犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

「情」を描く

2023-05-28 23:00:34 | 日記

5月27日の日経朝刊に、若松英輔の「言葉のちから」というコラムが載っていて、これについてずっと考えています。記事の一部を書き写したものを、まずはご紹介します。

情が深い、情が薄いというとき、私たちは「情」という文字をほとんどその人そのものの代名詞として用いている。 「心」をめぐっては、心が広い、心が狭いなどという。 どちらも私たちの現実だ。人は常に二つの「こころ」を同時に生きているらしい。「心」が、その人の内面の状態を表わすとしたら「情」は、その人自身のありようを意味するのではないだろうか。(中略)情の世界を描こうとするとき、言葉に技巧を凝らしてもうまくいかない。情が顕現するのは文章の内容であるよりは文体においてであり、発言においてであるよりも、その人が醸し出す雰囲気や間においてなのである。

記事を反芻しているうちに、最近読んだばかりの、こんな話を思い出しました。
昭和16年、当時日本の領土だった北朝鮮から日本に向かっていた定期貨物船「気比丸」が、ソ連の敷設した機雷に触れて沈没し、京大哲学科学生、弘津正二が船とともに沈んだ事件です。当時の新聞によると、早く救命ボートに乗るよう言われながら「どうぞお先に」と言って先を争わず、ついに助からなかったのだと言います。また弘津は京大図書館からカント全集中の2冊を借りて実家に戻っており、それを取りに行ってボートに間に合わなかった、という推測も生まれました。

その行動は多くの人に感銘を与えたのですが、その事件後33年経った昭和48年の読売新聞に次のような記事が載せられました。乗客が救命ボートに殺到するなか、同船に乗っていた警官がピストルをかまえ「乗るのは内地人だけだ」と朝鮮人を制したのを見た弘津がこの態度に義憤を禁じ得ず「私は朝鮮の人たちと行動を共にする」と言って船内に残ったというのです。
その年の『文藝春秋』にこの読売新聞の真偽についてのルポが掲載され、遭難現場に急行した砲艦の乗組員が、生存者から聞いた証言が掲載されています。「学生が一人、本を見ながら甲板を離れず、船と共に沈んだ」そして、その話は救助に向かった艦内で持ちきりだったと。

話がだいぶ長くなりましたが、これは長らく絶版されていて、昨年41年ぶりに復刻された名著『カント講義』(高峯一愚著 論創社)に紹介されていたものです。
「どうぞお先に」と言ってボートを譲った姿、大学の蔵書を取りに戻った姿、自分は朝鮮人と行動を共にすると言い放った姿、どれも心を打つ話に違いはありませんが、それは若松英輔の言う「心」についての記述ではないかと思います。どれも技巧を凝らしてうまく書くことのできる話です。
人はその技巧を競って語ろうとしますが、いつまでも人のこころに残るのは、生存者の「学生が一人、本を見ながら甲板を離れず、船と共に沈んだ」という証言です。そこからは「情(こころ)」が静かに伝わってきます。

前掲書『カント講義』は全体に、カントの言説に沿ってまとめているのですが、道徳原理について語る「実践理性批判」の説明では、唐突に「気比丸事件」が取り上げられています。
「言葉に技巧を凝らしてもうまくいかない」という若松英輔の指摘どおり、著者は語りの姿勢を変えています。そうすることで、静かに共有する「間」や「雰囲気」をこそ描こうとしたのだと思います。


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夢の浮島

2023-05-25 20:11:06 | 日記

福岡護国神社では、昨年から再開された「蚤の市」を定期的にやっています。久しぶりに境内を覗きにいくと、参道にはアンティークの露店や飲食の屋台がひしめいていて、参道が人で埋まるほどの賑わいでした。ゆっくりと店先をひやかすこともできないので、雑踏を抜け出し末社の稲荷神社を抜けて、六本松一丁目の特徴のある住宅街に出ました。

ここは、幾筋もの路地を挟んで古い住宅が立ち並んでおり、昭和レトロな雰囲気を醸し出しています。この街の古民家を改装した特徴のある店々が魅力的で、包装紙専門店、カフェ、たこ焼き屋、キモノブティック、猫のもの限定の本屋「書肆吾輩堂」など、若者たちの夢の結晶がキラキラと並んでいます。

