」の著者三田一郎氏(素粒子物理学者、カトリック助祭)に以下のような手紙を差し出しました。6月21日現在ご返事がいただけていません。わたくしは時々このような手紙を差し出すことがあるのですが、100%ご返事をいただいてきました。今回は残念ながら今のところいただけていません。

前略
 貴著「科学者はなぜ神を信じるのか」を拝読しました。ラディカルな無神論者のわたくしも大変勉強になりました。ありがとうございました。
 少し気になるところがあったので、お尋ねします。p34「地下につくられた『カタコンベ』と呼ばれる信者の墓地を秘密の集会場として信仰を守りつづけ」これは歴史的事実に反して間違いと思います。それについてわたくしのブログ「100倍楽しむ海外旅行」の2023年5月7日、10日、13日、16日、19日に書いているのでご覧いただければ幸いです。なを、16日分についてはプリントして同封しますのでよろしくご検討をお願いしご意見を承れば幸いです。
 なお、ローマ時代の迫害の記述についても少し疑問があります。
ヨーロッパで共通の歴史認識を共有しようということで1992年に15歳から16歳を対象として欧州共通教科書「ヨーロッパの歴史」が作られました。この本はキリスト教徒迫害については以下のように記しています。
「迫害が組織的に行われたことはまれで、決して一般的現象ではなかった。キリスト教の殉教者をたたえる物語は数え切れないほどあるが、これは聖者伝作家の大げさな熱狂によるところが大きい(eager exaggeration of hagiographers」(p88)
以上2点に関してご検討をお願いし、ご見解をいただければ幸いです。

草々


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「忘れられない」編 現地ガイド ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァ

2023年06月18日 07時53分34秒 | 忘れられない

「ベラルーシ、ウクライナとモルドヴァ」2012年5月17日~31日の全行程のガイド(スルーガイド)はファティマ(仮名)さんでした。オデッサから来たという彼女に「ウクライナ人?ロシア人?」と尋ねるとアフガニスタン人と答えたのにはビックリしました。添乗員の堤さんも以前から仕事を一緒にしていたにもかかわらず知らなかったようです。彼女の父親は1979年にソビエト連邦に助けを求めた当時のアフガニスタン政府の軍人だったようです。その後事実上敗北したソ連軍は1989年にアフガニスタンから撤退します。その時ソ連邦に亡命したのが父親で彼女が2歳の時でした。多分現在はウクライナ国籍を持ち、もちろんウクライナ語もロシア語もペラペラです。そこで万一を考慮して仮名にし、写真にはモザイクを掛けました。もちろんブログに紹介すると言って了解してもらったつもりですが。
 隣の人はウクライナの首都キエフの現地ガイドのナターリアさんです。彼女はロシア人でした。家庭ではロシア語ですが、もちろんウクライナ語も解するバイリンガルです。そのキエフでの最初の観光がウクライナ民族主義運動の英雄であるシェフチェンコ(1814~61)に因んだ場所でした。この写真の背後はシェフチェンコの銅像がある広場で、正面はシェフチェンコの名前のついたシェフチェンコ記念キエフ国立大学です。この時私には何となく、違和感とガッカリ感がありました。ウクライナ民族主義の英雄を二人の外国人?に紹介してもらうことに。もちろんドナルド・キーンさんから日本文学の講義を聞くことには違和感はありませんが、しかし、この場合は偏狭ではないウクライナ人のナショナリズムによるシェフチェンコの熱い話を聞きたかったのですが


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「忘れられない」編 現地ガイド8 フランス

2023年06月15日 07時53分07秒 | 忘れられない

1997年10月7日〰21日フランス物語」というツアーに参加しました。
前々回紹介したWendyさん、前回紹介したグラスゴー以外のイギリスの現地ガイドもやさしく丁寧で感動しました。わたくしのそれまでのイギリス人に対するイメージは「冷たい」でしたがそれは間違いでした。それに比べてフランスの現地ガイドの傲慢無礼さは全く不愉快でした。
ヴェルサイユ宮殿のマリーアントワネットの寝室の前で他国の観光客の悪口言うのでわたくしは頭にきて「そんな話よりはマリーアントワネットの出産の現場にはたくさんの人が立ち会ったことなどを紹介してくださいと言いました。(女)
別のところでの現地ガイド。添乗員に英語で説明した後、いかにも小馬鹿にした発音で”understand?”(わかったか?)を繰り返しました。26年経過した今もこの不愉快な「アンーダスタンド?」の声が耳から消えません。(女)
別れ際に私に、次回はフランス語を勉強してフランスに来てくださいといったガイドもいました。(男)
ついでにガイド以外の余談話。フランスでは犬の散歩のとき糞の始末をしないようです。あちらこちらに糞が放置されたままでたびたびフンづけました。というわけでわたくしの訪れた103ヶ国ではフランスが一番:***
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「忘れられない」編 現地ガイド8 グラスゴー

