犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

イチョウの木に会いに行く

2023-01-26 19:18:02 | 日記

福岡県広川町には見事なイチョウ林があって、黄葉の時期は「太原(たいばる)のイチョウ」と呼ばれ多くの見物客で賑わっています。当ブログでもこの場所の黄葉の美しさを紹介したこともあり、イチョウの木について私なりに調べてみるきっかけにもなった場所です。
仕事先の近くにこの林があるので、久しぶりにイチョウの冬木立に会いに行きました。

このイチョウ林は延々と続くブドウ畑のなかに忽然と姿を現します。ブドウ農園を営む丸山元運さんが、1998年に妻スナエさんを病気で亡くしたのをきっかけに、ブドウ畑の一部をイチョウに植え替えたものなのだそうです。
夫婦で紅葉狩りをするのが楽しみだった丸山さんが、奥さんの思い出にと、高さ30〜40センチだった苗木を丹精込めて育て、今の姿にまで大きくしました。

一昨年の秋、仕事帰りに訪れたとき、イチョウの生育状況が悪く十分に葉も付かない状況だったので、一般見学は禁止されていました。ああ綺麗だと林に踏み込んだ私の足が、木の根を傷つけていたのかもしれないと思うと、胸が痛みました。ずいぶん心配しましたが、昨年には無事に元気を取り戻したのだそうです。

茶の木が老化して、肥料の栄養を吸収しきれなくなったとき、一斉に花を咲き揃えるという話を前回ここに書きました。イチョウの葉は夏のあいだ太陽の光を十分に吸収しきって、その役割を終えたときに、花を咲かせるように黄金色に輝くのでしょう。
そして、このイチョウの木そのものが、奥さんとの思い出を蘇らせようと、丸山さんが咲かせた花なのだと思います。
老木が渾身の力を込めて咲かせる花は、人を圧倒するように美しいけれども、同時に傷つきやすいものだということを改めて思いました。

仕事柄、老後の生活について相談を受ける機会が多いのですが、最近とみに思うのが、「お上」は老木のあだ花など見向きもしない、むしろ花などなかったことにしたいと考えているようだということです。老木は枯れるにまかせて、早く栄養を若木に振り向けよと迫りもするのです。
私は、せめてご縁のあった人の花を咲かせて、決して踏み荒らすことのない番人になりたい、そういう仕事をしたいと思います。


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花が咲くとき

2023-01-19 19:57:02 | 日記

詩人の吉野弘は、自宅のある狭山市北入曽の自然を愛し『北入曽』という詩集を出しています。その中に「茶の花おぼえがき」という小文が収められていて、北入曽で茶畑を営む「若旦那」との会話が印象的です。

茶畑には豊富な肥料が施され、これによって美味しい茶葉が育つのですが、この栄養状態のいい茶の木には花がほとんど咲かないといいます。良い環境に自足してしまって、花を咲かせるなどという面倒くさいことは忘れてしまうのです。これは茶園経営にとってはむしろ好都合なことで、花が咲くにまかせておくと、茶木の栄養を大量に消費するため、葉に回るべき栄養が減ってしまうからです。
そのうえ、花が咲いて種ができて、それを育てるような栽培法では、せっかく交配で作った新種の品質を一定に保つことができません。そこで茶園は「取り木」と言って、挿し木とほぼ同じ原理の繁殖法で、クローンを増やすのだそうです。
以下、詩人と「若旦那」との会話のくだりを引用します。

「随分、人間本位な木に作り変えられているわけです」若旦那は笑いながらそう言い、「茶畑では、茶の木がみんな栄養成長という状態に置かれている」とつけ加えてくれました。
外からの間断ない栄養攻め、その苦渋が、内部でいつのまにか安息とうたた寝に変わっているような、けだるい成長--そんな状態を私は、栄養成長という言葉に感じました。
で、私は聞きました。
「花を咲かせて種子をつくる、そういう、普通の成長は、何と言うのですか?」
「成熟成長、と言っています」
成熟が、死ぬことであったとは!
(「茶の花おぼえがき」『花と木のうた』所収 青土社 34-35頁)

