100倍楽しむ海外旅行  時々国内旅行

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歳(終末期後期高齢者)のジジイの53

回の旅行103ヶ国を100倍楽しんだ話 付録で時々エンディングノート

「ブルガリア」編 ヴァルナ

2021年06月23日 07時52分20秒 | ブルガリア

黒海沿岸にあるブルガリア第3の都市ヴァルナがブルガリア最後の訪問地でした。ちょっと黒海の雰囲気を味わいました。(写真右下)
 写真左は露土戦争によりブルガリアが独立したことを記念にサンクトペテルブルクにある大聖堂を模して建立された聖母マリア大聖堂です。
 写真右上はローマ帝国時代の浴場跡です。この後ルーマニアに向かいましたが、すでに紹介済みです。温かいルーマニア人を紹介しています。もう一度行きたい国の一つです。次回からは?
 書き落としをしていましたが、ブルガリアのヴェリコ・タルノヴォは大相撲の琴欧州の故郷です。
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「ブルガリア」編 マダラ

2021年06月20日 07時52分05秒 | ブルガリア

 シューメンから東18㎞のところに先史時代(7000年前)から人類が生活していた洞窟があります。(写真上)その切り立った断崖に騎士像のレリーフ刻まれています。(写真中)が当時工事中で見えませんですね。8世紀第一ブルガリア帝国2代目国王「テルヴェル・ハーン」の騎馬像という説が有力だそうです。傍でこのようなおじさんが(写真下)花束を売っていました。捧げものですね。
マダラは 古代ブルガリア語で“神聖な岩石、神聖な場所”を意味するという説があります。
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「ブルガリア」編 シューメン

2021年06月17日 07時53分01秒 | ブルガリア

 シューメンではオスマントルコ時代1744年建立されたトンブル・モスク(写真左)を訪れました。「トンブル」は「太った」という意味だそうです。そういえば何となくふっくらとしていますね。トルコを除くバルカン半島で2番目に大きいそうです。社会主義時代は閉鎖されていましたが、現在は礼拝堂として機能しています。イマームのムスタファ・チャカ(83歳)の案内がありました。
 シューメンホテル(4つ星)で宿泊して翌日早朝散歩しているとし幸せそうな家族に出会いました。(写真右下)土産屋さんにも出会いました。(写真右上)
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「ブルガリア」編 アルバナシ村

2021年06月14日 07時52分34秒 | ブルガリア
 
 ヴェリコ・タルノヴォから4kmにあるアルバナシ村訪れました。古くからの屋敷が80件余りありそのうち36が国の文化財に指定されています。1階が石、2階が木の壁という特徴があります。(写真左上)
 16世紀オスマントルコ時代建設の生誕教会を訪れました。一見民家のようですが(写真下)中に入るとこのような(写真右)のような豪華なフレスコで飾られていました。
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「ブルガリア」編 ヴェリコ・タルノヴォ 

2021年06月11日 07時52分50秒 | ブルガリア

 ヴェリコ・タルノヴォは1186年〰1394年まで第2次ブルガリア帝国の首都として栄えた古都です。その後オスマントルコに滅ばされます。写真左2枚はかって栄えた第2次ブルガリア帝国時代の王宮があったツァレヴェッツの丘です。写真下は第2次ブルガリア帝国時代の王4人(写真は2人)のを記念して1965年に建立された像です。写真右は市街地をぶらぶらしていた時に出会った土産物さんです。
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「ブルガリア」編 プロヴディフ2

2021年06月08日 07時53分09秒 | ブルガリア

 1847年〰56年に建てられたタバコ商人の館が1958年に民族博物館になりました。(写真左上)
 写真左中は1944年防空壕を掘っていた時偶然発見された紀元4世紀ごろのトラキア人の遺物です。ただしこれはレプリカです。トラキア人は古典ギリシア、古代ローマ時代、奴隷の供給元とされてきました。しかし前回紹介した現地の観光パンフレットは
 The Thracian tribes would die rather than be slaves and it is little wonder that the legendary Spartacus , the leader of one of the biggest uprisings of slaves in Antiquity was a Thracian .(p26)
(トラキア人は奴隷になるくらいならばむしろ死を選びました。古代最大の奴隷反乱の有名な指導者スパルタクスはまさにその1人のトラキア人であったことは疑いありません)
 滝を見ながらの昼食でした。(写真右) 子供たちも昼食を楽しんでいました。
 前回紹介した楽器の名前は「ツインバロン」だそうです。「1-102popra」さんからのコメントで教えていただきました。ありがとうございました。
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「ブルガリア」編 プロヴディフ1