2023年06月12日 07時53分42秒 | 忘れられない

 人口63万人でスコットランド最大の都市グラスゴーを訪れました。写真上は町の中心、ジョージ・スクェアです。正面の建物は市役所です。
 写真下はグラスゴー大学構内で説明をしている現地ガイドと我々です。1451年創立の名門大学です。日本からの留学生も多く「タカジアスターゼ」で有名な高峰譲吉(1854~1922)もその一人です。
 グラスゴーでの現地ガイドも温かい中年の女性でした。グラスゴー大学が創立500年記念して1951年に作られた記念門には歴代有名卒業生の名前が刻まれていました。(アダム・スミス、ジェイム・スワットなど)その前で私は“I am ghost (幽霊)of “と言いかけるとそのあとを現地ガイドが”Adam Smith “ と続けてくれました。意思が疎通したと思って嬉しくなりました。
 前回紹介したWendyと同じくイギリスの女性は気が利いて親切でやさしい人達でした。イギリスの女性と結婚したかったなぁ

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「忘れられない」編 現地ガイド7 Wendyさん

2023年06月09日 07時53分10秒 | 忘れられない

 シェイクスピアの生地ストラッドフォード・アポン・エイヴォンでの現地ガイドはWendyおばさんでした。彼女は元気で活発な愉快な人でした。ガイドも丁寧でゆっくりと説明してくれるので私でもなんだかその英語が分かったような気分になりました。そこで私は彼女に“You are windy “ といいました。そのとき私は「あなたは風のごとく元気でさわやかな人」という意味でWendy とwindy をかけていったつもりでした。彼女は”No, I am Wendy”と答えました。 “ Yes , Your name is Wendy . and you are windy “ と私が言った瞬間周囲にいた観光バスの運転手たちがいっせいに笑い出しました。英語のダジャレが通じたと思って嬉しくなりましたが、日本に帰って辞書で調べたところwindy には「風のごとく元気でさわやか」という意味は無く「ほら吹き」という俗語表現がありました。その後がいけません。英語が分かると誤解したWendy おばさんは私に盛んに話しかけてくるのです。降参! 何はともあれ私の一生に一度の英語のダジャレのお粗末談でした。
写真はダジャレの瞬間と思われるシーンを同行の人が写してくれたものです
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「忘れられない」編 現地ガイド6 山崎さん3