「栄養成長」を強いられる茶木と自分自身の生とを、多くの人が重ねあわせて考えるのではないでしょうか。避けられない死、あるいは自らの個体としての限界を、何としてでも乗り超えてやろう。そういう命懸けの営みが、花を咲かせることだとしても、それは常に遠くに追いやられています。けだるい成長に慣れてしまって、間断ない栄養攻めが苦渋であった記憶は、意識の底に沈んでいるのです。
この小文は、次のように続きます。

その後、かなりの日を置いて、同じ若旦那から聞いた話に、こういうのがありました。
--長い間、肥料を吸収しつづけた茶の木が老化して、もはや吸収力をも失ってしまったとき、一斉に花を咲き揃えます。
花とは何かを、これ以上鮮烈に語ることができるでしょうか。
(前掲書 36頁)

一斉に咲いた、この老木の花をどう見るのか。
「あだ花」と本来なら呼ばれるであろうこの花が、どうしようもなく哀しく美しいものに映るのは、命懸けで生に向き合いたいという、われわれの思いに響くからだと思うのです。


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紅炉一点雪

2023-01-14 13:35:08 | 日記

明日は初釜茶会、我が社中としてはじつに3年ぶりの開催です。
「各服点」といって客ごとに茶碗を替えて濃茶の回し飲みを避けたり、懐石料理のいただき方も接触を避ける方法をとったりと、感染予防を施した準備をしていただいています。
私は正客の大役を仰せつかったので、明日に向けての準備をしなければなりません。正客がタイミングをはずすと、亭主の点前が進まないことがあるので、責任重大です。

床の間の掛軸は「紅炉一点雪」が用意されているはずで、どのように話を向けようかといろいろと思いを巡らせます。
ちなみにこの掛軸は数年前の初釜でも拝見したもので、その時のことを当ブログにも書いたことがあります。
「紅炉一点雪」とは、真っ赤に燃えた炉の上に、一片の雪が舞い落ちては、一瞬のうちに溶けてしまう、その潔い様子を表した言葉です。

出典の『碧眼録』には次のように記されています。

荊棘林透衲僧家 紅炉上如一点雪
(荊棘林を透る衲僧家、紅炉上一点の雪の如し)

大意は次の通りです。

修行僧が、荊棘林(イバラ)の林を通っても、紅炉上の一点の雪のようにいっさい痕跡を残さない。
イバラの道を通って、傷だらけになって出てくるというのは、修行が足りない。修行にあっては、紅炉上の雪のように身を焼き尽くし、次の瞬間には痕跡すら残していない、それが修行の到達点だ。

ここで雪というのは煩悩、雑念のようなもののことを指すのでしょう。放っておけば降り積むような雪も、紅炉の上ではたちまちのうちに消えてしまいます。イバラの林を抜けても修行僧が傷ひとつ残さないのは、雑念を瞬時に消してしまう様子を表しているというのです。
こういう境地をありありと思い描くのは難しいですが、逆のことならば我々凡夫の日常茶飯事です。
小さなことや昔のことをクヨクヨ考えて、ひとりで不機嫌になっては、周りも不愉快にしてしまう。自分はこんなに苦労しているのだと言い立てて、それが自分の勲章のような思い違いをしている。我ながら思い返して、恥ずかしい姿です。

それでも年の功というのか、降る雪を瞬時に消してしまうことはできなくても、積もるにまかせて根雪のようになってしまうことを避ける術は、身につけているつもりです。小さなことをクヨクヨ考えるときは、間違いなく体調の悪いしるしだと心得ているので、仕事を切り上げて早めに休むようにしていますし、苦労自慢をしないように心がけるのが、凡夫の知恵だと考えています。
とはいえ、雑念が瞬時に消えてしまう「紅炉一点雪」の境地には、程遠いことに違いはありません。

ずいぶん話がそれてしまいましたが、明日の初釜のことです。
ご亭主が一生懸命、稽古をされて、それが衒うことなく清々しい茶席に現れているのならば、まずそのことをお話ししようと思います。初釜の雰囲気を、ひたすら堪能させていただきましたと。


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娘たちに

2023-01-07 08:50:13 | 日記

9日に二十歳の成人式を迎える双子の娘たちは、成人式に先立って部活の同窓会、中学の同窓会、高校の同窓会と連日出かけて行きます。成人式にはお茶の師匠からお借りした大切な晴れ着を着てゆくので、くれぐれも粗相のないように言い聞かせました。