2021年06月05日 07時53分34秒 | ブルガリア

 ソフィアから125km南東、6000年の歴史を持つ世界最古の町人口38万人のプロヴディフ訪れました。現地のかなり大部な観光パンフレット(160p)の表紙には”Not seeing Plovdiv is not seeing Bulgaria”  「プロヴディフを見ずしてブルガリアを見たことにならない」と書かれていました。
 写真上は現地の絵はがきです。写真中はローマ帝国時代紀元2世紀の建設のローマ劇場跡です。現在も現役で毎年夏オペラなどの野外劇場が開かれます。
 街でぶらぶらしているとおじさんがこのような楽器で楽しんでいました。(写真下)何という楽器なんでしょうね。ご存じの方がいらっしゃれば教えてください。
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「ブルガリア」編 リラの僧院

2021年06月02日 07時53分45秒 | ブルガリア

 ソフィアから南へ120㎞の標高1100mにあるリラの僧院を訪れました。ブルガリアの僧イヴァン・リルスキー(876~946)がここで隠遁生活をはじめ彼を慕う僧たちが修道院を建てました。その後14世紀に大地震に会いましたがその後再建され今日に至りブルガリア正教や文化の中心として現在に至っています。1983年には世界文化遺産に登録されています。往年には250人〰300人の修道僧がいましたが、現在(1999年)9人だそうです。
 写真上は入り口で写真中は入り口から入ったところです。子供たちが遊び(勉強)に来ていました。
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「ブルガリア編] ソフィア2

2021年05月30日 07時52分46秒 | ブルガリア
 
写真右上は旧共産党本部です。こんなところが観光スポットになっているのが面白いですね。
 写真左は聖ニコラス・ロシア教会です。カトリックの場合世界中のカトリックをヴァチカンが一元管理していますが、ロシアやブルガリアなどの東方正教会は同じ宗派でありながら国ごとに独立した自治を持ちます。ロシア正教会のアイデンティを守ろうと、1913年ロシアの外交官、セモントフスキ・クリロの命により建設されました。大使館員と少数のロシア人のため。現在信者はごく少数のようです。
 2010年のモンテネグロ旅行の時の現地ガイドマリアさんの話を参考のため紹介しておきます。ガイドブックにモンテネグロ人の70%がセルビア正教徒であると書かれています。そこで彼女にセルビア正教徒であるかを尋ねました。イエスと答えて注釈が入りました。モンテネグロは2006年にセルビアから独立しばかりなので今はまだセルビア正教徒ですが、間もなくモンテネグロ正教徒になるはずです。
 写真右中は国会議事堂前にあるロシア皇帝アレクサンダル2世(1818~81)の騎馬像です。解放者記念像と呼ばれています。というのはアレクサンダル2世は、露土戦争の勝利でブルガリアをオスマントルコから解放した英雄というわけです。台座には「我が兄弟、解放のため」という碑文が刻まれています。しかしロシアでは専制君主であったことは間違いなく、ヴ・ナロード(人民の中へ)を合言葉に生まれた「ナロードニキ」と呼ばれた革命派の一派のテロリストの一人27歳の女性ペトスカヤに1881年に暗殺されました。
 写真右下は5000人を収容するバルカン半島最大の寺院といわれているアレクサンドル・ネフスキー寺院です。ブルガリア独立のきっかけとなった露土戦争で戦死したロシア兵のために建てられた大聖堂です。1882年から40年の歳月をかけて建設されました。

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「ブルガリア」編 ソフィア1

2021年05月27日 07時52分06秒 | ブルガリア

 モスクワ経由でブルガリアの首都ソフィアが最初の観光地でした。
写真上は「聖ペトカ半地下教会」です。オスマントルコ(イスラーム教国)時代の14世紀建設の教会です。以前は屋根だけが見えていたのが今は少し姿を現し周りには土産物屋さんなどがあります。なぜ半地下なのか、イスラーム時代なのでモスクより高い教会を作ることができなかったという説もあるようですが、よくわかりません。中には入りませんでしたが、内部装飾は素晴らしいそうです。
写真中は4世紀ローマ帝国時代建設の「聖ゲオルゲ教会」です。
  ちょっと注を入れておきます。現在のブルガリアの宗教は、キリスト正教会の一員であるブルガリア正教会が82,6%、イスラーム教が12,2%、その他です。
 写真下は国会議事堂です。
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「ブルガリア」編 現地スルーガイドのテオドラさん

