100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津 交易商人たち4

2015年05月26日 07時12分07秒 | 坊津枕崎

「交易商人たち2」で紹介した写真のあたりを歩きました。「蔵浜通り」と呼ばれています。多分交易商人たちの蔵が立ち並んでいたことからきているのでしょう。そこで思い出すのが交易商人=密貿易です。私が最初坊津で思い浮かべたのも鑑真と密貿易でした。

多分出ていないだろうと思って、でも念のためと、今までたびたび登場していただいた世界で最も売れているガイドブックlonely planetの”Japan”編を見てみました。出ていました。たった3行ですが。

“a fishing village that was unofficial trading link with the outside world via Okinawa during Japan`s two centuries of seclusion.”

「鎖国時代の200年間沖縄を通じて外国と密貿易をしていた漁村」

そこで「海洋国家薩摩」など多数の研究書があり密貿易の研究で博士号をお取りになった西郷南州顕彰記念館の徳永和喜さんにこのlonely planetの記述についてお伺いした所全面的にこれを否定されました。揮津館の橋口さんから頂いた徳永さんの論文のコピー「海洋国家・薩摩―薩摩に鎖国はなかった」によれば「(薩摩の)琉球口貿易は幕府公認の貿易」です。したがってLonely planet の「沖縄を通じて***」は誤りのようです。そしてまた坊津が薩摩に隠れて「沖縄と**」という史実もないようです。

坊津は享保以来全くの寒村になりますが、それは徳永論文によれば「幕府の貿易統制(正徳新例)が薩摩藩におよび、薩摩藩が(山川港に貿易港としての権能を集約し)領内の統制を極めた結果と考えられる」

三島村に今日から旅行します。帰宅は30日の予定なのでブログの再開は6月2日を予定しています。実は三島村の硫黄島は坊津と関係が深いのです。そのこともあっての三島村観光です。その報告はいずれ後日。

 

 

 

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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津 交易商人たち3

2015年05月23日 08時05分12秒 | 坊津枕崎

 前の写真から少し左の方角です。一乗院跡はこの方向にあります。

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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津 交易商人たち2

2015年05月23日 08時02分17秒 | 坊津枕崎

 

この写真の正面が港の一番奥で交易商人の屋敷があったところです。

 

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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津 交易商人たち1

2015年05月23日 07時57分05秒 | 坊津枕崎

 一乗院跡にこのような頌徳碑の掲示板がありました。私はこれを見て昨年訪れたイタリアのアマルフィを思い出しました。坊津は日本のアマルフィだと。

アマルフィはピサ、ジェノヴァ、ヴェネチアといった北イタリアの名高い海洋都市よりも早く、地中海を舞台として活躍し10世紀~11世紀にかけて繁栄しました。その後1131年のノルマン人よって征服され急速に衰えていきます。(アマルフィについては2014年7月25日~8月3日に紹介しています)その間11世紀にここでアマルフィ法という現代の国際海事法の原型になるものが作られています。そして現在その景観と歴史的価値で世界有数の観光地になっています。

坊津も古くから日本三津の一つとして栄えますが江戸時代になり薩摩藩が交易港を山川港にしていたことなどから急速に衰えていきます。日本で江戸時代まで通用した海事法はこの頌徳碑の説明にある「行船約法廻船式目」です。これには坊津商人坊飯田備前守西村が関係していると書かれています。私がこの歴史と海事法を見てアマルフィを思い出したわけを理解し頂けると思います。どうですか、坊津とアマルフィが姉妹都市になるべきでは。坊津は観光地としてアマルフィと比べて遜色はありません。坊津をアマルフィと肩を並べて世界の観光地にするためのまず手始めとしてアマルフィの姉妹都市になるべきです。

その他類似点をあげてみると、アマルフィの監視塔(2014年7月31日紹介)は坊津では番所(5月8日)、大聖堂(2014年8月3日)は一乗院(5月11日)、景観(2014年7月25日など)は双剣石など(5月8日など)。

ただ、鎌倉幕府、年号、坊津商人名についてはこの廻船式目の奥書にあるのですが、これは後世の人たちの政治的な権威付けためのようであったようです。しかし、坊津の商人の名前が出ているということはこれが事実でないとしても坊津商人が日本全国で信用されていた証しであって実務上の権威付けと考えられます。(この項は輝津館の橋口さんのサジェスチョンに拠ります) 実際のこの「廻船法」成立は室町末期と考えられています。

次にある島原掃部助宗安の件に関しては事実です。この件に関して私が興味を持ったのは、「朝鮮の役」という表記でした。この事件を何と呼ぶのか以前から興味がありました。古くは「征韓の役」と呼んでいたようでその名残が原口虎雄氏の「鹿児島県の歴史」p123(昭和48年発行)にも残っていました。現在学校の教科書などでは朝鮮出兵または朝鮮侵略として「文禄・慶長の役」、韓国・朝鮮で呼ばれている「壬申・丁酉倭乱」を併記してあるものもあります。最新の藤井譲治氏の「戦国乱世から太平の世へ」(2015年)は朝鮮出兵として「文禄・慶長の役」と表記しています。したがって「朝鮮の役」は私にはちょっと珍しく感じて、執筆者のその意図は?、と思いました。

 

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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津  鑑真と海の神様5

2015年05月20日 08時24分52秒 | 坊津枕崎

 

海の神様ですから勿論海辺にあります。どうですこの景観!