2023年06月06日 07時53分45秒 | 忘れられない

山崎さんの関係するユダヤ人・アラブ人の平等教育推進ためのNGO組織「ユダヤ・アラブ青少年共学共存推進日イ支援会」の機関誌「ケレン・ハオール第10号」(2009年8月)に山崎さんのエッセーが記載されていました。全文を紹介します。
「息子の入隊と平和活動の狭間で  日本の終戦記念日によせて」
私は、終戦の年1945年に旧満州(現中国東北地方)で生まれました。つまり私の人生は日本の終戦から歩み出したことになります。戦争についての知識は親から聞かされた話と歴史から知る範囲のものでした。その私が戦争を何度も通過してきたイスラエルに移住して、実際に従軍し何回か戦争を体験してきました。私のイスラエル生活は35年間にもなり、私自身も還暦を過ぎてしまっているのです。実は去る5月24日に私の三男オオレンのイスラエル軍隊入隊式が挙行されました。イスラエルは徴兵制度の国です。これで私の3人の息子たちは例外なく徴兵制度で軍隊に入隊したことになります。
過去の話になりますが、私自身も徴兵に応じて数年間軍隊生活を体験しました。あの頃「息子たちの時代は徴兵制度も緩和されて、彼等は軍隊に行かずに済めばいいなあ」と皆で願ったものですが、それは虚しい夢でした。 私の軍隊生活は数カ月の新兵訓練の後、10年間にわたり毎年30日間、予備役徴兵で厳しい軍人訓練を受けました。国の為に軍隊で行動する意味は何かを私自身の体で学びました。その当時私の場合は徴兵拒否の選択肢もありましたが、あえて徴兵に真正面から応じることにしたのです。それは私が亡き祖父、そして亡き父と続いた陸軍士官学校出の軍人家族で生まれ育ったからではなく、イスラエルという国で生きる為にはその国に敬意を表し、その国の規則に従おうと考えたからです。
軍隊生活で私は、つい最近も戦禍に見舞われた ガザの街を隅から隅までパトロールで歩いた記憶もあります。そのほかにも、現在ではパレスチナ自治政府が管理している地域のほとんどを軍のパトロールで歩き回りました。 壮絶な体験は、第一次レバノン戦争(1982.06.06ー1985.01)でチドンの南ザハラー二川キャンプに駐屯した時のことです。ここから、レバノン山間奥深く遠征しました。あの時は実際に、このまま戦死するかもしれないと感じた瞬間が何度かありました。一方、その体験があるので生きる意味を深く学び命の尊さを知ることができました。
軍隊だけではなく、実生活においても国の宗教であるユダヤ教の教えに敬意を表して、神学校にも通いました。お陰さまでユダヤ教の基礎知識も一通り学びました。日本では、幼い頃カトリックの幼稚園に通い賛美歌を習った事実も記憶しています。今でも讃美歌の歌詞もメロディーも覚えています。 小学校の頃は、明治生まれの亡き祖母と叔母のお供で金光教という宗教とも出会いました。祖母から何度も教えられた『お陰さまに感謝しなさい』の言葉は、今日でも私の信念として生きています。あの当時の亡き祖母の信仰の強さには、子供ながらに目を見張りました。祖母は貧乏な生活だったあの時代に、何とか家計のやり繰りをして金光教の親先生{三宅先生}に献金すると言って送金を続けていました。今は亡き祖母の、あの頃の後ろ姿が鮮明に記憶に残っています。これらの記憶が私の人生哲学の基礎となっています。
私は幾度かの戦争を通過してきましたが、心の底では常に戦争のない平和な世界を夢見ていました。そんな折、今から数年前に妻のエステルがユダヤとパレスチナの共学共存を目指す中学校クラブ活動の指導者に選ばれました。この活動が中学校の生徒だけの枠組みを超えた、両親や地域にも拡大していくコミュニティー平和推進活動だと知った頃から、私は共鳴して積極的に奉仕参加を始めました。 活動開始当初、エステルは何度もアラブの村へ足を運びました。その都度私も彼女の要請でアラブの村訪問に同伴しました。通常は近づかないアラブの村なのですが、彼女は私が日本人なので一緒に行けば安全だと笑って言いました。これはまんざら嘘でもなかったようです。訪問の回を重ねることにより、自然にアラブの村に何人もの友人を持つ結果となりました。
私たちは、このようにして共学共存の現場の奉仕活動に生きがいを見つけたのです。しかしながら我が家では息子たちは好むと好まざるに関わらず、徴兵制度という歯車の中で、対アラブ軍事活動をしているのも事実なのです。 このように、私たちは家庭の中でも相反する複雑な共存思考の中にいるのです。今、エステルと現場の共学共存推進活動で子どもたちの輪の中にいて彼らの輝く瞳を見つめる時、大いなる喜びを感じています。もちろん 共学共存推進支援には、絶対に欠かせない組織力の重要性も充分認識していますが、本音を言えば私は身体で行動する現場の活動が好きなのかも知れません。 そんな時に、松村さんという素晴らしい仲間との出会いがあって、更に大きく活動できる環境が整ってきたのです。松村さんの平和に対する姿勢や、共学共存への大和魂的人生哲学は、素晴らしいと思っています。お互いに学ぶものが沢山あると感じながら、これから先も力を合わせて進んでいこうと思っています。 日本の終戦記念日を前にして、イスラエルという国の終戦とはなんだろう、平和は到来するのだろうか等々を自問しながら、より強く共学共存推進支援活動を進展させようと静かに意気込んでいます。日本の仲間の皆様の応援をお待ち致しております。 (2009年終戦記念日を目前に、イスラエルのキブツにて)


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「忘れられない」編 現地ガイド5 山崎さん2

2023年06月03日 07時53分05秒 | 忘れられない

 画像は山崎さんの名刺ですが、住所にkibutzキブツとありますね。 さて、前述のようにユダヤ人女性と結婚して3人の息子さんがいます。奥さんのお父さんはポーランドに住むユダヤ人でした。ナチスの迫害の中でお父さんのお父さんは息子をベルギーの知人宅に養育費を添えて避難させました。養育費が尽き、ナチスの厳しい追及の中最後までこの知人はお父さんを匿い通しました。戦後お父さんはこの地に移住してきて同じく両親をナチスの殺害された女性と結婚して生まれたのが山崎さんの奥さんです。
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