2021年05月24日 07時52分57秒 | ブルガリア

 1999年9月28日〰10月12日「ルーマニア、ブルガリア物語」というツアーに参加しました。その時のルーマニアについてはすでに紹介済みなので今回は未紹介のブルガリアの紹介です。ただブルガリアのスルーガイドのテオドラさんについては紹介済みですが、今回一部省略して再録します。それから未紹介部分を始めます。
 ブルガリアを通じての現地ガイドは24歳の美人のテオドラさんでした。(写真)元駐日大使の娘さんでブルガリア語(当たり前)、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ギリシア語がペラペラで日本語も少し分かる才女でした。(なお旧社会主義国では現地ガイドが大学教授のアルバイトであったことがよくありました) 
 テオドラという彼女の名前を聞いて私は「ローマ法大全」で有名なビザンツ帝国の皇帝ユスチアヌス大帝(在位526~565年)の后テオドラ(注)を思い出し尋ねると、にっこり笑って「そうです、同じ名前です」と答えてくれて自分の母親がギリシア人であると教えてくれました。(ギリシアではテオドラという名前はポピュラーのようです)しかし次の私の質問が良くありませんでした。「テオドラはprostitution(売春) に関係ある人と聞いていますが」彼女はやんわりとそれを否定しましたが。 
  (注)彼女(?~548年)はサーカスの踊り子から后妃になりました。彼女を  一躍有名にしたのは532年のことでした。この年増税への不満が爆発し、反乱が起きユスチアヌスは追放されそうになりました。絶望した彼は逃亡を決意しその準備をしました。そのときテオドラは次のような演説をしてユスチアヌスをいさめました。「たとえそれによって命ながらえるとしても今は逃げる時ではありません。****そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬよりよかったといえるでしょうか。私は古の言葉が正しいと思います。『帝衣は最高の死装束である』」この演説でユスチアヌスは逃亡を思いとどまり反撃に出て専制皇帝への道を歩むことになりました。

 ブルガリアのプロヴディフ民族博物館で奴隷が描かれている壁画を見た時、ふとスパルタクス(注)の故地がブルガリアではなかったかと思いテオドラさんに確認しました。すると彼女は誇らしげにそうだと答えモニュメントは何処そこにあり、その他詳しく話してくれました。(英語なので殆ど理解不能)そこで私は今の話を同行の皆さんにも話してくださいと頼みました。彼女答えて曰く「日本人観光客はパチパチ(写真を写す格好)とショッピングだけに興味があるようなので」ということで話してくれませんでした。これにはひどく傷つきました。この一言で彼女は私の忘れえぬ人になりました。旅行するたびにこのことを思い出します。

(注)ブルガリアの地の先住民トラキア人の剣闘士奴隷で古代ローマを震撼させた奴隷反乱(BC73~71)の指導者。ハリウッド映画にもなっていて、確かカークダグラスが主演。
なお剣闘士奴隷について余談話を少しだけ。彼らは奴隷の中でも最下層とされていましたが、一面、現代のアイドル的な存在でもあリました。有名なポンペイの剣闘士訓練所の遺跡に貴婦人の遺体が発見されています。(未公開)アイドルとのデイト中にヴェスヴィオ火山が噴火したのです。
   「プロヴディフを見ずしてブルガリアを見たことにならない」という現地英語版観光小冊子に次のような文章がありました。
   The Thracian tribes would die rather than be slaves and it is little wonder that the legendary Spartacus , the leader of one of the biggest uprisings of slaves in Antiquity was a Thracian .
(トラキア人は奴隷になるくらいならばむしろ死を選びました。古代最大の奴隷反乱の有名な指導者スパルタクスはまさに1人のトラキア人であったことは疑いありません)(私注 実は古代ローマでの剣闘士奴隷にはトラキア人がかなり多かったようです)

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[ふれ合い 出会い 」編 ブルガリア テオドラさん2

2006年02月21日 09時26分45秒 | ブルガリア

 