娘たちにお祝いに贈る言葉を考えていて、吉野弘の詩を読み返しました。まだ幼い娘の奈々子さんに宛てた「奈々子に」という詩です。
その一部を抜粋します。

唐突だが 
奈々子
お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。

ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは はっきり
知ってしまったから。

お父さんが
お前にあげたいものは
健康と
自分を愛する心だ。

(中略)

香りのよい健康と
かちとるにむづかしく
はぐくむにむづかしい
自分を愛する心だ。

さて、我が娘たちのことです。
双子の娘たちは、互いを自分の半身のように思っていて、相手にとって難しい局面を、我が事のようにとらえて二人で乗り越えてきたように、親の目には映ります。そういう意味では、おそらく自分自身に対しても、みずからの半身を愛するように、愛することが出来ているのではないかと思います。
しかし同時に、それが孤独にじっと沈潜して、そこから這い上がるようにしてつかみ取った、自分を愛する心とも、あるいは遠いのではないかと心配するのです。半身を愛するように自分に対することが「ほかからの期待に応える」ような、窮屈なことではないことを願うのです。

「かちとるにむづかしく はぐくむにむづかしい」自分を愛する心を養いなさい。それは君たちのひとりひとりが、淋しさや悲しみに触れることでしか得られないものだろうけれど、恐れずに自分の命を育みなさい。
自分も修行の駆け出しであることを白状しながら、これが成人した娘たちに向けた言葉です。


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空飛ぶ夢

2023-01-02 19:55:20 | 日記

今年は昨年引越した近くの鳥飼八幡宮に初詣に出かけました。初詣を雲ひとつない晴天で迎えるのは、久しぶりです。
昨年末に本殿遷座祭を終えたばかりの新しい社殿は、茅葺き壁に囲まれ、賽銭箱の背後の向拝に大きな石柱が、斜めに支え合うように組まれたモダンな佇まいです。
社殿の先には青い空が広がっていて、今年も家族そろって初詣のできることを、まずは神前に感謝しました。
参拝の列に並んで青空を見上げていると、小さいころ仰向けになって世界を眺めていたときに戻ったような気分です。

だいぶ前に読んだ僧侶の門脇健の本(『哲学入門』角川SSC新書)に、こんなことが書いてありました。
赤ん坊の頃、人は仰向けに寝そべって、大人の世界に向けて笑顔を振りまいているけれども、これを覗き込む親は赤ん坊を認識の対象とするのではなく、その笑顔によって親子という関係を築くことを強いられます。こうして世界は少し動いて、赤ん坊の住むべき世界へと築き直されるのです。寝そべる顔の先には空が広がっていて、大人たちの言葉の世界と空とはひとつのものでした。
やがて、赤ん坊は仰向けの状態から起き上がり、大人たちの世界へと働きかけて、空と新たな関係を築き始めます。これは驚くべき冒険のはずですが、赤ん坊が子供になる過程で実に易々とそれをやり遂げていました。

面白いのは、ある精神科医によると、人がしばしば見る「空飛ぶ夢」とは、未知の世界へ踏み込もうとする期待と不安の表れであり、大人たちの言葉の世界へと踏み込んだときの反復だというのです。人間は新たな段階に達すると、今まで安んじていた世界から、新しく要求される言葉の世界に飛んでいけるかどうか、不安に思います。そんなときに、あんなに軽々と空を飛んだことがあるじゃないかと、夢のなかでみずからを励ますのだそうです。
ユーミンの「ひこうき雲」は「空を駆けてゆく」姿を歌うことで、プロのシンガー・ソング・ライターとして生きてゆく自分自身を、まるで励ますようではないか、と著者は述べています。

新たな世界を切り開くということは、重たい扉を開くことだと考えると、ついつい身構えてしまいます。そうではなく、空を駆け抜けることだと考えると、新たな世界を迎えることが、気負わずにできるように思います。
目の前には、205年ぶりという遷宮によって誕生した、おそらく全国的にも類をみない茅葺き壁の社殿が姿を現しています。私も新たな世界を切り開くことの軽やかさを、空を駆けるように感じたいと思いました。

当ブログを読んでくださる皆様にとって、本年が新しい世界の切り開ける年でありますように、心よりお祈りします。


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