路地裏に入ったところにある鯛焼き屋で、鯛焼きとコーヒーを頼んで2階に上がって時間を潰していると、お客さんが途切れることがないのに驚きました。ソファの周りを改めて見直して、そこがリフォーム前は間違いなくキッチンだったことがわかります。もとの間取りを残したままのというのが、かえって古屋の記憶と溶け合うような効果をもたらします。窓越しに見える路地の向いの家の、長い間使われていないベランダを眺めると、懐かしいような、時間が歪むような不思議な気持ちになります。

このあたりは、戦後引揚者のための住宅地として、国と護国神社が土地を提供した地域で、住民と神社との定期借地契約で、レトロな街並みが保たれているといいます。グーグルマップで見ると、道路でぐるりと囲まれた住宅街は、大濠高校と護国神社の広大な敷地のなかにぽっかりと出現した浮島のように見えます。私にとっては夢の浮島です。

ここの古屋をセレクトショップとカフェにリフォームした業者さんの話では、解体工事の際に壁内から「1948年3月18日」の日付の英字新聞が出現したということです。まぎれもなく戦後まもなく建築した建物を70年以上経ってリフォームし、それを再び50年の定期借地契約を結んだというのですから、驚くべき長さの時間感覚がこの街を支えていることがわかります。
何より嬉しいのは、リフォーム業者が、この古屋を可愛くて仕方がないと言っていることです。

古いものを残すことが無条件に良いとは思いません。しかし古いものを残せる特別な条件が揃っていて、そこに若い感性が響き合うのならば、それは街づくりの希望に、ほかならないのではないでしょうか。6月に開業するリッツ・カールトン福岡の将来よりも、このレトロな街並みの明日の方が、私はずっと気になります。


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月を抱く惑星

2023-05-19 20:03:33 | 日記

月の自転周期は、公転周期と一致しているので、地球からは月の片方の面しか見ることができません。しかし太古の月、人類が登場するずっと前の月はもっと速く、くるくると自転していたといいます。その時代に遡ることができれば、地球からは月の色々な面を見ることができるのでしょう。
ところが、地球の及ぼす潮汐力のために、月の自転にブレーキがかかります。このブレーキは月の自転周期が公転周期と一致するまでかかり続けて、ついに月はピタリと同じ側面だけを地球に向けるようになります。この現象を「潮汐ロック」というのだそうです。そして、多くの衛星でこの現象が見られるといいます。

伊与原新著『月まで三キロ』(新潮文庫)で知りました。

三十年来の友人と飲んでいて、この月の潮汐力をふいに思い出しました。友人といっても彼は私より十歳も若く、今が脂の乗り切った働き盛りです。両方の共通点は歳をとって子どもに恵まれたことで、子どもに対する距離感がうまく取りづらいところも一致しているのではないかと思います。そして遅くにできた子に対する親の常として、子どもに対する煩悩は、救い難いほど深いのです。

小学生と幼稚園の娘さんのキックボードに乗った動画を、スマホで見せてもらって、ああこれは太古の月のようだと思いました。子どもたちはくるくると自転して、楽しいこと、悲しいことをそのままの表情で見せてくれます。うちの娘たちにも間違いなくこういう時期がありました。
私は大学のホームページのゼミ紹介に載っている娘たちの写真を見せて、月の「潮汐ロック」を連想しました。娘たちはある時期から、親の知らない顔を持って、そこで彼女たちなりの喜びや悲しみの表情を見せているのだと、改めて思います。

さて、月の潮汐力の影響は「潮汐ロック」にとどまりません。月も地球に潮汐力を及ぼしていて、地球の自転にブレーキをかけています。その反作用で月の公転が加速され、月に働く遠心力が増して、その公転軌道が大きくなっていきます。つまり、月は地球から少しずつ離れていくのです。

考えても愉快なことではないのですが、娘たちも自然の摂理に従って、親から少しづつ離れていきます。今くるくると様々な表情を見せている子どもたちも、やがて表情を落ち着かせるようになり、その同じ摂理で親から遠ざかっていくのです。
カウンターに座って酒を飲んでいる友人も私も、まるで衛星を抱えて宇宙をただよっている惑星のようだと思いました。