 ブルガリアのプロヴディフ民族博物館で奴隷が描かれている壁画を見た時、ふとスパルタクス(注)の故地がブルガリアではなかったかと思いテオドラさんに確認しました。すると彼女は誇らしげにそうだと答えモニュメントは何処そこにあり、その他詳しく話してくれました。(英語なので殆ど理解不能)そこで私は今の話を同行の皆さんにも話してくださいと頼みました。彼女答えて曰く「日本人観光客はパチパチ(写真を写す格好)とショッピングだけに興味があるようなので」ということで話してくれませんでした。これにはひどく傷つきました。この一言で彼女は私の忘れえぬ人になりました。旅行するたびにこのことを思い出します。

 

(注)ブルガリアの地の先住民トラキア人の剣闘士奴隷で古代ローマを震撼させた奴隷反乱(BC73~71)の指導者。ハリウッド映画にもなっていて、確かカークダグラスが主演。

なお剣闘士奴隷について余談話を少しだけ。彼らは奴隷の中でも最下層とされていましたが、一面、現代のアイドル的な存在でもあリました。有名なポンペイの剣闘士訓練所の遺跡に貴婦人の遺体が発見されています。(未公開)アイドルとのデイト中にヴェスヴィオ火山が噴火したのです。

   プロヴディフを見ずしてブルガリアを見たことにならないという観光小冊子に次のような文章がありました。

   The Thracian tribes would die rather than be slaves and it is little wonder that the legendary Spartacus , the leader of one of the biggest uprisings of slaves in Antiquity was a Thracian .

    (トラキア人は奴隷になるくらいならばむしろ死を選びました。古代最大の奴隷反乱の有名な指導者スパルタクスはまさに1人のトラキア人であったことは疑いありません)(私注 実は古代ローマでの剣闘士奴隷にはトラキア人がかなり多かったようです)

 

写真は観光案内の掲示板です。普通英語表示を期待するのですが、ここでは違いました。ブルガリア語、ドイツ語、ロシア語でした。ドイツ人観光客がここでは一番多いそうです。ご覧のごとくブルガリア語はロシア語と同じキルル文字で表記されます。ちなみにブルガリアの北隣のルーマニアはラテン文字です。

 

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[ふれ合い・出会い」編 ブルガリア テオドラさんの巻1

2006年02月19日 08時30分34秒 | ブルガリア

 お金がなく、しかもケチで、外国語がダメで、体に少し障害があり、年寄りで、そのうえ稀代の方向音痴の私にとって外国旅行はパックツァーでしかありません。そうするとその土地の人たちとの「出会い・ふれあい」はほとんどありません。その数少ない「出会い・ふれ合い」を紹介します。

 ブルガリアを通じての現地ガイドは24歳の美人のテオドラさんでした。(写真)元駐日大使の娘さんでブルガリア語(当たり前)、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、ギリシア語がペラペラで日本語も少し分かる才女でした。(なお旧社会主義国では現地ガイドが大学教授のアルバイトであったことがよくありました) 

 テオドラという彼女の名前を聞いて私は「ローマ法大全」で有名なビザンツ帝国の皇帝ユスチアヌス大帝(在位526~565年)の后テオドラ(注)を思い出し尋ねると、にっこり笑って「そうです、同じ名前です」と答えてくれて自分の母親がギリシア人であると教えてくれました。(ギリシアではテオドラという名前はポピュラーのようです)しかし次の私の質問が良くありませんでした。「テオドラはprostitution に関係ある人と聞いていますが」彼女はやんわりとそれを否定しましたが。 長くなりそうなので次回へ。

  (注)彼女(?~548年)はサーカスの踊り子から后妃になりました。彼女を    一躍有名にしたのは532年のことでした。この年増税への不満が爆発し、反乱が起きユスチアヌスは追放されそうになりました。絶望した彼は逃亡を決意しその準備をしました。そのときテオドラは次のような演説をしてユスチアヌスをいさめました。「たとえそれによって命ながらえるとしても今は逃げる時ではありません。****そこまでして生きながらえたところで、果たして死ぬよりよかったといえるでしょうか。私は古の言葉が正しいと思います。『帝衣は最高の死装束である』」この演説でユスチアヌスは逃亡を思いとどまり反撃に出て専制皇帝への道を歩むことになりま した。

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