犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

あやめの記憶

2024-06-08 23:47:58 | 日記

福岡城の天守閣を建築しようとする動きが、このところ活発で、その一環として天守閣の形を鉄パイプで櫓状に組み上げ、桜まつりの期間、ライトアップするという企画がありました。
ライトアップは先月までなので、パイプの櫓がどうなっているか見に行ったところ、まだ形を残していました。

天守台に続くだらだら坂を降りると、多聞櫓という史跡の石垣の下に、菖蒲の花が群生しています。

夜の暗渠みづおと涼しむらさきのあやめの記憶ある水の行く
(高野公彦)

夜の暗渠のなかを、あやめが咲き誇ったであろう水源の記憶を携えて水が流れてゆく、その水音は涼しいと歌人は詠います。
あやめの記憶を連れた水は紫色に染まってはおらず、その流れる水音は暗渠のなかなので、地上から聴こえるはずもありません。けれども、この歌を読むと、あやめの紫のエッセンスと群生の記憶を凝縮した水が、さらさらと流れる音が聴こえるようです。「みづおと」となって今に触れ合うからこそ、記憶がよみがえるのです。

記憶というものは、視覚よりも聴覚や嗅覚、味覚などで爆発的に蘇るものだと思います。
ちょうどこの時期であれば、雨傘のカビ臭い匂いがすると、子供時代、土曜日の半ドンの帰り道を、仲の良い友達4人で傘をさして帰ったときのことを、ありありと思い出します。通り過ぎた家からは「松竹新喜劇」のテーマソングが流れていました。

ちなみに、菖蒲の群生する水辺や、南側住宅地を水源とした水流が、暗渠となって道路の下を流れ、たった1キロのあいだ菰川という名前になって姿を現した後、博多湾に注いでいると聞いたことがあります。そういうわけで、暗渠を流れるあやめの記憶という、突飛な取り合わせも、当地ではリアルな姿となって思い浮かべることができるのです。あやめ記憶をたたえた水音さえ聴こえるような気がします。

福岡城の天守閣建築の話は、特に経済界で盛り上がっているらしく、見栄えのする史跡の乏しい福岡市にとっては、経済波及効果の期待できるプロジェクトのようです。幕府謀反の嫌疑を恐れて直ちに取り壊したとか、そもそも最初から建っていなかったなどと、本当のところが分からないので、これまで建築に踏み切ることができないでいました。
私としては、視覚にのみ訴える偽物の記憶をつくりあげることよりも、桜まつりの期間だけのライトアップの幻に終わらせてはと思うのですが。


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雨奇晴好

2024-06-01 23:46:14 | 日記

お茶の稽古場の床の間に額紫陽花が飾られていました。
この季節に飾られることの多い花菖蒲が超然としたイメージなのに対し、紫陽花には親しみやすさとたくましさがあります。

紫陽花を英語にすると“hydrangea”となって、これは「水の器」を意味するのだそうです。
点前のときに水を汲む「水指」を連想させる言葉です。5月から半年間続く「風炉」の点前では、水指が正客の近くに寄せられるので、英語に訳してもこの時期の茶花にふさわしい花の名だと思いました。

これから梅雨の時期に入ると茶掛けには「雨奇晴好(うきせいこう)」などが使われます。出典は蘇軾の詩で、湖の風景を、「晴れてまさに好く」「雨もまた奇なり」と称えたものです。奇なりとは、珍しいという意味よりも、すぐれているというニュアンスで詠まれたのだと聞きました。
敢えて意訳すれば、晴れても素晴らしいが、雨が降るとより趣がある、となるのでしょうか。

話が飛んで申しわけないのですが、先日のインタビューで大谷翔平が「技術さえあれば、どんなメンタルでも打てる」と答えたのには、驚きました。技術が秀でているのは自他ともに認めるところでしょうが、技術がすべてをカバーするというだけの意味ではないとも思います。並外れたメンタルコントロールへの自信がなければ、このような言葉は出てこないと思うからです。

大谷が愛読する中村天風の言葉に「意気阻喪しそうになったら、そうなった原因を解消することよりも、まず意気阻喪しそうになる己の弱さを叩き直せ」といった趣旨のものがあります。しかし、そうやって理解しようとしても、言葉の強さの源泉が理解できないでいました。

そう思っていたところに、ふと「雨奇晴好」の言葉が浮かんできました。
どんなことが起こったとしても自分の生は輝かしい、いや、輝かしいものにするのだという、揺るぎない力がそこに貫かれているのではないか。そう理解すると、少しだけコメントの意味に近づけたような気がします。スポーツ力学や心理学に分化する以前の「リベラル・アーツ」の知恵の言葉だと受け取ることで、腑に落ちるような感じがするのです。

紫陽花が「水の器」と呼ばれるのは、一般的な花よりも気孔の数が多く、多くの水を必要としているからなのだそうです。紫陽花が、多雨の時期に合わせて、みずからの姿を変えてきたのかと思うと、ここにも命の限りない強さを感じます。


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