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吾が教へたる日本語あはれ

2023-05-14 10:05:58 | 日記

永田和宏著『現代秀歌』(岩波新書)にこんな話が載っています。

大学を卒業したばかりで太平洋戦争の南方戦線に配属された将校は、ポルトガル領チモールで理想社会の建設を夢見ていました。現地の人たちと親しく交流し、島の子供たちには日本語を教えています。王女四人にも慕われるような間柄だったそうです。

やがて敗戦の時が来て、多くの将兵がオーストラリア軍に召喚され、戦犯としての取り調べを受けることになります。捕虜として王宮前に引き出されたこの将校の取り調べにあたって、通訳をしたのがこの将校が日本語を教えた少年だったのだそうです。
その時のことを、この将校はのちにこう詠んでいます。

通訳の少年臆しつつ吾に訊(と)ふ吾が教へたる日本語あはれ
(前田透『漂流の季節』)

皮肉な歴史の巡り合わせで、お互いが不本意な役割を強いられている。「吾が教へたる日本語あはれ」とは紛れもなく悲しい光景です。それでも、戦争のもたらす悲惨さを物語る数々のエピソードとは違って、この歌が気の滅入るものではないのはなぜでしょうか。

少年が臆しながら、かつての先生に接していること、先生もその痛みを我がことのように感じていることが、陰惨な印象から遠ざける理由のひとつとして考えられます。

そして同時に、言葉を教える側と教えられる側の、取り替えの効かない立場の違いが二人の関係の基底にあって、それが言葉を生み出す「ふるさと」のようなものとして、働いていることを思い起こさせるからではないでしょうか。
むろん植民地支配における言語同化政策の罪深さはぬぐいようもありませんが、我々が普通イメージする平板なコミュニケーションの底には、このふるさとの磁場のようなものが伏流していることを、気付かせてくれるように思うのです。

前田は終戦後もしばしこの島にとどまって、帰還したのは翌年になっていたといいます。おそらくこの歌人はこの、ふるさとのようなものから、離れ難かったのではないかと思います。


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初風炉の稽古で

2023-05-09 20:04:50 | 日記

茶人にとって、五月は大きなスタートの時期です。
茶室の炉は閉じられていて、その代わりに風炉が設えてあり、十月までの半年間はこの風炉の稽古が続くのです。
十一月の炉開きのように、着物を着て「炉開きおめでとうございます」と寿ぐわけでもありません。しかし、気がついたら部屋の設えが変わっている五月の「初風炉」のほうに、私はより気持ちの改まる思いがします。
おそらく、年度変わりの仕事の繁忙期に重なるために、私自身、色々なものと折り合いを付けながら、変化について行く必要に迫られるからだと思います。

博士課程を修了し、この春遠方の大学の研究室に勤めることになった女性が、連休最後の週末、初風炉の稽古にわざわざ来ていました。Uターンラッシュで満員の新幹線に乗っての強行軍です。来年には、お茶名をいただく予定なので、何度か帰省しては稽古をするのだと言っていました。彼女も研究者としての生活と、お茶の季節とを折り合いを付けながら、これからの長い年月を重ねていくのでしょう。

職業的に茶道に関わるのでない限り、お茶は生活のその他の部分と、上手く共存しなければなりません。仕事や家事や子育てなどと、お茶の世界との関わりをいい加減にやり過ごすのではなく、その両方を楽しむことができれば、その人は本当の意味での茶人なのだと思います。

現代を代表する歌人であり、細胞生物学者としても優れた仕事をされている、永田和宏さんがこんなことを書いていました。
若い頃は、歌人と科学者の両方に情熱を傾けていることを、自分のなかで矛盾なく受け入れることができず、二足の草鞋は自らを縛る縄のようなものであった。ところが、五十歳を越えたあたりから、吹っ切れるようになったのは、何の関係も必然もない二つのことを、ともかく数十年重ねてきたことが、自分の人生の時間そのものだったのだと、思えるようになったからなのだと。歌人の自分が科学者の自分を眺めたり、その逆であったりという経験が、自分の人生に「風通しのよさ」をもたらしてくれたのだと語っていました。

ひとつの領域にがんじがらめになっている自分を、そんなこと小さい小さいと言ってくれる自分がいるだけで、人はどれだけ自由になれるでしょう。「風通しのよさ」は自由の息吹です。伴走者自身が優れたランナーであり、伴走者もその支えるべきランナーを頼りにするような、そういう力強く走る人の姿を想像しました。


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