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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津  鑑真と海の神様4

2015年05月20日 08時22分34秒 | 坊津枕崎

 

 ご神体は完全に洞窟内部でした。

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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津  鑑真と海の神様3

2015年05月20日 08時20分00秒 | 坊津枕崎

 お社は洞窟にありました

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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津  鑑真と海の神様2

2015年05月17日 08時29分31秒 | 坊津枕崎

 

このようにちょっとした密林のようなところにお社がありました、人物は今回ガイドをしていただいた鮫島さんです。ありがとうございました。

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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津  鑑真と海の神様1

2015年05月17日 08時26分37秒 | 坊津枕崎

 直前まで今回訪れる坊津が鑑真(注)が上陸した所だと思っていました。ところが同じ坊津でも今回の訪問地と違って秋目という、車でも1時間以上かかるところでした。残念だったのでヴォランティアガイドの鮫島さんにそのことを話したところ、「この地にも鑑真が上陸したという説があります」ということで案内してもらった所にこのような案内掲示板がありました。坊津歴史資料センター輝津館の橋口さんによると、ここに書かれている根拠になっている「大龍権現来由記」は江戸時代のもので信憑性は不明とのことでした。しかし、赤水大権現社は古くからこの地の海の安全の神様として祀られてきました。

(注)中国唐の時代の高僧で5回の渡航失敗や失明を経て来日し日本で最初の戒壇を設け戒律を伝えました。

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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津 一乗院5

2015年05月14日 07時58分55秒 | 坊津枕崎

 

 この一乗院跡は坊泊小学校になっていましたが、児童数の減少により現在廃校になっています。

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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津 一乗院4

2015年05月14日 07時55分57秒 | 坊津枕崎

廃仏毀釈のあともう一つ残されたのが一乗院の歴代上人の墓です。写真で分かるように上人墓は「四角墓」と呼ばれる石組みの井戸のような日本には余り例のない特殊な形式をしています。

 また、発掘調査により一条院跡からは大量の中国陶磁器が発見されており一条院が貿易と何らかのかかわりがあったのでは考えられています

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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津 一乗院3

2015年05月11日 08時19分02秒 | 坊津枕崎

 

 鮫島さんからもその他の情報にもないのですが、この石柱には名前、その他の寺歴などが書かれていたのが廃仏毀釈で削られた痕のような気がするのですが。

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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津 一乗院2

2015年05月11日 08時16分04秒 | 坊津枕崎

 

 江戸時代島津氏の尊崇を受けていた一乗院は明治維新政府の廃仏毀釈運動によって明治2年(1869)破壊されます。写真はその時破壊された仁王像が谷間に放置されていたものを復元したものです。下部の部分が後から造られたことが分かりますね。

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臨時特別「枕崎・坊津」編  坊津 一乗院1

2015年05月11日 08時12分18秒 | 坊津枕崎

 

 「薩摩三名刹」の一つと言われた「一乗院」跡を訪れました。1977年に出版された「鹿児島県の歴史散歩」(鹿児島県高等学校歴史部会著 山川出版)には「西海仏教文化の先進地、一乗院は、583年に百済僧日羅が坊津の丘に***建立して竜磐寺と号したのに始まり、坊津の地名もこれに由来するという」(p118~119)と記せられています。というわけで鮫島さんは現存すれば日本最古のお寺になりますと説明されました。ところが写真の南薩摩市教育委員会の説明掲示板には583年も日羅の名前も記載がありません。「創建年代は不明であるが中世の途中からその実在が明らかになってくる」と書かれていますね。どうもこちらが正しいようです。

 なお、日羅(?~583)は実在の人物で朝鮮の百済国に仕えた倭系百済官僚で583年に帰国しています。鹿児島市下福元町にあった一乗院と同じく薩摩三名刹の一つ慈眼寺も日羅の創建とされています。

 

 

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臨時特別「枕崎・坊津」編 坊津 絶景 双剣石3

2015年05月08日 08時25分34秒 | 坊津枕崎

 この双剣石の向こうが外洋でそこから港に入ってくる船を監視するところの番所

です。この掲示板の向こうに小さく双剣石が見えます。

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